阿久和川の源流は、相鉄線三ツ境駅南側・りそな銀行の下辺りといわれています。
そこへいくつかの流れが合わさって、柏尾川に流れ込み、
藤沢で境川に合流して、片瀬・江ノ島で相模湾にそそいでいます。
古地図(下図)で見ると「阿久和」の文字(赤い丸)が見え、
江戸時代、相模国鎌倉郡阿久和村があったことが分かります。
武相国境は分水嶺で、相模湾に入る川の流域が相模国です。
メタ坊の住んでいるところは「阿久和」の左上にある「宮沢」ですが、
お宮(神明社)の沢を流れる「和泉川」は、
地形の関係から、古地図(上図)の「上俣野」辺りで、
直接、境川に流れ込んでいます。
さて、三ツ境駅から阿久和川は暗渠になっていて、
長屋門プロムナードという名で、道が整備されています。
途中「まこと幼稚園」があります。
徳川吉宗時代、あの名奉行といわれた大岡忠相の血筋をひくという、
大岡さんが、幼稚園を経営しています。
当時は診療所も開業していて、
ご高齢でしたが、資産家にもかかわらず、温厚で、優しい女医先生でした。
メタ坊の子どもたちが小さかった頃、
よく面倒を見ていただき、
「土地の名士」といわれる人は、こういう人なんだと尊敬しました。
その関係からか、周辺には市営住宅がいろいろ建っています。
まこと幼稚園の後方にある市営三ツ境南住宅には、
富士山の見える小さな展望所があります。
ここから見える富士山と丹沢山地です。
こんな感じに見えます。
さて、この丘を登り切ると、
「長屋門公園」の裏手の入り口にたどり着きます。
そこには阿久和川の源流のひとつ(見出し写真)が整備されて残っています。
その小川の流れに沿っていくと、ため池があり、長屋門と旧宅が建っています。
大岡家長屋門(長屋門公園の正面入口)
旧宅(といっても、泉区の安西家旧宅を移築したもの)
「阿久和(あくわ)」という地名の由来は詳らかではありません。
「新編相模国風土記稿」に、
「江戸より行程十一里、永谷郷に属す、民戸百六十八」
「小名 神送塚 亀ヶ谷 八ッ塚 山王塚 鎌取谷 高塚 柳谷」とあります。
「横浜の町名」には、地名研究として、
新羅の古語で水を意味する「アカ」、
川の折れ曲がった様を意味する「アクワ」と説明があります。
阿久和村は、今の泉区新橋町から瀬谷区三ツ境にかけての地域で、
徳川家康が江戸入国後、
安藤治右衛門が知行し、新橋町にある「阿久和山観音寺」を開きました。
長屋門の手前に、北井家の大きな屋敷が建っています。
代々、安藤治右衛門の御用商人を務め、
明治のときには、製糸工場も経営していたそうです。
その北井家の菩提寺が「運上山観正寺」。
アシェンダ乗馬学校の隣接地にあり、観音寺末院のようです。
ちなみに、仏教用語で閼伽(あか)という言葉があり、
仏前などに供養される水のことをいうそうです。
本当に「阿久和」には、どんな意味があるんでしょう?
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