徒然なるままに ~ Mikako Husselのブログ

ドイツ情報、ヨーロッパ旅行記、書評、その他「心にうつりゆくよしなし事」

書評:松岡圭祐著、『万能鑑定士Qの最終巻 ムンクの≪叫び≫』(講談社文庫)

2016年08月19日 | 書評ー小説:作者ハ・マ行

『万能鑑定士Qの最終巻 ムンクの≪叫び≫』は『探偵の鑑定II』の続編に相当し、Qシリーズで最初に凛田莉子がお世話になった上に、贋金事件で対峙し改心させた瀬戸内陸が出所してくるばかりでなく、違う事件で関わり合った人たちが次々登場するうえに、探偵の探偵シリーズの紗崎玲奈、水鏡推理』シリーズの水鏡瑞希、そして最後には『特等添乗員α』シリーズの浅倉絢奈もチョイ役で登場。本当に【締めくくり】と言う感じのオールキャスト集合の態を示していました。

表紙のブライダル姿の二人は莉子と彼女と付き合ってるんだか違うのかよく分からない元雑誌記者で『探偵の鑑定』で探偵に転職した小笠原悠斗(26)。彼らは『万能鑑定士Qの事件簿 XII』で『週刊角川』と言う小笠原悠斗が関わっている雑誌のブライダル特集記事のためのグラビア撮影の際、経費節約のためモデルとなった経緯があり、そのグラビア写真のことがこの『最終巻』で何度も言及されます。最初の方は二人ともかなりすれ違っており、悠斗と彼の幼馴染だという三木本紗彩との関係が深まりつつあるような状態です。ネタバレになってしまいますが、表紙を見れば分かる人には分かってしまうことだと思うので、まあいいですよね?(* ̄▽ ̄)フフフッ♪
このはっきりしない中学生の恋愛ごっこのような関係を続けていた莉子と悠斗は事件解決後ついにご成婚となります。松岡氏の作品としては珍しい恋愛面でのハッピーエンドです。

さて、この巻で莉子が追う事件は表題の通りムンクの≪叫び≫です。オリジナル油彩画の≪叫び≫は在日ノルウェー大使館の催し物のためにオスロ美術館から貸し出されてとある画廊に展示される予定で保管してあったところ、お披露目になる前に4つに引き裂かれ盗まれてしまいます。一度引き裂かれた絵画を奇跡のように修復できるという【万能修復家】植村寛雄が莉子に明治時代の幻の懐中時計メンフィスC62の鑑定を依頼したことで二人の縁ができ、引き裂かれた≪叫び≫も全てのピースが見つかり次第彼が修復にかかることに。修復できるタイムリミットは120時間。それまでに盗難犯人の出す難問を解かなければならない。。。

最終巻ということもあって、莉子の最大のライバルである超一流の贋作家と言われるコピアも暗躍します。どういう活躍かは読んでからのお楽しみ。

コピアは比較的新しいキャラなので記憶に残ってましたが、他のキャラはどの事件で出てきたのか記憶があいまいだったので、途中でQシリーズを読み返したい衝動に駆られました。が、しかし!Qシリーズは巻数が非常に多く、そう簡単に読み返せるものではありません。『事件簿』だけで12冊、『短編集』2冊、『謎解き』1冊、『推理劇』4冊、『探偵譚』1冊のトータル20冊。書評を書いておけばよかった、と悔やまれるシリーズです。。。

閑話休題。

話は『最終巻』に戻りますが、華々しいフィナーレです。ちょっと展開が遅くてじれったくなる部分も途中あるにはありますが、全体的に非常に面白い探偵ものだと思います。

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書評:松岡圭祐著、『水鏡推理』(講談社文庫)

書評:松岡圭祐著、『水鏡推理2 インパクトファクター』(講談社文庫)

書評:松岡圭祐著、『水鏡推理3 パレイドリア・フェイス』(講談社文庫)

書評:松岡圭祐著、『探偵の鑑定I』(講談社文庫)

書評:松岡圭祐著、『探偵の鑑定II』(講談社文庫)

書評:松岡圭祐著、『探偵の探偵IV』(講談社文庫)

書評:松岡圭祐著、『千里眼完全版クラシックシリーズ』(角川文庫)

 

書評:奥田英朗著、『ララピポ』(幻冬舎文庫)

2016年08月17日 | 書評ー小説:作者ア行

奥田英朗の『伊良部シリーズ』以外の作品を読むのは『ララピポ』が2作目。煽りを見ると、「下流文学の白眉!!」なんて書いてあるのですが、さて【下流文学】とは何だろう?と違和感を覚えつつ一気に325p読み切ってしまいました。全部で6話あり、主人公はそれぞれ違っていて独立性があるのですが、それでも関連性があり、視点を変えて同じ出来事を見るようで、その中にまた違ったドラマが展開されていたりして、群像劇の面白さが発揮されています。

主人公たちはどの人も世間一般には【負け組】で、社会の底辺でもがいている人たち。自分のコンプレックスと戦い、折り合いをつけつつも人前では見栄・虚勢を張って墓穴を掘ってしまったり、欲求不満のはけ口を見つけて暴走してしまったり。。。

以下あらすじ。

第1話 WHAT A FOOL BELIEVES

第1話の主人公はフリーターに限りなく近いフリーライターの杉山博(32)。若者向けの情報誌の新製品紹介ページを受け持ち、月2回原稿を書いて14万4千円を稼ぐ以外はやることも収入もないうだつの上がらない男。対人恐怖症のため取材を必要とする原稿は自ら断るという引きこもり。現在はわずかな原稿料と貯金を切り崩しながら生活している。彼の住む1LDKのアパートは欠陥住宅で、隣のテレビの音も上の足音やシャワーの音などがよく聞こえてしまう。新しく上に入居した栗野健治というホスト風の男はほぼ毎晩のように違う女を部屋に連れ込み、性行に勤しんで(?)いることに興奮を覚えた杉山博は上の音をもっとよく聞こえるようにと最初はコップを天井に当てて耳を澄まし、そのうち盗聴器まで買い。。。とエスカレートしていく。毎朝部屋を一人で去っていく女の顔を駅に先回りして確認し、尾行する衝動を抑えたり。。。何やってんだか、と呆れるしかない日常生活。彼は原稿を書かないときは昼間図書館を巡って暇を潰すが、その図書館でよく見かける太った女・玉木小百合と関係を持つようになるが。。。

第2話 GET UP, STAND UP

第2話の主人公は、第1話で盗み聞ぎされていたホスト風の男・栗野健治(23)。彼の仕事はホストではなくキャバクラ嬢のスカウトマン。若い女性をスカウトしてキャバクラやその他の風俗店、女性の同意があればAV女優としてAVプロダクションに斡旋し、彼女たちの稼ぎの5%を懐に収めて生計を立てている。因みに彼の事務所の取り分も5%。スカウトした女性たちの面倒をまめに見ないとすぐに止めてしまったりして彼の減収になるので、まめまめしく彼女たちを代わる代わる気遣い、部屋に招いて食事を振る舞い、ベッドの相手もしている。彼は収入を上げるためにAVに回せる女性を探している。新しくスカウトした女性・トモコはデパート勤めの押しに弱い普通の女性だが、会話が苦手とかで、会話が少なくギャラの高い風俗へ。健治は同時に事務所の上司から中年女性・ヨシエ(43)のマネージメントを押し付けられてしまう。彼女は一度AVに出演してから火がついてしまったらしく、かなりの淫乱になったというのだが。。。

第3話 LICHT MY FIRE

第3話の主人公は第2話で登場した中年女性・ヨシエこと佐藤良枝(43)。彼女の自堕落でメッシーな日常生活が描かれています。夫はサラリーマンで終電にならないと帰宅しない。娘は成人していて、同居はしているがほとんど会話なし。食事は自分の分だけなので、かなりテキトー。掃除もしなければゴミ捨てもしない。近所からはゴミ屋敷と言われている。彼女はただひたすら消臭剤を廊下や2階へ続く階段に投げつけるように撒く。2階は使用されていない。階段はゴミだらけで誰も上に上がれない。それには秘密があって…

また彼女はお向かいの金持ちの家の郵便物を盗み見るのを趣味としていた。ある日郵便物の中に「犬がうるさい」という匿名の近所からの苦情が混じっていた。。。

第4話 GIMMIE SHELTER

第4話の主人公はカラオケボックス店員・青柳光一(26)。ノーと言えないたちで、新聞は何紙も購読、押し売りから高いものをかわされること数知れず。ある日同僚がカラオケの個室で手コキをやる女子高生を発見し、ちょっと脅して自分も安くサービスを受け、更に光一もサービスを受けられるように話をつけた、と言う。彼は断り切れずにサービスを受けてしまうが、それが原因で女子高生たちの元締め・ポン引きの通称「ポンちゃん」に場所の提供を要求される。光一に断れるはずもなく、カラオケボックスは店長のいない昼間ほとんど風俗店と化してしまっていた。中にはほぼ連日通って来る自称作家・西郷寺敬次郎もおり、次第にエスカレートしていく模様。

