『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

12 建長寺

2023-05-26 | 神奈川県

第46番 建長寺

 

中国僧が武士に伝えた禅

 

 

 

参拝日                         平成29年(2017)2月2日(水)天候晴れ

 

所在地       神奈川県鎌倉市山ノ内8                                                   山 号       巨福山                                                           宗 派       臨済宗建長寺派                                                       寺 格       本山鎌倉五山第一位                                                     本 尊       地蔵菩薩                                                          創建年       建長5年(1253)                                                       開 山       蘭渓道隆                                                          開 祖       北条時頼                                                          正式名       巨福山建長興国禅寺                                                     別 称       巨福山建長禅寺 建長僧堂                                                    札所等       鎌倉二十四地蔵九番十一番 鎌倉三十三観音霊場第二十八番                                                                    文化財      (国宝)絹本淡彩蘭渓道隆像、大覚禅師墨蹟法語規則、梵鐘(国文化財)山門、法堂、絹本著色釈迦三尊像ほか 

           

北鎌倉の円覚寺を参拝し、総門をでて鎌倉街道を挟み斜め前の東慶寺とその隣の浄智寺を参拝し、ここから600m先の建長寺に向かう。1年半ほど北鎌倉に住んでいたこともあるが、建長寺に行ったことはあると思うがほとんど記憶がない。建長寺を参拝した日は、翌日の節分に向けてその準備が行われていた。こちらの寺も鎌倉の山あいの谷戸に造られた寺で境内の両側には山が迫っている。入り口にあたる総門の傍には中高一貫校の鎌倉学園があり、建長寺の経営なのであろう。

建長寺は、建長5年(1253 )に鎌倉幕府第5代執権北条時頼が中国(宋)の高僧蘭渓道隆を迎えて創建した、日本最初の禅宗専門道場。創建当初は中国の径山万寿寺と同じく主要な建物が一直線に並ぶ伽藍配置であったといわれるが、大地震や火災の被害にたびたびあい、そのつど再建されて、現在の堂宇はほとんど近世の再建・移築になるもの。正中2年(1325)と嘉歴元年(1326)には、建長寺造営再建のため中国(元)に貿易船を派遣して、その費用にあてたりしている。寺宝としては、蘭渓道隆像(絵画)などの国宝をはじめ数多くの文化財があり、中でも建長7年(1255)に北条時頼がつくらせた梵鐘は、その美しさが関東一と言われている。

 

 

境内案内図

 

 

鎌倉街道に面した天下門  

 

 

 

かって、総門の前には東西の外門があった。大正の関東大震災で倒壊したのち昭和59年(1984)に再建された。「天下禅林」の額を掲げているため

 

 

 

扁額「天下禅林」とは、人材を広く天下に求め育成する禅寺という意味。

 

 

総門は昭和15年(1940)に京都の般船三昧院に天明3年(1783)に建立されてものを移築した。巨福門と呼ばれる。扁額「巨福山」は第10世一山一寧の筆で、巨の字に点がが加えられ、百貫の値を添えたものといい、この点を「百貫点」と呼ばれる。

 

 

 

総門を入り境内を見る

 

 

 

三門【国重要文化財】 総門を入り最初の堂宇。現在の三門は安永4年(1775)に開山の蘭渓道隆の五百年忌にあたり、二百一世萬拙碩誼によって再建されたもの。  

 

 

 

三間二重門としては東日本最大。扁額は「建長興国禅寺」と書かれ、建長寺の大工河内長兵衛棟梁がこの額を掲げるために唐破風とした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仏堂【国重要文化財】   三門の先に当寺の本堂となる仏堂がある。桁行3間、梁間3間、一層、裳階付き、裳階には正面唐破風付き、銅板瓦棒葺き寄棟屋根。もとは徳川秀忠夫人の霊屋として、江戸の初期に芝の増上寺に建てられていたものを、正保4年(1647)の霊屋の建て替えに際し、当寺に譲渡され移築されたもの。

 

 

 

中央の三間には三つ折りの扉。両端に火灯窓。唐破風兎毛通しは猪目懸魚。

 

 

 

 

 

 

 

軒下には組み物がびっしり。

 

 

 

仏殿内部  木造伽藍神像【国重要文化財】5体が安置されている。伽藍神はもともと道教の神であるが、鎌倉時代以降に宗代中国の影響を受け、禅宗が取り入れて伽藍の守護神にした。仏像5体は建長5年(1253)の創建時のものか、あるいは永仁元年(1293)の火災の後に制作したものと思われもので、作風は中国・南宗彫刻の影響を受け5体揃っているのは日本最古。

