まさおレポート

紀野一義の研究83 正法眼蔵 法華轉法華

紀野一義講演(youtube)メモです。


道元さんが法華経のなかにでてくる特別な問題つまり悟りに関してを魂を撃つようにコメントしたのが正法眼蔵です。法華経は論理的に説明したからわかると言うものではないですね。短い文章でコメントを書いていき、それがまとまって正法眼蔵ができた。


法華轉法華の法華は大宇宙とおんなじことです。

この法華轉法華の転じるというのは味わい深い言葉です。非常によい意味で使われている。さとると自分が転じる、迷えば自分が中心になっていくことはできないので法華に転ぜられる。迷いは悪いように聞こえるけど、転ぜられ受け身になるときの意でたまたま迷いという字を使っただけ。だから迷おうと悟ろうとどっちでもよい、いずれにしてもほとけのなかだ。


わたし(紀野一義)は15歳から59歳まで仏教を勉強してきました。

えらいお坊さんやそうでもないお坊さんにもたくさんあっている。ちょっと名前の売れた人が変なことをすると目に付きますね。

日蓮宗のお坊さんはちっとも勉強しないと言うと勉強するひと5人が集まってきた。そのうちの一人が亡くなられたのでもうずいぶん続いています。


芝居でもお能でも演じると演ぜられるは同じこと、迷っても悟っても同じこと、面白いですね。それまでは迷いをさることが悟り、しかし道元は同じことだと。

釈迦の弟子が迷ったとしても、それはほとけの中で迷っているだけで、ようするにそれはほとけさまだけの世界である。

論理でいくと甚深無量であり、難解難入なんだけどしかしそういう考えを止めてそのまま受け入れると即座に本行菩薩道なんだよ。


海の底で8歳の女の子がたちまちさとった龍女成仏の話は伝説ですが本行菩薩道に収まるんですね。願を立てて南無阿弥陀仏も本行菩薩道に収まりますね。

人生の中で波乱があっても海の上に波が立つようなものですね。それを肯定すれば本行菩薩道。否定するか肯定するかどっちがよいか。

私と同じ、戦争にとられたものがどう考えたか。俺は情けない、毎日土方みたいなことをすると否定するよりも、体を鍛えればよいじゃないかと肯定する。戦場に送られて戦死するものは圧倒的に否定派が多い。

戦争中のことを語るが過去の今を語っている。思い出しているそれぞれが今であるのじゃないでしょうか。


今生で菩薩になるのは前生で立派な修行をしていた。これを本行菩薩道と道元さんは言う。


安詳三昧なり。これは小僧さんでも知っている方便品の一節からの引用です。羅什の名訳ですね。梵語では「過去の出来事をひとつひとつ思い出して説く」とある。

瞑想に一遍入らないとわからない。なんにも考えない状態でなければ過去の出来事をひとつひとつ思い出すことはできない。だから安詳三昧から入らないといけないんですね。


方便品に開示悟入と悟りの順番が説かれる。目が明かないといけない。目が開くと無数の花が咲いているのがわかる。ここで明恵を説明する。はわかっていないと説明できない。

「何とも言えない」というセリフは最後に云わないといけない。悟は自分が何であるかを悟ること、入は涅槃に入る。悟入の後はまるで布袋さんみたいに歩いている。俺はえらいなんていわない。

「大菩薩の無量無辺不可称数なると東方より来る。所経の諸国普く皆震動し、宝蓮華を雨らし、無量百千万億の種々の妓楽を作す」

ここでは過去で、過去を白毫光で照らしたという意味ですね。


ヴィクトール・E・フランクルはアウシュビッツで靴底に暗号で書いた。オットーに覚えさせ、妻に愛していると伝えてくれと頼むがオットーの方が死んでしまう。

フランクルは絶対にあきらめなかった。世の中がお前になにをしたか、期待しているかを思い出せ。世の中がなんにもしてくれないと嘆くか、何をしたいかが人間を別ける。

だまされても信じると言うのが法華経、絶対肯定。口でいうほど簡単ではないが。すざましい楽天主義です。


誰でも便所でかがんでいるところもあるが、楽天主義、肯定主義の人はそんなことは思わない。これが楽天主義ですよ。

法華転でも迷いを迷い始めるとおさまりが付かない。胃がいたいときは明日は直ると思わないといけないだから迷いのなかと定めてみ迷わない。


亀茲国、いまの新疆ウイグル自治区クチャ市で羅什は生まれた。

このあたりは日本に似ている。だから日本人はよくわかるんですね。ぶどうや桃が取れる。竺法護はさっぱりわからない。羅什が書くと全部わかる。これを道元が読んでいる。こうやって目が明いていく。ガンダーラ、カシミールに広がっていくと仏教の勉強というよりも世界の勉強になってきて楽しくてしょうがない。


台湾のマフィアと交渉して連隊の退避場を確保した話を。浅草みたいなところで親分が4500人の兵の面倒をみる話をつけてくれた。うまくいくものはいくし、死ぬのもしょうがない。今でもそれは私の中に生きている。

貧乏しようと病気しようと、自分が通らないといけない道だから。

私はなんにも知らないで王という男に恩を売っていた。ばあさんを不発弾処理で助けた。


唯ということ、ただそれだけという世界と受け取ったらどうですか。

心が迷う、迷わないはどちらも仏の中だ。

凡夫に説かれた。法は凡夫でない人には法を説かない。

その人にとっての一大事因縁、何かをさせられるということだ、それがおのれを知るということで、それがわからないといくら学者の話を聞いても、キリスト教の話を聞いても何にもならない。

今ということが原点であって、昔こうだったというのは今のことだ。

私は17歳のときに高等学校に入りましたが毎日がこんなふうでしたね。論理的に勝った奴なんていない。懐かしいですね、あの頃が。

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