一方自宅では、隣の老女のテレビの音と近所の金持ちの家の犬(第3話に登場)の鳴き声に悩まされ、隣とはいざこざを起こしたくないので老女には文句を言わないものの、犬を飼う家にはほぼ連日脅迫状に近い苦情を送っていた。。。

第5話 I SHALL BE RELEASED

第5話の主人公は第4話で登場した西郷寺敬次郎(52)。自称ではなく本当に作家で、純文学出身ではあるが、出した小説は1冊のみで、後は官能小説でずっと生計を立てている。高収入ではあるが、本人的に純文学出身のプライドがあるため、【文壇】として認められないことを不満に思っている。妻にはかなりないがしろにされており、もう何年もセックスレス。ある日録音原稿を出版社に届けに行った帰りに取材も兼ねて渋谷に立ち寄り、女子高生たちの派手さに度肝を抜かれた。しばらく呆然と彼女たちを眺めているとポン引きに「手コキ1回1万円。場所はそこのカラオケボックスだから金もかからないし、怪しまれない」と声をかけられる。逡巡するが、好奇心が勝ってしまい、紹介された女子高生と共にカラオケボックスへ。最初は手持ちが少なかったので、手コキと上半身裸にさせただけだったが、次はお金を用意して、お触りも加え、その次は本番も、その次は3Pとどんどんエスカレート。。。

彼の女子高生との体験は即座に作品に反映される。

第6話 GOOD VIBRATIONS

最終話の主人公は第1話に登場した太った女・玉木小百合(28)。彼女は口述テープの原稿起こしをするテープリライターで、よく西郷寺敬次郎のテープを原稿起こししていた。しかし彼女はその傍らでさえない男たちを自室に引き入れ、彼らとの情事を盗撮し、アダルトショップに裏DVDとして買い取らせていた。。。いかにも負け組な男たちといかにも持てそうにない太った女との情事はマニアックな人気があり、彼女はビデオ1本で50万円も受け取る。第1話の博との情事は『ヒロシ・シリーズ』という人気の裏DVDとなっていた。

小百合は幼少時から太っていたため散々「デブ」といじめられていたので、友人も殆ど無く、まともな恋愛経験もなく、しかし冴えない男なら彼女の誘惑に引っかかることを学び、それで「自分でも求められる」とある種の満足感を得、アダルトショップでVIP扱いされることにも気分の高揚を感じていた。。。

 

と、あらすじを書きだしてみて、改めてどうしようもない人生を生きる人々に何とも言えないやるせなさを感じてしまいますね。全く別世界で、共感もほとんどできないのですが、こういう人生を送っている人たちは決して少なくないのだろうな、と妙に納得してしまったり、【下流文学】とは下流、すなわち社会の底辺で生きる人々を描いた文学なのだな、と合点がいったり、底辺で生きることと性風俗は切っても切り離せない関係なのだろうかと疑問に思ったり。。。第5話の西郷寺敬次郎だけは底辺の人ではないのだけど、ネタバレになりますが、底辺に落ちていく話です。

『ララピポ』は感動こそしませんが、「人生ってなんだろう?」と思わず考えさせられる作品ですね。

因みに『ララピポ』は第6話の主人公が外人の"a lot of people"の発音をそのように聞き取ったことから来ています。確かに多種多様な人たちの物語なので、タイトルに相応しいと言えます。

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書評:奥田英朗著、『イン・ザ・プール』(文春文庫)

書評:奥田英朗著、『空中ブランコ』(文春文庫)~第131回直木賞受賞作品

書評:奥田英朗著、『町長選挙』(文春文庫)

書評:奥田英朗著、『沈黙の町で』(朝日文庫)


書評:松岡圭祐著、『水の通う回路 完全版 上・下』(角川文庫)

2016年08月16日 | 書評ー小説:作者ハ・マ行

松岡圭祐の『水の通う回路 完全版』上・下巻を眠い目をこすりつつ一気に…というわけにはさすがにいかず、二晩かけて完読しました。

『水の通う回路』(幻冬舎、1998)は著者の『催眠』に続く第2作目だったそうですが、後に徳間書店で『バグ』と改題された時も、著者本人にとって「不完全な作品」という感が否めなかったらしく、全面書き直しされて2009年に「完全版」が上梓されました。この「完全版」が著者曰く、1998年当初の作品の「あるべき形」だったとのこと。新人ミステリー作家は真犯人も自分の思うように決められないこともあるらしいですね。そのようないきさつが完全版の「前書きに代えて」で書かれていました。

『水の通う回路 完全版』のあらすじは、千葉県佐倉市で小学6年生が自らの

腹部をナイフで刺したことに始まった、次々に起こる子どもたちの異常事態の真相究明です。異常をきたした子どもたちの共通点は前日発売された『シティ・エクスパンダー4』というゲームを買って遊んだことと、「黒いマントの男に追われた(襲われた)」という証言をしていること。ゲーム製造元であるフォレスト社長、桐生直人は最初に開発部長であり、『シティ・エクスパンダー4』の開発責任者でもある津久井智男が不審なデータのやり取りをしていた痕跡を見つけ、それを手掛かりに調査を始めますが、それがどんどん意外な方向へ繋がっていきます。『シティ・エクスパンダー4』に一体どんな細工が?!と思いきや、結論は全然違う、明後日の方向にあってとても面白かったです。

最大の謎は:「水の入った袋」と「水の通う回路のサージ」という二つの短いメール。意味不明。発信元不明。

途中哲学的、観念的な議論も含まれていて、なかなか興味深い作品です。

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書評:松岡圭祐著、『水鏡推理』(講談社文庫)

書評:松岡圭祐著、『水鏡推理2 インパクトファクター』(講談社文庫)

書評:松岡圭祐著、『水鏡推理3 パレイドリア・フェイス』(講談社文庫)

書評:松岡圭祐著、『探偵の鑑定I』(講談社文庫)

書評:松岡圭祐著、『探偵の鑑定II』(講談社文庫)

書評:松岡圭祐著、『探偵の探偵IV』(講談社文庫)

書評:松岡圭祐著、『千里眼完全版クラシックシリーズ』(角川文庫)



トマ・ピケティ著、『ユーロをめぐる戦い(Die Schlacht um den Euro)』(C.H. Beck)

2016年08月14日 | 書評ー歴史・政治・経済・社会・宗教

ちょっとてこずりましたが、トマ・ピケティの『ユーロをめぐる戦い(Die Schlacht um den Euro)』を完読しました。ピケティーの著書ですので原文は当然フランス語ですが、私はそのドイツ語訳を読みました。フランス語のオリジナルは一冊の本ではなく、2冊、『Peut-on sauver l'Europe? Chroniques 2004-2012(ヨーロッパを救えるか?編年史2004-2012年)』及び 『Chroniques 2012-2015(編年史2012-2015年)』に分かれていますが、ドイツ語翻訳では合本されています。

内容はピケティーが仏紙『リベラシオン』に発表した金融危機・ユーロ危機に関する論説を集めたもので、3部に分かれています:

第1部『数兆ドル(2008-2009)』、

第2部『ヨーロッパ対市場(2010-2011)』、

第3部『市民たちよ、投票に行こう!(2012-2015)』。

著者は日本でも有名になった著作『資本』でも唱えているように、資本の利回りが労働収入の成長率よりも常に高いことを指摘し、資本に累進課税しない限り富の集約が進み、不平等がより大きくなることに警告を発しています。近年の富の集中の度合いはブルボン王朝時代やベル・エポックと呼ばれた時代のレベルに近くなってきており、そうした不平等を失くそうと革命を起こし、『自由、平等、博愛』を唱えてきた国の結末として実に皮肉な状況になっている、と言います。原因は国際的な自由化で、富が増長する一方、その富の再配分をするための税制それ自体が国際的自由競争にさらされているため、巨大な富に累進課税することが叶わず、むしろ減税措置を取ってきたことにあります。

富の再配分を実現するためには、資産収入の透明性を高めると同時に国際的な税制の均一化を進め、タックスヘイブンを根絶する必要があります。そしてまずはユーロ圏内のタックスヘイブン(例えばルクセンブルクなど)を失くすべきだ、と著者は提案しています。そして1929年の国際的経済危機の後ルーズベルト米大統領が累進課税を断行し、高収入及び大きな遺産相続に最高80-90%の税をかけ、以降約50年それが維持されたことを見習い、再びそのような累進課税を導入する必要がある、とも説いています。一国がそのような増税をすれば、そこから資本がより税の低い方へ逃げていくため、その逃亡ができないようにするための透明性であり、税の均一化であるわけです。

