まさおレポート

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草創期のNTTデータ1 平塚清士氏へのオマージュ

2020-06-07 | 通信事業 NTT・NTTデータ・新電電

 

 

古い資料を整理していたら貴重な寄稿文が見つかった。私は1971年から18年間NTTデータ通信事業本部、略称デ本、途中からNTTデータに改称、に勤務した。そのなかでも1971年から1974年までの3年間、1977年から1983年までの6年と合計9年もの間ある上司のもとで働いた。おそらく一人の上司に対する最長の部類にぞくするだろう。この上司の名は平塚清士と言う。

2007年に84歳で亡くなっているので生まれは1923年であり、この寄稿文の記述は1940年(昭和15年)当時のことだから平塚清士17歳当時の事柄になる。以下は平塚清士がある会に寄稿した文書だ。

私の記憶にある48歳から57歳までの平塚清士とつながる部分もあれば「嘘じゃないにせよ記憶違いだろう」と独り言ちた事柄も記されている。あまりに興味深い寄稿文なのでここに掲載して残すことにし、併せてその内容の事実を知ることで平塚清士を偲んでみたい。

私はいろんな仕事をやってきたが、実を言えば、技術の中身は何も分からなかった。それでも皆の上に立ち、電電を代表して仕事をしなければならなかった。

最低の学歴で逓信省に入った私は電気試験所の第四部に配属されました。仲間は3人でした。五反田の関東逓信病院のところです。四部長は松村さんでした。責任者は何れ付けるが、工員を7人付けるから電子レンズを作ってほしいといわれました。予算は三千円である。何を買ってもいいと言われました。仲間と三人でびっくりしました。実験室には高圧発生装置や真空ポンプなどが揃っており、何から手をつけてよいかわかりませんでした。工員さんは設計図を引けば何でも作るといわれ大弱りでした。

これは1940年(昭和15年)前のことで、時代は戦時色が色濃く1月には調理用及び医療用以外の暖房電熱器、家庭用電気冷蔵庫、電気風呂などの電気器具の使用が禁止される。

3月には名古屋でマッチの配給が始まり高知でも米の配給が始まり内務省はカタカナ名の芸能人に改名する指示でディックミネ、、ミス・ワカナ、ミス・コロムビアなど16名が改名。当時の流行歌は昭和12年・愛国行進曲、露営の歌、昭和13年・日の丸行進曲、昭和14年・父よあなたは強かった、愛馬行進曲、昭和15年・月月火水木金金、隣組の時代だ。

電場か磁場のなかを電子ビームを通せば電子レンズが出来るとしか知りません。それもオッシログラフの原理だけ、手のつけようもありませんでした。仲間と相談し、なんとか装置を作り動かして見るとピンボケの像しか映りませんでした。真空技術が拙劣で、昼過ぎにならないと電圧がかからなかった。そのうちに課長か室長が赴任してくると、10人で遊んでいました。

工員さんがある日、実験室の扉の入り口に悪筆で電子レンズ研究室と書いて貼りだしたら、仲間の一人が電子顕微鏡研究室がよいといって貼り替えました。毎日あきもせず子供のように遊んでいました。

17歳のそれも「最低の学歴で逓信省に入った」若者に、電子顕微鏡の電子レンズ作成を任せるとはにわかに信じがたい話だが、とりあえず読み進んでみよう。

15年の3月中旬の昼すぎ、エラソウな人が所長、部長を従えて入室してきました。あとできいた処によるれば日支事変(戦争とは当時いいません)が深刻となり、国立の研究所の協力体制をつくるため政府の代表者として派遣された長岡先生と仁科先生でした。

長岡半太郎や仁科氏が当時理化学研究所にいたことは次のwiki記事でも確認できる。そしてなんと長岡、仁科両氏は原子爆弾の研究に着手していたことも記されている。つまり平塚清士は17歳の頃に長岡、仁科両氏を介して国防軍事技術の最先端に関わる工作現場を担当していたことになる。しかし原子爆弾については全く知らないようだ。

1940年(昭和15年)4月、陸軍はウランを用いた新型爆弾の開発研究を命令した。東京理化学研究所に秘密裏に研究を依頼し仁科研究所に研究課題を託した。1941年春頃、仁科研究所で原子爆弾の理論的可能性の検討に入った。1942年に海軍技術研究所でも原爆研究(原子核物理応用の研究)が始められた時に仁科は長岡半太郎と共に理研の代表で参加した。wikiより

