『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

73 長谷寺(鎌倉)

2024-01-05 | 神奈川県

古寺巡り 長谷寺(鎌倉)

 

 

長谷寺は、鎌倉の緑深い小高い山の中腹に広がり、「鎌倉の西方極楽浄土」と呼ばれている。諸堂のほか鎌倉の海や街並みが一望できる見晴台があり、相模湾の眺望がとても良い。梅雨の季節になると40種類2500株のアジサイが盛りとなり花の寺としても名高い。鎌倉大仏に近く、鎌倉でもトップクラスの景勝地である。

長谷寺の創建は奈良時代とされているが、中世以前の沿革は明確でなく、創建の正確な時期や経緯についても解明されていない。寺伝によれば、天平8年(736)、大和の長谷寺(奈良県桜井市=当ブログNO36)の開基である徳道を藤原房前が招請し、十一面観音像を本尊として開山した。

養老5年(721)に徳道は、大和国の山中で見つけた楠の大木から二体の十一面観音を造り、その一体が大和長谷寺の観音像となり、もう一体を祈請の上で海に流した。その15年後に三浦半島の長井浦に流れ着いた観音像を鎌倉に安置して開いたのが、長谷寺であるとされる。

当寺の梵鐘には、文永元年(1264)、当時の住職真光の勧進により鋳物師物部季重が造った旨の銘文があり、この頃には長谷寺が存在していたことと、当時は「新長谷寺」と呼ばれていたことがわかる。鎌倉時代にさかのぼる遺物としては他に弘長2年(1262)および徳治3年(1308)銘の板碑、嘉暦元年(1326)銘の懸仏などがある。

康永元年(1342)には、足利尊氏が伽藍と諸像の修復を行った。明徳3年(1392)には、足利義満が観音像の光背を修復し、行基の作という伝承のある像を前立として安置した。天文16年(1547)に、北条氏康の寄進を受け、天正19年(1591)には徳川家康から朱印状を受ける。慶長12年(1607)に、堂塔伽藍を改修し、正保2年(1645)にも酒井忠勝が堂宇を改修しているなど、歴代の権力者が長谷寺の伽藍や本尊の修造を行っている。


参拝日    平成30年(2018) 11月24日(土) 天候雲り

 

所在地    神奈川県鎌倉市長谷3-11-2                       山 号    海光山                                   院 号    慈照院                                   宗 旨    浄土宗                                   宗 派    浄土宗系                                  本 尊    十一面観音                                 創建年    天平8年(736)                              開 山    徳道上人                                  開 基    藤原房前                                  正式名    海光山慈照院長谷寺                             別 称    長谷観音                                  札所等    坂東三十三観音第4番ほか                          文化財    梵鐘、十一面観音懸仏(国重要文化財)

 

 

 

江の電長谷駅から鎌倉大仏の高徳院に向かう道の途中、左に入り長谷寺に向かう。土曜日ということもあり、長谷駅からの細い歩道は観光客であふれかえる。

 

 

長谷駅からの道を折れて長谷寺に向かう。

 

 

 

境内案内図。                            (長谷寺HPより)

 

 

 

山門。  力強さを感じる黒松が門にかぶさる。山門の出入りは出来ない

 

 

銅板葺き屋根の四脚門で、関東大震災に倒壊し再建されたもの。

 

 

長谷寺の扁額。

 

 

長谷大観音と記された石碑。

 

 

 

境内の入り山門方向を見る。 長谷寺の境内は、階段によって下の境内と上の境内と分かれている。

 

 

 

妙智池。 下の境内には、二つの池があり左手が妙智池。右手に放生池。

 

高山樗牛住居碑 。     山門を入って左手に立つ。明治期の思想家高山樗牛は病没する直前の明治34年(1901)頃、長谷寺境内に住んだことがあり、昭和34年(1959)にこれを記念する碑が建てられた。 巨木はクスノキの種で椨の木(たぶき)。

 

 

手水石。  ここで身を清め階段を上り観音堂(本堂)に向かう。

 

 

階段の途中から、下の境内の山門のあたりを見る。 階段を上り上の境内にいく。

 

 

観音堂は小高い丘の中腹にあり階段を上る。参道にはもみじの木が茂るが紅葉の時期にはまだ早い

 

 

 

参拝客が立ち止まって見る。見る人みんな優しい顔になっている。

 

