
このところ子規に縁がある。興に任せて「歌よみに与ふる書」を読んでみた。和歌に知識があるわけではないがなんとなくには親しんできた。なるほど子規の目を借りると歌はこういう風に読めるのか。
写生は写真の心構えに通じるなと思いながら読んだ。理屈を嫌い、目に映るそのままを重んじ、調べを大切にする、そして感情を重んじる。人の認識のレイヤの深いところ、つまりは聴覚、視覚が感情に訴えるものを読めということかと理解する。
子規の言うところの悪い見本から。
もののふの八十氏川の網代木にいざよふ波のゆくへ知らずも
柿本朝臣人麿の近江国より上り来し時に、宇治河の辺に至りて作れる歌一首
この歌を名所の手本に引くは大たはけに御座候。後世の俗気紛々たる歌に比ぶれば勝ること万々に候。かつこの種の歌は真似すべきにはあらねど、多き中に一首二首あるは面白く候。
月見れば千々に物こそ悲しけれ我身一つの秋にはあらねど
大江千里(23番) 『古今集』
といふ歌は最も人の賞する歌なり。上三句はすらりとして難なけれども、下二句は理窟なり蛇足だそくなりと存候。歌は感情を述ぶる者なるに理窟を述ぶるは歌を知らぬ故にや候らん。
芳野山霞の奥は知らねども見ゆる限りは桜なりけり
容師能耶馬 加壽微乃於久花 志羅年登母 見由流可宜理 盤 左九良那李遣里 知紀
その裏に籠をり候ものを、わざわざ知らねどもとことわりたる、これが下手と申すものに候。かつこの歌の姿、見ゆる限りは桜なりけりなどいへるも極めて拙なく野卑やひなり
うつせみの我世の限り見るべきは嵐の山の桜なりけり
この歌は理窟的に現したり
心あてに見し白雲は麓にて思はぬ空に晴るる不尽の嶺
「麓にて」の一句理窟ぽくなつて面白からず
もしほ焼く難波の浦の八重霞一重はあまのしわざなりけり
契沖 総じて同一の歌にて極めてほめる処と、他の人の極めて誹そしる処とは同じ点にある者に候。「藻汐焼く」と置きし故、後に煙とも言ひかねて「あまのしわざ」と主観的に置きたる処、いよいよ俗に堕おち申候。
心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花
躬恒の歌、百人一首にあれば誰も口ずさみ候へども、一文半文のねうちも無之これなき駄歌に御座候。嘘を詠むなら全くない事、とてつもなき嘘を詠むべし、しからざればありのままに正直に詠むがよろしく候。
春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね香やは隠るる
「梅闇に匂ふ」とこれだけで済む事 小さき事を大きくいふ嘘が和歌腐敗の一大原因と相見え申候。
次に子規の言うところの善き歌の例
武士の矢並つくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原
時によりすぐれば民のなげきなり八大竜王雨やめたまへ
好きで好きでたまらぬ歌に御座候。
物いはぬよものけだものすらだにもあはれなるかなや親の子を思ふ
別にめづらしき趣向もなく候へども、一気呵成の処かへつて真心を現して余りあり候。
山は裂け海はあせなん世なりとも君にふた心われあらめやも
箱根路をわが越え来れば伊豆の海やおきの小島に波のよる見ゆ
世の中はつねにもがもななぎさ漕ぐ海人の小舟の綱手かなしも
大海のいそもとどろによする波われてくだけてさけて散るかも
なごの海の霞のまよりながむれば入日を洗ふ沖つ白波
この歌の如く客観的に景色を善く写したるものは、新古今以前にはあらざるべく
ほのぼのと有明の月の月影に紅葉吹きおろす山おろしの風
客観的の歌にて、けしきも淋く艶なるに、語を畳みかけて調子取りたる処いとめづらかに覚え候。
さびしさに堪へたる人のまたもあれな庵を並べん冬の山里
岡の辺の里のあるじを尋ぬれば人は答へず山おろしの風
この種の歌の第四句を「答へで」などいふが如く、下に連続する句法となさば何の面白味も無之候。
ささ波や比良山風の海吹けば釣する蜑の袖かへる見ゆ
巧を弄もてあそばぬ所かへつて興多く候。
神風や玉串の葉をとりかざし内外の宮に君をこそ祈れ
神風やの五字も訳なきやうなれど極めて善く響きをり候。
阿耨多羅三藐三菩提の仏たちわが立つ杣に冥加あらせたまへ
いとめでたき歌にて候。
次の分は昨今のIT環境をどのように文学にするか、写真にするか、絵画にするかのヒントを与えてくれるように思う。
新奇なる事を詠めといふと、汽車、鉄道などいふいはゆる文明の器械を持ち出す人あれど大おおいに量見が間違ひをり候。文明の器械は多く不ぶ風流なる者にて歌に入りがたく候へども、もしこれを詠まんとならば他に趣味ある者を配合するの外無之候。それを何の配合物もなく「レールの上に風が吹く」などとやられては殺風景の極に候。せめてはレールの傍に菫が咲いてゐるとか、または汽車の過ぎた後で罌粟が散るとか、薄がそよぐとか言ふやうに、他物を配合すればいくらか見よくなるべく候。また殺風景なる者は遠望する方よろしく候。菜の花の向ふに汽車が見ゆるとか、夏草の野末を汽車が走るとかするが如きも、殺風景を消す一手段かと存候。