またユーロ導入によって加盟各国は自国貨幣という経済制御手段を失ったのに、借金をするときだけ独自の利率でしなければならないのは最悪の状況で、そのことがギリシャ、スペイン、イタリアなどの財政危機を招いている、と著者は指摘しています。ドイツやフランスは国債発行の際かなりの低利率ですが、南欧諸国は4-5%の高利率でしか国債発行できず、イタリアなどはプライマリー収支では黒字なのに、高い利子を払わなければならないことで財政赤字に転落しています。だから各国のBIPの60%を超える分の借金はユーロ加盟国全体で共有すべきであり、新債権を共同の利率で発行できるようにすべきだというドイツの経済識者会議が出した提案は評価されるべきで、何も提案しないフランスは自らを恥ずべきだ、と手厳しく自国を批判しています。

『パナマ文書』が公になり、この頃とみに租税回避行動に注目が集まっており、資金の動きの透明性を高めるための自動情報交換などが進みつつありますので、少なくとも透明性を高める、という点に関しては前進していると見做すことができるのではないでしょうか。しかしながら税制の均一化や、財産への累進課税などの実現は遠い道のりですね。『ユーロ圏共同債』のようなものも、提案に終わってしまっているような感じなので、残念な限りです。

 


ドイツ:世論調査(2016年8月12日)~社会民主党(SPD)支持率低下

2016年08月13日 | 社会

ZDFの世論調査ポリートバロメーターが8月12日に発表されましたので、以下に結果を私見による解説を加えつつご紹介いたします。

まずはタイトルにあるように政党支持率から。

連邦議会選挙

もし次の日曜日が議会選挙ならどの政党を選びますか?:

DU/CSU(キリスト教民主同盟・キリスト教社会主義同盟) 35%(変化なし)
SPD(ドイツ社会民主党)  22% (-2)
Linke(左翼政党) 8%(+1)
Grüne(緑の党) 13%(変化なし)
FDP (自由民主党) 6%(+1)
AfD(ドイツのための選択肢) 11%(変化なし) 
その他 4% (変化なし)

毎月の政党支持調査で大きな変化が出ることはまずありませんが、今回はドイツ社会民主党(SPD)だけが支持率を落としているのは目を引きます。

1998年10月以降の連邦議会選挙での投票先推移:


政権満足度(スケールは+5から-5まで):0.6 (前回比 -0.2)

政治家評価

政治家重要度ランキング(スケールは+5から-5まで)

  1. ヴィルフリート・クレッチュマン(バーデン・ヴュルッテンベルク州首相、緑の党)、2.1 (+0.1)
  2. フランク・ヴァルター・シュタインマイアー(外相)、2.0(変化なし)
  3. ヴォルフガング・ショイブレ(内相)、1.6(変化なし)
  4. アンゲラ・メルケル(首相)、1.0(-0.4)
  5. グレゴル・ギジー(左翼政党)、0.9(+0.2)
  6. トーマス・ドメジエール(内相)、0.8(変化なし)
  7. ホルスト・ゼーホーファー(CSU党首・バイエルン州首相)、0.7(+0.4)
  8. ウルズラ・フォン・デア・ライエン(防衛相)、0.6(変化なし)
  9. ジーグマー・ガブリエル(経済・エネルギー相)、0.4(変化なし)
  10. サラ・ヴァーゲンクネヒト(左翼政党)、-0.3(+0.2)

順位こそ変わってませんが、メルケル首相の評価が0.4ポイントも下落しているのは注目に値します。難民政策で相変わらず「私たちはできる(Wir schaffen das)」の精神論で、政情が怪しくなっているトルコとの難民協定に固執していることと、現実離れしたTTIP(アメリカ・EU自由貿易協定)の年内調印に意欲を見せるなどで呆れられてきているのかも知れません。

それに対して、何かとメルケル首相に突っかかっていた姉妹政党CSU党首のホルスト・ゼーホーファーはポイントを稼いでいます。ゼーホーファーはその右寄りの発言で、党内よりはAfD支持者の人気を集めつつあります。日頃から「CSUより右の政党は許さない」と言ってはばからない人で、AfDから支持者を戻そうという戦略が功を為してきていると言えます。

難民政策

メルケル/ゼーホーファーは難民政策をどちらかと言うとよくやっていると思う:

メルケル:44% (CDU/CSU支持者では66%)

ゼーホーファー:45%(CDU/CSU支持者では46%)

全体ではメルケルの難民政策よりもゼーホーファーの難民政策の方が1%多く支持を集めています。二人の所属政党であるCDU/CSUの支持者たちの間ではまだメルケルの難民政策の方が20ポイントも多く支持されています。メルケルの党内基盤はまだ崩れてはいないということでしょう。対してゼーホーファーの難民政策はAfD支持者の74%から支持されています。

 

トルコ

クーデター未遂以来、その首謀者とみなされているギュレン運動関係者(または関係者と見られた)人たちへの弾圧が激化し、1万人以上の公務員解雇、数千人の逮捕者またその逮捕者の非人道的な扱いなどでどんどんヨーロピアンスタンダードから外れているエルドアン・トルコ大統領。ロシアへの接近もあり、EU・トルコ関係はますます緊張してきています。難民協定はEU加盟交渉と結びついているため、協定がこのまま暗礁に乗り上げてしまうことがドイツ人の54%に危惧されています。

 

難民協定を座礁させないために、エルドアンの政策の批判は控えめにすべきですか?:

はい 14%
いいえ 80%
分からない 6% 

 

トルコのEU加盟交渉は…?:

中断すべき 35%
様子を見るべき 55%
続行すべき 8%

オーストリア外相がつい先日、「トルコの今の状態はヨーロピアンスタンダードから逸脱しており、誰の目から見てもEU加盟基準を見做していないことが明らかだ。それに目をつぶって形式だけ加盟交渉を続けるのは欺瞞であり、即座に中断すべきだ」というような主旨のことを公言したことで、トルコ外相から「レイシズムだ」と反論される、ということがありました。けれど、中断したい心情はドイツ人の35%が共有しているようです。私自身も心情的には中断賛成派ですが、政局判断からするとロシアとの兼ね合いから様子を見ざるを得ないと考えます。

 

トルコの政情はドイツ人とトルコ人の今後の共生に影を落としている?:

はい 53%
いいえ 44%
分からない 3% 

トルコ人の多いドイツでは、エルドアン大統領の熱烈な支持者もいれば、これまでも弾圧されてきたクルド系トルコ人もいますし、今回エルドアンの粛清対象となっているギュレン運動の関係者もいます。エルドアンのギュレン運動粛清はドイツまで飛び火し、ところどころで諍いが起こっています。これもドイツ内のトルコ人社会がドイツ社会に適合・統合していないことを表す一例です。もちろんトルコ人の中にもドイツ社会になじんでいる人はたくさんいます。私の会社(ドイツの大企業)にもトルコ系は多いです。でも、ドイツ語も満足に話さず、トルコ人コミュニティーの中だけで生きているトルコ人の方が残念ながら多数派なのです。このことは今後もトルコ政治とリンクした複雑な社会問題としてドイツ社会に重くのしかかっていることでしょう。

内政問題

運転免許証の取り上げ

ドイツでは離婚は裁判によってしか成立しません。子供の養育費負担などはこの離婚裁判で決められ、母親が子供を引き取る場合は父親に養育費負担の義務が生じます。裁判による判決ですので、法的強制力があるのですが、それでも養育費を規則的に払わない、あるいはまったく払わない父親がいます。こうした父親に対して対処を厳しくしようという政策の一環で、自動車免許証の取り上げを罰則として導入することが現在議論されています。それについて世論はあまりよく思っていないようです。免許証の取り上げをいいと思う人は32%、反対は63%。反対の割合は支持政党別では:

CDU/CSU 62%
SPD 61%
左翼政党 60%
緑の党 54%
FDP 53%
AfD 68% 

 

連邦軍の国内活動について

7月末にバイエルン州で相次いで起こった難民によるテロ事件によりテロに対する恐怖感が高まっている中、警察機動隊の人員不足もあり、テロ対策の一環としてドイツ連邦軍の国内投入案がCDU/CSU党内で再び浮上しています。ドイツでは軍隊の国内投入は憲法で特別な例外を除いて禁止されています。保守党(CDU/CSU)はかねてからこの連邦軍の国内投入を望む勢力があり、この度のテロに乗じてその念願を果たそうとしているようです。世論調査でもテロ対策のための連邦軍の国内投入は支持を集めているようで、72%の人が賛成しています。