 

良縁地蔵。   ほっこりした石地蔵がいい雰囲気。

 

 

花の寺でもある。11月下旬は椿に癒される。

 

 

地蔵堂。

 

 

鐘楼。   梵鐘は(国重要文化財)、『文永元年甲子7月15日新長谷寺』の銘文がある。本鐘は観音ミュージアムに収蔵され、鎌倉四大古鐘の一つ。現在のは新たに鋳造したもの。 

 

 

階段を上り本堂のある上の境内に。

 

 

境内からは、相模湾の海がよく見える。

 

 

 

 

 

阿弥陀所来像(厄除阿弥陀)。  本堂の右隣りの阿弥陀堂に安置されてる仏像。源頼朝が42歳の厄除けのために建立したと伝えられるが、実際には室町時代に作らっれたもの。元々は同じ長谷の廃寺になった誓願寺の本尊だったと言われる。鎌倉六阿弥陀の一つ。

 

 

 

観音堂(本堂)の向拝を見る。



 

 

 

 

 

観音堂(本堂)。   長谷観音と呼ばれる十一面観音立像を安置する。奈良の長谷寺の観音像と同じ、右手に数珠と錫杖、左手に水瓶を持つ長谷寺式の像容である。

 

十一面観音像【国重要文化財】  長谷寺式十一面観音像で、高さ9m18㎝で室町時代の作。 奈良・長谷寺の十一面観音と同じ霊木から彫られたと言われる。不空羂索観音と地蔵菩薩の化身である2人の仏師が三日三晩でクスノキの大木から二体の十一面観音像を彫って一体を奈良・長谷寺に祀り、開眼供養をした行基さんがもう一体を海に流した。その観音像が三浦半島に流れ着いたと言われている。(江の島・鎌倉ナビHPより)。

 

 

観音堂(本堂)。

 

 

 

仏足石。  釈迦の足裏を石に刻み信仰の対象とした。

 

 

 

観音堂の左手に位置する観音ミュージアム。  長谷寺の宝物館施設。

 

 

経堂。    上の境内の観音ミュージアムの左に位置する。

 

 

 

 

 

堂の中に鎮座する輪蔵(まわり堂)を自分の手で一周廻すと、一切経といって仏教の全経典を読んだのと同じ功徳が得られる。

 

 

 

上の境内を経堂側から見る。

 

 

 

経堂側にある庭園。

 

 

 

見晴らし台。 一休みできる見晴らしの良い場所。

 

 

見晴らし台から見る相模湾と鎌倉の街の風景。

 

 

 

書院入り口。  下の境内に戻り書院の一画を参拝する。

 

 

 

大黒堂。  扁額は出世大黒天とある。

 

 

辨天堂のある辨天窟。  弘法大師が参籠した洞窟と伝えられている。

 

 

 

洞窟内の「二臂の弁財天と十六童子」の壁面彫刻は、昭和42年(1967)に寄進されたもので、出世弁財天として崇められている。

 

 

平成25年(2013)に竣工した書院にあわせ、枯山水の庭園が造られた。地表には苔を貼り、複数の巨石を立て砂紋は水紋とし、渓谷を流れる川の水を表現している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

帰りの山門を内側から見る。

 

 

 

山門の前は広場になっており、秋の行楽日和で大勢の観光客がたむろする。

 

 

 

帰りは江の電に乘って長谷駅から藤沢駅に向かう。 江の電の車内から見た七里ガ浜の海。

 

 

車窓からは、江の島も見える。

 

 

案内図。

 

 

 

御朱印

 

 

 

長谷寺(鎌倉) 終了

 

(参考文献) 長谷寺HP フリー百科事典Wikipedia 

 

 

 


42 称名寺 

2023-10-12 | 神奈川県

古寺を巡る 称名寺

 

金沢北条氏一門の菩提寺

 