 

 

 

いまは色あせているものの、壁・天井には絵が描かれ漆を施され、彫刻が組み込まれた内陣は、徳川二代将軍秀忠の正室の霊屋として、かなり豪華に造られたのではないかと思われる。

 

 

 

天井には立派な天蓋が。

 

 

 

ご本尊の地蔵菩薩坐像は、応永21年(1414)の火災後に再興されたものと考えられている。一般に鎌倉の禅宗のお寺の多くは釈迦如来をご本尊にしている。この場所が地獄谷と呼ばれる刑場跡あったことから、亡者追善供養の意味も込めて地蔵菩薩にしたものと思われる。

 

 

 

天井は格天井に黒漆塗りに飾り金物を取り付け、鏡板は金箔にし絵が描かれている。 

 

 

 

小壁には金箔の下地に絵を描き、欄間は鳳凰の透かし彫り。

 

 

 

仏堂と法堂

 

 

 

法堂  当初の法堂は建治元年(1275)に当寺を開基した鎌倉幕府第5代執権の北条時頼13回忌の際に建立されたが、現在の堂は文化11年(1914)に再建されたもので、関東では一番大きな法堂。

 

 

 

 

 

 

 

参拝当日は節分の一日前の日で、紅白の幕を垂れるなど節分祭の準備中。正面に見えるのは唐門のある方丈。

 

 

 

唐門 方丈の正門で屋根が唐破風になっている。元々は徳川家の菩提寺、増上寺の二代将軍徳川秀忠正室の御霊屋の中門を、正保4年(1647)に当寺に移築した。平成23年(2011)に保存修理が完了し、前面に飾り金具が取り付けられていた華美な姿に復元された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

方丈「竜王殿」 過去に何度か罹災し復興を繰り返した。嘉永18年(1641)に再建されているが、大正12年(1923)の関東大震災で倒壊したため、総門と同じく昭和15年(1940)に京都の般舟三昧院から移築されたもの。般舟三昧院に享保17年(1732)に建立されたもの。

 

 

 

方丈の内部

 

 

 

懸魚いろいろ

 

 

 

庭園 開山の蘭渓道隆の作庭と言われる。正面の建物は客殿の得月楼で、平成15年(2003)に建築。「得月」とは、月の景趣を十二分に楽しむという意味。

 

 

 

正面の池は「心字池」と呼ばれ、池の形が心の字になっている。

 

 

 

 

 

 

 

方丈の入り口側から法堂、仏堂方面を見る。

 

 

 

修行道場のある崇高山門 これより奥は拝観禁止エリア。

 

 

梵鐘 【国宝】  茅葺の鐘楼に国宝の梵鐘が吊られている。 梵鐘は建長7年(1255)に関東の鋳物師の筆頭だった物部重光によって鋳造された。建長寺創建時の貴重なもので、高さ208.8㎝、口径124.3㎝の大きさを誇る。梵鐘には開山の蘭渓道長の銘文が刻まれている。最後には『建長七年卯乙二月二十一日 本寺大檀那相模守平朝臣時頼 謹勧千人同成大器 建長禅寺住持宋沙門道隆 謹題都勧進監寺僧琳長 大工大和権守物部重光』とある。具体的な重さは判らないが相当の重さがあり、それを支える鐘楼の柱の太さも見事なもの。

 

 

 

鐘楼から三門を見る。

 

 

 

境内から総門を見る。

 

 

 

案内図

 

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー『よく座禅をすると無念無想になると聞く、しかし、その経験が無い私は、いったいどうやったらそうなれるのかわからない。吉田管長にたづねると、こんなふうに教えていただいた。「たとえばですね、無地の公案というのを最初にやらせるのです」 公案というのは、いわば課題のことだ。たとえば、昔の人が語ったむずかしい言葉を課題として与え、そのことについて考えさせる。「無字というのは、何もないということです。座禅によって、自分が無になりきってしまう。頭で考えることではなく、体がそうなるように指導していくわけなんです。結跏趺坐をして、姿勢をまっすぐにして、精神を統一させる。結跏趺坐というのはしっかり胡坐をかくことですね。人間の体はふしぎなもので、姿勢をまっすぐにしていると、体全体で呼吸できるようになって、自然と一体になれるものなんです」 しかし思い描いてみるものの実際にはむずかしいだろう。率直にそう言うと「一度、やっていただくとよくわかります」とのことだった。禅は、言葉よりまづ実践なのだそうだ』