しかしながら、警察の方から「使えるスキルを持った連邦軍の部隊はいない」と批判も出ています。これはどちらかと言うとテリトリー意識からかもしれませんが。

経済問題

一般的な経済状況:

いい 55%(前回比-1)
どちらとも言えない 39%(+2)
悪い 6% (変化なし)


自分の経済状況:

いい 63%(変化なし)
どちらとも言えない 31%(+3)
悪い 5%(-4)


ドイツの経済は今後…?:

よくなる 18%(前回比-2)
変わらない 56%(+1)
悪くなる 24% (+3)

Brexit(イギリスのEU離脱)やトルコの政情不安と難民問題のせいもあるかもしれませんが、今後のドイツの経済的展望がさらに悲観的になってきているようです。

この世論調査はマンハイム研究グループ「ヴァーレン(選挙)」によって行われました。インタヴューは偶然に選ばれた有権者1.221人に対して2016年8月9日から11日に電話で実施されました。

次の世論調査は2016年9月23日ZDFで発表されます。その前に、メクレンブルク・フォアポンメルン州の特別版世論調査が8月27日に、ベルリン州の特別版世論調査が9月9日に公表される予定です。


ヴェネツィアフェスティバルオペラ、ケルン公演:ヴェルディ『アイーダ』

2016年08月11日 | 日記

昨日(8月10日)、ヴェネツィアフェスティバルオペラ(Venizia Festival Opera)のケルン公演に行ってきました。演目はヴェルディの『アイーダ』、会場はケルン・ドイツにあるメッセ会場の隣、タンツブルンネン(Tanzbrunnen、舞踊の泉)の野外劇場でした。

  

 

ヴェネツィアフェスティバルオペラ(Venizia Festival Opera)

ヴェネツィアフェスティバルオペラ(Venizia Festival Opera)はヨーロッパでもっとも人気のある旅する歌劇団の一つで、その伝統は1945年にまで遡れるそうです。その交響楽団はプロヴディヴ・フィルハーモニー及びOpera and Philharmonic Society Plovdivの元総監督アンドレイ・アンドレエフによってスタジオ及びフェスティヴァルオケとして創立され1997年、「トラキアの夏」という国際フェスティヴァルでデビューしました。これまで350を超えるコンサートやオペラ公演をヨーロッパ中で行ってきました。

私たちはこの歌劇団&オケを元々知っていたわけではなく、ケルンチケットというインターネットチケット販売サイトのメルマガでたまたま「チケット2枚で1枚の値段!」という知らせが来たので興味を持ち、珍しいのでそのセールスに「よっしゃ!」と乗った次第です。(* ̄▽ ̄)フフフッ♪
席は舞台正面中央路に近い前から10列目で、メルマガプライス1人当たり30.20ユーロ。

出演者:

アイーダ(ソプラノ)―Elena Baramova

アムネリス(メゾソプラノ)—Elena Chavdarova-Isa

ラダメス(テノール)- Stoyan Daskalov

ラムフィス(バス)―Ivaylo Dzhurov

アモナスロ(バリトン)―Alexander Krunev

使者(テノール)―Ivailo Yovchev

女性神官(ソプラノ)―Emiliya Dzhurova

 

演出 ―Nadia Hristo

舞台美術・衣装 ―Rada Hadzhiyska

音楽監督・指揮 ―Nayden Todorov

美術監督 ―Andrey Andreev

 

Making of『アイーダ』

『アイーダ』の製作にはちょっとした裏話があります。「君頼むよ」「はい、分かりました」でできた作品ではないのです。ことは1869年11月17日のスエズ運河開通に始まります。エジプトのケディヴェ(Khedive、副国王)であるイスマイル・パシャなる人物がこの偉大な国の事業を記念して、文化面でも国力を示そうとオペラハウスを作り、そのオープニングにヴェルディになにか賛歌のようなものを作曲するよう依頼したのです。ヴェルディは「何かの記念のための作品など作曲したくない」とこれを断ります。でもその裏で友達に宛てた手紙に、「エジプトのために仕事するなど気違い沙汰だ」とか「ミイラにされるのが怖いからエジプトには行かない」などと書いています。結局ただの偏見で断ったみたいですね。

カイロオペラハウスは1869年11月1日に、ヴェルディの「リゴレット」(1851)でオープンしましたが、パシャは「ヴェルディによるカイロオペラハウスのための特別な作品」を諦められず、当時のパリのオペラ・コミーク(Opera Comique)のディレクター、カミーユ・デュ・ロクルにヴェルディを説得するよう依頼します。資料はフランスのエジプト学者オーギュスト・マリエットが提供するとのことでした。ヴェルディはこれも固辞します。

そこでデュ・ロクルとマリエットは一計を講じます。デュ・ロクルはマリエットのシナリオを散文物語形式に書き直し、「これにはエジプト皇太子も一枚かんでいる」と言う含みを持たせて、それをヴェルディに渡します。同時にマリエットはヴェルディに手紙で「パシャにこれ以上ヴェルディに固執せず、話をシャルル・フランソワ・グノーかリヒャルト・ヴァグナーに持っていくように頼まれた」と知らせます。そこでヴェルディは「ライバルに栄誉を奪われるくらいなら」と思ったらしく、デュ・ロクルに「シナリオは舞台化に適している。しかしやるかどうかはエジプト側の提示する報償額による」というようなことを書きます。そして提示された額は15万ゴールドフランと当時としては破格のものでした。それでヴェルディはリブレット作家のアントニオ・ギスランツオーニに連絡を取り、本格的な製作に入ります。彼は舞台演出の詳細(出演者、小道具、舞台装置、衣装等々)に渡って監督し、1871年始めに『アイーダ』を完成させました。ところが予定されていた初演は仏独戦争のため延期。衣装や小道具がパリにあって、プロイセンによるパリ包囲のためにそれをカイロに運ぶことができなかったからだそうです。結局初演は同年の12月24日に実現しました。世界的に反響を呼んだ大成功だったようです。

 

『アイーダ(Aida)』のあらすじ

 舞台は「エジプトスタイルの壮大なオペラ」という依頼通りエジプトです。4幕あります。途中に挟んだ写真は今回のケルン公演のものです。

第1幕:

アイーダ(ソプラノ)はエチオピア王女で、エジプト王朝に人質として連れてこられ、奴隷として生きています。若い将校ラダメス(テノール)はアイーダと密かな恋愛関係にあり、戦果を挙げることで自由を取り戻せるという希望を持っています。最高神官ラムフィス(バス)はラダメスが将軍に任命されることを仄めかします。

一方、ファラオの娘アムネリス(メゾソプラノ)はラダメスに片思い。彼を観察するうちにライバルがアイーダであることに気付きます。

そこへエチオピア軍がエジプトに侵入した知らせが入ります。ファラオはラダメスを将軍に任命します。アイーダは祖国への愛とラダメスへの愛で心が引き裂かれ…

シーンは変わって神殿。最高神官ラムフィスはフター神の聖剣をラダメスに厳かに授けます。歌と踊りで神々にエジプトの勝利を祈ります。(ここで披露されるダンスが見もの)

 

第2幕:

アムネリスの私室。ラダメスの率いるエジプト軍はエチオピアに勝利。アムネリスは戦士たちを出迎えるために召使たちに着飾らせていましたが、ラダメスが彼女ではなくアイーダを望んでいるのではないかという考えに苦しみます。それを確かめるためにアイーダに「ラダメスは戦死した」と知らせます。アムネリスは自分がアイーダのライバルであることを悟らせた上で、勝利者の出迎えに彼女に尽き従うよう命じます。

 

テーベの門前。ファラオは廷臣たちと共に凱旋したエジプト軍を迎えます。ここでもダンスが披露されます。

ラダメスは捕虜たちを御前に引き出させます。アイーダはその中に父、エチオピア王アモナスロ(バリトン)が居ることに気付きます。アモナスロは身分を隠しており、アイーダにも黙っているようにささやきます。最高神官ラムフィスはエチオピア人の死刑を求めますが、ラダメスは捕虜の解放を望みます。ラムフィスはアイーダと彼女の父が人質として残ることを求めます。

ファラオはラダメスを後継者に決め、アムネリスと共にエジプトを統治することを命じます。アムネリスは喜び、アイーダは絶望します。

第3幕:

ナイル河畔。婚姻前夜、アムネリスはラムフィスと共にイリス神殿へ行き、ラダメスの愛を受けられるよう祈ります。

アイーダはナイル河畔でラダメスと最後の逢瀬をしようと待っています。そこへ突然父親のアモナスロが現れ、彼はアイーダがラダメスを愛していることに気付きます。エチオピアの反乱を成功させるため、彼はアイーダにラダメスからエジプト人たちの進攻経路を聞き出すように唆します。アイーダはそれを断り、二人はけんか別れします。

