→ 追いかけるな →
♥ 追い越して振り向けばまるで違うひと母はあの春この世を去った 松井多絵子
もうじき桜が咲くだろうと思いながら並木道を歩いていたときだった。前方を歩いている和服のひとが母のように見えてきた。やや太っていた母はもたもた歩いていた。外出は和服だった。還暦のころから体調をくずし検査のため入院していた時に急死したのだ。退院したら、東南アジアの旅をしたいと言っていた数日後の死、とても信じられない死だった。享年64歳、女性の平均寿命より20年も早い急死。3月上旬、もうじき桜が咲くころだった。
私は急いで歩き、前方を歩いていた和服の女を追い越し振り向いた。母ではない、母とはまるで違う高齢の女性だった。なぜ母だと思い込んで追いかけたのだろう。母の死後10数年も過ぎていたのに。伊集院静の✿『追いかけるな』の新聞広告は私に古い記憶を甦らせていた。あのときもし私があの和服の女を追いかけなかったら、。あのとき私は母の死を確認したのだ。
追いかけるから、苦しくなる。
追いかけるから、負ける。
追いかけるから、捨てられる。
人はすべて、一人で生まれ、
一人で去っていく生き物である。
失ったものはかえってこない。
立ち止まる勇気を持ちなさい。
『追いかけるな』という本の広告のキャッチフレーズは一偏の詩だ。朝食後の珈琲を飲みながら私はゆっくりこの広告を見る。明日からは12月、掃除、買い物などなど「追いかけられる」師走だ。北風、借金取りにも追いかけられる?ことのないように。
伊集院静さま 私はもう 追いかけるひとはいません。
私を追いかけてくれるひともいませんけれど。
11月30日 松井多絵子