『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

80 詩仙堂

2024-04-30 | 京都府

古寺巡り 詩仙堂

日本の心を映す情緒あふれる山荘跡

 

 

詩仙堂は、徳川将軍家の家臣であった石川丈山が寛永18年(1641)に隠居のため、59歳の時に造営した山荘。丈山は寛文12年(1672)に90歳で没するまでここで詩歌三昧の生活を送った。後に寺院化されると、丈山にちなんで寺名は丈山寺とされた。

詩仙堂の中心となる建物は凹凸窠(おうとつか)と呼ばれる。凹凸窠とはでこぼこの土地に建てられた住居の意味であり、建物や庭園は山の斜面に沿って作られている。丈山は建物や庭にある10個の要素を「凹凸窠十境」と見立てた。現在では凹凸窠の中にある36詩仙(大陸の詩家36人)の肖像を掲げた詩仙の間にちなんで詩仙堂と呼ばれている。

詩仙は日本の三十歌仙にならい、丈山は林羅山と意見を交わしながら漢、晋、唐、宗の各時代から選出した。肖像は狩野探幽によって描かれ、詩仙の間の四方の壁に掲げられている。

詩仙堂は、お寺という感じは、ほとんど見ることはなく武家や武将などの邸として見学した方がわかりやすい。もともと石川丈山の山荘だからなおさらのことである。それでも正式な仏間があり、寺としての形態も保っている。

 

参拝日   令和6年(2024)3月1日(金) 天候曇り

 

所在地   京都府京都市左京区一乗寺門口町27                         山 号   六六山                                       宗 派   曹洞宗                                       本 尊   馬朗婦観音(めろうふかんのん)                           創建年   寛永18年(1641)                                 開 基   石川丈山                                      正式名   六六山詩仙堂丈山寺凹凸窠                              文化財   詩仙堂(国指定史跡)   

 

 

境内案内図                           (詩仙堂説明書より)

 

 

石川丈山肖像画                       (詩仙堂説明書より)

 

 

 

山門。 小有洞と名付けられ杉皮葺きの屋根の門は、詩仙堂の入り口。

 

 

 

 

 

扁額の小有洞の字は石川丈山の直筆。 字は薄くて読めないかもしれない。

 

 

 

門を潜り竹垣に囲まれた参道を進む。

 

 

老梅関という中門。 かっては老梅の樹が会ったことから名づけられた。撮った写真を見てみると門の中に人の顔が入っている。正面の窓が目で、踏み石が唇、手前の平井氏は首に見え、なんとも滑稽な場面である。

 

 

 

 

 

 

門から入り正面の建物は、玄関から右手になり仏間と六畳間、八畳間がある。

 

 

玄関。 蜂要と名がついているらしい。通常は出入りができない。玄関は3階建とし「嘯月楼(しょうげつろう)」という。その右手 (西側) には瓦敷の本堂と庭見の間の六畳、八畳の書院がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

老梅関を後ろから見る。

 

 

間取り。   参拝時に間取りをスケッチしたもの。

 

 

 

 

参拝者の入り口。

 

 

詩仙の間の前室から拝観入り口方向を見る。

 

 

玄関口を見る。

 

 

 

詩仙の間の前室で4畳の広さ。

 

右の額は「六勿銘(ろっこつめい)」として六つのことを厳守するよう自分に言い聞かせていたという。意は、右から火の用心、戸締り用心、早起き、粗食、倹約、清掃・・・を怠るなということのようだ。

 

本堂。  正面の内陣に本尊の馬朗婦観音が安置されている。中国の説話に登場する三十三観音の一つ。中国の唐の時代の伝説で観音菩薩が美女に変化して法華経をよく読誦する者に嫁するといい、馬氏の息子が目的を達したという故事による。外陣には賽銭箱。 

 

 

詩仙の間の廊下側に掲げられた扁額 詩仙堂の字は石川丈山の筆。

 

 

詩仙の間。 凹凸窠(おうとつか)とも呼ばれていた4.5畳の部屋。小壁には狩野探幽の筆の36詩仙の肖像画が掲げられている。現在掲げられている肖像画は複製である。

 

 

 

 

 

 

 

正面の壁に掲げられた扇のかたちは、伏見桃山城の欄間彫刻の一部で左甚五郎の作と言われる。天井材はアンぺらという太い葦のような材を編んだもので、簾などにも使用される。

 

 

 

詩仙の間から見た庭園。

 

 

詩仙の間から至楽巣側の廊下の透かし彫り欄間。

 

 

至楽巣は読書の間とも呼ばれ、6畳二間で構成。

 

 

 

 