 

 

 

御朱印

 

 

建長寺終了

 

 

 

 

(付録)北鎌倉のお寺

東慶寺  臨済宗円覚寺派のお寺。北条時宗夫人が出家して開山した北条氏ゆかりのお寺は、明治時代の終わりごろまで女性の縁切り寺、掛け込み寺として多くの女性を救ってきた。現在は花の寺として知れ渡る。

 

 

 

東慶寺の梅

 

 

 

浄智寺  鎌倉五山第四位の寺。その権威により大いに栄えた寺であったが、いまは方丈など一部の建物を残すのみ。

 

 

 

浄智寺で見かけた前撮り花嫁・花婿

 

 

 

浄智寺から建長寺に向かう鎌倉街道には横須賀線の踏切が横たわる

 

                                                     終了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


11 円覚寺

2023-05-24 | 三重県

第47番 円覚寺

 

明治の文学者たちを癒した寺

 

 

 

東京駅から横須賀線で約1時間弱で、円覚寺のある北鎌倉駅に着く。まだ若かりし頃、この北鎌倉で暮らしたことがあり大変懐かしい場所でもある。北鎌倉の駅は山の間に挟まれ、どこか山奥の街にある駅のようだ。円覚寺は、駅からすぐ近く参拝するにも便利なお寺で、鎌倉巡りはこの北鎌倉の円覚寺からスタートする人も多い。先ずは国道21号線の鎌倉街道に出て、横須賀線の踏切を渡る参道を円覚寺の入り口に進む。

円覚寺は、鎌倉時代の弘安5年(1282)に鎌倉幕府8代執権・北条時宗が国家鎮護と元寇の役と言われた文永の役の戦没者追悼のため中国僧の無学租元を招いて創建した。鎌倉時代の北条家の二代目義時以降の9代目までの北条得宗の祈禱寺となるなど北条家に保護された。時宗の時代、当時の鎌倉には、父の時頼が創建した禅寺の建長寺があった、官寺としての性格が強い同寺に対して、当初の円覚寺は北条氏の私的な寺でもあった。また、帰国をしようとしていた無学租元を引き留めようとする事情もあったようである。

 

参拝日     平成29年(2017)2月2日(水)天候晴れ

 

所在地     神奈川県鎌倉市山ノ内409

山 号     端鹿山                                                        宗 旨     臨済宗                                                          宗 派     円覚寺派                                                       寺 格     大本山 鎌倉五山二位                                                 本 尊     宝冠釈迦如来                                                      創 建     弘安5年(1282)                                                   開 祖     北条時宗                                                        文化財     国宝・舎利殿、国宝・梵鐘

 

 

北鎌倉駅のホームから見た民家の梅の花

 

 

 

 

北鎌倉駅前

 

 

 

北鎌倉駅の前の通り  国道21号線の鎌倉街道。

 

 

 

円覚寺の参道 途中に横須賀線の踏切を渡る

 

 

 

境内の案内図

 

 

 

踏切のある参道を抜けて円覚寺の境内に・・・

 

 

 

総門 円覚寺の入り口。

 

 

 

総門の扁額は「瑞鹿山」  開山した無学租元の創建開堂にあたっての法話に、山中から白鹿が出てきて、これに連なったことからこの名が付けられたという。

 

 

 

境内は鎌倉の特有の谷戸を利用したもので両側を山に囲まれなだらかな傾斜地に堂宇が建てられた。

 

 

 

山門(神奈川県重要文化財) 現在の山門は、天明年間(1781~89)に第189世誠拙周樗によって再建されたもの。 

 

 

 

扁額は「円覚興聖禅寺」と書かれ伏見上皇の勅筆と伝えられている。

 

 

 

正面の桁行3間、奥行き2間の二重門。 建長寺の山門に似ているが、ほぼ80%の大きさ。

 

 

 

 

 

 

 

軒先の詳細  屋根の鼻先は反り上がり、垂木が扇状に組まれている扇垂木が特徴。

 

 

 

1階側の軒先  軒先の反りは2階の軒先と同じであるが、垂木は平行。

 

 

 

広い境内から三門を見る。

 

 

仏殿  大光明宝殿が正式名称で、昭和39年(1964)に再建された鉄筋コンクリートの建物。 元の仏殿は大正12年(1923)の関東大震災の際に倒壊してしまった。

 

 

 

仏殿の内部   正面にご本尊「宝冠釈迦如来坐像」は、廬舎那仏といわれ頭の部分だけが鎌倉時代につくられたもの。 

 

