『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

89 勝常寺

2024-12-05 | 福島県

百寺巡礼 第66番 勝常寺

庶民が慕った最澄の好敵手

 

 

 

 

東北道の郡山JCから磐越道に入り、しばらくして車中の左手に見えないが猪苗代湖があり、右手に磐梯山が見える。会津若松ICで高速を降り、田園地帯を走り左手にテキサスインスツルメンツの大きな工場が見えてきたら、その先が勝常寺である。会津盆地のほぼ中央にある湯川村の集落にある小さな寺は、ICから7.5kmほどの道のりである。

勝常寺は平安時代初期の弘仁年間(810〜824)に法相宗の学僧・徳一(760?年 - 835?年)によって開かれたといわれている。徳一は中央(畿内)の出身で、藤原仲麻呂の子とも言われるが確証はない。20歳代で関東に下り、会津地方を拠点に宗教活動を行った。日本天台宗の宗祖である最澄と三一権実論争と呼ばれる、天台宗と奈良の旧仏教の優劣に関わる論争を行ったことでも知られる。徳一の開創が確実視される寺院としては恵日寺(福島県磐梯町)と筑波山の中禅寺(茨城県つくば市)があり、その他にも多くの寺院を建立したと伝えられる。勝常寺については、徳一の創建を伝える文献等の直接的史料はないが、当寺には本尊薬師三尊像をはじめ、9世紀にさかのぼる仏像が多く残り、これらは徳一が関係した造仏であると考えられている。創建当時は、薬師堂、三重塔など七堂伽藍とその附属建造物が多数立ち並んでいたと伝えている。木造薬師如来像が本尊とされ、会津五薬師の中心として会津中央薬師と称されるようになる。鎌倉時代後期からは真言宗に属するようになり、近世まで仁和時の末寺であった。応永5年(1398)に火災があり、その後室町時代初期には講堂(現・薬師堂)が再建された。現在残されている建物はその薬師堂以外は近世以降の建物である。

 

 

 

参拝日   令和6年(2024)9月26日(木) 天候晴れ

 

所在地   福島県河沼郡湯川村勝常代舞1764                               山 号   瑠璃光山                                       宗 派   真言宗豊山派                                       本 尊   薬師如来                                      創建年   伝・弘仁年間(810〜824)                                 開 基   伝・徳一                                                                         別 称   会津中央薬師堂                                     札所等   会津三十三観音第10番                                文化財   木造薬師如来坐像(国宝)、および両脇侍立像(国宝)                 

      木造四天王立像、木造十一面観音菩薩立像、木造聖観音菩薩立像ほか2件(国重要文化財)

                        

                                      

 

かっての勝常寺は、金堂や三重塔、それに南大門などが建ち並ぶ大伽藍だったというが、いまやその面影は全くない。先ずは、仁王門から境内に進む。

 

 

 

 

寺の概要が記された立て看板。

 

 

 

国宝に指定された記念の石碑。

 

 

 

仁王門。 ちょっとかしいでひじょうに素朴な建物である。室町時代に建立された堂宇の廃材を利用して、近世に建てられたという。

 

 

 

柱は室町時代の材で、上下につなぎ合わせた柱と分かる。屋根はもともと茅葺だったようで下から見るとその様子がわかる。大きな草履が、なんとなくだらしなさそうにかかっているが、経年変化の結果かもしれない。

 

 

 

扁額は、全く読めない。

 

 

 

仁王門なので、仁王様かと思われるがその面影は・・・

 

 

門を潜ると、正面に薬師堂。薬師堂は、扉が閉じてあり勝手に見ることはできない。拝観をするには、事前に参拝の予約申し込みをしなければならない。当日も11時ごろに予約をし、副住職の方が待っててくれて堂の中を案内してくれた。

 

 

 

 

 

 

 

薬師堂【国重要文化財】     方形の屋根はそのラインがとても美しい建物である。創建当時のものではないが、室町時代に建てられたものである。以前は茅葺であったが、昭和38年(1963)の大雪で屋根が大破してしまったため、現在は銅板葺き。

 

薬師堂は、もともと講堂として建立されたため向拝はない。内部は内外の両陣にわかれ、内陣は方三間で中央に須弥壇を設け、壇上に厨子をおく。堂はその構造や細部の手法等からみて、室町時代初期の再建といわれる。須弥壇、厨子もまた当時の優作である。内陣には、薬師如来を守るように十二神将像が立ち、さらに徳一像と伝えられる座像がある。徳一像顔面には、無残にも大きな刀傷のようなものが縦一文字にいた。

 

 

正面の掲げられた「瑠璃光山」の扁額。

 

 

薬師如来坐像【国宝】 薬師堂の本尊で、平安時代前期の作。大材から像形を彫り出したあと、前後に割って内刳りを施し再び矧ぎ合わせる、「一木割矧ぎ造り」の技法で作られている。本像は「割矧造」と呼ばれる技法を用いた古い作例として知られている。また、宝相華葡萄唐草を浮彫りにした、光背と宣字座も当初の作とみられている。像容は、狭い額に彫りの深い目鼻立ち、厳しい表情、厚い胸板から両腿にかけて圧倒的な量感、その上に流れる飜波衣文など、平安初期特有の彫刻様式が如実に現れている。用材から当地における製作と考えられるが、その造形技術は東北地方にある他の平安初期作例と比べてきわだって優れている。両脇立像の日光・月光菩薩立像とともに平成8年(1996)国宝に指定された。   (写真・説明文とも湯川村役場HPより) 

 

 

 

 

 

薬師堂を角度を変えて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

薬師堂から仁王門までの境内を見る。

 

 

 

境内の小川と池。

 

 

観音堂(収蔵庫)。  鉄筋コンクリート造の堂宇。中には、平安時代に創られた国宝の仏像二体(下記)と国の重要文化財仏像七体などが安置されている。

 

 

日光菩薩【国宝】      

 

 

月光菩薩【国宝】

 

 

御詠歌の石碑。  「幾たびも歩みを運ぶ勝常寺 生まれ会津の中の御仏」と刻まれている。

 

 

 

本坊。  薬師堂から少し離れた場所にある。近年に建てられたので堂宇は新しい。こちらの左奥に庫裡。

 

 

 

 

 

本坊から仁王門の方向を見る。

 

 

 

 

御朱印。

 

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー創建以来、勝常寺は会津の仏教文化の中心として大いに栄えていた。だが、徳一が亡くなってからは寺勢が衰え、十三世紀ごろには廃寺同然になってしまう。それを再興したのが、京都にある真言宗の寺、仁和寺の僧だった玄海僧都である。玄海は勝常寺の伽藍を再建し、中興の祖となった。勝常寺の宗派が真言宗に変わるのは、このときからだ。真言寺院としてよみがえった勝常寺だったが、天正年間の度重なる兵火で、現在の薬師堂をのぞく伽藍のすべてを焼失した。しかも、その最中に数多く数多くの寺宝を略奪されてしまう。幕末になると、会津を戊辰戦争の悲劇が見舞い、当時の城下町の大半は戦火で焼けてしまった。しかし、勝常寺の薬師寺はそのときも戦禍から奇跡的に免れることができた。こうした悲惨な状況をかいくぐりながら、本尊の薬師如来坐像を含む十二体の仏像と、徳一座像と伝えられる木像一体の計十三体の像は無事だったという。そのすべてが平安時代の作であり、東北では他に例を見ない貴重なものだ。勝常寺が廃寺同然になりながらも、これらの像が大切に守られてきた背景には、寺の関係者だけではなく、地元の住民たちの献身や努力があったにも違いない。住民たちを動かしたのは、薬師如来への篤い信仰と、勝常寺を開いた徳一その人への敬慕の情だったのではではないか、そうした想像が頭のなかをよぎる。

