日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

私の心は喜び、心の底から喜び躍り

2020-02-19 | Weblog
 詩16篇 

 9節「それゆえ私の心は喜び、心の底から喜び躍り、この身もまた安らかに住まう」聖書協会共同訳
  
 1節小見出しミクタム、ダビデの詩「神よ、私を守ってください 私はあなたのもとに逃れました。」ミクタムの意味は明らかでないがカタムが「金の飾り」から最高に美しいと解説される。直訳「神よ 守り給え、あなたの中に逃げ込む私を」11篇1節と似ている。「お前は言う、わが主あなたの上にわたしの幸いはないと」(2節)あなたは眞の保護者、助言者であると告白している。1節の神は「エる」は力強い神を示し、2節は「アドナイ」である。
 3節「この地の聖なる者らに私の喜ぶ力ある者すべてに言う。」 この地にある聖なる者とは誰か。私の喜び力ある者とは誰を指すのか。大きく二つの解釈に分れる。一般的にはイスラエルの共同体であり、神によって聖別された人々と理解されるが、4節で告げている異教の神々を否定する言葉との文脈からすると、今ひとつの解釈ができる。つまり「地の聖なる人々」とはカナンの偶像礼拝を行っている人々であり、岩波訳では「わが悦びの無い偉大な者らには、彼らの悩みが増すが良い…」としている。
 4節「他の神を追う者は苦しみを増すがよい。私は、血を注ぐ彼らの供え物を献げずその名も口にしない」。「他の者」(バアレツ)とはカナンの神々を指している。「他の神を追う者」とは、大急ぎ走って結納をわたす有様を比喩として表現している(出エジプト記22章15節)。「血を注ぐ」のはモレクの神に血の御神酒として男児を献げることを指している(レビ記20章2~5節)。
 5節「主はわが受くるべき分、わが杯。あなたこそ、私のくじを決める方。」「わが受くるべき分」も「わが杯」も共に割り与えられた財産の意味で「嗣業」を指し、6節7節は、これを豊かな表現で示している。詩2篇6、73篇26、119篇57、142篇6、民数記18章20節、申命記10章9節、ヨシュア13章14節see。
 6節「測り縄は麗しい地に落ち私は輝かしい相続地を受けました。」今一つの比喩である。「測り縄」は神からの嗣業地として最高のものであったと讃える。
 7節「諭してくださる主をたたえよう。」夜ごと神は私の心(原語・腸ひるヨタイ)を諭してくださるとは何と素晴らしい事であろう。
 5~7節においては既に「神とわたし」の関係が生涯変わることがないことを示されているが8~11節はそれが確実であることを告白する。
 ①「絶えず目の前に主を置く 主が右におられ、私は揺らぐことがない。」8節
 ②「私の心は喜び、心の底から喜び躍り、この身もまた安らかに住まう」9節
 ③「あなたは私の魂を陰府に捨て置かずあなたに忠実な者に滅びの穴を見せず」10節
 ④命の道を私に示されます。御前には満ち溢れる喜びが 右の手には麗しさが永遠にありますように。11節 これは使徒言行録2章25~28節、13章35節にイエス復活の証言として引用されている。

とこしえに揺らぐことはない

2020-02-18 | Weblog
  詩15篇 

 5節「利息を取って金を貸さず賄賂を取って罪なき人を苦しめない これを行う人はとこしえに揺らぐことはない」聖書協会共同訳

1節「主よ、だれがあなたの幕屋にとどまり、聖なる山に宿る事が出来るでしょうか」本詩の構成は1節の問い掛けに対して「それは~」という答えが2節から5節
aになり、5節bが、その結語になっている。巡礼者がエルサレム神殿に入城する時に門前で祭司とする問答と解釈され「入城典礼」と呼ばれる。
 2節「それは、全き道を歩み、義を行い、心の中で真実を語る者」。ここで三つの立場が語られる。先ず自分自身の事柄である。①「完全な道を歩く人(足)②「義(ツエデク)を行う者(手)、③「心の中に真実を語る者。
3節「舌で人を傷つけない、友に災いをもたらさない、隣人をそしることもない。」ここで三つの対人関係が語られる。①舌で中傷しない、②迷惑をかけない。③嘲らない。これは12篇3~4節に触れている。
 4節「彼は主の目に蔑まれる者を退け、主を畏れる者を尊ぶ。不利益な誓いでも翻しはしない」。「主の目に蔑まれる者」は(原語「彼の目に軽蔑される者(ニヴゼー)」岩波訳「軽んじられた者」口語訳「神に捨てられた者」であるが、これに対して約束事は守り、不利益になっても破らない、主を畏れる者を守り、主の眼差しに生かされるのである。14篇2節に出ている。
5節a「利息を取って金を貸さず賄賂を取って罪なき人を苦しめない」。第四の立場は社会生活に神の律法を遵守するのである。「利息を取らないこと」は旧約聖書に多く出てくる。出エジプト記22章25節、レビ記25章37節、申命記23章20節、箴言28章8節。その理由は金銭を愛さないことにある。「賄賂を受けない」ことも当然である。その理由は賄賂を受けて不正を行い、無実の人を陥れないことである。
 5節b「これを行う人は、とこしえに揺らぐことはない」。これが結論部分である。永遠に揺るぐことはないのである。これは詩篇に多く出てくる。(10篇6、16篇8、21篇8、30篇7、62篇3、112篇6、125篇1see)
ここで使われ入る「変わらない」(ろー イモット)とは違うヘブライ語の「堅く支える」「確かにする」(アムナー)は「信じる」(アーマン)という語幹で、イザヤ書7章9節に出てくる。そこでは「信じなければ」(アメヌー)、あなた方は「確かにされない」(アミーヌー)とある。これは信仰の原点に至る言葉である。