寺名は「しょうみょうじ」と読む。鎌倉幕府の要人・北条実時(1224~1276)が、正嘉2年(1258)に六浦荘金沢の屋敷内に建てた持仏堂(阿弥陀堂)を建てたのが起源とされる。金沢北条氏一族の菩提寺として鎌倉時代を通じて発展し、実時の息子2代顕時、孫3代貞顕の代に伽藍や庭園が整備された。貞顕の時代には三重の塔を含む七堂伽藍を完備した大寺院として全盛期であった。称名寺と縁の深い金沢文庫は、実時が病で没する直前の建治元年(1275)ころ、居館内に文庫を設けたのが起源とされる。文庫には、実時が収集した政治、歴史、文学、仏教などに関わる書籍が収められていた。鎌倉時代の仏教関係の文書が多数残されており、東京湾の水運を使って僧侶が金沢と千葉の間を頻繁に往来していたことが窺える。当時の称名寺は関東有数の学問寺であり、「金沢学校」とも呼ばれた。

徳川時代になって徳川家康は、多くの蔵書を江戸城内に設けた紅葉山文庫に移した。金沢文庫印が捺された古書・古写本は「金沢文庫本」と呼ばれ、現在も日本各地に残っている。一方、大幅な復興が実現し、現存する建物が作られた。

朱塗りの赤門をくぐると桜並木の参道が続き、突き当りには仁王門。鎌倉時代に造られた高さ4mの大きな仁王像が出迎える。仁王門横の通用門を入ると、阿字ヶ池を中心に中之島・反橋・平橋を配した「浄土庭園」が広がる。浄土庭園の向こうには、金沢三山(金沢山・稲荷山・日向山)を背に金堂・釈迦堂・鐘楼(称名晩鐘)を配する。春の桜、初夏の黄菖蒲、秋の紅葉と四季折々の景観が美しく訪れる人の憩いの場所となっている。

 

参拝日    令和元年(2019)5月5日(日) 天候晴れ

 

所在地    神奈川県横浜市金沢区金沢町212-1                    山 号    金沢山                                   院 号    彌勒院                                   宗 派    真言律宗                                  寺 格    別格本山                                  本 尊    弥勒菩薩(国重要文化財)                          創建年    正嘉2年(1258)                             開 山    審海                                    開 基    北条実時                                  札所等    新四国東国八十八箇所霊場75番                        文化財    絹本著色北条実時像ほか金沢北条4代のそれぞれの肖像画、文選集注(国宝)
       木造弥勒菩薩立像、銅鐘、金銅装宝篋印塔ほか(国重要文化財)
       境内(国の史跡)

 

 

称名寺と称名寺市民の森の案内図。    

 

 

 

赤門  名和8年(1771)に建立された。

 

 

少しの間だが桜並木の参道。参道の両側には塔頭の「光明院」と「大宝院」の二院が残っている。

 

 

仁王門。   二層の楼門。文政元年(1818)に江戸の豪商・石橋弥兵衛の寄進によって建立された。現在は門の中の通り抜けは出来ない。

 

 

門の正面には、朱塗りの反り橋とその先に本堂が見れる。

 

 

門の扁額は「金沢山」とあるが、写真によく映っていない。

 

 

仁王像。  口を結んでいる吽形像は、像高約4m弱ほどのあり関東では最大級の大きさという。

 

 

 

 

口を開いて阿形像。

 

 

この仁王像は、元享3年(1323)に院興が大仏師となって造られたもの。

 

 

仁王門を境内側から見る。

 

 

門を潜ると目の前に阿字ヶ池という大きな池がある。

 

 

阿字ヶ池。   性一法師により、2年の歳月をかけて元応2年(1320)造られた。梵字の「ア」を模して阿字ヶ池と名が付けられた。池には朱塗りの反橋と平橋をかかる。

 

 

銀杏の大木。

 

 

金堂前の阿字ヶ池を中心とする浄土式庭園は、元応2年(1320)に金沢氏3代貞顕の代に整備されたものである。浄土式庭園とは、浄土曼荼羅に基づいて配置された庭園のことで、平安時代末期に盛んにつくられた。

 

 

庭園は発掘調査の成果に基づいて、昭和62年(1987)に復元整備が完了した。平橋、反橋の2橋が復元されており、平橋は橋長17m、反橋は橋長18mである。

 

 

真正面に見る反り橋。

 

 

 

 

 

金堂に近い方が平橋。

 

 

 

 

 

金堂【神奈川県指定重要文化財】  ここには称名寺の末寺となった常福寺の「阿弥陀堂」を移築した「弥勒堂」があり、三代目金沢貞顕の代に修理・改造され「金堂」となった。現在の金堂は、天和元年(1681)に改築された。

 

 

