新型肺炎が、ついに蔓延期に入ってしまうのかも?
横浜市の新市庁舎完成に伴う「内覧会」が延期になりました。
内覧会は、3月28・29日ですから、
1か月先の催しを「延期(当初は中止)」にしました。
とにかく、横浜市主催・共催イベントは、すべて中止?
客船・ダイアモンドプリンセスの乗船客が下船したときを契機に、
このような対策をとるのは、
接触機会があれば感染がありうることを示しているのかもしれません。
まだ特効薬のない感染症に、昔の人はどう対応したのか?
調べてみました。
この事典は、昭和33年に横浜市立大学経済研究所が刊行したものです。
『伝染病院(万治病院)』
(初期)明治12(1879)年8月、県がコレラ予防のため
臨時予防費を下渡したので、吉田新田(現、南区南吉田町)に
横浜避病院として発足した。
開港から明治初期においては伝染病はコレラが多く、
主に居留地から発生した。
特に、19年には流行したので、常設の避病院となった。
14年には区民共有物となった建物は24年には、市の所管となった。
(万治病院時代)30年には横浜市伝染病院と呼称したのが、
33年には万治病院と改称、この頃になると
外国船の来航によってもたらされたコレラは少なくなった。
30年と41年に痘瘡患者を多く収容した以外は
腸チフスと赤痢患者によって主にベッドは埋められた。
38年には細菌検査室を新設してその機能を拡大した。
(滝頭移転後)大正11年には現在地(磯子区滝頭町)に移転、
関東大震災によって一部建物の被害があったが、
腸チフスの流行によって病室の拡張がせまられ、
昭和4年にはベッド数441となった。
同14年には近村合併によって、収容患者数は急増して、
開設以来最高を記録した(3,650人)。
戦争初期には主に赤痢患者が多かったが、
末期になると腸チフスが最高となった。
(戦後)戦後の衣食住の不足は、収容患者の病名を変えて
主に発疹チフス・ジフテリア・日本脳炎等であった。
その数は下降状態にあったが、27年頃より赤痢患者が第1位を占めると、
収容数は上昇し、伝染病が社会状態のバロメーターをなしている。
>>> つづく
見出し写真は、明治7年の横浜町会所。
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