待乳山聖天宮を出て、裏手の今戸橋を渡る。
渡るといっても、今戸橋の親柱が道路脇に残っているだけで、肝心の山谷堀も、今は公園のような遊歩道になっている。
あえて、山谷堀に沿って進み、浅草高校のところから今戸神社境内に入るという迂回コースもあるけれど、とりあえずオーソドックスに道なりに行くと、慶養禅寺や本龍寺などの寺に続いて、今戸神社の石鳥居の前に出る。
以前は、いずれの寺も門を固く閉ざし、観光客やハイカーの入山を許さない風があった。
それが、東京スカイツリー効果なのか、多くの通行人の興味をひいて、お賽銭でもいただければ超ウレシー的に、ずいぶんあからさまに門が開放されていることに気づかされた。
さて、えらく広い境内を持った神社だ。
社は南向きなのに、正面から来る参道がない。
関東大震災や空襲など数多焼失するたびに再建が繰り返されているうちに、今の姿になったと想像される。
拝殿に立つと、招き猫が異様に目に付き、何とはなしに荘厳さがなく、ある意味では、
「いっちょ、おがんじゃお~~~~かなぁ~~」
なんて、信心など毛ほどもない若者でも、拝礼作法なんて関係ねぇ、的な、いたってリーズナブルに近寄りやすい神社である。
拝殿すぐに鎮座する福禄寿にしても、実にデフォルメが効いて、マンガチックでさえある。
左三つ巴紋を表示した、神社の由来書きには、
前九年の役(1051-1062)に勝利し、引き揚げてきた源頼義・義家父子が今戸に至り、京都石清水八幡宮を勧請した。
ゆえに、もと今戸八幡宮と称していたが、昭和12年に今戸白山神社を合祀し、今戸神社と改称した。
八幡宮の祭神は應神天皇、白山神社の祭神は伊弉諾(いざなぎ)尊・伊弉冉(いざなみ)尊である。
それぞれ、武運長久、安産子育て、子孫繁栄、縁結びの神として崇敬をあつめている。
境内には、「今戸焼発祥之地」、「沖田総司終焉之地」の石碑が立つ。
今戸焼は、瓦や日用品の土器、土人形類など江戸を代表する焼き物として繁栄した。
神社では、特に土人形の招き猫を土地の伝承と組み合わせ、“招き猫発祥の地”と銘打ち、マスコットキャラクターとして大々的に展開する。
そのおかげ?で、500年の歴史を今に伝える今戸焼の工房が1軒だけ残っている。
招き猫の由来に、世田谷区豪徳寺を発祥とするものがある。
つまるところ、稲荷社の狐、弁天社の蛇とは異なり、招き猫は達磨と同じ、幸運をもたらす縁起物として存在価値があるということに、いろいろな場所で“発祥伝説”が生まれるのだろう。
落語に「今戸焼」という話があり、その中で、
芝居好きの女房が近所の男を人気役者に例えるので、せめて亭主も何かに似ていないかと無理強いすると、「福助」に似ているという。
人気役者に似ているといわれて有頂天になったが、「今戸焼のだよ!」という落ちがつく。
そう、よく呉服屋などで見かけた「福助」の置物も、今戸焼として有名だったことを示している。
新撰組の沖田総司がどこで亡くなったのかも諸説あるらしい。
墓は、港区六本木の専称寺にある。
幕府奥医師・松本良順の医学所で治療していたとされ、官軍の江戸入りに伴い、医学所の患者が今戸八幡にあった松本良順私邸に収容されたことで、沖田総司もその中に含まれていたと結論づけ、それを根拠としている。
ところで、境内には、びっくりするほどの絵馬が掲げられている。
そのいずれもが、良縁を求める言葉で埋め尽くされている。
恋愛成就のパワースポットとして、圧倒的な存在を誇り、神社には「縁結び会」という団体があり、着実な活動を続けている。
そのせいか、やたらと女性の姿を境内に見かける。
七福神めぐりもいいけれど、今戸神社の御利益は、ハンパじゃなさそうだ。
(大祓詞)
4> 今戸神社「福禄寿」ご朱印
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