1昨日、遠野真の「猫がきらいな人」を書いたら今朝の朝日歌壇に堂園昌彦が「猫は猫のまま」 という寸評を。巧みな口語表現で猫の魅力を描いた宇都宮敦の第一歌集『ピクニック』を紹介。
◾扇風機のコ一ドに飽きて湯上がりの僕の髪から水を飲むネコ
ネコと青年との関係がなにやら妖しく、このネコはメスに思えてしまう。
寸評の最後の段落で引用されている斎藤茂吉の80年余り前の一首が強烈だ。
◾街上に轢かれし猫はぼろきれか何かのごとく平たくなりぬ
犬の歌より猫の歌のほうがはるかに多いのではないか、犬を詠んでも単純になるが猫は屈折した情感、妖しさまでこもる、猫は嫌いと言いがら憎めない、屈折した愛情は詩歌になりやすい。遠野真も堂園昌彦も猫はとても気になるであろう。猫に寄ったり離れたり、でも宇都宮敦は猫と戯れあっている。彼は猫に愛されていると信じている。猫も彼に愛されていると思っているのだ。だから楽しい歌が生まれるのかもしれない。
▼ 黒猫はタンゴが似合うその角をくいっと曲がりわが足元へ
◾扇風機のコ一ドに飽きて湯上がりの僕の髪から水を飲むネコ
ネコと青年との関係がなにやら妖しく、このネコはメスに思えてしまう。
寸評の最後の段落で引用されている斎藤茂吉の80年余り前の一首が強烈だ。
◾街上に轢かれし猫はぼろきれか何かのごとく平たくなりぬ
犬の歌より猫の歌のほうがはるかに多いのではないか、犬を詠んでも単純になるが猫は屈折した情感、妖しさまでこもる、猫は嫌いと言いがら憎めない、屈折した愛情は詩歌になりやすい。遠野真も堂園昌彦も猫はとても気になるであろう。猫に寄ったり離れたり、でも宇都宮敦は猫と戯れあっている。彼は猫に愛されていると信じている。猫も彼に愛されていると思っているのだ。だから楽しい歌が生まれるのかもしれない。
▼ 黒猫はタンゴが似合うその角をくいっと曲がりわが足元へ