徒然なるままに ~ Mikako Husselのブログ

ドイツ情報、ヨーロッパ旅行記、書評、その他「心にうつりゆくよしなし事」

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(6)~アウクスブルク・ドイツで2番目に古い街

2016年08月06日 | 旅行

7月30日、快晴の夏日和。私たちはパッサウを出発して、西へ210㎞余り車を走らせてアウクスブルク(Augsburg)に向かいました。

渋滞もそれほどなく、所要時間2時間ちょっとでアウクスブルク入りできましたが、例によって駐車場を探すのに手間取って時間を取られてしまいました。14時から始まる2時間の市内観光ツアーは13:30までにツーリストインフォでチケットを購入しなければならないとのことでしたので、車はダンナに任せて、私はチケットを買いに行きました。ツアーには市庁舎の「金のサロン」とフッガーライ(Fuggerei)の入場料も含まれているため、一人10ユーロとやや高め。ただしそのチケットで当日だけですが他の博物館でも割引が効きます。

下の写真はツーリストインフォのあるラートハウスプラッツ(Rathausplatz、市庁舎広場)。その名の通り市庁舎があります(3番目の写真)。
  

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日本語では「アウスブル」という濁音表記も時に見かけますが、ドイツ語発音としては大間違いです。ドイツ語のg、d、bは語末や他の子音の前では「硬化」します。つまり無声音k、t、pとなります。しかし現行の正書法ではこの無声化は表記には現れません。なのでドイツ語地名に多い「~burg」や「~berg」は常に「~ブルク」あるいは「~ベルク」と発音します。アウクスブルクの場合は、Aug-が子音sの前にあるのでこれも無声化し、【Auksburk】という発音になります。

ドイツ語の日本語表記で目立った間違いと言えば「w」の発音でしょうか。「フォルクスワーゲン(Volkswagen)」は英語読みですらないへんてこな読み方です。正しくは「フォルクスヴァ―ゲン」。英語読みなら「ヴォルクスワーゲン」。また作曲家「ワグナー(Wagner)」は正しくは「ヴァグナー」。

というわけで、アウクスブルクです。人口約29万人のバイエルン州で3番目に大きい都市ですが、ドイツでトリーアに次ぐ最古の都市でもあり、ローマ皇帝アウグストゥス(Augustus)が紀元前15年にローマ軍団駐屯地を置いたことに始まります。後にローマ帝国属州レティア(Raetia)の首都(総督府所在地)となりますが、レティアの軍事的中心拠点はパッサウに置かれました。ローマ帝国属州では例外的な措置ですが、恐らくアウクスブルクがドナウ川から南へ大分離れたところにあり、外敵を心配する必要があまりなかったせいかと思われます。アウクスブルクのラテン語名はアウグスタ・ヴィンデリクム(Augusta Vindelicum)、16世紀の修正地名はアウグスタ・ヴィンデリコールム(Augusta Vindelicorum)。AugustaはAugustusの女性形で、町名には女性形が普通だったために皇帝アウグストゥスの名を女性化して町名にしたと言われています。因みにトリーア(Trier)のラテン語名はアウグスタ・トレヴェロールム(Augusta Treverorum)で、現地名には後ろの部分しか残っていませんが、アウクスブルクの場合は前の部分しか残ってません( ´∀` )
ヴィンデルクムあるいはヴィンデリコールムの部分はその地に住んでいたケルト系部族ヴィンデリク族から来ています。トレヴェロールムはゲルマン系部族トレヴェル族に由来します。

アウクスブルクは神聖ローマ帝国時代には12世紀から自由都市、1316年から自由帝国都市となり、フッガー家(Fugger)やヴェルザー家(Welser)のような商家を中心に商業・金融業及び繊維業の中心地として繁栄しました。その繁栄の遺産(主にルネサンス期のもの)が現在観光客を喜ばせている次第です。もう少し詳しい歴史に興味のある方は取りあえずウィキペディアの記事などをご覧ください。

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市内観光ツアーでまずはアウクスブルクの誇るラートハウス(Rathaus、市庁舎)へ。現在補修工事中で、ファサードにはファサードの絵が描かれた布がかかっていて、本物が見れませんが、写真だとそれが意外と目立たないのがちょっと驚きです。このラートハウスは1615-20年にエリアス・ホルと言う建築家がイタリアンルネサンス様式で建てたもので、3階には神聖ローマ帝国の帝国会議場となるはずだった「金色のサロン(Der Goldene Saal)」があります。この建物はファサードなどの壁を残して全て第2次世界大戦中の爆撃で破壊されてしまったので、「金色のサロン」はもちろんオリジナルではなく、戦後の復元です。金メッキではなく本物の金箔を使用しているとのことです。その豪華さは圧巻で、見入って首が痛くなること請け合いです( ´∀` ) 写真は拡大してご覧下さい。
     

この「金色のサロン」が帝国会議場として使われることがなかった理由は30年戦争にあります。1648年の停戦までにアウクスブルクの人口は50%以上失われ、経済的な打撃も非常に大きかったので、比較的被害の少なかったニュルンベルクに和平交渉の舞台(1649)を持っていかれ、1663年からはレーゲンスブルクが帝国議会の常時開催地となり、アウクスブルクの「金色のサロン」の出番は神聖ローマ帝国において永遠に失われてしまったのでした。

それはともかくサロンの隣には侯爵執務室があります。そこはキンキラキンではありませんが天井や壁の木彫りは豪華です。

   

アウクスブルクの見どころの一つはルネサンス期の豪華な噴水なのですが、ラートハウスプラッツにあるアウグストゥス噴水は…

何やら野外コンサートの準備とかで噴水はこんな俗なものに囲まれちゃってました。ここから北の方にはドーム(Dom Unserer Lieben Frau、聖母大聖堂)が見えます。10-11世紀に建てられた元はロマネスク様式の教会ですが、14-15世紀にゴシック様式に建て替えたらしいです。遠くから見ただけなので詳しくは分かりませんが。
 

ここから右(東)に曲がって歩行者天国にはなっていない通りを降りていくと、水路のあるレヒ地区(Lechviertel)に行けます。『小ベネチア』とか呼ばれてるそうですが、ベネチアのように臭くありませんでした( ´∀` )
この辺りは18世紀までアウクスブルクの手工業の中心地で、たくさんの職工、皮なめし工、金・銀細工師などの工房がありました。
   

ブレヒトハウスはベルトルト・ブレヒトの生誕家で現在博物館になっています。


味気ない通り(バーフューサーシュトラッセ&ヤコーバーシュトラッセ)を歩いて更に東へ。
 

世界最古の現存する福祉住宅街フッガーライ(Fuggerei)に到着。
  

フッガーライの全体像は下の写真で分かります。煙突がたくさんありますが、現在はガス暖房のため使用されていません。

フッガーライは1521年に豪商ヤコプ・フッガーが資金提供して、生活に困っているアウクスブルク市民のための建設されました。1年間の家賃(管理費・光熱費などは除く)は、今でも昔の1ライン・グルデンの額面価値(現在0.88ユーロ)のままで、寄進者とフッガー一族のために毎日三通りの祈りを奉げることも家賃の一部とされています。管理費は月85ユーロとのことです。全部で67件に区分けされた長屋には140のアパートがあり、現在150人の入居者が生活しています。

フッガーライは現在でも寄進されたフッガー財団の資産によって運営されています。その運営コンセプトは500年前から変わらず「自助努力を支援する」です。【施し】ではないのです。

ここには8つの通りと7つの門があり、教会や城壁、城門まで備えられた「街の中にあるもう一つの街」ということができます。500年前から変わらない伝統として、城門は22時に閉まります。門限以降にフッガーライに入るにはオクセンガッセ(雄牛通り)にあるオクセン門を待機している夜警に開けてもらい、心づけを払う必要があります。22時過ぎは50セント、0時過ぎは1ユーロとかだそうです。

中央通り13・14番にあるアパートでかの有名なヴォルフガング・モーツァルトの曽祖父フランツ・モーツァルトが1681-1694年に住んでいたそうです。そこは博物館になっていて、ほぼ当時のままの住居を見学することができます。
寝室
 
 

居間
 
 

台所
  

中の設備などは現代化されても、基本的な間取りは昔のまま変わっていないそうです。面積は約60平方メートルで、寝室、居間、ダイニングキッチン、ユニットバス。日本でいう1LDKでしょうか。

