『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

番外 瑞鳳殿

2023-08-30 | 宮城県

古寺巡り・ 番外編 瑞鳳殿

伊達政宗公の遺命により、その翌年に造営された霊屋。桃山文化の遺風を伝える豪華絢爛な廟建築。

瑞鳳殿という名の由来は。 『瑞』という文字は、伊達政宗の法名『瑞巌寺殿貞山禅利大居士』の中にあり、『鳳』という文字は古来、中国で尊ばれた想像上の瑞鳥、鳳凰を表したものと推定される。『殿』という文字は、一般に社寺などの建物を表す。

 

参拝日   平成30年(2018)6月20日(水) 天候曇り 時々小雨

所在地   宮城県仙台市青葉区霊屋下135

 

瑞鳳殿は、伊達藩の藩祖伊達政宗公の霊を祭った霊屋。 仙台藩の初代藩主の伊達政宗は、生前ホトトギスの初音を聞き遺骸を経ヶ峯に葬るよう遺言し嘉永13年(1636)に没した。政宗の後を継いだ第2代藩主の忠宗は政宗の遺言に従い、嘉永14年(1637)に政宗の御霊屋を経ヶ峯の東部に建立して「瑞鳳殿」と命名した。昭和6年(1931)に桃山建築の絢爛豪華な特徴をもった霊廟として国宝に指定されたが、昭和20年(1945)太平洋戦争の仙台空襲によって全ての建物が焼失。             現在の建物は5年の歳月をかけ昭和54年(1979)に再建されたもの。

 

 

境内案内図。

境内案内図

 

 

瑞鳳殿入り口

 

 

瑞鳳殿の参道の途中の瑞鳳寺は、「正宗山瑞鳳寺」といい伊達藩の藩祖伊達政宗公の菩提寺として寛永14年(1637)に二代目忠宗公によって創建された。ご本尊は釈迦、文殊、普賢の三体で平泉毛越寺より遷したもの。

 

長い階段を上る。 この石段は仙台藩62万石にちなみ62段となっている。石段の両側の杉の樹齢は400年を超えるといわれる。

 

 

門前の瑞鳳殿の名が刻まれた石碑。

 

 

手水舎

 

 

涅槃門  創建時に再建されたもので、扉や垂木に施された金の装飾がよく映えていた豪華な門の造りである。

 

造作には、樹齢数百年の青森ビバに黒漆を施し、梁には金箔の上に唐草模様の透かし彫りが張り付けられている。使われている材は楠木だが、焼失前は白檀が使われていた。白檀は日本には自生しないため、南方からの輸入によるもの。

 

 

横の破風には最強の守護獣と言える牡丹の彫刻。

 

 

外側の破風の彫刻は、内側の牡丹の彫刻を背にした唐獅子。

 

 

 

 

 

門扉の「菊紋」は当時、豊臣秀吉から伊達政宗が拝領したもの。

 

 

涅槃門を内側から見る。

 

拝殿。拝礼のために整えられた施設で、焼失前の拝殿は瑞鳳殿の床面と同じ高さになっている。現在の拝殿は瑞鳳殿がよく見えるよう簡略化されている。

 

正面扉を開けると、橋廊下、唐門を通して瑞鳳殿内に安置された政宗の御木像に拝礼することができる。

 

 

拝殿を振り返る。

 

扁額「瑞鳳殿」は、再建に当たって寄贈されたもので、創建時の扁額の文字・材料と同じものが使われ、文字は真珠の粉末、地のピンクは赤サンゴの粉末で制作された。創建時の扁額は書家佐々木文山に書かせたもの。

 

 

 

 

 

唐門 瑞鳳殿の入り口。

 

 

唐門の上梁の意匠。

 

 

瑞鳳殿全景(ネットから引用)

 

 

瑞鳳殿の本殿を横から見る。

 

瑞鳳殿の正面。桃山文化の遺風を伝える豪華絢爛な廟建築は、焼失以前の瑞鳳殿を範とし、昭和54年(1979)年に再建された。平成13年(2001)に、仙台開府四百年を記念して大改修工事が実施され、柱には彫刻獅子頭を、屋根には竜頭瓦を復元し、創建当時の姿となった。

 

 

装飾された建物の詳細をみる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

殉死者供養塔 江戸時代の初期、死んだ主君のあとを追って切腹する「追腹」が多く行われ、伊達政宗の死去に際しては、石田将監ら直臣15人とその家士5人が殉死している。ちなみに殉死者と呼ばれるのは、生前に主君から許可を受けた者のみであり、許可を得ずに勝手に切腹した者たちは殉死者とは認められなかった。

 

 

 

 

 

感仙殿、善応殿への廟門。

 

感仙殿 二代藩主伊達忠宗公(1599~1658)の霊屋。寛文4(1664)年に四代藩主伊達綱村公によって建立さた。瑞鳳殿と同様に本殿、唐門、拝殿、御供所、廟門などの建築からなる華麗なものだった、明治初年に廃仏毀釈の影響を受け、本殿以外は取り払われた。

 

 

本殿は、昭和20年(1945)の戦災で焼失。た。
現在の霊屋は瑞鳳殿に続いて再建が進められ、昭和60年(1985)に完成。

 

 

 

 

 

 

 

善応殿 三代藩主伊達綱宗公(1640-1711)の霊屋。享保元(1716)年、五代吉村公の時代に竣工。しています。昭和20年(1945)の戦災で焼失し、昭和60年(1985)感仙殿とともに再建された。

 

 

 

 

本殿、唐門、拝殿、廟門等からなり、先の瑞鳳殿、感仙殿よりは簡素な装飾であったものの、落ち着いた佇まいの風情ある霊屋と伝えられている。

 

 

廟門を廟内側から見る。

 

 

感仙殿、善応殿の階段。

 

 

瑞鳳殿の帰りに青葉城の見学。

 

 

青葉城から見た小雨に煙る仙台市街。

 

 

案内図

 

瑞鳳殿 終了

 

 

 


27 毛越寺

2023-08-27 | 岩手県

第63番 毛越寺

 

壮大な伽藍の跡と老女の舞

 

仙台・平泉の旅は、2泊3日の夫婦旅である。仙台に行ったことがない妻のためと、百寺巡礼の参拝を合わせて仙台泊の旅行である。1日目は、青葉城の見学と伊達政宗の霊屋「瑞鳳殿」の参拝である。2日目に岩手の平泉参拝のため仙台から一ノ関まで新幹線。一ノ関からレンタカーとし、その一番目に毛越寺である。恥ずかしくも読めなかったが「もうつうじ」である。

 

参拝日     平成30年(2018)6月21日(木) 天候曇り

 

所在地     岩手県西磐井郡大泉町大泉字大沢58                     山 号     医王山                                   宗 旨     天台宗                                   寺 格     別格本山                                  本 尊     薬師如来                                  創建年     嘉祥3年(850)                               開 基     円仁(慈覚大師)                              札所等     奥州三十三観音霊場番外札所                         文化財     特別史跡

 

歴史  嘉祥3年(850)に中尊寺を創建した円仁によって、同じ年に毛越寺は創建された。その後、大火で焼失して荒廃ししまったが、奥州藤原氏第2代の基衡夫妻と、その子3代秀衡によって壮大な伽藍が再興された。歴史書「吾妻鏡」によれば、「堂塔四十余宇、禅房五百余宇」があり、円隆寺と号せられる金堂・講堂・常行堂・二階惣門・鐘楼・経蔵があり、嘉祥寺その他の堂宇もあって、当時は中尊寺をしのぐ規模だったという。金堂の円隆寺は、金銀、紫檀をちりばめ、その荘厳は『吾妻鏡』に「吾朝無双」と評された。

鎌倉時代には鎌倉幕府にも保護されたが、嘉禄2年(1226)に火災に遭い、戦国時代の天正元年(1573)には兵火にも遭い、それからの長年の間、土壇と礎石を残すだけとなっていた。江戸時代は仙台藩の領内となる。嘉永13年(1636)、伊達政宗の死去に伴い、当時の本尊の釈迦三尊が政宗の霊廟瑞鳳殿に隣接して正宗の菩提寺して創建された瑞鳳寺に遷された。寛文年間(1661~1672) には本寺とその周辺は水田化された。しかし、伊達藩により経済的援助や保護が行われた。

明治の後半には新しい本堂や庫裏を南大門の外側に建て、大正10年(1921)には伊達一関藩の一関城の大手門を移築し山門とした。大正11年(1922)「毛越寺境内 附 鎮守社跡」として史跡に指定された。平成元年(1989)に平安様式に則って本堂が再建され、現在に至っている

 

境内マップ

 

 

入口の標識

 

 

山門 一関城の大手門を移築した。

 

 

 

 

 

三門から境内。

 

 

手水舎。

 

 

芭蕉が詠んだ「夏草や つわものどもが 夢のあと」の句を英訳した新渡戸稲造博士の直筆が刻まれた碑。

 

 

社務所。

 

 

創建当時の描いた絵が掲示されている。

 

 

本堂  平成元年(1989)の建立。平安様式が特徴の堂宇。

 

 

 

 

本堂には、本尊の薬師如来(平安時代)及び両脇に日光菩薩像と月光菩薩像。本尊守護の四天王が配されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

本堂の前 境内模様。

 

 

境内の中には鬱蒼とした大きな樹木が生い茂る。

 

 

境内のなかに中心となる大泉が池。

 

 

 

 

 

池の北側には菖蒲畑。

 

 

境内の北側に位置する開山堂。

 

開山堂の内部   開山慈覚太師木造が中心に安置され、左側に藤原三公の画。

 

 

藤原三代公の画。 上が清衡公、下右が二代基衡公、下左が三代秀衡公。

 

 

 

 

 

開山堂の前から見る。

 

 

花菖蒲園  300種3万株の花菖蒲が植えられている。昭和28年(1953年)に平泉町民の発案で開山堂前に植えたことがきっかけとなった。

 

 

東京・明治神宮から譲り受けた100種100株も植えられた。

 

 

広大な敷地は芝生に覆われている。

 

 

 

 

嘉祥寺のあった場所。巨大な礎石が完存するこの建築跡は、古来嘉祥寺跡として言い伝えられてきた。

 

 

 

 

 

浄土式庭園の大泉が池。浄土式庭園は、平安時代以降に発達し、その形態としては、仏教世界観を表現した池泉回遊式庭園であることが最大の特徴。

 

 

大泉が池は東西約180m、南北約90mあり、作庭当初の姿を伝えている。池のほぼ中央部に東西約70m、南北約30m、勾玉状の中島がある。池の周辺や中島にはすべて玉石が敷かれている。

 

 

 

常光堂 享保17年(1732)に仙台藩主伊達吉村公の武運長久を願って再建。堂は宝形造りで須弥壇中央に本尊・宝冠の阿弥陀如来、両側に四菩薩、奥殿には秘仏としてあがめられている摩多羅神がまつられている。

 

 

 

摩多羅神は修法と堂の守護神であり、地元では古くから作物の神様として信仰されています。奥殿の扉はふだんは固く閉ざされ、33年に一度御開帳されます。祭礼の正月20日は、古式の修法と法楽としての延年の舞が奉納されます。 

 

 

地蔵仏。

 

 

鐘楼堂。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

洲浜 池の東南隅に築山と対照的に造られた洲浜は、砂洲と入江が柔らかい曲線を描き、美しい海岸線を表している。他に比べて池底を特に浅くし、広々と玉石を敷き詰めているので、水位の昇降に応じて現れるゆったりした姿を眺めることができる。

 

 