 

 

仏殿の天井画「白龍の図」  絵は前田青邨監修の守屋多々志の筆による。

 

 

 

仏殿脇の境内様子

 

 

 

大方丈の唐門

 

 

 

 

 

 

 

松嶺院  円覚寺の塔頭。  墓地には佐田啓二、田中絹代、坂本弁護士(オウム事件)の墓がある。

 

 

 

選仏場   仏を選び出す場所という意味の修行僧の座禅道場。 仏殿の東側に位置し茅葺屋根の堂。

 

 

 

 

 

 

 

居士林 斉蔭庵と呼ばれ在家の禅道場。 禅道場は柳生流の禅道場を移築したもので、柳生徹心居士が寄進した。

 

 

 

境内は広く、坂と階段のお寺という印象。

 

 

 

仏殿を過ぎて大方丈を右手にその奥にある池。夢窓疎石の作庭。昭和53年(1978)に江戸時代の元図に基づいた大改修を行い、岩盤を景観の中心として復元された。

 

 

 

 

 

 

 

虎頭岩  虎の顔が池面に浮かび上がるといわれる。 光と陰でよくわからない・・・・。

 

 

 

国宝舎利殿の前の参道

 

 

 

開基廟  

 

 

佛日庵御霊屋とも呼ばれ、円覚寺大檀那である鎌倉幕府8代執権・北条時宗とその子9代執権貞時、孫の14代執権高時を祀っている。二度にわたる蒙古襲来という国難に向かった時宗は、この場に庵を結び、禅の修行に没頭し、精神鍛錬に励んだと伝えられている。現在の開基廟は、江戸時代の文化8年(18119に改築されたもの。石積みの基壇の上に間口3間ほどの堂。

 

 

屋根は寄棟の茅葺。屋根の上には箱棟がのる。正面の扉は桟唐戸、脇間は曲線をあしらった花頭窓。内部の天井は中央に板を敷いた鏡天井。その周り               は扇垂木を並べた化粧屋根裏の禅宗様。土間は高床を張り、柱の継ぎ目は長押を用い、壁は和様の横板張り、側面の扉も昔の日本家屋によく見られた舞良戸仕上げ。禅宗と和様を合わせた折衷様式の建物。

 

 

 

国宝舎利殿へ

 

 

 

 

 

 

 

 

舎利殿の唐門   舎利殿は

 

 

 

舎利殿【国宝】 源頼朝が宗の能仁寺から請来した「佛牙舎利」というお釈迦様の歯が祀られている。鎌倉時代に中国から伝えられた様式を代表する最も美しい建物といわれる。屋根の勾配や軒の反りの美しさが特徴。   (ネットから) 中に入れないためネットから舎利殿全景写真を引用。

 

 

屋根の軒下から出ている上の段の垂木は、扇垂木と呼び扇子の骨のように広がっている。これが、屋根を一層大きく建物全体は小さいながらも総代に見せている。

 

 

 

花頭窓にも特徴があり、窓の外枠は縦の線が真っ直ぐで、その質素な形は鎌倉時代後期の特徴。

 

 

 

鎌倉は四方を山に囲まれ切通しが多く、その片鱗を子の円覚寺でも見せている。

 

 

 

白鹿洞  円覚寺境内の一番上の方にある小さな洞。円覚寺の創建にあたって無学租元の法話を聞くために、山中から白鹿が出てきたという言い伝えに連なったという個所。

 

 

 

弁天堂への石段 70段くらいあったような気がした

 

 

 

登りきると弁天堂  北条時貞が「江の島弁財天」「洪鐘大弁財功孝徳尊天」と尊称し、円覚寺の鎮守として御祀りし建立したもの。

 

 

 

梵鐘【国宝】  「おおがね」と呼ばれる梵鐘。正安3年(1301)に執権・北条貞時が鋳物師・物部国光に命じて鋳造したもの。 梵鐘の高さは約2.6mで大きさで、鎌倉で最大の大きさを誇る。 円覚寺六世・西澗子曇の銘「皇帝萬歳 重臣千秋 風調雨順 国泰民安」が刻まれている。また、北条貞時が見た江の島弁財天の夢のお告げに従い円覚寺正統院裏にかってあった「宿龍池」より引き上げられた竜頭形の金銅塊を鋳造したものと言われている。

 

 

 

鐘楼

 

 

 

弁天堂で一休みができ、お茶と甘味処としている。特にこの地からの眺めは素晴らしく北鎌倉の街並みと富士山が眺望できる。

 

