ミカ4章
3節「主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(新共同訳)。
1節「終わりの日に主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。もろもろの民は大河のようにそこに向かい」。小見出し『終わりの日の約束』。1~3節はイザヤ書2章1~4節と同じ預言である。新しい国の到来を告げる終末預言である。シオンの丘エルサレムに諸国の民が、主の教えを聞こうと集まって来る(2節)。
3節「主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」。正義と慈しみ公平を持たれる主なる神は民の争いを沈め、御力をも持って治める。民はもはや戦うことを止めて、剣は大地を耕す鋤に打ち直し、槍を鎌に作りかえる。日本も十五年戦争が終結し、戦後の露天に兵士たちが戦地から持ち帰った飯盒や衣服などが並べられ日常品として売られていた。国連本部のロビーの壁画にこの聖句後半が刻まれている。
4節「人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座り、脅かすものは何もないと、万軍の主の口が語られた」。神の民の結集である。外敵に脅かされることがないので、ぶどうや無花果の木の下で平和に過ごす、と主は言われるのである。そして人々はそれぞれの言葉で主の御名を呼んで歩むことになる(5節)。「いちじくの木の下」は平和の象徴として表現されることがある(ヨハネ福音書1章48~49節see)。
6節「その日が来れば、と主は言われる。わたしは足の萎えた者を集め、追いやられた者を呼び寄せる。わたしは彼らを災いに遭わせた」。終わりの日が来ると、主は足の萎えた弱者や、貧しく追いやられた者を集めて、癒しと安心とを与えられるという(7節)。娘エルサレムの王権が再び返って来る(8節)。
9節「今、なぜお前は泣き叫ぶのか。王はお前の中から絶たれ、参議たちも滅び去ったのか。お前は子を産む女のように、陣痛に取りつかれているのか」。神の御計画が示される。今、娘シオンは泣き叫んでいるが、それは出産前の陣痛と同じである。胎内の子が出てくる時と同じ状態だ。だが、そこで救いが来て苦しみは消え去る(10節)。これはイスラエルが捕囚の民となり苦悩に陥るがやがて解放される預言(二百年後)としているようだ。
12節「だが、彼らは主の思いを知らず、その謀を悟らない。主が彼らを麦束のように、打ち場に集められたことを」。人々は敵対して集まり、イスラエルの苦悩(捕囚)を傍観しているが、神のご計画は、彼らを集めて、麦束を脱穀するのと同様の苦しみに合わせる。イスラエルは脱穀機になる(13節)。
14節「今、身を裂いて悲しめ、戦うべき娘シオンよ。敵は我々を包囲した。彼らはイスラエルを治める者の頬を杖で打つ」。今一度9~10節にある娘シオンの苦悩に言及している。口語訳、新改訳は5章1節になっている。
娘シオンへの呼びかけで、突然苦痛が襲来する比喩として「子を産む女の陣痛」(10節)を語っているが、これは終末の日の約束である(2節)。ヨハネ福音書16章21節を読むと、これを主イエスも語っている。
3節「主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(新共同訳)。
1節「終わりの日に主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。もろもろの民は大河のようにそこに向かい」。小見出し『終わりの日の約束』。1~3節はイザヤ書2章1~4節と同じ預言である。新しい国の到来を告げる終末預言である。シオンの丘エルサレムに諸国の民が、主の教えを聞こうと集まって来る(2節)。
3節「主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」。正義と慈しみ公平を持たれる主なる神は民の争いを沈め、御力をも持って治める。民はもはや戦うことを止めて、剣は大地を耕す鋤に打ち直し、槍を鎌に作りかえる。日本も十五年戦争が終結し、戦後の露天に兵士たちが戦地から持ち帰った飯盒や衣服などが並べられ日常品として売られていた。国連本部のロビーの壁画にこの聖句後半が刻まれている。
4節「人はそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下に座り、脅かすものは何もないと、万軍の主の口が語られた」。神の民の結集である。外敵に脅かされることがないので、ぶどうや無花果の木の下で平和に過ごす、と主は言われるのである。そして人々はそれぞれの言葉で主の御名を呼んで歩むことになる(5節)。「いちじくの木の下」は平和の象徴として表現されることがある(ヨハネ福音書1章48~49節see)。
6節「その日が来れば、と主は言われる。わたしは足の萎えた者を集め、追いやられた者を呼び寄せる。わたしは彼らを災いに遭わせた」。終わりの日が来ると、主は足の萎えた弱者や、貧しく追いやられた者を集めて、癒しと安心とを与えられるという(7節)。娘エルサレムの王権が再び返って来る(8節)。
9節「今、なぜお前は泣き叫ぶのか。王はお前の中から絶たれ、参議たちも滅び去ったのか。お前は子を産む女のように、陣痛に取りつかれているのか」。神の御計画が示される。今、娘シオンは泣き叫んでいるが、それは出産前の陣痛と同じである。胎内の子が出てくる時と同じ状態だ。だが、そこで救いが来て苦しみは消え去る(10節)。これはイスラエルが捕囚の民となり苦悩に陥るがやがて解放される預言(二百年後)としているようだ。
12節「だが、彼らは主の思いを知らず、その謀を悟らない。主が彼らを麦束のように、打ち場に集められたことを」。人々は敵対して集まり、イスラエルの苦悩(捕囚)を傍観しているが、神のご計画は、彼らを集めて、麦束を脱穀するのと同様の苦しみに合わせる。イスラエルは脱穀機になる(13節)。
14節「今、身を裂いて悲しめ、戦うべき娘シオンよ。敵は我々を包囲した。彼らはイスラエルを治める者の頬を杖で打つ」。今一度9~10節にある娘シオンの苦悩に言及している。口語訳、新改訳は5章1節になっている。
娘シオンへの呼びかけで、突然苦痛が襲来する比喩として「子を産む女の陣痛」(10節)を語っているが、これは終末の日の約束である(2節)。ヨハネ福音書16章21節を読むと、これを主イエスも語っている。