『ランクA病院の愉悦』は海棠尊には珍しい短編集で、ほろ苦いユーモアにあふれた短編が5本収録されています。表題作は本のラストを飾っています。その他の作品は、『健康増進モデル事業』、『緑剥樹の下で』、『ガンコロリン』、『被災地の空へ』です。
この本のあとがき「作家十年目、おまけのあとがき」で作者はこの短編集について次のように語っています。
私は愛国者なので日本にワクチンを打っておきたいと考えている。この短編集もそんなワクチンの一冊である。ここに書かれた物語はフィクションだが絵空事ではない。そう思って心して読んでほしい。
実際『健康増進モデル事業』、『ガンコロリン』、『ランクA病院の愉悦』の三作は日本のあり得る近未来の姿が描き出されており、現在の私たちへ向けて警鐘を鳴らしているように理解できます。
『健康増進モデル事業』では厚生省医療健康推進室のプロジェクトで選ばれたモデル3人が日本一の健康優良成人を目指すというお話。名前こそ出てきませんが、室長で、部下にこのプロジェクトの責任を押し付けた人はかの田口&白鳥シリーズの白鳥圭介のようです。それ以外には他作品との関連性はありません。主人公木佐誠一がそのプロジェクトのモデルに選ばれ、数奇な体験をする羽目になります。個人の健康をエゴイスティックに追求するあまりに周りとのバランスを崩してとんでもない事態になる事例。そもそもそんな「モデル事業」に税金を使うな!と義憤を感じる事例でもあるのですが。海棠作品の『イノセントゲリラの祝祭』のようなストレートな医療行政批判ではなく、一ひねりしたシニカルな面白さのある作品です。
『ガンコロリン』は癌予防兼特効薬『ガンコロリン』が発明され、一世を風靡するお話。外科手術を必要とする患者が激減したため、外科医の活動領域は救急医療に限られるようになり、外科医自体が絶滅危惧種に。そして20年経ちガンコロリンに耐性を持つ癌が発生。話はそこで終わるのですが、この作品には医療行政を自由市場経済的論理で行うことに対する警告が含まれているように思います。
『ランクA病院の愉悦』ではTTP導入後の世界における医療格差が描かれています。TPP参加と共に自由診療へ移行する際に前払いかクレジット決済が条件となり、病院は係る医療費に応じてA、B、Cにランク分けされます。ランクA病院は一回の支払いが10万円以上、ランクB病院は1万円以上10万円未満、ランクC病院は1万円未満。別格扱いのランクQ病院は救急病院で、経済的裏付けがなくても対応するお情け的病院。主人公の終田千粒(ついた・せんりゅう)はツイッターで下手な川柳をアップする売れない作家で、ある日ランクA病院とランクC病院の診療実態について記事を書く依頼を受けることになります。売れない作家の彼は偏頭痛持ちでランクC病院の常連。そこでは医師はおらず、ロボットの≪トロイカ君≫が患者を問診して無難な処方箋を出しています。トロイカ君の診察を受けるには先に契約書に同意しなければならないのですが、その条文には診断ミスがあっても訴えないとか、処方された薬を服用して副作用が出ても病院側は責任を持たないなどの項目が含まれており、噴飯ものです。このようなことになったのは、国民が自由診療に反対した日本医師会ではなく、政権べったりで、日本医師会は既得権益を守るためだけに自由診療に反対していると医師会批判をしたマスメディアを信じたせいで、その結果騙された(特に貧しい)国民が一番困ることになったという。この近未来像は特にリアルですね。
『緑剥樹の下で』は海棠尊のデビュー作『チーム・バチスタの栄光』の番外編で、バチスタ手術を受けるために南アフリカの紛争国ノルガ王国から東城大附属病院へ運ばれてきた少年のそこに至るまでのいきさつが語られています。とは言えその少年が登場するのは最後の方だけで、主人公はトカイという医者で、村の長老と迷信に医学の合理性を持って戦いを挑むのがメインなのですが。
『被災地の空へ』では『ジェネラル・ルージュの凱旋』や『極北ラプソディー』などでお馴染の唯我独尊救急医”将軍”速水が登場します。彼を含む救急災害派遣隊(英語名を略してDMAT)がかの東日本大震災の被災地へ駆けつけるお話。現場では何が何でも命を救うジェネラルの出番はなく、遺体検案やドクターヘリでの搬送業務に携わることに。ちょっとしたジェネラルの成長エピソードです。唯我独尊のジェネラルを諭すみちのく大救急の岸村はなまりのある温かい言葉を語る魅力的な人物です。その人柄でジェネラルに「たまには自分の中にない声に従ってみるのもいい」と思わせてしまうところが凄いところ。
書評:海棠尊著、『新装版 ナイチンゲールの沈黙』(宝島社文庫)