 

 

 

 

案内図。

 

 

 

 

 

勝常寺 終了

 

 

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87  清水寺

2024-08-16 | 島根県

百寺巡礼第73番 清水寺

 

山陰のキヨミズさんに幟がはためく

 

 

 

清水寺と聞くとだいたいは京都の清水寺が思い浮かぶが、山陰の安来にも清水寺があった。清水寺と書く寺院は全国に80か所ほどあるそうだ。それでも全国的に有名なのは、京都と安来の2院だけのようだ。場所は島根県の安来市に位置するが、交通の便は鳥取県の米子市の方が便利のようだ。米子駅前からレンタカーを利用し清水寺を参拝することにした。寺参りの後は足立美術館の予定なので、レンタカーが大変便利である。

寺伝によれば、この寺の開創は推古天皇の時代だと伝えられている。山城の国の尊隆という人が、瑞光山に登って揚命仙人に出会う。用明2年(587)のことだったという。そのとき揚命仙人から観音像を与えられた尊隆は草庵を建て推古5年(597)になって、推古天皇の勅命によって伽藍を作った。それが清水寺の起源になっている。その後、承和14年(847)、唐からの帰路に立ち寄った円仁(慈覚大師)により光明真言会が創設されて天台宗に帰依したという。その後幾度かの火災、そして復興を経て、明徳4年(1393)にほぼ現在の寺域が定まったが、戦国時代に尼子氏と毛利氏の戦いの戦場になったため、兵火に襲われ根本堂(現薬師本堂)を残し、ほとんどの建物は焼失してしまった。伽藍は江戸時代に入り、毛利氏および松平氏により復興され、加えて安政6年(1859)には、信徒の手により三重塔が建立され現在の形となった。伽藍は比較的新しいものの、寺の歴史は相当古いものである。

 

参拝日   令和6年(2024)6月1日(土) 天候曇り

 

所在地   島根県安来市清水町528                               山 号   瑞光山                                       宗 派   天台宗                                       本 尊   十一面観音菩薩像                                  創建年   用明天皇2年(587)                                 開 基   尊隆上人                                      正式名   瑞光山清水寺                                    別 称   安来清水寺                                     札所等   中国観音霊場28番ほか                                文化財   根本堂 十一面観音菩薩立像 ほか

 

 

境内図。

 

 

 

 

駐車場から緩やかな108の石段を上り大門に。

 

 

 

 

大門。  門全体が苔むしたような印象で、扁額は大門と書いてあるらしい。

 

 

 

 

門を潜り、けっこう長いだんだら坂を進む。参道には赤と紫の幟が交互に並ぶ。幟には「南無十一面観世音菩薩」と文字が染め抜かれている。

 

 

 

 

お出迎えしてっくれた観音さま。

 

 

 

 

翠の谷間を進む。

 

 

 

 

参道を上って境内に。

 

 

 

清水寺は清水山の中腹にあり、山の斜面に沿って2万㎡におよぶ広大な境内が広がる。境内は三つの平地からなり二十の堂宇が建つ。それぞれの平地には高い段差があるため石階段でつながる。

 

 

 

 

開山堂。 開山の尊隆上人と中興の盛縁上人を祀る。

 

 

 

 

弁財天堂。  宇賀弁財天を本尊に祀る。

 

 

 

 

売店。  境内の広場となり黒田千年堂と深田豊隆堂の二つの売店。それに手水舎、香炉堂などが建つ。正面に高燈籠が建ち、奥に城塞のような立派な石垣。その上に本堂となる根本堂が建つ。

 

 

 

 

高燈籠。 目測の高さは7mくらい。石垣の基台の上に、複雑な木組みの大きな傘屋根をかぶり丸型の照明はガラス製。蝋燭ではなく電灯での照明は、どうやら近年に建てられたものと見る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

手水鉢は天然の岩を刳りぬいたもの。天井は格天井。

 

 

 

 

香炉堂。  銅板葺き屋根の総欅造りで近年に建てられた様子。本堂を参る前に香を供え体を清める。

 

 

 

桁の上には何か獣が潜んでいる。

 

 

 

 

四隅には龍が桁上の獣を狙っているようだ。

 

 

 

大段々。  階段を上り本堂に向かう。

 

 

 

 

大段々の途中から見る根本堂。どこかの城塞と思わせる見事な石垣。

 

 

 

大段々を上りきりば樹齢900年と言われる千年杉。

 

 

 

 

大段々を振り返る。

 

 

 

 

本堂のある境内。

 

 

 

 

護摩堂。  本尊の不動明王を祀る。 現在は、護摩を祈祷を行い、絵馬堂としても使用している、。

 

 

 

 

根本堂【国重要文化財】。  いわゆる本堂である。大同元年(806)に平城天皇の勅願によって完成した建物。本尊に十一面観世音菩薩を祀る。この本尊は秘佛とされているが、毎年1月1日~3日まで、4月29日~5月5日および7月17日には、御開帳法要が営まれ大般若経転読祈祷によって祈願される。本堂後陣には、寺名の由来となった清い水が湧いている。

 

 

 

 

法堂正面。

 

 

 

 

本堂には、屋根の庇が深く向拝の無い。 軒下を見ると新しい材料が見られ大規模菜改修工事が行われたこ都がわかる。この本堂は棟札が4枚あり、過去に4回の修理と建て増しが行われたらしい。

 

 

 

 

扁額の字は薄れて読めない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

内陣を見る。                           (写真は島根観光ナビHPより)

 

 

 

 

本堂の前を見る。

 

 

 

 

本堂の外廻り。

 

 

 

 

 

複雑な木組みも改修されて新しい部材が見られる。

 

 

 

 

本堂から境内を見る。

 

 

 

 

本堂の脇から三重塔へ進む。

 

 

 

百観音御砂場踏み霊場。  三十三の霊場石と中央の仏足石からなり、霊場石の下には出雲三十三観音霊場、西国三十三観音霊場、中国三十三観音霊場の砂が納められており、御札を納札箱に納め廻ることで、これらの観音霊場を巡礼するのと同じ功徳が得らる。

 

 

 

 

三重塔へ進む。こちらの擁壁も強固な石垣となっている。

 

 

 

 

石垣下から見る三重塔。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三重塔【島根県指定文化財】。  高さは、33.3m。 安政6年(1859)に建立された総欅造りの木造多宝塔。 総欅造りの多宝塔は山陰地方にはここだけ。住職は二代にわたり、手掛けた地方大工は三世代にわたり33年をかけて仕上げた。材となった欅は但馬国の良材で句に地方棟梁の精魂の結晶と言われる。