 

 

すばらしい富士山の眺望。

 

 

 

ながながと続く境内の道。

 

 

 

境内に咲く紅梅

 

 

 

案内図

 

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」から---『出勤前の一時間で座禅すれば、その日一日の仕事も上手くいくのではないだろうか。座禅によって、からだの心棒のようなものが整うのではないかと思うのだ。世知辛いこの世の中では、からだや心からのシグナルを感じても、気付かないふりをする人が少なくない。浮世の義理や自信過剰から、つい無視してしまうのだ。しかし、それはやはりまずい。たとえば、食事するときに食べたくないものは食べない。というのも大事なことかもしれない。自然に生きる動物は本能に従って食べたいものだけを食べている。人間も動物としての自己防衛本能を働かせて、からだによくないものに対して、食べたくないと感じることが大切だ。自分を守るためのセンサーをきちんと働かせるためには、内面のバランスを整える必要がある。そのために、座禅はとくに有効なのではないだろうか』

 

 

 

 

御朱印

 

                                                                                第47番円覚寺 終了

 


10 柴又帝釈天

2023-05-19 | 東京都

第44番 柴又帝釈天

 

寅さんのまちに佇む古都

京成線柴又駅は東京のローカル線にある小さな駅である。改札を出て広いとはいえない駅前広場に、映画「フーテンの寅」の主人公の寅を演じた渥美清の銅像がある。駅の周辺は下町の風情が漂い帝釈天の参道があり、帝釈天の方角がすぐわかる。帝釈天までの約200mの参道の両側には、おみやげ屋や団子やうなぎ屋などの喰いもの屋が30店ほど並ぶ。映画のモデルにもなった団子屋が途中にあるが、どうやらこの店で撮影を行ったことは無いようだ。ただ、この「フーテンの寅」の数多くのシリーズの映画で、柴又帝釈天が全国的に有名になったようだ。

 

参拝日     平成29年(2017)1月26日(木) 天候晴れ

 

所在地     東京都葛飾区柴又7-10-3

山 号     経栄山                                                             宗 派     日蓮宗                                                             本 尊     大曼荼羅                                                            宗 派     日蓮宗                                                             創 建     寛永6年(1629)                                                         開 基     禅那院日                                                            中興年     延宝年間                                                            中 興     日遼                                                              正式名     経栄山題経寺                                                                            

 

 

 

 

京成電鉄金町線柴又駅で降り寅さんの銅像を過ぎ、まずは帝釈天の参道から。

 

 

 

 

帝釈天の参道は柴又駅から帝釈天の山門まで続く商店街。この商店街は、国の重要文化的景観に選定されている。

 

 

 

 

 

 

 

参道の商店街の先に山門。

 

 

 

境内図

 

 

 

山門

 

 

 

「二天門」と呼ばれる山門は、明治29年(1896)の建立。真正面の屋根には唐破風と千鳥破風。門の左右に増長天と広目天の二天を安置し、門の名はこれに由来する。

 

 

 

山門から境内を見る。真正面に帝釈堂。

 

 

 

境内を見る

 

 

 

境内の左側の御神水   寅さんが使ったというあの産湯は子の御神水のこと。

 

 

 

境内の正面に位置し、手前の拝殿と奥の内殿からなる。拝殿は昭和4年(1929)の完成。内殿は大正4年(1915)の完成。内殿には帝釈天の板本尊を安置し、両側に四天王の持国天と多聞天を配置した。四天王の二体は二天門に安置。・内殿の外壁前面に浮彫の装飾彫刻が施されている。

 

 

 

ともに入母屋造瓦葺で正面に大ぶりの千鳥破風と唐破風を付けた。

 

 

 

帝釈堂の扁額は「喜見城」と書かれている。 喜見城とは、須弥山の頂上にある帝釈天の居城。

 

 

 

帝釈堂の拝殿の造りの一部

 

 

 

大鐘楼

 

 

 

内殿の外側から見た境内

 

 

 

帝釈堂内殿の外部は東・北・西の全面が装飾彫刻で覆われており、中でも胴羽目板の法華経説話の浮き彫り10面が著名である。これは法華経に説かれる代表的な説話10話を選び視覚化したもので、大正11年(1922)から昭和9年(1934)にかけて、加藤寅之助ら10人の彫刻師が1面ずつ分担制作した。この羽目板の上方には十二支と天人、下方には千羽鶴が表され、高欄(縁)より下の部分には花鳥および亀を浮き彫りで表す。これらの彫刻を保護するため、内殿は建物ごとガラスの壁で覆われ、見学者用の通路を設け、「彫刻ギャラリー」と称して一般公開している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