現在のアパートのショールームもあります。
   

なかなか悪くないアパートです。これが年間88セントプラス管理費月85ユーロと言うから通常の福祉住宅と比べても尋常でない安さです。入居するにはもちろん条件があります。アウクスブルク市民であることと市の福祉課の要支援証明が公的な条件ですが、毎日のお祈りも「家賃」に入っていることと、その3つの祈りの中に『アヴェマリア』が入っていることで、カトリック教徒であることも暗黙の条件になっています。少し前まではお年寄りが優先的に入居できるようになっていましたが、近頃はシングルマザーも優先されるようになってきたのだとか。それでも現在の住民の平均年齢は63-4歳とのことです。

「街の中の街」と呼ばれるくらいなので、当然教会もあります。聖マルクス教会と言って、1581-82年にマルクス及びフィリップ・エドヴァルト・フッガーが建立したものです。

 

寄進者であるヤコプ・フッガーは、【富豪】ヤコプ・フッガー(Jakob Fugger, der Reiche)と通常呼ばれます。と言うのは、彼の父もヤコプ・フッガーだったからです。フッガー家の始祖と言えるハンス・フッガーは【富豪】ヤコプの祖父で、アウクスブルクのお嬢さんと結婚してアウクスブルクの市民権を獲得し、当時画期的だったバルヒェント(麻・綿混合布)の手織り職人で税金を払うほどお金持ちになりました。父ヤコプは手工業(手織り)ギルドから商人ギルドに転身して、布を始めとする様々なものの交易でフッガー家の富を増やしたとはいえ、まだ市内でもトップテンに入るような富豪にはなれませんでした。息子ヤコプは末息子として生まれ、稼業は兄たちが受け継ぎ、彼自身はイタリア・ベネチアへ留学して商業と特に複式簿記を学びました。兄たちが相次いで亡くなった後、息子ヤコプが事業を継いで、ハプスブルク家とローマ法王の金庫番として金融業で成功しました。ハプスブルク家が借金返済の代わりに採掘権を譲った銀山・銅山で【世界的な豪商】フッガー家の地位を築きました。彼は免罪符販売の金庫番でもあったため、宗教改革者マルチン・ルターの批判の対象となっていましたので、その批判をかわすために慈善事業フッガーライを創設したとも言われています。フッガーライ住民に彼とフッガー家のために祈らせていますが、フッガー家の業深さを思えば、フッガーライ10個建てても魂の救済には足りないのではないでしょうか。
フッガー家はフランス王家の破産やハプスブルク家の破産などで、相当その資産を減らしてしまいましたが、土地・建物や森林などは残され、現在残っているフッガー3家も十分に資産家です。 

さて、市内観光ツアーはフッガーライを出た後、レヒ地区の方へ戻り、かつての金・銀細工師の工房(一部現在でも継続)などを見学しました。

  

そしてまた坂を上がってマクシミリアン通り/モーリッツプラッツへ。かつての職工ギルドハウス(Weberhaus)があります。1389年に建設されたルネサンス様式の建物で、当時からファサードはカラフルなフレスコ画で飾られていたそうです。20世紀初頭にアウクスブルク市が買い取りましたが、損傷が激しかったので建て直し、その建物も第二次世界大戦の空襲で破壊されてしまいました。現在の建物は1959年に復元されたものです。


そして、ツアーの最後を飾ったのはフッガーホイザー(Fuggerhäuser、フッガー屋敷群)とその中のダーメンホーフ(Damenhof、婦人の中庭)でした。
 

フッガーホイザーはいくつもの隣り合った家を1511年に複合して、ファサードを統一した建物です。 現在もフッガー家所有です。中にはカフェやレストラン・居酒屋もあります。

ツアーはここで終了しました。16時になっていました。お昼を食べていなかった私たちはもうお腹ぺこぺこ。 ( ̄∇ ̄;) というわけで、市庁舎の地下のレストラン、ラーツケラー(Ratskeller)に食べに行きました。ランチタイムはとっくに過ぎていましたが、ディナータイムには早すぎたので場所によっては何も食べられないこともありますが、ラーツケラーはその点問題なしでした。

ラーツケラー・プファンネ(豚・牛肉、フライドポテト、野菜)とデザート(バニラアイス・キャラメルソースかけ)。
  

食後にもう一度フッガーライへ行って、博物館の歴史情報などを読み漁り、その後漸くホテルにチェックインしました。泊ったホテルはホリデーイン・エクスプレス・アウクスブルクという三ツ星ホテル。ツインルーム一晩95ユーロ(朝食付き)でしたが、パッサウの4つ星ホテルが一晩朝食付きで78ユーロだったことを考えると割高な感じは否めませんでした。それほど遅い時間だったわけでもないのにレセプションとバーにはたった一人しか居なくて、対応は悪かったですね。ホテル敷地内の駐車場はもう満杯だったので、2-3分歩いたところにあるショッピングモールの駐車場に車を止めろ、と言われましたが、私たちの車は既にそこに駐車してあって、荷物を下ろすために車をそこから出して、ホテル前にいったん止め、荷物を出した後にまたそこへ駐車したいと言ったら、ショッピングモールの駐車カードを「処理」して、これで駐車場から出られる、とだけ言われて駐車カードを返してもらったのですが、腑に落ちなかったのでもう一度質問しようとしたらすでに行列が… 仕方ないので駐車場から車出したら、案の定そのカードはターミナルに飲み込まれてしまいました。でもホテルの「処理」は1日8ユーロ。ホテルを介さず普通に清算したら、半額で済んでいたはずなので、噴飯ものです。結局車はちょっと離れた道路脇にただで問題なく駐車できました。この件で私たちのホテルの評価はかなりマイナスとなりました。

暑かったので、冷房がよく聞いていたのだけは助かりました。
  

翌朝、朝食ビュッフェでまたがっかりすることに。どこらへんががっかりかと言うと、温かいものがゆで卵のみだったこと、野菜がキュウリとトマトそして漬物コルニションしかなかったことです。二つ星や三ツ星ホテルでも朝食ビュッフェにかき卵、焼いたベーコンやソーセージ、簡単なサラダを出すところが結構あります。それに比べるとこのホリデーイン・エクスプレスは残念な部類です。

7月31日は前日の快晴とは打って変わって生憎天気が悪かったので、ダンナの希望もあって繊維工業博物館へ行きました。アウクスブルクは繊維業のメッカでした。1500年頃には人口約25000人で手織り職人(マイスター)は約1000人もいたそうです。かのハンス・フッガーもその一人でした。

 

博物館の中では写真を撮ってはいけないということでしたので、写真は博物館サイトから転載。
     

伝統的な機織り機から現代の全自動機械まで、と手動編み機から自動機械まで展示されていて、実際にそれを若い頃に職工として習ったというおじいさんがそれぞれ機械を動かして色々説明してくれました。なかなか興味深かったです。機械の他は繊維の作り方や染色・模様の印刷・モードの歴史等に関する展示物やビデオが見られます。

また特別展示でカーボン展(2016年11月6日まで)があったので、それも見てきたんですが、なんかもう頭がパンクしそうでした。分かったのは、カーボンは軽くて硬い、製造に手間がかかる、リサイクル問題未解決、でも未来のマテリアル、ということくらい。詳細には興味が持てなかったので、記憶のざるにも引っかからず流れ去っていきました~( ̄∇ ̄;)ハッハッハ

博物館ショップで博物館の指導で昔の機械で作った手ぬぐいなど色々なものが売っていたので、いくつかお土産を買ってきました。博物館の内容をまとめた本1冊、中世の発明と言う【バルヒェント】の手ぬぐい2枚、エプロン。

  

バルヒェントは縦糸が麻、横糸が綿で綾織されたもので、麻の丈夫さと綿の柔らかさを活かした布ということで14世紀に市場を席巻した代物だそうですが、19世紀末には衰退し、現在ではほとんど使われることが無くなっています。このバルヒェント手ぬぐいは一生使える、という触れ込みですが、それが納得できるほど厚みがあっていかにも丈夫そうな手触りです。これで顔なんか拭いたらちょっと痛そうな気はしますが( ´∀` ) 1枚19.90ユーロでした。

エプロンの方はジャカード織。こちらは綿100%で柔らかく、そこらで売ってるエプロンよりずっと厚みがあります。これは結構値が張って29.90ユーロでした。博物館ショップのものはちょっとネットで注文、というわけにはいかないようです。まさに「お土産」ですね。

