徒然なるままに ~ Mikako Husselのブログ

ドイツ情報、ヨーロッパ旅行記、書評、その他「心にうつりゆくよしなし事」

オペラ:ドニツェッティ『ルチア・ディ・ランマーモール』~ケルンオペラ座にて

2016年06月19日 | 日記

昨日、6月18日、ケルンのメッセ会場の近くにできたオペラ座でドニツェッティのオペラ『ルチア・ディ・ランマーモール(Lucia di Lammermoor)』を見てきました。

『ルチア・ディ・ランマーモール』自体はイタリアのロマンチックオペラのプロトタイプと言うべきベルカント・オペラで、表題となっている主人公のルチアが若きアシュトン家当主・弟のエンリコによって無理に政略結婚させられた夫を刺殺し、永遠の愛を誓い合った恋人で家族の政敵であったレイヴンスウッド家の生き残りであるエドガルドとの結婚を言祝ぐ発狂アリアを歌うところでドラマの頂点に達し、夫を殺し発狂したルチアが自殺し、それを知った恋人エドガルドが絶望して自殺して終わる悲劇です。レイヴンスウッド家とアシュトン家と名前が英語なのは、このオペラの元になっている小説が「ランマ―モールの花嫁(The Bride of Lammermoor)」というウォルター・スコットの小説(1819)だからです。オペラ化に当たってファーストネームだけイタリアナイズされたそうです。1835年が初公演だったそうですが、ケルンのオペラ座では今年度が初演。原作の小説を読んでみるのもまた一興かもしれません。

ルチア役のOlesya Golonevaが父親の急死により出演不能で、代役のTatjana Larinaが出演しました。最初の方は声の伸びが悪く、弱々しい感じがしましたが、舞台の進行とともに調子が出てきたのか、弱々しい感じは目立たなくなっていきました。基本的にきれいなソプラノで素晴らしいコロラトゥーラを披露してくれましたが、きゃしゃな体型のせいなのか、声に迫力が足りない印象を受けました。

恋人のエドガルド役(Jeongki Cho)も殺される夫のアルトゥーロ役(Taejun Sun)も韓国人で、音楽監修もEunsun Kimという韓国人。そのせいか韓国人の観客も普段より多かったようです。Jeongki Choはケルンオペラ座ではお馴染のテノール歌手で、ちょっと腰砕けになりそうないい声なのですが、演技力の方は今一つ動きが硬くて、ところどころ台無しな感じなのが残念です。

姉ルチアの恋を引き裂き、自分のひいてはアシュトン家の将来のためにルチアと自分の友人であるアルトゥーロの結婚を決めてしまう弟エンリコ演ずるBoaz Daniel(バリトン)も悪くはなかったです。演技力はエドガルド役よりあったのではないかと思えます。思わず殴りたくなるほどの悪役でした。

ライモンド(神父)役のHenning von Schulmanが歌うバスもなかなか素敵でした。非常に背の高いスマートさはバス歌手としてはあまり有利な体型ではないのかも、とも思ってしまいましたが。【重低音】の【重】が足りない感じがしたのは、見た目からの錯覚なのか、実際に声に重みが足りなかったのか判断に迷うところです。

舞台設定はナチスが没収したというハウス・トゥーゲントハットをモデルにした大きな階段が特徴的な二階建ての家。エドガルドの属するレイヴンウッド家が所有していた邸宅をアシュトン家が没収し、そこに住んだことを踏まえたアナロジーだそうですが、そういうムリなアナロジーはなくてもいいと思いますし、実際ハウス・トゥーゲントハットを目にしたことがなければそれがアナロジーであることすら気付かれない、どちらかと言うと独りよがりな舞台演出のような気がします。でも舞台セット自体は階段をうまく使うことができていいと思いました。

これはちょっと。。。と残念に思ったのが、結婚式で集まる親戚一同の集団の動きですね。動きがばらばらで、コレオグラフィーが全然なってない。音楽と舞台全体の絵をぶち壊しにするような意味のない(と思われる)個別の動きが目障りでしょうがなかったのです。特に発狂シーンでのそれは本当に台無しでした。

あと、舞台では兄エンリコが友で妹の夫となったアルトゥーロを殴り殺してたようにしか見えなかったことが変でした。一緒に見ていた旦那もそう見ていたので、勘違いではなくそのような動きだったのでしょう。でもライモンドが歌う歌詞の方は「ルチアがアルトゥーロを殺してしまった」となっているので、余計に腑に落ちないいらだちが感じられました。そして、ルチアは血まみれで発狂アリアを歌うはずなのに、エンリコが殺したので彼女に返り血は当然なく、凄い違和感でした。でも、他の舞台写真では血まみれ演出があったので、私が見た回だけ(代役だから?)違っていたのかも知れません。

全体的に悪いとは言えませんが、なんとなく不満の残る舞台でした。ベルカント・オペラは本来物語ではなく、舞台上のシーンと音楽で観客を感情的に揺さぶるオペラのはずなのに、いろんな欠点が目について感情的に揺さぶられることは残念ながらありませんでした。アリアのテンポが速すぎて情感を表しきれなかった疑いもあります。


書評:奥田英朗著、『空中ブランコ』(文春文庫)~第131回直木賞受賞作品

2016年06月19日 | 書評ー小説:作者ア行

第131回直木賞受賞作品である『空中ブランコ』にはちょっぴり苦い思い出があります。伊良部シリーズは10年ほど前に友達から借りて読んだものですが、この『空中ブランコ』だけは返却されることなく私の手元に残ってしまったのです。なぜか。水をこぼしてしまい、一部ふにゃふにゃに変形してしまったから。友達には新しく買ってお返ししたので、変形した本はそのまま私の本棚に残った次第です。