内殿から向かう本堂の廊下。帝釈堂の向かって右に建つ。帝釈堂と同様、入母屋造の拝殿と内殿が前後に並んで建つ。こちらが日蓮宗寺院としての本来の本堂であり、本尊は大曼荼羅である。正式な名は祖師堂。

 

 

本堂の長い廊下から渡り廊下に向かう。右手に大客殿が建っている。昭和4年(1929年)の完成で、入母屋造瓦葺、平屋建の左右に細長い建築である。東京都の選定歴史的建造物になっている。座敷4室を左右1列に配し、これらの手前には庭に面し、ガラス障子を立て込んだ廊下がある。座敷のうちもっとも奥に位置する「頂経の間」の「南天の床柱」は、日本一のものといわれ、直径30センチ、滋賀県の伊吹山にあった樹齢約1,500年の南天の自然木を使用したものである。

 

 

 

 

 

 

 

大客殿前に広がる池泉式庭園の「邃渓園」。昭和40年(1965)、向島の庭師永井楽山の設計による。庭園への立ち入りは禁止されているが、周囲に設けられた屋根付きの廊下から見ることができる。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーー『二天門は量感があって堂々としている。庶民的な参道を抜けたところに、このような厳かな佇まいの寺が待ち受けているのは、新鮮な驚きだ。左手に見える大鐘楼も、組型が美しく風情がある。そして門をくぐると懐かしさもこみあげてくる。やはり、映画で親しんだ光景だからだろう。鐘楼の下から、箒をもった我次郎が現れそうだ。あるいは、笠智衆ふんする住職の肥後弁が聞こえそうな気がしてしまう。境内は砂利が敷き詰められ、二天門から帝釈堂まで真っすぐに石畳が走る。帝釈堂には、独特な風格が漂う。その堂宇の正面脇には、枝を青々と豊かに広げった松が、参拝者を迎え入れていた。人々との日々の暮らしが営れ、隣にビルが望める場所に寺がある。ビルや民家が密集した地域に、そこだけぽっかり広い空間ができている。

 

 

 

 

御朱印

 

 

                             柴又帝釈天 終了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


9 梅林寺

2023-05-17 | 福岡県

第92番 梅林寺

 

托鉢の雲水に雪が降りしきる

 

 

 

 

JR久留米駅のすぐ裏手の筑後川べりの丘に、堂々たる伽藍を見せているのが臨済宗妙心寺派の梅林寺である。九州の代表的な修行道場地して知られる古刹で、久留米藩主の有馬家の菩提寺となった寺でもある。なお、有馬家第16代当主は、作家の有馬頼義であった。

寺の起源は、初代藩主豊氏が故地丹波福知山の瑞巌寺を移したもので、父則頼の分霊をここに移し、その法号梅林院から寺号を改めたもの。本堂正面には浮彫の扉をもつ唐門が優れた威容を見せ、裏に廻ると始祖をはじめ歴代の藩主の霊廟や墓塔が、静かな小松林のなかに佇んでいる。

この寺には六百余点を超える寺宝があり、絹本著色釈迦三尊像(重要文化財)のほか、尾形光琳の富士山の図、長谷川等伯の屏風、狩野が描く襖絵なども収蔵されている。隣接の外苑は、広い梅林となっている。

 

参拝日   平成28年(2016)12月14日(金) 天候曇り

 

所在地   福岡県久留米市京町209番地

山 号   江南山                                                               宗 派   臨済宗妙心寺派                                                           本 尊   如意輪観音座像                                                           創建年   元和7年(1621)                                                           正式名   江南山梅林禅寺

 

 

 

 

山門  扁額は「紫海禅林」。

 

 

 

山門をくぐり振り返る

 

 

 

山門の脇に見える鐘楼  天保10年(1843)竣工。

 

 

 

禅堂  扁額は「金剛屈」。  禅の修行として重要な場で外部とは隔てられて建つ。 文化元年(1804)に建立。

 

 

禅堂の中を見る。 入り口側。

 

 

禅堂の修行道場

 

 

 

庫裡の妻側を見る。 庫裡は明治35年(1902)に創建された。

 

 

 

 

庫裡入口

 

 

 

庫裡の玄関口

 

 

