明後日土曜日、お彼岸の秋分の日、猛暑もこれで終わることを期待しています。
日本の近代小説の基底はリアリズムを本流にしています。
そこでの「深層」が研究対象として読み込まれてきました。
しかし、これは村上春樹の用語でいえば、「地下一階」までの領域、
「深層」ならぬ「表層」です。
この逆転はいまだ十分近代文学研究に浸透していません。
「地下一階」のさらに下層、「地下二階」はリアリズムではもう捉えられません。
かつて、蓮實重彦の高名な『小説から遠く離れて』、『表層批評宣言』が出版されましたが、
これは今も受け止められず、相変わらず、「表層」を「深層」と信じ込んで、
研究がなされています。
村上は通常の小説概念とは異なるところから、創作を始めました。
村上春樹の言い方をすると、けんかをせず、最初から目覚まし時計の分解をして、
作り直して近代小説を見せているのです。
わたくしはこれは鷗外・漱石に通底していると考えていますが、
大変理解しにくいものです。
何しろ鷗外の『舞姫』の半年後の『うたかたの記』を
「パラレル・ワールド」の小説と読んでいますから。
その前に、一人称小説『舞姫』の主人公太田豊太郎の手記それ自体を対象化して読むためには、
「余」を「余」を相対化して語る〈語り手〉、
すなわち、手記の背後に隠れている〈機能としての語り手〉を読むことが必須です。
これができないと近代小説の〈神髄〉を読むことは基本的に不可能、
リアリズムを極め、それを超えていくところ、村上春樹の文学、
「地下二階」を内包させた文学作品はそこから始まります。
今回はこれを魯迅文学『藤野先生』の問題で顕わにして、
村上春樹が魯迅文学に通底している、「地下二階」につながっていることを
世界の人々にお話ししたいと思っています。
ぜひ、土曜日お彼岸の日、ご一緒してください。
以下、朴の木の会からのご案内です。
9月23日(土)に、田中実文学講座を開きます。
今回のテーマは「魯迅の小説『藤野先生』と『故郷』について―今度の拙稿を書き終えて―」です。
はじめて方も歓迎します。大勢の皆さんのご参加をお待ちしています。
※下記時間は日本時間です。
作品 魯迅『藤野先生』
講師 田中実先生(都留文科大学名誉教授)
日時 2023年9月23日(土)13:30~15:30
参加方法 zoomによるリモート
申込締切 2023年9月22日(金)19:00 まで
参加をご希望の方は、下記申込フォームから申し込んでください。申し込まれた方には、締め切り時間後に折り返しメールでご案内します。
https://forms.office.com/r/RpPpvWXSMj
問い合わせ:dai3kou.bungaku.kyouiku@gmail.com
主催 朴木(ほおのき)の会
日本の近代小説の基底はリアリズムを本流にしています。
そこでの「深層」が研究対象として読み込まれてきました。
しかし、これは村上春樹の用語でいえば、「地下一階」までの領域、
「深層」ならぬ「表層」です。
この逆転はいまだ十分近代文学研究に浸透していません。
「地下一階」のさらに下層、「地下二階」はリアリズムではもう捉えられません。
かつて、蓮實重彦の高名な『小説から遠く離れて』、『表層批評宣言』が出版されましたが、
これは今も受け止められず、相変わらず、「表層」を「深層」と信じ込んで、
研究がなされています。
村上は通常の小説概念とは異なるところから、創作を始めました。
村上春樹の言い方をすると、けんかをせず、最初から目覚まし時計の分解をして、
作り直して近代小説を見せているのです。
わたくしはこれは鷗外・漱石に通底していると考えていますが、
大変理解しにくいものです。
何しろ鷗外の『舞姫』の半年後の『うたかたの記』を
「パラレル・ワールド」の小説と読んでいますから。
その前に、一人称小説『舞姫』の主人公太田豊太郎の手記それ自体を対象化して読むためには、
「余」を「余」を相対化して語る〈語り手〉、
すなわち、手記の背後に隠れている〈機能としての語り手〉を読むことが必須です。
これができないと近代小説の〈神髄〉を読むことは基本的に不可能、
リアリズムを極め、それを超えていくところ、村上春樹の文学、
「地下二階」を内包させた文学作品はそこから始まります。
今回はこれを魯迅文学『藤野先生』の問題で顕わにして、
村上春樹が魯迅文学に通底している、「地下二階」につながっていることを
世界の人々にお話ししたいと思っています。
ぜひ、土曜日お彼岸の日、ご一緒してください。
以下、朴の木の会からのご案内です。
9月23日(土)に、田中実文学講座を開きます。
今回のテーマは「魯迅の小説『藤野先生』と『故郷』について―今度の拙稿を書き終えて―」です。
はじめて方も歓迎します。大勢の皆さんのご参加をお待ちしています。
※下記時間は日本時間です。
作品 魯迅『藤野先生』
講師 田中実先生(都留文科大学名誉教授)
日時 2023年9月23日(土)13:30~15:30
参加方法 zoomによるリモート
申込締切 2023年9月22日(金)19:00 まで
参加をご希望の方は、下記申込フォームから申し込んでください。申し込まれた方には、締め切り時間後に折り返しメールでご案内します。
https://forms.office.com/r/RpPpvWXSMj
問い合わせ:dai3kou.bungaku.kyouiku@gmail.com
主催 朴木(ほおのき)の会
もうわかったつもりになっていても、先日の講義では途中で、ふっと、あ、なるほど、と気づくことがあり、お伝えしたくコメントします。
今まで理屈では十分わかっていたつもりでしたが、当時の「私」と語り手である《私》とが峻別ができていなかった、両者を引き剥がせていなかった部分があり、それが作品の理解を妨げていたところがあります。
藤野先生に対して当時の「私」が冷淡だったのがぴんとこなかったのです。作品全体としての空気感はこれほどに《私》が尊敬する藤野先生、という雰囲気を醸し出しているのにもかかわらず、当時の「私」は頼まれた写真すら送っていないということ。
ところが、これは、当時の「私」がどんな私だったか、「この時この場所で」以降の《私》がどんな《私》に変わったのか、ということを考えたとき、すっと構図が浮かび上がってきました。
「祖国を代表するプライドと屈辱感を抱える」(先生の論文7頁)「私」にとって、藤野先生の手助けは、「物は稀なるを以って貴し」とするたぐいの優遇であると受け取られ、当時の「私」の世界観の中でとらえる藤野先生でした。
ところが語り手である《私》は、当時のそういう「私」の世界観を超えて、藤野先生の姿を照射しています。
また、「私」と藤野先生の関係、汝悔い改めよと書いた日本人の学生とトルストイとの関係もそこに重なります。
もう何度も読んでいるし、先生は何度も繰り返し語られているのに、やっとわかったのか、という感じです。いえ、まだわかってないのかもしれません。
文学を読むって、おもしろいですね。
メールいただきながら、コメントのお返事書かないまま、申し訳ありません。『藤野先生』論の完成稿を掲載した都留文科大学の紀要が10月13日、発行されます。『藤野先生』の根底、「施す手なし」の後、パラドックスが起こり、「正人君子」との闘いに挑む書き手になる秘密は、実は、理解しにくいことですが、「私」ならざる反「私」になっていきます。「私」は「私」であって、「私」を超えている《私》、石川さん、こんなことをこれから、考えてみませんか。