まさおレポート

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ショーペンハウワー「意志と表象としての世界」ニヒリズムからの脱却 その4

2017-05-11 | 小説 音楽

ショーペンハウワーは厭世的世界観というツールで価値のある箴言の鉱脈を掘り出しているというのがここまでの感想だが鉱脈という言葉で村上春樹と似ているなと思う。彼も地下2階に降りて鉱脈を探すという。彼のツールは起きてから見る夢だが厭世的世界観に飲み込まれた主人公がそこから脱却するありさまを描いている。つまりショーペンハウワーのニヒリズムは彼自身が影響を受けているかどうかは知らないが村上春樹と共通している。夏目漱石や村上春樹も厭世的世界観に浸りながらそこからの脱却に腐心している。厭世的世界観からの脱却は作家の創作の原動力となる。

ショーペンハウワーは直感の力で意志と表象の意志を見出したが、同様に多くの我々も直感で厭世的世界観を嫌う。

 この世は生きるに値するという言葉は僕が発信しているのではなく、僕はいろんなものを多くの読み物や昔見た映画などからいっぱい受け取っているのだと思う。それらを作った人々は繰り返しこの世は生きるに値すると言い伝え、ほんとかなと思いつつ死んでいったのではないか。僕もそれを受け継いでいるのだと思っている。 宮崎駿の記事から要旨引用

ショーペンハウワーは厭世的世界観から共苦の発見で脱却しようとしたのか。人々は子孫が繁栄しなくて滅びてもそれでいいのだと言っているので彼自身が厭世的世界観から脱却しようとしていたというのは適当ではないが共苦や音楽、詩に救いを求めている。

共苦の発見

 「個体化の原理」を突き破った人にとっては、他人と自己の区別が無いので、他人の苦痛を自分の苦悩として感じる。最高の慈悲深さを持つばかりに、自分を犠牲にして、自分自身の命を犠牲にしてさえ他人を救おうとする。

キリスト教が伝えようとしている大真理は、ひとつだけである。それは、最初の人間が犯した原罪(意志の肯定)が、キリスト(意志の否定)により救済されるという教えである。キリスト教には、根拠の原理から解放された箇所がある。それは原罪であり、アダムが性欲を満足させたことである。これは、生殖という種族の絆により、個体に分散してしまった人間が統一を回復するというイデアを教義にしたと言える。各個体は意志の肯定としてアダムと同一であり、意志の否定としてキリストと同一である。

人間の消滅は、次に動物界に影響を与える。人間は動物を利用する代わりに、救済を与えなければならない。万物は人間によって神のもとへ引き上げられねばならない。人間は万物に対する司祭である。その慈悲は世界の苦悩を自分のものとすることからもたらされる。よって、人間は万物のための犠牲である。

愛は他人の苦悩を自分と同一視することで可能となり、共苦することである。だから、エロスは自己愛であり、真の愛はアガペーである。現実は、これらの混合である。例えば真の友情でさえ、友の側にいることで満足する気分は利己心であり、友のために自己犠牲をいとわないところに共苦がある。 隣人愛はエゴイストを救済する。「右の頬をぶたれたら左の頬を差し出す」のは意志を否定したからである。 

ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟の主人公アリョーシャが共苦を体現している典型だろう。アリョーシャだけではない、イワンもミーチャも少し違った方法で共苦を体現している。

ショーペンハウワーは共苦を芸術に見ている。どのように見ているのだろうか。

絵画

美を認識すると、満足感が生じる。この満足感の正体は何だろうか。純粋認識の状態であり、意欲と根拠の原理に従う認識方法を廃棄した状態である。この状態に達すれば、求めても求めても逃げられてしまう心の平安が、ひとりでに実現される。

オランダの風景画、ロイスダールやフェルメールの風景画に描かれているのは、ありふれた風景である。だからこそ、これらの芸術家の非凡な穏やかな心境を、我々観賞者のうちにももたらしてくれる。

ラファエロやコレッジョの作品は、救世主の眼のうちに完全な認識の出現を表現した。これらの作品は意志を鎮める鎮静剤となっている。これが芸術の頂点であり、意志が自分で自分を廃棄する姿を描いている。

ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ『聖テレジアの法悦』ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』

最高位のイデアである人間の本質の解明こそが最も美しい。これが芸術の最終目的である。高位のイデアとは何か。意志の激しさや恐ろしさ、満足、挫折、悲劇が人間の本質である。とくにキリスト教絵画では、意志の自己廃棄がテーマとなる。