至楽巣の扁額は、石川丈山の筆による。

 

 

至楽巣の方向を見る。

 

 

 

 

 

 

詩仙の間から書院方向を見る。

 

 

 

書院。  詩仙堂といえばこの部屋から庭の眺め。 奥に8畳間と手前に6畳間の二間続きの部屋。 

 

 

 

奥の8畳間には床の間。 福、録、寿 の掛け軸は石川丈山の筆。

 

 

 

そして庭園を見る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

百花塢(ひゃっかのう)の庭園。  庭園造りの名手でもある丈山自身により設計された唐様庭園は、は四季折々に楽しむことができ、特に春(5月下旬)のサツキと秋(11月下旬)の紅葉が有名。縁の前に大きく枝を広げた白い山茶花も見所のひとつで、百の花が愛でるられると名が付けられた。

 

 

大きく刈り込んだ皐月と白砂が特徴。

 

 

 

 

 

年代を感じさせる柱は杉柱。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

書院前の庭園の隅にひっそりと穴あき石の手水鉢。

 

 

 

 

 

 

建物から出て庭園に向かう途中の木の根の張りを見る。

 

 

 

茅葺屋根は、詩仙の間と至楽巣の建物。 軒先は瓦葺。

 

 

 

至楽巣の正面。

 

 

詩仙堂の建物は、瓦葺部分と萱葺き部分で構成されている。玄関から西半分は瓦葺。詩仙の間など東側は萱葺きとなっているが庇側は瓦葺きである。

 

嘯月楼(しょうげつろう)。 本堂の上層階部分で、3階建てとなる。2階は14畳の畳敷き部屋、3階は5畳敷きの部屋で、四方に窓が設けられている。東側は丸窓で雨戸の開放は跳ね上げ式。この嘯月楼と詩仙の間は石川丈山が建てたもので、書院や至楽巣はその後に増築された。   

 

 

三階部分。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

嘯月楼と書院の外観。    軒先の雨樋は竹を使用。

 

 

回遊式庭園。書院の前の枯山水の庭園の先の少し下がったところに位置し、戦後に詩仙堂の住職等によって整備されたそうである。

 

 

 

中心に池があり、初夏には菖蒲や紫陽花が花をつけ、秋には紅葉が彩る。

 

 

 

 

 

残月軒。 茶室で昭和初期に建てられた。

 

 

境内の石垣。

 

 

帰り際に見た、参道の石畳。

 

 

参道の竹林。

 

 

案内図

 

 

御朱印

 

 

詩仙堂 完了

 

(参考文献) 詩仙堂HP フリー百科事典Wikipedia 京都社寺案内HP ほか

 

 


79 曼珠院

2024-04-28 | 京都府

古寺巡り 曼珠院

皇室の一門が住職であった京都・洛北屈指の名刹で、小さな桂離宮とも呼ばれている。

 

 

曼珠院

 

曼珠院 延暦年間(728~806)、宗祖伝教大師最澄により、鎮護国家の道場として比叡の地に創建されたのが曼殊院のはじまり。その後、天暦年間(947~957)是算国師のときに北野天満宮が造営されると、是算国師が菅原家の出生であったことから、曼珠院の初代別当職に就き、それから以後の明治維新まで900年間を北野別当職を歴任した。

天仁年間(1108~1110)に、北野天満宮の管理のため北山に別院を建立。その後、御所内公家町に移転し、明暦二年(1656)になり桂離宮が建設されて、八条宮智仁親王の第二皇子良尚法親王が入寺されて、現在の地に堂宇を移し造営されたのが今日の曼殊院である。良尚法親王は後陽成天皇の甥、後水尾天皇は従兄弟にあたる。

曼殊院造営については、桂離宮を完成させたといわれる兄智忠親王のアドバイスを受けて建設され、桂離宮同様当時ヨーロッパで大流行した黄金分割が採用されている。曼殊院の瀟洒で、軽快な大書院・小書院は「桂離宮の新御殿」や「西本願寺の黒書院」と並んで数奇屋風書院の代表的な遺構とされている。
良尚法親王はここ曼殊院で、「侘びの美・さびの美」の世界に生きられた文化人でした。

また書院の釘隠しや引き手、欄間などが桂離宮と共通した意匠がみられ、同じ系列の工房で作られた物で、これらにより曼殊院は「小さな桂離宮」といわれている。

書院庭園は武家の庭とは違い、また寺院の庭とも違う、いわゆる公家好みの庭となっている。司馬遼太郎先生は「街道をゆく」のなかで、「公家文化は豊臣期・桃山期に育成され、江戸初期に開花した。桂離宮と曼殊院は桃山の美意識の成熟と終焉を示している」と書いている。