出島石組と池中立石。大泉が池の東南岸にある荒磯風の出島は、庭園中最も美しい景観の一。

 

水辺から水中へと石組が突き出し、その先端の飛び島には約2メートルの景石が据えられ、庭の象徴として池全体を引き締めている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

創建時の毛越寺を想像した伽藍の図。

 

 

案内図

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー毛越寺は、「浄土庭園」と呼ばれる様式の庭園で知られている。しかも、日本でもっとも完全で、典型的な平安時代の浄土庭園遺構だそうだ。末法思想が広まった時代、人びとは阿弥陀如来に一心に祈ることで、死後に西の彼方にある極楽浄土へ行くことができると信じた。その極楽浄土を目に見えるかたちに表現しようとしたのが、浄土庭園だと言えるだろう。日が沈む西方には阿弥陀堂だつくられ、阿弥陀如来像が安置される。その阿弥陀堂の前には大きな池が設けられ、そこには蓮の花が咲いている。浄土庭園の池は、神聖な地を俗世から区分するものと考えられていた。つまり阿弥陀如来がいらっしゃる池の西側が彼岸(あの世)で、東側が此岸(この世)というわけだ。浄土庭園としてもっとも有名なのが宇治の平等院だが、毛越寺の庭園の規模はそれをはるかに上回っていた。もし庭園だけでなく、創建当時の毛越寺の伽藍の一部が現存していたら、俺ほど素晴らしかっただろうか。残念ながら毛越寺は藤原氏の滅亡後に焼け、以後は長い間放置されて、復興されることはなかった。藤原氏の約百年の王国が滅亡するのと歩調を合わせるようにして、毛越寺も全盛期の輝きを失っていった。そして、人びとの目を驚かせた壮観な伽藍、浄土を再現した美しい光景も、幻のごとく消え失せてしまったのである。

 

 

 

 

 

御朱印

 

 

毛越寺 終了

 


26 天龍寺

2023-08-25 | 京都府

古寺を巡る 天龍寺

 

 

 

歴史

平安時代初期、嵯峨の地に橘嘉智子(嵯峨天皇の皇后)が開いた禅寺・檀林寺があった。寺は、約400年の長き年を経てかなり荒廃し廃絶していった。そこに嵯峨天皇が上皇となり仙洞御所を造営、嵯峨上皇の第3皇子である亀山天皇が、さらに仮の御所を営んだ。その地に足利尊氏を開基とし、無夢疎石を開山として開かれたのが天龍寺である。その目的は、後醍醐天皇の菩提を弔うため暦応2年(1339)に創設された。なお造営費用は足りず、元寇以来途絶えていた元との貿易を再開することとし、その利益を当てることにした。それが「天龍寺船」の始まり。貿易により造営費用は捻出され康永4年(1345)に落慶した。かつて広大な寺域と壮麗な伽藍を誇った天龍寺は500年の間に8回ほどの大きな火災に見舞われた。その中でも、文安の火災と応仁の乱による被害は大きく、天正13年(1585)に豊臣秀吉の寄進を受けるまで復興できなかった。その後秀吉の朱印を受けて順調に復興するが、文化年間(1804~1818)に被災、この再建途中の元治元年(1864)の蛤御門の変に際して長州軍の陣営となり、兵火のために再び伽藍は焼失した。以後は歴代の住持の尽力により順次旧に復し、明治9年(1876)には臨済宗天龍寺派大本山となった。しかし翌明治10年(1877)に、嵐山に53町歩あった寺領は、明治政府の土地の没収命令の上地令により、10分の9ほどに及ぶ領地を没収され3万坪を残すこととなった。こうした逆境の中、天龍寺は復興を続け、明治32年には法堂、大方丈、庫裏が完成、大正13年には小方丈(書院)が再建されている。昭和9年には多宝殿が再建、同時に茶席祥雲閣が表千家の残月亭写しとし、小間席の甘雨亭とともに建築された。翌10年(1935)には元冦600年記念として多宝殿の奥殿、廊下などが建立されほぼ現在の寺観となった。

 

参拝日   平成30年(2018)3月1日(木) 天候曇り

所在地   京都府京都市右京区嵯峨野天龍寺芒ノ馬場町68
山 号   霊亀山
寺 名   霊亀山 天龍資聖禅寺
宗 旨   臨済宗
宗 派   天龍寺派
寺 格   大本山  京都五山
本 尊   釈迦三尊
創 建   康永2年(1343)                                開 山   夢窓疎石                                    開 基   足利尊氏 
文化財   庭園(特別名勝・史跡)、絹本著色夢窓国師像3幅、
      絹本著色観世音菩薩像、木造釈迦如来坐像ほか(重要文化財)
      

 

京福電鉄嵐山線終着駅の嵐山駅。 嵐山駅の嵯峨野界隈は、清水寺、八坂神社とおなじように観光客が多い地区である。とくに、このごろ(平成30年春)は、中国、韓国などアジア系の外国人観光客の多さが目に付いた。

 

 

観光地の割には歩道の狭さが感じられる。

 

 

入口の石碑の前。

 

 

案内図 境内東端に勅使門があり、参道は西へ伸びている。これは通常の禅宗寺院が原則として南を正面とし、南北に主要建物を並べるのとは異なっている。参道両側に塔頭が並び、正面に法堂、その奥に大方丈、小方丈、庫裏、多宝殿などがあるが、いずれも近代の再建である。

 

 

総門 

 

南側の参道

 

 

庫裡  明治32年(1899)の建立。庫裏は七堂伽藍の一つで台所兼寺務所の機能を持つ。方丈や客殿と棟続き。白壁を縦横に区切ったり、曲線の梁を用いたりして装飾性を出した建物で天龍寺景観の象徴ともなっている。

 

 

切妻造の屋根下の大きな三角形の壁を正面に見せる。

 

 

庫裡の玄関前庭。

 

 

庫裡の屋根妻側の鬼瓦と懸魚を見る。

 

 

庫裡の玄関から入り大方丈、小方丈(書院)、多宝殿を巡る。

 

玄関に入った正面に置かれる大衝立の達磨図は前管長である平田精耕老師の筆によるもので、方丈の床の間などに同じ達磨図が見られ、達磨宗である禅を象徴し、天龍寺の顔ともいえる。

 

 

玄関の衝立達磨図。

 

 

 

玄関から外を振り返る。

 

 

小方丈(書院)は大正13年(1924)の建築である。

 

 

小方丈(書院)の廊下。

 

 

廊下の角から庭園を見る。

 

 

小方丈側から庭園を見る。

 

 

小方丈から見た庭園。

 

 

小方丈(書院)内部の部屋。

 

 

 

 

 

小方丈は書院で2列に多くの部屋が並び、来客や接待や様々な行事、法要などに使用される。

 

 

 

 

 

小方丈(書院)から庭園を見る。

 

 

 

 

 

大方丈。明治32年(1899)に造営された大方丈は天龍寺最大の建物で、正面と背面に幅広い広縁をもち、さらにその外に落縁をめぐらせる。東は中門に対し、西は曹源池に面する。東側が正面で曹源池側が裏となる。

 

内部は六間取り(表3室、裏3室)の方丈形式で、中央の「室中」は釈迦尊像を祀る48畳敷き、左右の部屋はともに24畳敷きで3室を通して使うこともでき、欄間の下に襖を立てれば個別にも使用できる。

 

 

東西を仕切る襖の雲龍の絵は昭和32年に物外道人によって描かれたもの。

 

 

 

 

 

大方丈の裏側に位置する廊下は幅広い広縁をもち、さらにその外に落縁をめぐらせる。

 

 

 

 

 

 

 

 

大方丈が右の建物で、正面に小方丈。

 

 

大方丈の南側。

 

 

大方丈の表側が中門に対して向き合う。

 

 

 

 

 

 

正面の「方丈」の扁額は関牧翁老師(天龍寺第8代管長)の筆。

 

 

幅広い広縁をもち、さらにその外に落縁をめぐらせる。

 

大方丈の本尊は釈迦如来坐像【国重要文化財】。平安時代後期の作とされ天龍寺の造営よりもはるかに古い。天龍寺が受けた都合8度の火災のいずれにも罹災せず助けられた仏像で、天龍寺に祀られる仏像の中で最も古い像。

 

 

庭園への入り口  庭園に直接出入りできる。

 

曹源池庭園  約700年前の夢窓国師作庭当時の面影をとどめており、わが国最初の史跡・特別名勝指定。中央の曹源池を巡る池泉回遊式庭園で、大堰川を隔てた嵐山や庭園西に位置する亀山を取り込んだ借景式庭園でもある。

 

 

方丈からみた曹源池中央正面には2枚の巨岩を立て龍門の滝とする。龍門の滝中国の登龍門の故事になぞらえたもので、鯉魚石を配するが、通常の鯉魚石が滝の下に置かれているのに対し、この石は滝の流れの横に置かれており、龍と化す途中の姿を現す珍しい姿をしている。

 

 

 

曹源池の名称は国師が池の泥をあげたとき池中から「曹源一滴」と記した石碑が現れたところから名付けられた。

 

 

 

 

 

 

小方丈の西北から上り坂に併せて屋根付きの廊下が設けられ、右手に祥雲閣や甘雨亭の茶室を見ながら上りきったところにある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

多宝殿へ上る廊下の右手にある茶室の祥雲閣と甘梅亭。写真は甘梅亭。

 

多宝殿 後醍醐天皇の尊像を祀る祠堂で、前に拝堂をもち、後ろの祠堂とを相の間でつなぐ。入母屋造の屋根とも調和し、中世の貴族邸宅を思わせる。昭和9年(1934)に建築されたもの。後醍醐天皇の吉野行宮時代の紫宸殿の様式と伝えられる。

 

 

 

 

拝堂には正面に1間の階段付き向拝を持ち、あがると広縁になる。

 

 

中央に後醍醐天皇の像、両側に歴代天皇の尊牌が祀られている。

 

 

 

 

 

多宝殿から北門への苑路で、北門開設と同時に昭和58年整備された庭園の百花苑へ続く。

 

自然の傾斜に沿って苑路が造られており、北門を抜けると嵯峨野の観光名所である竹林の道、大河内山荘や常寂光寺、落柿舎などへ通じる。

 

 

苑内は苔に覆われしっとりとした緑が気持ち良い。

 

自然の地形に沿って苑路が設けられ、ゆっくりお散策することができる。頂部にたどり付けば京都市内嵯峨野の街がよく見える。

 

 

 

 

鐘楼 天龍寺の除夜の鐘も全国的に有名だと言われる。

 

 

法堂への渡り廊下。

 

中門。

 

 

塔頭が並ぶ。塔頭の松巌寺、慈済院、弘源寺の3か寺は元治(1864~1865)の兵火を逃れたため、室町様式あるいは徳川期のものが残る。

 

 

塔頭の門。

 

 

土塀を背に梅の花。

 

 

塔頭の一つの門の袖壁。

 

勅使門【京都府指定有形文化財】  四脚門。寺内最古の建物である。元々は慶長年間(1596~1615)に建てられた御所・明照院の門である。そもそも伏見城の門であり、その後、御所に移築されたともいう。嘉永18年(1641)に現在地に移築された。

 

 

嵯峨野の街は大賑わい。

 

 

案内図

 

 

御朱印

 

 

天龍寺 終了

 

 

 


25 金閣寺

2023-08-23 | 京都府

第21番 金閣寺

 