ラダメスが現れ、彼はアイーダへの愛を認めます。新たに戦果を挙げることでファラオにアイーダとの結婚を望めるようになると彼は考えますが、アイーダはそれを信じられず、二人で逃げることを望みます。ラダメスは少し躊躇したものの、ナパタ渓谷のルートを説明します。そうして意図せず戦略的機密を漏らしてしまう。それを盗み聞いたアモナスロは二人の前に現れ、自分がエチオピア王であることをばらします。

アムネリスとラムフィスが神殿から出てきたとき、アモナスロはアムネリスを殺そうとしますが、ラダメスはこれを阻止し、そして二人の護衛兵に投降します。アモナスロとアイーダは逃亡。

第4幕:

王宮。アムネリスはまだラダメスを愛しており、彼がアイーダを諦めるなら彼の命を助けると約束します。ラダメスはアイーダへの愛を変えることなく死を選びます。裁判で彼は黙秘を貫き、裏切り者として神殿の地下に生き埋めの刑を受けます。

火山神殿の内部。墓室は石で閉じられます。ラダメスは死を待っていましたが、そこに忍び込んでいたアイーダが姿を現します。二人は共に生に別れを告げます。アムネリスは一人残され、悲嘆に暮れつつ祈るばかり。


ケルン公演の感想

久々にクラシカルな演出のオペラが見れたと思いました。実は最近のケルンオペラの奇妙な現代的解釈入りの演出や時代設定の変換などにいい加減嫌気がさしていたので、今回の何の解釈も入らないオリジナルに即した舞台演出に心が洗われるようでした。

ただ、残念に思ったこともたくさんあります。一つは旅する歌劇団の限界もあるのかも知れませんが、舞台の大道具や仕掛けが簡素であったこと。もう一つはオープンエアという状況の中避けられない音響の悪さや雑音の多さ(ヘリコプターの音がうるさかった)や途中雨が降ったことで起こったざわつきなど。

こうしたどちらかといえば厳しい舞台状況の中で、歌手さんたちもダンサーたちもオケの人たちもよくやっていたと思います。湿気のせいで弦楽器の音の冴えが鈍り、部分的に若干ぴったりと嵌ってない音があったように感じられました。私自身も素人とはいえバイオリンを嗜んでいるのでよく分かるのですが、湿気が多いといくら調音しても演奏している間にほんのわずかずつですが音がずれてきてしまうのです。演奏中に調音することはできませんので、そのずれを指の位置を微妙にずらすことで調節するのですが、たとえプロであっても全員がそういう微調整を完璧にできるわけではないので、オケの音にかすかな不快感を伴うずれ(不協和音と言うほどではない)が生じてしまいます。これがあると私は音の世界に浸りきれなくなってしまうので、本当に残念でした。室内だったらきっともっと良かっただろうと思うと残念さもひときわ強く感じます。

もう一つ残念に思ったのは字幕がなかったこと。あらすじを知っていても、実際にやりとりされる会話やアリア、合唱の意味するところが具体的に分からないとやはり若干舞台の進行を追うのに戸惑います。音楽の雰囲気と歌手の演技力でおおよそのことが分かることも多いですが、歌詞がちゃんと分かるに越したことはありません。

あとはまあ、ラダメス役の人はもっとかっこいい人が良かったなと思ったくらいでしょうか。だって二人の女性に愛され、奪い合いされる男性なのに、ダサいおっさんでは興ざめじゃないですか?(* ̄▽ ̄)フフフッ♪ 声は良かったと思いますけど。
それをダンナに言ったら、「成功している男は多少外見が悪くてももてる!」と返されました。確かにそうかも! 

 

公演は19時に始まり、22時少し前に終わりました。休憩込みで約3時間だったわけですが、FB友の一人がヴェローナで見た公演は休憩込みで4時間だったというので、ケルン公演ではダンスやパレードみたいな部分が短縮されていたのかも知れません。

それはともかくかなり冷え込んだので(気温は12度になってました)、駐車場の混雑が過ぎ去るのを待つことも兼ねて近くのラインテラッセン(Rheinterrassen)というカフェ・バーに入り、ミントティーを頂きました。

 

6月にケルンオペラ座の公演で『ルチア・ディ・ランマーモール』を見に来たときは終わったとたんにすぐ帰ってしまったので全く気付きませんでしたが、シュターテンハウスという劇場もタンツブルンネンという野外劇場もライン河畔と言ってもいいところにあり、ちょうどケルンの大聖堂が見える位置なのですね。ラインテラッセンの敷地には海岸に置くような座籠もおいてあり、よく見たら下に砂が敷いてあって、砂浜のイメージが作られてました!( ´∀` )

ライン川と大聖堂が夕日に染まってゆく中で取るディナーもなかなか乙なものかもしれません。ラインテラッセンのレストランとしての質は未知ですからお勧めとかはできませんけど。トリップアドヴァイザーに掲載されている口コミによればブランチなんかもあるらしいですが、「サービスが悪い」という声が若干多いような?

何はともあれお茶で温まった体が冷えないうちに車に駆け込み帰途についたのでした。それなりにいい晩でした。でもいつか本格的な劇場で壮大な『アイーダ』を堪能してみたいですね。


北ドイツの原発3基が相次ぎ故障:ブロークドルフ、ブルンスビュッテル、グローンデ

2016年08月09日 | 社会

アウスゲシュトラールト・ブログ、2016.08.08.付けの記事(ヤン・ベッカー Jan Becker )で北ドイツの原発3基が相次いで故障したことが報告されています。以下日本語訳です。記事中は原発2基となっています。これは8月5日ブロークドルフ原発とブルンスビュッテル原発の2基に故障が判明したことによります。グローンデ原発の不調は8月2日に発覚しており、8月5日は再稼働予定日の変更が発表されただけです。

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北ドイツの原発での故障 
 
先週、北ドイツの原発2基で平常稼働から外れる異常が報告された。グローンデ原子炉の再稼働はまたしても延期され、8月半ばとなった。
ファッテンファル社と プロイセンエレクトラ社( 旧エーオン社)の発表によれば、先週の月曜にこの2件の異常事態が起き、キールの管轄当局に報告せざるを得なくなった。
 

ブロークドルフ原発では緊急ポンプが作動せず
 
ブロークドルフ原発で定期検査中、中間冷却システムの緊急ポンプが作動しなくなったという。このポンプを「何度も規定通りに切ったり入れたりしたら、過剰電流防御リレーが作動し、ポンプを停止させた」とプロイセンエレクトラ社は報告した。リレーとポンプ部品を交換したとのこと。

この原発は年間定期検査の一環として包括的検査が3週間行われた後、1ケ月余り前に再稼働されたばかりだった。この検査では1500人の作業員と外部からの専門家が携わっていた。今回の問題についての原因究明は「まだ続いている」と事業者は金曜日に説明した。
 
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ブルンスビュッテル原発:消防装置の一部が故障

(ブロークドルフ原発の故障発生と)同じ日に、2007年以来停止されているブルンスビュッテル原発で消火装置の中の弁一個の機能不全が確認された。もしも原子炉の管理棟地下の配電室辺りで火事が起きたとしたら、スプリンクラー装置は作動していなかっただろう、とキール原子力管理局。消化装置はリモートコントロールでも、現場での手動捜査でも作動できなかった。事業者ファッテンファル社の報告では、この問題をスプリンクラー装置の検査で発見し、暫定的措置としてこの故障した弁を、消火装置が必要な際には手動で作動できるように調整したという。
 
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グローンデ原発は停止したまま
 
ニーダーザクセン州のグローンデ原発は7月30日にしずく状のリーケージのため不規則的に停止された。専門家の調査後、調節検査管との溶接継ぎ目が漏れやすくなっていることが確認された。州環境大臣シュテファン・ヴェンツェル(緑の党)は漏れの原因を「綿密に調査させる」と明言した。

プロイセンエレクトラ社はその間に修理計画案を提出し、配管の一部を交換すると明言した。実験室で原因究明を行い、比較可能な小規模管で疑似検査を行う予定だという。プロイセンエレクトラ社は現在のところグローンデ原発が2016年8月14日(日)から再び饋電できるようになると見ている。
 
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プロイセンエレクトラ社の最新情報は再びオンライン。

2016年7月1日以降、Eon社の原子力部門はプロイセンエレクトラ社という子会社名で運営されている。つまり、プロイセンエレクトラ社は、稼働中の3原発、ブロークドルフ、グローンデ、イザール2の運転、シュターデとヴュルガッセンの二つの廃炉プロジェクト及びグラーフェンラインフェルト、イザール1、ウンターヴェザー3基のこれからスタートする廃炉プロジェクトを担当しているのだ。
 
