2006年5月27日
ボローニャ滞在中に北イタリアのフェラーラを訪れた。中世には芸術家のパトロンとして著名なエステ公の居城エステンセ城だ。エステティックの語はこの城に由来するというが理由はわからない。エステから連想する女性的な城ではない。完全に戦闘態勢の武ばったお城だ。現在は市庁舎。
エステ城の中庭。石弾がある。右横に井戸が見える。
入り口の狭い通路。
城門の跳ね橋をわたる。敵が攻めてきたときに瞬時に跳ね上げる工夫がしてある。
つり橋を跳ね上げる鎖。
跳ね上がった後はこのような堀となり渡ることが極めて難しくなる。堀の深い緑が美しいが目的はあくまで防御のためだ。 堀の水はポー川から。
それぞれの入り口が鎖で跳ね上げられる。
石弾。
投石機の石弾が常時積まれていたのだろう。しかしこれくらいのものが分厚いレンガの壁に当たってもなかなかこわれないのではないか。大砲で打つための石の玉との説明も、しかし13世紀に大砲はない。
跳ね上げるための梃子。
跳ね橋を裏から見た構造。ごつい角材を用い、てこの原理で跳ね上げるのか。
石の紋章。
1471年のパース。
1528年のパース。
1540年のパース。
1570年のパース。エステ城が100年かけて立派になっていく様子が設計図からわかる。
エステ城の屋上。柑橘系の鉢植えが屋上を埋めていた。
屋上に至る階段。
四隅にある塔の一つが開放されている。長い階段をのぼり切ると屋上にでる。この階段は透明のアクリル板で透けて見え、高所恐怖症の人は上がるのが大変だ。
苦労して頂上まで上りきるとフェラーラの街が一望できる。
建物が同じ色で統一されている。政令で統一されているのだろうか。
屋上では珍しい闘争が繰り広げられた。大きめのトカゲを狙ってモズくらいの野鳥が舞いおりた。しかしトカゲも応戦しとうとう追い払った。あるいは鳥がわれわれの人影を意識して引き上げたか。
屋上からフェラーラの街を展望する。同質のレンガ屋根がどこまでも街全体に連なる。
これは銃眼?
最上階、天井の見事なフレスコ画に飾られた部屋。上を向いて首が痛くならないようにご丁寧に大きな鏡が置いてある。
夜明けの部屋、ゲームの部屋などいろいろあるがどれがどの部屋なのか不明。
エステ城の模型が。
右の赤いプレートはドン・ジュリオの牢屋。ジュリオは城主アルフォンソの娘ルクレツィアの侍女と恋仲になり、弟に目をくりぬかれ、あげくアルフォンソに反乱を企てこの牢屋に56年閉じ込められた。出てきたときは81歳。
さらに深い地下に降りていく。
どんどん狭くなる。
「ウーゴとパリジーナの悲劇」エステ家ニコロ3世41歳の息子ウーゴ20歳が継母パリジーナ21歳(ニコロ3世の2番目の妻)とできてしまいパリジーナとともに別の地下牢に閉じ込められた後1425年5月21日に斬首刑。光源氏と桐壺を思い浮かべるが陰惨さが違う。
チェーザレ・ボルジア、ルクレティア・ボルジア兄妹の権力と血にまみれた歴史がこの牢獄と二重写しになる。
サヴォナローラ像 サヴォナローラはフェラーラ大学後1482年にフィレンツェのサン・マルコ修道院長となってフィレンツェの腐敗やメディチ家を批判し、清貧の信仰に立ち返るよう訴える。1494年にフランスが侵攻しメディチ家はフィレンツェを追放され、サヴォナローラが共和国の政治顧問となり神権政治が行われる。1497年に教皇アレクサンデル6世(ロドリーゴ・ボルジア)から破門されるが工芸品や美術品を焼却する「虚栄の焼却」で極端な清貧を行動で示す。1498年共和国サヴォナローラを火刑に処され殉教した。
カテドラーレ(大聖堂)。残念ながら中には入れなかった。立派なファサードが完成しており、三角の破風がリズミカルに3個並ぶ。未完成のファサードもボローニャでみてきたので、こうして完成しているのはエステ家の当時の財力の証か。
カテドラーレ(大聖堂)。
この像はフェラーラの守護神サン・ジョルジョだろうか。
ムニチパーレ宮殿はエステ家が13世紀に建てた。
低階部分はロマネスク様式で18世紀に内部をバロック様式に改装された。
ロマネスク様式は11世紀~12世紀の建築様式でアーチの列、重く分厚い壁、少ない窓が特徴。
ルネサンス様式のカンパニエーレ(鐘楼)は15世紀に加えられたもの。