特に事業家が好んで使う言葉に信念、志がある。一つのテーマを追いかけて迷わない人生をまっしぐらというのは果たしてそんなに賞賛されるべきものなのだろうか。信念、志には洗脳、自己暗示がつきまとい、どの言葉も生存競争に勝つことに結びついている。勝者の背後には無数の敗者や中間層がいる、これって本当にそんなに大したものなのだろうか、こんな疑問が常に奥にある。
確かに社会人になり嫌でも競争社会に放り込まれると競走馬が先頭を走りたがる本能に従って前へ前へと突き進む、甘っちょろい思索など邪魔なだけだ、特に家庭をもち家族を支えるとなると頭の物置の片隅に追いやられ、そんなこと考えたことも無かったかのようにほこりをかぶっていつの間にか忘れ去られる。信念、志、夢などの言葉で自己を奮い立たせて世の人々は進んでいく、自らを振り返ってもその通り。
50歳から75歳までの25年間は林住期と呼ばれ、競争社会から一旦退いて生きる本質を問う年齢だと言われているが、平均寿命の伸びた今では50歳は少し早いかもしれない、60歳から85歳が妥当かもしれないが、いずれにしてもその時期の真っ只中に入っている我が身としては事業家が好んで使う言葉に信念、志のテーマを考えてしまう。
ただこのテーマ一筋縄ではいかない、子供にこんなことを下手に教えようにも極めて不適切だし、難しい。そこで過去の名作の登場だ、フィッツジェラルドのザ・グレート・ギャツビーがその任に耐える一冊であるだろうと密かに考えている。「ギャツビーは緑の灯火を信じていた。年を追うごとに我々の前からどんどん遠のいていく陶酔に満ちた未来を。」この最後のフレーズは美しいが同時に陶酔を覚ます重要性も教えてくれる。
ギャツビーは緑の灯火(志であり同時に緑はアメリカ紙幣の色でその暗喩と2面性をもつ)を信じてデイジーへの愛(つまり志や夢)を手に入れようとする。しかし小説ではギャツビーの思いの中のデイジー(つまり志や夢)とリアルなデイジー(金への欲望)との大きなギャップが描かれ、思いの中のデイジー(つまり志や夢)を庇ったために殺される。思いの中の志が現実の志に殺されるという結末を迎える。
事業家が好んで使う信念や志というもっともらしい言葉に騙されてはいけない、どこか嘘くさいという感覚を持たないといけないのだがザ・グレート・ギャツビーはそのことを教えとしてではなく深く教えてくれる。
かつての温もりを持った世界が既に失われてしまったことを、彼は悟っていたに違いない。たった一つの夢を胸に長く生きすぎたおかげで、ずいぶん高い代償を支払わなくてはならなかったと実感していたはずだ。
彼は威嚇的な木の葉越しに、見慣れぬ空をみあげたことだろう。そしてバラというものがどれほどグロテスクなものであるかを知り、生えそろっていない芝生にとって太陽の光がどれほど荒々しいものであるかを知って、ひとつ身震いしたことだろう。その新しい世界にあってはすべての中身が空疎であり、哀れな亡霊たちが空気のかわりに夢を呼吸し、たまさかの身としてあたりをさすらっていた・・・P291
「彼らの目にはおそらく、この島は緑なす乳房として映じたのであろう。・・・人類すべてにとって最後の、そして比類なき夢に向けて、甘い言葉をさやかにささやきかけていたのだ。束の間の恍惚のひととき、人はこの大陸の存在を眼前にして思わず息を呑んだに違いない。審美的な瞑想のなかに引きずりこまれ、みずからの能力の及ぶ限りの驚嘆を持って、その何かと彼らは正面から向かい合ったのだ。二度と巡り来ぬ歴史のひとこまとして。P325
その夢がもう彼の背後に、あの都市の枠外に広がる茫漠たる人知れぬ場所に・・・移ろい去ってしまったことが、」ギャツビーにはわからなかったのだ。P325
ギャツビーは緑の灯火を信じていた。年を追うごとに我々の前からどんどん遠のいていく陶酔に満ちた未来を。それはあのときわれわれの手からすり抜けていった。・・・だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながら。P326
緑の灯火、このテーマは奥が深い、まだまだ書くことは一杯あるのにちがいないが、とりあえずほんの序章を書いてみた、先は長い。
「ロング・グッドバイ」5000ドル紙幣はアメリカ資本主義の黄金時代の象徴
「あんぽん」と「ザ・グレート・ギャツビー」
「天才の頭の中 ビルゲイツを解読する」とグレートギャツビー