金堂正面は禅宗の影響を受けた意匠。

 

 

金堂の内部。須弥壇。

 

 

禅宗の建築に見られる火灯窓。

 

 

軒の木組み。

 

 

釈迦堂。  本堂の右手に位置する。文久3年(1862)に建立の禅宗様の建築物。釈迦如来立像(国重要文化財)が安置されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

金堂から境内を見る。

 

 

鐘楼。  寛永11年(1799)に江戸の豪商・石橋弥兵衛の寄進によって再建したが、関東大震災にによって倒壊し、再び再建したもの。

 

 

梵鐘【国重要文化財】  金沢八景の称名の梵鐘として有名のようだ。鐘は、北条顕時が正安3年(1301)に改鋳した二代目の鐘。鎌倉・円覚寺の洪鐘を手掛けた名物鋳物師の物部国光の作。

 

 

境内には、さまざまな地蔵が建てられている。

 

 

 

 

 

 

 

池には数多くの黄菖蒲の花が開き、菖蒲の名勝でもある。

 

 

隧道の先には「金沢文庫」が建てられて、北条実時以降に、金澤北条家に蒐集されてきた書画、彫刻、書籍等の様々な文物が収蔵されて、博物館として公開されている。

 

 

案内図

 

 

御朱印

なし

 

 

称名寺 終了

 

(参考文献) フリー百科事典Wikipedia  湘南鎌倉寺社巡礼HP

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


13 高徳院 

2023-06-03 | 神奈川県

第48番 高徳院

多くの謎と武士の祈りを秘めた大仏

 

 

鎌倉から江ノ電に乘り、三つ目長谷駅で降りて真っすぐ500m。途中の左手には長谷寺があり、右手には鎌倉三大洋館の一つ加賀藩前田家の別荘がある。現在は鎌倉文学館として鎌倉の在住した文化人の展示館になっている。この道は休日ともなれば狭い歩道が人で溢れる賑わいのある通りである。その突き当りに鎌倉の大佛が鎮座している。寺名は高徳院というのだが、誰も鎌倉の大仏と呼んでいる、知名度の高いお寺である。

 

仏像は、規模こそ奈良東大寺の大仏( 盧舎那仏) に及ばぬものの、ほぼ造立当初の像容を保ち、我が国の仏教芸術史上ひときわ重要な価値を有している。北条得宗家の正史『吾妻鏡』によれば、その造立が開始されたのは建長4年(1252)。制作には僧浄光が勧進した浄財が当てられたとも伝えられている。もっとも、創建当時の事情には不明な部分が多く、未だ尊像の原型作者すら特定されるに至っていない。当初尊像を収めていた堂宇については、『太平記』と『鎌倉大日記』に、建武元年(1334)および応安2年(1369)の大風と明応7年(1498)の大地震によって損壊に至ったとの記録を見いだすことができた。以後、露坐となり荒廃が進んだ尊像は、江戸中期、浅草の商人野島新左衛門( 泰祐) の喜捨を得た祐天・養国の手で復興することができた。尊像の鋳掛修復に着手し、「清浄泉寺高徳院」と称する念仏専修の寺院を再興、当時、浄土宗関東十八檀林の筆頭であった光明寺の「奥之院」に位置づけたのも、祐天の事績にほかならない。今日、創建750 年余を経た尊像は、仏教東伝の象徴として、国内外、宗派の別を問わず数多の仏教徒の信仰を集めている。

 

 

 

参拝日       平成29年(2017)2月2日(水) 天候晴れ

 

所在地       神奈川県鎌倉市長谷4-2-28                                               山 号       大異山                                                           宗 派       浄土宗                                                         本 尊       阿弥陀如来                                                    創建年       不詳                                                       開 基       不詳                                                       正式名       大異山高徳院清浄泉寺                                               別 称       鎌倉大仏                                                     札所等       鎌倉三十三観音二十三番                                              文化財      (国宝)銅造阿弥陀如来坐像

 

 

門の前の通り

 

 

 

 

 

 

 

高徳院の参道

 

 

 

 

 

 

 

境内案内図

 

 

 

仁王門 院の山号「大異山」を記す扁額が掲げられた山門は、18世紀初頭、内部に安置された一対の仁王像とともに他所より移築されたものと伝えられている。 

 

 

 

仁王像

 

 

 

 

 

 

 