さて、私にとってはちょっといわくつきの『空中ブランコ』ですが、シリーズ第1・3弾同様短編集で、表題作の他4編の短編が収録されています。

直木賞受賞作品である表題作がやはり秀逸で、かなり笑えます。患者さんは新日本サーカスに属する空中ブランコ乗りの山下公平。東京公演が始まってからキャッチャーとの連携がうまくいかず、何度も落下する、という失態を晒しており、昔からの仲間や奥さんから少し休むように諭され、またよく眠れなくなっているので興行地の近くにある伊良部総合病院の神経科にかかることになります。伊良部センセは例によって例のごとく取りあえず注射。その後は空中ブランコに興味を示して、自分もやると言ってきかない。ちゃっかり次の日からサーカスで空中ブランコの練習をさせてもらってる。患者の公平には注射と睡眠導入剤だけ。サーカスの団員たちはすんなり伊良部を受け入れ、彼が空中を飛ぶのをまるで空飛ぶクジラのごとく見物に来るようになります。「デブは絵になる」と公平も感心する始末。いいのか、医者がそれで?!と突っ込みたくなるのが常識人の思うところでしょうが、そんなジョーシキがこのトンデモ精神科医に通用するわけもなく。。。それでもなぜか結果的に患者がいい方に転がるから不思議なもので、藪なのか名医なのか。

『ハリネズミ』に登場するのはなんと先端恐怖症のやくざ。その設定だけで可笑しさがこみ上げてきますが、この御仁はお箸の先端にすら腰が引けて脂汗をかく始末。これではやくざを廃業するしかあるまいという状態で同棲中の女性に勧められて伊良部総合病院の神経科へ。伊良部センセは患者の先端恐怖症にかまわず、「逆療法」とか屁理屈をこねて、とにかく注射。それでも一応「サングラスをかけてみれば」とか「どの合わない眼鏡をすればあまり怖くないかも」などと実践向きのアドバイスをしたりして、やくざ屋さんにちょっと希望を与えます。このお話では伊良部センセは親身で付き合いのいい医者という役割で、とんでもないのは注射だけに留まっています。可笑しさはやくざ屋さんたちだけで醸し出している感じです。

『義父のズラ』では伊良部センセの同期たちが登場します。その中の一人で現在大学講師で附属病院勤務の池山達郎は、外科の元主任教授で現在は学部長の娘と結婚し、将来安泰の道を歩んでいる筈だったが、いつごろからか、義父のカツラを人前で引っぺがしたい衝動や何か人前でバカなことをしたい、ぶち壊したい衝動に駆られて自己コントロールに難儀するようになっていた。そこで同窓会で再会し、彼の強迫症を見破った伊良部に相談を持ち掛けます。伊良部センセが「代償行為」を提案し、大の大人が二人して歩道橋や信号機に書かれた地名をいじって(点を加えて)遊ぶというもの。『イン・ザ・プール』同様、伊良部の暴走に患者が引きずられ振り回される話。「全く大の大人が何やってんだか。( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \」と笑うしかないような。

『ホットコーナー』に登場するのは一塁送球がなぜか暴投になってしまうプロ入り10年のベテラン三塁手坂東真一。伊良部センセの診断は「イップス」。プロ野球選手が来たということで急に野球に興味を示し出す伊良部。あろうことかプロにキャッチボールの相手をさせます。ちょっと展開が『空中ブランコ』的ですが、違うのは伊良部が患者に「コントロールって何だろう」など基礎的でかつ普段は無意識的なことを質問して考えさせてしまい、そのせいで症状がどんどん悪化してしまうこと。終いには歩き方まで忘れました、みたいな。

『女流作家』ではまさしく女流作家が主人公。売れっ子の恋愛小説家星山愛子は執筆中に「これは前に書いたことのある職業ではないか?」「以前書いたネタじゃないか?」と気になり出して、自作の総点検をせずにはいられなくなる強迫神経症で嘔吐症も併発。患者の悩みもそっちのけで「小説ってどう書くの?」とあくまでもマイペースの自分の欲望に正直な伊良部。
実はこの星山さんは以前に身を削るようにして書いた小説が「名作」と玄人受けしていたのにもかかわらずあまり売れなかったことがトラウマになっていて、売れるものしか書けなくなっていたのです。結末はちょっとぐっとくるお話です。 小説家の≪産みの苦しみ≫と売れるものしか求めない出版社、軽いものしか求めない大衆の乖離を切なく抉り取っている感じです。もしかしたら作者奥田英朗氏自身の苦悩もここに反映されているのかも。その作家の悲哀と、人の評価をまるっきり意に介さず、適当に小説を書いて患者である星山氏の編集担当者に読ませて、「ねえ、いつ本になるの?」と無邪気に聞く伊良部との対比が絶妙なバランス感覚で提示されて、全体として悲喜劇となり、やっぱり笑うしかないような…

世の中の大抵の人は自分の矜持・プライドや地位、立場あるいは自分自身で作り上げてきたイメージや見栄などに縛られています。それを時として息苦しく感じたり、プレッシャーの方が勝ってしまう人も少なくないことでしょう。そうした中で、伊良部シリーズを読むと、「ああ、世の中勝手に生きたもの勝ちなのだ」と改めて考える次第です。作中で伊良部が同期の≪池ちゃん≫に「性格っていうのは既得権だからね。あいつならしょうがないかって思われれば勝ちなわけ」と語っていますが、まさにその通りだな、と思います。

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書評:奥田英朗著、『イン・ザ・プール』(文春文庫)

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