 

 

 

 

 

 

 

塔は擬宝珠高欄を付した縁を廻す。

 

 

 

 

各層の軒下の木組みは複雑で細かい。中備え中央間は立体的な蟇股、両脇間は間斗束、中央間桟唐戸、脇間連子窓。

 

 

 

 

入口扉。  事前に予約をすれば、内部に入ることもできるらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

支輪の下の龍の彫刻がいくつも見られる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

初層の中備えは、蟇股の前に花の彫刻を置き立体感を出している

 

 

 

 

相輪は伊波の鋳物師の作。形は室町時代に造られた山口の瑠璃光寺五重塔の相輪に似ている。

 

 

 

 

三重塔から境内全域を見る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

境内の一画に稲荷社があり、参道には57基の赤鳥居が並ぶ。

 

 

 

 

清水稲荷社。本尊吒祇尼天を祀っている。吒祇尼天は、大黒神所属の夜叉で日本では稲荷の神體となっている。

 

 

 

 

宝蔵(宝物館)への参道。 宝物館は、昭和47年(1972)に建てられた。重要文化財十一面観音の盗難を起因として、多くの檀信徒並びに国、県、市の援助を得て建てた。”物”を納める蔵ではなく、”み佛の教え”を納めた蔵でありたいとの願いを込めて命名。

 

 

 

 

宝物館の案内。

 

 

 

 

光明閣。

 

 

案内図。

 

 

 

 

五木寛之著「百寺順礼」からーーーー古代の人びとにとって、清らかな水が湧きだす地は、眼に見えない大きなものの力を感じる場所だったことだろう。そして、人びとはその場所で、理屈ではないスピリチュアルな力、霊性のようなものを感じ取ったにちがいない。まだ宗教というものが生れる以前から、そういう場所は、聖地として人びとの信仰の対象になっていた。その象徴がアクアであり、聖なる水だったわけだ。そうしているうちに、聖地を舞台にして神話が生れ、神社ができ、新たに宗教というものも伝来してくる。最初、小さな草庵からはじまった寺が、やがて大伽藍が建ち並ぶ寺院へと発展していく。清水寺の場合も、まさにこうした道筋をたどってきたのではあるまいか。聖なる水が湧く聖地にたつ寺。そこにはいまもスピリチュアルな力がある。その力こそが、多くの人びとの信仰を集める理由だという気がする。

 



 

御朱印

 

 

 

 

清水寺 終了

 

(参考文献)  五木寛之著「百寺巡礼」第8巻山陰・山陽(講談社) 

        清水寺HP  島根県の塔HP  ほか

  

 

 

 

【付録】 足立美術館。

 

清水寺からほぼ10km西側に足立美術館がある。今回の出雲・松江の旅は、国宝松江城から始まり、豪商・豪農屋敷を5邸、出雲大社参拝、「百寺巡礼」の一畑薬師、清水寺、そして宍道湖。最後は足立美術館を巡る三泊四日だった。そこで、足立美術館の庭園のさわりを少々。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                             終了。

 

 

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86 一畑薬師

2024-08-14 | 島根県

百寺巡礼第74番 一畑薬師

 

目のお薬師さまに詣でる人びと

 

 

 

 

 

 

 

山陰には一度も行ったことが無かったので、今回は、松江城、出雲大社、足立美術館を中心に三泊四日の夫婦旅を行った。その二日目にレンタカーで宍道湖を一周することにして、宍道湖周辺と出雲平野の豪農の屋敷を見学し、その足で一畑薬師を参拝した。出雲神話の国引きの舞台を一望できる島根半島の中心部で、標高200mの一畑山上にある。ここまで行くには、バスがあるようだが日に2から3本程度のため、どうしても車に頼らなくてはならない。

目のお薬師様として全国的に広がりをもつ臨済宗の古刹。千百年の歴史ある薬師信仰の総本山となっている。参道の1300段の石段でも有名。平安時代の寛平6年(894)に一畑山の麓、日本海の赤浦海中から漁師の与一が引き上げた薬師如来を本尊とし祀り医王寺として創建したのが始まり。天台宗に属したが、正中2年(1325)に石雲本竺が臨済宗南禅寺派寺院として再興し、寺号を成徳寺として改めた。承応2年(1653)には一畑寺に改名。寛政2年(1790)には妙心寺派に転属した。昭和28年(1953)に宗教法人一畑薬師教団が設立され、一畑寺が総本山となっている、日本各地に約50の分院がある。

「目の薬師」のほか「こどもの無事成長の仏様」としても広く信仰されている。武家の時代には、歴代の領主の祈願所として寄進・安堵を受け、ゆかりの品物が数多く残されている。

 

参拝日    令和6年(2024)5月30日(木) 天候曇り

 

所在地    島根県出雲市小堺町83                               山 号    醫王山                                      宗 派    臨済宗妙心寺派 一畑薬師教団総本山                        本 尊    薬師瑠璃光如来                                  創建年    (伝)寛政6年(894)                              開 基    補然                                       別 称    一畑薬師                                     札所等    出雲十大薬師一番ほか                               文化財    紙本墨画著色書院障壁画(島根県文化財)ほか

 

 

 

一畑薬師境内図。                     (画像はネットから)

 

 

 

 

 

駐車場から参道のはじまりとなる橋を渡り参拝に向かう。

 

 

 

参道の途中の広場には石碑や燈籠が建っている。

 

 

 

格言や仏の言葉などが石に刻まれところどころに建っている。

 

 

 

 

格言の石碑の上には、水木しげるの漫画「ゲゲゲの鬼太郎」のキャラクターが鎮座している。

 

 

 

 

本堂までに約700mの参道を「けちえんの道」と呼び、仏と縁を結ぶ道という意味がある。

 

 

 

 

目玉おやじが出迎えてくれた。石碑には「うん(運)といただく結縁の道」。

 

 

 

 

目玉おやじが出迎えてくれる山上商店街。いわゆる門前商店街でおみやげ屋、蕎麦屋、饅頭屋などが並ぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ご真言塔。 「おんころころ せんだりまとうぎ そわか」の石塔で、薬師如来よ、災難と病苦を取り去りりたまえ。薬よ、薬よ、私を守護したまえ」という意味。石段は帰りの道となる。

 

 

 

 

百八基燈籠。 宍道湖の眺めがよい。

 

 

 

 

宍道湖を眺める。

 

 

 

 

山門。  こちらの門を潜り、法堂、本坊書院に詣でる。 (この門の右には約700mの長さで高低差200mの通称「1300段の石階段」があるのだが、写真を撮り忘れ1300段の石段は省略)

 

 

 

 

 

法堂と本坊の前庭。

 

 

 

 

平成27年(2015)に苗木が奉納された三春滝桜。

 

 

 

法堂。    木造平屋建て、重層入母屋造り、桟瓦葺き、平入、桁行6間、正面1間向拝付き、内部には法堂の本尊である釈迦如来像が安置されている。座禅堂とも呼ばれる。

 

 

 

 

軒下の木組み。

 

 

 

 

向拝。

 

 

 

扁額。   「湖北禅窟」と書かれた。

 

 

 

 