神が正しき人の輪の中におられるから

2020-02-15 | Weblog
  詩14篇 

 6節「だが、彼らは恐れおののく事になる。神が正しい人の輪の中におられるから」聖書協会共同訳
 
 1節「(前書き 指揮者によって、ダビデの詩)愚かな者は心の中で言う『神などいない』と。彼らは堕落し、忌むべきことをした。善を行う者はいない。」この詩は53篇と殆ど同じであるが、両者の神名が異なることから、時代的背景の相違が推定される。14篇では神を貧しい人の避け所としているところ(4~6節)が53篇とは異なっている。「忌むべきこと」とは動詞と名詞の二語よりなっている。
1節「愚か者」(原語ナーバール)を「神などない」(エン エロヒーム)としている。無神論者ではなく「神を無視する人」(10篇4節)を指し、神の創造的な知恵の欠洛した考えを持つ者で、その心は腐敗した状態で、憎むべき行い=偶像礼拝に陥っている。神の善を行う者はいない。腐敗(シャハト)状態は、精神的堕落と地域の滅亡状態を意味している(創世記18章28節、申命記4章16節)。
2節「主は天から人の子らを見下ろし、神を求める悟りのある者はいないかと探られる」。1節と対照されるのは、賢い者=神の知恵を有する者、神を求める者=神を礼拝する人の有無を「天に御座を置かれる方」(11篇4節)が見渡し探しておられる。しかし現実は違う。
3節「すべての者が神を離れ、ことごとく腐り果てた。善を行う者はいない。一人もいない」。「すべての者が神を離れ」は原文「ハコーる(すべての者が)サル(脇へそれる)ヤふダヴ(一緒に)」で、七十人訳でローマ3章13~18節に引用されている。エレミヤ5章1~3節、ミカ7章2節see
4節「悪を働く者たちは誰もこのことを知らないのかパンを食らうように私の民を食い尽くし、主を呼び求めようとはしない」彼らは経済的な搾取をするのである。そして神に従う人々の群れ、貧しい人々の計ることを挫折させ、辱めようとする。ついには無神論者に陥ることになる。
5節「だが、彼らはおそれおののくことになる。神が正しい人の輪の中におられるから」。3節で「善を行う者はいない。一人もいない」と思えたが、あに図らんや、不正の現実を打破し、神は義人の群れが望まれるのである。あなたがたが苦しむ人の望みを辱めようとしても主が彼の逃れ場となってくださるのである(6節)神の厳しい審判は、異国バビロン捕囚の民としてつながれるが、然しその彼方に回復の時の到来が約束されていることを示すものである。1~3節は人の罪の現実としてローマ3章10~12節に引用されている。ここで詩人の祈りが聞かれることになる。「シオンからイスラエルに救いがもたらされるように。主が民の繁栄を回復されるとき ヤコブは喜び踊り イスラエルは喜びに包まれるように」(7節)。
昨今の社会の報道は、殺人と暴力、詐欺と抑圧、不正と不義、逸脱と迷走、不慮の事件、事故、人為災害、疫病の感染、国内外の争い等々、罪深さは測り知れないものばかりである。ここで改めてローマ信徒の手紙3章9~30節を読む

私はあなたの慈しみに頼り

2020-02-15 | Weblog
詩13篇 

 6節「私はあなたの慈しみに頼り、私の心はあなたの救いに喜び踊ります。『主に歌おう 主が私に報いてくださった』と」聖書協会共同訳
 
 1、2節「(前書き 指揮者によって、賛歌、ダビデの詩)嘆きの歌であるが、 『いつまで』(アッド アーナ)が以下のように2節から4節までに四回も繰り返されている。
2節「いつまで主よ、あなたは私を永久に忘れるのですか」。
「いつまであなたは私から御顔を隠しておられるのですか」
3節「いつまで、私は、心に悲しみを日々抱き(直訳 エツオト計画する)続けるのですか。悲しみが魂の計画になっていると告白している。
いつまで敵は私に対して高ぶるのですか」。(直訳 敵はわが上に高くなっている。
これはダビデ自身の個人的経験に留まらず、ヨブもそうであったが、信仰者が陥る嘆きの現実である。敵がいつまで誇っているのかとあるが、原文で「敵がわが上に高くなる」(アッド アーナ ヤルム)となっている。 
 4節「わが神、主よ、私を顧み、答えてください。私の目を光り輝かせてください。死の眠りにつくことのないように」。「目を光り輝かす」(ハイーラ エナイ)は「目に光りを与えてください」である。「私を顧みる」は「私に応えて注視する」で、神の眼差しで目が開かれることになるという、ダイナミックな表現を読み取るのである。この「顧みる」(ハビータ注視する)は創世記15章5節に主がアブラハムに対して星の数を調べるため、天を仰いで命じた際の「凝視せよ」と同じ言葉である。
 5節「私が揺らぐのを見て 敵が勝ったと言わず 私を苦しめる者が喜ぶことにないように」。岩波訳「さもないと死を脅かす敵が言うでしょう『あいつに勝った』と仇どもは歓喜するでしょう、私が揺るがされるのを」
 6節「私はあなたの慈しみに頼り、私の心はあなたの救いに喜び踊ります。『主に歌おう。主が私に報いてくださった』と」。 敵は「わたしに向かって誇ったが」(3節)今は、私は「主に向かって」救いの喜びを歌うのである。
その歌声は嘆きを喜びに替えられる主を讃美する詩である。

