嬉しいって読む漢字は『僖』『嬉』って2つだけなんだと聴いたことがあって。へー、人か女だけなんだ、嬉々とすることを体現できるのは。
と、女を穢れとされる性に生まれたわたしは。
女としてこの世に生まれ、女として享受できる、ありとあらゆる嬉々とした瞬間を、『嬉々』に贈りたいと。
そんな想いで、嬉々と名前をつけた。
そーして、『犬に名前をつけた日』
嬉々は『3番』からわたしの『娘』になった。
なんてことを思い出しながら、『犬に名前をつける日』を観ていたら、理不尽な場面よりもワンコたちの幸せそうな笑顔に泣けて泣けて。現実をしっかり知ること、見ることの大切さを改めて実感した本日。。。
シネスイッチ銀座に到着したば。前のめりすぎたのか………一人しか御客さんがおらずドキドキしましたが。
無事に皆さんにお会い出来て、楽しい時間を過ごしてきましたー♪
(撮影:Pママさん)
観てみたい、けど。独りで行ってどーんと重たいのも嫌だなーと思ってたいたところに。お声かけくださり、本当にありがとうございました(^-^)
バランスの良い映画といったら変だけれど、現実がしっかりと描かれており。決して涙を誘うなんて狙いもなく。
犬や猫を飼っていてもいなくても、自然災害の犠牲になってる現実、悪徳ブリーダーや人気犬種を産み出す為の不自然な交配…から、棄てられる現実、その矛盾に身体を張って日々奔走している方々がいること。
を、知る必要はあると思う。
ごく最近、ある坊主と犬の七五三の話から。四つ足=畜生道に生きるものの祈願はしない、ときっぱり言われ。
なんなら、自分ですればいいじゃんと返されたので。
は?毎日してるし。←一応、尼ちゃんよワタシは浄土真宗だから御念仏はもちろんだけど、御経も聴かせている。次は人間に生まれて、来世でも私をみつけてね。なんて。
で、なんで毎日かって。諸行無常、彼女と居る今って今は、今しかなくて。
お互いの明日なんて、命の保証はないからこそ。今、心からあふれでてくる御念仏を申しているのだけれども。
そこでね、『割りきれてるならいーんだ』って言われたんだよね。
果たして、命は割りきることができるのか???ワンコを大切な家族だと思って愛してる人は、そんな刹那的な生き方しないと思うし。
ここで言う、割りきるってことは。ワタシにとって、自分の両親や子どもや親しい人たちの死を割り切ってるんだって事と同意語なんだけど。←わたしは、犬に向けた言葉でなく全ての生に向けたことだと感じた
きっと、この人には解らないだろうな。解ってたら言えないよねー、そんなこと。
ホスピスや緩和やら、死に近い所にいて法を説いてるその法って、ただの袈裟功徳ぢゃないんっすか?
とは言わなかったけど(-_-)
御宅にペットロスの心配なんてされたかないんだよ、ばーろー。とも言わなかったけど(-_-)
大切な命が、この世から消えた時。悲しみや喪失感を、割りきれてるんだってあんまりじゃーないか???
「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょう しつうぶっしょう)」
一切の生きとし生けるもの、植物や動物だけでなく、山や川や草木も、国土や環境、世界も、皆ことごとく佛になる本質をもっているっていう佛教の教えのね。
私たちが、日々、目に触れるどんなものも、すべて本質的には佛でないものなんてありえないのよ。
ワタシ。日頃から。犬将軍とか、綱吉っていわれるけど。
生類憐れみの令ってさ、根本的には慈悲を尊ぶ法令で、捨て子の禁止とか弱き者を護るためのものなんだよね。
度を越した、悪法なんて言われてるけれど。
日本の文化って、昔から子どもを大事にしてきてないのを、結構みんな知らなくて。
例えば。間引きや、人身売買とかね。子どもの人権=弱者の人権って無視され続けてきたんだよね。
なんとなく、この感覚が動物愛護にも関係してるような気がして。自分の言いなりになる(なると勘違いしてる)弱者は、自分のものじゃないから!
あくまでも、感情を持った別人格で。
映画の中で。保護された犬が、元の飼い主と出会えた時、嬉しさの中にそれまでの嫌な記憶が無くなるって場面ににね。
仕事柄、児童虐待にあった子どもと接してして…。絶対、親の事を悪く言わないの。悪いのは親にいいこだって言われない自分が悪いって言うんだよね。
もしかしたら、棄てられた犬たちは。人間の勝手な行動にね、自分が悪い子だったから棄てられたんだって思ってるんじゃないのかな?
とかとか………。
色んな事を考えた映画だったなー。
名前をつけた以上、幸せにするってことは当たり前で。その究極は、最期を看取ることだと思ってるのね。
名前って、とーっても大切で!素敵な名前、呼ばれて嬉しい名前をつけると、その子は呼ばれただけで幸せになれるんだって。
だからこそ、最期まで愛しい子の名前を呼び続けるぞー!って思ったのだった。
そんなそんな、素敵な時間を共有してくださってありがとうございました♪