目もくらむような亀裂に耀く寺

建物の内外に金箔が貼られていることから金閣寺とも呼ばれているが、正式名称は北山鹿苑禅寺である。鹿苑はの名は、開基の室町幕府三代将軍足利義満の法号である「鹿苑院殿」にちなんでつけられた。その中心的なお堂が舎利殿で、室町時代前期の北山文化を代表する建物であった。残念ながら昭和25年(1950)に放火により焼失し、昭和30年(1955)に再建された。

本堂や仏堂があるお寺というよりも、室町幕府第3代将軍足利義満の私邸という感じで拝観した方が判りやすいと思う。

 

参拝日   平成30年(2018)3月1日(木) 天候曇り

所在地   京都府京都市金閣寺町1                             山 名   北山   
宗 派   臨在宗相国派 
寺 格   相国寺境外塔頭  
創 建   応永4年(1397) 
本 尊   聖観音                                     開 山   夢窓疎石
開 基   足利義満                                    正式名   北山鹿苑禅寺                                  別 称   金閣寺  北山殿  北山第                           文化財   木造不動明王立像(国重要文化財)ほか

 
金閣寺の歴史

鹿苑寺の一帯は、鎌倉時代の元仁元年(1225)に藤原公経が西園寺を建立し、併せて山荘にしていた場所。以降も公経の子孫が代々領有を続け、朝廷と鎌倉幕府の連絡役を務めていた。幕府滅亡後に当主の西園寺公宗が後醍醐天皇暗殺を企てたことが発覚し、公宗は処刑され、西園寺家の膨大な所領と資産は没収。西園寺は次第に修理されなくなり、荒れていった。応永4年(1397)、金閣寺の開祖である足利幕府第3代将軍の足利義満が当寺を譲り受け、寺を建て直すなどして北山第と呼ぶ山荘とした。山荘の規模は御所にも匹敵し、政治中枢のすべてが集約された。将軍職を、応永元年(1394)に子の義持に譲っていたが、実権は手放さず、ここで政務を執っていた。そんななかで金閣寺舎利殿は、応永6年(1399)に造営されたと推定される。義満の死後は妻の北山院(日野康子)の御所となっていたが、北山院が死ぬと舎利殿以外の堂宇は解体された。そして、応永27年(1420)に北山第は義満の遺言により禅寺とされ、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられた。その際、夢想疎石を勧請開山とした。義満の孫の五代将軍足利義政は、祖父の義満が建てた舎利殿に倣い、造営中の東山山荘(現・慈照寺)に観音殿(近世以降銀閣と通称される)を建てた。応仁の乱では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失したが、江戸時代に西笑承兌が中興し、以後主要な建物が再建された。舎利殿も慶安2年(1649)に大修理された。明治維新後の廃仏毀釈により、寺領の多くが返上されて経済的基盤を失ったが、明治27年(1894)よりて庭園や金閣を一般に公開し、拝観料を徴収し寺の収入の確保ができた。昭和4年(1929)には国宝に指定された。昭和25年(1950)7月2日未明、放火により国宝の舎利殿(金閣)と安置されていた仏像等を焼失する。昭和27年(1952)に再建工事が始まり昭和30年(1955)に竣工し、創建当時の姿に復元された。

 

 

宿泊した東急ハーヴェストクラブ京都鷹峯のロビーから見た鷹峯の山並み。

 

 

ホテルを出て、すぐのしょうざんリゾート内の歩道を歩き約10分で金閣寺に。

 

 

鬱蒼とした森にたたずむ黒の門が金閣寺への参道入り口。門柱には「鹿苑寺 通称 金閣寺」と書かれている。 

 

境内地図

 

参道から総門の少し手前に「世界遺産」の記念石碑。

 

 

総門   塀は格式高い五本線の筋塀。

 

 

 

 

 

舟形  石造りの手水鉢で総門近くにあった馬小屋の水槽と言われる。

 

庫裏  明応から文亀年間(1942~1502)の創建と言われる。大きな切妻が正面に向く禅宗特有の建築。

 

 

唐門  総門を入り真正面の突き当りに位置する。方丈(客殿)の門にあたり、正面に唐破風がついている「向唐門」である。通常は閉め切り。

 

 

金閣寺のHPより。

 

無字の経  拝観受付付近。「咲花の露のみづけさ 鳴く鳥の聲(声)のさやけさ 雲閑に水藍をたたふ
 誰が説きし無字の眞言  山清くそめなす木立 谷深くたまちる流れ 風そよぎ月すみ渡る ひとりよむ無字の眞言」。

 

 

築地塀が続く。

 

 

拝観門を潜り・・・

 

拝観の受け付けをして築地塀のに挟まれた細い通路を抜けるとやがて視界が広がり、目の前が開け大きな池が飛び込んでくる。鏡湖池で、鏡のように金閣寺を映し出すことから、その名前が付けられている。

 

 

人気のある観光地でいつも観光客や修学旅行生がわんさかやってくる。

 

 

左右に亭々たる木立、後ろに小高い山を背負う金閣寺舎利殿の雄姿。

 

 

 鏡湖池に写った金閣は「逆さ金閣」と呼ばれ、ベストショットとなっている。

 

 

 

 

 

 

 

葦原島 鏡湖池の中央、金閣の正面に浮かぶ島で蓬莱島とも。池にある10の島々のうち最大の大きさで、日本の国を象っているといわれている。

 

 

鏡湖池には葦原島、鶴島、亀島などの島々のほか、畠山石、赤松石、細川石などの奇岩名石が数多く配されている。

 

 

 

 

方丈 普段は非公開となっている。境内を順路にそって歩いていくと、陸舟の松の奥に見えるのが方丈で、中まではよく見ることができない。

 

 

方丈の庭。

 

 

陸舟の松 足利義満の愛用の盆栽の樹木。

 

 

 

 

 

書院への通路 書院は非公開。

 

 

金閣寺舎利殿を北・東側から見る。金閣は木造3階建ての楼閣建築。屋根は宝形造、杮(こけら)葺きで屋頂に銅製鳳凰を置く。3階建てであるが、初層と二層の間には屋根の出を作らないため、形式的には「二重三階」となる。

 

 

初層と二層の平面は同形同大で、正面5間、側面4間とする(「間」は柱間の数を表す)。初層と二層は通し柱を用い、構造的にも一体化している。三層は一回り小さく、方3間である。

 

 

 

 

 

屋根の頂部に飾られた鳳凰。

 

 

一層は金箔を張らず素木仕上げとし、二層と三層の外面は高欄も含み全面金箔張り。三層は内部も全面金箔張りである。

 

 

一層は「法水院」と称し、寝殿造りの建築様式。正面の一間通りを吹き放しの広縁とし、その奥は正面5間、側面3間の1室となっている。正面の5間は等間ではなく、西から2間目(本尊を安置する位置)の柱間が他より広くなっている

 

 

ガラス越しに撮った舎利殿の内部。

 

室内の奥に須弥壇を設け、壇上中央に宝冠釈迦如来坐像、向かって左に法体の足利義満坐像を安置する。床は板敷、天井は鏡天井となっている。

 

 

 

 

 

宝冠釈迦如来坐像(金閣寺HPより)

 

 

 

 

 

二層は「潮音洞」と称し、武家造りの建築様式となっている。

 

 

 

 

漱清 初層の西側には、池に張り出して、「漱清」と称する方1間、切妻造、吹き放しの小亭が付属する。いわゆる釣殿で、釣殿は寝殿造において池に臨んだ形で周囲を吹き放ちにして建てられる建造物をいい、魚釣りを楽しんだ所からこの名がついたという。他にも納涼や饗宴、月見などにも用いられることがあるという。

 

 

 

 

 

 

 

 

境内の林に見え隠れする舎利殿。

 

 

境内は松林と地面は苔に覆われている。

 

 

金閣寺垣   金閣のある鏡湖池より北側の夕佳亭や不動堂へと向かう参道の途中、巌下水に続いて見えてくる小さな石段。

 

 

龍門の滝 鯉が三段の滝をも遡上する力があり、三段を上り終えると龍に転生するという中国の故事から。

 

 

安民沢  西園寺当時の遺跡でもある池。

 

 

金閣寺境内は、北側になる後ろ側が高台になっていて、そこから見る舎利殿の姿。

 

 

足利八代将軍義政公が使用していた富士山の形をした手水鉢。

 

茶室「夕佳亭(せっかてい)」  寄棟造茅葺、三畳敷の席に勝手と土間からなる主屋に、切妻造こけら葺で二畳敷の鳳棲楼と呼ばれる上段の間が連なっている。明治の初めに焼失したため、現在の建物は明治7年(1874)に再建されたもの。三畳敷の床柱は茶席としては珍しく南天の木が用いられており、殊によく知られている。

 

 

お休み何処。

 

 

 

 

 

不動堂   天正(1573~1593)年間よる再建。金閣寺境内に現存する最も古い建物。本尊は空海(弘法大師)作の伝承を有する石不動明王。

 

 

 

 

 

 

 

出口門

 

 

 

 

 

出口を出てからも苔の地はつづく。

 

 

 

 

 

参拝を終え境内を後にする。

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」からーーー義満が政治的なセンスだけでなく、こうした豊かで洗練された文化的な感性をかねそなえていたことが、きらめくような北山文化を花開かせたと言っていいのだろう。だが、そもそも義満の、底知れぬ権勢欲、物欲、執着心がなかったなら、北山文化そのものが存在したかどうかさえ、あやしいものだと思う。こう考えていくと、文化とはじつに罪深いものだといわざるをえない。権力者の権勢力や物欲が強ければ強いほど、富は一手に集められ、一部の取り巻きをのぞいて、下層の人びとは苦しい生活を強いられる。しかし、そうした犠牲があってはじめて歴史に残るような文化が生まれてきたというのは歴史の不条理としかいいようがない。私はしばらく鏡湖池の周囲を回ってみた。杜若であろうか、濃い紫の花が一輪、くっきりと咲いている。

 

 

御朱印

 

 

金閣寺 終了

 


24 龍安寺

2023-08-20 | 京都府

古寺を巡る 龍安寺

 

二泊三日の京都巡りは、家族同伴である。昨日は東山方面で、清水寺と高台寺を参拝した。宿は鷹峯地区にあるホテルなので金閣寺に近い。 今日の最初は金閣寺で、二番目の参拝寺が竜安寺である。世界遺産で世界的にも有名、特に石庭の有名な寺院である。何十年ぶりの参拝である。

 

 

参拝日    平成30年(2018)3月1日(木) 天候曇り

 

所在地    京都府京都市右京区龍安寺御陵下町13                      山 号    大雲山                                     宗 派    臨済宗妙心寺派                                 寺 格    妙心寺境外塔頭                                本 尊    釈迦如来                                   創建年    宝徳2年(1450)                               開 山    義天玄承                                   開 基    細川勝元                                   文化財    方丈(国重要文化財)ほか

 

竜安寺の歴史  

 衣笠山山麓に位置する龍安寺一帯は、永観元年(984)に建立された円融天皇の御願寺である円融寺の境内地であった。円融寺は徐々に衰退し、平安時代末期には藤原北家の流れを汲む徳大寺実能が同地を山荘とした。この山荘を細川勝元が譲り受け、宝徳2年(1450)敷地内に龍安寺を建立した。細川勝元らと山名宗全らが争った応仁の乱の際、細川勝元は東軍の総大将だったため、龍安寺は西軍の攻撃を真っ先に受け、応仁2年(1468)焼失してしまった。勝元は寺基を洛中の邸内に一時避難させた後、現在地に戻すが、勝元は文明5年(1473年)に没す。長享2年(1488)勝元の子・細川政元が龍安寺の再建に着手、政元と四世住持・特芳禅傑によって再興され、明応8年(1499)には方丈が上棟された。その後織田信長、豊臣秀吉らが寺領を寄進している。