寄稿文に戻る。

有名な研究所を回る予定らしく、私たちは何も知りませんでした案内コースを回っているうちに扉の文字が目につき、突然の入室でした。珪素をとるべく夢中だったのでびっくりしました。電磁石の強さをかえてピント合わせをしていた私は肩を叩かれ、両先生と交代しました。いろいろな質問をされるけれど、質問自体がわからず返事ができませんでした。何度もスコープを覘かれ、写っているよ、と楽しそうでした。何か困っていることはないか、と尋ねられ、急に元気になり、あれがわからん、これが欲しいと勝手なことを申し上げた。御二人で今日は良かったあ!!とい話されていました。橋田君のところは動いておらんがここでは動いている。急に所長と部長を振り返り、私の顔を見ながら、この少年を明日、借りるよ、俺の研究室によこしてくれ、といわれました。松村さんが代わって返事をして地図を描いてくれました。

翌日、胸を膨らまして駒込の理研に伺いました。直ちに杉浦先生に紹介されました。先生はいきなり昨日の話は聞いたよ、すごい実験に成功したなあ!!! 分解能の向上といっても長い間できるかどうか疑問だったので、これからやろうと言われました。

第一次大戦中の1917年に理化学研究所は駒込で誕生しアジアで最初の基礎科学研究所となる。現在は文京グリーンコートとして跡地を偲ばせる。1967年に和光市へ本拠地が移転されるまで半世紀に渡り駒込の地で日本の科学技術を牽引している。

その日から杉浦先生が物理を数学を一対一で教えてくれることになりました。帝王の教育と同じです。今でも最高の教育を受けたと自負しています。杉浦先生は東大の理学部教授で、若いときニールスボーアの研究所で修行した人で、電磁光学の大家でした。(仁科さんは33年間でしたが、杉浦さんはボーアに愛されて7年いたそうです)。当時、理研で水銀から金を作る装置を作って実験していました。週に2回来るように言われ、手当てとして毎月60円くれました。逓信省の月給は45円でした。

何もしらない小生を心から物理と数学を伝授してくれました。ときどき、生意気な質問をすると、逆に誉められ、それが量子力学の本質だと言われました。午後は真空技術の実験を手伝わされました。3時になると実験室の若い連中とビーカで紅茶を飲み雑談しました。若い連中といっても朝永さんや玉虫さんもおり、後年、世界の一流者になりました。紅茶は先生が持参し、菓子は皆が交代で持ってくることになっており、持ってきた菓子の由来を説明するのが話題でした。

ここで杉浦さんとは誰か、日本の量子力学の草分け的存在である杉浦義勝氏のことだろう。朝永さんはノーベル賞受賞の朝永振一郎だ。

杉浦義勝 東京帝大理学部物理学科卒理学博士 大正11年理化学研究所長岡半太郎研究室に移った。15年欧州留学、昭和2年帰国。理研で研究活動とある。https://kotobank.jp/word/%E6%9D%89%E6%B5%A6%20%E7%BE%A9%E5%8B%9D-1647291

杉浦義勝氏の優しい人柄は次の辞世の詩によく出ている。こういう人に出会って「その日から杉浦先生が物理を数学を一対一で教えてくれる」幸運に恵まれるのだ。

愛よりいでゝ愛に帰るこれが人生
夕暮れの山路の果てを指して一人で歩いて行きます
振り返ってニッコリ
皆さんさようならありがとうございました
あゝ愉しかった

留学中ゲッチンゲンでボルンに、コペンハーゲンーでボーアに学び、ボルンの下でハイトラー・ロンドンの理論による水素分子の計算を発表。これは誕生間もない量子力学応用の日本人による優れた功績とあるので「それが量子力学の本質だと言われました。」の言が真実味を帯びてくる。

工作機械は小野、佐藤、田所さんの3氏より伝授され、また小野さんと佐藤さんはマイケルソンモーリのエテル波の1mの実験装置を作った人です。

マイケルソン・モーリーの実験(マイケルソン・モーリーのじっけん、英: Michelson-Morley experiment)とは、1887年にアルバート・マイケルソンとエドワード・モーリーによって行なわれた光速に対する地球の速さの比 (β = v/c) の二乗 β2 を検出することを目的とした実験 wiki

こんな勉強をしているうちに二千倍、一万倍の電子顕微鏡を完成しました。当時の写真が家にあります。(酔った私を送ってくれ写真をみせられて迷惑された方もいられると思いますがカンベンして下さい) 日本で始めて完成した良き巨大な目は役に立ちました。その頃になると各方面から試料を持ち込まれました。一日が24時間しかないのが残念でした。

