散歩の閑人:メタ坊っちゃまのYOASOBI?

若気の至りが過ぎてメタボでも、世遊びは辞められない。

60代のことばたち「源義経」

2022年03月19日 | ★集メタ坊屋敷ごみ

土橋 治重 著/成美堂出版・62ページ目
主従(源義経・伊勢三郎義盛)は下野国の室の八島のそばを通り、宇都宮の二荒山神社に参拝し、行方の原にさしかかった。この原は、安達ガ原ともいった。昔、陸奥守だった藤原実方が、弓の弦を空打ちさせながら通ると、はじめのうちは恐ろしくないが、だんだん恐ろしくなると歌に詠んだところである。気味のわるい原であった。ここを過ぎて、浅香の沼のあやめをながめ、《影さえ見せる浅香山》とか、《信夫の里の摺衣》などといわれている名所も通った。
*****
本の裏表紙には、
兄頼朝の挙兵に応じて源平合戦にはなばなしく登場した源義経は、源氏の総大将として、木曽義仲を討ち、平家を一の谷、屋島、壇浦に討って、鎌倉政権の樹立に大いに貢献した。しかし、そのおわりは、はかなく、かなしく、あたら31歳のいのちを、奥州衣河に散らした。本書は、悲劇の武将源義経の生涯を、「義経記」にもとづいて描き、日本人の心の奥底にひそむ義経像を浮き彫りにする。
と記述されています。
*****
頼朝の追討から逃れ、義経が奥州・衣川から蝦夷地に渡ったという「義経北行伝説(ここをクリック!)」や、同時期に突如としてモンゴルに現れたチンギスハンは義経ではないかという説まで発表されるほど「判官びいき」にはロマンを感じます。
義経記をもとに描かれる義経の物語には、何度も起請文を書くシーンが登場します。
「起請とは、神仏に呼びかけて、もし自己の言が偽りならば、神仏の罰を受くべきことを誓約することをいい、これを記した文書を起請文という。起請には確言的起請(内容にあることが、真言であることを確言すること)と、確約的起請(ある事をし、またはしないことを確約するもの)とがあった。この意味の起請は古くから行われていたが、これを記した文書を起請文と称したのは平安後期からである。起請の内容を記した部分を前書といい、神仏の罰を受くべき旨を記した部分を罰文または神文(しんもん)という。罰文としては、鎌倉時代の御成敗式目の末尾にある北条泰時(やすとき)らの連署起請文の「梵天(ぼんてん)・帝釈(たいしゃく)・四大天王・惣(そう)日本国中六十余州大小神祇(じんぎ)、特伊豆・筥根(はこね)両所権現(ごんげん)、三島大明神・八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)・天満(てんまん)大自在天神、部類眷属(けんぞく)神罰冥罰(みょうばつ)各可罷蒙者也、仍起請文如件」というのがその後の典型となった。起請文は初め白紙に書かれていたが、のちには寺社の発行する牛王(ごおう)と称する紙の裏に記すようになった。熊野の神使である烏(からす)の模様で「牛王宝印」の4文字を表現した熊野神社の牛王が知られている。起請文は中世では各種の場合に用いられ、ことに裁判の証拠方法上、主要な意味をもっていたが、江戸時代には形式化した。」[石井良助]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
壇ノ浦で平家一門を滅ぼした義経が平宗盛父子を引き連れて腰越に到着すると、頼朝は梶原景時の讒言で鎌倉入りを許しませんでした。讒言に嘘がないことを景時が起請文をもって出すと、それを知った義経も謀反の意志がないことを起請文で誓いますが、採用されたのは景時の起請文でした。
京都に引き返した義経に討手を出そうとするのを大江広元、畠山重忠のとりなしで頼朝は躊躇したものの、のちに安房・上総2国の恩賞を与える約束で、土佐坊昌俊を討手に差し向けます。
京都に入った土佐坊はすぐ知られるところとなり、義経のもとに上洛のあいさつに行かざるを得ず、窮した土佐坊は起請文を義経に提出します。
このとき、義経の前で熊野牛王の誓紙7枚に「討手に来たのではない」旨を書き、3枚は八幡宮、1枚は熊野、残り3枚をその場で焼いて灰にし、飲んで腹に納めます。
面白いのは、義経は安心して就寝する一方、土佐坊は飲んだ灰が消化して神仏の知られるところにならない前に事を済ませようと「堀川夜討ち」に向かうのでした。

>>>「100ページ目のことばたち」由来


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 春が来た! | トップ | ケーキから見える田舎暮らし »

コメントを投稿

★集メタ坊屋敷ごみ」カテゴリの最新記事