佐々木閑氏は繰り返し繰り返し我はどこにもないという。五蘊のどこにも我がないと繰り返す。死んだ後も仏教で説くところの輪廻はいわゆる魂のような実体?を伴った形では存在しない、従い、そういう意味での輪廻はないと氏は述べる。輪廻は当時のインドの常識であり、わかりやすくそれに従っただけだと。
では何が輪廻するのか、あるいは輪廻するように見えるのか。我なるものの実体がなければ一体何が輪廻するように見えるのか。氏は輪廻を引き起こすものは縁起だという。別名で業というと。
わたし流の解釈では人は死ぬと業によって縁起の中に溶け込む。大宇宙を一つの方程式(関数)で表すと溶け込むのでどこを探しても我は見つからないが縁に触れて再び輪廻する。
此(これ)が有れば彼(かれ)が有り、此(これ)が無ければ彼(かれ)が無い。此(これ)が生ずれば彼(かれ)が生じ、此(これ)が滅すれば彼(かれ)が滅す。「此縁性」
大宇宙をたった一つの方程式(関数)で仏教的にあらわすとこうなると佐々木氏はいう。
佐々木氏が輪廻はないということは実はこういう意味であり、別の言い方をすれば縁起によって溶け込み、縁起によって現れるとわたし流に解釈している。
一方、紀野一義氏は幽霊の話などを度々している。例えば寺の息子だから墓場を通るのはなんでもないと。墓場からは色々な霊を感じると言うが子供の時から慣れっこでへっちゃらですという。いつも原爆で亡くなった姉妹や両親が身近にいるのを感じるとも。戦場での霊の話など言わないだけであり、日常的にあったと。
一見真逆であり聞く方は混乱するが縁起によって見えたり見えなくなったりするとわたし流に解釈している。我は虚数のようなものと解釈している。虚数は、16世紀のイタリアの数学者Gerolamo Cardanoによって発見されその後、オイラー、ガウスで一般的となったが、人類はそれまで虚数を知らなかった。これを初期仏教から大乗に至る展開のメタファとみなすことができるとわたし流に解釈している。
例えていえば、佐々木氏は虚数は実数でないと言っているのであり、紀野氏は虚数はあると言っているにすぎないので、わたしは尊敬すべき両者を受け入れることに全く問題はない。