バリで長く暮らす人達から話を聞く機会がありネット上の文献などを重ね合わせるとあまりに漠然としていたバリの歴史が少し身近な生きた知識として定着を始めたようだ。まだまだ十分では無いが。
タンパクシリンの碑文
同じく碑文
778AD バリのストーパ (塔)にサンスクリット文字が見られる。 ゴアガジャ GOA GAJAHやタンパクシリングTampak Siringがおそらくこのころに設立されたらしい。
と言うことはこのタンパクシリンは元々仏教寺院として作られたがのちにヒンドゥになったと言うことか。
その理由はなんだろう。インドでバラモン教のカーストからの脱却を仏教で成し得たが再びヒンドゥが復権した。
それと同じことがほぼ期をいつにしてバリでもこの100年の中で起きている。
このヒンドゥ化に従わなかった人々がバリアガとしてトルーニャンなどに閉鎖的に存続した。あたかも平家落人村のように。
バリアガは2つが有名だが実はもっと多いと言う人もいる。
ボルブドールの仏教遺跡
800AD ジャワ島の仏教遺跡ボルブドールがこのころに設立
ベサキ寺院
900AD ベサキPURA BESAKIH ティルタPURA TIRTA TEMPULが建てられる。
この100年の間に仏教からヒンドゥーに劇的に変わったことがバリの古刹の歴史から知る事ができる。
11世紀 バリ島の王朝は東ジャワのクディリ王国との繋がりを強めるようになる。スバック(水利システム 世界遺産)など21世紀初頭でも続いている伝統的な文化・慣習の起源は少なくともこの頃にまで遡ることができる。
カヤンガン・ティガや家寺の建立は、ジャワから渡ったヒンドゥー僧クトゥランが広めた慣行とされている。
カヤンガン・ティガはプラ・デサ(Pura Desa)デサを創始した祖先をまつる寺院。プラ・プセー(Pura Puseh)デサの集会所を兼ねる寺院。プラ・ダルム(Pura Dalem)墓地を併設し、まだ浄化されていない死霊をまつる寺院の三種の寺を言う。
バリが大きく変わるのは1500年 ジャワのマジャパイト王朝がトルコのイスラム軍に滅ぼされ数千人の王国の廷臣、王妃、プリースト、職人、兵士がバリに逃げてきたことによる。日本の明治開国のような変化があったのだろう。これがバリ文化に多大な影響を与える。