3月30日、山梨県立文学館で、『走れメロス』について、お話しました。
前回の記事で、周非さんからの質問に、講演の中でお答えすると書きましたが、安房直子の『きつねの窓』には言及できませんでした。そこで、ここでお答えしたいと思います。
先に言いますが、2015年の『都留文科大学研究紀要第81集』に収録の拙稿で「「物語」の重さ、「心」のために」と題して論じましたように、『きつねの窓』の〈読み〉の課題なるものは、遠くハンナ・アーレント著『イェルサレムのアイヒマンー悪の陳腐さに無関する報告』に連なる、私自身の陳腐に巣食う、他者のことを考えられない性(さが)であり、悪の問題であって、これは近代文学研究に携わる際、実は絶えず根底に横たわっている、蔑ろにできない決定的な課題と考えています。
小学校の安定教材の一つ、『きつねの窓』は現在まで、生身の〈語り手〉にして主人公の「ぼく」のまなざし、パースペクティブからだけで読まれています。それではまずい。〈語り手〉の「ぼく」のまなざしを読むのみならず、母を「ぼく」に殺さた子ぎつねのまなざしで読むことで、はじめて「ぼく」が如何なる存在であるかが相対化できます。
染物屋の小僧に化けた子ぎつねは親の仇を撃ち、復讐する代わりに、「ぼく」に懐かしい人を浮かび上がらせる不思議な「きつねの窓」を提供します。その代償としては、親殺しの因縁の鉄砲をもらい受け、さらに「なめこ」を「ぼく」にあげます。その後「ぼく」は染めてもらった指をいつもの習慣で洗ってしまい、不思議な「窓」を失い、以来人から変な癖があると言われます。この童話はそんな話です。この作品の際立った特徴は、語り手の「ぼく」が母を殺された子ぎつねの哀しみに思いを馳せることが全くなく、自分自身のことだけしか考えていないで物語が終わるところにありますが、教育界でもそうした自覚や意識は持たれていません。殺される側の領域、母を殺された子ぎつねの痛みは対象化されることがないのです。
母を撃った鉄砲を受け取って「なめこ」を渡す子ぎつねの思い、あたかも高僧のごときふるまいが、作中の「ぼく」に全く無視されている現状こそ問われるべき問題であり、子ぎつねにとって「ぼく」とは何者かを問うと、これはハンナ・アーレントがアイヒマンを問題にした「悪の陳腐さ」に遠く、しかも、しっかりと繋がっているようにわたくしには思われます。
こうした作品を評価して教科書に採用し続けている国語教育界を私は認めることはできません。
そのことについては、さらに児童言語研究会の『国語の授業No.260』掲載の拙稿「安房直子の『初雪のふる日』と『きつねの窓』」で論を重ねています。
ここで、ようやく周さんの田中への疑問に移れます。
この童話に対して、田中実という読者は『きつねの窓』を前述のように批判しているが、作品は語り手の「ぼく」をそう批判させるために書かれていると何故理解できないのか、何故そう読んではいけないか、と言うものです。
つまり、周さんから見れば、田中の読みを誘うように『きつねの窓』は書かれている、その田中の批判は必然、ごく当たり前のこと、ならば、『きつねの窓』という作品がそう「ぼく」を批判しているのではないか、というものです。周さんはこれを評価されているのです。
田中が読む限り、『きつねの窓』には〈語り手〉の「ぼく」への批判は全く書かれていません。「ぼく」は子ぎつねの母を撃った鉄砲をもらい受ける子ぎつねの心情に対し、その内面を思いやることは全くしません。それに対して、批判しているのは読者であるわたくし田中です。田中の読みは『きつねの窓』の文章の記述を田中の読み込んだコンテクストに応じて相対化し、この相対化が田中に批判をさせているのです。アプリオリに田中の批判が『きつねの窓』に内包されているのではないのです。
周さんは作品の記述が客観的記述として実体としてあるとお考えです。これは基本的に間違いです。久しく田近洵一先生とわたくしが論争していることもこのことです。田近先生はわたくしの最も尊敬する国語教育の先生なので論争を続けていますが、私とは違って、我々が読む客体の対象の文学作品を客観的に実体として存在するとお考えです。「言語的資材」と名付け、これを読者が本文Ⅰ、本文⒉・・と意味付けていくとお考えです。通常文学作品はそう考えられているでしょうが、これは原理的な誤り、わたくしはそう考えています。
文学作品は読み手が言語の概念(シニフィエ)を視覚映像(シニフィアン)によって、コンテクスト(文脈)を造りだして生成されるのです。『きつねの窓』を田中が批判していることを周さんは当たり前、それは作品に内包されているとお考えのようですが、それは原理的に誤りと言わざるを得ません。