かなり細かく複雑な組み合わせがみられる窓周り。

 

 

 

 

窓周りの欄間の意匠。

 

 

 

 

 

 

 

 

法堂から本坊への堂宇の間に繋がる渡り廊下がもうけられ、また本坊から本堂まで渡り廊下でつながる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本堂へはもう数段の石段を上る。

 

 

 

 

石の上のは座禅中の目玉おやじが・・・。

 

 

 

 

仁王門。

 

 

 

 

扁額は山号の「醫王山」。

 

 

 

 

仁王像。   左側に安置された吽形像。

 

 

 

 

 

仁王門を潜っても階段はまだ続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

階段の石像手すりには、漫画家・水木しげるの名も刻まれている。

 

 

 

 

八堂(八万四千仏)。   階段を上り切った最初の堂宇。 仏教では八万四千の教えを説かれている。その八万四千の教えを仏像として納められている。

 

 

 

 

堂内には数万の仏が。天井は格天井でそれぞれ絵が描かれている。

 

 

 

 

 

 

 

手水舎。

 

 

 

 

 

薬師本堂がある境内は、観音堂と鐘楼堂が改修中でご覧の通り。

 

 

 

 

薬師本堂の前に小さな地蔵。

 

 

 

 

薬師本堂の前の石。「眼のくもり やがて晴れ行く醫王山 これぞ日本 一畑の寺」と書かれた。

 

 

 

薬師本堂。    建立当初の薬師本堂は、明治21年(1888)に火災で焼失したが、秘仏の本尊の薬師如来はかろうじて火災焼失の難を免れた。現在の薬師本堂は明治23年(1890)に再建された建物。その後の50年間で2回の屋根の修復工事を行った。

 

 

 

 

堂宇は、木造平屋建て、屋根は入母屋造り銅板葺き。平入、桁行6間、正面1間向拝付き。外壁は真壁造、白漆喰塗り。向拝は唐破風の屋根で、破風には拝飾り付き。

 

 

 

 

 

 

 

向拝の両柱には、解脱一切身眼疾苦(右)、即心證得無上正覚(左)  そこら中に格言や仏の言葉が表現されている。

 

 

 

 

軒下は彫刻で埋められ虹梁には龍が絡まっている。「醫王山」と書かれた扁額がみられる。

 

 

 

 

本堂の入り口には撫で仏の「賓頭盧尊者」像。

 

 

 

 

 

本堂と寺務所を見る。

 

 

 

 

本堂の内部を覗く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

内陣と外陣の間の欄間の彫刻がすごい。

 

 

 

 

正面の須弥壇。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

廻り縁に背ってされている大太鼓。

 

 

 

向拝を本堂側から。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本堂から境内を見る。 工事中でなんとも落ち着かない。

 

 

 

 

 

 

 

 

手水舎。  一畑山の天然の聖水だという。 天井に絵が描かれていたが見逃してしまった。

 

 

 

 

開基堂。 

 

 

 

 

八万四千仏堂。  こちらは満杯、入りきれない仏像が八堂に納められている。

 

 

 

 

堂宇いっぱいの整然と並べられた小仏。 平成5年(1993)の一畑薬師創開1100年祭に因んで、八万四千体の仏像をご安置するという壮大な計画がスタートした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

十六羅漢堂。  お釈迦様の高弟16人のことで、羅漢とは修行僧をいい、信者の施しを受けいるに値する貴重な人という意味。

 

 

 

 

十六羅漢のうち、舎利弗尊者(左)、注荼半託迦尊者(右)。

 

 

 

 

寺務所。 お札やお守りなどと御朱印賜わり所で、この建物は下生閣。

 

 

 

 

 

境内の遊歩道。

 

 

 

 

歩道にお並ぶ石地蔵。

 

 

 

けちえんの木。   二本の木が一つになった珍しい木。縁結びの木としてもカップルに人気がある。

 

 

 

一畑薬師から宍道湖を見る。

 

 

 

 

 

松江市内から宍道湖を見る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

案内図

 

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー一般に宗教というものは、こころの癒しをもとめるものだと言われている。だが、この薬師如来への信仰は、こころの癒しと同時に、実際のからだの癒しも求めようとする点が特徴だろう。そして、日本の庶民信仰というものは、ほとんどがこの現世利益というか、からだの癒しを求めて成りたっている。病気などが癒されることによって、こころも平穏でいられると考えるのだ。とくに、そのなかでも薬師如来という仏さまには、心身ともに癒やしてほしい、という人びとの切実な願いが寄せられているのだと思う。前章でも述べたように、私は一概に、現世利益を願うのは信仰の幼稚な段階だというふうには考えない。仏教でも、キリスト教でも、それが誕生した最初のころから、人間の病を癒すというのは大きな働きだったはずだからである。

 

 

 

 

御朱印

 

 

 

一畑薬師 終了

 

 

(参考文献) 五木寛之著「百寺巡礼」第八巻山陰・山陽  一畑薬師HP  

       フリー百科事典Wikipedia   ほか

 

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85 山 寺 

2024-05-20 | 山形県

百寺巡礼第61番 山寺

一人の僧がもたらした千二百年の法灯

 

 

 

 

一 日一万円乗り放題というJR東日本のキャンペンの切符を入手し、朝7時32分発の東北新幹線に乗り込んだ。こんなに朝早いのに新幹線は満席である。大宮からノンストップで9時04分に仙台駅に着き、仙山線に乗り換えて10時13分に山寺駅に着いた。3月の中、昨日まで雪が降っていたようで雪はまだ残っているが、天候は晴れて寒さはなく、いい参拝日であった。

山寺は、正しくは宝珠山立石寺という。「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」 という松尾芭蕉の句でも知られている寺。貞観2年(860)に清和天皇の勅願のよって慈覚大師が開いた天台宗のお山。この地を訪れた慈覚慈覚大師は、土地の主より砂金千両・麻布三千反をもって周囲十里四方を買い上げ寺領とした。堂塔三百余をもってこの地の布教に勤めたと言われる。開山の際には本山延暦寺より伝教大師が灯された不滅の法灯を分けられ、また開祖慈覚大師の霊位に捧げるために香を絶やさず、大師が当山に伝えた四年を一区切りとした不断の写経行を護る寺院となった。その後鎌倉期に至り、僧坊大いに栄えたが、室町期には戦火に巻き込まれ衰えた時期もあった。江戸期になると、千四百二十石の朱印地を賜り、堂塔が再建整備された。

正面の大きな建物は、根本中堂で、延文元年(1356)に初代山形城主・斯波兼頼が再建した。入母屋造・5間4面の建物で、ブナ材の建築物では日本最古といわれ、天台宗仏教道場の形式がよく保存されている。堂内には、慈覚大師作と伝える木造薬師如来坐像が安置され、伝教大師が比叡山に灯した灯を立石寺に分けたものを、織田信長の焼打で延暦寺を再建したときには逆に立石寺から分けたという、不滅の法灯を拝することができる。

元禄2年(1689)には俳聖・松尾芭蕉が、奥の細道の紀行の際この地を訪れ、冒頭のの名句を残した。

 

参拝日    令和6年(2024)3月11日(月) 天候晴れ

 