この新会社のインターネット・サイトが7月から原発情報を伝えるようになって以降、それと並行してエーオン社の従来のインフォ・サイトはそれ以上更新されることはなくなった。しかし先週以来再び最新情報が、特に報告義務のある事象についての報告が掲載されるようになった:preussenelektra.de -> Aktuelle Meldungen
 

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どの故障も両事業者によって国際原子力事象評価尺度のレベル0で、「異常なし」のカテゴリーに分類されましたが、こういう一見何でもないような些細なことが積み重なって、大きな事故に繋がる危険性も否めません。一度深刻事態が起こると、取り返しのつかない影響が環境・生態系及び人間の健康に及ぼされることになるので、全原発は早急に停止・廃炉にすべきです。ドイツは特に電力輸出大国ですから、原発の電力がゼロでもいささかも問題がありません。問題が出るのは電力会社の経常利益だけでしょう。

 

参照記事:
プロイセンエレクトラ・プレスリリース、02.08.2016、「グローンデ原発:調節検査管、微細リーケージ
プロイセンエレクトラ・プレスリリース、05.08.2016、「グローンデ原発:再稼働は来週末の予定
プロイセンエレクトラ・プレスリリース、05.08.2016、「ブロークドルフ原発:中間冷却ポンプ停止」 
ファッテンファル・プレスリリース、05.08.2016、「ブルンスビュッテル発電所:開閉弁通常作動せず

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ブロークドルフ原発

株主:エーオン80%、ファッテンファル20%

事業者:プロイセンエレクトラ

営業開始:1989.12.22

稼働終了予定:2021.12.31

原子炉:加圧水型(酸化ウラン燃料、MOX燃料も使用)

実質発電容量:1410MW

 

ブルンスビュッテル原発

株主:ファッテンファル67%、エーオン33%

事業者:ブルンスビュッテル原発

営業開始:1977.02.07

稼働終了:仮処分2007.07.21、最終停止2011.06.30

原子炉:沸騰水型軽水炉

実質発電容量:771MW

報告義務のある事象:1977年以来累計477件、うち2件は放射能漏れ。

 

グローンデ原発

株主:エーオン83.3%、ビーレフェルト市営企業16.7%

事業者:共同原発有限会社グローンデ

営業開始:1985.02.01

稼働終了予定:2021.12.31

原子炉:加圧水型(酸化ウラン燃料、2013年よりMOX燃料も使用)、ジーメンス製

実質発電容量:1360MW

報告義務のある事象:1985年以来累計200件以上、うちレベル1事象1件。


ドイツ:百万年の耐久性を求めて~核のごみ最終処分場選定手続きの提案

ドイツの脱原発、核廃棄物の処理費用は結局納税者持ち~原子力委員会の提案

ドイツ:憲法裁判所で脱原発公判開始

ドイツのエネルギー法改正

ドイツの脱原発~その真実と虚構、現状 (1)

ドイツの脱原発~その真実と虚構、現状 (2)

ドイツの脱原発~その真実と虚構、現状 (3)

ドイツの脱原発~その真実と虚構、現状 (4)― 事後責任法案本日閣議決定

ドイツ:2015年度国外電力取引統計ー脱原発の現状

 


ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(9)~ヴュルツブルク・ロマンチック街道終点

2016年08月08日 | 旅行

ヴュルツブルクがこの度のバイエルン州周遊旅行の最後の街となります。

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ヴュルツブルクの歴史は公式な文献にカステルム・ヴィルテブルク(Castellum Virteburch)として初めて登場した704年からスタートしますが、マイン川左岸の高台マリエンベルクに骨壺墓地文化時代(紀元前1000年頃)のケルト人が住んでいたことが分かっています。ケルト人は防備を固めた居住地をブリガ(briga)と呼ぶ習慣があったので、virti-briga(ヴィルトゥスの城塞都市)というのが8世紀のVirteburchとなり、現在のWürzburgとなった可能性があります。現地名の字面だけ見ると、Würz-「香辛料」プラスBurg「城、都市」のように分析できるので、それが語源だと考える人が昔から多かったようですが、ケルト語源説の方が整合性があり、有力な説とされています。

ヴュルツブルクはローマ帝国の属州になったことはなく、ゲルマン民族大移動の時代(4-5世紀)にまずアレマン族が入居し、その後6世紀にはフランク族がこの土地を取得し、650年ごろからメロヴィング王朝の将軍居城となったようです。

1168年、赤髭王フリートリヒ1世(Friedrich I. Barbarossa)がヴュルツブルクで開催された帝国議会において、当時の司教ヘロルトに公爵(Herzog)の位を与えたため、以降ヴュルツブルクの司教は侯爵司教(Fürstbischof)と名乗ることが許されました。

近世では宗教改革、対抗宗教改革そして魔女狩りなど陰惨な歴史の舞台となりました。1631-34年にはスウェーデンの占領下にありました。18世紀末-19世紀初頭はフランス軍に占領されていたこともあります。1802年、まだ帝国代表者主要決議(1803)の前に既にバイエルン選帝侯軍がヴュルツブルクを占領し、同年11月に侯爵司教ゲオルク・カール・フォン・フェヒェンバッハは侯爵位を退位して、ただの司教になりまた。その翌日バイエルン選帝侯王マクシミリアン1世がヴュルツブルクを実質的にバイエルン領としましたが、改革を急ぎ、市民に愛されていた祝日をなくすなどで民衆にかなり恨まれたそうです。1806年2月、第3次対仏大同盟戦争に終止符を打ったプレスベルクの和約で、ヴュルツブルクは大公領となり、トスカーナから来たフェルディナント3世の手に渡りました。同年10月にはナポレオンがヴュルツブルクに来て、大公領はライン同盟(Rheinbund)に加盟。しかし1813年、ナポレオンから離れたバイエルンがオーストリア軍と共にヴュルツブルクを攻撃し、フランス軍を撃退。1814年、ヴュルツブルクは再びバイエルン領になりました。その時バイエルン選帝侯王国皇太子はヴュルツブルクに居を構えることが決められ、それにより1821年ルイトポルトがヴュルツブルクのレジデンツで誕生しました。随分と忙しい近世ですね。でも、これ以降はずっとバイエルンの一都市で現在に至ります。現在人口約12万5千人の小都市。

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私たちがヴュルツブルクに到着した日、8月1日は非常にハードな日でした。私のこの旅行記シリーズをずっと読んでいただいている方にはお分かりかと思いますが、この日私たちはまずネルトリンゲンで城壁の巡視路を歩き、ヘッセルベルクを登り、ディンケルスビュール観光もこなしていました。だから、ヴュルツブルク入りしたらいい加減ホテルで休んでしまっても良さそうなんですが… そうはならないのが私たち、というか。

何はともあれ夜7時ころにホテルにチェックイン。ホテル・リントラインミューレという三ツ星ホテル。部屋もバスルームもすごく手狭な感じで二つ星かと見紛うばかり。口コミが全く当てにならないケースでした。

ひと風呂ならぬひとシャワー浴びた後、旧市街へ繰り出し(ホテルは旧市街から2.4㎞離れている)、レストランを求めてふらふらしました。結局、レストラン・ヴュルツブルク(Restraunt Würtzburg)という市名を掲げた(でもtがよけいにある)ホテルレストランに決定。

地元のワイン、地元のスープを頂きましたが、メインはローカルなものとは関係のないウィーン風子牛カツにラムフィレ。美味でした。

    

 

食べて元気になったら、ちょっと市内観光。

夜のアルテ・マインブリュッケ(Alte Mainbrücke、古マイン橋)。1473-1543年に建立されたもの。1730年頃に聖人像が飾られたそうです。歩行者専用で、橋の端に居酒屋があるので、橋の上でお酒飲んでる人たちが一杯。

 

向こう岸の高台に見えるのはマリエンベルク要塞。706年にマリア教会が建てられ、1200年頃に教会を囲むように要塞と居城が作られ、増築に増築を繰り返して今に至る建物群。最後の増築は17世紀。

ノイミュンスター教会。バロックのファサードは18世紀のもの。

マリエンカペレ(聖母礼拝堂)。もう暗すぎて碌な写真にならない。

旧市街の散歩だけでは飽き足らず、私たちは高台のマリエンベルク要塞に登りました。もちろん駐車場のある所までは車で。でもそこから夜景が見えるところまで結構な距離を歩きました。
 

この日、私の万歩計アプリは22,000歩を記録しました。今回の旅行中の最高記録です。さすがに最後は足が上がらなくなってしまいました ( ̄∇ ̄;)