主の仰せこそ清い仰せ

2020-02-14 | Weblog
  詩12篇 

 7節「主の仰せこそ清い仰せ。主の炉で精錬され、七度純化された銀」聖書協会共同訳

本詩は大きく三つに区分される。先ず2~4節「主の助けを求める訴え」である。
2節(前書き指揮者によって、シュミニトによる。賛歌。ダビデの詩。)「主よ、お救いください。忠実な人が消え、真実な人は人の子の中から去りました」。先ず「お救いください」(ホシーア)が冒頭に出てくる。「忠実な人」は、へブル語では「敬虔な人」(はスイード)は消え去った。「慈しみに生きる人」とも訳されている。「信仰の達人」(エムニーム)は人の子から消えた。11篇4節では「人の子」は主から見つめられる者であった。信仰の継承者がいないということか。
3節「人々は互いに空しいことを語り、滑らかな唇で、二心をもって語ります」。「空しいこと」(シャーヴ・虚偽)。岩波訳は3~4節を「滑らかな唇で、二つの心で、彼らは語る。ヤハウエが断ち切って下さい。滑らかな唇をすべて、大きな事を語る舌を」。大言壮語することか。引用句として詩28章3、55篇22,エレミヤ9章7節、新約ではヤコブ書3章1~11節がある。
4節「主がすべての滑らかな唇を、大口を叩く者を断ち切ってくださいますように。」直訳「主よ、すべて滅ぼして下さい、滑らかな唇と威張って語る舌を」。
5~6節 神の約束の言葉
5節「彼らは言います。舌のゆえに我らは強い。舌はわれらのもの。誰が我らの主人でありえよう。」。直訳「彼らは言います。舌によって力を振るおう。自分の唇は自分のため。わたしたちに主人などはない」
6節「主は言われる『苦しむ人が虐げられ、貧しい人が呻いている。今こそ、私は立ち上がり、あえぎ求める者を救いに入れよう』」。直訳では語順は「苦しむ人が虐げられ、貧しい人が呻いているので私は救いを置く。今こそ私は立ち上がり「あえぎ求め者を救いに入れよう」と告げられる。「立ち上がる」(アクム)は3章8節、7章7節にもある。「救いに入れる」は原文「私は救いの中に置く」となっている。岩波訳ではこれを「息を吹きかける」「慕い求める」の意味であると解説している。救いの確実性を表している訳である。
7~8節 繰り返される訴え
7節「主の仰せこそ清い仰せ。主の炉で精錬され、七度純化された銀」。これは3~4節にある、不純な言葉と対比している。七度不純な物を取り去り、精錬純化すること。「清い仰せ」(19篇10、119篇140,箴言30章5節see)。
8節「主よ、あなたは御言葉を保ち私たちをこの時代からとこしえに守って下さいます」。原文では「主よ、あなたがこの精錬純化を守ってください。この世代から、永遠に、われらを保護してください」。悪しき者がわが物顔で歩き回り人の子らの間で、卑しむべきことがもてはやされているのです(9節)。岩波訳「まわりを不法者らがのさばり歩くのです。ひとの子らに対し卑劣さが幅を利かすとき」

 朝が来る度に、身を整えて待ち望みます

2020-02-11 | Weblog
  詩11篇 心の真っ直ぐな人は御顔を仰ぎ見る

 7節「主は正しき方、正義を愛される。心の真っ直ぐな人は御顔を仰ぎ見る」聖書協会共同訳

 1節(指揮者によって、ダビデの詩)「主のもとに私は逃れた。なぜあなたがたは私の魂に言うのか。「小鳥よ、山に飛んでゆけ」と。「主を私の避け所とする」詩篇は7,11、16、31、57、71篇など多い。ここではそれに反対する者がいる。
 2節「見、悪しき者が弓を張り、矢をつがえた。闇の中、心の真っ直ぐな人を射るために」。鳥のように山に逃れて自分の才覚で戦いを避けようとする選択だが、真っ暗闇の中で待ち伏せし、弦に矢をつかえ射落されてなす術がない。
 3節「礎が崩れてしまっては正しき者に何ができよう」。「礎が崩れる」はヘブライ語直訳では「キー・ハシャトット(時の柱)で統治権を指し、土台が崩れてしまう状態で、これを「礎が崩れてしまっては正しい者に何ができようか」としている。
 4節「主は聖なる宮におられる。主はその座を天に置かれた。その目は見つめる。その眼差しは人の子らを調べる」。主は2節でいう「山」ではなく、「聖なる避け所」であると反論し、更に暗闇に待ち構えてなどいない。聖なる宮にいまし、人の子ら凝視する。「見つめる」はへブル語イエヘーズで「凝視する、見抜く」で岩波訳「彼の目は視、まなこは試す」とある。
 5節「主は正しき者を調べる。その心は悪しき者と暴虐を好む者を憎む」。4節の「調べる」を更に徹底して、精錬で金滓を分けるように調べるのである。その峻別は主に従う者と逆らう者である。不法を愛する者を憎み、恵みの業を愛する者が明かとなる。
 6節「主は悪しき者の上に罠を、火と硫黄を降らせる。燃える怒りの風は、彼らの杯が受けるべきもの」。岩波訳「かれが降らせよ、不法者らの上に網なわを、火と硫黄を。つむじ風こそ彼らに差し出された杯」。創世記19章53節、エゼキエル38章22節。
 7節「主は正しき方。正義を愛される。心のまっすぐな人は御顔を仰ぎ見る」。共同訳は「恵みの業」となっているが、ヘブライ語は「義しい行為」(ツエデコット)で神の義を実現することである。「仰ぎ見る」も4節と同じで、「凝視する」である。本来旧約聖書では神の御顔を視ることは出来ない。然し、神の救いの実現を言い表す時は、へブル語訳のように「御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる」と訳
すことができる。試練に遭い、その中から主なる神が注視してくださり、信頼を回復し義人となることは何と幸いなことであろう。マタイ福音書5章8節、第二コリント3章18節に、新約時代の約束が明確に記されている。