所在地    山形県山形市大字山寺4456-1                         山 号    宝珠山                                      院 号    阿所川院                                     宗 派    天台宗                                      寺 格    関東祈祷所                                    本 尊    薬師如来                                     創建年    伝・貞観2年(860)                                開 山    伝・円仁                                     正式名    寶珠山阿所川院立石寺                               別 称    山寺                                       札所等    最上三十三観音霊場第二番  四寺回廊                       文化財    根本中堂(国重要文化財)ほか          

 

 

 

境内図。

 

 

 

駅前の商店街および参道。

 

 

境内図。

 

 

 

立石寺入口。

 

 

石段を上り正面に根本中堂。

 

根本中堂【国重要文化財】    正平年間(1346~1370)の再建と伝え、慶長13年(1608)の大修理を含め数度の修理を受けているが、現在は慶長13年の姿を保っている。入母屋造、銅板葺き(元は杮葺)、平入、正面1間の向拝付、内部は正面2間分が外陣、奥3間分が内陣となっている。ブナ材が全体の6割程用いられブナ材の建築物では日本最古といわれる。

 

 

根本中堂は立石寺における全体の寺院の本堂に当たる堂となる。現在の根本中堂は延文元年(1356)初代山形城主・斯波兼頼が再建したもの。

 

 

 

内陣には須弥壇が設けられ、慈覚大師が自ら彫り込んだとされる本尊・薬師如来坐像。脇侍として日光・月光両菩薩と十二支天、その左右に文殊菩薩と毘沙門天を安置。1200年前に天台宗比叡山延暦寺から移された「不滅の法灯」が今も灯されている。 大永元年(1521)に兵乱により、立石寺とともに法灯も消失してしまったが、 天文12年(1543)の再建時に再び延暦寺から分灯された。逆に元亀2年(1571)に延暦寺が織田信長により焼き討ちされた時には、立石寺の法灯が延暦寺に分灯された。          (写真は山形県公式観光サイトより)

 

 

 

正面の向拝に安置された木造「招福布袋尊」。体をなでると願い事がかなうとのこと。

 

 

子どもを守る尊として、6人の子供が肩に乘っている。

 

 

 

向拝はもとより堂宇全体に華美な装飾な少なく、向拝欄間部に施された虎の彫刻の蟇股など限定的で素地で無骨な構造が逆に印象を与えてくれる。

 

 

 

 

 

 

元禄2年(1689)に芭蕉が訪れたときに、ほかの参拝者と寄進した手水鉢。

 

 

 

御神興殿。 手前の石塔はこけしの形でこけし塚。

 

 

松尾芭蕉像。

 

 

「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」の芭蕉の句碑。

 

 

常行念仏堂。  宝形造、銅板葺、桁行3間、梁間3間、正面に1間の向拝。

 

鐘楼。 山門の前に位置し、入母屋、銅板葺、石垣の基礎に袴腰付、腰壁は下見板張、縦押縁押え、屋根は2重垂木、天井は格天井、上部は4隅柱のみの吹き放しで高欄が廻り蟇股には霊鳥と思われる彫刻がある。梵鐘(高さ1.8m、直径70㎝)は、江戸時代末期に鋳造された。

 

 

願い事のある方は鐘を二つ突いて、お祈りする。

 

 

山門。   茅葺で趣がある門は、鎌倉時代に建立された伝えられる。門は切妻、茅葺、中心より僅かに前にある本柱と背後にある控柱の4本で門の屋根を支える薬医門形式。薬医門としては規模が大きく三間一戸風になっている。

 

 

扁額「開北霊窟」が掲げられている。

 

 

山門を潜ると参拝手続きの窓口があり料金を支払う。奥の院までの入口。

 

 

さあ、奥の院まで930段の石段を登り始める。

 

 

 

いよいよ階段上りの始まる。 ワクワクするような、たいへんなような・・決意をこめて、さあ行こう。

 

 

 

 

 

3月の中旬、昨日降った雪がまだ残っており、階段を上りにくくしている。かなり気を付けないと危険だ。

 

 

階段の途中には大きな岩がゴロゴロ。

 

 

岩には何か彫ってある。

 

 

大きな岩が目の前に迫り迫力ある参道。

 

蝉塚。  長い石段の参道中腹にある。 「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」の芭蕉翁の句をしたためた短冊をこの地に埋めて、石に塚をたてたもの。松尾芭蕉とその一行は、夕方に山寺に到着し宿坊に荷物を置くとそのまま参道を登り参拝してた。夕刻だった為、参拝者や僧侶達も居らず、御堂も門が閉められている静けさの中、唯一蝉の声だけが境内に鳴り響く、当時の時代でも別世界と思われる空間があり、この句がうまれた。「奥の細道」の中でも傑作の1つである。

 

 

四寸道。  山の自然に沿ってつくられたこの参道で、昔からの修行者の道。一番せまいところは約14cmの四寸しかない道で、開山・慈覚大師の足跡と言われる。ここまで360段、あと640段。

 

阿弥陀洞。   大きな岩塊。 背後にある凝灰岩が風化して阿弥陀如来の姿を形作っている。高さは約4.8mの巨大なもので、仏様の姿に見える人は幸福が訪れるという言い伝えがある(最上部の窪みが頭でその下の左右に肩のような丸身にある形状が見られ、地上部は座禅を組んでいるよう)。又、高さが1丈6尺(約4.8m)ある事から丈六の阿弥陀との別称がある。

 

 

 

岩には碑が刻まれている。

 

 

結構急な階段だ。大きな岩が覆いかぶさる。

 

 

いよいよ二王門が見えてきた。

 

仁王門。    仁王門は参道の中腹にある入母屋、銅板葺、三間一戸、八脚単層門、総欅、素地造りで周囲の景観と一体化し立石寺の象徴的な景観の1つ。案内板によると「 嘉永元年(1848)に再建されたけやき材の優美な門で、左右には、運慶の弟子たちの作といわれる仁王尊が安置されている。

 

 

軒下の二段造りの垂木が綺麗に見える。

 

 

木鼻には獅子、蟇股には波を模した彫刻が施され、屋根は2重垂木、華美な装飾は少なく力強い意匠。

 

 

 

 

 

天井は格天井。

 

 

 

門を潜る。

 

 

門を潜り前方の高台に見えるのは性相院。

 

 

 

仁王門を上から見る。

 

 

 

性相院の前から山々の風景と、右手に開山堂と納経堂。

 

 

 

開山堂と納経堂。

 

 

納経堂の遠景。 百丈岩の上に納経堂。

 

納経堂【山形県有形文化財】。 開山堂の左端の、百丈岩の頂上に位置ある。書写した法華経を奉納する場所だった事から納径堂と名付けられた。建物は慶長4年(1599)に建てられ宝永2年(1705)に大改修されたもので宝形造、銅瓦棒葺(元板葺)、桁行1間、梁間1間、外壁は横板張、弁柄塗り、正面中央に板扉を設けそ上部には象と思われる彫刻が施されている。

 

 

 

開山堂、五大堂への階段。この辺りは大きな岩が迫る。

 

