ゼカリヤ6章
12節「万軍の主はこう言われる。見よ、これが『若枝』という名の人である。その足もとから若枝が萌えいでる。彼は主の神殿を建て直す」。
1節「わたしが再び目を留めて見ると、四両の戦車が二つの山の間から出て来た。その山は青銅の山であった」。小見出し『第八の幻』。その四頭の戦車で、第一は赤毛、第二は黒、第三は白、第四はまだらの強い色それぞれ数頭いた(2~3節)。
4節「わたしは言葉をついで、わたしに語りかけた御使いに、『主よ、これは何ですか』と尋ねると」この問いに御使いは「これは天の四方に向かう風で、全地の主の御前に立った後に出て行くものである」と答えた(5節)。更に尋ねると「黒い馬は北に向かい、白い馬は西に向かい、まだらの馬は南の国に向って行く」と言われた(6節)。強い馬も出てきて今にも飛び出して地上を行き巡ろうとしていたところ、御使いは地上を行き巡れと命じた(7節)。
8節「彼はわたしに叫びながら言った。『よく見るがよい。北の国に向かって出て行ったものが、わが霊を北の国にとどまらせた』」。四頭立ての軍馬に象徴される風=霊が四方に行き巡る幻は、神の審判が全地に及ぶことを示し、最後は霊が北の国バビロンに留まり、神の最後の審判が下ることを表わしている。
9節「主の言葉がわたしに臨んだ」。小見出し『戴冠の幻』。
10節「帰還した捕囚の中から、ヘルダイ、トビヤ、エダヤの家族から、贈り物を受け取りなさい。あなたはその日のうちに、ツェファンヤの子ヨシヤの家に入りなさい。彼らはバビロンから帰ったばかりである」。そして彼らは銀と金とで冠(複数)をつくることを命じられる。その一つを大祭司ヨシュアの頭に載せて宣言するのである(11節)。
12節「万軍の主はこう言われる。見よ、これが『若枝』という名の人である。その足もとから若枝が萌えいでる。彼は主の神殿を建て直す」。続いて
13節「彼こそ主の神殿を建て直し、威光をまとい、王座に座して治める。その王座の傍らに祭司がいて、平和の計画が二人の間に生ずる」。これは大祭司ヨシュアに向かって宣言している言葉であるが、「『若枝』という名の人が王座に座す」ということから、エルサレム神殿再建に関わったゼルバベルであるという解釈がある。4章からその可能性を引き出すことが出来る。その場合、王座の傍らにいる祭司がヨシュアとなり、二人に戴冠式がなされることとなるが、その歴史的根拠はない。
『若枝』(ナーツァー)はイザヤ11章1節にあるように、メシア的存在を示唆する言葉である。ここでは新しい神殿建設と平和の王が到来し王座に着くという終末預言とみるべきであろう。ナーツァーは「ナザレ人」と語感が似ている。主イエスは三十年ナザレで生活し、ナザレの人と呼ばれた(マタイ福音書2章23節)。初代キリスト教会では、主イエスを信じる者を「ナザレ人の分派」といった(使徒言行録24章5節)。
この主イエスこそ若枝(ナーツァー)という名の人、来るべき大祭司で、王なるメシアであると告げているのではないだろうか。
12節「万軍の主はこう言われる。見よ、これが『若枝』という名の人である。その足もとから若枝が萌えいでる。彼は主の神殿を建て直す」。
1節「わたしが再び目を留めて見ると、四両の戦車が二つの山の間から出て来た。その山は青銅の山であった」。小見出し『第八の幻』。その四頭の戦車で、第一は赤毛、第二は黒、第三は白、第四はまだらの強い色それぞれ数頭いた(2~3節)。
4節「わたしは言葉をついで、わたしに語りかけた御使いに、『主よ、これは何ですか』と尋ねると」この問いに御使いは「これは天の四方に向かう風で、全地の主の御前に立った後に出て行くものである」と答えた(5節)。更に尋ねると「黒い馬は北に向かい、白い馬は西に向かい、まだらの馬は南の国に向って行く」と言われた(6節)。強い馬も出てきて今にも飛び出して地上を行き巡ろうとしていたところ、御使いは地上を行き巡れと命じた(7節)。
8節「彼はわたしに叫びながら言った。『よく見るがよい。北の国に向かって出て行ったものが、わが霊を北の国にとどまらせた』」。四頭立ての軍馬に象徴される風=霊が四方に行き巡る幻は、神の審判が全地に及ぶことを示し、最後は霊が北の国バビロンに留まり、神の最後の審判が下ることを表わしている。
9節「主の言葉がわたしに臨んだ」。小見出し『戴冠の幻』。
10節「帰還した捕囚の中から、ヘルダイ、トビヤ、エダヤの家族から、贈り物を受け取りなさい。あなたはその日のうちに、ツェファンヤの子ヨシヤの家に入りなさい。彼らはバビロンから帰ったばかりである」。そして彼らは銀と金とで冠(複数)をつくることを命じられる。その一つを大祭司ヨシュアの頭に載せて宣言するのである(11節)。
12節「万軍の主はこう言われる。見よ、これが『若枝』という名の人である。その足もとから若枝が萌えいでる。彼は主の神殿を建て直す」。続いて
13節「彼こそ主の神殿を建て直し、威光をまとい、王座に座して治める。その王座の傍らに祭司がいて、平和の計画が二人の間に生ずる」。これは大祭司ヨシュアに向かって宣言している言葉であるが、「『若枝』という名の人が王座に座す」ということから、エルサレム神殿再建に関わったゼルバベルであるという解釈がある。4章からその可能性を引き出すことが出来る。その場合、王座の傍らにいる祭司がヨシュアとなり、二人に戴冠式がなされることとなるが、その歴史的根拠はない。
『若枝』(ナーツァー)はイザヤ11章1節にあるように、メシア的存在を示唆する言葉である。ここでは新しい神殿建設と平和の王が到来し王座に着くという終末預言とみるべきであろう。ナーツァーは「ナザレ人」と語感が似ている。主イエスは三十年ナザレで生活し、ナザレの人と呼ばれた(マタイ福音書2章23節)。初代キリスト教会では、主イエスを信じる者を「ナザレ人の分派」といった(使徒言行録24章5節)。
この主イエスこそ若枝(ナーツァー)という名の人、来るべき大祭司で、王なるメシアであると告げているのではないだろうか。