 

参拝日    令和6年(2024)3月1日(金) 天候曇り

 

所在地    京都府京都市左京区一乗寺竹ノ内45                        山 号    なし                                       宗 派    天台宗                                      寺 格    京都五ヶ室門跡                                  本 尊    阿弥陀如来                                    開 山    是算                                       創建年    天暦年間(947~957)                              別 称    竹内門跡                                     札場等    近畿三十六不動尊第17番                             文化財    大書院、小書院、木造慈恵大師座像(国重要文化財) 庭園(国の名勝)

 

 

叡山電鉄修学院駅から歩いて約20分。スマホに道案内をされ住宅街の横道を縫って緩やかな坂道を上る。やっと参道に到着。

 

勅使門。  正門となるが天皇・皇族の門として通常は出入りができない。 勅使門の両側に設けられた築地塀には定規筋という五本の線が入っている。定規筋の線の数が寺格の高さを表し、曼珠院の線は最高位の五本となる。

 

 

 

 

 

勅使門の前の築地塀と通路の間には紅葉が植えられ、最盛期には紅葉の名所になる。

 

 

勅使門の前の道から右手に曲がり北通用門から中に入る。

 

 

境内図。  宸殿が建つ以前の境内図で梅林の処が宸殿位置となる  (曼珠院HPより)

 

 

北側通用門。

 

 

北側通用門から潜り、庫裡の玄関を入る。

 

 

庫裡の玄関に掲げられ扁額は「媚竈(びそう)」と書かれ、良尚法親王の筆による。意味は「奥にいる権力者に媚びるのではなく、実際に竈(かまど)を預かっている者に感謝せよ」と意味し論語からの言葉。

 

 

 

庫裡の玄関。   一般参拝者はこちらの庫裡の玄関口から内部に入る。

 

 

 

庫裡の内部から玄関口を見る。

 

 

庫裡の入り口から廊下を渡り小書院に向かう。 途中、庫裡の左手に上之台所がある。高貴な来客や門跡寺院の住職などのための厨房。丸炉の間、一乗の間、花の間、宿直の間、御寝の間があり、棚には、食器類も展示されている。ただいま修繕工事中で拝観はできなかった。

 

小書院【国重要文化財】    大書院の東北方に建つ。間取りは東南側に八畳の「富士の間」、その北に主要室である「黄昏の間」がある。建物西側は二畳の茶立所を含むいくつかの小部屋に分かれている。二畳室は板床があり、炉が切ってあって、茶室としても使用できるようになっている

 

 

富士の間。

 

 

 

 

 

黄昏の間。  七畳に台目畳二畳の上段を備え、床・棚・付書院をもつ。「富士の間」「黄昏の間」境の欄間には菊の御紋の透かし彫り。                      (写真は曼珠院HPより)

 

 

床脇の棚は多種類の木材を組み合わせたもので「曼殊院棚」として知られる。(曼珠院HPより)

 

 

 

 

 

「富士の間」から南側庭園を額縁にして見る。

 

 

「富士の間」側の外廊下。   扁額は「閑酔亭」と書いてあるという。

 

 

 

 

 

小書院外廊下の欄干笠木の釘隠し。この金物も元々は七宝仕上げだったのでは?

 

 

「富士の間」から見た南側庭園。小書院側の庭園は静かに水面をさかのぼる屋形船を表現しているというが、よくわからない。

 

 

 

「富士の間」から見た東側庭園。

 

 

 

小書院の廊下から大書院側を見る。

 

 

 

七宝製の釘隠し(富士山をかたどる)もこの建物の特色である

 

 

 

 

 

庭園【国指定名勝】   枯山水の庭園は小堀遠州の作といわれるが、遠州は曼殊院の当地移転以前の正保4年(1647)に没しており、実際の作庭者は不明

 

 

大書院と同時期の建築で寄棟造、杮葺きである。

 

 

屋根の重なりの美しさを・・・。                  (曼珠院HPより)

 

 

 

 

 

 

 

 

大書院側を見る。

 

 

 

 

 

小書院と大書院の間の廊下

 

 

大書院の廊下へ。

 

 

 

大書院と廊下を見る。

 

大書院【国重要文化財】    本堂として、明暦2年(1656)に建立された。仏間に本尊阿弥陀如来立像を安置することから重要文化財指定名称は「曼殊院本堂」となっているが、当の曼殊院ではこの建物を「大書院」と呼んでいる。また、解体修理の際に発見された墨書等から、この建物は建設当時から「大書院」と称されていたことが分かる

 

 

