〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

近況

2020-12-28 19:48:29 | 日記
今日まで、ブログに向き合えなかった近況、
この間のわたくしの個人的な事情を紹介します。

昨年11月17日、上海外国語大学での「日本言語文学研究フォーラム」で口頭発表したものを
論文化した村上春樹の『猫を棄てる』論は、今年3月、中国語に翻訳され、
中国の『世界文学』(中国社会科学院外国文学研究所発行)に掲載されました。

今回、一旦、中国語翻訳の形で発表したものを部分的には大きく改稿し、
その後に発表された村上春樹の『一人称単数』という
短編小説、それとあまんきみこの最新童話『あるひあるとき』、
これら三つの文学作品についての作品論を一つの研究論文の中にまとめ、
総タイトルを「無意識に眠る罪悪感を原点にした三つの物語―〈第三項〉論で読む村上春樹の
『猫を棄てる 父親について語るとき』と『一人称単数』、あまんきみこの『あるひあるとき』―」
として、都留文科大学大学院の紀要雑誌に寄稿しました。

加えて、「魯迅『故郷』の秘鑰(ひやく)—「鉄の部屋」の鍵は内にあって扉は外から開く—」を
同じく都留文科大学の学部の方の紀要に寄稿しました。
どちらも来年3月の公表になります。

これらを書いている途中、中国の西安交通大学の霍士冨先生から、
今度、出版する大江健三郎の研究書の序文に、
わたくしの〈第三項〉論を書いてほしいとの破格の申し出がありました。
霍先生の大江論は霍先生のライフワークのごとき大著、
これに私が「序論」を書くのは、場違いと思いながらも、敢えて引き受けました。
霍先生のお立場、近年の思考を考慮したからです。来年の二月には出版されているかと思います。

この「序文」が最終的に完成したのが一昨日でした。
その拙稿のタイトルは「〈近代小説〉の再生―〈近代小説〉の神髄を読むための〈第三項〉論―」です。
これは柄谷行人の「近代文学の終わり」という説と立場を異にし、
私見は、柄谷氏の言うリアリズムでは日本の近代文学の核心は捉えられないことを述べ、
「近代文学」が終わるのではなく、文学研究の再出発、
文学革命が必要で再出発である、ことを主張しました。

これらが一昨日やっと終わり、これでやっとブログに向き合うことが出来ました。
これからはブログに向かいます。

そこで、あらかじめ申し上げます。
肝心なことは、今回の世界のコロナ禍が教えてくれています。
三密を避け自宅で巣籠りをしていく中、コロナ禍以前に戻って解放された時、
それを喜ぶだけではなく、旧態依然に陥ることから脱すること、
これまでの文学研究に戻るのでなく、すなわち、リアリズムの世界観認識に戻るのでなく、
それを超える世界観、「近代小説の再生」の地平を拓くことが望まれるのです。
精神が巣籠りすればいつの間にか、腐食します。それに気づくのは難しい。
自身が生きるために考えることが、擬態(ミミクリー)を取らせるからです。
つまり、生き延びるための自己正当化が起こる、そう考えます。

来年、1月16日は都留文科大学の日中共同の科目、周非さんの授業での枠で、
学生諸君との対話を交えた特別講演を予定しています。
魯迅の『故郷』がいかに革命的か、それも内なる革命、
永久革命の道を『故郷』を読むことで、皆さんとお話しましょう。

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4 コメント

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12月の文学講座 (古守やす子)
2020-12-29 23:59:34
12/20の甲府での文学講座ありがとうございました。
『城の崎にて』と『猫を棄てる』『一人称単数』『あるひあるとき』、これらが漱石・鴎外の小説と、作品の構造(小説の原理)や世界観を同じにするというお話に圧倒されながら、あっという間に過ぎた2時間でした。

作品に登場する「私」は、自身が意識する「私」と意識を超えた“向こう”(地下二階)の反「私」の両方を抱えていて、反「私」は罪の問題を持っているとのことでした。
反「私」という言葉は11月の講座(『一人称単数』)の時に初めて伺い、今回の講座でも話され、もっと詳しくお聞きしたかったところですが、「私」の中にありながら、「私」の意識を超えて存在する「私」の分身と考えてよいのでしょうか。「了解不能の他者」と同じでしょうか。

