意志に続いて重要な表象についてのショーペンハウワーの言葉を集め、夏目漱石の「文芸の哲学的基礎」と比較してみよう。
世界とは、根拠の原理によって支配された表象の集合である。
表象としての世界は根拠の原理に支配された、必然の世界である。だから無機物や植物や動物の行動は常に必然的で、自由はない。人間行動も、動機に規定される面では自由は無い。
叡智的性格は意志であり、時間の外にあるため、永遠に不変である。だから、知性と意志の闘争の結果ではあるといえ、その結果は結局必然に支配されている。
これって映画マトリクスの世界を思い浮かべると納得できる。表象は実在ではないという。
全ての科学的な事象は時間の中の現象であるから、真の実在を扱えない。
人は表象同士を、原因と結果に当てはめて見てしまう。
悟性とは、因果性を直観する力。
時間の原理 空間の原理 2つが表象に「数多性」を与える。主観は「数多性」を持たない。
因果性の原理 人は表象同士を、原因と結果に当てはめて見てしまう。悟性とは、因果性を直観する力のことである。
時間というものは意志が因果性を直感する力から来ているということで、この直観力がなければ確かに表象は動き出さないな。
主観と客観を結ぶのは因果関係ではなく、認識。
概念は、表象の表象である。
概念の本質は、関係(Relation)である。
理性の概念形成以外の能力は、概念間の論理操作を行う能力のみである。
イデアは事前の単一性であり数多の表象を産むが、概念は事後の単一性として表象から産まれる。
人間は概念を利用することで生存を有利にしたが、逆に人間の最大の苦悩も概念から生まれることになった。
例えば死は概念であるし、人に指摘されて初めて苦悩が生じる場合などは、概念の伝達された場合である。精神的苦悩から逃れるために、肉体的苦悩を自ら選ぶことさえある。例えば、悩んでいる時に頭を掻きむしる行動がこれである。
概念について述べているが説得性がある。人間の最大の苦悩も概念から生まれる、なるほど。
情は理性によって形成された概念ではないものであり、直観的な表象である。
明瞭な抽象的概念ではないあらゆる意識の変化形態が情である。
情もそのとおりだ。
夏目漱石「文芸の哲学的基礎」を表象理解の補助線に使ってみよう。
吾々は生きたいと云う念々に支配せられております。意識には連続的傾向がある。この傾向が選択を生ずる。選択が理想を孕む。意識が特殊なる連続的方向を取る。意識が分化する、明暸になる、統一せられる。一定の関係を統一して時間に客観的存在を与える。一定の関係を統一して空間に客観的存在を与える。時間、空間を有意義ならしむるために数を抽象してこれを使用する。時間内に起る一定の連続を統一して因果の名を附して、因果の法則を抽象する。
甲を意識して、それから乙を意識する。今度はその順を逆にして、乙を意識してから甲に移る。そうしてこの両のものを意識する時間を延しても縮めても、両意識の関係が変らない。時間と独立した関係であって、しかもある一定の関係であるという事がわかる。これに空間的関係の名を与える。
空間と云う怪しいものの中に這入り込んで、時間と云う分らぬものの流れに棹さして、因果の法則と云う恐ろしいものに束縛せられて、ぐうぐう云っている。
まさに夏目漱石の意識はショーペンハウワーの意志そのものである。そして、「一定の関係を統一して時間に客観的存在を与える。・・・ある一定の関係であるという事がわかる。これに空間的関係の名を与える。」などは表象を夏目漱石風に述べている。
人間の最大の苦悩も概念から生まれるとして苦悩からの脱却の方向性を示している。ニヒリズムからの脱却になりえるのだろうか。
こうして夏目漱石もショーペンハウワーの影響を受け「成程厭世家かも知れぬ」と述べている。
或る香をかぐと或る過去の時代をママ臆起して歴々と眼前に浮んで来る朋友に此事を話すと皆笑つてそんな事があるものかと云ふショーペンハワーを読んだら丁度同じ事書いてあった。...さすが英雄の見る処は大概同じであると我ながら感に入つた我輩を知りもせぬもの迄が我輩を称して厭世家だ杯と申す失敬だと思つて居つたが成程厭世家かも知れぬ(倫孰の香ひ 十月ニナルト去年ノ十月ヲ臭デ思出ス)(明治四十三年「断片」)
ショーペンハウワーは次のように意思の否定の先の無に般若波羅蜜をみる。しかしどうもニヒリズムから脱却しているようには見えない。
動物の中で人間にのみ、この意志を否定出来る可能性が残されている。
無 意志を完全になくしてしまった後に残るところのものは、まだ意志に満たされているすべての人々にとっては、いうまでもなく無である。しかし、これを逆に考えれば、すでに意志を否定し、意志を転換しおえている人々にとっては、これほどにも現実的に見えるこのわれわれの世界が、そのあらゆる太陽や銀河を含めて、無なのである。これこそ仏教徒のいう般若波羅蜜なのではないか。認識の彼岸に到達した世界意志なのではないか。
「我々が意志を否定すれば、我々は無になってしまうではないか!」と。無とは相対的な概念なのではないだろうか?有と無とはお互いに相対的な概念であって、絶対的な「無」という概念などないのではなかろうか?