翌朝、そこそこ満足のいく朝食ビュッフェで機嫌を直し、新たな一日のスタート。 

ヴュルツブルクには普通の歩きの市内観光ツアーの他にオーディオガイドがあります。観光スポット11か所プラス街の歴史がデータとして入っています。順序不順で呼び出して聞くことも可能です。GPS機能がついているので登録された観光スポットのそばに来るとその観光スポットの解説がスタンバイします。3時間7.50ユーロ。チェックアウトに時間がかかってしまったので私たちはこのアオーディオガイドを借りて市内観光することにしたのですが、雨が降って散々でした。

まずはユネスコ世界遺産であるレジデンツ。ドイツバロックの最高峰と言われる宮殿で、侯爵司教ヨハン・フィリップ・フランツ・フォン・シェーンボルンの命により1720-1744年にバルターザー・ノイマン(Balthasar Neumann)の設計に基づいて建立されました。第2次世界大戦中の1945年3月16日の空襲で街の90%は破壊されましたが、このレジデンツは被害を受けずに済みました。現在博物館になっている部分の他、ヴュルツブルク大学のいくつかの学科や研究所が入っています。

  

ホーフキルヒェ(Hofkirche)は大学や研究所の入っている棟にあるので、入場料なしに見られます。祭壇分が2階建てになっている珍しい構造です。

   

入場料の要る博物館の方は観光客でごった返していたのと、かばんや上着などあらゆるものを預けなければいけないうえ、写真撮影も何もかも禁止という条件になんとなくもう嫌気がさし、「じゃあいいか」という感じで、レジデンツを出て旧市街の方へ。レジデンツから旧市街へ向かう道はホーフシュトラッセ(Hofstraße)というのですが、この道はダイレクトに聖キリアン大聖堂に続いてい。侯爵司教たちはここに埋葬されたので、生きている時から自分の埋葬場所をレジデンツから見ることができたのだそうで、いいんだか悪いんだか。。。

後ろ側から見た大聖堂とノイミュンスター教会。狭い広場を挟んで隣り合っているので、全体像がつかめません。

聖キリアン大聖堂。正面から。

ヴュルツブルクの聖キリアン大聖堂はドイツで4番目に古くて大きいロマネスク様式のホール型教会。11世紀に建てられ、18世紀にバロック風に模様替えされ(祭壇・聖歌隊席部分)、戦後の再建の際に現代的要素も取り入れられました(天井画等)。
      

お隣のノイミュンスター教会。ノイミュンスターは1000年の歴史があります。ここで3聖人キリアン、コロナート、トトナンが斬首刑にされたそうです。それを偲ぶために8世紀に記念碑が建てられ、教会の基礎になってます。大元はお隣の聖キリアン大聖堂同様ロマネスク様式のホール型教会で18世紀に例によってバロック風に改装されました。

バロックファサードの後ろには丸屋根。
     

面白いのは真ん中のカーテンの彫刻。

3聖人キリアン、コロナート、トトナン。

ノイミュンスター教会の裏手には少々分かりづらいのですがルーザムゲルトヒェン(Lusamgärtchen)と呼ばれる中庭があります。後期ロマネスク様式の歩廊に囲まれたなかなか風情のあるところです。そこには日本ではほとんど知られていないと思いますが、12世紀の吟遊詩人ヴァルター・フォン・フォーゲルヴァイデのお墓があります。彼が本当にそこに埋葬されたかどうかは実は定かではないのですが、伝説に従い恐らく18世紀中様に墓碑をここに置いたとのことです。


場所は変わりまして、マルクト広場のファルケンハウス。ロココファサードが素晴らしい。元はホテル&レストラン。現在は市営図書館とツーリストインフォメーションが入居してます。ロイヤルエアフォースによる爆撃で旧市街の90%は破壊されましたが、ファルケンハウスは戦後最初にオリジナル通りに再建されたそうです。

ファルケンハウスの向かい側にあるのは1377-1480年に建てられた後期バロック様式のマリエンカペレ。大きいのにチャペル(カペレ)というのは司祭権がないことによるそうです。建設費は金持ちの市民が負担しました。ここに埋葬されるのは金持ち市民の特権だったそうです。中の装備品は戦後に新調したもの。
  

なぜか「信仰のアップデート」という箱物が置いてあるのがわらえました。電源は入ってなかったので、どんなものなのか判断しかねますが。

マルクト広場の近くにある、1413年に既に文書に登場するレストラン・シュタッヘル(Stachel)。ここは市民暴動の連絡場所にもなったとか。今でもレストランです。

市庁舎は13世紀に建てられたロマネスク様式の塔のある建物なのですが、補修工事中で、包まれてしまっているので何も見れませんでした(´;ω;`)

アルテ・マインブリュッケ再び。どんより~
 

ヴュルツブルクにはもっと見どころがあるのですが、何分雨で歩き回る気力も萎えてしまい、オーディオガイドの紹介するポイントだけ見て観光を終了し、帰途につきました。

天候にあまり恵まれなかったせいもあるでしょうが、今回の周遊旅行は異常に疲れました。4年前のフランス横断旅行よりもずっとハードに感じました。多分、文化・歴史の詰め込みが多く、自然の景観を楽しんで頭を休める日が雨のせいでなくなってしまったからではないかと思いますが、年のせいもあるかもしれません。今後こういう旅行の仕方は止めようかと反省しております。


ドイツ: ローマ帝国軍駐屯地ザールブルク

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(1)~ニュルンベルク前編

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(1)~ニュルンベルク後編

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(2)~レーゲンスブルク(ユネスコ世界文化遺産)

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(3)~ドナウシュタウフ・ヴァルハラ

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(4)~バイエルンの森・ガラス街道

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(5)~パッサウ・イタリアンバロックの街

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(6)~アウクスブルク・ドイツで2番目に古い街

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(7)~ネルトリンゲン・隕石クレータの街

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(8)~ヘッセルベルク&ディンケルスビュール(ロマンチック街道の街)


ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(8)~ヘッセルベルク&ディンケルスビュール(ロマンチック街道の街)

2016年08月08日 | 旅行

ヘッセルベルク(Hesselberg)のことはネルトリンゲンの観光ガイドさんに聞きました。ネルトリンゲンに1500万年前に落ちた隕石は半径23-25㎞の窪地を作っただけではなく、そのエネルギーによってその窪地の外にも地質構造上の影響を与え、ヘッセルベルクと言う逆転地層を示す【証人山】ができたらしいのです。ジュラ紀の地層が表面に出ているらしいです。地学的な知識がないので、詳しいことは分かりませんが。とにかくフランケンアルプと呼ばれる地域で一番高い山です。

 

 

ダンナは、本当はネルトリンガー・リースと呼ばれる窪地の縁を成す丘陵地に行きたがっていたのですが、正確な地名が思い出せず、記憶していたのがヘッセルベルクだけでしたので、そこに向かった次第です。ロマンチック街道からは外れますが、そういう寄り道もよかろうということで。。。

 

天気が良かったので、平地に囲まれた標高689mのヘッセルベルクからの眺めは非常に気持ちよかったです。

  

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このなんてことないような山にも歴史があり、石器自体から継続的に人が住んでいたようです。紀元前13世紀から8世紀辺りには既にかなり堅固な防御壁に囲まれていたようです。紀元前6世紀から紀元前後まではラ・テーヌ期のケルト人が住んでいた痕跡もあります。紀元後1世紀にはローマ人が来ていましたが、ヘッセルベルクから少し離れたところにリーメス(国境防御壁)を築き、ヘッセルベルク自体は防衛システムに組み込まれなかったようです。

その後は、アレマン族とフランク族の境界を成す山として取ったり取られたりが繰り返されたようです。現在でもヘッセルベルクはアレマン方言(シュヴァーベン方言)とフランケン方言の境界線を成しています。中世・近世もこの山の持ち主はころころ変わり、1806年にバイエルン領となり、現在はキリスト教会の所有となっています。

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歴史はこの辺にして、実はヘッセルベルクの頂上付近には休憩所があるのですが、トイレがないんです。( ´゚д゚`)エー なので、当初の予定ではロマンチック街道に戻ってローテンブルク・オプ・デァ・タウバー(Rothenburg ob der Tauber)と言うところに行く予定だったのですが、それは離れすぎているということで、途中でトイレがないかどうか探しながらヘッセルベルクから一番近いロマンチック街道の街・ディンケルスビュール(Dinkelsbühl)を目指しました。そしたら見事に途中に何もなくて、ディンケルスビュールについて、最初に目にした営業中のカフェに飛び込んで用を足す羽目に… なんとも情けない話ですが、そういういきさつで到着した街でした。わざわざこの街を目指していらっしゃる観光客の方々には申し訳ないかもしれませんが…

 

取りあえずカフェで一息つきました。ザッハートルテで、「ザッハー」と書いてあるケーキは初めて見ました( ´∀` ) 美味でした。

 