「私」が消える(透明になる)ことで、反「私」が現われるということ。
それを承知して語っているのが〈機能としての語り手〉であるということ。
そして、〈機能としての語り手〉という仕掛けの中で、生物の定めである「カルネアデスの板」を超える死生観(命の価値)を描こうとするのが〈近代小説〉の神髄ということ。
難解できちんと理解できていませんが、以上のことが深く印象に残りました。

『一人称単数』で「私」に「恥を知りなさい」と言う女性は、反「私」を知っている存在ということになると思いますが、反「私」を知っているのは〈機能としての語り手〉ですから、彼女は〈機能としての語り手〉の回し者(分身)???
自分でも何を言っているのかわからなくなってきました。お許しください。

来年も勉強し続けていきます。3月発行の都留文科大学院の紀要、1月以降の講座でのお話を楽しみにしています。どうぞよろしくお願いいたします。
返信する
古守さんへ、12月20日の文学講座のこと ()
2020-12-30 09:05:57
古守さんのコメント、拝読しました。

 20日は私の捉えている村上春樹の世界についてお話させていただきました。村上のエッセイの『猫を棄てる』を小説で物語ると『一人称単数』になります。『一人称単数』は小説でありながら、小説論を語っていると解釈しました。村上春樹の小説の唯一の基準は猫も人間もナデナデしあって、温かさを分け合うことです。つまり、生きとし生けるものが互いに意識・無意識を超えて、共有し合う、これをコアにして語られていると考えます。過激に過ぎるような小説論ですが、それは命の根源を抉っているからだと考えます。
 もともと自分、「私」とは反「私」を抱えて、「私」を成しています。そこで、来年3月に発行される都留文科大学の「大学院紀要」には、「私」が反「私」を含んで「私」なるものを成しているので、それを示すために「私」と区別して『私』と二重鍵カッコにしました。『私』はそもそも反「私」と合体して、矛盾を内包した力学の中にあるのが『私』なのです。(さらに言えば、「私」と言う存在は大宇宙の偶然の偶然で一瞬現象した存在ですよね。)
 だからこうなります。
 『一人称単数』の第三段落の箇所、『私』がバーのカウンターにひとりで座って、目の前の鏡の中の自分を見た時、『私』はその反「私」を内包している鏡の中の自分に、お前は誰だと問われるのです。無意識のことですが、『私』が本来反「私」を含んでいるからです。
 つまり、古守さんの言われる通り、『私』はそもそも「了解不能の他者」、永劫の沈黙を抱えている、この「了解不能の他者」を内包しているのです。それを『わたし』は自覚していませんが、無意識にはそれを抱えていますから、『私』が『私』自身に向き合わされる場面になった時、鏡の中の自分の像が『私』に向かって、言い換えると、無意識の自分が意識的な自分に向かって、おまえは誰だと詰め寄るのです。作品全体は作中に直接生身で登場する『私』を『私』と語る〈機能としての語り手〉がこれを語っています。この〈機能としての語り手〉はその後、見知らぬ五十代の女性を登場させ、『私』のこの矛盾を暴き出します。すると、無意識が意識化され、『私』のその意識した世界はかつてとは全く異なり、反「私」を含んだ、不条理の世界でした。これが『一人称単数』の末尾、カオナシの男女が歩いている世界です。この小説の物語はそこで終わっています。あの五十代の女性はむろん、〈機能としての語り手〉によって、語られているのですから、作品全体は全てそうですが、『私』に眠っている無意識を意識化し、それがカオナシが横行する不条理であることを見せつけるのです。
 『猫を棄てる』はそこを「白い子猫」に成り代わって、高い松の上から、「死について」考えながら、地上を見直すのです。そうすると、自分にとって、それまで見えない地上の世界とともに地上が二重になって見えてきます。
 目に見えない世界は、いわば、『一人称単数』の末尾のカオナシが横行する不条理の世界なのであり、『一人称単数』の〈機能としての語り手〉は末尾、リスナーをここに連れて行っています。
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12月文学講座 (坂本まゆみ)
2020-12-30 10:06:58
田中実先生

