これは、オッデッセイアなのだろう。
旅路の果ての果て。
しかし、最初に出現する”ヤチマ”は確かにポリスの市民であるが
人間=生物由来の知性ではない。ここがとても引っかかる。
そう言う意味では最初のヤチマが自我を獲得するに至る部分は重要だし
この小説の中で一番面白いところかも知れない。
ただ、私にとって肉体を持たない知性は自我があると言えるのか?という
疑問に答えることが出来ない。感覚的にはNOなのだ。
トランスミューターを追いかけて行く所などその発想は多義にわたり
クラクラしてしまう。ポアンカレ曲面と言われてもちょっと解らない。
確かにこの私のいる宇宙は3次元+1次元だが5だとか6と言われても
理解の範疇を超えている。
なにぶんに興奮したのはワンの絨毯である。
先にも書いたが、この構造体がある意味でのコンピュータである。
そして、その中ではポリスのようにプログラムが走っているだけだと。
そう考えると、オデッセイアとして旅した結果やはり元に戻るわけだ。
途中で、千にも作られたクローン達が最終的に融合するという選択を
したり、しなかったりが面白い。
そのためにある苦悩。
オーランドがヤドカリとコンタクトをとるために自分の5次元変種クローンを
作り出し、それがまた変異していき、それらを融合すると言う場面が好き。
肉体人であったオーランドは合体を望む。これは肉体人であるからこそ。
私にはそう感じる。
しかし、クローン達は望まない。すでに意識が”オーランド”とは違っているから。
地球に残っていたオーランドも自殺してしまう。これはやはり肉体人だからだろう。
分離して違った経験をしたらもうすでに違う人格であるということを
きちんと示唆している。
となると、肉体から電気信号へ移転したばあい、やはり似てはいるけれど
同じ自我ではないと言うことだろう。
最後にヤチマが鉱山へ向かう。私にはとても不思議な感覚だ。
数学はその知の限界を示している。しかしヤチマはその数学の中に
閉じこもろうと言うことなのだろうか。
それとも、数学こそは世界なのだろうか。
イーガンにとって数学こそは世界だと思う。
ただ、私にとっては数学はやはり世界を記述する手段でしかない。
旅路の果ての果て。
しかし、最初に出現する”ヤチマ”は確かにポリスの市民であるが
人間=生物由来の知性ではない。ここがとても引っかかる。
そう言う意味では最初のヤチマが自我を獲得するに至る部分は重要だし
この小説の中で一番面白いところかも知れない。
ただ、私にとって肉体を持たない知性は自我があると言えるのか?という
疑問に答えることが出来ない。感覚的にはNOなのだ。
トランスミューターを追いかけて行く所などその発想は多義にわたり
クラクラしてしまう。ポアンカレ曲面と言われてもちょっと解らない。
確かにこの私のいる宇宙は3次元+1次元だが5だとか6と言われても
理解の範疇を超えている。
なにぶんに興奮したのはワンの絨毯である。
先にも書いたが、この構造体がある意味でのコンピュータである。
そして、その中ではポリスのようにプログラムが走っているだけだと。
そう考えると、オデッセイアとして旅した結果やはり元に戻るわけだ。
途中で、千にも作られたクローン達が最終的に融合するという選択を
したり、しなかったりが面白い。
そのためにある苦悩。
オーランドがヤドカリとコンタクトをとるために自分の5次元変種クローンを
作り出し、それがまた変異していき、それらを融合すると言う場面が好き。
肉体人であったオーランドは合体を望む。これは肉体人であるからこそ。
私にはそう感じる。
しかし、クローン達は望まない。すでに意識が”オーランド”とは違っているから。
地球に残っていたオーランドも自殺してしまう。これはやはり肉体人だからだろう。
分離して違った経験をしたらもうすでに違う人格であるということを
きちんと示唆している。
となると、肉体から電気信号へ移転したばあい、やはり似てはいるけれど
同じ自我ではないと言うことだろう。
最後にヤチマが鉱山へ向かう。私にはとても不思議な感覚だ。
数学はその知の限界を示している。しかしヤチマはその数学の中に
閉じこもろうと言うことなのだろうか。
それとも、数学こそは世界なのだろうか。
イーガンにとって数学こそは世界だと思う。
ただ、私にとっては数学はやはり世界を記述する手段でしかない。
私もイーガンは最近読み始めました。
「愛撫」でものすごい衝撃をうけました。
私もリンドクイスト主義者になりたい。
「ディアスポラ」もなかなかイメージが結像しなくて
苦労しました。
脳をコンピュータに移植するというのはどういう事だろう?
この疑問にイーガンはある程度答えていると思います。
>ひきこもり
そうですね、なっちゃうかも。
そうなったら別の価値ソフトを走らせればいいのかな?
うう、お二人とも難しいこと考えてるんですね~。私にはチトついて行けないかも。私は自分の知らない未知の世界を見せてくれれば、それでもう大満足、みたいなところがあります。その割りに想像力ないので、その未知の世界をイメージできなかったりして。
私がこの世界に入ったらしばらくはものすごく楽しいけど、そのうち飽きちゃって、どこかに引きこもるかもしれません。
イノシロウは、我々の感覚でいうと「出家した」という感じではないでしょうか(笑)
導入してしまい、虚無的になるところが好きです。
その価値ソフトは古代のミームであるという。
しかし、この感覚は肉体を持った私たちの感覚だと思うのです。
自我と外界とその接点である肉体が全部で精神を作っているという気がするので、イーガンのように、行動主義的に精神活動をシミュレートしたところに意識が存在するかというと、どうも疑問です。
あと、ラストの鉱山はほんとに不思議な結末ですね。
あとイノシロウの変節もちょっと魅力的な逸話でした。(もう忘れつつあるんですが^^;)