10月1日は、中華人民共和国の「国慶節(こっけいせつ)」だ。
1949年のその日、毛沢東主席が、北京の天安門広場において、中華人民共和国の建国を宣言したことに由来する。
そして、この日をはさんで大型連休が組まれ、国民こぞってゴールデンウィークを楽しむといわれている。
続いて、10月10日には、中華民国国慶日=「雙十節(そうじゅうせつ)」が行われる。
1911年のその日、湖北省武漢で勃発した武昌蜂起が、アジア初の共和制国家・中華民国成立の原動力となる辛亥革命のきっかけとなった事件であることに由来する。
そう、ここ横浜中華街には「2つの中国」が共存している。
もともと幕末の横浜開港により、関内と呼ばれる開港場の日本大通りから東側は、外国人居留地として発展してきた。
「歴史は繰り返しているわけではない、ただ似ているだけだ」の言葉にあるように、中国の巨大市場と潜在資源で利益を目論む「列強国」が、為替(金銀の交換)差益や非関税の旨みを活かすために、対中国(当時、清国)貿易の中継地として、日本を組み込んだ。
そして、買弁、船員や使用人として雇われた多くの中国人も一緒にやってきたことで、必然、その人たちを相手に商売・仲介する華僑も住み始めるようになる。
明治4年に日清修好条規を結び、居留地に清国領事館が開設されたことがきっかけで、チャイナタウンが形成されはじめたと推測できる。
辛亥革命により清朝が倒れて中華民国が建国された。
清国領事館の建物は、そのまま中華民国領事館として使用されていることから、横浜を活動の場として、相当数の中国人が活躍していたんだろう。
ある年代以上の人が横浜中華街を「南京町(なんきんまち)」と呼ぶのも、中華民国の首都が「南京(なんきん)」であることと、昭和7年に建国された満州国の首都・新京との呼び分けによるものと思われる。
辛亥革命は、清朝支配による君主制を廃し、共和制にすることを目的としたが、実体的には、満人の手から漢民族に権力を取り返そうということだった。
その立役者・孫文は、9年余日本に滞在していて、大半をこの中華街で潜伏生活を送っている。
中華民国樹立後、コミンテルンの主導で共産主義により国家を治めようとする中国共産党と、反共産主義の色彩を強める国民党との間で内戦がはじまる。
対日戦で国共との協力関係を築いたアメリカが、中国共産党を支援したことで力関係が崩れ、国民党政権は台湾へ本拠を移さざるをえなくなった。
これは、共産党の脅威を喧伝することで、アメリカ国内の共産主義者を一掃するためと、中国共産党をソ連の前衛とさせないために画策したという説がある。
そして、中華人民共和国の建国に至る。
現在、「国慶節」と「雙十節」という2つのお祭りが中華街で催されるのは、そういった事情からだ。
改革開放、社会主義市場経済政策で、大国となり、覇権主義に舵をきった中華人民共和国は、バブル経済のまっただ中。
日本に生まれ、日本に育って、日本語を当たり前のように話すことができる子どもたちに限って、「日本が好き」だという答えが返ってくる。
また、私の友人曰く「日本では私を必要とする人がいるけれど、国外に出た私たちを中国は必要としていない。だから、私はもう中国へは帰らない」という。
一人一人は故郷を思いながらも、国の事情で翻弄されるのは、どこの国民も同じ。
マスコミに煽動されて、同じ地域に住む人々を排除してはならない。
もっと日本を好きになり、世界中の人々とお互いの文化に接し、共感が得られたとしたら、この中華街から、第2、第3の孫文が現れるかもしれない。
それはそうと、このことで「国慶節」は、建国記念日のことだと知った。
そのお祝いで、長い休みになる訳だから、それを日本にあてはめなおした場合、ゴールデンウィークがそれにあたる。
つまり、2月11日の「建国記念の日」が真の祝い日ではなく、ゴールデンウィークの中心にある5月3日の「憲法記念日」が“日本の国慶節”に相当する日なのだということを知ることができる。
すると、5月1日の労働者の祭典・メーデーをなかなか祝日にしないのも、意図的に感じる。
今一度、平和憲法の意義を考えるときがやってきている。
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