さてアウクスブルクは【ロマンチック街道】のハイライトの一つでもあります。私たちはここからロマンチック街道を北上し、ヴュルツブルク(ロマンチック街道終着点あるいは出発点)へ向かっていきました。

ネルトリンゲン編へ続く。


ドイツ: ローマ帝国軍駐屯地ザールブルク

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(1)~ニュルンベルク前編

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(1)~ニュルンベルク後編

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(2)~レーゲンスブルク(ユネスコ世界文化遺産)

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(3)~ドナウシュタウフ・ヴァルハラ

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(4)~バイエルンの森・ガラス街道

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(5)~パッサウ・イタリアンバロックの街


ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(5)~パッサウ・イタリアンバロックの街

2016年08月06日 | 旅行

散々雨に降られつつバイエルンの森からパッサウに辿り着きましたが、ホテルがインシュタットというイン川を超えた向こう岸で、狭い街中からそこに至るには橋が一本しかないという状況から当然の帰結としての大渋滞に思いっきり巻き込まれ、パッサウの第一印象は最悪なものとなってしまいました。

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パッサウはイン川(左)、ドナウ川、イルツ川(右端の一番細い川)の三つの川が合流する、ドイツ・オーストリア国境の街で、ドライフリュッセシュタット(Dreiflüssestadt、三川街)という異名もあります。イン川(左)はドナウよりも幅が広く流れが速いそうですが、水深が浅いために大型船の航行はできません。

ローマ時代もドナウ川がゲルマニアとの国境で、パッサウは数ある要塞都市の一つで、カストラ・バターヴァ(Castra Batava)と呼ばれていました。バターヴァはそこで傭兵をしていた西ゲルマン系部族バターヴィ族から来ています。そのゲルマン系部族やローマ人たちがくる以前にいわゆるラ・テーヌ文化に属するケルト人たちが住んでいた痕跡があるのですが、どうしていなくなってしまったのかは不明です。地名「パッサウ(Passau)」はこの「バターヴァ(Batava)」が変形したものです。言語学に詳しい方なら、すぐにその「変形」がグリムの法則・第二子音推移によるものと分かるかもしれませんが、普通は想像もつきませんよね。

大まかな歴史の流れはレーゲンスブルクなどと同じで、ゲルマン民族大移動時代の5世紀にローマ軍が去り、6世紀にバイエルン族が来て、その後739年にキリスト教司教が来て修道院を創設し、パッサウは司教区に。

ただしパッサウは、ニュルンベルクやレーゲンスブルクとは違って帝国自由都市にはなれず、侯爵司教区(Fürstbistum)として世俗の権力を持ち合わせた侯爵司教(Fürstbischof)に支配されました。1225年に都市権を得て、市民の力が増し、14世紀には何度も司教支配に抵抗する反乱が起きましたが、毎回不成功に終わってました。

宗教戦争がヨーロッパを席捲していた1552年に「パッサウ条約(Passauer Vertrag)」が結ばれ、違う宗派に対する寛容を取り決めた「アウクスブルクの和議(Augsburger Religionsfrieden)」に至る道を決定づけることになる近世の歴史的舞台でもあります。

1662年と1680年に大規模な火災があり、町の大部分が焼失してしまい、イタリアの建築家たちが招聘された街の再建に携わったため、イタリアンバロックやロココ様式の建物が多く、ちょっとした小路などもイタリア風のアーチがかかっていたりして、ドイツの街には珍しい雰囲気があります。

1803年の神聖ローマ帝国の帝国代表者会議主要決議(Reichsdeputationshauptschluss)によって、教会所領の「世俗化」が決定し、司教区だったパッサウはバイエルンの一都市となりましたが、もしその当時住民投票のようなものがあったら、パッサウはバイエルンよりもオーストリア・ハンガリー帝国に所属することを選んでいたかもしれない、と言う地元の人たちもいるようです。1803年からパッサウは「眠り姫の眠り」についたという感覚が支配的なようですが、バイエルンについてもオーストリアについても「端っこ」であることには変わりがなく、地理的な条件から工業化には向いていないため、どちらにせよ近代化の波には乗れなかったのではないでしょうか。

パッサウは現在人口約5万人。うち1万3000人が大学生。もし大学がなかったら、もっと落ちぶれていたかもしれません。ちなみに秋田市の姉妹都市だそうです。

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私たちが泊ったホテルはドルメオホテル・パッサウという4つ星ホテル。

 

 

赤を基調とするモダンなデザインは好みではありませんでしたし、レセプションの女性が見習いか何かだったらしく非常に不慣れでチェックインがもたついたので、「4つ星ホテルの割には…」とホテルの印象はマイナス。

お隣がEdekaというスーパーで、お向かいがバス停と「P&R(駐車&バス・電車利用)」の大きい駐車場があったので、車を止めるところに困らなかったのはプラスの印象。

取りあえずトリップアドヴァイザーを頼りに歩いて行けるレストランを探し、イン川沿いをぶらぶら歩きだしました。

 

 

最初に入ったメキシコ料理のレストランはうるさ過ぎて耐えられなくなったので、料理を注文する前に退散。次に見つけたのがヴェンティトレ(23)というイタンリアン。天気が持つことを祈りつつ中庭の席を取りました。イカ、エビ、サケの盛り合わせ。パッサウの白ビール(ノンアルコール)を頂きました。ちょっと、というかかなり時間がかかりましたが、美味しかったです。デザートはチョコレートアイスのような… 残念ながらなんというものだったか忘れてしまいました。

  

 

食後は、恐らく昼間には渋滞で行くのが難しいだろうと思われた、ドナウとイルツに挟まれた高台の上にあるフェステ・オーバーハウス(Veste Oberhaus)に行きました。フェステは1219年に侯爵司教ウルリヒ2世によって、すでに建っていた聖ゲオルグ教会を囲むように作られた要塞居城です。ナポレオン1世がこの要塞を対オーストリア戦の拠点にしたらしいです。要塞は一度オーストリアに投降しますが、1815年のウィーン会議後はバイエルン軍の要塞兼監獄として使用され、「バイエルンのバスティーユ」と恐れられていたとか。現在は博物館になっています。

   

フェステからみたパッサウの夜景

翌朝、7月29日は10時半に始まる市内観光ツアーに参加する予定だったのですが、バスを降りる場所を間違えたのと、集合場所がツーリストインフォのある旧市庁舎前ではなく、聖シュテファン大聖堂の前だったため、時間通りに集合場所に辿り着けず、断念することに。結構急いで走ったりしたので、エネルギーを使い果たしてしまいました。

集合場所だと思って行った旧市庁舎。14-15世紀に建てられた富裕市民の住宅を繋げた建物。塔はネオゴシック。
 

仕方がないのでドライフリュッセンエック(Dreiflüsseneck、三川角)という三つの川が合流する地点に面する岬のような公園で一休みすることにしました。イン川を背にドナウ川とその向こうに聳えるフェステ・オーバーハウスを眺めながら、「ああ、向こう側はゲルマン領だったんだあ」などとぼんやりと考えていました。因みにフェステ・オーバーハウスの大砲はこちら側(市庁舎のある側)を向いて設置されていて、実際に市街地に向けて撃たれたという話ですから、それも怖いものです。あの高台が取れないと勝てないという戦略的に重要な位置であることがよく分かります。

  

 

休憩して少し回復してからイン川沿いを歩いて聖シュテファン大聖堂に向かいました。

途中にパッサウのシンボルの一つであるシャイプリングストゥルム(Schaiblingsturm)があります。

この塔はイン川岸に突出した岩の上に1250年城砦の一部として建てられました。防波堤の意味もあったようです。
塩貿易最盛期の時代には荷揚げされたものを収容する倉庫の機能もあったようです。数世紀の間に何度も改装・改修されてきましたが、
今の白っぽい壁は2004年の大規模改修時に塗られたものです。
費用26万ユーロをかけて、ヒーターやトイレも付けたので、住むことも可能になりましたが、壁の穴は残されました。
ツバメやコウモリが巣作りできるようにするため、だそうです。
2013年の大洪水時にかなり損傷したので、その補修工事も8万ユーロかかったと言います。随分とお金のかかる
シンボルですね。

 

