まさおレポート

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懐かしい滝口先生 

2016-02-11 | 心の旅路・my life・詫間回想

「今画いた絵は20年後に宝だよ」  

ある掲示板でふと目にした記事によって過去の記憶が蘇る。その掲示板には私と同時代に豊中の農村で子供時代を過ごしたというちょっとした記述があった。兎を追ったこともあるという。小学校のクラスの半分は農家の子供たちであったとも書かれている。ひょっとしてこれは私が過ごした豊中市上新田小学校のことではないのかと思う。しかし、箕面に集団で兎狩りにいったとも書かれているのでこれは経験がない。やはり近隣の小学校のことだろうかとも考えている内に記憶はその頃に戻り、追憶の風景の中をさまよい出す。

豊中市上新田小学校の校舎自体は今でも保存されている。大阪府の保存校舎に指定されているのかして今から50年ほど昔の木造校舎のたたずまいをそのままに残している。もちろん現役の校舎ではない。そのあたりは全く往事の面影はなく、高速道路が架かり大型団地や商業ビルが建ち並ぶ街にすっかり変貌している。50年の年月はかくも風景を変貌させるのかと改めて思う。今やこのあたりに「兎おいしかの山」はどこにも存在しない。

数年前に通信会社に勤めていた私は仕事で大阪のとあるNTT局舎を訪れた。ある大きな交渉事のためには現場作業をみておく必要が生じ、数あるNTT局舎のなかで指定された局に新大阪からタクシーで向かった。しばらくして周りの風景にどうもかすかに見覚えのあることに気がついた。ひょっとしてこのあたりは私が小学校の時に見た風景ではないか。急いで住所表示をみるとやはりそうであった。同級生たちがこのあたりの村に多く住んでおり、よく遊びにいった通りだ。思いもよらない偶然の懐かしい訪問に興奮した私はNTT局舎での仕事のあとに、小学校跡地によってみた。

少し離れたあたりの風景は山野から高速道路の通る街に返信を遂げているのに、この小学校跡地のあたりにはわずかばかり往事の面影を残していた。小学校の裏には雑木に覆われた小さな川が確かにあった。このあたりではな垂れ小僧共の様々なドラマも繰り広げられたことを思い出す。

この小学校舎が保存指定建築になったのは、当時の木造建築の校舎モデルとして貴重であるためだとの説明があった。なるほど現在の目でみると映画のセットのように見える。平屋で教員室や音楽教室があり、教室は別棟でやはり木造平屋であったがそちらの方は取り壊されたのだろう。当時の先生方が廊下を往来する姿が記憶の風景に立ち現れた。

大好きな担任の教師が宿直の時にはしょっちゅう遊びに来てはいろいろな話を聞かせてもらった。話の内容はほとんどというか全く覚えていないが、当時家庭環境まで含めていろんなことがうまくいかず、精神的肉体的に最悪であった12才の私に面倒がらずに思いやりをもってよく相手をしてくれたものだと思う。わずか一年にも満たない間の在校であったがその恩は生涯忘れられない。

それにしても大阪には千を超すNTT局舎があるはずだ。そのなかでよりによって指定された局舎が懐かしい小学校跡地の近辺だとは。さらにタクシーが裏道に違いない細い道を通ってくれなかったらこんな奇遇はあり得なかった。

幻視する記憶 新田小学校あるいは児童詩集「きりん」

この建築物は、現在の豊中市立新田小学校の旧校舎である。現新田小学校の前身は1873年(明治6年)に開校したが、その後1900年に新田村大字上新田に移転した際にこの校舎が新築された。新田小学校に残っている古文章には、中央に玄関・応接室・教員室があり、東西両翼に教室があった。そしてその前に土間で作られた廊下があり、東に物入れ、西に教員住宅が設置されていた。1973年(昭和48年)に新校舎に移転するまでこの校舎は使用された。現在は資料館として使用されている。(by wiki)

