〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

丸山さんからの質問にお応えします

2018-10-15 10:47:32 | 日記
丸山さん、
 丸山さんのコメントは私にとって、前回の張さん同様、有難いものです。基本的に丸山さんの御理解を私も支持します。〈語り手〉は現在、事故から三年以上経っていて、これが死の危険を予告された療養期間を実況中継していますから、〈語りの現在〉はしっかり押さえてください。〈機能としての語り手〉ではなく。しかし、そこまではまだ理解しやすいですよね。

 ここで、少し、解り難いことを敢て踏み込んで申し上げます。
 
 もう一度言いますと、『城の崎にて』の〈語りの現在〉は事故から三年以上経って、致命傷になる憂いのない時期、そこから事故後すぐの時期の但馬の城崎温泉での三週間のことを実況中継している、すなわち、まだ致命傷になる可能性のある時のことを語るところに、この稀有の〈近代小説〉の一極北が誕生する秘鑰が隠れています。
 この〈語り手〉「自分」は通常はあり得ない、生と死を等価に捉える『范の犯罪』の裁判官のまなざしを抱えて語っていますから、生と死の相関における意識と識閾下との相関を総体として捉えやすい、見えやすい位置にいることになります。それを可能にするのは意識と無意識の双方の外部に立つ位相であり、これを可能にした位置を手に入れていたのが〈語りの現在〉です。

 謂わば、拙稿「〈近代小説〉の神髄は不条理、概念としての〈第三項〉がこれを拓く」の図で言えば、生と死を等価とみなして、自身の意識・無意識の生の領域の外部、「地下二階」にある〈語り手〉が自身の「地上一・二階」の意識と「地下一階」の無意識の双方を相対化を捉えさせているのです。ここから「地下二階」の次元が現れます。
 
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5 コメント

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〈語り〉と「地下二階」 ()
2018-10-17 17:34:13
周さん及び皆さんへ
 『城の崎にて』を「実用的文章」としてその名作の所以を評価する谷崎潤一郎をはじめ、現在の近代文学研究の学会でもこれを如何に読み損ねていたか、『日本文学』の八月号の文学教育の特集号でここ六年ほど毎年論じている通りです。これに重ねて明治図書の新刊書『第三項論が拓く文学研究/文学教育 高等学校』をお見せしました。「地下二階」が見えないと〈近代小説〉の神髄は見えません。それは生と死を等価とするところ、モダンの近代的自我を完璧に相対化すること、その際、識閾下の底を抉り出すことが要請されます。これと客観的現実は幻想・イデオロギーだったこと、言語が世界の姿を見せていることに目覚めることです。
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『城の崎にて』と「地下二階」 (周非)
2018-10-17 14:42:32
 田中先生、この『城の崎にて』に関するプログを読ませていただいて始めて、「地下二階」がどのように〈近代小説〉から現れるかが少し分かったような気がしました。
 『城の崎にて』の「語りの現在」、現在の〈語り手〉が〈機能としての語り手〉の機能を果たしていると理解してよろしいでしょうか。
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〈語りの現在〉 ()
2018-10-17 08:15:07
 丸山さん、難波さん、コメント、ありがとう、お二人を介して、ブログに参加する皆さんに改めて申し上げます。
 わかったと思われるところには、また陥穽が待っているかもしれませんよ。
 もう一度、考えましょうね。いや、何度でも考えましょう。そうすると、モダンに留まらず、ポストモダンへ、さらにこれを超える、ポスト・ポストモダンの入り口、〈第三項〉理論の入り口に立つことが出来ます。しかし、それは案の定、アポリア・難問との格闘を強いられます。

 『城の崎にて』では、これまで述べてきた〈語り手の現在〉が肝心・肝要でした。
 交通事故から三年後の〈語りの現在〉にいる〈語り手〉は、事故直後、但馬の城崎温泉で療養中の「自分」を実況中継する〈語り手〉を相対化して語っていましたね。その〈語り手〉は、語りの現在の今、生と死を等価に見なしていましたよね。『范の犯罪』の裁判官のパースペクティブ・まなざしを抱え込んだ〈語り〉でした。これを従来の説では例外なく、何故こぞって見落としていたのか、近代は生に絶対的価値を見出して来ていたからです。この世界観で読んでいたからです。しかし、そこがキモ、皮肉な言い方ですが、これを見落とさなければ、近代の批評や近代文学研究は誕生・成立しなかったのです。
 『城の崎にて』を傑作中の傑作と感じ取りながら、生きることを絶対的に価値とする、これを白樺派の代表と考える、とすると、ここには作品とのねじれが起こる、苦しいですね。
 〈近代小説〉の神髄を近代批評が見落とすことで、〈近代小説〉は読み継がれてきた、のです。 つまり、近代の物語と〈近代小説〉を峻別する難問、アポリアは問わない、物語る主体を疑わないことで〈近代小説〉の神髄まで捉え得るかのように考えたのです。
 田中実は〈近代小説〉を「物語+〈語り手〉の自己表出」と定義していました。    
 〈近代小説〉の神髄は物語を語る主体を一旦完璧に相対化し、そのメタレベルに立つことで、物語を語り直して成立しているのです。 語る主体を一旦滅却する主体を必須とする、この屈折、二重の〈語り〉を必要としているのです。物語る主体を一旦殺す、それによって物語る主体のメタレベルに立つ、それは語っている主体の生と死を等価にして語る、ここから〈近代小説〉の神髄は語られています。自然主義リアリズムを否定するところに〈近代小説〉の神髄があるという、屈曲を内包しているのです。自然主義リアリズムこそ近代が見出した文学の価値でもあった、これを自らが克服していって、〈近代小説〉をなしていった、のです。