聖シュテファン大聖堂は旧市街の最も高い所に建っています。聖シュテファンの歴史は紀元後720年まで遡りますが、戦争や火事で破壊・焼失してしまったので、現在残っているのは8世紀の修道院の回廊の一部〔中庭)、1407-1598年に建てられて、1662年と1680年の火事を生き延びた教会東部の後期ゴシック様式の部分と、火事の後1668-1693年に再建されたイタリアンバロック様式の部分だけです。この高台にローマ軍団のカストラ・バターヴァがあったので、その出土品が教会の中庭に展示されています。

イタリアンバロックの彫刻や天井のフレスコ画は完成度の高い美しさです。下のサムネイルをクリックするとオリジナルの大きさの写真が見られますので、ご堪能下さいませ。

   
 
この金色の説教壇も豪華で芸術的です。1720年代にウィーンの宮廷大工が製作したものだそうです。
 

世界一大きい教会オルガンが鎮座しています。このオルガンは5つのオルガンから成り、231の音栓と14388のパイプを備えています。地元のオルガン製作所アイゼンバルト(Eisenbarth)が1978–1984年にと1993年に製作したものとのことなので、教会ほど古くありません。

 

 

上の写真は教会の正面から撮りましたが、裏側(レジデンツプラッツ、Residenzplatz)に回るとゴシック様式の部分が見えます。中世のステンドグラスは残念ながら破壊されたままで修復されることなく、ただのガラスが嵌められています。

聖歌隊席のある丸い部分の左側に回るとゴシック様式とバロック様式の境界線がくっきりと見えます。

右側の何本も溝の入った柱のある方がゴシック、左側の平らで蒲鉾のような形の窓のある方がバロックです。
興味のある方は拡大して見比べてみて下さい。

 

様々な建築様式が混じっている教会は珍しくありませんが、ゴシックとバロックの組み合わせは私は今回初めて見ました。

ドームプラッツに立つ銅像はバイエルン王マクシミリアンで、ドナウに背を向け、ミュンヘンの方を向いています。前述の帝国代表者主要決議によって1803年からバイエルンの所領となったパッサウ市民たちに向けた「今後はバイエルン首都のミュンヘンの方を向いて、それに従え」というメッセージが込められているそうです。それまでパッサウはドナウ川を通商路とした貿易で栄えてきたので、どちらかと言えばドナウの方、すなわちオーストリアの方を見て生活してきたので、市民にとってはかなり強烈な方向転換だったようです。

昼休憩は大聖堂広場の教会から出て左手にあるカフェ・シュテファンスドーム(Café Stephan's Dom)で、疲れの吹っ飛ぶサマークレープ。クレープの中はラズベリーとバニラアイスがたっぷり。一人ではボリュームがあり過ぎるので、ダンナと分けて頂きました。店内には美味しそうなケーキもたくさんありましたが、何分暑かったので、ケーキと言う気分にはなれませんでした。

 

昼休憩の後、私は一人で市内観光ツアーに参加しましたが、ダンナは旧市庁舎の隣にあるガラス博物館に行きました。

ツアーは一人5ユーロ。旧市街の本当に狭い範囲しか歩きませんでしたが、それなりに面白かったです。洪水にまつわる話が多かったです。2013年の13m近くまで到達した洪水が記憶に新しいためでしょう。予報では9mという話だったのに一晩で一気に13m近くまで水位が上がったので、準備が全く役に立たずに甚大な被害が出たそうです。8mくらいの洪水は毎年1回はあり、そのくらいならパッサウ旧市街の住民たちはなれているらしいのですが…

下の家はヘルガッセ(Höllgasse、地獄小路)とプファッフェンガッセ(Pfaffengasse、牧師小路)の交差点に建っていて、ドナウ川岸からほんの数メートルしか離れていない低地にあります。歴史的な洪水の水位を丸い張り出し部分の二つの窓の間のところに記録してあり、2013年の水位は2階の窓が全部水没したことが分かります。サムネイルをクリックして拡大すると、その記録がよく見えるかと思います。2階の窓の半分より上の部分の記録は1954年7月10日の水位で、2013年の洪水が起こるまではそこが最高水位だったらしいですね。

 

 

パッサウの旧市街に残る中世的な小路。

   

 

下の写真は旧市庁舎の隣のガラス博物館が入っているホテル≪ヴィルダー・マン(Wilder Mann)≫の一部ですが、ドナウの方を向いて聖ニコラス像が飾ってあります。聖ニコラスは船乗りの保護聖人なので、その位置に取り付けられたとのことですが、この彫像は2013年の洪水で流されてしまい、一時行方不明になっていました。復旧作業の際に青年消防団がイルツ川合流地点近くのドナウに架かるルイポルト橋の下部の補強鉄骨に引っかかっている聖ニコラス像を発見し、泥を洗い流した後にヴィルダー・マンの所有者に返還したとのこと。プロフェッショナルな補修はされていないので、よく見れば汚れがしみとなって残っているのが分かります。

 

旧市庁舎からミルヒガッセ(Milchgasse、牛乳小路)を登るとイエズス会の教会聖ミカエル教会と現在はギムナジウムとして使われているかつてのイエズス会コレジオがあります。聖ミカエル教会は1677年の建立。内部の豪華な化粧しっくい細工は聖シュテファン大聖堂にも化粧しっくい細工を施したジョヴァンニ・バティスタ・カルローネと言う人の作です。

   

中は拡大してご覧ください。

聖ミカエル教会の全体像。ウィキペディアより転載。
 

イン川方面の狭い小路。
  

レジデンツプラッツ。パッサウで最も豪華な建物に囲まれた広場。司教居城があり、その中は教区の博物館にもなっています。
  

 

新司教居城の入り口の一つでロココ風の装飾が施されています。ここから入ると、「パッサウで最も美しいロココ調の階段室」があります。
   

    

「最も美しい」と言うから期待したのですが、ちょっと期待外れでした。目が肥えすぎてるのかもしれません。

これでパッサウ観光は終了です。

ダンナの報告によるとパッサウのガラス博物館は私的な収集だけあってかなり偏りがあり、そういうのが趣味の人たちには垂涎ものがたくさん展示されているのかも知れませんが、ガラスについて体系立って学ぼうという人には不向きで、バイエルンの森・フラウエナウのガラス博物館の方が分かりやすかった、とのことです。

 

翌7月30日。パッサウ最後の朝食を終えて、西へ210㎞ほどのアウクスブルクへ向かいました。

 

アウクスブルク編に続く。 


ドイツ: ローマ帝国軍駐屯地ザールブルク

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(1)~ニュルンベルク前編

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(1)~ニュルンベルク後編

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(2)~レーゲンスブルク(ユネスコ世界文化遺産)

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(3)~ドナウシュタウフ・ヴァルハラ

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ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(4)~バイエルンの森・ガラス街道

2016年08月05日 | 旅行

バイエルンの森はレーゲンスブルクからパッサウに行く途中にチェコ国境の方へ寄り道する感じの位置にあります。

7月28日は、レーゲンスブルクにほど近いドナウシュタウフに寄った後、バイエルンの森でただひたすら緑の中を散策し、頭を休めるはずでした。それなのに、こんな天気… 

 

  

 

仕方がないので、緑の中の散策は諦め、ヨーロッパ最古のガラス製造中心地の一つ、フラウエナウ(Frauenau)という村にあるガラス博物館に入りました。国立公園バイエルンの森のほぼ真ん中にある集落です。

屋内オプションはいいのですが、また頭を使わなくてはいけないのが玉に瑕。

ガラス博物館は、外もガラス芸術作品が多く展示されています。敷地内にはガラス工房もあり、見学できるようになっています。私たちはモンシャウというところでガラス工房見学をしたことがあるので、こちらでの工房見学は割愛しました。

  

博物館に入って、まず目についたのが、チェコ語表記です。ドイツ語・英語の次にチェコ語。さすが、チェコの国境が近いだけあります。ベルギーやフランスの方が近いドイツ西部から来ると、実に新鮮な驚きを感じました。

ガラス博物館は、人類のガラス製造の歴史からスタートし、ガラス製造の歴史を展示物とパネル解説やオーディオ解説などで現代までたどることができるようになっています。もちろんローカルなガラス製造の歴史、ヴェネチアングラスの影響やガラス職人の権利の変遷などを含めて学べるようになっています。チェコのボヘミアングラスも有名ですが、森、というくくりでみればボヘミアの森もバイエルンの森も繋がっています。たまたま領土の境界線が森の中を突っ切っているだけです。

       

 

いわゆるシャンデリアにぶら下げるたくさんの飾りは、最初、ただのガラスくずだったそうです。それでもきらきらと光を反射するのがロココ的趣味に合致したらしく、瞬く間に人気が出たので、デザインも凝るようになってきたとか。