仁王門をくぐるともう一つの門が常時閉鎖されている様子で、左側の入り口から院内に入る。

 

 

 

境内に入る

 

 

 

手水舎

 

 

 

石碑と大仏

 

 

 

石碑の所から入り口方角の境内を見る

 

 

 

かなり外国人にが多く、みな記念写真を撮る。

 

 

 

鎌倉大仏【国宝】  正式には「銅造阿弥陀如来坐像」 作者は不明、「慶派」(運慶とそれに連なる仏師達)の作風と宋代中国の仏師達からの影響の双方を併せ持つ、いかにも鎌倉期らしい仏像といわれている。

 

 

 

 

 

 

 

大仏の寸法  総高13.35m  仏心高11.31m  面高2.35  眼長1.0m  口幅0.82m  耳長1.9m  眉間白毫直径0.18m  螺髪高0.18m  螺髪直径0.24m  螺髪数656  総重量 121t  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大仏の後ろ姿

 

 

 

 

 

 

観月堂 15世紀中頃、漢陽(今日のソウル)の朝鮮王宮内に建築されたと伝えられる建物。大正13年(1924)当時これを所持されていた「山一合資会社」(後の「山一證券」)の社長、杉野喜精氏によって、東京目黒の私宅から移築・寄贈さた。この建物の中に、江戸後期の作品とみられる観音菩薩立像が安置されている。 

 

 

 

与謝野晶子の歌碑

 

 

 

歌碑に書かれた句

 

 

 

礎石  創建当初大仏像を収めていた堂宇は60基の礎石に支えられていたよう。現在、境内に遺る同礎石は56基。いずれも根府川産の輝石安山岩を石材とするそれらのなかには、庭石や水盤にも転用されているものもある。

 

 

 

大わらじ    大仏像に向かって右側の回廊内壁には、常陸太田市松栄町(旧郡戸村)に活動拠点を置く松栄子供会によって奉納された、長さ1.8m、幅0.9m、重量45kgにも及ぶ大きな藁草履がかけられている。1956年以降、3年に一度巨大な藁草履の制作を試み寄進を続けている。

 

 

 

お寺だが神さまの使いなら、このような人がそうかもしれないな・・・・

 

 

 

案内図

 

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーーーー『つねに死と隣り合わせの武士にとって、自分を律することで心の平安を得る禅宗は支えになった。それゆえに大きな流行となったのであろう。しかし一方では死と隣り合わせにあるがゆえに、極楽往生を願う浄土信仰も必要だったのではないかと思う』『意志の強さを自覚する武士たちは自分の力で真理に向かって進もうとして禅宗に惹かれる。しかし、殺生をなりわいとしいつ死ぬかも知れぬ身であることを考えれば、たとえ殺生という大罪を犯した直後であっても救われたい。その希望にこたえるのが浄土宗と考えられる。こうして鎌倉の地で武士たちは禅と浄土信仰という両方の考えを支えにして、死と隣り合う時代を生き抜いたに違いない。大きな阿弥陀如来は、そうした時代の象徴のような存在だったと言えないか』

 

 

御朱印

 

 

高徳院 終了

 


12 建長寺

2023-05-26 | 神奈川県

第46番 建長寺

 

中国僧が武士に伝えた禅

 

 

 

参拝日                         平成29年(2017)2月2日(水)天候晴れ

 

所在地       神奈川県鎌倉市山ノ内8                                                   山 号       巨福山                                                           宗 派       臨済宗建長寺派                                                       寺 格       本山鎌倉五山第一位                                                     本 尊       地蔵菩薩                                                          創建年       建長5年(1253)                                                       開 山       蘭渓道隆                                                          開 祖       北条時頼                                                          正式名       巨福山建長興国禅寺                                                     別 称       巨福山建長禅寺 建長僧堂                                                    札所等       鎌倉二十四地蔵九番十一番 鎌倉三十三観音霊場第二十八番                                                                    文化財      (国宝)絹本淡彩蘭渓道隆像、大覚禅師墨蹟法語規則、梵鐘(国文化財)山門、法堂、絹本著色釈迦三尊像ほか 

           

