『輪中の人々を救った宝暦治水工事』
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木曽三川の洪水から自らの命を犠牲にして、
食い止めた薩摩藩の話
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いつも高速道路名神で通過するあたり。
濃尾平野の西に揖斐川、長良川と木曽川の河口は複数の洲があり、
それを『輪中』として堤防つくり、住まい稲作を行っていた。
しかし、大雨が降るたび人が亡くなり、家や田が流された。
そこで宝暦3年(1753)に幕府は薩摩藩に治水工事を命じた。
工事の責任者は家老の平田靭負(ゆきえ)が任命され、
薩摩藩から1000人の武士と地元民が工事にあたった。
藩は参勤交代の経費負担の借金に加えて、
新たに40万両(100億円)が必要になった。
薩摩藩は最善を尽くした
『美濃の国の百姓は、我々薩摩の国にとっては、
縁もゆかりもないようにみえるが、考えてみれば同じ日本の国の人間、
いわば兄弟のようなもの。
その兄弟が長い間苦しんでいると聞くからには、
命をかけて助けるのが薩摩武士の本分ではござらぬか。』
幕府の無謀な命令ではあったが成し遂げた。
切腹してまで幕府に抗議するものも多数、
肝心の責任者平田も完成をみて、自刃と悲惨だった。
藩に莫大な資金を使わせ、甚大な犠牲者(藩士51人が切腹、32人が病死)を
だした責任をとった。
結果的に 怨は幕末の倒幕のエネルギーになった。
くだって維新後、新政府軍の代表として山縣有朋は、
反政府軍になってしまった西郷隆盛を打つことになる。
その尊敬する恩人を山縣は鹿児島の城山で、 自刃を迫る。
のち内閣総理大臣になった有朋は
西郷隆盛像完成を上野にて除幕し、
木曽三川堤防は鹿児島から取り寄せた松が完成時に植えられた堤。
その最.堤南端の碑、除幕も彼が行った。