   

バイエルンの森におけるガラス製造の歴史は約700年にも及びます。今でも多くのガラス工房、ガラス加工業などが盛んで、バイエルンの森は「ガラス街道(Glasstraße)」と呼ばれるルートがいくつかあります。

生憎の天気でしたので、ガラス街道の一つであるグラーフェナウ(Grafenau)からパッサウ(Passau)へ至る道をドライブしても何もそれらしきものを見ることができませんでした(´;ω;`)

 

パッサウ編に続く。


ドイツ: ローマ帝国軍駐屯地ザールブルク

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(1)~ニュルンベルク前編

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(1)~ニュルンベルク後編

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(2)~レーゲンスブルク(ユネスコ世界文化遺産)

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(3)~ドナウシュタウフ・ヴァルハラ


ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(3)~ドナウシュタウフ・ヴァルハラ

2016年08月05日 | 旅行

7月28日はレーゲンスブルク市を出発し、まずはレーゲンスブルク郡ドナウシュタウフ(Donaustauf)へ向かいました。そこにはバイエルン国王ルートヴィヒ1世の命で建築家レオ・フォン・クレンツェによって1830-42年に建設されたヴァルハラ(Walhalla)というギリシャ神殿風の、いわゆる新古典主義の建物があります。ドイツ語圏の英雄や偉業を胸像や記念碑などで称えられるための殿堂ですが、「神殿」ではありません。あくまでも「神殿風」の殿堂です。このようなものがつくられた背景は、1806年に神聖ローマ帝国が瓦解し、ライン川より西は「ライン同盟(Rheinbund)」としてナポレオン指揮下のフランスの直接的な影響下にあったこと、ドイツの政治的細分化と弱体化及び1812年にナポレオンのロシア遠征に多くのドイツ人が参戦し、悲惨な目に遭ったことなどが屈辱と感じられていたため、民族のアイデンティティーをドイツ語を頼りに過去をゲルマン民族の時代にまで遡って探したということにあります。

ヴァルハラ。駐車場の方から。

 

ヴァルハラから見えるドナウ川。

現在、誰でも死後20年経過している人をここに陳列するよう提案できるそうです。決定権はバイエルン州閣僚理事会にあります。今までのところ著名な芸術家や学者130人の大理石胸像と65の碑文板が収められています。

殿堂の中は撮影禁止で、入場料は8ユーロもしたため、中には入りませんでした。写真はドイツ語版ウィキペディアより転載。

ヴァルハラはドナウ川の方から徒歩で階段を登っていくことも可能ですが、駐車場も完備しているので車でも行けます。駐車場からは緩やかな階段を5分くらい登って行くことになります。乳母車や車いすでも行けるようにバリアフリールートも、少し遠回りになりますが完備しています。

丁度相模原事件が起こった直後のことだったので、ここのバリアフリー完備が特に輝いて見えました。現在のドイツは障害者にも妊婦にもやさしい国です。


次の目的地はバイエルンの森です。


ドイツ: ローマ帝国軍駐屯地ザールブルク

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(1)~ニュルンベルク前編

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(1)~ニュルンベルク後編

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(2)~レーゲンスブルク(ユネスコ世界文化遺産)


ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(2)~レーゲンスブルク(ユネスコ世界文化遺産)

2016年08月04日 | 旅行

ニュルンベルクから南西へ約120㎞、ドナウ川沿いにレーゲンスブルクは位置しています。

 

私たちが泊ったのは旧市街から離れたIbis Style Hotel Regensburgという三ツ星ホテル。伝統とか情緒とかはありませんが、使い勝手の良いホテルチェーンなので、以前も何度か利用しました。

  

到着したのが結構遅い時間だったので、ホテル内のレストランで晩ごはんにしました。イタリアンでしたが、ビールだけ地元のものに。

 

夕食後は、下見がてら軽く旧市街の散策。

   

 

翌朝7月27日、ホテルの朝食ビュッフェは値段の割にまともで満足でした。

 

 

その日は10時半からの市内観光ツアーに参加しました。

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RegensburgはRegen(雨)とBurg(山城・街)と分析されがちですが、「雨」とは縁も所縁もなく、川の名前がレーゲンであることから来ています。レーゲン川はゲルマン人にレガナ(Regana)と呼ばれていましたが、その語源はケルト語にあるのではないかと言われています。レーゲンスブルクはケルト人居住地域であったので、さもありなんです。町の最古の記述は770年のRadasponaで、ケルト語のRate(土塁)とbona(街)からなる複合語のようです。イタリア語ではRatisbonaとして今に伝わっています。 

ザールブルクの記事で既に述べたように、レーゲンスブルクはローマ帝国のゲルマニア国境線の最終地点で、A.D.79年辺りからローマ帝国軍の要塞が作られ始めました。現在の地名の元になっている要塞カストラ・レギーナ(Castra Regina)はA.D.170年にマルコマンニ族(ゲルマン系部族)を追いやった後、マルクス・アウレリウス・アントニーヌス(Marcus Aurelius Antoninus)の命によって175年から建設が開始され、179年に完成したと記す碑文が現存しています。カストラ・レギーナはローマ帝国属州レティア(Raetia)の主要軍事拠点で、第三イタリー軍団約6000人が駐屯していたそうですから、相当な規模です。ザールブルク要塞にはアウクシリア(Auxilia)と呼ばれる予備部隊5-600人が駐屯し、その周辺の村に兵士の家族や商人・職人たちトータル2000人ほどが住んでいたことを鑑みれば、その差は歴然としています。

今日見られるカストラ・レギーナの痕跡はポルタ・プレトリア(Porta Praetoria)と呼ばれる表門だけです。私たちが見に行ったときは修復中で見ることができませんでしたので、写真はウィキペディアから借用します。

ここからすぐ近くのニーダーミュンスター(Document Niedermünster)という教会の地下が大規模な考古学発掘現場兼博物館となっており、ローマ時代の建物の土台や発掘物が見られるようになっていますが、私たちはケルンで似たような地下博物館を見たことがあるので、レーゲンスブルクでは割愛しました。因みにケルンの地名はコローニア・クラウディア・アーラ・アグリッピネンシウム(Colonia Claudia Ara Agrippinensium=CCAA、クラウディウス皇帝妃アグリッピーナのコロニー)に由来し、ローマ帝国属州ゲルマニア・インフェリオール(Germania Inferior)の首都であり、A.D.50年には既にローマ帝国都市権を持っていた重要都市でしたので、水道やら貴族のお屋敷やら重要遺跡がゴロゴロ出土するようなところです。

話をレーゲンスブルクに戻すと、ここは陸地に設けられた大小の要塞とシグナルリレーができるように配置された見張り塔で形成された国境防衛線の最終地点ということはすでに述べましたが、これより先はベルグラードまでドナウ川が水の国境を成していました。

ローマ帝国軍は5世紀のゲルマン民族大移動時代に要塞を放棄して霧散してしまいます。すでにA.D.500年にはアギロルフィング家というフランク族の貴族が将軍としてやってきて、以降788年までアギロルフィング家将軍たちの拠点となっていました。739年には既にボニファチウスによってレーゲンスブルクは司教区としてローマ司教直轄地とされました。

レーゲンスブルクは、ローマ時代以降ヨーロッパで初めて石の橋梁建設に挑んだ町でもありました。有名な石橋は1135-1145年の間に構築されたもので、当初350mの長さと三つの塔を有したことから、『世界8番目の不思議』と言われていたとか。残念ながら、私たちが見に行った時は例によって補修工事中でした(´;ω;`)

  

この石橋の塔のすぐ隣にあるかつてのザルツシュターデル(Salzstadel、塩倉庫)は現在世界文化遺産レーゲンスブルク・ビジターセンターとなっています。割と表面的なインフォメーションセンターで、大した収穫にはなりませんでしたが。

  

そのお隣にはなんと12世紀から続く、橋職人たちのためのヴルスト食堂があり、今でもレーゲンスブルクオリジナルのヴルストが食べられます。屋根の上の看板は「歴史的ヴルスト食堂(Historische Wurstküche)」とあります。

 

中世には、レーゲンスブルクは商業都市、特に塩の交易で栄えました。その経済的繁栄の象徴として富裕市民たちはイタリア風の住居棟をより綺麗に、より高く、と競って建てました。最盛期は13世紀。そのような住居棟がレーゲンスブルクにはトータル40件あったことが分かっています。