「客観的現実」はない。世界はその主体に捉えられたものである。世界そのものは捉えられない。

「私とは何か」という問いはおそらく誰もが問うことだと思います。そして自分では捉えられないものを感じ、「偶然」の要素の入り込む私なのだということも多くの人が考えるところだと思います。しかし、自分には分からない自分というものを受け入れ、自己肯定して済ませて安心しているのが坂本です。「客観的現実」はない、と理解していると思っているにも拘わらず、坂本は坂本の思う「私」を実体的に受け入れようとしているのです。自分を壊すのが恐ろしいからだと思います。幼い頃の「私はなぜ私なのか」という問いの恐怖から逃げて忘れて来ました。中学校の教員というアイデンティティで生き延びてきました。そういう私に大転換を求めるのが、〈第三項〉論です。「システム」の中にあって作りあげてきたアイデンティティを、その因果を消去せよと先生はおっしゃいます。誰もが可能なこととは思えません。しかし、「自己消失」を目指して「自己倒壊」を、「自己倒壊」を目指して「読むこと」を、先生の導きによって少しでも実現したいと願う者です。

村上春樹『雑文集』(2011新潮社)の最初のところに、読者からの「自分自身を説明すること」の問いに答え、ハルキは、たとえば牡蠣フライについて書くことを勧めていました。「そこにはあなたと牡蠣フライとのあいだの相関関係や距離感が、自動的に表現されることになります。」と。語り手と語られたものとの相関関係で、語り手がいかなる者かが表現される、という田中先生のご論とぴたっと一致していて、今更ながら「そうか」と思いました。『一人称単数』では、「牡蠣フライ」ではなく、「「私とは何か」と「実在」の在り方を問う難問・アポリアと正面切って勝負する立場」、つまり「語り手と語られたものとの相関関係」のその外部を問題にしているという先生のご論、さらに『猫を棄てる』との重なりのご指摘、最高級の難易度だと考えます。でありながら、最高級の魅力に満ちたご論、圧倒されるばかりです。

①「私」は、どういう「私」として登場し、なぜある女性から全否定されると、蛇のうようよいる世界に一変してしまうのか、このわけのわからない話は、〈機能としての語り手〉というこの機能なしには読めない。「私」は、「向こう」が何度も選んだ、「私」の外部が「私」を選んだという自覚を既に持っている者として登場している。既に自身を相対化する者として登場している。(「白い子猫」を登場させる語り手と言っていいでしょうか?)

②非「私」とは、「わからない私」という了解のある「私」であって、リアリズムに存在し得、「私」と共存できるもの。通常の人間、坂本などはそこに安住してしまう。それに対してアンチ「私」は、反「私」であり、「私」と闘う矛盾するもの。しかも捉えられないもの。「私」を超えるところから「私」を選んで「私」をつくっているもの。
「偶然」というところからこの「超越」に至るところが坂本にまだわかっていないと思います。「矛盾・葛藤する運動体」という先生のご説明に、「私とは何か」の問いの恐怖の正体かもしれないと思いました。

③リアリズムを一つの座標軸とすると、そのリアリズムを相対化する別の座標軸を必要とする。違う言い方をすると、別の座標軸を用意することによって、リアリズムを相対化する。リアリズムは、その主体が捉えた世界である以上、相対化されなければならない。

④『城の崎にて』の「自分」が、一枚の桑の葉の動きに、自分の見えない風の自分にはわからない領域の力が働いている、と知っていた、デジャブがあったという、田中先生と丸山さんのブログの遣り取りを思い出しました。自分にはわからない識閾下の領域を自分が感じることと、『一人称単数』の「私」が了解不能の《他者》を自分の内に感じるのとは、同じことですか。

⑤松の木に上って消えた白い子猫の役割と、悪意ある女性の役割は同じとは、いかなることでしょうか。あの女性は因果を言い立てて「私」を全否定していたけれど、因果関係を解体する子猫と同じとは、あの女性の言っていることは、因果のようでいて因果ではないということでしょうか。「私」にはあの女性の言っていることは全く身に覚えがありませんでした。因果を超えているということなのでしょうか。

先生は何度か「意識によって無意識を突き出す」とおっしゃっいました。無意識を突き出す、無意識の外部に立つ、地下二階におりていく・・これらの言葉が坂本をぐるぐると引き回しております。先生のおっしゃっているところまではまだまだ遠く、申し訳ありません。引き続き考えます。

坂本まゆみ

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坂本さんへ ()
2020-12-30 13:13:53
コメントありがとうございます。
次の記事でお返事させて頂きますね。
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