御手によって救おうと顧みて下さる

2020-02-08 | Weblog
 詩10篇 

 14節「あなたは苦しみと悩みをご覧になり御手によって救おうと顧みて下さる。不幸な人はあなたに身を委ね、あなたは孤児の助け手となられた」聖書協会共同訳

 1節(アルファベットによる詩)「主よ、なぜあなたは遠く立ち苦難の時に身を隠されるのですか」。9篇の続きでアルファベット後半部分(ラッメド~タウ)の歌。岩波訳「なぜ」(ラマー・ラッメド)が最初に来る。そのように翻訳すべきであろう。10章は立場の違いが一層明確で神に強く不義不正を訴える祈りとなっている。
 2節「悪しき者は高ぶり苦しむ人を追い回している。彼らが自らの謀に陥りますように」共同訳は原文に近く直訳は「悪しき者の驕りに燃えて貧しい者は捕らえられている」となる。詩人の立場は「貧しい者」「苦しむ人」(9、12、14、17節)「不幸な人」8、14節)「みなしご」(18節)である。
 3節「悪しき者は自らの野望を誇り貪欲な者は鼻高々で神を尋ね求めず「神などない」とあらゆる謀をたくらむ」これに対して神に逆らう者、悪しき者の横暴な振る舞い、あまりに酷い貪欲で高慢になり、神を無視し、反対する者に自らを誇示する(4~5節)。「高慢」を口語訳は「誇り顔」、岩波訳「鼻を高くするアボー)直訳である。鼻高々で悪事を隠し、幸せで、災いに遭わないと思い、呪い(アラー・アイン)と詐欺、搾取を働き悪を隠す(6~7節)。
 8節「村外れで待ち伏せし、物陰で無実の人を殺す。彼は不幸な人に目をつけ」。茂みに潜む獅子のように物陰で待ち伏せする(9節イエロヴ・ぺエ)彼は不運に陥るとうずくまって神は御顔を隠されたと思ってしまう。そしてもう顧みてくださらないという(10~11節)1節の繰り返しで、ヨブ記と同じ問題提起である。
 12節「主よ、立ち上がって下さい(クマー・コフ)。神よ、御手を上げて下さい。苦しむ人を忘れないでください」。9篇20節とおなじである。神を侮る者に罰など無いと思っている。しかしこの祈りは闇雲に捧げるものではなく、神は労苦と悩みをゆだね者を必ずご覧になって(見るライータ・レース)、顧みてくださるとの確信がある(13~14節)。直訳は「あなたにすべてをお任せします」、岩波訳は「あなたのうえに身を棄て」と激しく神に訴えている。ここで挙げられている不運な人、みなし子を助け悪事を働く者の腕をくじく=原文は「折る」(シェヴオ―ル・シン)ということである(15節)。「折る」とは屈服させる事である。
16節「主こそ王、代々とこしえに、国々は主の地から滅び去った」。主は耳を傾け、その切なる願い(タヴァト・タウ)を聞き、心を確かにしてくださるのである。「よく聞く」(タクシーブ)。とは必ずご覧になって、顧みてくださいますというギリギリの祈りがここにある」。