カフェで一服している間に街のホームページを呼び出すと、なんと「ドイツで最も美しい旧市街」と言うタイトルが!それはまた随分と大きく出たものだ、と思いつつ現在位置とツーリストインフォのある場所を確認しました。

私たちはローテンブルガー門の近くに居たので、ツーリストインフォに辿り着くまでに観光のメインは見てしまいました。驚いたのは、いくらロマンチック街道とはいえノイシュヴァンシュタイン城に比べればかなりマイナーな所にもかかわらず日本人観光客グループが居たことです。女性ばかりだったような気がします。

実際かわいらしい素敵なところです。

    

 

   

 

   

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ディンケルスビュールは私たちが今回訪れた街の中では珍しく中世からその歴史が始まります。地形が防衛に適していたことと、重要な交易路・東海→ドイツ中部→イタリアとヴォルムス→プラハ→クラーカウの交差点が近くにあったことが理由で、ホーエンシュタウフェン家とヴェルフ家が覇権争いをしていた時代、1130年にシュタウフェン家の所領を結ぶ防衛拠点の一部として形成されたもので、元々カロリング朝時代に創られたヴェルニッツ川渡渉地点沿いの入植地を拡充させてできた街です。街の中心に大きな市場がなく、あちこちに分散していろんな市場(壺市場、パン市場、食用油市場、家畜市場、皮革製品市場など)があったことが特徴的です。街の象徴ともいえる聖ゲオルグ教会は1499年に完成。これ以降街並みは基本的に変わっていないそうです。それでも、ディンケルスビュールの旧市街は、19世紀から20世紀に大規模な拡張がなされました。市を完全に取り巻く壁が完成し、西側と南側には濠が掘られ、北にはローテンブルガー池が設けられ、東側はヴェルニッツ川につながる洪水調整池が造られました。つまり外側から見る旧市街の景観は15世紀とは大分違うわけですね。

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ツーリストインフォで入手した地図を手にぐるっと街を回って満足した後、私たちはディンケルスビュールを後にし、ロマンチック街道の終点(あるいは始点)であるヴュルツブルクに向かいました。本当のロマンチック街道を車で走らせると時間がかかってしまうので、アウトバーンを使ってびゅんと( ´∀` )

 

ヴュルツブルク編に続く。


 

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ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(7)~ネルトリンゲン・隕石クレータの街(ロマンチック街道)

2016年08月07日 | 旅行

ネルトリンゲン(Nördlingen)はアウクスブルクからいわゆるロマンチック街道を北上して約80㎞くらいのところにあります。

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この街は中世の面影がそのまま残るロマンチック街道のハイライトの一つであるばかりではなく、地理的にも興味深いところです。と言うのは、この街は「ネルトリンガー・リース(Nördlinger Ries)」と呼ばれる窪地にあり、その窪地はなんと1500万年前に落ちてきた隕石によってできたのです!窪地は半径23-25㎞くらいあり、丘陵地に囲まれています。1960年まではそれが隕石だとは断定できず、元火山口だったのではないかとも言われていましたが、1960年にアメリカから地質学者が来て調査した結果、その地に多くある「スエバイト」は部分的に溶融した岩石で、隕石衝突によってしか生成されないということが分かったのです。以来ネルトリンゲンには世界中から隕石学者や地質学者などが集まってくるとのことです。

ほぼ完璧な円形に近い城塞都市を築くことができたのも、そこが隕石クレータだったからと言えるでしょう。

ネルトリンゲンには既に1万年以上前にケルト人が集落を構えていたようです。新石器時代からラ・テーヌ時代までのケルト文化の痕跡が残されているそうです。紀元後85年にはローマ帝国軍がここに小さめの駐屯地を置き、それに伴う集落もでき、大農場も見つかっています。詳しい記録は残っていませんが、ローマ帝国崩壊後、6世紀にはアレマン人がここに集落を築いたことが分かっています。898年神聖ローマ帝国皇帝アルヌルフが、王宮ネルトリンゲンがレーゲンスブルク司教に譲渡されるということを確認しました。1215年フリートリヒ2世皇帝は街を取り戻し、市場及び都市権をネルトリンゲンに与えました。以降自由帝国都市(Freie Reichsstadt)として繁栄しました。16世紀には宗教改革で、町はルーテル派になります。17世紀の30年戦争において、1634年のネルトリンゲンの戦いで大敗してしまい、人口が半減し、1939年になってようやく1618年の人口レベルに戻ったといいます。他の自由都市同様ネルトリンゲンも1803年の帝国代表者主要決議(Reichsdeputationshauptschluss)によって独立性を失い、バイエルン領となりました。第二次世界大戦では駅周辺は破壊されたそうですが、旧市街はほぼ被害がなかったので、私たちは今でも中世のままのネルトリンゲンを目にすることができるのです。

中世の城壁を今に残す町はネルトリンゲンの他にもいくつかありますが、現在でも城門を通らないと街中に入れず、また城壁の巡視路を完全に一周できるのはここだけです。1周すると2.7㎞だそうです。城壁には5つの門と12の見張り塔があります。

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私たちは日曜日の夕方についたので、14時からの市内観光ツアーには当然参加できませんでしたが、ネルトリンゲンには夜の観光ツアーもあり、20時からだったので、まずはホテルに落ち着き、晩ごはんを食べることにしました。泊ったホテルはNHホテル・クレーステレ(Klösterle)という元修道院の建物に隣接する4つ星ホテル。

 

晩ごはんを頂いたのはホテルから歩いて数分のマルクト広場にあるディアブロというメキシコレストランでした。

タコス・ミクスト。少々食べづらかったですが、ピリッとして美味しかったです。

 

市内観光ツアー。

  

ネルトリンゲンには製革工が多くいたらしく、彼らの作業場兼住居が多く残っています。上の方の窓ガラスが付いていない階は、以前は吹きっさらしで、皮を乾かすために使われていたそうです。

     

かなり改造された元製革工の家。皮を乾かすための階はベランダのようにして、奥まった所に部屋を作ったそうです。そばで見ると、なぜ建っているのか不思議なほどあちこち歪んでます。でも中の部屋は水平なんだそうです。

かつての救貧病院。今は市の郷土史博物館。後ろの教会は今も救貧的病院を経営しています。シュピタールキルヒェ(Spitalkirche)。

 

町の中心にそびえる「ダニエル」と呼ばれる聖ゲオルグ教会の塔(90m)。今でも毎晩22時に見張り番へ呼びかけ「ゾー、グゼル、ゾー(So, G'sell, so)」が叫ばれます。22時5分前にツアーが終わったので、この呼びかけを聞くために待ってました。呼びかけられるはずの見張り番はとっくにいなくなっているのですが、この呼びかけだけは残っているのだそうです。塔の右手にあるのは15世紀半ばに建てられたブロートウントタンツハウス(Brot- und Tanzhaus、パンとダンスハウス)。地上階がパン屋で、2階がダンスホールになっていたことからその名前がついてます。

市庁舎のマルクト広場側にあるネルトリンゲンの街の模型。

 

翌朝、風邪気味で、咳をしながら目覚めました(つд⊂) 旦那が窓を開けっぱなしにしていたので、夜に冷え込んだようでした。朝食ビュッフェは満足のいく豪華さで、ティーコーナーも心躍るような素敵さ。

 

朝食後、チェックアウトする前にすぐ近くの「ダニエル」に登ろうとしたのですが、補修工事中で、8月1日は立ち入り禁止になってました(´;ω;`)

仕方がないので、ちょっと土産物屋で絵ハガキなどを買い、ホテルに戻ってチェックアウトしました。博物館は… 月曜日休館です。はい。分かってました。

そういうわけで、城壁の巡視路でも歩くか、ということになりました。一先ず昨晩あまり見れなかった市庁舎から。17世紀初頭の建築で、スエバイトが使われています。

  

ベルガー門(Berger Tor)。ここから巡視路に登りました。一度巡視路に登ると、次の城門まで降りられないので要注意です。

  

狭くて低い天井。写真に写っているダンナは183㎝。降り口はバルディンガー門(Baldinger Tor)。

  

城壁には所々張り付くように建てられた長屋があります。かつて貧しい人たちがそこに安く住んだそうです。ただし、有事の際には家を兵士たちに明け渡すことが条件だったとか。現在では貸別荘などになっています。

 

ネルトリンゲンでは3年に一度シュタットマウアーフェスト(Stadtmauerfest、城壁祭り)があるそうで、 それが今年の9月9-11日だそうです。そのお祭りの時は町全体が中世に逆戻りしたかのように中世の衣装をまとい、中世の音楽を奏で、中世の大道芸が披露される、とのことです。それは見ものかもと思い、9月にもう一度ネルトリンゲンに行こうかと考え中です。

ヘッセルベルク&ディンケルスビュール編に続く。


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