唐門 檜皮葺きの平唐門。 彫刻が施された荘厳な扉。明治20年(1887)に創建。 この奥に本堂があるが白い築地塀に囲まれ立ち入れない。本堂の建立は大正7年(1918)。


 

 

 

本堂の脇(白い築地塀)を通り有馬家霊屋ぬ向かう。右の堂宇が本堂。

 

 

 

左の堂宇は開山堂。

 

 

 

開山堂  開山の寓門玄級の彫像を安置している。弘化3年(1846)に建立。

 

 

 

有馬家墓所の前の石庭。右手は位牌堂。修行僧が石庭の手入れ中であった。

 

 

 

 

 

 

 

梅林院霊屋(入母屋) 久留米藩主有馬家の墓所で、範頼と範頼の室、範頼の子女の五輪塔を安置する。前方の石灯籠の銘文から嘉永7年(1630)に建立されたことがわかる。伝統的な和洋3間仏堂で17世紀前期の建築様式を良く表している。

 

 

 

梅林院霊屋(宝形造) 前方の石灯籠に寛永20年(1643)9月30日建立と刻まれていることから、豊氏の埋葬に伴って建てられたものと考えられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

長壽院位牌廟 霊屋2堂の後ろに位牌廟が10堂程見られる。その一つが初代藩主豊氏の正室長壽院の廟である。長壽院は徳川家康の養女として輿入れし、承応元年(1652)に没し、位牌廟はそのときに建立されたもの考えられる。

 

 

 

墓所からかいま見る本堂。

 

 

 

墓所の階段に落ちた紅葉

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

JR久留米駅

 

 

 

JR久留米駅前風景

 

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーーー『雲水たちは、夏は朝三時、冬は四時起床である。それから、朝のお勤めがあり参禅、庭掃除、作務、夜の座禅という具合に、一日のスケジュールがぎっしり詰まっている。自分のための勉強をするのは夜の時間帯しかない。そのため睡眠時間は、常に三、四時間だともいう。その話を聞いて、修行というものはすごいものだ。とあらためて驚ずにはいられなかった。戦後六十年、私たちはこの日本の繁栄とともに、非常に豊かな社会の中で生活を享受してきた。いわば飽食の時代をすごしてきたのである。いまの世相を見ていると、そのつけが、いっぺんに私たちの上に降りかかっているような気がする。そういう時代に、ひとつのお寺が、長い歴史のなかで磨き上げてきた大事な精神を。ここでしっかり守り続けている。この九州の一角にいま梅林寺があるということが、ありがたくも尊く感じられてならなかった』

 

御朱印  なし

 

                                                   梅林寺終了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


8 観世音寺

2023-05-14 | 福岡県

第91番 観世音寺

 

境内に響く千三百年の鐘の余韻

 

 

 

 

参拝日     平成28年(2016) 12月13日(木) 天候小雨

 

所在     福岡県太宰府市観世音寺5-6-1
山号     清水山
寺名     観世音寺
宗派     天台宗
本尊     聖観音
創建年      天平18年(746)完成
開基     天智天皇
霊場     九州西国33観音33番
文化財       国宝・梵鐘 国指定重要文化財・木造観音菩薩坐像など17点
       

九州を代表する古寺。大宰府天満宮から歩いて15分くらいのところに観世音寺がある。 五木寛之著の百寺巡礼第91番目 境内に響く1300年の鐘の余韻として紹介されている。1300年の歴史がある当寺は、大宰府天満宮よりはるかに歴史が長い。『源氏物語』にも登場する観世音寺は、天智天皇が、母君斉明天皇の冥福を祈るために発願されたもので、80年後の聖武天皇の天平18年(746年)に完成した。当時は九州の寺院の中心的存在で、たくさんのお堂が立ちならんでいたが、現在はしっかりした伽藍があるわけではないので、少々田舎の萎びたお寺の感じがする。

江戸時代初め藩主黒田家によって嘉永8年(1631年)に金堂が、元禄元年(1688年)には講堂(本堂)が復興され、どうにか古寺としての面目を保ってきた。今では、再建された講堂と金堂(県指定文化財)の二堂があるのみになっている。
 
 
参道の入り口の石碑は「観世音寺」の文字。
 
 
 
 
 
 
参道には、クスの大樹の並木が続き、境内は紅葉、菩提樹、藤、アジサイ、南京ハゼと季節ごとに樹木に色がつき移り変わりがよくわかる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
現在残る観世音寺の建物はすべて近世の再建で、昔の面影はない。
 
 
 
 
 