身を横たえて眠り、目覚めます

2020-02-05 | Weblog
  詩9篇 

 9節「主は義によって世界を裁き、公平に諸国の民を裁かれる」聖書協会共同訳

 1節表題(アルファベットによる詩9章ではアーレフからコフまである)「指揮者によって、ムトラベンによって。賛歌。ダビデの詩」。小見出し 共同訳では「ギテイトに合わせた賛歌」となっていたが「ムトラベン」は意味不明である。この詩の伴奏メロデイ―の名か琴の一種という節もある。ペリシテの町ガテの兵士が楽器を奏して行進した曲とか、他に81,84篇がある。2節から始まり10節で同じ歌を繰り返して終わる。これは42、46、57、103篇にある。
 2節「私は心を尽くして主に感謝を献げ、その奇しき業をすべて語り告げよう」。私は感謝する」。わたしは感謝する(オデー・ヘブライ語アーレフ)で始まる。「心を尽くして」は心のすべてをもって(with all my heart)である。それは何か。8篇と同じ、天に輝く神の威光である。
 3節「いと高き方、あなたを喜び、祝い、その名をほめ歌おう」原文は「わたしは喜ぼう、そして歓喜しよう、あなたにあって」で喜び、喜ぼうで意味を強調している。そして神が御顔を向けると敵は倒れ退き(ベシューブ・ヘブライ語ベッツ)主の前から滅び去ったと歌う(4節)。
 5節「あなたが私のために裁きと訴えを守り、正しい裁き手として座に着かれたからです」敵対者に対する処罰を求める(7篇8-12節)。これは16、18,20節にも出ている。神を忘れる者は神から見放される。彼らの町々は廃墟となる。
 6節「あなたは国々を叱り(ギンメル・ガアルタ)、悪しき者を滅ぼし(イバドウタ・ダレット)その名を代々とこしえに消し去られる」。その敵は永遠に廃墟となり果て あなたが滅ぼした幾つもの町々は、その記憶さえ消え去った(7節)。しかし主は(ヴアドナイ・へエへ)、とこしえに座し裁きのために座を揺るぎないものとされる(8節)。
 9節「主は義によって世界を裁き、公平に諸国の民を裁かれる」口語訳では正義「ミシュパット」をもって世界を裁き公平「メシャリーム」をもって諸々の民を裁かれるとしている。この正義と公平は世界に対する神の絶対的な法の基準となり、予言者がしばしば取り上げるものである(イザヤ33章5節、エレミヤ9章23節、エゼキエル18章5節、ホセア2章19~20節。
10節「虐げられている人に主が砦の塔となって下さるように、苦難の時の砦の塔にとなって下さるように」。原文はこの節の始めに「そして~あるように(ヴィヒー」・バウ)という言葉が来る。11節「御名を知る者はあなたに信頼する。主よあなたを尋ね求める人をお見捨てにならなかった」。
12節「主をほめ歌え、シオンにいます方を。もろもろの民に主の業を告げ知らせよ」アルファベット形式になっているので語順としては聖書協会訳の通り「褒め歌え」(ザメルー・ザイン)である。シオンで流された殉教の血に報いて下さることを歌う(13節)これは14~15節に共通している。14節「主よ憐れんでください」(原文ハンネーニ・チェト)
16節「国々は自ら掘った滅びの穴に落ち、自ら仕掛けた網に足を取られる」。「足を取られる」原文は「陥る」(タヴェウー・テット)。罪を犯す者は自縄自縛となる。7篇13~17節と同じである。これはローマ1章28節に出てくる。悪し者たちは陰府へ帰って行く(原文ヤシューヴ・ヨッド)。しかし詩人は自らを「乏しい人」」「貧しい人」に身を置いて、神の顧みを信じている。なぜなら(永遠に失わないことだからで(へブル語キーロー)ある(19節)。
20節「主よ、立ち上がって下さい。人が己の力を頼むことなく、国々が御前で裁かれますように」。原文は「主よ、御顔を向けて異邦の民を裁いて下さい」

幼子と乳飲み子の口によって砦を築く

2020-02-04 | Weblog
詩8篇 

 3節「幼子と乳飲み子の口によって砦を築かれた。敵対する者に備え敵と報復する者を鎮めるために」聖書協会共同訳3節

 1節「指揮者によって。ギテイト(ギツテイ―ト)に合せて。賛歌。ダビデの詩。小見出し ギテイトに合わせた賛歌とある。ペリシテの町ガテの兵士が楽器を奏して行進した曲とか、他に81,84篇がある。2節から始まり10節で同じ歌を繰り返して終わる。これは42、46、57、103篇にある。
 2節「主よ、我らの主よ 御名は全地でいかに力強いことか。あなたは天上の威光をこの地上に置き」。直訳すると「アドナイ、アドネーヌ、何と力強いあなたの名は、全地に、与えられた至るところに。天にあるあなたの威光が」となる。その威光を讃えることは7章18節と結びつく。それはどのようにしてか。3~7節で示
していて、大きく二つに分れる。
3節「幼子と乳飲み子の口によって砦を築かれた。敵対する者に備え、敵と報復する者を鎮めるために」。敵に苦しみられていた天地が無力な幼子と乳飲み子によって絶ち滅ぼす(ハシユビート・鎮める)のである。口語訳では「幼子と乳飲み子の口の讃美で静めさせる」と訳されている。19篇にもある。ここは7篇までの敵対者に立ち向うのとは異なる。人の想像を超えた働きである。今一つは天と地を創造された御業である(4節)。これはマタイ21章15~16節に主イエスが引用されている。
 5節「人とは何者なのか、あなたが心に留めるとは 人の子とは何者なのか。あなたが顧みるとは。」。幼子、乳飲み子で象徴されている人間は脆弱な存在で、何ら栄誉も功績もないのにも関わらず、創造主なる神は御心に留めて顧みてくださるというのである。「人間」(エノーシュ)は脆弱性を指す。「人の子」(ヴエンアダム)は非造性を指す。ヘブライ2章6~9節に人の子となられたイエスとして引用されている。
6節「あなたは人間を、神に僅かに劣る者とされ、栄光と譽の冠を授け」。神が人間を創造された時のことを思い起こさせる(創世記1章26~27節)。神は人間を両足下に置かれて、すべて御手で造られたものを治めるようにと言われた(7節)。「両足下に置く」とは「治める」と同義語である。それは羊も牛も、野の獣も、空の鳥、海の魚、波を動かす海の怪物もすべてである(8~9節)人は決して奢ってはならないのである。そして始めに帰って主の御名を讃美することである
10節「主よ、我らの主よ、御名は全地でいかに力強いことか」2節のリフレインである。

夜ごと涙で寝床を浸す

2020-01-31 | Weblog
 詩6篇
 
 「私は嘆き疲れました。夜ごと涙で寝床を浸し、床を漂わせています」(聖書協会共同訳7節)