 

 

 

山門   江戸時代中期再建。宝暦5年(1755)洪水により破損し再建。

 

 

 

 

 

山門を振り返り見る。

 

 

山門を入り砂利道の参道をすすむ。

 

 

 

 

参道の木々から見え隠れする鏡容池。周囲は池泉回遊式庭園になっており、年間を通じて四季それぞれの花を楽しめる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

方丈への参道。石段の両脇に組まれた竹垣は龍安寺垣として名高い。

 

 

階段の上から参道を見下ろす。

 

 

庫裡入口で、こちらが参観の入り口となる。

 

 

 

 

庫裡の入り口。

 

 

庫裡の広間。庫裡は、寛政9年(1797年)に火災で焼失しその後再建。

 

 

 

 

庫裡の広間は天井がなく梁や小屋組みが見える。

 

 

庫裡から方丈の建物を見る。左手方向が石庭。

 

 

方丈と廊下。

 

方丈庭園【国の史跡・特別名勝】 いわゆる「龍安寺の石庭」である。白砂の砂紋で並みの重なりを表す枯山水庭園。幅25m、奥行10mほどの空間に白砂を敷き詰め、東から5個、2個、3個、2個、3個の合わせて15の大小の石を配置する。この石庭は、どの位置から眺めても必ずどこかの1つの石が見えないように配置されている。どこから鑑賞しても庭石が1個までしか見えないようになっているのは、ある石に別の石が重なるよう設計されているためで、日本庭園における「重なり志向」を表したものともいわれている。

 

 

 

 

方丈【国重要文化財】 方丈の室内は天井が高い。もともとの方丈が寛政9年(1797年)の火災で失われた後、塔頭の西源院方丈を移築したもの。慶長11年(1606)に織田信包による建立。

 

現在の襖絵は、龍と北朝鮮の金剛山が題材で、昭和28年(1953)から5年がかりで皐月鶴翁によって描かれた。

龍安寺は明治の初期に廃仏毀釈により衰退し、明治28年(1895)には、狩野派の手による方丈の襖絵90面がほかの寺院に売却されている。襖絵はその後、他の寺から再び売りに出され、九州の炭鉱王伊藤伝衛門によって買い取られている。その後、第二次世界大戦に流出してしまいその多くは所在が分からなくなっている。一部は、メトロポリタン美術館や市シアトル美術館に所蔵されているのが判っている。平成22年(2010)に、「群仙図」4面と「琴棋書画図」はアメリカのオークションで龍安寺が買い戻している。

 

 

 

 

室町時代末期(1500年ごろ)特芳禅傑らの優れた禅僧によって作庭されたと伝えられるが、作庭者、作庭時期、意図ともに諸説あって定かではない。

 

石庭の石は3種類に大別できる。各所にある比較的大きな4石は、チャートと呼ばれる龍安寺裏山から西山一帯に多い山石の地石。その他の9石は三波川変成帯で見られる緑色片岩である。

 

塀ぎわの細長い石他2石は京都府丹波あたりの山石で、「小太郎・二郎」と刻まれており、作庭に関わった人物と推測されるが詳細は不明。

 

 

 

 

 

 

 

高さ1.8mの油土塀。石庭を傑作とさせた重要な要素の塀は、菜種油を練り混ぜたつくりで、白砂からの照り返し防止や、長い間の風雪にも耐える堅牢さがある。

 

 

東側に一番大きな石。

 

 

 

 

石は15個並べてあるが一つ見えない。「15は完全を表す」東洋の言葉で、人間は不完全な存在で、あえて14個だけしか見えない。あと一つは「心眼」で見ることだと・・・。

石は15個あるというが、写った写真を調べても14個しか見当たらない。右下の石は二つだが、反対側から撮った写真でも2個で、こちら側から撮った写真の裏にも石があることが判り15個全部見つけることができた。人間の目で見ることは不可能のようだ。

 

 

石庭が人気のせいもあり縁側から人影が消えることが、なかなかない。

 

 

 

 

北側には「吾唯知足(われただたるをしる)」の蹲踞〔いわゆる「知足の蹲踞」〕の複製が置かれている。

 

 

 

方丈から仏殿に渡るが入り口だが、仏殿は非公開。

 

 

勅使門【国重要文化財】  寛政9年(1797年)に火災で焼失した後、西源院唐門を移築したもの。

 

 

高さ1.8mの油土塀の外側。石庭の白砂の面は、ここから80㎝ほど上がった面になる。

 

 

 

 

 

油土塀から方丈の屋根。

 

 

境内を巡る池泉式庭園の遊歩道。 

 

 

鏡容池のほとりには西源院、大珠院、雲光院などの堂が建つ。

 

 

弁財天のある弁天島

 

 

鏡容池。

 

 

案内図

 

 

 

御朱印

 

 

(参考にした資料) 龍安寺HP   Wikipedia

 

竜安寺 終了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


23 知恩院

2023-08-18 | 京都府

第八十二番 知恩院

 

壮大な伽藍に念仏の水脈が流れる

 

 

 

 

境内案内図

 

参拝日    平成30年(2018)3月2日(金)天候晴れ 令和5年(2023)3月25日(土)天候曇り

 

所在地    京都府京都市東山区新橋通大和大路東入三丁目林下町400              山 号    華頂山                                     院 号    知恩教院   知恩院                              宗 派    浄土宗                                     寺 格    総本山                                     本 尊    法然上人像(御影堂) 阿弥陀如来(阿弥陀堂)                  創建年    承安5年(1175)                                開 山    法然                                      正式名    華頂山知恩教院大谷寺                              別 称    ちょういんさん 知恩院 吉水御坊 吉水草庵 大谷禅房              札所等    法然上人二十五霊場第25番                            文化財    本堂、三門、(国宝) 大方丈(国指定重要文化財) 方丈庭園(国指定名勝)   

 

知恩院は、浄土宗の宗祖・法然房源空(法然)が、現在の知恩院勢至堂付近に営んだ草庵をその起源とする。法然は唐時代の高僧・善導の著作『観経疏』を読んで「専修念仏」の思想に開眼し、浄土宗の開宗を決意して比叡山を下りた。承安5年(1175)、43歳の時に東山の吉水に吉水草庵を建てると、そこに入った。「専修念仏」とは、いかなる者も、一心に阿弥陀仏の名を唱えれば極楽往生できるとする思想である。この思想はいわゆる旧仏教側から激しく糾弾され、攻撃の的となり、建永2年(1207)の承元の法難(後鳥羽上皇によって法然の門弟4人が死罪とされ、法然及び親鸞ら門弟7人が流罪とされた事件)で流罪となったが、4年後の建暦元年(1211)には許されて都に戻る。その際、吉水草庵に入ろうとしたが荒れ果てていたため、近くにある大谷禅房(現・知恩院勢至堂)に入っている。しかし、翌建暦2年(1212)に80歳で没した。 法然の死後、大谷禅房の隣に法然の廟が造られ弟子が守っていたが、15年後に延暦寺の衆徒によって破壊されてしまった。しかし、文暦元年(1234)に法然の弟子の勢観房源智が再興し、四条天皇から「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を下賜されるなどすると、次第に紫野門徒の拠点となっていった。それからの長い時代に宗徒の権力争いや幾度かの火災にも遭いながらも、現在の形に建設されるのは江戸時代に入ってからである。

江戸時代に入ると、現存の三門、御影堂(本堂)をはじめとする壮大な伽藍が建設された。浄土宗徒であった徳川家康は、慶長8年(1603)に知恩院を永代菩提所と定めて寺領703石余を寄進した。翌慶長9年(1604)からは、北に隣接する青蓮院の地を割いて知恩院の寺地を拡大し、諸堂の造営を行っている。造営は2代将軍徳川秀忠に引き継がれ、現存の三門は元和7年(1621)に建設された。寛永10年(1633)の火災で、三門、経蔵、勢至堂を残しほぼ全焼するが、3代将軍家光のもとでただちに再建が進められ、寛永18年(1641)までに現在の姿がほぼ完成している。

徳川家が知恩院の造営に力を入れたのは、徳川家が浄土宗徒であることや知恩院25世超誉存牛が松平氏第5代松平長親の弟であること、二条城とともに京都における徳川家の拠点とすること、徳川家の威勢を誇示し、京都御所を見下ろし朝廷を牽制することといった、政治的な背景もあったといわれている。江戸時代の代々の門主は、皇族から任命された。さらにその皇子は徳川将軍家の猶子となった。

 

境内図 東山連峰の華頂山の麓に7万3千坪の広大な寺地は、下段、中段、上段の3段に整地されていて、そこに百以上の堂宇が並ぶ大伽藍である。

 

 

 

 

 

三門【国宝】 元和7年(1621)、徳川2代将軍秀忠公の命を受け建立された。 構造は五間三戸・二階二重門・入母屋造本瓦葺で、高さ24m、横幅50m、屋根瓦約7万枚。その構造・規模において、わが国最大級の木造の門である。

 

 

複雑な木組みが整然として圧倒される重みが感じる。「華頂山」の額は畳2畳以上の大きさ。

 

楼上内部は仏堂で、中央に宝冠釈迦牟尼仏像【国重要文化財】、脇壇には十六羅漢像【国重要文化財】が安置され、天井や柱、壁などには迦陵頻伽や天女、飛龍が極彩色で描かれている。(写真は知恩院HPから)

 

 

一般には寺院の門を称して「山門」と書くのに対し、知恩院の門は、「三門」と書く。これは、「空門」「無相門」「無願門」という、悟りに通ずる三つの解脱の境地を表わし、三解脱門ともいう。

 

 

三門から京都市街を見る。

 

 

三門の先には堂々たる石段は、男坂と呼ばれる勾配の急な石段。

 

 

 

 

 

石段を上り切ると本堂となる御影堂を中心に

 

 

 

 

御影堂【国宝】  本堂、大殿とも呼ぶ。寛永10年(1633)の焼失により、3年後に徳川家光によって再建された。宗祖法然の像を本尊として安置することから御影堂と呼ぶ。知恩院で最大の堂宇であることから、大殿とも呼ばれる。

 

入母屋造本瓦葺き、間口44.8m、奥行34.5mの壮大な建築で、徳川幕府造営の仏堂としての偉容を示している。

 

 

 

 

内陣の奥には四天柱(4本の柱)を立てて内々陣とし、宮殿形厨子を置き、宗祖法然の木像を安置する。(写真は知恩院HPから) 

 

(左)人天蓋 導師が座る頭上にかざされる傘。 (右)須弥壇 宮殿を載せる台で、朱漆が塗られ中段には7対14頭の極彩色の唐獅子彫刻が取り付けられている。  

 

 

宮殿の軒の部分の彫刻  (左)軒先の下から象、獏、龍の彫刻。(中)鳳凰 (右)極彩色の牡丹

 

 

御影堂の堂を周る廊下。

 

 

 

軒周りの木組みを見る。

 

 

妻の懸魚。

 

 

四周を巡る廊下。

 

 

堂宇を結ぶ渡り廊下。

 

 

廊下の床板。

 

大方丈は御影堂の右手後方に建つ。寛永18年(1641)に建立された檜皮葺き・入母屋造りの華麗な書院建築。唐破風の玄関が特徴。 知恩院には、大方丈と小方丈の2つの方丈があり、どちらも寛永18年(1641)の建築、洛中随一の名書院として知られている。通常は非公開。

 