開山堂。 立石寺を開山した慈覚大師が入定した百丈岩の平場に建てられた建物で信仰上でも重要。建物は入母屋、正面千鳥破風、銅板葺、平入、素地造、桁行3間、梁間2間。冬場の雪対策の仮設で覆われて全体像が見られないのが残念。

 

 

正面1間唐破風の向拝付、向拝欄間部には龍、木鼻には獅子、唐破風懸魚には鳳凰など精緻な彫刻が随所に施されている。

 

 

扁額は「かいざんだいし」ではないかなというが、よくわからないと寺の方。

 

 

開山堂の横から五大堂へ。

 

 

先ずは、山寺駅から望遠で五大堂の全景。 崖の斜面に建てた懸造。右下に開山堂。

 

五大堂。  立石寺の中で随一の眺望を望める景勝の地。 開山堂度と納経堂の奥に位置する。建物は正徳4年(1714)に再建され、嘉永5年(1852)に改修されたもの。木造平屋建、切妻、銅板葺、妻入、桁行4間、梁間2間、外壁は3方が吹き放しで下界を眺望出来き、落下を防ぐ為に外周には高欄を廻している。山の斜面にあり懸造となっている。五大堂の本尊は立石寺を護持する五大明王(大聖不動明王、東降三世明王、南軍荼利明王、大威徳明王、烏枢沙摩明王)が祀られている・・・

 

 

内部。眺望がすばらしい。 堂が空中に浮かんでいる感じだ。 かなりの時間をいたが、参拝客はほとんど外国人であった。

 

 

 

人がいなくなればこんな感じ。

 

 

 

 

 

中の広さは、ざっと20畳くらい・・・かな?。

 

 

 

 

 

真正面の山並み。眼下に山寺駅が小さく見える。

 



正面から見た景色

 

 

右手前方を見た景色。

 

 

左手の方向に開山堂や胎内堂などをみる。

 

 

釈迦堂。   釈迦ケ峰山頂直下に建てられた堂宇。木造平屋建、切妻、鉄板葺、平入、桁行3間、梁間2間、懸造風。 名称通り釈迦如来が安置されていると思われる。]

 

胎内堂。  釈迦堂からさらに下がった場所に建てられている。 木造平屋建、切妻、鉄板葺、妻入、桁行2間、梁間2間、懸造風。 その下にある小洞の中を入る「胎内くぐり」をしなければ辿り着けないという。現在は修行者のみしか行くことができない。

 

 

 

 

 

奥の院の途中の性相院。 

 

 

 

下から性相院、金乘院、中性院と並びその上奥が奥の院。

 

 

 

金乘院、その上後方に中性院。参拝はここまでとし、奥の院は参拝せずここで引き返した。

 

 

性相院。  本尊は阿弥陀如来で、運慶作と伝えられる毘沙門天像が安置されている。伊達政宗公の生母、義姫の日牌所でもある。

 

 

性相院の正面。

 

 

行きはよいよい帰りは恐い。階段に雪が積もりスベりやすい。

 

 

おそるおそる下りるので時間がかかる。

 

 

抜苦門。   本坊の表門。参拝者の全ての苦悩を抜けるとの理由から名付けられた。切妻、銅板葺、八脚単層門、三間三戸、正面唐破風、格式が感じらる。

 

 

木鼻には獅子の彫刻などが施されている。

 

 

 

 

 

本坊。  参道からは少し離れた所にある。周囲には神楽岩や蛙岩などの巨岩や羅漢像が安置されている。木造2階建て、寄棟、銅板葺、平入、外壁は真壁造、白漆喰仕上げ。庭園は背後の山々を取り込んだ借景庭園。

 

 

 

本坊玄関。  玄関屋根は唐破風、その上部の大屋根を千鳥破風として正面性を強調している。

 

 

 

神楽岩。 本坊の入り口側に大きな岩。

 

 

立谷川。  山寺の麓を流れる川。山形市の東側から流れ出て、山寺の前を通り、須川に合流した後にすぐに最上川へと合流。最上川水系の一部。

 

 

 

JR山寺駅。

 

 

 

山寺駅から見た立石寺。

 

 

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーーこの寺は東北の比叡山と言われるだけあって、延暦寺と同じように根本中堂には、薬師如来像が安置され、不滅の法灯が燃え続けている。薬師如来像は秘仏で拝見することはできなかったが、円仁の作と伝えられると聞いた。比叡山に横川を作り、唐から持ち帰った常行三昧という念仏の行をそこではじめたのも、円仁だといわれている。この山寺にもやはり常行念仏堂があった。このあたりにも、円仁の影響が色濃く感じられてならない。みちのくの山国に、円仁という才能豊かな野心的な僧がやってくる。そして、彼がまいた種が、今もこんなふうに生きつづけている。山寺は現在、観光地としてにぎわっているが、それでも千二百年ものあいだ法灯を保ちつづけるのは、並大抵のことではなかったにちがいない。

 

 

 

御朱印

 

 

 

山寺 終了

 

(参考文献) 五木寛之著「百寺巡礼」第七巻東北  立石寺HP  

       山形県HP(山寺立石寺:歴史・見所) フリー百科事典Wikipedia   ほか

 

 

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84 仁和寺

2024-05-14 | 京都府

古寺を巡る 仁和寺

皇族や貴族とのゆかりが深かく御所風建築物が特長の寺。

 

2024年の冬、4日間にわたる京都の寺巡りは、この仁和寺が最後で計12の寺を巡った。冬の終わりで、どの寺も参拝客は少なかったが、土曜日の仁和寺はけっこうな人の出である。金堂の裏堂にある五大明王像壁画の特別公開のせいもあるようだ。

仁和寺は、皇室とゆかりの深い寺(門跡寺院)で、出家後の宇多法王が住んでいたことから、「御室御所」と称された。明治維新以降は、仁和寺の門跡に皇族が就かなくなったこともあり、「旧御室御所」と称するようになった。

御室は桜の名所としても知られ、春の桜と秋の紅葉の時期は多くの参拝者でにぎわう。普段は境内への入場は無料であり、本坊御殿・霊宝館の拝観のみ有料となる。ただし、御室桜の開花時(4月)に「さくらまつり」が行われ、その期間は、境内への入場にも拝観料が必要となる。

仁和寺は平安時代前、光孝天皇の勅願で出仁和2年(886)に建てられ始めた。しかし、光孝天皇は寺の完成を見ずに翌年崩御し、その遺志を引き継いだ子の宇多天皇によって仁和4年(2024)に落成した。当初「西山御願寺」と称され、やがて元号をとって仁和寺と号した。出家した宇多天皇以降、当寺は皇族の子弟が入る寺院とみなされるようになった。仁和寺はその後も皇族や貴族の保護を受け、明治時代に至るまで、覚法法親王など皇子や皇族が歴代の門跡(住職)を務め、門跡寺院の筆頭として仏教各宗を統括した。応仁の乱(1467~1477)が勃発すると、東軍の兵によって焼かれ、伽藍は全焼した。ただ、被害を被る前に本尊の阿弥陀三尊像は運び出されており、焼失を免れている。寛永11年(1634)に幕府の支援を得て伽藍が整備されることとなった。また、寛永年間(1624~1645)の御所の建て替えに伴い、御所の紫宸殿、清涼殿、常御殿などが仁和寺に境内に移築されている。

