美麻珈琲 ブログ

長野県大町市美麻にある美麻珈琲のブログ
自然豊かな中山高原からお届けする
日々の様子から、お店からのご案内など

美麻→三田・道中にて

2011-01-31 14:28:28 | インポート

美麻→三田・道中にて

美麻→三田・道中にて

美麻→三田・道中にて

美麻→三田・道中にて

『輪中の人々を救った宝暦治水工事』

★:*:☆★:*:☆★:*:★:*:

木曽三川の洪水から自らの命を犠牲にして、

食い止めた薩摩藩の話

★:*:☆★:*:☆★:*:★:*:

いつも高速道路名神で通過するあたり。

濃尾平野の西に揖斐川、長良川と木曽川の河口は複数の洲があり、

それを『輪中』として堤防つくり、住まい稲作を行っていた。

しかし、大雨が降るたび人が亡くなり、家や田が流された。

そこで宝暦3年(1753)に幕府は薩摩藩に治水工事を命じた。

工事の責任者は家老の平田靭負(ゆきえ)が任命され、

薩摩藩から1000人の武士と地元民が工事にあたった。

藩は参勤交代の経費負担の借金に加えて、

新たに40万両(100億円)が必要になった。

薩摩藩は最善を尽くした

『美濃の国の百姓は、我々薩摩の国にとっては、

縁もゆかりもないようにみえるが、考えてみれば同じ日本の国の人間、

いわば兄弟のようなもの。

その兄弟が長い間苦しんでいると聞くからには、

命をかけて助けるのが薩摩武士の本分ではござらぬか。』

幕府の無謀な命令ではあったが成し遂げた。

切腹してまで幕府に抗議するものも多数、

肝心の責任者平田も完成をみて、自刃と悲惨だった。

藩に莫大な資金を使わせ、甚大な犠牲者(藩士51人が切腹、32人が病死)を

だした責任をとった。

結果的に 怨は幕末の倒幕のエネルギーになった。

くだって維新後、新政府軍の代表として山縣有朋は、

反政府軍になってしまった西郷隆盛を打つことになる。

その尊敬する恩人を山縣は鹿児島の城山で、 自刃を迫る。

のち内閣総理大臣になった有朋は

西郷隆盛像完成を上野にて除幕し、

木曽三川堤防は鹿児島から取り寄せた松が完成時に植えられた堤。

その最.堤南端の碑、除幕も彼が行った。