大方丈【国重要文化財】 書院造りの形式を備え、54畳敷きの鶴の間を中心に、上・中・下段の間、松の間、梅の間、柳の間、鷺の間、菊の間、竹の間があり、狩野派の襖絵(金碧障壁画)で飾られている。狩野派の筆になる豪華な襖絵に彩られた多くの部屋が続く。洛中随一の名書院とされる。(いずれの写真も知恩院HPより)

 

 

 

 

 

 

 

 

大方丈の外観。 今回は、3月の特別公開の時期に内部に拝観をすることができた。

 

 

小方丈【国重要文化財】 内部の障壁画

 

 

唐門【国重要文化財】  勅使門とも呼ばれ 寛永18年(1641)建立。

 

 

 

 

 

 

牡丹唐草、鯉に乗る老人(北側蟇股)、巻物を持ち鶴に乗る老人(南側蟇股)、松を配した細かな彫刻が見れる。桃山時代に流行した故事伝説に基づくもの。

 

 

仏足石

 

 

方丈庭園入り口  庭園は国指定の名勝庭園となっている。

 

 

方丈庭園 略図(知恩院HPより)

 

 

庭園から大方丈を見る

 

 

左側は大方丈で正面が小方丈。右手に庭園が広がる。

 

方丈庭園は江戸時代初期に小堀遠州と縁のある僧玉淵によって作庭されたと伝えられる。池泉庭園で、方丈の華麗な建築と背後に迫る東山の風光とともに、情緒あふれる美しい風景を醸しだしている。

 

 

正面に慈鎮石  平安時代末期の慈鎮和尚が座禅をしたという石。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

徳川三代将軍家光公の御手植えの松という。

 

 

心字池

 

 

二十五菩薩の庭。 知恩院所有の「阿弥陀如来二十五菩薩來迎図」をもとに造られた庭で、配された石は阿弥陀如来と二十五菩薩を表し、植え込みは来迎雲を表す。

 

 

方丈庭園の先には権現堂があり、権現堂の門。

 

 

権現堂  昭和49年(1974)に再建された堂宇で、家康、秀忠、家光の肖像画が掲げてある。

 

 

徳川家と深い関係がある知恩院の御紋は三つ葉葵。

 

 

阿弥陀堂 御影堂の向かって左に東面して建ち、阿弥陀如来坐像を安置する。明治43年(1910)再建。宝永7年(1710)に現在地に移されるまでは勢至堂の前に建てられていた。

 

明治にはいって荒廃が進み、いったん取り壊され、明治43年(1910)に再建された。堂正面には後奈良天皇の宸筆で、知恩院の寺号をあらわして「大谷寺」という勅額が掲げられている。

 

 

本尊の阿弥陀如来坐像 本尊は阿弥陀如来座像で高さ2.7mある。(写真は知恩院HPより)

 

 

経堂【国重要文化財】 御影堂の東側に建つ経蔵は、三門と同じ元和7年(1621)に建てられた。

 

 

内部は、天井や柱、壁面は狩野派の絵師の手によって荘厳にされている。また、徳川2代将軍秀忠公の寄附によって納められた『宋版一切経』約6千帖を安置する八角輪蔵が備えられており、その輪蔵を一回転させれば、『一切経』を読誦するのと同じ功徳を積むことができるといわれる。(写真は知恩院HPより)

 

 

多宝塔 昭和33年(1958)に建立された。

 

納骨堂前の香炉台。

 

 

納骨堂。

 

 

大鐘楼のある上の段に行く道筋

 

 

大鐘楼【国重要文化財】 延宝6年(1678)に知恩院第38世玄誉万無上人のときに造営された。

釣鐘【国重要文化財】 高さ3.3m、直径2.8m、重さ約70t。寛永13年(1636)、知恩院第32世雄誉霊巌上人の鋳造。釣鐘は、京都方広寺、奈良東大寺と並ぶ大鐘として知られている。この大鐘が鳴らされるのは法然上人の御忌大会(4月)と大晦日の除夜の鐘だけで、とりわけ除夜の鐘は親綱1人・子綱16人の17人で撞き、京都の冬の風物詩となっている。

 

上段の境内にはさらに、いくつかの堂宇が並ぶ。

 

勢至堂【国重要文化財】 勢至堂の地は、法然上人がお念仏のみ教えを広められた大谷の禅房の故地であり、知恩院発祥の地でもある。堂内正面に掲げられている額「知恩教院」は後奈良天皇の宸翰であり、知恩院の名の起源がここにある。現在の勢至堂は享禄3年(1530)に再建されたもので、現存する知恩院最古の建造物。

 

 

御廟の拝殿。

 

 

 

御廟【京都市指定重要文化財】 法然上人のご遺骨をご奉安する廟堂。方三間の宝形造本瓦葺で、周囲には唐門のある玉垣がめぐらされている。現在の御廟は、慶長18年(1613)常陸国土浦藩主 松平伊豆守信一の寄進を得て改築された。

 

 

御廟の拝殿から見た京都市街。

 

 

黒門側から新玄関は庫裡にあたる寺務の一角の入り口。

 

 

黒門側からの参道。

 

元祖法然上人800年大遠忌の記念事業として、平成23年(2011)に御影堂の屋根瓦などの大修理を8年間にわたって行い令和2年(2020)に工事が完了し、落慶法要を行った。平成30年(2018)年3月に参拝した際にはまさに工事の真っ最中であった。令和5年3月に京都寺廻りをした際に、再度参拝、修理後の御影堂を無事に拝むことができた。

 

 

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーーー朝に夕に念仏を称えて阿弥陀如来を思い浮かべていれば、極楽浄土のすがたが見えるようになり、臨終のときには阿弥陀如来の来迎が見える、というのである。だが、これはある意味ではむずかしいもので、誰にでも簡単にできることではない。また、比叡山でも古くから慈覚大師円仁がもたらした念仏三昧や、常行三昧という念仏のきびしい修行がおこなわれていた。これも、ふつうの人にとっては、非常にむずかしい念仏だったといえるだろう。そんなときに、法然が革命的な宣言をした。易行念仏といって「ナミアムダブツ」という言葉を称えるだけで人間は救われる。誰にとっても簡単な行で、極楽往生できると説いたのである。易行とは難行や苦行の反対の意味の言葉だ。この法然の念仏の教えは、当時の社会に一大衝撃をあたえた。その衝撃というものを、まざまざと思い起こすたびに、私はふしぎな感動をおぼえずにいられない。法然によれば、どんない無知な者でも、悪事をなした者でも、賤民として差別されている人びとであっても、「ナミアムダブツ」と称えれば、それだけで救われる、というものである。既存の宗教界にとっても世間の人びとにとっても、それは大事件だったにきがいない。

 

 

御朱印

 

 

(参考にした資料) 知恩院HP Wikipedia

 

知恩院 終了

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


22 高台寺

2023-08-15 | 京都府

第八十八番 高台寺

戦国女性の思い出を包む堂宇

 

 

清水寺の参拝を終えて、清水坂のみやげ屋から産寧坂、二寧坂の路は観光客でごった返し、縫うように高台寺に向かう。高台寺は、参拝客も観光客も少なく清水寺やその通路などの賑わいとは異なり別世界のよう。大きな山門はなく、なんとなく佇まいがひっそりしていて、女性的な繊細さを感じ寺である。

 

参拝日    平成30年(2018)2月28日(水) 天候曇り

 

所在地    京都府京都市東山区下河原通八坂鳥居前下る下河原町526             山 号    鷲峰山                                    宗 派    臨済宗建仁寺派                                本 尊    釈迦如来  創建年 慶長11年(1606)                    開 山    弓箴善彊                                       開 基    高台院                                    正式名    鷲峰山 高台寿聖禅寺  別称 蒔絵の寺                    札所等    洛陽天満宮二十五社順拝第18番                         文化財    霊屋、傘亭、時雨亭(国指定重要文化財) 庭園(国指定名勝) 

 

高台寺の概略史  豊臣秀吉の没後、正室の北政所は慶長8年(1603)に後陽成天皇から「高台院」の号を勅賜されると、秀吉の菩提を弔おうと寺院の建立を発願し徳川家康もその建立を支援した。家康と高台院は、現在の高台寺にあった塔頭を南禅寺の塔頭として移転させ、慶長10年(1605)に高台院は実母である朝日局が眠る康徳寺(現・上京区上御霊馬場町にあった)をこの地に移転させて新たな寺院・高台寺を建立し、その境内を整えた。また、高台院は高台寺の西側に自らの屋敷と甥の屋敷を造営することとし、同年に伏見城にあった北政所化粧御殿とその前庭を移築して自らの邸宅・高台院屋敷とした。秀吉没後に権力者となった徳川家康は高台院を手厚く扱い、普請奉行に京都所司代の板倉勝重を任命し、高台寺の普請にあたらせている。

近世末期から近代に至る数度の火災で仏殿や方丈などを焼失し、創建時の建造物で現存しているのは、三江紹益を祀る開山堂、秀吉と高台院を祀る霊屋、茶室の傘亭と時雨亭だけである。

 

 

産寧坂の賑わい

 

 

二寧坂を通り

 

 

高台寺に向かう途中に八坂の塔。

 

 

高台寺境内図

 

 

高台寺山門【国指定重要文化財】 八坂の塔の北側に位置し、境内からは少し離れている。桃山時代に建立された三間の薬医門。慶長年間(1596年 - 1615年)に加藤清正により伏見城に建てられ、後に現在地に移築された。

 

 

 

正面は庫裡

 

 

庫裡の前の天満堂。

 

 

庫裡の横に拝観受付から院内に進む。

 

 

拝観入り口。

 

 

右の白い建物は辻蔵。

祇園閣 境内をすすむと西北側に見える塔は、昭和3年(1928)に建築された3階建ての建物。大倉財閥の設立者である大倉喜八郎が別邸とし建てた「真葛荘」の一部。祇園閣のデザインは祇園祭の鉾を模したもので、建築家・伊東忠太の設計による昭和初期の名建築。屋根は銅板葺きであるが、これは大倉喜八郎が金閣、銀閣に次ぐ銅閣として作ったためなのだとか。

 

 

辻蔵の左隣りは茶室の胡月庵

 

胡月庵の路地 胡月庵には鬼瓦席という名の知れた 四畳半の茶室がある。豪商灰屋紹益の旧邸跡から明治41年(1908)に移築したもので、紹益と紹益夫人になった吉野太夫を偲んで後世の人が建てたものと推定される。

 

 

遺芳庵  方丈の背後にある田舎屋風の茶室で、豪商で趣味人のであった灰屋紹益が夫人の吉野太夫を偲んで建てたものという。一畳台目の小規模な茶席で、吉野窓と称する壁一杯に開けられた丸窓が特徴。京都市上京区にあった紹益の旧邸跡から明治41年(1908)に移築したもの。

 

観月台【国指定重要文化財】 茶室を過ぎて名勝の庭園に入り、左手に偃月池(えんげつち)に浮かぶ楼舟廊と呼ばれる渡り廊下で結ぶ観月台と開山堂が見える。

 

 

楼舟廊は観月台とともに、慶長年間(1596~1615)に高台院の命により伏見城から移されたもの。

 

 

書院の中に入る。書院では襖絵を漫画家のバロン吉元氏が描いていた。

 

 

建物の内部は書院から方丈にかけて拝見ができる。方丈から前庭を見る。正面は勅使門。

 

 

勅使門

 

 

方丈廻り廊から前庭を見る。白砂を敷き詰めた庭の借景に東山連峰。

 

 

方丈の扁額

 

 

方丈廻り廊から内陣を見る。

 

 

方丈内部の襖。

 

 

方丈前庭は一面が白砂の枯山水。

 

 