慶応3年(1867)以降、皇室出身者が当寺の門跡となることはなかった。ここに当寺は宮門跡「御室御所」としての歴史を終えた。

太平洋戦争の末期に敗戦が濃厚となった昭和20年(1945)のはじめ、数度にわたり、近衛文麿が昭和天皇が退位して仁和寺で出家するという計画を検討している。昭和21年(1946)、真言宗御室派が大真言宗から分離独立し、仁和寺はその総本山となった。

仁和寺は、建物、仏像、絵画など、国宝、国重要文化財に指定された文化財を数多く所有する寺としても知られている。

 

参拝日   令和6年(2024)3月2日(土) 天候曇り時々晴れ

 

所在地   京都府京都市右京区御室大内33                          山 号   大内山                                      宗 派   真言宗御室派                                   寺 格   総本山                                      本 尊   阿弥陀如来                                    創建年   仁和4年(888)                                    開 基   宇多天皇                                     別 称   旧御室御所                                    札所等   京都十三仏霊場第9番                               文化財   金堂、木造阿弥陀如来および両脇侍像。木造薬師如来坐像ほか(国宝)  二王門、五重塔、観音堂(国重要文化財)

 

 

 

境内案内図

 

 

二王門【国重要文化財】   仁和寺の正面入り口となる。寛永18年(1641)から正保2年(1645)に再建された。入母屋の二重門とした重厚な造りは、平安時代の様式を引き継ぐ純和風。19.2mの高さ。南禅寺三門、知恩院三門とともに京都三大門の一つ。

 

 

左の「吽形像」は怒りを内に秘めた表情をしている。

 

 

右に「阿形像」は怒りの感情を顕にした表情。

 

 

軒下の木組み。 三手先の斗栱。

 

 

門の天井は組入り天井。

 

 

 

 

 

二王門から境内を見る。

 

 

境内。

 

 

拝観手続きを終えて本坊表門から御殿に進む。

 

 

御殿の参道に這え松。

 

 

皇室門。  南庭の入り口用の平唐門。宸殿を囲む塀には勅使門と皇族門、二つの門が設けられ、皇室と関わりが深いこの寺らしい典雅な雰囲気を醸し出している。

 

 

本坊表門を振り返る。

 

 

本坊(御殿)の大玄関。  約6mの唐破風檜皮葺き屋根。

 

 

軒下には、蟇股や大瓶束の笈形に秀麗な彫刻を施し、威厳と華やかさを備えた大型の玄関。

 

 

中央に繊細な彫刻を施した蟇股。

 

 

 

 

 

内側から見る。

 

 

拝観の入り口は混雑。 正面の額が気にかかるが・・・・。

 

 

本坊に続く白書院は、令和5年(2023)暮れから令和8年(2026)春まで補修工事。当時は仮設掛工事で、まだ白書院内は見学可能だった。 現在(4月以降)は見学不可のようだ。

 

 

 

渡り廊下が続く。

 

白書院。    明治20年(1887)に御殿が焼失したため、仮宸殿として明治23年(1890)に建てられた。その後、宸殿などの諸建造物が再建され白書院となった。表と裏に三室ずつ配る六室構成で、表の三部屋が公開されている。三室の東側の間(10畳)。

 

中の間(10畳)。  襖絵は、大正から昭和に活躍した日本画家・福永晴帆が昭和12年(1937)に描かれた。松を主題とし三室全28枚の襖に描かれ、四季おりおりの松の姿が見ることができる。松の幹が墨で力強く描かれ、部屋の中心を貫くような堂々とした構図が印象的。

 

 

西側の間(15畳)。

 

 

 

 

 

 

白書院からの枯山水の南庭は仮設の足場で見ることができない。

 

 

 

白書院から左黒書院、右に宸殿。

 

 

 

宸殿の入り口の見られる板戸絵。

 

 

外廊下と濡れ縁の間の建具は蔀戸。

 

 

宸殿と北庭を見る。

 

 

北庭園。 宸殿の北東に広がる池泉回遊式庭園。斜面を利用した滝組に池泉を配し、築山に飛濤亭、その奥には中門や五重塔を見る。作庭年は不明だが、元禄3年(1690)には加来道意ら、明治〜大正期には七代目小川治兵衛によって整備された。宸殿から池越しに茶室・飛濤 亭の屋根、中門(工事中)そして五重塔がよく見える。

 

 

宸殿の屋根は庇が深く、広い廊下で外に濡れ縁が付き、解放された空間のなかに庭園を見ることができる。

 

 

 

 

 

北庭と南庭の仕切り。

 

 

 

池には木橋が架かっている。

 

 

 

奥には滝が流れている。

 

 

 

 

宸殿【国登録有形文化財】   寛永年間(1624 ~1644)に京都御所・常御殿を下賜されて宸殿としていたが、明治20年(1887)に焼失。、明治43年(1910)に勅使門や霊明殿などと共に、京都府庁に設計を依託。当時、数々の実績があり復古建築の天才と言われた、京都府の技師・亀岡末吉が設計を担った。大正3年(1914)にこの宸殿など御殿エリアの再建が完成した。亀岡は古典的な日本の建築の特徴に現代的なデザインの要素を融合させたことで知られている。この建物も、明治時代の建造だが平安様式を取り入れ、建物の北東に配置された庭園とともに、かつての宮殿の雰囲気を漂わせている。 

 

 

 

外廊下に見る欄間。  繊細かつ華麗なる欄間の意匠は、設計を担った技師・亀岡末吉の特徴と言われる。

 

 

部屋は東(手前)から、下段の間、中断の間、上段の間の三室構成。三室に四季の風物が、明治期の京都の日本画家・原 在泉によって描かれている。全体に金地が使用され、白書院や黒書院と比べて豪華さが際立つ。下段の間(20畳)。

 

 

襖絵は「鷹野行幸図」で原在泉による。

 

 

 

障子の腰板には冬の草花だという。

 

 

 

 

 

三室とも長押の上の小壁には鴈の群れ。

 

 

2023年10月、竜王戦の行われた下段の間。  藤井聡太と伊藤匠が争った部屋。

 

 

中段の間。・

 

 

 

上段の間(16畳)。  床の間を設け、床脇には天袋付きの違い棚。折り上げ格天井、を設け特に格上の部屋。

 

 

 

 

帳台構え。  書院造に見られる装飾的な出入り口である帳台構えは、4面一杯に雉と牡丹に覆われている。

 

 

 

折上げ格天井と、中段の間との欄間は、連続する繊細な花菱模様などで設計技師の亀岡末吉の特徴的な造りである。

 

 

床脇には書院が設けられた。

 

 

黒書院から見た中庭。 正面には白書院の補修工事用の仮設囲い。

 

 

 

黒書院から霊明殿に進む渡り廊下。

 

 

霊明殿。   宸殿の北東側に位置する祈祷のための建物。杉皮葺きの屋根の頂部には宝珠が飾られている。この建物は明治44年(1911)年に再建された。

 

 

蟇股に唐草文様を取り入れ、設計者の亀岡末吉が好んだ意匠である。

 