  1節「指揮者によって、弦楽器で。シュミニトによる。賛歌。ダビデの詩」。共同訳は「シュミニト」を「第八調」と訳しているが、正確な意味は不明で、数詞八を指し、歌の調子を表すと思われる。七つの悔い改めの一つである。
 2節「主よ、怒りに燃えて私を責めず 憤りに任せて懲らしめないで下さい」。主よ、憐れんで下さい。私は病み衰えています。主よ、癒して下さい。わたしの骨はおののいています(3節)。「怒り」(ペアぺは-)は烈火のごとく憤激すること。赦しと憐れみを求める内容は何なのか。「癒して下さい」とは罪過の故に心が千々に乱れ打ち沈んだ状態に陥っているのでる。それは何時までなのかと問う(4節)。
 5節「主よ、帰ってきて下さい。私の魂を助け出し慈しみによって、お救い下さい」岩波訳「引き返してください、ヤハウエ、わが魂を助け出して下さい」。引き離され断絶した状態の回復をねがうのである。もう一度私の方に顔を向けて欲しいという願いである(80篇15節、90篇13節)。神との断絶は「陰府」(ビシュオール・死)の国に赴くのと同じである(6節)
 7節「私は嘆き疲れました。夜ごと涙で寝床を浸し、床を漂わせています」嘆き疲れ果て、寝床で漂っているという。目は憂いによって衰え老人のようになっている。涙でわが床を溶かしている(8節)。
 9節「退け、悪事を働く者は皆。主は私の泣く声をお聞きになった」。突然、深夜の暗黒が開かれ、私から邪悪よ、離れ去れ、主はわが泣き声を聞かれたのだと告げる。そして祈りを受け入れてくださる(10節)。わたしが無力になった時に神の御業は起きる。「聞かれる」は完了形、「受け入れて下さる」未完了形。神は絶えず聞き続けて下さるのである。
 11節「敵が皆、恥をうけておののくように。恥にまみれて瞬く間に逃げ帰るように」。これは突如として与えられた確信である。
へブル語では「彼らは恥じ入る(イエブオ―シユ―)・またおののく・非常に・すべての・わが敵は・彼らは退く(ヤシーュブー)・恥入る(イエブオ―シユ―)・一瞬に」
岩波訳「恥を搔き、ひどく脅えよ、わが敵はみな、引き返し、恥をかき、たちまちに」。疲れ弱り果てて戦意喪失の状態だった者が突然変わって「離れ去れ」と叫ぶのである。正に信仰の勝利である。これは不断の祈りを示される(Ⅰテサロニケ5章17節)。

 朝が来る度に、身を整えて待ち望みます

2020-01-30 | Weblog
詩5篇

 「主よ、朝に私の声を聞いて下さい。朝が来る度に、あなたに向かって身を整え
 待ち望みます
」(聖書協会共同訳4節)

 2節「主よ、私の言葉に耳を傾けて下さい。私のつぶやきを聞き分けてください」本詩も苦しみの中から神に祈る。構成としては神への訴えと悪しき者への審判が交互に記されている。両者を厳しく対照させるのは1,3.4篇と同じであるが、ここでは悪しき者に対して徹底的に神の審判を厳しく求めている。「つぶやき」(ハギギー)直訳は歯ぎしりすることだが「呻き」とも訳される。取り繕わない真摯な要求である。「私の王、私の神よ、わが叫びの声をよく聞いて下さい」(3節)と願う。それは民がイスラエルの王に求めるのと同じである。
 4節「主よ、朝に私の声を聞いて下さい。朝が来る度に、あなたに向かって身を整え待ち望みます」。「身を整えて」は直訳すると「私はあなたに備えて(エエロふ)」、口語訳は「生け贄を整えて」となっている。イスラエルの民は朝毎に犠牲を献げて主を仰いだ(29章39~40節レビ記6章12節)。
 5節「あなたは不正を喜ぶ神ではなく、あなたのもとに、悪がとどまることはありません」。直訳は「悪人はあなたの許に宿らせない」で共同訳が近い。不正を行う人、神に逆らう者と共に、誇り高い者、悪を行う者、偽り語る者、流血の血を流す者、欺く者(6~7節)と七つの人物を上げている。身元に宿ることを赦さないのは聖にして正しい神だからである。
 8節「しかし、私は、豊かな慈しみによってあなたの家に入り、あなたを畏れ敬いつつ、聖なる宮にひれ伏します」。これと対照的に神に受け入れられる者とは豊かな慈しみを頂き、心低くして神の神殿の前庭に出る人である。そして聖所に顔を向けて畏れつつ跪く人である。ダビデは神の聖所に入れる資格があるというのではなく、神の厳然とした御姿を思い描くのである。神はいつも主語として現われ考察の中心点に立っている。恵みのうちに導かれ、真っ直ぐな道を歩ませて下さいと祈る。何故なら陥れようと人がいるからである(9節)。
 10節「彼の口は確かなこと語らず、その腹は腐っています。舌は滑らかでも、喉は開いた墓」彼らの罪状を読み上げて、神よ、彼らに罪を負わせてください。その謀のために倒れますように。度重なる背きのゆえに彼らを追い出してください。彼らはあなたに逆らったのですから、追い出してくださいと祈る(11節)。
 12節「あなたのもとに逃れるすべての者が喜び、とこしえに喜び歌いますように、あなたは彼らを覆い御名を愛する者があなたを喜び祝いますように」。祈りが聞き遂げられとことを確信し、神への讃美で結ばれる。「喜び祝い、喜び歌い、喜び誇る」というものである。
13節「主よ。あなたは正しき者を祝福し御旨の盾で守って下さいます」。新改訳では「大盾で囲むように愛で彼らは囲まれますように」となっている。

朝毎に新たな信仰の生け贄を献げて祈る者として頂きたい。

床の上で心に語り、そして鎮まれ

2020-01-25 | Weblog
詩4篇 
 
 「わが義の神よ、呼び掛けに答えてください。あなたは私を苦しみから解き放ってくださいました。私を憐れみ、祈りを聞いてください」(聖書協会共同訳2節)