廻り廊下から開山堂を見る。

 

 

開山堂および霊屋と傘亭、時雨亭への潜り門。

 

 

開山堂と霊屋

 

 

臥龍廊 開山堂から霊屋へつなぐ渡り廊下で臥龍池にかかり、龍の背に似ていることから名が付いた。

 

 

開山堂の前に建つ中門。

 

開山堂【国指定重要文化財】 慶長10年(1605)に高台院により建立。寛永2年(1625)に増築。庭園内に建つ入母屋造本瓦葺きの禅宗様の仏堂。このお堂の材には秀吉の御座舟だったものを使用しているという。

 

 

 

 

元来、高台院の持仏堂だったもの。堂内は中央奥に三江紹益像、向かって右に高台院の兄・木下家定その妻・雲照院の像、左に高台寺の普請に尽力した堀直政の像を安置している。天井には狩野山楽による「龍図」がある。

 

 

臥龍廊の内部

 

 

 

 

 

霊屋【国指定重要文化財】   慶長10年(1605)に高開山堂の東方、一段高くなった敷地に建つ宝形造檜皮葺きの堂。台院により建立。秀吉と高台院を祀っている。秀吉の墓がある阿弥陀ヶ峰の豊国廟に向けて建てられている。寺に所蔵される高台院所用と伝える調度品類にも同じ様式の蒔絵が施され、これらを高台寺蒔絵と称している。

 

 

内部(写真はネットから)

 

内部は中央の厨子に大随求菩薩像を安置し、向かって右の厨子には豊臣秀吉の坐像、左の厨子には正室・高台院の片膝立の木像がそれぞれ安置されている。狩野永徳よる絵のほか、厨子の扉には秋草、松竹など、須弥壇には楽器などの蒔絵が施されている。(写真はネットから)

 

 

霊屋の外観は、朱と黒漆に塗装され色鮮やかな装飾が施されている。

 

 

 

時雨亭【国指定重要文化財】 茶室である、慶長年間(1596 - 1615)に高台院により伏見城から移築されたものとされ、千利休好みと伝えられる。伏見城の「御学問所」に擬する説もある。珍しい2階建ての茶室で、2階南側の上段の間は柱間に壁や建具を設けない吹き放しとする。高台院は慶長20年(1615)の大坂夏の陣の際、2階から燃え落ちる大阪城の天守を見つめていたという。

 

 

傘亭の南隣にあり、傘亭とは土間廊下で繋がれている。

 

土間廊下【国指定重要文化財】   茶室「傘亭」と茶室「時雨亭」を繋ぐ屋根付きの廊下。時雨と傘で対になっている。土間廊下は慶長年間(1596年 - 1615年)に高台院により両茶室が現在地に移築された時付加されたもので、両茶室はもともと別々に建てられていたと考えられる。

 

傘亭【国指定重要文化財】 茶室であり時雨亭とつながっている。 正式には安閑窟という。慶長年間(1596年 - 1615年)に高台院により伏見城から移築されたものとされる。

 

 

千利休好みの茶室と伝えられる。境内東奥の小高い場所に位置し、宝形造茅葺きの素朴な建物である。

 

 

内部の天井が竹で組まれ、その形が唐傘に似ているところから傘亭の名がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

高台寺塔頭圓徳院の唐門。

 

 

 

 

 

 

 

勅使門  大正元年( 1912)に方丈とともに再建された。方丈の南正面に位置する。

 

 

 

台所坂   ねねの道から高台寺の境内へと続く道で、高台院は秀吉の菩提を弔うために高台院屋敷(現・圓徳院)から高台寺へとこの道を往き来した。

 

ねねの道 - 知恵の道、神幸道と合わせて東山参道(三つの道)といい、円山公園付近で接続して、それぞれ知恩院、八坂神社へと続く。

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」からーーーー京都の寺は、歴史の古い寺が多いため、なかには権威主義だったり、人を威圧するような感じがする寺もないわけではない。それに比べると、高台寺は広大な寺領をもっているわりには、なんとなく楚々とした寺だ、という印象を受ける。それはねねが、この寺を太閤秀吉の正室としての権威を表現するためではなく、晩年になって、思い出をかみしめるために建てたからだろう。高台寺は権威や威光を顕示するのではなく、やや肩をすぼめるようにして、京都の一角にひっそりとたたずんでいるようだ。ねねは愛する人の思い出とともに、人生の後半の二十数年間をここで過ごし、その生涯を終えた。天下人だった夫秀吉とその妻だった自分ーーそのことを思いつつ、ねねは豊臣家の残光をなつかしむようにして、静かな最期を遂げたのだろう。そんなねねの可憐な思いが、この高台寺の一本一草にもしみこんでいるように思えてしかたがなかった。

 

 

御朱印

 

 

高台寺 終了

 

 

 

(付録)高台寺付近の観光案内図

 

 

石塀小路

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

八坂の塔  正式には霊応山法観寺で臨済宗建仁寺派の寺。

 

 

八坂庚申堂  正式には大黒山金剛寺庚申堂。

 

 

 

 

 

 

おしまい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


21 清水寺

2023-08-13 | 京都府

第三十番 清水寺

仏教の大海をゆうゆうと泳ぐ巨鯨

 

久しぶりの京都は、妻と息子同伴の家族旅行となった。京都駅で降りてロッカーに荷物を預け、タクシーで清水寺に直行した。清水坂のみやげ屋の並ぶ手前で下車した。清水坂から清水寺の仁王門の前の広場まで大変な人出で混雑している。そのか大勢の人々は、どうやら中国や韓国からの観光客のようだ。とにかくその人の流れに交じり清水寺を参拝することにした。ところが本堂に差しかかると、あの大きなお堂の外側に、工事用の足場が掛かりお堂全体にシートで覆われて肝心の清水寺が見えない。屋根の葺き替え工事中であった。お堂の内部に立ち入れることはできるのだが、あの大舞台の上にはたてなかった。そんな清水寺の参拝となった。

 

 

清水寺縁起 奈良で修行を積んだ僧、賢心が夢で「南の地を去れ」とお告げを受けたことが清水寺の始まりとなった。賢心は霊夢に従って北へと歩き、やがて京都の音羽山で清らかな水が湧出する瀧を見つ、この瀧のほとりで草庵をむすび修行をする老仙人、行叡居士と出会った。行叡居士は賢心に観音を造立するにふさわしい霊木を授け「あなたが来るのを待ち続けていた。私は東国に修行に行く。どうかこの霊木で観音像を彫刻し、この霊地にお堂を建ててくれ」と言い残して姿を消したという。賢心はすぐに「勝妙の霊地だ」と悟り、以後、音羽山の草庵と観音霊地を守ることとなった。賢心が見つけた清泉は、その後「音羽の瀧」と呼ばれ、現在も清らかな水が湧き続けている。それから2年が経ったある日、鹿狩りに音羽山を訪れた武人、坂上田村麻呂が音羽の瀧で賢心と出会う。坂上田村麻呂は賢心に尋常ならぬ聖賢を感じ、大師と仰いで寺院建立の願いに協力を申し出た。そして、妻の三善高子とともに十一面千手観世音菩薩を御本尊として寺院を建立し、音羽の瀧の清らかさにちなんで清水寺と名付けた。

 

参拝日            平成30年(2018)2月28日(水) 天候曇り 

 

所在地    京都府京都市東山区清水1丁目294                        山 号    音羽山                                    宗 派    北法相宗                                   寺 格    大本山                                    本 尊    十一面千手観音菩薩(秘仏)                          創建年    宝亀9年(778)・伝                             開 山    延鎮・伝                                   正式名    音羽山清水寺                                 札所等    西国三十三番第16番 ほか                           文化財    本堂(国宝) 仁王門、三重塔、阿弥陀堂ほか(国重要文化財)

 

 

         

   

境内図

 

 

 

三寧坂から清水坂にかけての賑わい

 

 

 

 

2018年2月末日の平日でこの賑わい。和装姿が多いが、どうやら大半は外国人のようだ。

 

 

清水坂の商店街の扇子屋の店先から。

 

 

 

清水寺の仁王門の前の広場は人だかり。

 

仁王門【国指定重要文化財】  清水寺の正門。応仁の乱の戦火で1469年に焼失したが、1500年前後に再建され、平成15年(2003)に解体修理さた。正面約10メートル、側面約5メートル、棟高約14メートルの、再建当時の特徴を示す堂々たる楼門。

 

 

朱塗りのため赤門とも呼ばれている。清水の舞台から御所が見えないように建てられたという。

 

 

扁額は藤原行成(平安時代中期の公卿。当代の能書家として三蹟の1人)

 

 

祥雲青龍 平成27年(2015)に建立。清水寺門前会が創立30周年を記念して造られた。

 

 

仁王門を潜り石段の参道を見る。右手は西門。

西門【国指定重要文化財】 創建の確かな記録がなく、江戸初期の寛永6年(1629)の大火で消失したものを、徳川三代将軍家光により寛永8年(1631)に再建された。この門は通り抜けは出来ない。両脇には鎌倉様式の持国天と増長天が祀られている。左右の幅が約8.6m、奥行が約3.9mの三間一戸の八脚門で正面に向拝をつけ、神社の拝殿に似た屋根は単層、檜皮葺き、切妻造の構造で、背面は軒唐破風を架ける寺院建築としては大変珍しい構造である。

 

 

参道の階段を上る。 写真を見ると季節は松の内のようだが2月の末日。

 

 

石段を上り切った境内。左手が西門。

 

鐘楼【国指定重要文化財】 清水寺の鐘楼はです。江戸初期の慶長12年(1607)に再建され、6本柱で2.3トンもある鐘(国指定重要文化財)を支えている。鐘は室町後期の文明10年(1478)に改鋳されたもので、宝蔵殿で保存されている。現在は清水寺門前会により寄進された新しい鐘である。

 

鮮やかに装飾された総丹塗りの桃山様式の建築物。3本の貫を平行に3段に張り、柱を通して組み固められた頑丈な構造となっている。貫の間の蟇股には極彩色の菊の花の装飾が施されている。懸魚や破風の装飾等にも桃山様式の特徴が見られる。

 

三重塔【国指定重要文化財】 平安時代初めの承和14年(847)に桓武天皇の皇子葛井親王が建立したものと伝えられ、江戸時代の寛永9年(1632)に古様式にのっとり再建されたもの。全体が朱色に塗られた本瓦葺の建物で、3間四方で高さは約31m。

 

 

一重内部には大日如来像が祀られているが、一般公開はされていない。室内は極彩色の飛天・龍や密教仏画で飾られている。

 

 

 

 

随求堂 清水寺の塔頭 慈心院の本堂で享保3年(1718)再建された。

 

 

隋求堂の内部。

 

 

手水舎  梟の手水鉢と名がついているが、吐口は梟とは思えない。手水鉢の足元に梟の浮彫がある・・・らしい。見落としているので写真はない。 

 

轟門  この門を潜り舞台のある本堂に進む。門の前にある橋は轟橋と言われ、昔は川が流れていたらしい。

 

 

轟門から本堂への廊下。

朝倉堂【国指定重要文化財】 正式名称は法華三昧堂。永正7年(1510)に創建され、江戸初期の寛永6年(1629)の大火で消失し、寛永10年(1633)に再建されたもの。平成25年(2013)半解体修理が行われた。再建の折に多額の寄進をした越前の大名、朝倉貞景に因み「朝倉堂」と呼ばれている。正面五間、側面三間の大きさで入母屋造り、白木造りで本瓦葺きの建物です。

 