 漱石の『夢十夜』の「第一夜」では、死んだ女、死者が生者として「自分」に現れる時空間を登場させて始まります。
 『夢十夜』以降『三四郎』以降の本格小説が始まるところに〈近代小説〉を読む秘鑰があると私は考えています。

 旧来の(と私が考える)現在の近代文学研究・近代批評はこれをそうは考えなかった、客観的現実は主観的現実の後ろに隠れているから、これをリアリズムで捉えんとして奮闘した、それによって真に生きようとした、のです。
 世界を捉えるのに、知覚する主体に依拠し、自然主義リアリズムを信じているのです。
 それでは未来永劫、「地下二階」も現れて来ません。物語論(ナラトロジー)の方法論では読み切れないのです。

 もう一度、述べておきます。  
 〈近代小説〉の神髄を読み取る急所、肝は生と死は等価、それはモダンの基盤の完璧な解体、この解体を経て、〈近代小説〉の神髄たる世界解釈の扉が開きます。宮沢賢治の文学もここから始まりますし、漱石鷗外もここにあります。
 人類の歴史が文明史をたどり、行きついた尊い「近代的自我」が展開されることを人生の第一義と考えることを否定することを要請していたため、これが近代文学でも容易に受け入れられるはずはありません。自然主義リアリズム、エミール・ゾラに果敢に挑戦して、『舞姫』以降の鷗外文学が誕生したのですが、これが近代文学研究で見えないのは、視点人物太田豊太郎の識閾下を読まないからです。識閾下を読みこまないと、そのメタレベルの領域、「地下二階」の語り手のレベルは登場しません。
 そこに近代文学研究の現在があります。
 漱石の「高浜虚子の『鶏頭』序」の言葉で言うと、「生死界中にあつて最も意味の深い、最も第一義なる問題も悉く其光輝を失ってくる。殺されても怖くなくなってくる。」という世界観で漱石の文学も誕生していることがいまだ、自我史観のバリエーションで捉えられています。
 漱石・鷗外・志賀直哉らの〈近代小説〉の神髄は、世界を知覚する主体それ自体を否定していたのです。批評する主体を懐疑する小林秀雄の批評では世界は捉えられなかったのです。批評する主体それ自体を斥けていた、否定していた、ここが〈近代小説〉を読む批評基準だった、のです。
 近代文学の間で横行していた批評というジャンルは鷗外の言う「自己弁護」=ミミクリ(擬態)だったのです。これを捉えること、です。
 ここが見えると、何故、「地下一階」の識閾下ではなく、「地下二階」が〈近代小説〉に必要なのかが見えてきます。

 ここで一旦、切りましようね。お疲れさま。

 後、実は、「真実の百面相」を読みの柱にすると、〈近代小説〉の神髄は読み取れないことなどを言わなければならない思いがしますか、ここで今日は終わりますね。
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ブログだと (難波博孝)
2018-10-16 05:58:43
田中先生のことばは、このブログが一番(論文よりも、講演よりも)わかりやいです(笑)。志賀直哉のこともよくわかります。ブログだと、質問にまっすぐ答えられた感じがします。そして、田中先生の優しさが(怖さよりも)伝わってきますね。
語り手の語りの現在がとても重要であることがひしひしとわかります。これが、現代芸術としての小説なのだと思わせます。現代芸術特有の、見ている人間自体を批評するということです。
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Unknown (丸山義昭)
2018-10-15 20:48:55
田中先生、お答え、有り難うございます。
『城の崎にて』の〈語りの現在〉、ここがあくまでも基本・基軸であり、〈語りの現在〉が意識と無意識の双方の外部に立って、その双方を相対化して捉えているというご指摘、極めて肝要なものと考えます。ことさら〈機能としての語り手〉という用語を持ち出すまでもないですね。
ただ、その語り手が「地下二階」にある、「地下二階」の次元が現れる、と言われると、少し難しく思われるのですが、それは生と死を等価と見る、超越的な次元という理解で宜しいのでしょうか。
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