第一、わたくしの読み方は例外中の例外です。主人公主義で読むのが、通例です。つまり、視点人物にして語り手の「ぼく」のまなざしでのみ物語童話が読まれる、まだナラトロジーですら、読まれていないところに日本の国語教育があるのです。
周さんはナラトロジーを駆使するのは当たり前と思われていますから、『きつねの窓』を批判する田中をごく当たり前だと勘違いされています。しかも、作中の文章の記述がアプリオリにそうなっていると誤解されていますが、〈読み〉は全て、読み手のフィルターによって現象します。長くなりましたので、『きつねの窓』に物語の力がないことは次の記事、『走れメロス』について述べる際に、申します。
前回の記事で、周非さんからの質問に、講演の中でお答えすると書きましたが、安房直子の『きつねの窓』には言及できませんでした。そこで、ここでお答えしたいと思います。
先に言いますが、2015年の『都留文科大学研究紀要第81集』に収録の拙稿で「「物語」の重さ、「心」のために」と題して論じましたように、『きつねの窓』の〈読み〉の課題なるものは、遠くハンナ・アーレント著『イェルサレムのアイヒマンー悪の陳腐さに無関する報告』に連なる、私自身の陳腐に巣食う、他者のことを考えられない性(さが)であり、悪の問題であって、これは近代文学研究に携わる際、実は絶えず根底に横たわっている、蔑ろにできない決定的な課題と考えています。
小学校の安定教材の一つ、『きつねの窓』は現在まで、生身の〈語り手〉にして主人公の「ぼく」のまなざし、パースペクティブからだけで読まれています。それではまずい。〈語り手〉の「ぼく」のまなざしを読むのみならず、母を「ぼく」に殺さた子ぎつねのまなざしで読むことで、はじめて「ぼく」が如何なる存在であるかが相対化できます。
染物屋の小僧に化けた子ぎつねは親の仇を撃ち、復讐する代わりに、「ぼく」に懐かしい人を浮かび上がらせる不思議な「きつねの窓」を提供します。その代償としては、親殺しの因縁の鉄砲をもらい受け、さらに「なめこ」を「ぼく」にあげます。その後「ぼく」は染めてもらった指をいつもの習慣で洗ってしまい、不思議な「窓」を失い、以来人から変な癖があると言われます。この童話はそんな話です。この作品の際立った特徴は、語り手の「ぼく」が母を殺された子ぎつねの哀しみに思いを馳せることが全くなく、自分自身のことだけしか考えていないで物語が終わるところにありますが、教育界でもそうした自覚や意識は持たれていません。殺される側の領域、母を殺された子ぎつねの痛みは対象化されることがないのです。
母を撃った鉄砲を受け取って「なめこ」を渡す子ぎつねの思い、あたかも高僧のごときふるまいが、作中の「ぼく」に全く無視されている現状こそ問われるべき問題であり、子ぎつねにとって「ぼく」とは何者かを問うと、これはハンナ・アーレントがアイヒマンを問題にした「悪の陳腐さ」に遠く、しかも、しっかりと繋がっているようにわたくしには思われます。
こうした作品を評価して教科書に採用し続けている国語教育界を私は認めることはできません。
そのことについては、さらに児童言語研究会の『国語の授業No.260』掲載の拙稿「安房直子の『初雪のふる日』と『きつねの窓』」で論を重ねています。
ここで、ようやく周さんの田中への疑問に移れます。
この童話に対して、田中実という読者は『きつねの窓』を前述のように批判しているが、作品は語り手の「ぼく」をそう批判させるために書かれていると何故理解できないのか、何故そう読んではいけないか、と言うものです。
つまり、周さんから見れば、田中の読みを誘うように『きつねの窓』は書かれている、その田中の批判は必然、ごく当たり前のこと、ならば、『きつねの窓』という作品がそう「ぼく」を批判しているのではないか、というものです。周さんはこれを評価されているのです。
田中が読む限り、『きつねの窓』には〈語り手〉の「ぼく」への批判は全く書かれていません。「ぼく」は子ぎつねの母を撃った鉄砲をもらい受ける子ぎつねの心情に対し、その内面を思いやることは全くしません。それに対して、批判しているのは読者であるわたくし田中です。田中の読みは『きつねの窓』の文章の記述を田中の読み込んだコンテクストに応じて相対化し、この相対化が田中に批判をさせているのです。アプリオリに田中の批判が『きつねの窓』に内包されているのではないのです。
周さんは作品の記述が客観的記述として実体としてあるとお考えです。これは基本的に間違いです。久しく田近洵一先生とわたくしが論争していることもこのことです。田近先生はわたくしの最も尊敬する国語教育の先生なので論争を続けていますが、私とは違って、我々が読む客体の対象の文学作品を客観的に実体として存在するとお考えです。「言語的資材」と名付け、これを読者が本文Ⅰ、本文⒉・・と意味付けていくとお考えです。通常文学作品はそう考えられているでしょうが、これは原理的な誤り、わたくしはそう考えています。
