サピエンス全史に次いでホモ・デウスの著者は現代文明の行方に迷うわたしたちにものすごいインパクトを与えてくれる。以下にホモ・デウスから気になる記述をメモしておきます。
1.生き物は本当にアルゴリズムに過ぎないのか?そして、生命は本当にデータ処理に過ぎないのか?
2.知能と意識のどちらのほうが価値があるのか?
3.意識は持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになったとき、社会や政治や日常生活はどうなるのか?
二十一世紀には人間は不死と至福と神聖を獲得しようとするだろうと予測することから始まった。
この人間至上主義の夢を実現しようとすれば、新しいポスト人間至上主義のテクノロジーを解き放ち、それによって、ほかならぬその夢の基盤を損なうだろうと主張する。
二一世紀には、人間は不死を目指して真剣に努力する見込みが高い。
ティールのような人物の言葉は真剣に受け止める必要がある。
社会経済的な平等は流行後れとなり、人間は二三〇〇年まで に死に打ち勝つと考える専門家もいる。
老年学者のオーブリー・デグレイと、博学の発明家 レイ・カーツワイル (アメリカ国家技術賞の一九九九年の受賞者)だ。
グーグルは二〇〇九年にも、やはり不死の実現を心から信じるル・マリスを、投資ファンドのグーグル・ ベンチャーズのCEOとして採用した。
マリスは二〇一五年一月のインタビューで、「五〇〇歳まで生きることは可能かと今日訊かれ たら、私の答えはイエスです」と述べている。マリスは自分の勇ましい言葉を裏づけるように、大金を注ぎ込んでいる。グーグ ル・ベンチャーズは二〇億ドルのポートフォリオの三六パーセントを生命科学のスタートアップ企業に投資しており、そのなか には、野心的な寿命延長プロジェクトを手がける企業もいくつか含まれている。
ワイルとデグレイはそれに輪をかけて楽観的で、二〇五〇年の時点で健全な肉体と豊富な賀金を持っている人なら躍もが、死を 一〇年単位で先延ばしにし、不死を狙って成功する可能性が十分あると主張している。少なくとも、あなたが歩いている通りが、たまたまウォール街か五番街であれば。
ティールは最近、自分が永遠に生きることを目指しているのを告白した。「[死へのアプローチの仕方は、否定することもできるし、戦うこともできます。私たちの社会は、否定かでがいっぱいの人ばかりですが、私は戦うことを選びます」
心臓が血液を押し出さなくなったら、薬や電気ショックで動きを回復させられるし、それでも効き目がなければ、新 しい心臓を移植することができる。たしかに現時点では、技術的問題のすべてに解決策があるわけではないが、だからこそ私たちは 、癌や病原菌、遺伝学、ナノテクノロジーの研究にこれほど多くの時間とお金を注ぎ込んでいるのだ。 科学の研究に携わっていない一般人でさえも、死を技術的問題と考えるのが当たり前になっている。誰かが医院に行き、「先 生、どこが悪いのでしょう?」と尋ねると、医師は、「ああ、インフルエンザです」とか、「結核です」「神経痛です」などと答える。
医師は、「人はどのみち、何かで死ぬものです」などとはけっして言わない。それは防ぎえた、そして防ぐべきだった技術上の失 敗と見なす傾向にある。
世界人権宣言には、人間には「九○歳まで生きる権利」があるとは書かれていない。いかなる人間にも生命に対 する権利がある、と書いてあるだけだ。その権利はどんな有効期限にも縛られてはいない。
死を克服するためにはキリストの再臨を待つ必要はない。尋常で はない頭脳を持つ人が二、三人いれば、研究室で解決できる。伝統的には死は聖職者や神学者の得意分野だったが、今や技術者 が彼らに取って代わりつつある。