ある掲示板の記事がふと目にとまる。掲示板には私と同時代に豊中の農村で子供時代を過ごし、兎を追ったこともあるという書き込みがあり。小学校のクラスの半分は農家の子供たちであったとも書かれている。ひょっとしてこれは私が過ごした豊中市新田小学校のことではないのかと思う。しかし、箕面に集団で兎狩りにいったとも書かれているのでこれは経験がない。やはり近隣の小学校のことだろうかとも考えているがそのうちに浮かび上がってきた記憶の泡も脳裏から消え去る。

その後しばらくして地縁の神は再び私をこの地に連れ来る。そのころ通信会社に勤めていた私は仕事で大阪のとあるNTT局舎を訪れている。NTTとの交渉のために実際の現場作業をみておく必要があり、新大阪駅から指定された局にタクシーで向かう。20分ほど走った頃、周りの風景にかすかに見覚えがある。小学校の時に見た風景かといぶかりながら住所表示をみるとやはりその通りで、同級生たちがこのあたりの村に多く住んでいて毎日のように遊びに来た通りだと気がつく。タクシーは小学校の跡地を通ると記憶のドアは全開する。時代遅れの古びた建物が残っているわけもないと思う。立札が立っていて旧新田小学校跡と書かれている。思いもよらない偶然で懐かしい小学校跡を見つけて私は興奮し、仕事を終えて小学校跡地によってみる。

立札を読むと大阪府の保存校舎に指定されている。1900年に尋常小学校が義務教育となった年に建築され、110年昔の木造校舎のたたずまいをそのままに残している。現役の校舎ではなく資料館になっていると記されている。この一角だけが魔法をかけられ時間を止められているかのようで、あたりは50年前に小学校に通ったころの面影を蘇らせるのはどんなに想像力を働かしても難しい。高速道路が架かり大型団地や商業ビルが建ち並び、今風の街にすっかり変貌している。50年の歳月は「兎おいし、かの山」の風景をこのように変貌させると時の流れの感慨にひたる。

それでも小学校跡地にはわずかばかり往事の面影を残している。小学校の裏には雑木に覆われた小さな川が今も確かにある。 

1959年の暮、教員室には担任の小口先生が受け持ちの生徒と談笑している。記憶の中の先生が22歳と非常に若い事におどろく。6年生の少年は生まれて初めてチーズをひとかけら食べたところ美味しかったとチーズの味を説明している。先生は「きりん」に掲載する児童の詩をチェックしている。「こんどは徳永君の『猫の目はダイヤモンド』の詩がのるねんよ」といって原稿を見せる。少年は嬉しそうにそのゲラを見ている。

先生の口から灰谷君、浮田さんの名前が頻繁に飛び出す。灰谷君とは後に児童文学者として名を知られる灰谷健次郎氏のことで、浮田さんとは「きりん」の編集長で抽象画家の浮田要三のことをさしている。「徳永君、来週は浮田さんが絵を教えに来てくれるよ。 なんでもええから家にある紙をもっといで。包装紙でもええし、なかったら新聞紙でもええよ。よごれてもええ服きといでな。いままで書いた絵は卒業式の時に渡すから大事に置いときね。徳永君が大人になった時に宝物になるからね」こんな話をしている。残念ながらこの教えは守られず、この当時の絵は跡形もなく消え去っている。

「きりん」は小学生向けの月刊詩文誌で、関西一円の小学生の詩を足立巻一、竹中郁、坂本遼、井上靖(当時毎日新聞社記者)の編集で昭和23年2月に創刊。後に灰谷健次郎も編集に参加。 

足立は大阪の児童詩の雑誌「きりん」を興した一人でもあった。その経緯は、もともと「新大阪」が大阪堂島の毎日新聞の社屋の一隅を借りていて、そのころ毎日の学芸副部長に井上靖(156夜)がいたことにまつわる。井上が子供に詩を書かせるための雑誌を発案し、それが「きりん」になって、その実質編集を足立が取り仕切ったのである。http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1263.html

 

断片 小学六年生の児童が真夏の昼過ぎ、上半身裸で子供用自転車に乗り未舗装の道路を走っている。道端の男が「裸で走るな」と大声で怒鳴る。

 

 

 

修学旅行の伊勢で


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