正面東側に「十雪の間」、西側に「滝の間」があり、「十雪の間」背後には「仏間」、「滝の間」背後には「控えの間」がある。

 

 

 

 

 

十雪の間。 床の間には木造慈恵大師(良源)坐像(重要文化財)を安置し、仏間には本尊を中心とする諸仏を安置する。

 

 

滝の間。

 

桂離宮・新御殿の欄間と同じ卍崩しの欄間は月を表現しているとのこと。建物内の杉戸の引手金具には瓢箪、扇子などの具象的な形がデザインされ、桂離宮の御殿と共通した意匠を用いたというが、写真は撮っていなかった。

 

 

全体の外観を見ることはできないが、建物は寄棟造の杮葺きで、一見して寺院というより住宅風の建物である。

 

扁額は「塵慮儘(じんりょじん)」。  辞書を見ると、「塵慮」とは俗世間の名利を欲する心とあり、「儘」は思い通りになることとある。

 

 

釘隠し。

 

 

 

 

 

正面に鶴島と名をつけた植え込みには樹齢400年の五葉松。 五葉松は鶴を表現しているという。その根元には曼殊院型のキリシタン灯篭がある。公家風で趣味豊かな良尚親王の趣向を反映している。

 

 

 

 

大書院の周辺には、霧島つつじが植えられており、5月のはじめ頃に深紅の花を咲かせる。霧島つつじは宮崎県が原産で、ほかのつつじに比べてやや小ぶりの花をつける。その優雅な姿は美女に例えられる。赤じゅうたんのように花をつけた霧島つつじは、枯山水庭園と調和して殊のほか美しい。

 

 

 

庭園の鶴島を見る。

 

大書院の周辺には、霧島つつじが植えられており、5月のはじめ頃に深紅の花を咲かせる。霧島つつじは宮崎県が原産で、ほかのつつじに比べてやや小ぶりの花をつける。その優雅な姿は美女に例えられる。赤じゅうたんのように花をつけた霧島つつじは、枯山水庭園と調和して美しいというが、冬の終わりのころ彩は少ないが見事な庭だ。

 

 

大書院と宸殿を結ぶ渡り廊下に設けられている仕切り戸は、杉の一枚板。

 

 

大書院の廊下から宸殿に向かう。

 

 

宸殿。   令和4年(2022)に新築されたばかり。

 

宸殿の全景。   皇族関係が住職を務める門跡寺院にとって宸殿は本堂にあたる重要な建物。このには曼珠院が所有する国宝不動明王が安置されている。 一度公開されたが、今後直接のに拝めない秘仏になる。(写真は曼珠院HPより)

 

盲亀浮木(もうきふぼく)の庭。  宸殿の再建に合わせて作庭された。100年に一度、息継ぎをするため水面に表れる盲目の亀の頭が、ちょうど流れてきた木の穴に偶然すっぽりと埋まった、という光景が表現されている。つまり、仏教に出会うことや、人に生まれることの難しさを語りかけている庭だそうだ。

 

 

盲亀浮木の庭に面して、唐門が見える。

 

 

護摩堂。 宸殿の横に建つ。

 

 

案内図

 

 

御朱印

 

 

曼珠院 終了

 

(参考文献) 曼珠院HP フリー百科事典Wikipedia ほか


78 三千院

2024-04-13 | 京都府

百寺巡礼第81番 三千院

声明が響く隠れ里

 

「京都 大原  三千院  恋に疲れた女が一人・・・・」の歌でもおなじみの三千院は、全国に広く名を知られている。三千院は、京都市街の北東に位置する山中にあり、かつては貴人や仏教修行者の隠棲の地として知られた大原の里にある。大原の里には京都駅前からバスでほぼ1時間で着く。先ず、は寂光院(当ブロブ掲載NO77)をお参りし、その後三千院を詣でた。五木寛之著「百寺巡礼」三千院の巻には、紅葉の季節で大変な混雑ぶりが書かれてれていたが、拙者が訪問した大原は冬の終わりで人影はまばら、ひっそりとしていた。もともと、この大原の里は、当時の社会からこぼれ落ちた人びとを、黙って受け入れてくれる隠里で、避難所ともいうべき場所だったのである。と百寺巡礼に描かれていたのを思い出した。なるほど、そのような風情を感じる。  

