〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

黒瀨先生へのコメントに対する続き、〈第三項〉論のこと

2022-07-23 09:04:33 | 日記
黒瀨先生のコメントの核心の根底には、やはり〈第三項〉の問題があります。
そこでいつも言っていることを確認し、繰り返しておきます。

近代小説・童話を読む際もまた、私は常に〈第三項〉論の立場立ちます。
これは広く外界、世界一般の対象を捉える時も原則的に同様です。

捉えた客体の対象は常に主体である自分の捉えた客体です。
客体そのものではありません。
ところが、例えば目の前のリンゴは誰にとってもリンゴであり、
それ以外の果物ではありません。
しかし、これを客体の対象として、そのリンゴとは何かを問うた時、
自身の中でも様々な想いが起きます。
いわんやこれが文学作品においておや、です。

客体の対象の文学作品の文章は常にその時の主体に捉えられた客体の対象であり、
客体の対象の文章そのものではありません。
すなわち、客体の対象のとは常に自分の捉えている対象の文章であります。
私は客体の対象の文章そのものをオリジナルセンテンスと命名し、
自分の捉えている客体の文章をパーソナルセンテンスと呼んでいます。

私達の目に見えて知覚できる文字の連なりである実在する文章を読んでも、
常にそれは永遠に沈黙するオリジナルセンテンスに過ぎません。
これに向かって読み続けていく、これが、私の立場です。
主体と客体と相関で捉えるのでなく、主体と客体の相関の外部である
〈第三項〉とのこの三者との相関で、自身の読みを更新してきます。
永遠の沈黙の〈第三項〉に向かって進むのです。

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7 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
だいぶの山奥 (石川晴美)
2022-07-23 16:11:20
田中先生、こんにちは。
6月の講座のyoutubeにアップされたものを拝見し、また最近の黒瀨先生の文章、先生とのやり取りを拝読しました。
「注文の多い料理店」のだいぶの山奥で起こった二人の紳士と山猫たちとの対幻想や、賢治の「心象」の話など大変興味深い内容でした。
紳士たちと山猫たちが鏡像になっている幻想、それはつまり英国風のおしゃれな紳士たちの皮をはいだその奥底にあるものが何かということが露呈されるような場所を語り手が用意したのだと。語り手は、表層の文明に生きる二人の紳士の化けの皮をはぐために、鉄砲撃ちや猟犬の出番を排してふたりを「だいぶの山奥」にいざなった。
山猫たちのやり口が、しゃれた風を装っている都会の表層を少しずつ剥いでいってその内面を暴き出しているとすると、その暴き出された彼らの内面(本質)というのは、文明によって隠蔽された人間の動物的な部分(動物的というものの、しかし本物の動物にはない人間独特の残虐性とか野蛮性のようなもの)ではないかと思いました。
人間と言うのは、本来、がたがたふるえて、泣いて泣いて泣かざるをえないほど恐ろしいものをその内側に抱えているのだと思います。

それで、賢治にとっての心象のスケッチが賢治の宇宙全体の表出となり、言葉によって創り出されているその宇宙全体を読み手が受け取ることによって(いわばすきとおったほんとうのたべものを読み手が取り入れることによって)、賢治の描く世界観が外へと広がっていくのだというふうに捉えました。

若い紳士たちは、人間の内実に向かい合う恐怖を体験して、自己の内側にあるものを知ったわけですが、それが作品全体として彼らが「大宇宙に迎えられる、光が投げかけられる」となるのは、専門の猟師や二匹の猟犬の活躍する「山奥」の場が設定されているからでしょうか?
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石川さんのご質問へ (田中実)
2022-07-24 09:11:47
石川さん、

 ご質問ありがとう。
 この「二人の若い紳士」は東京に戻り、お湯に入っても、そのくしゃくしゃの顔は戻らず、その内面は震え続けているのに、何故田中はこれを輝いているなどと法外のことを言うのか、その根拠は何か、これが賢治読者の疑問・疑念と思っています。
 言い換えると、食べることは食べられること、この恐怖に落ち込むことによって二人に何が起こっているのか、これにお応えすることが私の役割、これにお応えしましょう。。

 イギリスの兵隊のかっこうをした「二人の若い紳士」のそれまでいた「だいぶの山奥」は実は、東京と同じ、貨幣による幻想の世界でした。彼らはそれまで生き物の命をお金に換算して生きていたのです。冒頭の出来事、二人の紳士のしていることを見れば、よく分かりますね。
 ところが結末、食べることは自分が食べられること、殺すことは殺されること、これを知らされます。それまでの現実は全て仮想・幻想でした。二人は恐怖の極限に立たされたのです。
 恐怖は自分の外に助けを求めせます。自分ではどうにもならないからです。自らの意識・無意識の境界領域の外部を求めざるを得ない、ここに立たされたのです。
 くしゃくしゃの顔で震えているからこそ、その恐怖の極限が意識の底の無意識、さらにその底の大宇宙の声を呼び込むのです。そこには個人も社会も、自己も他者もありません。自分の命も相手の命の区別もありません。大宇宙はこれを全て呑み込んでいるのです。そこに大宇宙の力働きます。二人の顔のくしゃくしゃで恐怖に震えることによって、大宇宙の光が彼らに輝かせたのです。
 脅え震えることで輝く、「背理の輝き」を読みましょうね。