文学作品は読み手が言語の概念(シニフィエ)を視覚映像(シニフィアン)によって、コンテクスト(文脈)を造りだして生成されるのです。『きつねの窓』を田中が批判していることを周さんは当たり前、それは作品に内包されているとお考えのようですが、それは原理的に誤りと言わざるを得ません。
第一、わたくしの読み方は例外中の例外です。主人公主義で読むのが、通例です。つまり、視点人物にして語り手の「ぼく」のまなざしでのみ物語童話が読まれる、まだナラトロジーですら、読まれていないところに日本の国語教育があるのです。
周さんはナラトロジーを駆使するのは当たり前と思われていますから、『きつねの窓』を批判する田中をごく当たり前だと勘違いされています。しかも、作中の文章の記述がアプリオリにそうなっていると誤解されていますが、〈読み〉は全て、読み手のフィルターによって現象します。長くなりましたので、『きつねの窓』に物語の力がないことは次の記事、『走れメロス』について述べる際に、申します。
この講座で「走れメロス」を取り上げると伺って以来、田中先生の過去の「走れメロス」論を再読し、メロスが一度ならず刑場に戻りたくないというセリヌンティウスへの裏切りの気持ちを持っていたこと、そのことに無自覚なまま語り終える〈語り手〉を、先生が〈迂闊な語り手〉と読び〈語り〉の破綻を指摘されたことを、私なりに理解して臨みました。
しかし、この講座で先生は〈迂闊な語り手〉を撤回、〈語り手〉は全て承知で「いのちの行方」を語っていたとされる御論を展開され、「作品の価値を引き出す」読みに大きな魅力を感じました。
メロスの「無意識」の領域が王であるということ、そして、メロスとセリヌンティウスは立場は「意識」が共通の同一人物(分身)ということ、(つまり〈メロス・セリヌンティウス〉と〈王〉は、キャラクターこそはっきり分けて描かれているものの、三位一体=一人の人物であるということ)、この捉え方は目から鱗でした。
メロスは疲労困憊で動けなくなった時、「人を殺して生きる。それが人間世界の定法」と無意識の領域が表面化します。まさに王の意識です。この領域にあるのが「しばらくは、王とのあの約束をさえ忘れ」祝宴に興じ、「少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていた」いと思い、「そんなに急ぐ必要も無い」と「ぶらぶら歩いて」行くメロスです。安藤宏氏や田近氏が不問にしようとしたメロスの心ですが、やはりこの部分は重要だと再確認しました。
〈語り手〉は、王と表裏一体のメロスが、王になった後、元のメロス(セリヌンティウスの「命」を救うためという、命を問題にする王と表裏一体の次元のメロス)に戻らせるのではなく、「人の命も問題でない」「もっと恐ろしく大きいもの」という、命以上の大切なもの(命を超えるもの)を問題とする奇跡の世界、異次元空間にメロス(同時にセリヌンティウス、王)を連れて行くのだ、という御論にただただ圧倒されました。
命を超えるものとは、永遠の信頼でしょうか、魂でしょうか、神でしょうか…。
ただ、最後にメロスとセリヌンティウスが交わす言葉の「途中で一度」「たった一度だけ」は、私の中ではやはりまだひっかかるのですが…。メロスは(セリヌンティウスも)「単純な男」のままで、変わっていないのではないかと。二人の言葉がぴったり一致していることはまさに二人が一心同体であることを表していると思います。
先生は、この作品は「近代の物語小説」として読むことが必要(そう読むことが作品の価値を引き出す)とおっしゃって、近代小説(の真髄)を読む読み方とは峻別することを強調されました。そこのところがまだよく理解できなかったので、詳しくお聞きしたいと思いました。
なお、講座の中で「銀河鉄道の夜」のジョバンニとカンパネルラは次元を超越したところで結びついていると話されたのが、断片的にですが強烈に印象に残っています。
先生は、昨日のブログで、私の質問をもたらす考え方の間違いを、作品の記述を客観的実体だと考える考え方の間違いだと書かれました。ここはちょっと納得できません。
もしそういえば、たとえ生身の語り手が相対化されていても、〈語り手を超えるもの〉を読み方が、作品の記述を客観的実体だと考えるからだと批判されることになるのではないでしょうか。(〈語り手を超えるもの〉も読者の読みによって構築された機能であり、非実体だと理解しております。)
教えていただけますか。よろしくお願い致します。