青蓮院(当ブログNO58)、妙法院とともに、天台宗山門派の三門跡寺院の一つ。

 三千院は延暦年間(782‐806)に伝教大師最澄が比叡山東塔南谷の山梨の大木の下に一宇を構えたことに始まりる。その後、慈覚大師円仁に引き継がれ、最雲法親王入室により、平安後期以降、皇子皇族が住持する宮門跡となる。寺地は時代の流れの中で、比叡山内から近江坂本、そして洛中を火災や応仁の乱などにより幾度か移転し、その都度、寺名も円融房、梨本坊、梨本門跡、梶井宮と呼称されてきた。       明治4年(1871)、法親王還俗にともない、梶井御殿内の持仏堂に掲げられていた霊元天皇御宸筆の勅額により、三千院と称された。明治維新後、現在の地大原に移り「三千院」として1200年の歴史を紡いでいる。

 

参拝日    令和6年(2023) 3月1日(金) 天候曇り

 

所在地    京都府京都市左京区大原来迎院町540                       山 号    魚山                                       宗 派    天台宗                                      寺 格    京都五ヶ室門跡                                  本 尊    薬師如来                                     創建年    延暦年間(782~806)                              開 山    最澄                                       別 称    三千院門跡  梶井門跡   梨本門跡                                     札所等    西国薬師四十九霊場第45番 ほか                          文化財    阿弥陀三尊像(国宝)  往生極楽院阿弥陀堂(国重要文化財)

 

大原のバス停から三千院まで約550mの参道は細い小道である。その参道の入り口付近、民家の前に「女ひとり」の歌詞石碑。

 

 

参道。

 

 

 

 

 

 

境内図                            (三千院HPより)

 

 

 

三千院に到着。 右手に「梶井三千院門跡」と石標。三千院はかって梶井門跡と呼ばれていたため石標に梶井の字。

 

 

 

桜の馬場。 三千院へ参道で入り口の通り。みやげ屋、飲食店が並び、春には桜が咲き誇る。

 

城壁を思わせる苔むした石垣と白壁土塀。 秋には手前の紅葉が素晴らしい彩を添え石垣と白壁に映えるのだろう。石垣の石組みは城廓の石積み技術などで名高い近江坂本の穴太衆(あのうしゅう)という石工が積んだもので、自然石を使った石組みは頑強でかつ美しく、時を経ても崩れないといわれている。

 

 

 

何かの石碑かよくわからない。

 

 

 

桜の馬場のとおりには店が並ぶ。

 

 

御殿門。  三千院の玄関口にあたる。高い石垣に囲まれ、門跡寺院にふさわしい風格をそなえた政所としての城廓、城門を思わせる構え。

 

 

 

 

 

 

 

門から境内を見る。

 

 

 

御殿門を入ると鍵型の通路を進み、拝観の入り口まで進む。

 

 

 

 

 

 

庫裡。 拝観受付の場所で、こちらの玄関から内部に入る。

 

 

 

客殿の勅使玄関側。

 

 

 

勅使玄関。   客殿用の玄関で唐破風の屋根の造り。

 

 

 

 

 

   

中書院の玄関。 一般の参拝客は出入りできない。

 

 

 

客殿の前のある石碑。

 

 

客殿。 西側の勅使玄関から続く書院で、大正元年(1912)に修補された。 前庭は、聚碧園で池泉観賞式庭園。

 

 

 

 

 

 

客殿から円融坊を見る。

 

 

聚碧園。  客殿前に広がる池泉観賞式庭園。東部は山畔を利用した上下二段式とし、南部は円形とひょうたん形の池泉をむすんだ池庭を形成している。江戸時代の茶人・金森宗和による修築と伝えられている。

 

 

聚碧園の隅にある老木「涙の桜」は室町時代の歌僧頓阿(とんあ)上人が詠んだ一首に由来し、その桜は西行法師のお手植えとも、頓阿上人の友、陵阿(りょうあ)上人のお手植えとも伝えられている。
見るたびに袖こそ濡るれ桜花涙の種を植えや置きけん (頓阿上人)

 

 

 

 

 

宸殿。  三千院の最も重要な法要である御懴法講(おせんぼうこう)を執り行うため、御所の紫宸殿を模して、大正15年(1926)に建てられた。本尊は伝教大師作と伝わる薬師瑠璃光如来で、秘仏となっている。

 

 

本殿向かって左、西の間には歴代住職法親王の尊牌がお祀りされており、向かって右の東の間には天皇陛下をお迎えする玉座を設えている。その玉座の間には下村観山の襖絵があり、大きな虹が描かれていることから「虹の間」とも呼ばれている。

 

 

 

向拝を見る。  全面に有清園の庭園が広がる。

 

 

 

寝殿の回廊。

 

 

有清園。  宸殿より往生極楽院を眺める池泉回遊式庭園で、中国の六朝時代を代表する詩人・謝霊運(しゃれいうん )の「山水清音有(山水に清音有り」より命名された。

 

 