「どうして彼らが死ぬなどということが起こりえたのか? どこかで誰かがしくじったに違いない」というわけだ。
現実には、そのような人は「不死」ではなく「非死」と言うべきだろう。神とは違い、未来の人たちは依然として事 故で死にうるし、何をもってしても彼らを黄泉の国から連れ戻すことはできない。それでも、死を免れえない私たちとは違い、 彼らの人生には有効期限はない。
平均寿命を倍にするといった、もっと控えめな目標から始めるほうがいいかもしれない。人類は二〇世紀に、40年から70年へと平均寿命をほぼ倍増させたから、二一世紀には、少なくとももう一度増させて150年にできるはず、と。不死には遠く及ばないとはいえ、これはやはり人間社会に大変革を起こすだろう。
子供を産んだその女性が一二〇歳になった頃には、子育てに費やした年月ははるか昔の思い出と化し、長い人生におけるかなり小さなエピソードにすぎなくなる。そのような状況下では、どんな親子関係が新たに発展するかは予想がつかない。 あるいは、キャリアについて考えてほしい。今日、人は一〇代や二〇代で一つ職能を身につけ、残りの人生をその職種で過ご すものと思われている。実際には四〇代や五〇代になってさえ、新しいことを学ぶのは明らかだが、人生はたいてい、まず学ぶ 時期があって、働く時間がそれに続くというふうに分かれている。
だが、一五○年生きるとなると、それではうまくいかない。 新しいテクノロジーにたえず揺るがされている世界では、なおさらだ。人々はこれまでよりもずっと長いキャリアを通るので、 たとえ九〇歳になっても、自分や生活や働き方を何度となく一新しなければならない。
だとすれば、彼らは史上最も不安な人々となるだろう。死を避けられない私たちは、日々、命の危険を冒してい る。どのみちいつか命が終わることを承知しているからだ。だから私たちはヒマラヤ山脈に登りに行くし、海で泳ぐし、通りを 渡ったり外食したりといった危険なことを他にも多くする。だが、もし自分が永遠に生きられると思っていたら、無限の人生を そんなことに賭けるのは馬鹿げている。
不死には遠く及ばないとはいえ、これはやはり人間社会に大変革を起こすだろう。寿命が一五〇年の女性を想像してほしい。四〇歳で結婚しても、まだ一 一〇年残っている。その結婚生活が一一〇年続くと見込むのは、果たして現実的だろうか? カトリックの原理主義者でさえ、 二の足を踏むかもしれない。というわけで、何度も結婚と離婚を繰り返すという現在の傾向が強まりそうだ。四〇代で二人の子 供を産んだその女性が一二〇歳になった頃には、子育てに費やした年月ははるか昔の思い出と化し、長い人生におけるかなり小さなエピソードにすぎなくなる。そのような状況下では、どんな親子関係が新たに発展するかは予想がつかない。
死を克服する試みが失敗に終わるたびに、私たちは目的に一歩近づき、そのおかげで期待が高まり、なおさら努力 を重ねる気になる。グーグルのキャリコは、グーグルの共同創業者のセルゲイ・プリンとラリー・ペイジを不死にするのに間に 合うように死を解決することはおそらく無理だろうが、細胞生物学や遺伝医学や人間の健康に関して重大な発見をすることはほ ぼ確実だろう。
私自身の見るところでは、二二世紀中に永遠の若さを手に入れるという希望は時期尚早で、その実現に期待をかけ 過ぎている人は誰であれ、苦い失望を味わうことになるだろう。