現存する最古の居住塔


最も美しいと言われるバンブルガートゥルム(Bamburgerturm)。1270年ごろに建てられたバンブルク家の住居塔。現在一階には『バイム・ダムプフヌーデル・ウリー』(Beim Dampfnudel-Uli)というレストランが入っています。13世紀の建物が普通に使われ続けているところがレーゲンスブルクのユネスコ世界遺産たる所以です。戦火を免れたドイツ唯一と言っていい都市です。


最も高い居住塔『金の塔』は高さ50m。現在は改装されて、学生寮として使われています。人気があるため、最長2年間しか住めないことになってるそうです。
 

ハイトプラッツにある『金十字(Goldenes Kreuz)』は16-19世紀の間、皇帝御用達のホテルでした。元々は二つの別々の建物だったのが、1862年に統合されて今の形になったそうです。

 

 

1663年から1803年まで、レーゲンスブルクは帝国議会の常時開催地として栄えました。帝国議会が開催された旧市庁舎は今でも残っています。現在は一階がツーリストインフォが入っており、それ以外は博物館になっています。


旧市街のお屋敷群。観光地図には載っていないので、建物の背景情報は残念ながら確認できません。

   


このいい位置のベンチのようなものはかつての魚市場だったところにいくつか残っている魚の処理台で、ドナウ川の水が蛇口から出るようになっていました。


聖ペトリ大聖堂(Dom St. Peter)はフランスゴシック様式を模倣して1250年に建設開始され、1525年に塔を除く部分が完成。105mの高さに及ぶとがった塔は1859-69年に取り付けられました。こちらもなんか工事中で、建物全体を見ることはできませんでした。中には入れたはずですが、宝物館がある以外は特別なものがなさそうだったので割愛しました。

 

オレンジの建物は聖ペトリ大聖堂のほぼ真向かいにあり、バイエルン州最大の帽子屋さんだとか。

 

石橋から撮った風景。向こう岸のシュタットイムホーフ地区(中州)にも少し足を踏み入れてみました。
    

 

 

昼食は聖ペトリ大聖堂に隣接する元司教館を改装したホテル&レストラン、ビショフスホーフ(Bischofshof)の中庭で。ここは未だに教会所有で、ビール醸造所もあります。製造されているビールの名はまんま『ビショフスホーフ』です。

 

豚肉とクネーデルというジャガイモを潰して牛乳か生クリームなどを入れて丸めたものとキャベツサラダ&ブロートツァイトテラー(Brotzeitteller)というハムや肉の練り物各種盛り合わせとドナウターラーという地元の暗めのパン。

 

食べてる最中に雨が降ってきて、ウェイトレスさんが無言でパラソルを取り去ってしまったので、やむを得ず、お皿と飲み物のグラスを持って店内に駆け込みました。パラソルはあくまでも日よけということらしいのですが、何か言ってくれても良さそうなものです。

 

小雨の降る中見に行ったのは、ロココの内装で有名な『アルテ・カペレ(Alte Kapelle、古い礼拝堂)』と呼び慣らされている教会です。正式には「古い礼拝堂に属する聖母バジリカ(Basilika Unserer Lieben Frau zur Alten Kapelle)」と言い、その歴史は9世紀のドイツ人王ルートヴィヒ(東フランク王ルートヴィヒ2世)がある女神のための王城礼拝堂を建立したことに始まります。この建物は彼の死後荒れ果ててしまいますが、125年後にバイエルン公爵ハインリヒ4世、後の皇帝ハインリヒ2世によってより大きな王城教会として再建されました。1009年にその教会はバンベルク司教区に寄贈されました。この『飛び領土』は1803年の神聖ローマ帝国終焉の時まで維持されました。バシリカの南側のグナーデンカペレ(Gnadenkapelle、慈悲の礼拝堂)は1694年に慈悲の画が描かれ、以来聖母マリア信仰の巡礼地となっています。バシリカとグナーデンカペレは18世紀にアントン・ランデスによってロココ風に改装されました。グナーデンカペレの方はピンクを基調にしているのでそれほどキンキラした印象は受けませんが、バシリカの方は目がちかちかするほどキンキラキンです。

グナーデンカペレ
   

アルテ・カペレ(バシリカ)
 

   

 

ノイプファルキルヒェ(新教区教会)は、1519年2月のユダヤ人追放した際に破壊されたシナゴーグ及びユダヤ人居住区があった場所に建っています。酷い話ですが、残念ながら中世では珍しくない現象でした。ノイプファルキルヒェは1540年に聖母マリア教会として献堂されましたが、1542年にレーゲンスブルクが福音ルーテル派に改宗したため、『新しくできた教区教会』という意味でノイプファルキルヒェと改名されました。

   

 

 

レーゲンスブルク最後の夜はやはり地元料理を、ということででブランドゥル・ブロイ(Brandl Bräu)という15世紀から続くレストランで晩ごはんにしました。

 

ビールも地元のもの。
  

 

老舗だけど、モダン。フリーWifi完備。

 

前菜。「マーゲンドラツァール(Magendratzerl、「腹ごなし」のような意味)」という3種類のディップのようなものと地元のパンのセット。シュマルツ(ラードを味付けしたもの)、ネギ入りフレッシュチーズ、「オバツダ(Obatzda)」というカマンベールチーズなどのソフトチーズとパプリカ、玉ねぎ、クミンなどを混ぜたもの(らしい)。美味しいのでついつい食が進んでしまいますが、高カロリーで要注意です(笑)

 

ダンナの頼んだメインは「シュマンケァルテラー(Schmankerlteller)」と命名されたラム肉。あまりお気に召さなかったようです。
 

私のはハーブ入りニジマス。こちらはなかなか美味でした。前菜を食べ過ぎたので、こちらは食べきれませんでしたが。。。

 

ダンナの頼んだデザート。白ビール入りのティラミス、だそうです。アプリコットは甘煮したもので、温かいまま供されていました。

 

さて、レーゲンスブルクは池田理代子の名作漫画『オルフェウスの窓』の舞台になっていますが、漫画での印象だと美しくロマンチックな司教都市なのですが、実際にはそれほど美しい印象は受けませんでした。補修工事中のところが多かったのと天気が悪かったのが原因かもしれませんが。戦火を免れたため、数百年前に建てられたものが改装・改修されながら現在も使われている、という点では非常に興味深い街で、中世そのままの細い小路などは独特の魅力があるとは思います。でも、『美しくロマンチックな街』なら他にあるな、という感想を抱きました。

 

レーゲンスブルクといえば、トゥルン・ウント・タクシス侯爵家(Fürst von Thurn und Taxis)の居城としても知られています。とは言え、侯爵家がレーゲンスブルクに移ったのは18世紀のことで、それ以前はフランクフルト・アム・マインを拠点としていました。もともとは北イタリアのベルガモ近郊コルネッロ(Cornello)出身の貴族で、神聖ローマ帝国皇帝の命により、15世紀から郵便を司ってきました。1595年以降トゥルン・ウント・タクシス侯爵家は帝国郵便総督長(Reichsgeneralpostmeister)の地位を独占していました。1748年にアレクサンダー・フェルディナント・フォン・トゥルン・ウント・タクシス侯爵が皇帝代理人に任命され、帝国議会の常時開催地であるレーゲンスブルクで皇帝の代わりに議会に関する全てのコーディネートを請け負うことになったため、レーゲンスブルクに拠点を移しました。1806年に神聖ローマ帝国が崩壊し、皇帝代理人職が無くなった後も侯爵家はレーゲンスブルクに留まり、今に至っています。14世紀に建てられた聖エメラム修道院は1812年に侯爵家の手に渡り、1816年にロココ様式に改装され、侯爵家の居城・聖エメラム城となりました。一部博物館として公開されていますが、今でも侯爵家はそこに住んでいます。

 

次の目的地はドナウシュタウフです。


ドイツ: ローマ帝国軍駐屯地ザールブルク

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(1)~ニュルンベルク前編

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(1)~ニュルンベルク後編


ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(1)~ニュルンベルク後編

2016年08月04日 | 旅行

7月25日はニュルンベルク郷土史博物館からスタートしました。同市で唯一残った後期ルネサンス様式の商人屋敷の中が博物館になっています。建物はフェンボーハウスと最後の所有者の名前が冠されていますが、 最初に建てたのはオランダ商人フィリップ・ファン・オイルル(Philipp van Oyrl)でした。建設期間は1591–1596年。

博物館の閲覧ルートは5階からスタートします。そこにはニュルンベルク城壁内の旧市街の木造モデルが展示され、おおまかな町の歴史がビデオで上映されます。

4階はカイザーブルク(皇帝城)のモデル、ニュルンベルク工芸品の代表作、貿易、帝国自由都市ニュルンベルクのモデル(16-17世紀)、ダンスホール、キッチンなどが展示されています。

  

   

 


3階は建設者の曽孫の代に豪華にリフォームされた内装が見られます。

 カルロ・モレッティ・ブレンターノ(Carlo Moretti Brentano)1674年に完成させたバロック天井。
 圧巻です。首が痛くなるほど見入ってしまいました! 