青苔に杉や檜などの立木が並び、山畔を利用して上部に三段式となった滝を配し、渓谷式に水を流して池泉に注ぐようになっている。春には山桜と石楠花が庭園を淡く染め、夏の新緑、秋の紅葉、そして雪景色と季節毎にその色を美しく変える。

 

 

 

弁天池。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

有清園から宸殿を見る。

 

 

 

寝殿の前の有清園をはさみ往生極楽院がある。屋根側面が三角形に見える側が正面になる。

 

 

 

 

 

往生極楽院【国重要文化財】。 単層入母屋造、柿葺、妻入の建物で間口3間、奥行き4間の小さなお堂は三千院の歴史の源とも言える。 煌びやかさ豪華さはなく隠れ里の大原の景色にマッチした堂宇といえる。 

 

阿弥陀三尊像。   往生極楽院に祀られている阿弥陀三尊像はお堂に比べるとかなり大きく、堂内に納める工夫として、天井を舟底型に折り上げていることが特徴。その天井には現在は肉眼ではわかり難いものの、極楽浄土に舞う天女や諸菩薩の姿が極彩色で描かれており、あたかも極楽浄土そのままを表している。 この目で確かめたが、何が描かれているのかよくわからない。                                  (写真は三千院HPより)

 

阿弥陀三尊像【国宝】       久安4年(1148)に造られた本尊は、高さ2.3mの阿弥陀三尊坐像は、船底天井の堂内一杯に鎮座する。阿弥陀如来は来迎印を結び、向かって右側の観世音菩薩は往生者を蓮台に乗せる姿で、左側の勢至菩薩は合掌し、両菩薩共に少し前かがみに跪く「大和坐り」で、慈悲に満ちた姿を見せる。                                (写真は三千院HPより)

 

往生極楽院は、平安時代末期から、大原の地にあったもので、三千院とは別の寺院だった。寛和2年(986) 恵心僧都 源信が、父母のために、姉 安養尼とともに往生極楽院を創建したといわれる。久安4年(1148)に阿弥陀堂は、高松中納言実衝の妻 真如房尼が29歳の若さで夫を亡くし、供養のために建てた常行三昧堂に、90日間休まず念仏を唱えながら、ひたすら仏の周りを回る不眠不臥の業を約30年間も続けたと伝えられる。 

 

 

 

 

 

 

内部は撮影禁止。ぎりぎりこのへんの距離で・・・・向拝を撮る。  

 

 

 

質素な向拝。  向拝桁に支えられその下に向拝紅梁をつけ、海老紅梁はなく繋ぎ梁とし組物も簡素化。

 

 

 

向拝の様子。 窓には蔀戸がかかる。

 

 

 

向拝から正面を見る。 正面の先には朱色の朱雀門。

 

 

 

 

 

欄干のある外縁が四方を巡る。

 

 

 

 

 

 

堂の右脇には弁天池が広がる。

 

 

 

往生極楽院の背面側。

 

 

 

朱雀門。

 

 

 

 

 

 

三千院の代名詞にもなっている苔に覆われた杉木立。

 

 

 

 

 

 

有清園の存在感のある石灯籠。

 

わらべ地蔵。   往生極楽院南側、弁天池の脇にたたずむ小さな地蔵たち。有清園の苔と一体となってきれいに苔むしており、もう何年も前からずっとたたずんでいるよう。わらべ地蔵は、石彫刻家の杉村孝氏の手によるもので数体置かれている。

 

 

朱雀門。      往生極楽院の南側にある朱塗りの小さな門で、その昔、極楽院を本堂としていた頃の正門にあたる。その様式は藤原期の様式とも言われているが、江戸時代に再建されたもの。現在扉は閉めたまま。

 

 

境内は大きく二つに分かれ、下の平地に建つ客殿や宸殿、往生極楽院などの創建時のゾーンと、そこから少し上がったところに近代に造られた金色不動堂や観音堂などの奥の院がある。

 

 

金色不動堂。  護摩祈祷を行う祈願道場として、平成元年(1989)に建立された。本尊は、智証大師作と伝えられる秘仏金色不動明王で、毎年4月に行われる不動大祭期間中は、秘仏のその扉はご開扉され、約1ヶ月間お姿を拝するこができる。

 

 

観音堂。   平成10年(1998)に建立された。堂内には金色の観音像が祀られており、御堂両側の小観音堂には三千院と縁を結ばれた方々の小観音像が安置されている。

 

 

茶室?ではなさそう・・・。

 

 

 

 

 

 