じつのところ、現代の医学はこれまで私たちの自然な寿命を一年たりとも延ばしてはいない。医学の最大の功績は、私たちが 早死にするのを防ぎ、寿命を目いっぱい享受できるようにしてくれたことだ。たとえ今、私たちが糖尿病をはじめとする主な死因を克服したとしても、ほとんどの人が九〇歳まで生きられるだけであり、一五〇歳にはとうてい届かず、五〇〇歳など問題外だ。
自分がいずれ死ぬことを知りながら生きるのは楽ではないが、 不老不死になれると信じていて、それが間違っていることがわかったら、なおつらい。 過去一〇〇年間に平均寿命が倍に延びたとはいえ、それに基づいて、今後一〇〇年間で再び倍に延ばして一五〇年に達することができると見込むわけにはいかない。
近代に入るまで、ほとんどの文化では、人間は何らかの宇宙の構想の中で役割を担っていると信じられていた
現代の文化は、宇宙の構想をこのように信じることを拒む。私たちは、どんな壮大なドラマの役者でもない。人生には脚本もなければ、脚本家も監督も演出家もいないし、意味もない
世界は決まった大きさのパイであるという伝統的な見方は、世界には原材料とエネルギーという二種類の資源しかないことを前提としている。だがじつは、資源には三種類ある。原材料とエネルギーと知識だ
裕福なアメリカ人と同じ生活水準を世界中の人々全員に提供するためには、地球があといくつか必要になるが、私たちにはこの1個しかない。
科学者と技術者がいつも世界の破綻から私たちを救ってくれると信じている政治家と有権者が、あまりに多過ぎる
今日、全世界の法と秩序にとって最大の脅威は、神の存在を信じ、すべてを網羅する神の構想を信じ続けている人にほかならない。神を恐れるシリアのほうが、非宗教的なオランダよりもはるかに暴力的な場所だ
人間至上主義という宗教は、人間性を崇拝し、キリスト教とイスラム教で神が、仏教と道教で自然の摂理がそれぞれ演じた役割を、人間性が果たすものと考える
仮に私が神を信じていたら、そうするのは私の選択だ。私の内なる事故が神を信じるように命じるのなら、私はそうする。私が信じるのは、神の存在を感じるからで、神はそこに存在すると私の心が言うからだ。だが、もし神の存在をもう感じなければ、そして、神は存在しないと突然自分の心が言い始めたら、私は信じるのをやめる。どちらにしても、権威の本当の源泉は私自身の感情だ
『知識=経験x感性』
中世ヨーロッパでは、知識=聖書X論理、科学では、知識=観察に基づくデータX数字
人間至上主義は三つの主要な宗派に分かれた。正統派の人間至上主義では。。。政治でも経済でも芸術でも、個人の自由意志は国益や宗教の教義よりもはるかに大きな重みを持つべきだ』(自由主義)
自由主義は、やがて二つのまったく異なる分派を生み出した。社会主義的な人間至上主義と、ナチスを最も有名な提唱者とする進化論的な人間至上主義だ
進化論的な人間至上主義は近代以降の文化の形成で重要な役割を演じたし、二十一世紀を形作る上で、なおさら大きな役割を果たす可能性が高い
たしかに自由主義は人間至上主義の宗教競争に勝ち、2016年現在、現実的に見て、それに取って代われるものは存在しない
自由主義者が個人の自由をこれほど重要視するのは、人間には自由意志があると信じているからだ
人が経済的な決定をどう下すかを知りたがっている行動経済学者も、同じような結論に達している。ほとんどの実験は、決定のどれを取っても、それを下しているような単独の自己が存在しないことを示している
SF映画はたいてい、人間の知能と肩を並べたりそれを超えたりするためには、コンピューターは意識を発達させなければならないと決めてかかっている。だが、現実の科学はそれとは大違いだ
知能と意識ではどちらのほうが本当に重要なのか?