 本詩も苦しみの中からの祈りである。人称が2節「私」、3~6節「人の子ら」。7節「私たち」、8~9節「私」に変わっている。先ず義なる神が苦難から解放し守ってくださるようにと祈る。「解き放ってくださる。口語訳は「くつろがせ」で「夕の祈り」といわれることから、寝床で祈る状況を伺わせて面白い。
 3節「人の子らよ、わが栄光の主をいつまで辱めるのか。空しいものを愛し、偽りを求めて」。苦しめている敵に悔い改めを求める
4節「あなた方は知るがよい。主は忠実な人を選び、呼びかけを聞いてくださることを知れ」。主から聖別されているので、深い配慮を受け、祈りにいつも応えてくださると確信する。
 5節「怒りに震えよ、しかし罪を犯すな。床に上で心に語り、そして鎮まれ」。これはエフェソ4章26節「怒ることがあっても罪を犯してはなりません」とある通りである。
6節「義の生け贄を献げ、主に信頼せよ」。共同訳では「相応しい献げ物」となっていた。これは「砕かれた霊、砕かれ悔いる心」(詩51篇19節)である。
 7節「多くの者は言う。『誰が私たちに恵みを示してくれるのか。主よ、御顔の光を、私たちに昇らせてください』と」。ここから主なる神への祈りとなる。前半は多くの者が良いことを見せてくれないのですかと問う。しかしこれに対して後半は御顔の光をわたしたちの上に照らしてくださいと願う。
8節「あなたは私の心に穀物と新しいぶどう酒の豊かな実りに勝る喜びを与えて下さいました」。人々は多くの麦束と葡萄の実りの収穫を喜ぶが、私の喜びはそれに比べようもない、神の御顔を仰ぎ見、赦しの喜びを賜ることだと祈るのである。
9節「平安のうちに、私は身を横たえ、眠ります。主よ、あなただけが、私を安らか住まわせてくださいます」。私の手元に色々な詩編の翻訳があるが、その中で岩波訳「平安に、臥すととぐ私は眠る、まことにあなた(ヤハウェ)だけが安らかに私を住ませて下さる」。安眠は横になるとすぐに眠ることであると表している。「あなただけが」(レブァダッド)は「独り」で「主」と「わたし」の双方に関わる副詞で、直訳は「あなたと私と一緒に」となる。安眠の秘訣はここにある。ここは3篇6節と結びつき、主から安眠が与えられる幸いである。ダビデはアブサロムの謀反で眠れない夜を幾度も過ごしたと思う。3篇に引用した玉木愛子さんを想う。

身を横たえて眠り、目覚めます

2020-01-24 | Weblog
詩3篇 

  6節「身を横たえて眠り、目覚めます。主が私を支えておられるから」(聖書協会共同訳)

 1節小見出し「賛歌、ダビデの詩、ダビデが息子アブシャロムから逃れたときに」。本詩は6篇まで一連の詩で、朝の詩に始まり、夕の詩(4篇)、夜の詩(5篇)、夜半の詩(6篇)となる。一節の表題のようにダビデがわが子アブサムの反逆を避けて逃走中に作った詩であるが必ずしも内容は一致しない(サムエル記下15章30節以下)
 2節「主よ、私の苦しみの何と多いことでしょう。多くの者が私に立ち向かい、多くの者が私の魂に言っています『あの者に神の救いなどない』と。」不信と反対の敵対者に囲まれ、神の救いなどないと侮られていると訴えている(3節9。この局面を打開させる鍵は「それでも主よ」と呼び掛ける。口語訳「しかし主よ」英訳はBut You O Lord、岩波訳がよい。「しかしあなたこそ、ヤハウエよ」。あなたはわたしの盾、わたしの盾、わたしの栄え、あなたに向かって叫べば応えてくださる(4~5節)。「~盾」(創世記15章1節、詩18編2節。「私の頭を起こす方」。名誉を回復してくださる方(27篇6節、110篇7節)と祈る.祈りこそ苦境を打開してくださる唯一の手段である。
 6節「私は身を横たえて眠り、目覚めます。主が私を支えておられるから」。今いる所は「聖所」である(4篇9節see)。朝毎に感謝の祈りが心に湧き上がってくる状況は密室の祈りに通じる。それは「私は決して恐れません、私を取り囲む幾千万もの民を。主よ立ち上がってください。わが神よ、私をお救いください」(7-8節)。これは2~3節と相対している。列王記下6章15~17節にあるエリシャの物語を連想する。エリシャの僕が取り囲まれた敵軍を恐れた時、エリシャは彼の目が開かれる様にと祈り、更に多くの天軍に囲まれて守られていることを知り、恐れが取り除かれた記述がある。「あなたはすべての敵の顎を打ち、悪しき者の歯を砕かれる」8節後半。「歯を打ち砕く」とは、猛獣が顎と歯でかみ砕かれる、処罰の象徴行為である。主の支えの御手を祈り信じて床に伏す時に、夜の間に「主が立ち上がってくださる」とは何と愉快なことであろう。ここで示されるのはイザヤ書30章15節である。「主なる神、イスラエルの聖なる方はこう言われる「立ち帰って落ち着いていれば救われる。静かにして信頼していることこそあなた方の力がある」。
 そこで確信することは何か。直訳すれば「救いは主のもの。あなたの民の上に祝福を」9節。
朝の目覚めについての忘れられない出来事を示す「例話」を余談であるが、ここに記しておきたい。先ず近代の日常会話だが、イスラエルの家庭で朝の目覚めの挨拶を、幼児のベッドに母親が覗き込んで「ペレ!」と静かに声かけをするという。「驚いた!」という意味だが、真偽のほどはわからない。グッモーニング!よりはるかによいと思う。
今一つは、玉木愛子著「深夜の祈り」(句集)「大浜書店1954年出版」にある一句です。彼女はハンセン氏病に全身その病を負いながら生涯を送り、俳句を詠み素晴らしい作品を残した方です。詳細は省きますが、書名となったのは「明け易し真夜の祈りと思ひしに」という句です。政池 仁が解説していますが、彼女があれを祈りこれを祈っている間に朝明けの風を頬に感じたということです。小島の一病舎で徹夜の祈りしたことに心響くものがありました。