津川にかかる朱塗りの橋。

阿弥陀石物(売炭翁石物)。     金色不動堂の北、律川にかかる橋を渡ったところに、鎌倉時代の大きな阿弥陀石仏が安置されている。石仏は高さ2.25mの単弁の蓮華座上に結跏跌座(けっかふざ)する。定印阿弥陀如来で、おそらく「欣求浄土(ごんぐじょうど)」を願ったこの地の念仏行者たちによって作られたもので、往時の浄土信仰を物語る貴重な遺物となっている。またこの場所は、昔、炭を焼き始めた老翁が住んでいた「売炭翁(ばいたんおきな)旧跡」と伝えられることから、この阿弥陀さまをここ大原では親しみをこめて、売炭翁石仏と呼ぶようになったと伝わっている。

 

 

津川。 三千院の境内を挟むように境内の北側を流れる川を「律川」、南側を流れる川を「呂川」と呼ぶ。
これは声明音律(しょうみょうおんりつ)の「呂律(りょりつ)」にちなんで名づけられたといわれている。

 

 

 

あじさい苑の遊歩道。

 

 

 

あじさい苑からみた往生極楽院の全景。

 

 

 

西方門。  朱雀門の西側に建つ、拝観の出口になる。

 

 

 

円融蔵。平成18年(2006)開館した展示室を備えている重要文化財収蔵施設。三千院開創以来の仏教・国文・国史、門跡寺院特有の皇室の記録や史伝等、中古・中世・近世にわたって書写され蒐集された、典籍文書を多数所蔵。展示室には現存最古と言われる往生極楽院の「舟底天井」と原寸大の天井画が創建当時の顔料のままに極彩色に復元され展示されている。(下の写真左の建物)

円融坊。 境内を巡り出口の西方門を出たところに建つ。 

 

 

 

未明橋。 三千院の参道桜の馬場を東に向かうと津川にかかる朱塗りの橋。

 

 

 

 

 

 

三千院の門前の通・桜の馬場の突き当りに勝林寺。右手が後鳥羽天皇大原陵。

 

 

 

後鳥羽天皇、順徳天皇の大原陵。三千院の御殿門を出て右奥の朱塗りの未明橋を渡り直ぐの右手にある。

 

 

案内図

 

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーーつまり、半僧半俗の聖や、世捨て人や、ドロップアウトした人というのは、ある意味で世間からへだてられる人びとででもあった。女性もまた、当時の仏教のなかでは、往生できない存在としてあつかわれていた。<中略>少なくとも大原別所が念仏の里であり、隠里であり、女人の里でもあったということは間違いない。大原は都からはみ出した人びとのアジールであり、聖と俗、聖と賤とが混沌として存在する場所だったのだと思う。いずれにしても、大原はいつの時代にも、行き場のない人びとを暖かく迎える土地だった。その念仏の里、隠れ里、女人の里に、三千院という寺がある。現在の三千院は観光寺院のイメージが強い。だが、この大原の文化のなかで、じつは三千院こそが、おおきな“かなめ”として存在しているのだろう。そして、大原の地は、歴史の陰の部分のつややかさを帯びて感じられのではないか。

 

 

御朱印

 

 

 

三千院 終了

 
 
(参考文献)
  
五木寛之著「百寺巡礼」第九巻京都Ⅱ(講談社刊) 三千院HP  フリー百科事典Wikipedia ほか     

 

 

 

 


77 寂光院

2024-04-08 | 京都府

古寺めぐり 寂光院

 

今でもひっそりと佇む平家物語の舞台となった寺

 

 

寂光院と三千院への参拝で京都・大原の里へ。京都駅前7時40分の大原行きのバスに乗る。3月の初めの日、京都市内を抜けて鯖街道と呼ばれた大原街道に入ると、バスはほぼ貸し切りになり8時42分に終点の大原停留所に到着。乗客は吾輩1人であった。停留所から大原女の小道を歩き、15分ぐらいで寂光院に着いた。このお寺には二十代のころ参拝したことがあるが、よく覚えていない。歩いた小道が舗装されて歩きやすくなっていた。

 寂光院は天台宗の尼寺である。寺の草創については、寺伝によると推古天皇2年(594)、聖徳太子が父の用明天皇の菩提のため開創したとされる。当初の名称は玉泉寺で太子の乳母であった玉照姫(恵善尼)が初代住職であるというが、ほかの説もあり明確なことは分かっていない。現在、寂光院はそうした草創伝説よりも、「平家物語」に登場する建礼門院が隠棲したゆかりの地として知られている。当院では史料がなく詳細が分からないため、建礼門院に仕えて後に出家し、当院の住持をしていた阿波内侍を第2代の住職としている。阿波内侍は、大原女のモデルとされる。