 
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背理の輝き (石川晴美)
2022-07-24 22:34:49
田中先生
ご返信いただき、ありがとうございます。
紳士たちがくしゃくしゃで恐怖に震えるところから、大宇宙の光が輝く、そこの転換の過程が先生のご説明を読んで頭では理解できてもまだうまく体得できません。
これはたぶん、「高瀬舟」の、弟を殺した喜助が毫光がさすように見える境地に至るその転換がいまだに腑に落ちないのと同様のように思います。
そうだとしても、「高瀬舟」の場合は小説中に言葉として「毫光がさす」と表現されているのに対して、「注文の多い料理店」の紳士たちは、紙くずのようになった顔がもとのようにはなおらない、というマイナスの表現にとどまっていて、やはり「輝き」というのが腑に落ちないのです。
もしかしたら、紳士たち登場人物の描写を超えて作品全体が構造的に「背理の輝き」を語っているのでしょうか?
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疑問にお応えします (田中実)
2022-07-25 08:32:54
石川さん、
 疑問ありがとう。本当に嬉しく思いました。

 鷗外の『高瀬舟』では弟を殺した罪人のはずの喜助が役人の庄兵衛から見れば「目には微かなかがやきがある」ように見え、不思議に思って聞いて見ると、まず最初に銭わずか二百文で満足していると聞き、なるほどと思って見ると、確かに喜助は毫光を放っています。そこで、さらに何故一心同体の弟を殺したのかを問うと、喜助は自殺未遂の弟を殺そうとしたのでありません。刺さった剃刀を抜いたに過ぎませんでしたが、庄兵衛は喜助が安楽死させたと誤解します。そうでははありません。殺した思ったから、自身の内面も死ぬのです。ここが見えるか見えないかが、要です。読み手も現在まで庄兵衛のまなざしでしか読んでいません。こうした通説を壊していましょう。鷗外の『高瀬舟』も、読者は語られた出来事、目に見えるものしか読んでいません。弟を殺して、毫光を放つ理由を安楽死と捉えるのなら、理屈通り、不思議でも何でもありませんね。これが鷗外研究の現在です。
『注文の多い料理店』も同様です。
 賢治の読み方にはパターンナイズされています。近代文学の読みの通説を瓦解させるために拙稿と格闘して下さい。
『高瀬舟』は名作、傑作です。私達読者の意識を超えて、作品は生き続けます。これは実は、近代文学研究者に一番言いたいことです。

 賢治の『注文の多い料理店』の〈語り手〉も「二人の若い紳士」の出来事のお話を語り終えていますが、これを語っている〈語り手〉の仕掛けを捉えて、〈深層批評〉に向かいましょう。
 「二人の若い紳士」が東京に戻っても顔が泣き崩れて変形したままで物語は終わりますが、〈語り手〉はこれをどう見ているのかを読むのです。
 すると「だいぶの山奥」は彼らの幻想でした。しかし、二人は幻想の意味が教えてくれたことを生き続けるでしょう。殺される危機は幻想だった、幻想の意味、「だいぶの山奥」は幻想、「山奥」の意味を、これを読むのです。幻想ならぬ「山奥」には「専門の猟師」がいて、彼らは生きるために猟をします。東京の人もこの猟の結果を食べているのです。東京の人はこれに気付いていません。東京の人が見ていない、二人の紳士が見ているものを見ましょう。
 『高瀬舟』も役人の羽田庄兵衛が見えていないものを見ましょう。東京で二人の紳士が見て、東京の人が見ていないもの、これを見ましょう。
 鷗外の研究者や賢治の研究者にまず言いたいことです。
 また質問して下さいね。
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外部領域とは何か (黒瀬貴広)
2022-07-27 13:15:02
作品の仕掛けを読む際の「外部」とは如何なるものなのかについて質問させてください。

『高瀬舟』の場合,視点人物「庄兵衛」のまなざしを超えた,対象人物の「喜助」そのものが〈語り手〉によって問題化されていると考えます。例えば,庄兵衛のまなざしから見れば,喜助の弟殺しは安楽死の問題に回収されています。しかし,語り手は視点人物の「庄兵衛」のまなざしから喜助を語り出す一方で(視点人物「庄兵衛」の捉えた対象人物「喜助」),それを超えた喜助そのもの(了解不能の《他者》)を,読み手には見えるかたちで問題にしています。「喜助」の直接話法には,「思わぬところを切ってしまった」とあり,弟を安楽死させようとする意図が見られません。そして,死んだ弟の晴れやかな顔は,作品冒頭の「喜助」の姿と重なるように語り手は語り出しています。このように,視点人物「庄兵衛」のまなざしを超えたところで,「喜助」そのものが問われるように語り手は語り出しています。

