ベトナム戦争で、北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線が南ベトナム各地で仕掛けた奇襲攻撃=「テト攻勢」(1968年1月30~31日)に動揺した米軍が、南北ベトナムの最前線にあるケサン基地を防衛するため、沖縄に配備されていた核兵器の使用を検討していたことが、複数の内部文書で分かりました。
米政府や米軍内部ではベトナムへの核攻撃が繰り返し浮上していたことは明らかになっていましたが、沖縄の核兵器使用が検討されていたことが明らかになったのは初めて。在沖縄米軍の侵略性があらためて浮き彫りになりました。
米統合参謀本部が作成した「極秘」指定の歴史文書(『統合参謀本部とベトナム戦争 1960―1968』)によれば、米軍トップのウイーラー統合参謀本部議長は68年2月1日、現地の司令部に対し、ケサンで状況が切迫した場合の核兵器使用について検討を要請しました。
南ベトナム支援軍のウェストモーランド司令官は「もし(北ベトナムとの)非武装地帯の状況が劇的に変化した場合、米国は戦術核兵器もしくは化学兵器といった、大軍に対して大いに効力を有する兵器の導入を準備すべきだ」と主張。太平洋軍のシャープ司令官は「核装置使用のための緊急計画が沖縄で準備されている」と報告しました。これを受け、ウイーラー氏はジョンソン大統領に核・化学兵器使用の検討を要請(68年2月3日付極秘書簡)しました。
しかし、大統領は世論の反発を恐れ、検討の中止を指示しました。ベトナム戦争は75年に終結しましたが、ウェストモーランド氏は76年に出版した回顧録で、米政府が核攻撃の選択肢を外したことは「誤りだった」と述べています。
米軍は占領下においていた沖縄に、53年ごろから核兵器の配備を開始。67年には1300発に達し、アジア太平洋地域で最大の核貯蔵庫になりました。
歴史文書を発見した国際問題研究者の新原昭治氏は「当時の沖縄には、B61など空軍の投下型核爆弾や海兵隊の核地雷、8インチ、155ミリりゅう弾砲など多様な戦術核兵器が配備されており、ベトナムでのあらゆる状況で使用できる核攻撃の選択肢があったはずだ」と指摘します。
米国は沖縄返還に際して核兵器を撤去しましたが、佐藤栄作首相とニクソン大統領は69年11月21日、「重大な緊急事態」が発生した場合、米軍が核を再配備する密約に署名しています。
核配備の“権利”今も米国に
「また戦場の島になるという危機感」
「ここには、われわれが核兵器を貯蔵し、使用する権利に何の制約も課せられていない」。1955年10月21日、東京の極東軍司令部で行われた米議会調査団(プライス調査団)への在沖縄米軍の秘密説明記録に、米空軍第313師団・ヒップス司令官の横暴な発言が記されていました。
戦場の島・伊江島
米軍は50年代に入り、住民の土地を「銃剣とブルドーザー」で強奪して基地の拡張を開始。ヒップス司令官は、「核能力を持った戦術航空部隊は(中国から)台湾やフィリピンを支援できる」として、さらなる基地拡張を訴えたのです。その狙いは、沖縄を「核攻撃基地」として強化することにありました。
その中で大きな犠牲を強いられたのが、沖縄本島の北西部に位置する伊江島でした。
米軍は53年、農民に対して土地接収を通告。「君たちには何の権利もない、イエスもノーもない」。米軍司令官はこう言い放ち、55年3月、最後に残った13戸を破壊し、射爆撃場を完成させました。
ヒップス司令官は前出の説明記録で、必要不可欠な空対地射爆撃場として「伊江島」に言及しています。
同島での土地強奪に対して、非暴力のたたかいを続けてきた反戦地主の故・阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう)さんが設立した「ヌチドゥタカラの家」には、長さ2メートル以上の2基の爆弾(写真)が展示されています。手前が「BDU12B」、奥が「BDU8B」と呼ばれる核模擬弾であることが、日本共産党国会議員団の調査で明らかになっています。
ベトナム戦争への米軍の介入が本格化した60年代から投下訓練が開始され、ベトナム戦争が終わる75年まで続きました。多い時には1日80発が投下され、いたるところに不発弾が埋まっていました。日本共産党の名嘉実・伊江村議も中学生だった60年代後半、草むらで核模擬弾を発見しました。「訓練時期からして、ベトナムでの使用を想定していたことは明らかだ」と指摘します。
本土復帰後、伊江島の基地は海兵隊に移管。AV8Bハリアーなどの訓練場として強化され、さらに今年1月、岩国基地(山口県)に配備されたF35Bステルス戦闘機やCV22オスプレイの訓練のため、訓練場の拡張工事が進んでいます。
「ヌチドゥタカラの家」の館長を務める謝花悦子さんは言います。「また戦場の島になるという危機感があります。でも、戦争は人災。人間が平和をつくれないはずはない」。阿波根さんの志を継ぐ思いは変わりません。
嘉手納で核爆撃機
日米両政府が沖縄返還前の69年11月に交わした「核再持ち込み」密約の重要な要素は、米軍がいつでも核兵器を配備できるようにするため「嘉手納、那覇、辺野古」などを使用可能な状態で維持しておくという点です。
日本共産党の大城朝助・元那覇市議は81年9月10日、辺野古弾薬庫(名護市)で、地下に隠れている海兵隊の陸戦用核兵器専門部隊「核弾薬小隊」(NОP)が常駐する建物を確認しました。基地前で約1週間ねばり、地下へ降りていく米兵の写真を撮影したのです。
大城さんは「辺野古、嘉手納弾薬庫は著しく強化されており、監視を続けることが必要だ」と指摘します。
現在、在沖縄米軍に核部隊の存在は確認されていませんが、嘉手納基地では2009年から13年までの5年間に、核爆弾運搬車両の事故が5件起きていたことが明らかになっています。また、米国防総省は15年に公開した歴史書(1969~73年版)に、「米国は…危機の際に核兵器を再持ち込みする権利を確保した」と明記しています。
米科学者団体「憂慮する科学者連盟」のグレゴリー・カラキー氏によれば、第2次オバマ政権期に開かれた米戦略軍の年次会合で、ある高官が「嘉手納基地でB2を見られるのを待ち望んでいる」と発言しています。B2は核攻撃任務を持つステルス戦略爆撃機です。
カラキー氏は、トランプ政権が核戦力の増強を明言し、核推進派が力を得ているとして「沖縄に核が再配備される可能性は否定できない」と警告します。
「基地特権」の象徴
重要な点は、沖縄核密約は、米軍が沖縄を自由に使用できる「基地特権」の象徴だということです。
広島・長崎で同じ日本人の命を21万人も奪った核兵器を1300発も配備し、そのために住民の土地を強奪してもかまわない。そうであれば、通常兵器=オスプレイなどの騒音や墜落の危険などどうということはない―。そうした米軍の「征服者」としての発想を告発し続けることが必要です