音楽

音楽と自然界とは、意志の異なった二つの表現なのである。だから、交響曲に感銘して浸り切っている人には、あたかも世界の全ての出来事が周りを通り過ぎてゆくように感じるが、正気に帰ってみれば、交響曲と今見えた事物との間になんの類似性も見出せないだろう。両者は一つの意志を、違う角度から眺めたものだからである。

音楽は現象のいっさいの形式に先立ちその奥にある核心である。音楽は事物以前の普遍である。

音楽は永遠に近い天国として我々のそばを通り過ぎてゆく。音楽はいくら反復しても心地よい。文学であれば、反復記号は煩わしいだけだろう。

音楽は悟性を必要としない。音楽は結果から原因へさかのぼる必要がないからである。

こうして音楽を哲学で解明することが出来たなら、それは世界を哲学で解明出来たことと同じである。

 夏目漱石は草枕で次のように述べて絵による救いを述べている。芸術によるつかの間の救いでよしとし、共苦という方向には向かっていない。 このあたりが西洋と日本の違いだろう。追求してやまない西洋と枯淡の境地に遊ぶ日本、どちらがよいのだろう。少なくとも科学の八津には追求してやまない西洋型のほうが向いているようだ。

住みにくさが高じると、安いところへ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟ったとき、詩が生れて、絵ができる。人の世を作ったのは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三件両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国に行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくいところをどれほどか、寛容て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職ができて、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊い。夏目漱石 草枕 - 青空文庫

詩、悲劇

詩は化学のようなもので、概念を組み合わせると、そこにイデアが沈殿して来るかのようである。

詩は時間芸術で、リズムと押韻という武器を使うことで、あらゆる判断に先んじて我々の盲目的感情に訴えかける。

悲劇は意志の自己自身に対する抗争と、故意と思わざるを得ないような意地悪な偶然と間違いから成っている。

悲劇の中では、極めて高貴な人々が、長期にわたる闘いと苦難の挙句、それまでの目的も人生のありとあらゆる享楽をも永久に放棄してしまう。ファウストのグレートヒェンも、ハムレットのホレーショもである。こうして彼等は原罪を償う。

こうして 遠藤周作の小説による救いはどうかと見たくなってくる。「深い河」で臭気や無明の世界にイエスが生まれると次のように記す。彼はイエスが生まれながら共苦の体現者であることを示したいのだ。同時に阿頼耶識には我々のいまわしい欲望がいっぱいつまっているとインド的考えを述べることで現在のキリスト教会の権威などとは違う考えを持っていることが読み取れる。

人間の救い主は馬小屋のなかの馬糞でよごれたきたない場所に生まれたというイメージです。それは人間に自らの心の中の馬小屋のようなきたない場所にイエスを探したいという我々のひそかな欲望のあらわれではないでしょうか。我々の心のなかの馬小屋と同じような汚れた場所それは前にも申し上げた阿頼耶識のことではないでしょうか。阿頼耶識には我々のいまわしい欲 望がいっぱいつまっていて、馬糞でよごれ、臭気にみちた無明の世界だからです。そこに純真な赤ん坊が生まれ、イエスが生まれる。その臭気や無明の場所を浄化してくれる。我々は忘れていた別の世界に今から入っていくんです。そのおつもりで印度を旅してほしいんです。もちろん、これは、ぼくの個人的考えですが......「深い河」遠藤周作170-1頁

ショーペンハウワーは涅槃についても言及している。次の文からは涅槃、つまり「個体化の原理」を突き破った人と共苦、自分を犠牲にして、自分自身の命を犠牲にしてさえ他人を救おうとする、が同じことを言っていることがわかる。ショーペンハウワーは原始仏教の涅槃にとどまらず大乗の救済思想にまで至っていたのだとわかる。大乗の救済思想とショーペンハウワーが共通のところに至っているのが大変興味深い。

 「個体化の原理」を突き破った人にとっては、「個体化の原理」を突き破った人。最高の慈悲深さを持つばかりに、自分を犠牲にして、自分自身の命を犠牲にしてさえ他人を救おうとする。

大乗の救済思想では仏、菩薩の無限の慈悲心による民衆救済を唱えた。どうしてこうも西洋と東洋の究極は一致するのだろうか。

 紀元前後にそれまでの仏教を批判しながらハイ然として興った大乗仏教は、ヒンドゥー教にならって、仏、菩薩の無限の慈悲心による民衆救済を唱えた。・・・真実と不離一体である誓戒の思想を受けいれ、・・・菩薩の理念を支える中核に据えたのである。宮元啓一 p40

 

ショーペンハウアーを読むということはこの不条理に作られた我々を含む世界を、それでもなお厭世的世界観に浸らず前を向いて生きていくこころ構えと覚悟を求められているということなのだ。

 

 


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