北鎌倉の円覚寺を参拝し、総門をでて鎌倉街道を挟み斜め前の東慶寺とその隣の浄智寺を参拝し、ここから600m先の建長寺に向かう。1年半ほど北鎌倉に住んでいたこともあるが、建長寺に行ったことはあると思うがほとんど記憶がない。建長寺を参拝した日は、翌日の節分に向けてその準備が行われていた。こちらの寺も鎌倉の山あいの谷戸に造られた寺で境内の両側には山が迫っている。入り口にあたる総門の傍には中高一貫校の鎌倉学園があり、建長寺の経営なのであろう。

建長寺は、建長5年(1253 )に鎌倉幕府第5代執権北条時頼が中国(宋)の高僧蘭渓道隆を迎えて創建した、日本最初の禅宗専門道場。創建当初は中国の径山万寿寺と同じく主要な建物が一直線に並ぶ伽藍配置であったといわれるが、大地震や火災の被害にたびたびあい、そのつど再建されて、現在の堂宇はほとんど近世の再建・移築になるもの。正中2年(1325)と嘉歴元年(1326)には、建長寺造営再建のため中国(元)に貿易船を派遣して、その費用にあてたりしている。寺宝としては、蘭渓道隆像(絵画)などの国宝をはじめ数多くの文化財があり、中でも建長7年(1255)に北条時頼がつくらせた梵鐘は、その美しさが関東一と言われている。

 

 

境内案内図

 

 

鎌倉街道に面した天下門  

 

 

 

かって、総門の前には東西の外門があった。大正の関東大震災で倒壊したのち昭和59年(1984)に再建された。「天下禅林」の額を掲げているため

 

 

 

扁額「天下禅林」とは、人材を広く天下に求め育成する禅寺という意味。

 

 

総門は昭和15年(1940)に京都の般船三昧院に天明3年(1783)に建立されてものを移築した。巨福門と呼ばれる。扁額「巨福山」は第10世一山一寧の筆で、巨の字に点がが加えられ、百貫の値を添えたものといい、この点を「百貫点」と呼ばれる。

 

 

 

総門を入り境内を見る

 

 

 

三門【国重要文化財】 総門を入り最初の堂宇。現在の三門は安永4年(1775)に開山の蘭渓道隆の五百年忌にあたり、二百一世萬拙碩誼によって再建されたもの。  

 

 

 

三間二重門としては東日本最大。扁額は「建長興国禅寺」と書かれ、建長寺の大工河内長兵衛棟梁がこの額を掲げるために唐破風とした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仏堂【国重要文化財】   三門の先に当寺の本堂となる仏堂がある。桁行3間、梁間3間、一層、裳階付き、裳階には正面唐破風付き、銅板瓦棒葺き寄棟屋根。もとは徳川秀忠夫人の霊屋として、江戸の初期に芝の増上寺に建てられていたものを、正保4年(1647)の霊屋の建て替えに際し、当寺に譲渡され移築されたもの。

 

 

 

中央の三間には三つ折りの扉。両端に火灯窓。唐破風兎毛通しは猪目懸魚。

 

 

 

 

 

 

 

軒下には組み物がびっしり。

 

 

 

仏殿内部  木造伽藍神像【国重要文化財】5体が安置されている。伽藍神はもともと道教の神であるが、鎌倉時代以降に宗代中国の影響を受け、禅宗が取り入れて伽藍の守護神にした。仏像5体は建長5年(1253)の創建時のものか、あるいは永仁元年(1293)の火災の後に制作したものと思われもので、作風は中国・南宗彫刻の影響を受け5体揃っているのは日本最古。

 

 

 

いまは色あせているものの、壁・天井には絵が描かれ漆を施され、彫刻が組み込まれた内陣は、徳川二代将軍秀忠の正室の霊屋として、かなり豪華に造られたのではないかと思われる。

 

 

 

天井には立派な天蓋が。

 

 

 

ご本尊の地蔵菩薩坐像は、応永21年(1414)の火災後に再興されたものと考えられている。一般に鎌倉の禅宗のお寺の多くは釈迦如来をご本尊にしている。この場所が地獄谷と呼ばれる刑場跡あったことから、亡者追善供養の意味も込めて地蔵菩薩にしたものと思われる。

 

 

 

天井は格天井に黒漆塗りに飾り金物を取り付け、鏡板は金箔にし絵が描かれている。 

 

 

 

小壁には金箔の下地に絵を描き、欄間は鳳凰の透かし彫り。

 

 

 

仏堂と法堂

 