一般的に人が「有」だと考えているのは、表面的な、表象としての世界に過ぎない。しかし、その「鏡」は、我々が意志を否定した瞬間、砕け散ってしまうだろう。しかし、意志を否定した我々にとっては、「無」によって保障された安静こそが「有」であり、意志の肯定の世界に戻ることは、その安静が失われ「無」に帰す恐ろしいことなのである。
その安静の聖境は忘我とも、恍惚とも、有頂天とも、悟りを開くとも、神と合一するとも言われてきた。
我々が意志を転換し終えた暁には、この太陽や銀河こそが無であり、静寂こそが真の世界となることだろう。
彼らが死に至るとき、それはあらかじめ準備されていたかのようである。すでに意志は鎮静され、その残り火が消えるかのように彼らは死んでいった。私は彼らの人生が羨ましくてしょうがない。
意志の否定の先にある世界では、我々は動機から解放される。意欲が無いからである。意欲が無くなると、我々の性格までもがひっくり返ったように感じられる。これが教会の言う「再生」、「恩寵」の力である。
聖者たちの生活は、禁欲に始まる。彼らにとって禁欲と貧困は、修行のためにそうするのではなく、積極的に求められる目的である。意志の否定こそが目的であるのだ。
認識主観である人類が消滅すれば、この世界が消滅したに等しい。なぜなら、世界は表象であり、主観のないところに表象は無いからである。
意志の否定を行う人の肉体は健全であり、生殖器を通じて性的衝動を表明してはいても、もはや新しい命を生み出そうとは思わない。自発的な純潔こそ、救済の第一歩である。世界中がこのような人ばかりになれば、人類は滅びてしまうだろう。それでよいのだ。
主観が客観を映し出す単なる鏡である状態で唯一つの直感像だけが意識を占有した状態である。この直感像がイデアである。このように、人はイデアを認識する。
この状態では、認識行為と主観は同化しているから、イデアは意志が直観されたものでもある。この状態にある、没入した主観は、もはや時間も個体性も苦痛も失っている。この状態の主観を、純粋認識主観と呼ぶ。
では「意志を否定し、意志を転換しおえている人々にとっては、これほどにも現実的に見えるこのわれわれの世界が、そのあらゆる太陽や銀河を含めて、無なのである。これこそ仏教徒のいう般若波羅蜜なのではないか。認識の彼岸に到達した世界意志なのではないか。」とあるので初期仏教を眺めてみよう。
初期仏教で四聖諦が説かれた。これが釈迦の出発点であり到達点でもあるといって差し支えないだろう。人生は苦であり、その苦の原因が欲望のさらに奥に控えた無明であり、その無明を八正道の修行で得られた智慧によって取り払うことで、悟り、涅槃、如来に至る。実に同じようなことを言っている。
苦諦 - 一切は苦であるという真理
集諦- 苦には原因があるという真理
滅諦 - 苦は滅するという真理
道諦 - 苦を滅する道があるという真理
しかしこれではニヒリズムそのものではないか。果たしてこれこそ仏教徒のいう般若波羅蜜だと期待する初期仏教でニヒリズムから脱却できるのだろうか。次回はこのことを考えてみたい。