ここまでの読みが成立していると考えた時,外部とは如何なることなのかが再び私の中で疑問となります。例えば,「語り手が語り出そうとしている「喜助」そのものの領域を外部=〈第三項〉と呼んでよいのだろうか。」あるいは,「二つの世界を相対化して語る語り手の領域を外部=〈第三項〉と呼ぶのだろうか。」
このような疑問が湧いてきます。

恐らく基本的な問題なのでしょうが,私の中で十分に落とし込めていません。外部という言葉を度々先生がお使いになるからこそ,そのことの意味を知りたいと思います。お答えいただけると幸いです。
返信する
黒瀨君へ、 (田中実)
2022-07-27 23:35:07
黒瀨君へ、
 ご質問にお応えします。貴君が「ここまで読みが成立していると考えた時」と指摘し、そう捉えるのは貴君にとっては尤もです。しかし、それはあくまで貴君にとってのこと、その「ここまで」は田中から見れば早計です。何がそこに欠落しているか、それは貴君自身が〈読みの仕掛け、読みの仕組み〉を読み込む作業に向かうこと、そこで、私は貴君の素晴らしい『舞姫』論の事を思い起こします。

 手前みそで顰蹙を買うことを敢えて言いますが、貴君の〈『舞姫』論は拙稿『舞姫』論に対する貴君の読み取りの多年の蓄積による産物であり、見事です。その通り、『舞姫』を読むためには思考の枠組みの解体が驚くほど要求れるのです。
 この鷗外の処女作がいかに先駆的であるか、たやすくできることではありません。貴君はこれをやってのけています。 
 修士論文を手直しされた貴君の『舞姫』論を読むものは恐らく、そこに貴君が重ねた「思考の制度批判」と出会わざるを得ない、格闘せざるを得ません。これが出来ない読み手は貴君の作品論から排除されます。
 では『高瀬舟』では、どうでしょうか。
 確かに数多の『高瀬舟』論はこれを安楽死、ユータナジーという殺人の枠組みで捉えますが、貴君はそうした〈読み〉ではありません。ならば『高瀬舟』をどう捉えるか、〈第三項〉による読み方が先にあるのではありません。〈読みの仕組み・仕掛け〉を読み取っていくこと、〈第三項〉とは何かは後から考えるのです。〈第三項〉論は便宜的な方法論ではなく、世界観認識の原形とお考え下さい。
 読みは読みの実践・具体とともにしかありません。「架ける会」でも〈第三項〉を巡っての原理論の論争がなされているようですが、それは具体的な作品の読みと共に行ってください。抽象的のままでは実りはまずありません。
 如何すか。どうぞ、もう一度、コメント下さい。
 
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コメントについて (黒瀬貴広)
2022-07-28 07:38:14
お返事,ありがとうございます。
先生の言葉を受けて,私に分かったことがあります。
それは,〈第三項〉の問題が私の中で知らず知らずに「公式化」されてしまっていたということです。

『高瀬舟』で「ここまで」と述べたところが,私の読みにブレーキをかけてしまっています。それは,議論の場でも同じだと感じました。「その領域を〈第三項〉と呼んではいけない。」だとか「そのように捉えたら自己倒壊は起きない。」というような言葉は,結果的に「読み方」を前提にしてしまいます。つまり,「読み方」から逆算的に作品を捉えようとしてしまっていると考えられるのです(その「読み方」も自己の枠組みにすぎません)。なぜそうなってしまうのか。

これには2つの理由があると思います。1つ目は,「
人にわかってもらいたいから。」です。私が論文・発表をする際,「人に自分の考えていることを分かってもらいたい。」という感情が湧いてきます(『おにたのぼうし』の「おにた」が「女の子」に自分のことをわかってもらいたいと思うのに似ています)。これは否定できる感情ではありません。少なくとも,論文・発表には聴き手に「わかってもらう」という性質があるはずだからです。しかし,「わかってもらえないのではないか。」という恐怖が,読みの格闘からすり抜ける原因となっています。
2つ目は,「自分の読みに起きていることがうまく説明できないから」です。正直に言いますと,『高瀬舟』の喜助が弟を殺した後,彼らの中で何が起きたのか,私には分かりません。「はれやかな顔」が弟と兄で重なるように書かれているのは分かるのですが,そこに至るまでの飛躍が私には分からないのです。また,このことを考えることは,極めて私個人の問題に刺さってくるのが分かります(おにたで言えば「ぼうし」をとるようなことです)。これを考え,人に伝えることが絶望的にしんどく,困難なのです。なぜだかわかりません。書けばよいのに書けないのです。またその能力を備えていないのではないかと思い込んでしまっています。

これが私の読みの「公式化」を齎していると考えます。「具体的な読みの場で」と田中先生はおっしゃっていますが,「できてますよ。」と簡単に言えないのが自分の現状なのだと思います。恐怖への対峙の在り方も根源的に「公式化」できないからです。しかし,逆説的ではありますが,この難問を突破するには「発表・書く」しかないとも思っています。もし,この場を通じて読みを掘り起こしていけるのなら,これほど幸せなことはありません。

ここに書いていることも私の今の限界ラインです。超えるにはある種の勇気を必要としています。長文失礼しました。
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