清水の舞台 本堂の前面に張り出すように広がる舞台は、寺内に数ある建造物のなかでももっとも有名。京都の街を眼下にする眺めは見事で、その美しい景色は古くから人々を魅了してきた。「平成の大修理」で張り替えられた166枚の桧板の舞台の床面積は約200平方メートル。崖下の礎石からは約13メートルの高さがある。

 

本堂内部は、巨大な丸柱によって手前から外陣(礼堂)と内陣、内々陣の3つの空間に分かれている。一番奥の内々陣には御本尊が奉祀されており清水寺にとってもっとも神聖な場所となっている。お参りには外陣南側の廊下を進む。

 

 

外陣の様子。

 

 

 

 

 

昔は、中に蠟燭をいれて火を灯していたのか銅製の照明。

 

 

 

 

 

 

 

 

厳かな感じの外陣。

 

 

 

 

 

内陣 須弥壇

 

 

 

 

屋根の葺き替えの丸太足場。鋼管足場は一切ない、昔ながらの丸太足場。この足場が日本最大級の屋根面積2030㎡の葺き替え工事を支えている。

 

 

足場の間から舞台を通して景色を見ることができる。

 

 

 

 

 

 

足場の間から見る子安の塔 聖武天皇、光明皇后の祈願所として伝えられているが創建時期は不明。現在の建物は、明応9年(1500)の再建。高さ15mの三重塔。明治までは仁王門の左手前にあったが、明治44年(1911)現在地に移築された。堂内には安産の神として子安観音が安置されている。産寧坂は子安観音への参道であった。

 

 

地主神社  清水寺の境内にあるが、独立した神社。

 

 

釈迦堂と阿弥陀堂の側から見た本堂。工事中のシートで景観が判らない。

 

本堂の全景だが、屋根の葺き替え修理工事中でシートに覆われ姿は見えない。

 

本堂から張り出した「舞台」の高さは約13mで、4階建てのビルに相当。本堂は音羽山の急峻な崖に建築された「懸造り」と呼ばれる日本古来の伝統工法。格子状に組まれた木材同士が支え合い建築が困難な崖などでも耐震性の高い構造をつくり上げることを可能にしている。

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本堂の屋根は檜皮葺の優美な曲線が美しい「寄棟造り」。建築様式の随所に平安時代の宮殿や貴族の邸宅の面影が残っている。本来なら三重塔を入れたベストショットなのだが・・・。

 

釈迦堂【国指定重要文化財】  寛永8年(1631年)再建。本堂の先の山腹に建つ、寄棟造、檜皮葺きの三間堂。 

 

  • 阿弥陀堂【国指定重要文化財】  寛永8年(1631年)再建された。釈迦堂の右(南)に建つ入母屋造、瓦葺きの三間堂。前面の旧外陣部分を改造して奥の院への通路としている。

 

阿弥陀堂【国指定重要文化財】 内陣正面には後柏原天皇筆の「日本最初常行念仏道場」の勅額が架かる。

 

 

 

 

 

 

 

音羽の滝  清水寺の寺名の由来となった清水の湧き出す滝。

 

祠から伸びる水流は三本に分かれており、それぞれ違ったご利益を持っているという。柄杓で清水をすくって飲み干すことで願いが叶えられる。

 

古来「金色水」「延命水」とも呼ばれ、現在では学業や恋愛成就、長寿にあやかれるパワースポットとして親しまれている。

 

 

音羽の滝からみる舞台の全景(工事中で丸太足場だけが目立つが・・・)。

 

舞台を支えているのは、床下に建てられた18本もの柱。樹齢400年余の欅を使い、大きいもので長さ約12m、周囲約2mの柱が整然と並んでいる。

 

 

断面図 

 

 

柱と柱には何本もの貫が通されて、木材同士をたくみに接合するこの構造は「継ぎ手」と呼ばれ、釘を1本も使用していない。現在の舞台は寛永10年(1633)に再建された。歴史上、幾度もあった災害にも耐え、今も日々多くの参詣者で賑わう舞台を支え続けている。

 

 

出口に向かう途中。

 

 

十一重石塔

 

 

三重塔を下から見上げる

 

 

帰り際に西門と三重塔を見上げる。

 

 

案内図

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー京都の文化人は、濁をも呑み込みながら濁に汚染されずに、清を毅然と保っているようなところがあるのがすごい。清水寺は、なんとなく、この「京都文化人」を彷彿させるとはいえないだろうか。あらゆる宗派を呑み込んでしまう仏教界の巨鯨でありながら、唯識論という孤高の経典を毅然としてうちに秘め、決して汚さない。そして一方では、邪教として排撃されかねないような数々の現世ご利益の伝説をつむぎながら、千二百年にわたって人びとに夢を与えつづけてきた。清水寺は、清濁あわせ呑むたくましさで、千二百年にわたって広く庶民に夢をあたえ、生きる糧を提供してきたとは言えまいか。夢想することは、人間に残された唯一の特権である。そして夢想することの多い人ほどじつは心身ともにいきいきと生きていけるのではないかと思う。人びとが救いを求め、救われる夢を見つつ、それぞれの物語をつむぐ清水寺の大きな舞台。私は人混みのなかにまぎれてその舞台に立ち、暮れていく京の街をながめつづけた。

 

 

御朱印

 

 

 

清水寺 終了

 


20 崇福寺

2023-08-12 | 長崎県

第九十六番 崇福寺

海を渡る中国の人びとが信じた媽祖神

 

 

JR長崎駅から東方向約3kmに風頭山がある。標高は約150mで頂上には風頭公園があり、長崎港を望む絶景の場所である。その風頭山の麓の寺町には山に沿って14の寺が並んでいる。その中に興福寺と今回の崇福寺が建っている。興福寺を最初に参拝し、その後700mほどを歩けば崇福寺にたどり着く。市街地から直ぐのところに竜宮城のような建物が見えてくる。これが崇福寺で、国宝2件をはじめ多くの文化財がみられる黄檗宗建築の粋を尽くした寺院である。

崇福寺は、嘉永6年(1629)に長崎で貿易を行っていた福建省出身の華僑の人びとが、福州から超然という僧を招聘して創建した。中国様式の寺院としては日本最古のものである。福建省の出身者が門信徒に多いため福州寺や支那寺と称せられた。

 

参拝日    平成29年(2017)12月14日(木)天候晴れ

 

所在地    長崎県長崎市鍛冶屋町7-2                         山 号    聖壽山                                   宗 派    黄檗宗                                   創建年    寛永6年(1629)                              開 基    超然                                    文化財    大雄宝殿、第一峰門(国宝) 三門、鐘鼓楼、護法堂、媽祖門(国重要文化財)

 

境内図

 

 

三門 【国指定重要文化財】 日本の寺院には見られない童話的な門はかなり目を引く。その形の通り竜宮城にある「竜宮門」の別称で呼ばれている。この寺の「三門」の名の由来は、中央と左右に門戸が設けているためだそうだ。当初の山門が倒壊したあと、嘉永2年(1849)4月に、棟梁 大串五郎平以下、日本人工匠によって再建された。

 

 

 

 

 

2階に掲げられた『聖寿山』の扁額は、隠元禅師の筆によるもの。

 

 

 

 

 

通路の天井に一対、「魔伽羅」(鯱。体が水でできている)が設けられている。

 

 

 

 

 

 

門扉にはめ込まれているのは、国内唯一の「獣環」。模造品とはいえ貴重な装飾品

 

屋根にも一対の「魔伽羅」(鯱。体が水でできている)、その中央にひょうたんを模した瓢瓶と、念入りに火伏を念じている。

 

 

境内側から見る三門全景

 

 

 

 

三門を潜り階段を上って本殿にむかう。

 

「三門」から「第一峰門」にあがる石段途中に、「桃と鯉が刻まれた袖石」がある。知らないと気が付かないが、長寿や出世を意味する演技物だそうだ。

 

 

階段の途中の堂

 

第一峰門【国宝】階段を上り切ると煌びやかな門がある。創建は正保元年(1644)で、元禄8年(1695)に中国寧波から運ばれた資材で再建され現在の姿となった。もともとはここが山門で、明暦元年(1655年)にこの門より隠元禅師を迎えた。

 

 

門の中央に掲げられた、隠元禅師の門生「非禅師禅師」筆による『第一峰』の扁額がその名の由来。

 

軒下の複雑巧緻な詰組みは、四手先三葉栱(よてさきさんようきょう)と呼ばれ、国内では類例がない大変貴重な様式となっている。

 

 

 

 

 

 

 

第一峰門より境内を見る

 

 

 

 

 

大雄宝殿の前を見る。

 

 

護法堂 享保16年(1731)の建立。黄檗宗寺院としては、弥勤(布袋)と韋駄天を背中合わせに安置する聖福寺・宇治の萬福寺の天王殿に相当。関聖・韋駄天・観音の3神を祀るため、観音堂、関帝堂、韋駄殿とも呼ぶ。

 

 

4本の柱の礎石には、獅子・鹿・麒麟・梅の彫刻が刻まれている。

 

 

護法堂の中央に観音堂。 「威徳荘厳」の扁額。

 

 

観音堂には観音菩薩坐像

 

 

観音堂の右手が関帝堂。関帝(関羽)像を中心に周倉像と関平像が従う。 

 

 

本殿 大雄宝殿 【国宝】 いわゆる本堂である。護法堂の前の建つ。もともと唐商 何高材の寄進によって正保3年(1646)創建された単層(1階建て)建築物で、長崎市最古の建物。天和元年(1681)頃に2階建てに重層化されたことが建築上の特徴。

 

下層は「黄檗天井」に「擬宝珠付き垂花柱」と黄檗宗建築様式が色濃く、逆に上層は日本人工匠の手による和様を基調に据えている。

 

和中の建築様式と、単層での完成と重層化された時代の差異にもかかわらず、上下の様式が違和感なく溶け込んだ壮麗なたたずまいは、崇福寺本殿としての尊厳をこれ以上になく示している。

 

 

1階屋根軒丸瓦の瓦頭には「崇」、2階屋根瓦頭には「福」の文字。両方合わせて「崇福寺」。

 

 

海西法窟の扁額

 

 

向拝の上部は黄檗天井と言われる天井面が円形。

 

 

紅梁には彩色された魔枷羅の彫刻が施された。

 

本尊は、昭和10年(1935年)頃の修理の際に、銀製の五臓、布製の六腑が発見された「釈迦如来坐像」。その脇を固めるのは雄々しい「十八羅漢像」。

 

 

本尊の真上の天井に付けられている扁額「世尊」

 

 

本尊の脇を固める十八羅漢像

 

 

 

 

横側から見た大雄宝殿

 

媽祖門【国指定重要文化財】 背後の「媽祖堂」との対になる「媽祖門」の組み合わせは、国内では他に例がない。

 

 

機能上は、媽祖堂の門としてだけでなく、大雄宝殿への廊下の機能も有している。

 

 

和式の舟底天井(写真左手)と中国式の黄檗天井(〃右手)と、2層に分かれ天井が注目ポイント。

 

媽祖堂【長崎県指定有形文化財】 航海の神「媽祖」を祀る「媽祖堂」は、寛政6年(1794)唐船主からの浄財により再建された。黄檗様式と和様が混在する建物には、他と同様に、蝙蝠、牡丹など縁起物が装飾されている。媽祖門のある媽祖門はここだけだという。

 

建物内部に安置された媽祖像。媽祖増を中心に左右に千里眼、順風耳を従える。

 

 

開山堂  隠元禅師の招かれて来崎し、崇福寺の伽藍を整備した中興開山の人、即非如一を祀る建物。

 

 

 

 

 

 

 