後年のある時新聞記事に電子顕微鏡で原子が見えるといった記事が掲載されており、私が話題にしたことがある。経験上それは無理だと平塚氏に言下に否定された。おそらく平塚清士が従事していたのは光学顕微鏡で細菌のマイクロセンチメータの世界を追い求めるもので、原子の世界はオングストロームである。1万倍の精度アップが必要であるので、そんなことはできるわけは無いと言いたかったのだろう。

顕微鏡の開発にはこの当時の深い思い入れがあったのだ。工作現場の仕事に従事していた関係で特にレンズ磨きの名人芸の世界を好んだ。ちなみに今でも日本の光学レンズは世界トップレベルだが現代でもレンズの究極仕上げは名人の手の感触に頼るそうだ。

五反田の市電が通過するとスパークで像がゆらいだことを思い出します。

逓信病院に行くと此処で夜おそくまで実験したことを思い出します。その頃になると杉浦先生が五反田まで来て、調査項目と試料の順番を決めていかれました。試料はマンガン、アルミ、酸化亜鉛、マグネシウム、ゴム、リチウム、絹糸、カーボン、・・・・・、タバコの煙などです。一万倍の顕微鏡のオリジナルは写真拡大すると十万倍になり、試料作りが大変でした。分解能が数mmμになると微粒子は一個づつ分散しなければらなず、金属の表面は薄膜でつくらねばならず、絹糸は数mmμの暑さに切断する方法がなく、各方面の研究者が苦労したものです。小生はその名人になりました。その頃、東大(山下)、阪大(菅原)、京都(加藤東)、名大(榊)、東北大(大久保)の諸先生が作られ、また試料作りがうまくいかず、よく五反田に見学に来られました。(註:東大の瀬藤先生が学振委37小委の委員長で、40代文化勲章を貰っております)

当時のお歴々の名前がさりげなく散りばめられている。電氣學會雜誌/94 巻 (1974) 1 号/書誌には「瀬藤先生文化勲章のお喜び」とあるがこの瀬藤先生のことだろう。1926年から理化学研究所主任研究員としてアルミニウムの陽極酸化法の研究を行い1928年にはアルマイトを開発。1939年、日本学術振興会第37小委員会委員長として、電子顕微鏡の国産化のために日本電子顕微鏡学会(現:日本顕微鏡学会)を設立とある。「アルミは航空機の翼の程度に関し」とあり視界にこの歴々が常に入っていたのだろう。

アルミは航空機の翼の程度に関し、カーボンはタイヤの強化剤であり、リチウムは潜水艦の電池の軽量化とライフに関係していました。

小生は陸軍科学研究所(戸山原、現団地)、海軍技術研究所の嘱託となり、手当てはそれぞれ60円貰うようになりました。母が"お上はよくお前にお金をくれるね”と言ってびっくりしていました。

昭和15年の物価は公務員初任給 75円(約20万円)とあるので17歳の若者にしてはずいぶんな高給取りであったことがわかる。

試料の測定が陸軍と海軍、何れかにかたよるとエラい騒ぎになります。その頃、陸軍は電子顕微鏡を自分の処で欲しくなり、その指導に出かけました。海軍は暗視管の作成を依頼してきて、たくましい日々でした。

1942年12月8日仁科は理研の宇宙線研究グループにいた竹内柾研究員を原子爆弾研究に誘い1943年2月28日ついに理論は実現に近づいた。海軍の原子爆弾の研究は解散していたが1943年5月頃仁科研究所は原子爆弾が作れる可能性を陸軍に報告し陸軍航空本部の直轄で研究された。この事実と陸軍、海軍の電子顕微鏡の取り合いは符合する。

仁科芳雄が率いた日本初のサイクロトロン開発はこの理化学研究所で開発され。戦後GHQによって東京湾へ沈められることになった。サイクロトロンは原子爆弾開発の基礎データ収集にも使われた。極めて厳重な機密保持に守られていたのだろう、平塚清士もこの原子爆弾開発には一切触れていない。原子爆弾開発の関連技術とも思える電子顕微鏡に触れるばかりだ。

カーボン粒子の大きさに成功したとき、杉浦先生がギリシャ以来キミが17番目だよとえらく誉められました。先生がボーアから貰ったカバンを頂戴しました。茶色の素晴らしいものでした。そのX線顕微鏡も試作して成功させました。X線はレンズが無いのでびっくりました。