 

 

法堂  当初の法堂は建治元年(1275)に当寺を開基した鎌倉幕府第5代執権の北条時頼13回忌の際に建立されたが、現在の堂は文化11年(1914)に再建されたもので、関東では一番大きな法堂。

 

 

 

 

 

 

 

参拝当日は節分の一日前の日で、紅白の幕を垂れるなど節分祭の準備中。正面に見えるのは唐門のある方丈。

 

 

 

唐門 方丈の正門で屋根が唐破風になっている。元々は徳川家の菩提寺、増上寺の二代将軍徳川秀忠正室の御霊屋の中門を、正保4年(1647)に当寺に移築した。平成23年(2011)に保存修理が完了し、前面に飾り金具が取り付けられていた華美な姿に復元された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

方丈「竜王殿」 過去に何度か罹災し復興を繰り返した。嘉永18年(1641)に再建されているが、大正12年(1923)の関東大震災で倒壊したため、総門と同じく昭和15年(1940)に京都の般舟三昧院から移築されたもの。般舟三昧院に享保17年(1732)に建立されたもの。

 

 

 

方丈の内部

 

 

 

懸魚いろいろ

 

 

 

庭園 開山の蘭渓道隆の作庭と言われる。正面の建物は客殿の得月楼で、平成15年(2003)に建築。「得月」とは、月の景趣を十二分に楽しむという意味。

 

 

 

正面の池は「心字池」と呼ばれ、池の形が心の字になっている。

 

 

 

 

 

 

 

方丈の入り口側から法堂、仏堂方面を見る。

 

 

 

修行道場のある崇高山門 これより奥は拝観禁止エリア。

 

 

梵鐘 【国宝】  茅葺の鐘楼に国宝の梵鐘が吊られている。 梵鐘は建長7年(1255)に関東の鋳物師の筆頭だった物部重光によって鋳造された。建長寺創建時の貴重なもので、高さ208.8㎝、口径124.3㎝の大きさを誇る。梵鐘には開山の蘭渓道長の銘文が刻まれている。最後には『建長七年卯乙二月二十一日 本寺大檀那相模守平朝臣時頼 謹勧千人同成大器 建長禅寺住持宋沙門道隆 謹題都勧進監寺僧琳長 大工大和権守物部重光』とある。具体的な重さは判らないが相当の重さがあり、それを支える鐘楼の柱の太さも見事なもの。

 

 

 

鐘楼から三門を見る。

 

 

 

境内から総門を見る。

 

 

 

案内図

 

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー『よく座禅をすると無念無想になると聞く、しかし、その経験が無い私は、いったいどうやったらそうなれるのかわからない。吉田管長にたづねると、こんなふうに教えていただいた。「たとえばですね、無地の公案というのを最初にやらせるのです」 公案というのは、いわば課題のことだ。たとえば、昔の人が語ったむずかしい言葉を課題として与え、そのことについて考えさせる。「無字というのは、何もないということです。座禅によって、自分が無になりきってしまう。頭で考えることではなく、体がそうなるように指導していくわけなんです。結跏趺坐をして、姿勢をまっすぐにして、精神を統一させる。結跏趺坐というのはしっかり胡坐をかくことですね。人間の体はふしぎなもので、姿勢をまっすぐにしていると、体全体で呼吸できるようになって、自然と一体になれるものなんです」 しかし思い描いてみるものの実際にはむずかしいだろう。率直にそう言うと「一度、やっていただくとよくわかります」とのことだった。禅は、言葉よりまづ実践なのだそうだ』

 

 

 

御朱印

 

 

建長寺終了

 

 

 

 

(付録)北鎌倉のお寺

東慶寺  臨済宗円覚寺派のお寺。北条時宗夫人が出家して開山した北条氏ゆかりのお寺は、明治時代の終わりごろまで女性の縁切り寺、掛け込み寺として多くの女性を救ってきた。現在は花の寺として知れ渡る。

 

 

 

東慶寺の梅

 

 

 

浄智寺  鎌倉五山第四位の寺。その権威により大いに栄えた寺であったが、いまは方丈など一部の建物を残すのみ。

 

 

 

浄智寺で見かけた前撮り花嫁・花婿

 

 

 

浄智寺から建長寺に向かう鎌倉街道には横須賀線の踏切が横たわる

 

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