畏れつつ、主に仕えよ

2020-01-23 | Weblog
詩2篇 「畏れつつ、主に仕えよ。震えつつ、喜び踊れ。」(聖書協会共同訳11節)
 
 1節「なぜ国々は騒ぎ立ち、諸国の民は空しいことをつぶやくのか」。これは1篇1、4~6節「悪しき者」への呼び掛けである。彼らは騒ぎ立ち、空しいことをつぶやき、主と、主が油注がれた者に何故逆らうのかと問い(2節)、彼らの枷を壊し、その縄を投げしてようと振舞うのか(3節)。「油を注がれた者」(マーシーアハ・メシア)は神の霊力を宿す者で王の即位の儀式で行われた(サムエル記上10章1節、列王記上1章39節)
 4節「天にいます方は笑う。わが主は彼らを嘲る」天の王座から見おろされる主なる神は、彼らの高慢さを冷笑し、憤りに任せて彼らをおののかせる(5節)「わたしこそ聖なるシオンの山で、この油を注いだ方を地上の王として即位させたのだ」と宣言されるのである(4~6節)。
 7節「私は主の掟を語り告げよう。主は私に言われた『あなたは私の子、私は今日、あなたを生んだ』」。ここで油注がれ王にすると告げられた方に主語が代わる。つまり王の即位宣言である。今日お前を私の子として誕生したと証言する。王であり神の子であるメシアは地上の支配と権威を神に求めることになる(8節)。王の手にある杖デ、敵対する地上の王達を撃つのである(9節)
 10節「王たちよ、今こそ悟れ。地上の裁き人らよ、諭しを受けよ」ここで諸々の王たちは悔い改め謙虚になって、神から油注がれた眞の王から諭しを受け、畏れ敬って仕えよと主なる神が勧告する。
 11節「畏れつつ、主に仕えよ。震えつつ、喜び踊れ。子に口づけせよ~」。口語訳では「おののきをもって、その足に口つけせよ」となっている。これはヘブライ語バル(the Son)をアラム語ブレゲル(the foot in)として表したのである。後者の方が絶対的な恭順を表す行為で一考してよいだろう(ルカ福音書7章39節)。
 「畏れつつ」とか「主の怒り」は1篇5、6節が想定されている。
 「幸いな者、すべて王のもとに逃れる人」は1篇1節「幸いな者」締めくくる言葉となっている。
 イスラエル王の即位式に歌われた本詩であるが、これをメシア(キリスト)預言の詩としてキリスト教会では読まれている。その根拠は1~2節が使徒言行録4章25~26節に、7節がマタイ福音書3章17節、使徒言行録13章33節、ヘブライ人への手紙1章5節に引用されていることから明らかである。


 教えを昼も夜も口ずさむ人

2020-01-22 | Weblog

詩1篇 +「幸いな者、悪しき者の謀に歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人」(聖書協会共同訳 1節)。

箴言は人と人の横糸、詩編は神と人の横糸で織りなす人生模様となぞらえることが出来る。詩編には讃美、祈り、感謝、嘆き、禱告、悔い改めがある。本詩は2篇と一つに結ばれた詩と考えられる。「幸い」で始まり「幸い」(2篇12節)で結ばれている。内容は律法(1篇)と予言(2篇)で、旧約の二大命題となっている。ヘブライ語の語順は「幸いだ!その人は」(アシュレーハイーシュ ).「幸いだ!歩まない」(アシュル ロー ハラフ)で詩編冒頭に相応しいことばである。先ず消極的態度と行動が示される。先ず神に逆らう者らの計画に組みしない、一緒に歩かない、傲慢な者と同席しないのである。神の働き(共同体)の圏外に出て行くことをしないのである。これはヨブ記で扱われたテーマである。
2節「主の教えを喜びとし、その教えを昼も夜も唱える人」。「しかしむしろ」という接続語がここにあり、1節とは対照的で積極的な表現で歌われる。神の支配の中で身を置いて生きることである。昼に夜に主の諭しを口ずさむ(イェフゲー)のである。これは「低唱する、黙想(瞑想 メディタチオン)」と同じである。詩63篇7節を参照。これは牛や羊が餌を反芻するのと同じである。ライオンが獲物を前にして弄んでいる情景を描いているようでもある。味わうと密より甘いのである(119篇103節)。
3節「その人は流れの畔に植えられた木のよう。時に適って実を結び、葉も枯れることがない。その行いはすべて栄える」。この生活は習慣となり身につく。川のほとりに植えられた木が地下水から絶えず水を供給し生き生きと成長し実を結ぶのと同じである。神が善しとされる時、祝福と繁栄の日々が与えられる。それには忍耐と待望の日々を要する。
4節「悪しき者は違う。風が吹き払うもみ殻のよう。」ここでは2~3節と対照的な結果となる。脱穀の有様は、神の審判として取り上げられる(ルカ3章17節)。正しい者の集いとはイスラエル信仰共同体で、そこから閉め出される(5節)。1節に示されている者らこそ、この信仰共同体に集うのである。ここで両者に対する明らかな峻別が告げられている。
本詩には読者の前に「生命と死」(申命記30章19節)を置いている。そして生命へと導く道標として詩編全体を性格づける役割をも果たしているといえよう。