ファミリーホール。

  


マルティン・ペラー(Martin Peller)が1602-1607に建設した屋敷の中の『美しい部屋』は第二次世界大戦の戦火を免れ、フェンボーハウスに移設されました。こちらも壁の装飾はもちろん、天井もすごく凝っています。

  


1649年、30年戦争和平交渉成立を祝う『平和の晩餐』と参加者の名簿。ライオンの彫像からは民衆のために赤ワインが注がれたらしい。

 

 

2階はニュルンベルクの芸術家・学者・音楽家などが紹介され、またフェンボーが運営していた地図印刷所の歴史と地図や18・19・20世紀のニュルンベルクの街並みをとらえた写真などが展示されています。

 

ネプチューン噴水の模型。この噴水は17世紀にハウプトマルクトに設置される予定でしたが、資金不足で叶わずお蔵入りに。1797年にロシア皇帝パウル1世が噴水を買い上げ、サンクトペータースベルクにある宮廷庭園に設置しました。ニュルンベルクにはそのコピーが1902年にルートヴィヒ・ゲルングロースによって市立公園に寄贈されたそうです。

フェンボーハウスの中庭。

 

博物館の後は神聖ローマ帝国初の計画的に作られた外国人労働者居住区「7棟(Sieben Zeilen)」を見学しに行きました。博物館から徒歩10分くらいのところです。

1489年にまず、3件の手工業者工房兼住居が入る建物が5棟建設され、アウクスブルクやウルムから呼び寄せられたバルヒェント職工が入居しました。1524年にさらに2棟が建設されました。この職工住居は福祉住宅の前身と言われています。第2次世界大戦で破壊されたため、1966年と1973年に再建されましたが、南端の7棟目は新築のために取り壊されてしまったそうです。

  

バルヒェントとは麻を縦糸に綿を横糸にして綾織された混合布で、麻の丈夫さと綿の柔らかさを組み合わせたルネサンスの発明品です。

 

最後にカイザーブルクを見に行きましたが、あいにく現在改装中で、見られるところは少なかったです。

    

カイザーブルクから見たニュルンベルクの町並み。

このカイザーブルクは紀元後1000年に建てられたザーリアー調のロマネスク様式居城から出発し、何度も建て増しされたり、部分的に取り壊されたりを繰り返して現在に至っています。その歴史は複雑で、本が1冊かけるくらいです(笑)

カイザーブルクは30年戦争終了後(1648年)、要塞としての意味を失い、1663年にレーゲンスブルクが帝国議会の常時開催地と定められて以降は政治的な意味も失いました。と言ってもそのまま放棄されたわけではなく、それなりに時の支配者の手は入っていましたが。

丁度カイザーブルクを出た時に大雨に見舞われたので、すぐ近くのブルクヴェヒター(城見張り人)というレストランへ避難して、遅い昼食を取りました。

メニューが中世風。

頼んだのはプフェファリングの卵和え。

 

デザートはアプフェルキュヒレ(Apfelküchle)という輪切りリンゴを砂糖・小麦粉の衣に包んで揚げたものとヴァニラアイス。

これを食べた後、多少雨脚が弱くなったので、素早く車に戻り、次の目的地レーゲンスブルクへ向かいました。


ドイツ: ローマ帝国軍駐屯地ザールブルク

ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(1)~ニュルンベルク前編


ドイツ・バイエルン州周遊旅行記(1)~ニュルンベルク前編

2016年08月03日 | 旅行

7月24日にザールブルク要塞(ヘッセン州)に寄った後、バイエルン州周遊旅行の第1ステーションであるニュルンベルクに向かいました。泊ったホテルはブルクホテル・ニュルンベルクというカイザーブルク(皇帝城)やアルプレヒト=デューラー・ハウスの近くにある三ツ星ホテル。なかなか伝統あるホテル、といえば聞こえはいいですが、プールはあっても、部屋のクーラーはないので、真夏日和の時に泊るのはかなり苦痛でした。また旧市街地内で駐車場がホテルの敷地内になく、徒歩5分くらいの公共駐車場を使わなくてはいけないので、車での旅行者には割と不便です。

部屋の中。

 

朝食ビュッフェ。アンティパスティなど前菜やサラダが豊富で、焼いたソーセージやベーコンなどもあり、三ツ星ホテルにしては豪華な方。

 

7月25日の10時半開始の市内観光ツアーには間に合わなかったので、午前中は地図を頼りに自力で観光。

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ニュルンベルク旧市街はペグニッツ川で二つの区域ゼーバルトとローレンツに分かれています。それぞれの区域に建つ教会の名前から来ています。街の発展は一番高い位置にあるカイザーブルクから徐々に南へと向かっていき、ペグニッツ川を超えた南のローレンツ区域はかなり計画的に街が形成されたことが通りの規則性からも伺われます。因みにニュルンベルク(岩山)の名前はカイザーブルクの建つ岩山から来ています。

ニュルンベルクは現在人口およそ51万人で、バイエルン州2番目、ドイツで15番目に大きい都市ですが、中世ではケルンに次ぐ神聖ローマ帝国第2の帝国自由都市で、商工業・手工業の中心地として栄えました。

ニュルンベルクに力を与えたのは1356年に発効したいわゆる「金色封書(Goldene Bulle)」というニュルンベルク法典で、これにより神聖ローマ帝国の皇帝選定方法などが定められ、ニュルンベルクは皇帝の戴冠後の第一回帝国議会の開催地となりました。ニュルンベルクの最盛期は1470ー1530年と言われています。30年戦争(1618ー1648)でニュルンベルクは経済的にかなりの痛手を受けたため、それ以降の意味のある建築物が建てられることはありませんでした。19世紀初頭にフランスに占領され、1806年にバイエルン王国に引き渡された後は工業都市として発展しました。

ただ、ニュルンベルクは神聖ローマ帝国の根幹法典の発祥の地であり、帝国議会の開催地で且つ30年戦争の和平交渉が行われた場所として政治的歴史的意味が大きかったため、ヒトラー政権下の「第3帝国」の象徴的首都として利用されてしまい、帝国(ナチ)党大会の開催地となり、かの悪名高い「ニュルンベルク法」も1935年9月に制定されました。 

第2次世界大戦でニュルンベルクの旧市街は約90%破壊されましたが、ニュルンベルク郊外の司法パレス(Justizpalast)は無事で、そこで1945年11月から「ニュルンベルク裁判」として知られる国際軍事裁判が行われました。ドイツ人に「ドイツ帝国の夢」を諦めさせるに相応しい場所、という意味合いがあったようです。もちろん「第2帝国」と言えるドイツ帝国(1871ー1918)の首都はベルリンでしたが、ナチスは長く続いた「ドイツ民族の神聖ローマ帝国(Das Heilige Römische Reich Deutscher Nation)」により強い象徴的繋がりを持とうとしていたので、その舞台となったニュルンベルクで戦犯を裁くのは理にかなっていると言えます。政治歴史的象徴には驚くほどの継続性があるのだとしみじみ実感した次第です。

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さて、ニュルンベルクはルネサンス期の画家・版画家・数学者として著名なアルプレヒト・デューラーの生まれ故郷でもあります。彼が1509年から住み、作業場としていた家が残されており、そこに続く道も彼に因んで、アルプレヒト・デューラー通りと名付けられています。最初の写真はアルプレヒト・デューラー通りにあることから「アルプレヒト・デューラー・シュトゥーベ」と名付けられたレストランですが、それ以外にデューラーとは縁も所縁もないけど、1559年に建てられた歴史ある木骨家屋です。2番目の写真がアルプレヒト・デューラー・ハウス。3番目の写真はアルプレヒト・デューラー・ハウスの向かい側にあるレストランで、1530年の建築。

