めるつばうのおもうこと

めるつはミーム機械としてばうを目指します。

救い/宗教/テッド・チャン

2005-11-29 12:33:09 | めるつばうのおもうこと
救い。来世の救い。これがずーーっと理解できなかった。
来世と言いながらも現世の延長線上にある、この来世の救いっていうやつ。
私はすごく嫌らしく感じていた。
宗教はその創始者のみが純粋な宗教であって以降は事業と同じである。
そう感じてしまう部分がある。すべてとは言わない。

広めていく方便として地獄とか天国という概念を導入するのはわかりやすいし
人間の原意識、ある意味ではユングの集合的無意識のようなものがあれば
なおさらイメージしやすいだろう。
けれど、免罪符と呼ばれるものはおかしいと思うし、信じたものだけが
天国へいけるという概念もおかしい。
ましてや現世でいかにその教団へ寄与したかで決まるのもおかしい。
現世での支払い状況が来世を決める。その為に戒律を守り教えを信じる。
なのに、経典に書かれていることは滅私である。矛盾だ。滅私をし奉仕する
ということはすでに自分だけが助かればよいという考えに他ならない。
だから、このあたりの考え方が嫌いだった。

金剛頂経を読み始めて、書いている内容は読み方によっては喜捨することで
得ることができるとも読める。
だがおそらくこれは表層的な文面をただ捉えただけの読み方となるだろう。
現在での私の理解では、そういった来世も、喜捨も含め欲望も何もかも
悟ると言うことも含め一切の自己を捨て去ることを要求している。
これならば理解できる。
そこで初めて世界の真の姿を感じることが出来る。いや感じることですら
ないのだろう。私にはその領域はわからない。

テッド・チャン
以前にも少し書きかけた。「地獄とは神の不在なり」
ここで奇跡を求めて集まる人たちは、まさに自分の欲望が叶えられる
事だけを望み奇跡の起きる場所を探し回り移動する。
病気の治癒やもろもろの欲望。神を見たいという欲望。
がしかし、その奇跡は目を奪ったり人を殺したりしてしまう。
この話は一見すると不条理のようだ。
違うのだ。神を知ることにより一切の欲望も奇跡も救済も求めずに
ただ神のみを求めるようになるということ。
この一事がすべてなのだ。
だからこその表題”地獄とは神の不在なり”
金剛頂経はこの求めることも捨て去ることを要求しているように感じる。

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