もし人間にタクシーだけでなくあらゆる乗り物の運転を禁じ、コンピューターアルゴリズムに交通を独占させたなら、すべての乗り物を単一のネットワークに接続し、それによって自動車事故が起こる可能性を大幅に減らせるだろう
やがてテクノロジーが途方もない豊かさをもたらし、そうした無用の大衆がたとえまったく努力をしなくても、おそらく食べ物や支援を受けられるようになるだろう
だが、彼らには何をやらせて満足させておけばいいのか?人は何かをする必要がある。することがないと、頭がおかしくなる。
彼らは一日中、何をすればいいのか?薬物とコンピューターゲームというのが一つの答えかもしれない
デイヴィッド・コーブはカリフォルニア大学サンタクルーズ校の音楽学の教授だ。彼はEMI(Experiments in Musical Intelligence)というプログラムを7年かけて開発したところ、たった1日でバッハ風の合唱曲を5000も作曲した
ある企業が人工のスーパーインテリジェンスの第1号を設計し、円周率の計算のような無害の試験を行う。ところが、誰も事態を把握しないうちに、そのAIが地球を乗っ取って、人類を皆殺しにし、銀河の果てまで征服に乗り出して、基地の宇宙全体を巨大なスーパーコンピューターに変え、そのコンピューターがかつてないほど高い精度を追い求めて際限なく円周率を計算し続ける。なにしろそれが、自分の創造主によって与えられた神聖な使命なのだから。
なぜなら、グーグルが、私の政治的見解でさえ、私自身よりも的確に言い表すことができるようになるからだ
もし自分に代わって投票する権限をグーグルに与えていたら、そんな事態(選挙活動で有権者を洗脳するような候補者を選んでしまうという愚行)は避けられただろう
匂いを嗅いだり、注意を払ったり、夢を見たりする能力が衰えたせいで、私たちの人生は貧しく味気ないものになったのだろうか?そうかもしれない。だが、たとえそうだとしても、経済と政治の制度にとっては十分価値があった
私たちは首尾良く体や脳をアップグレードすることができるかもしれないが、その過程で心を失いかねない。けっきょく、テクノ人間至上主義は人間をダウングレードすることになるかもしれない
最も興味深い新興宗教はデータ至上主義で、この宗教は神も人間も崇めることはなく、データを崇拝する
『チャールズ・ダーウィンが種の起源を出版して以来の150年間に、生命科学では生き物を生化学的アルゴリズムと考えるようになった。それとともに、アラン・チューリングがチューリングマシンの発想を形にしてからの80年間に、コンピューター科学者はしだいに高性能の電子工学的アルゴリズムを設計できるようになった。
データ主義はこれら二つをまとめ、まったく同じ数学的法則が生化学的アルゴリズムにも電子工学的アルゴリズムにも当てはまることを指摘する
音楽学から経済学、果ては生物学に至るまで、科学のあらゆる学問領域を統一する単一の包括的理論だ
データ至上主義によると、ベートーヴェンの交響曲第5番と株価バブルとインフルエンザウィルスは三つとも、同じ基本観念とツールを使って分析できるデータフローのパターンに過ぎないという
この見方によれば、自由市場資本主義と国家統制下にある共産主義は、競合するイデオロギーでも倫理上の教義でも政治制度でもないことになる。本質的には、競合するデータ処理システムなのだ
資本主義が分散処理を利用するのに対して、共産主義は集中処理に依存する
アメリカのNSA(国家安全保障局)は私たちの会話や文書をすべて監視しているかもしれないが、この国の外交政策が繰り返し失敗していることから判断すると、ワシントンにいる人は集めた膨大なデータをどうすればよいのかわかっていないようだ
もし本当に人類が単一のデータ処理システムだとしたら、このシステムはいったい何を出力するのだろう?データ至上主義者なら、その出力とは、「すべてのモノのインターネット」と呼ばれる、新しい、さらに効率的なデータ処理システムの創造だと言うだろう。この任務が達成されたなら、ホモ・サピエンスは消滅する
情報の自由は人間に与えられるのではない。情報に与えられるのだ。しかもこの新しい価値は、人間に与えられている従来の表現の自由を侵害するかもしれない。
新しいスローガンはこう訴える。「何かを経験したら、記録しよう、何かを記録したら、アップロードしよう。何かをアップロードしたら、シェアしよう」
あなたがすることをすべて記録して、インターネット上に掲示してください。。。。こうしたことを全部すれば、すべてのモノのインターネットの偉大なアルゴリズムが、誰と結婚するべきか、どんなキャリアを積むべきか、そして戦争を始めるべきかどうかを、教えてくれるでしょう
データ至上主義は、自由主義でも人間至上主義でもない。とはいえ、反人間至上主義的ではないことは特筆しておくべきだろう