 

霊明殿の扁額は近衛文麿の筆に寄る。

 

 

内部は折上格天井と格式が高い内装。 本尊は薬師如来坐像(国宝)。

 

 

 

薬師如来座像【国宝】    仁和寺の院家であった喜多(北)院のから移したもので他に、仁和寺歴代門跡の位牌を祀る。秘仏であったが、昭和61年(1986)に、京都国立博物館の調査で初めて概要が明らかになった。康和5年(1103)白河天皇の皇子・覚行法親王の発願により仏師の円勢と長円が作った。本体の像高11㎝で光背と台座を含めても24㎝ほどの白壇材の小像で、光背には七仏薬師像と、日光菩薩、月光菩薩、台座には前後左右各面に3体ずつの十二神将を表す手の込んだ像。    (写真はネットから引用)

 

 

 

霊明殿から見た宸殿(左)、黒書院(右)、仮設に囲われた白書院(中)。

 

 

霊明殿から見た北庭と宸殿。

 

 

宸殿から見た勅使門。

 

 

勅使門【国重要文化財】   京都府の技師・亀岡末吉の設計によって大正2年(1913)に再建された。前後唐破風の左右は入母屋造の檜皮葺屋根の四脚門。

 



繊細で装飾的な意匠は、左右対称に翼を広げる鳳凰。狭い虹梁上に蟇股と全面を唐草模様が重なる。

 

 

 

 

 

透かし彫りと繊細な細い桟が入った扉。繊細さが煌びやかさを生む美しい門である。

 

 

 

勅使門の前には天皇皇后両陛下(昭和?平成?)のお手植え桜。

 

 

境内から金堂側に向かう。中門はただいま工事中にいり仮設シートで覆われていた。

 

 

中門を潜り金堂のゾーンへ。 正面に金堂、右手に五重塔、左手に観音堂。

 

観音堂【国重要文化財】     寛永18年(1641)から正保2年(1645)の再建。金堂の手前西側に建つ観音堂は延長6年(928)に建立され、現在の建物(重要文化財)は寛永21年(1644)に再建された。ここは仁和寺で最重要儀式とされる「伝法灌頂」がおごそかに行われる重要な場所であり、内部は非公開。
平成24年(2012)から半解体修理が行われ平成30年(2018)に完了。

 

 

 

 

内部の須弥壇。                    (写真は九州国立博物館HPより)

 

 

観音堂の前。右手に名勝御室桜の桜林。正面に五重塔。テレビや映画の時代劇に出てくる五重塔は、ほとんどが仁和寺のこの五重塔だそうだ。屋根の大きさが五層同じで、江戸時代の様式をわかりやすく映せることが、時代劇の雰囲気を演出できるようだ。

 

 

五重塔【国重要文化財】   寛永21年(1644)に、徳川三代将軍・家光の寄進によって建立された。塔の高さ32.7m、総高36.18m。 各層の屋根がほぼ同一の大きさに造られ、江戸期の五重塔の特徴をよく表している。内部には大日如来と、その周りに無量寿如来などの四方仏を安置。柱や壁面には真言八祖、菊花文様などが描かれている。

 

 

 

 

 

相輪。  九つの輪(五智如来と四菩薩を表す)の宝輪と水煙(火災予防を表す)。

 

 

軒下の木組み。

 

正面の扁額は「梵」の字。

 

 

九所明神【国重要文化財】  経堂の東側に位置し、仁和寺を守護する神社。本殿・左殿・右殿の三棟からなり、本殿には八幡三神、左殿には賀茂上下・日吉・武答・稲荷、右殿には松尾・平野・小日吉・木野嶋の九座の明神を祀る。現在の社殿は、寛永18年(1641)~正保2年(1645)頃に建立された。門前に立つ3基の灯籠は、織部型灯籠といい古田織部が考案した灯篭で、別名をキリシタン灯籠ともいう。

 

 

経堂【国重要文化財】    寛永18年(1641)から正保2年(1645)に再建。禅宗 様建築。輪蔵が設けられ、計768もの経箱が収蔵されている。

 

 

 

 

 

金堂【国宝】    慶長18年(1613)に建立された京都御所の正殿・紫宸殿を寛永年間(1624~1644)に移築したもの。近世の寝殿造り遺構として重要。現存する最古の紫宸殿である。宮殿から仏堂への用途変更に伴い、屋根を檜皮葺きから瓦葺に改修した。梵天像、竜灯鬼、天灯鬼などが安置されている。須弥壇の周囲には極彩色の浄土図が、背面(裏堂)壁に五大明王壁画が描かれている。

 

 

正面・全景。

 

 

金の装飾金物が付いた漆塗の黒框と格子の蔀戸。蔀戸を空ける場合は、軒から吊り下げられた金物で支える。

 

 

正面向拝。

 

 

 

須弥壇。                             (写真は「トレたび」HPより)

 

 

木造阿弥陀如来像【国宝】。       仁和4年(888年)仁和寺創建時の金堂本尊。一木造で像のかもしだす和らいだ雰囲気は、平安時代の彫刻が次第に和様式への道をたどる出発点の造形と言われている。また腹前で定印を結ぶ現存最古の阿弥陀像としても知られている。現在は脇侍である勢至菩薩立像、観音菩薩立像とともに霊宝館に安置され、春・秋の名宝展で公開される。 (写真は仁和寺HPより)

 

五大明王壁画。   金堂の北側部分に当たる空間「裏堂」の壁体に約370年前に描かれた5体の明王像。壁画は、普段非公開だが、特別公開時に見ることができる。正保3年(1646)の伽藍再建完成後の間もない時期に、当時活躍していた絵仏師・木村徳応が描いたとされる。絵は高さ2.2m、奥行き約15mの壁にあり、不動明王を中心に金剛夜叉明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王と五大明王が青や赤などの絵の具で描かれている。裏堂には日光が差し込まなかったため、完成当時とほぼ同じ鮮明な絵が見られる。   (写真は「そうだ京都に行こう」HPから)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

金堂前の石灯籠。

 

 

 

 

 

 

瓦には仁和寺の文字が刻まれている。

 

 

 

鐘楼【国重要文化財】    寛永21年(1644)に再建。上部は朱塗で高欄が巡り、下部は袴腰式覆いが特徴。

 

 

御影堂中門【国重要文化財】   寛永18年(1641)から正保2年(1645)に再建された。

 

御影堂【国重要文化財】    寛永18年(1641)から正保2年(1645)の再建。慶長18年(1613)に建立された京都御所の清涼殿の用材を用いて建立されたもの。宗祖・弘法大師、開基・宇多法王、仁和寺第2世・性信入道親王の像を祀る。

 

 

 

 

 

水掛不動尊。   近畿三十六不動尊霊場第14番札所。

 

 

土塀。

 

 

 

金堂の前から中門を見る。

 

 

 

境内の早咲さくら?

 

 

 

案内図

 

 

 

御朱印

   (準備中)

 

 

 

仁和寺 終了

 

  

(参考文献) 仁和寺HP  フリー百科事典Wikipedia 京都障壁画拝観記録HP                     

       はてなブログ第二遊歩道ノート  4travel.jp  ほか

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