  

聖ゼーバルト教会。中には入りませんでした。ここで皇太子ヴェンツェルが洗礼を受けたそうですが、その際彼は粗相をして、洗礼水を汚した、というエピソードが伝わっています。

 

ハウプトマルクトにある聖母教会。こちらも外から見ただけ。この聖母教会は1349年にペストポグローム(Pestpogrom)と呼ばれるユダヤ人虐殺事件の際に破壊されたシナゴーグの跡地に建てられました。教会は皇帝の宮廷教会として利用され、フュァシュペナーゲゼルシャフト(Fürspännergesellschaft)という貴族騎士団体の集会所としても使われていました。

西側の切妻の時計の下には「メンラインラウフェン(Männleinlaufen)」という仕掛けがあり、正午の鐘が鳴り響いた後に人形たちが皇帝の周りを3度回ります。この仕掛けは1356年にカール4世皇帝が前述の「金色封書」を記念して寄贈したものです。実際に仕掛け時計が教会に設置されたのは1509年です。

 

 

フライシュブリュッケ(肉橋)には面白いエピソードがあります。写真に写ってる建物が橋の名の元で、元場。小さなアーチの上に鎮座する雄牛がそのことを思い出させているのですが、雄牛の下にラテン語で「すべての物事にはじまりがある。この雄牛が子牛だったことはない」と書かれています。「はあ???」というのが正しい反応です。この為地元の人は訳のわからない話を聞いた時、「そんな話ならフライシュブリュッケでも聞ける」と言うそうです。

 

ムゼウムスブリュッケ(博物館橋)。ハウプトマルクトが7月29-31日の「吟遊詩人集会(Bardentreffen)」という音楽祭の準備のために封鎖されていたため、市場はムゼウムスブリュッケに避難。

  

ペグニッツ川を渡って聖ローレンツ教会へ。気温28度に耐えられなくなって、教会の中に入って涼みました。

  

この教会にはサクラメントハウスという聖歌隊席の柱に寄り添うように作られた大きな彫刻があります。アダム・クラフトという彫刻家がハンス・イムホフという人の依頼で1493-1496年に作成したそうですが、20mの高さの彫刻には圧倒されます。第二次世界大戦中の爆撃で彫刻の上の方は破壊されてしまったそうで、戦後に復元されました。

  

 

ムセウムスブリュッケから撮ったペグニッツ川の中州・シュット島。絵に描いたような風景です。

後部シュット島のペグニッツ川畔とヒュープナー門(西門)。

    

 

トレーデルマルクトというペグニッツ川東部の中州にかかる木造の橋ヘンカーシュテーク(Henkersteg)。ヘンカーは「死刑執行人」という意味。元は城壁外の死刑執行人塔があった所に架けられたことから命名されました。屋根付きの橋になったのは1595年に洪水で最初の橋が流されてしまった後に再建された時から。現在のヘンカーシュテークは1954年に再構されたもの。

  

ヘンカーハウス(死刑執行人住居)。現在は博物館。

マックスブリュッケから撮った風景。ハラートァ(ハラ―門)ブリュッケが見えます。

 

ヴァイスゲルバーガッセ(皮なめし工通り)。中世のニュルンベルクの皮なめし工は金持の代名詞と言ってもいいほど、お金持ちが多かったとか。ヴァイスゲルバーガッセは金持ちの皮なめし工たちが建てた木骨家屋が立ち並んでいます。

 

市内観光ツアーを終えて、ホテルのプールでひと泳ぎした後は近くのレストラン、ブルクシェンケで夕食。地元のビールを試そうと思い、トゥハーのウァフレンキッシュ・ドゥンケル(元祖フランケンの暗いビール)に挑戦。実はノンアルコール

 

前菜はベーコンサラダ。メインはニュルンベルクのブラートヴルスト(焼きソーセージ)とザウアークラウト。旦那のはヴルストヴァリエーション。

  

残念ながらお味の方は平均的というか、今一でした。

ヴルストはドイツの伝統食品ですが、中世では香辛料が高かったので使われることは稀でした。ニュルンベルクは交易路の交差する重要拠点であったため、他と比べればコショウが市場に出回る頻度は高かったのですが、コショウ入りのヴルストは非常に高価でした。そのことから、「コショウ入りの値段(gepfefferte Preise)」は高い値段のことを指すようになったそうです。

ヴァリエーションとして「塩入りの値段(gesalzene Preise)」という言い方もあります。塩も高い香辛料の一種でしたので。

後編に続く。


ドイツ: ローマ帝国軍駐屯地ザールブルク


ドイツ: ローマ帝国軍駐屯地ザールブルク

2016年08月03日 | 旅行

7月24日(日)、ドイツヘッセン州・ザールブルクにあるローマ軍駐屯地でかつてローマ帝国とゲルマニアの境界線の関所だった所に来ました。このローマ遺跡は、19世紀に発掘がはじまり、20世紀初頭にヴィルヘルム2世の命令で再建されました。ただし、正確なローマ時代の施設の再建ではなく、ヴィルヘルム2世の好みで中世風に変えられてしまった部分もあります。

入場料を払ってはいる部分はかつての要塞ですが、そこに至るまでにvicusと呼ばれる駐屯兵の家族や軍御用達の商人たちの集落の遺跡を見ることができます。いくつかの井戸と地下室などしか残ってないので、面白くないと言えばそれまでなんですが。

 

下がvicus の様子と建物の構造を示すイラストです。

 

要塞の入り口。二つの塔の間隔はヴィルヘルム2世の命によって、オリジナルよりも狭められています。

 

 

ザールブルク近辺の模型。峠を塞ぐ形で建っているのが分かるでしょうか?
 

地図上の赤線がローマ帝国とゲルマニアの国境線で、赤丸が要塞や見張り塔のあった場所を示しています。この550㎞に及ぶ国境線はLimes(リーメス)と呼ばれ、ユネスコ世界遺産になっています。

ローマ帝国とゲルマニアの国境線は本来自然の国境線であるライン川(左の縦に流れる川)とドナウ川(下の横に流れる川)でした。ライン川とドナウ川に挟まれた三角地帯を紀元後2世紀からローマ軍が占領し、ライン川からドナウ川に至る国境線を短縮しようとしたため、このような防御設備が必要になったわけです。

 

 

 

 

 

 

見張り塔の見取り図。3階建てで、入り口は2階。1階には貯蔵庫。

 

ザールブルク要塞の見取り図。 

 

ヴィルヘルム2世が自身で設置したという礎石。「礎石。1900年10月11日、ヴィルヘルム2世皇帝によって置かれた」と書かれています。

 

神殿。ローマ帝国の徽章と、皇帝の似顔絵の書かれた皿などが祀られています。

 

将校たちの食堂。椅子ではなく、カウチに寝そべって食べていました。

 

こちらは兵たちの宿舎。8人で1部屋共有していました。
 

要塞内に設置された”Taberna”(ラテン語「食堂」)で、ローマ料理が楽しめます。
 

靴と骨加工工房及び食堂のキッチンのモデル。工房がザールブルクの要塞内にあったという証拠はありませんが、他の要塞内の工房をモデルに展示してあります。   

パン焼き釜。

 

ザールブルク要塞の近くのリーメス。柵はもちろんオリジナルではありません。柵の後ろの堀はもっと深かったのですが、時と共に均されてしまったようです。それでも痕跡は明らかです。

 

ザールブルクは既に紀元後90年には簡単な木造要塞が作られていました。現在の再構された要塞は紀元後135年に建てられ、約500人が駐屯していたようです。A.D.260年にアレマン人戦争の際に陥落してしまったので、大して長い期間は持たなかったことになります。中世から近世まで、この要塞は採石場となっていました。この要塞の石は主にヴェーァハイムのトローン修道院の教会建設に転用されたそうです。 18世紀にはそこがローマ遺跡であることが知られていたようですが、本格的な発掘調査が始まるのは19世紀末からです。帝国リーメス委員会によって1892年にリーメスの調査がテオドール・モムゼン指揮の下開始され、委員会に属していたルイス・ヤコービが1897年ヴィルヘルム2世皇帝を説得し、ザールブルク要塞再建を実現したそうです。

ヴィルヘルム2世の趣味で考古学的な間違いが含まれる施設となってしまいましたが、建設からすでに100年以上経過しており、この施設自体が文化財保護の下に保護されているので、その間違いを訂正することはできないとのことです。