 

大釜【長崎市指定有形文化財】

 

 

延宝年間末(1681年頃)、飢餓で苦しむ長崎市民3000人に施粥するという、大殊勲をあげた大釜。

 

 

 

鐘鼓楼【国指定重要文化財】  享保13年(1728)建立の和中混作の建築物。

 

 

媽祖門から大雄宝殿の廊を見る。

 

 

帰りは再び第一峰門へ。左側に小さな札所(売店)が

 

 

第一峰門から階段方向を見る

 

 

第一峰門から三門を見る

 

 

三門の外はすぐ長崎の市街地

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーーー興福寺と崇福寺を訪ねて実感したのは、長崎という場所は、ある意味でアジアにおけるスクランブル交差点だったのではないか、ということだ。そして、こうした唐寺が異国の面影を残しつつ、今も長崎の一角に存在しているということに、あらためて興味をもった。そういうものをふところに抱きかかえているところが、長崎という街のおもしろさであり、魅力ではないかと思う。これから先、国際社会のなかで、日本人はさまざまな民族と共生していくことが求められている。長崎のかってのすがたや、崇福寺をふり返ってみることで「共生する」という意味をもう一度考えてみたいものだ。

 

御朱印   なし

 

崇福寺 終了

 

 

 

ついでに崇福寺近辺を散策

浜町アーケード  

 

 

思案橋

 

 

カステラの福砂屋本店

 

 

料亭花月

 

 

丸山町の細い路を往く

 

 

本当のオランダ坂という私看板

 

 

そのオランダ坂

 

おしまい

 


19 興福寺

2023-08-09 | 長崎県

第九十五番 興福寺

隠元が来日し始めて訪れた唐寺

 

参拝日  平成29年(2017)12月14日(木) 天候晴れ

 

所在地   長崎県長崎市寺町4-32

山 名   東明山                                               宗 派   黄檗宗                                    本 尊   釈迦如来                                       創建年   寛永元年(1624)                                       開 基   真円                                     別 称   あか寺 南京寺                                文化財   大雄宝殿(国指定重要文化財) 旧唐人屋敷門(国指定重要文化財)山門、媽祖堂、鐘鼓楼(長崎県指定有形文化財)

 

3泊4日の日程で初めての長崎。長崎駅にほど近い宝町電停・バス停の前にあるホテルに3連泊し、4日間の長崎市内観光である。たぶんバブルのころの建設と思われるホテルは15階建てロビーなどは大理石がふんだんに使ってあり豪華である。そのホテルの前が電停で、市内の重要ポイントを巡る路面電車の市電が2分から3分間隔で次々とやってくる。運賃は何処まで行っても120円で、一日の乗り降り自由な乗車券は500円長崎市内の主な観光地や商業地はすべて賄える。その市電に乗り公会堂前電停で降りる。すぐ目の前があの眼鏡橋だ。横目に見ながら歩くこと約5~6分で目的の興福寺に着いた。この辺りは、寺町と名がついているほど寺が多く、山の麓にお寺と判る瓦屋根が連なる。興福寺には特別な参道は無く、街の通りから直ぐ山門になる。興福寺は長崎三福寺(ほかに嵩福寺、福斉寺)といわれ、信徒には中国の浙江省、江蘇省からの出身者が多く南京寺とも言われている。

 

  

長崎のシンボルで日本三大名橋の一つとして、あまりにも有名な眼鏡橋。この橋はこれから参拝する興福寺の二代目住職の黙子如定が、寛永11年(1634)に中国から石工を呼び寄せ建造した。

 

 

和菓子の梅壽軒 カステラは予約で一カ月先まで満杯だそうだ。

 

 

 

電停・公会堂前で下車し眼鏡橋、梅壽軒を横に見ながら商店街を歩いていく。

 

 

 

商店街の裏の道に入れば、直ぐに興福寺。

 

 

山門 二間三戸八脚の入母屋造単層屋根。総朱丹塗りの豪壮雄大な山門は長崎で第一の大きさを誇る。原爆で大破したがその後復元した。

 

山門は、初め承応3年(1654)隠元禅師の長崎滞在中、諸国より寄せられた多大な寄進で建てられたが、9年後の長崎大火で山門もろとも一山全焼した。現在の山門は、元禄三年(1690)に、日本人工匠の手で再建されたもので和風様式を基調とする。

 

 

山門の脇に隠元禅師の肖像幕が掛かっている。 隠元禅師は中国・福建省の生まれで江戸時代初期に来日し黄檗宗を広めた。黄檗宗(おうばくしゅう)は日本の13宗派のひとつとなった。禅師が来日の際に抱えてきた豆は、日本で深く根付き「インゲン豆」として全国に広がった。

 

 

山門上部の扁額「東明山」は隠元禅師の御書。

 

 

 

 

 

山門上部の扁額「初登宝地」は隠元禅師の御書。

 

 

門の足元には石を敷き並べてある。

 

 

門を入ると元文部大臣有馬朗人の俳句石碑。

 

 

 

境内の様子。

 

 

鐘鼓楼【長崎県指定有形文化財】 寛文3年(1663)の長崎大火で伽藍が全焼したあとの、元禄4年(1691)に再建。さらに享保15年(1730年)に重修。鐘鼓楼の上階に吊られていた梵鐘は、戦時中に供出され消失。

 

 

 

 

鬼瓦の意匠が、「福は内、鬼は外」を意味する、「外向きが鬼面」で、「内向きを大黒天像」とした特異な配置。興味深い工夫がされている。

 

本堂 大雄宝殿【国指定有形文化財】 寛永9年(1632)第2代住職・黙子如定によって建立された。その後、大火や天災の惨禍から、幾度もの再建を繰り返してきた。現在のものは、明治16年(1865)建立で、中国人工匠に手による明清風の建築物。資材も中国より運送するなど明清にこだわった。 

 

 

朱を基調とした華麗な彩色、隅屋根の強い反りなど中国南方建築の特徴が色濃い意匠は、戦前では国宝に、現在は国の重要文化財に指定されている。

 

 

大棟上に掲げられた瓢箪型の瓢瓶は、火除けのおまじないという。棟瓦のおさまりが綺麗。

 

 

棟瓦から瓦屋根、軒周りや下層屋根との間の小壁など、よく見ると細かい細工が施されている。

 

 

「大雄寶殿」「萬載江山」「航海慈雲」の扁額が正面に三段掛け。

 

 

向拝を見る。

 

 

向拝柱と向拝桁に取り付けられた緻細な彫刻。

 

 

菱形の組子が前面に広がり中央の格子の下部から内陣を拝観する。内部は撮影禁止でここまで。

 

丸窓のある氷裂式組子。氷裂式組子は明末期を代表する建築様式で、文字通り氷を裂いたような模様。組子の内側はガラス張りで陽が射すとステンドグラスのような輝きがあったというが、原爆で壊され現在は板張り。

 

 

向拝の前廊の天井部分は、黄檗(おうばく)天井といわれ円形の天井に細かく桟木を並べている。

 

昭和20年(1945)8月9日に投下された原爆は、爆心地から4キロ離れた興福寺にも甚大なる被害をもたらし、「山門」は大破、「三江会所」は倒壊。大雄宝殿も猛烈な爆風のため、倒壊こそまぬがれたが、少し柱が傾いているという。

 

 

前廊の天井。蛇腹に組まれた天井。

 

 

 

 

 

切妻の破風や懸魚も日本古来のものと一味異なる。 隅屋根の強い反りは中国南方建築が色濃く表れている。

 

 

庫裡の玄関軒下につるされた板魚。叩いて時間を告げていた。この板魚は中国・揚子江に生息する不老長寿の「鱖魚(けつぎょ)」で雄雌一体になっている。裏側が雌なるようだが、写真は撮っていない。

 

媽祖堂【長崎県指定有形文化財】 中国南部で篤く信仰される航海の神「媽祖」。その媽祖像を祀る「媽祖堂」は、創建年は不明ながら、寛永10年(1670年)前なのが確実視される貴重な建築物。和風建築を基調としながらも、「隅屋根の反り」、「黄檗天井の前廊」、「内外装の鮮やかな朱丹塗」などの中国様式が違和感なく溶け込んだ重厚な造り。

 

 

元来仏教とは無関係の「媽祖堂」が伽藍を構成しているのが唐寺ならではの様式。

 

 

「海天司命」の扁額。

 

 

 

 

 

正面の扉に牡丹の花。

 

 

 

 

三江会所門【長崎県指定有形文化財】 檀家に三江地区(江南、浙江、江蘇)出身者のための集会所が明治11年(1878)に建設された。昭和20年(1945)の長崎原爆で大破されて、かろうじて門だけが残った。

 

 

 

 

 

門の壁に埋め込まれた三江会所の石碑。

 

豚返しの敷居 当時豚を飼っていたため外に逃げないように敷居を高くしていた。高くしていた部材は取り外してある。

中島聖堂遺構【長崎県指定有形文化財】 日本三大聖堂のひとつ。同聖堂は、儒学者向井元升が私財を投じ、正保4年(1647)に聖堂・学舎を創設したことに始まり、正徳元年(1711)に中島川沿いに移設した。明治になって廃滅したが、昭和34年(1959)に大学門(杏檀門)と規模を縮小した大成殿を現在の地に移築した。

 

 

大成殿

旧唐人屋敷門【国指定重要文化財】  元禄2年(1689)、中国人を隔離するための唐人屋敷が十善寺郷薬園跡に造成された。この「旧唐人屋敷門」は、その唐人屋敷に遺存していた「唐人住宅門」を興福寺境内に移築したもの。天明4年(1784)の大火以降に建てられた純中国式建築様式で、極めて貴重な遺構。

 

 

三江会所門より境内を見る。

 

 

境内から長崎市内を見る。

 

 

興福寺境内の一部。すぐ近くは長崎市内市街地。

 

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーー隠元が日本に持ってきたもののなかには普茶料理もある。普茶料理は黄檗宗の中国式精進料理で、予約をすれば、この興福寺でもいただくことができるそうだ。普茶料理では、身分を問わず誰でも一つの食卓を囲んで食事をするのが基本である。そうした食事の習慣も、隠元は料理と一緒に伝えた。松尾師の説明では、それが明治になって「ちゃぶ台」という言葉で、日本の食文化のなかに浸透していったのだという。ちゃぶ台という言葉を聞いて、いちばん懐かしく感じるのは、私の世代ではあるまいか。子どものころ、いつも一家そろってちゃぶ台を囲んで食事をしていたからだ。隠元はこの食事スタイルを通して「和」の精神を説いた。住職も、小僧も身分の上下もなく、ひとつのテーブルを囲み、同じものを分け合って食べることで、相互の親睦をはかったのである。江戸時代の封建社会が築いた身分制度のなかで、しかも鎖国の状態で、民族をこえ、階級をこえて、人々が同じ人間同士としてひとつのテーブルにつく。これは、ものすごく大きな思想だったに違いない。

 

 

御朱印

 

 

興福寺 終了

 

(ついでに長崎観光でオランダ坂)

オランダ坂の入り口にある街並み。

 

 

オランダ坂の入り口。

 

 

これがオランダ坂。

 

 

オランダ坂を500~600m進んだところに中国のお寺「孔子廟」がある。異国の寺をちょっと覗いてみた。

長崎孔子廟は、明治26年(1893)に、清国政府と在日華僑が協力して建立したもの。その後いくどかの改修を経て現在に至っている。中国山東省曲阜にある総本山なみに、建物の随所に壮麗な伝統美を凝らした、日本で唯一の本格的中国様式の霊廟。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おしまい。