 
正面から本堂と境内をみる。当日は雨のため境内はぬかるんでいた。
 
 
 
 
 
 
 
本堂を正面から見る。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ご本尊の木造観音菩薩坐像【国指定重要文化財
 
 
 
 
 
 
 
堂内の様子
 
 
 
 
 
 
本堂の裏側
 
 
 
 
 
 
 
本堂から参道側を見る
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天平石臼  「日本書記」の610年に高麗から来た僧が初めて碾磑(てんかい)を動かし小麦を引いたとあり、これがその実物であろうと言われている。
 
 
 
 
 
 
 
かって大伽藍があったころの跡で、金堂と向かい合って建っていた五重塔の心柱の楚石
 
 
 
 
 
 
 
鐘楼
 
 
 
 
 
梵鐘【国宝】  日本最古の梵鐘の一つで白鳳時代に造られた。京都妙心寺にある鐘とは兄弟鐘となる。鐘身の鋳型を造る時の用具が同じと言われている。大きさは、高さ160.5㎝、口径は86.3㎝、厚みは底部で5.5㎝~5.7㎝、重さは850㎏ほど。観世音の鐘は大宰府で最期をむかえた菅原道真も聴いたという。
 
 
 
 
 
 
 
境内に残る木々
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

昭和34年(1959年)には鉄筋コンクリートの宝蔵が完成。多くの仏像を災害から守り完全な形で保管するため、国・県・財界の有志によって、堅固で正倉院風な周囲の景色に馴染みやすい収蔵庫が建設されたのである。この中には平安時代から鎌倉時代にかけての仏像16体をはじめ、全て重要文化財の品々が収容されており、居並ぶ古い仏たちに盛時がしのばれる。西日本最高の仏教美術の殿堂のようで、特に5m前後の観音像がずらりと並んでいる様には圧倒される。また仏像の多くが樟材で造られたのも九州の特色といえる。
 
 
 
 
 
観音寺に隣接し戒壇院がある。観世音と同一の寺かと思えるのは、江戸時代まで観世音寺の堂宇の一つだったが、現在は独立した臨在宗妙心寺派の寺である。この戒壇院は官僧になるための試験場で、天下の三戒壇といわれる。本尊は廬舎那仏で、東大寺の廬舎那座像と大きさは異なるが同じものという。平安時代の末期の作で国の重要文化財に指定されている。
 
 
 
 
 
 
 
戒壇院の山門
 
 
 
 
 
 
 
山門の方向に境内を見る
 
 
 
 
 
 
 
境内から本堂をみる  日本の三大戒壇院のひとつで、ほかに東大寺戒壇院、下野(栃木県)の薬師寺戒壇院がある。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鐘楼 江戸時代に博多で酒醸造業で財をなした楠屋白木玄流の臨終の遺言により寄進された。梵鐘の塔の前に白木玄流氏寄贈と記載されている木札が立てられている。
 
 
 
 
 
 
 
 
天然記念物の菩提樹
 
 
 
 
 
 
 
初冬の戒壇院の外塀
 
 
 
 
 
 
 
天満宮の参道。
 
 
 
 
 
 
 
 梅ケ枝餅のかさの家
 
 
 
 
 
 
 
全国的にも知られた梅ケ枝餅の名店  
 
 
 
 
 
 
太宰府天満宮の楼門
 
 
 
 
 
太宰府天満宮の御本殿
 
 
 
 
 
 
 
御本殿前の系内の様子 
 
 
 
 
 
 
 
西鉄の大宰府駅
 
 
 
 
 
 
 
12月の中旬、博多駅前はイルミネーションに
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
福岡・博多駅前
 
 
 
 
 
 
 
案内図
 
 
 
 
 
 
 
 
五木寛之著「百寺巡礼」からーーーー『観世音寺は、古さという点では、九州だけではなく日本全国の寺のなかでも指折りの寺といえる。かってはこの地に大きな大宰府政庁という役所があり、勉学の施設があり、外国使節の応接をする館もあり、そのなかにこの寺があった。今回、観世音寺を訪ねて、日本という国がじつに長い歴史をもち、古代から東アジア全体の文物の交流の渦の中にあった。ということを実感することができた。私はこの「百寺巡礼」をはじめてから、寺は”民族のライブラリー”だと思うようになった。この大宰府、そして観世音寺には、まさにそうした日本人の記憶の集積がたくさんつまっている。いわば、寺自体がかけがいのない宝蔵なのである。
 
 
 
 
 
 
 
 
御朱印
 
 
 
 
観世音寺 終了