下記の記事ではX線顕微鏡の発達史がよくわかる。

 1895年RentgenがX線 を発 見 した年 にX線 に よる顕微鏡の可能性がRentgen自 身に よって論 じられ,彼は,X線 の屈 折 が極 め て小 さ く,レ ンズでX線 をフ ォカスで きないので難 しいだろうと述べ たといわれている.し か し,そ の半年後 には密着法で植物試料の内部構造が拡大 して観察 され,1920年 台にはよ く研磨した鏡面 にすれすれ に入射 したX線 が全 反射 を起 こす こ とが知 られ,1940年 台 には,全 反射 を利用 した高分解能X線 顕微鏡の試みが行 われた.https://www.jstage.jst.go.jp/article/biophys1961/33/4/33_4_198/_pdf

「1940年 台 には,全 反射 を利用 した高分解能X線 顕微鏡の試みが行 われ」とあるので平塚清士の述懐とよく一致する。

零戦が北洋で作戦すると結氷するという事故が続きました。北大の中谷氏の所で研究していましたが、解決できず、北洋の霧核を撮影することになり、小生が北の基地に出張する直前に陸軍からクレ-ムがつき召集がきてしまいました。

雪の研究家として高名な中谷宇吉郎にも言及している。電子顕微鏡で霧核を撮影することでゼロ戦の着氷を防ぐ研究が始まっていたことは次の記事でわかる。「陸軍からクレ-ムがつき召集」とはいったいどんなクレームだったのだろうか。次の記事で平塚氏の述べることが事実であることが確認できる。

大戦中、雪の研究家として高名な中谷宇吉郎元北大教授のチームが、ニセコアンヌプリ山頂で着氷実験の研究に使ったゼロ戦の翼です。https://www.town.kutchan.hokkaido.jp/culture-sports/kucchan-huudokan/kucchan-huudo/huudokan-zerosen/

平塚清士はさらに顕微鏡に対する深い愛を言い募る。

最近のニュースではLSIの線描用として電子顕微鏡が浮上し、IBMが「EL-3」の電子ビーム露光装置を発表しました。何れ光計算機の時代が来るものと想像しております。時代がめぐってきた感じです。若き日の勉強した理論がもしかしたら役にたつのかななあと期待しております。絹糸の分子を撮影しているとき、クリック等の二重螺旋の構造模型とそっくりで、当時の写真を見るとある種の戦慄を覚えます。ゴムの分子は丸い提灯形をしているのがとれましたが追試ができず、残念でした。 

私の道具は電子顕微鏡でした。それは手作りの玩具でした。当時の写真を見ると限りない勇気が湧いてきます。幼児が自分で階段を上り下りしたときの喜びは何ものにもかえがたい満足の表情が現われます。その体験が大切です。皆様の子供さんに是非、手作りの道具を与えてください。 

「絹糸の分子を撮影しているとき、クリック等の二重螺旋の構造模型とそっくりで、当時の写真を見るとある種の戦慄を覚えます。ゴムの分子は丸い提灯形をしている」と詳しい説明を記すのは次の仁科の研究と呼応していることを推測させる。

仁科は、1939-1940年、八酸化三ウラン(天然ウラン)に高速中性子を照射して、ウラン237を発見したことで93番元素であるネプツニウム237ができていることを示し、またルテニウム(Ru)、ロジウム(Rh)、パラジウム(Pd)、銀(Ag)、カドミウム(Cd)、インジウム(In)、スズ(Sn)の7元素の生成物によって対称核分裂を発見した。なお、ネプツニウム237は、核兵器の爆発によって生成されることが知られている。wiki

平塚清士はこの寄稿文の最後にこう結ぶ。この心情が30年後のデ本で横浜銀行オンラインシステム開発に怨念となって結実する。

戦場から逃してくれた戦友、同期生がまた再建を頼むぞ、と代わりに爆撃機で征ってくれました。感謝の言もありません。

長いようで短い人生の9年間随分と世話になり影響も受けた平塚清士に対して果たして彼へのオマージュになり得ただろうか。

「私はいろんな仕事をやってきたが、実を言えば、技術の中身は何も分からなかった。それでも皆の上に立ち、電電を代表して仕事をしなければならなかった。」と述懐する平塚清士の言葉をリフレインさせながら次回から草創期のNTTデータを記してみたい。

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1 コメント

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技術史 (geneve)
2020-06-07 19:33:54
平塚氏の貢献はすばらしい。うずもれてしまう戦前戦後の技術史をぜひ残してください。原子力の研究開発も含めて。
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