平清盛の娘・建礼門院徳子は、文治元年(1185)に壇之浦で平家一族が滅亡後、生き残った高倉天皇の中宮で、安徳天皇の生母である。徳子は阿波内侍を頼って入寺し、出家して真如覚比丘尼と称した。後に第3代住持となって当院で余生を送った。また平重衡の妻・藤原輔子も出家し当院で徳子に仕えた。

 寂光院や三千院のある大原の里は、念仏行者の修行の地であり、貴人の隠棲の地であった。平家一門と高倉・安徳両帝の冥福をひたすら祈っていた徳子をたずねて後白河法皇が寂光院を訪れるのは文治2年(1186)の事で、この故事は『平家物語』の「大原御幸」の段において語られ、物語のテーマである「諸行無常」を象徴するエピソードとして人々に愛読された。

本堂は淀殿・豊臣秀頼の命で片桐且元が奉行として、慶長年間(1596~1615)に再興したものであったが、平成12年(2000)に放火に遭い焼失してしまった。この際、本尊の地蔵菩薩立像(重要文化財)も焼損し、堂内にあった徳子と阿波内侍の張り子像(建礼門院の手紙や写経を使用して作ったものという)も焼けてしまった。本堂は、平成17年(2005)に古式通りに忠実に復元された。同時に新しく作られた本尊や徳子と阿波内侍の像も安置されている。

境内の外、東側には建礼門院徳子を祀る大原西陵がある。陵墓はもともと境内にあったが、明治以降は宮内省の管理下に移り、境内から切り離された。また、境内の外、西側には阿波内侍らの墓がある。

 

 

参拝日    令和6年(2024) 3月1日(金) 天候晴れ

所在地    京都府左京区大原草生町676                            山 号    清香山                                       院 号    寂光院                                       宗 派    天台宗                                       本 尊    地蔵菩薩                                      創建年    伝・推古天皇2年(594)                              開 基    伝・聖徳太子                                    札所等    神仏零場巡拝の道第105番                              文化財    地蔵菩薩立像(国重要文化財)  

 

 

大原の里。 右手方向にしばらく歩いたところ寂光院。

 

 

大原女の小道をひたすら歩く。

 

 

大原女の小道の案内標。

 

 

 

大原女の小道にひっそりと朧の清水。 建礼門院がこの泉に姿を写したと伝わる。

 

「柴葉漬と大原女の発祥の地」の石碑。 寂光院の入り口の少し手前に建っている。寂しく隠棲した建礼門院は、地元の住民が慰めのために持ち寄った漬物を大変気に入り、紫蘇の入った漬物という意味で「柴葉漬」と名付けたと伝えられる。

 

 

寂光院の入り口。

 

 

 

寂光院境内図。

 

 

拝観の受付、ほかに朱印の授与、数珠玉(数珠巡礼)の授与、写経やお抹茶の申込受付などが行われている。

 

 

写真映えのする石階段を上る。

 

 

 

 

 

もみじの季節は最高に美しいと思う。春が近い冬の山門。

 

 

山門。

 

 

山門から上がってきた石段を振り返る。

 

 

山門から本堂を見る。

 

本堂。 桃山時代頃の建築の特色を残していると言われていた本堂は、平成12(2000)年の火災で焼失した。ヒノキ材で屋根は木柿葺(こけらぶき)。

 

小松前住職の「すべて元の通りに」の言葉通りに、焼け残った木組みや部材を入念に調査し、材木を吟味して、5年の歳月を経て平成17(2005)年6月2日に落慶した。正面3間奥行3間で正面左右2間、側面1間は跳ね上げ式の蔀戸で内側障子戸。

 

 

 

 

 

本堂の扁額「寂光院御再興黄門秀頼郷 為御母儀浅井備前守 息女 二世安楽也」だそうだ・・・・。

 

 

向拝から書院方向を見る。

 

 

本堂西側を見る。

 

 

本堂・向拝から境内および山門を見る。

 

 

書院。  山門を潜り境内の東側に建つ。

境内の庭園。 本堂前西側の風情ある庭園は『平家物語』にも描かれるもので、心字池を中心に千年の姫小松や汀の桜、苔むした石のたたずまいが好ましい風情をかもしだしている。
文治2年(1186)の春、建礼門院が翠黛山(本堂正面に対座する山)の花摘みから帰って来て、訪ねてきた後白河法皇と対面するところにも登場する。

 

汀の池。   後白河法皇が訪ねた時、徳子は山に出かけ留守だった。法王はこの池を見て「池水に汀の桜散りしきて 浪の花こそ 盛りなりけり」と詠んだといわれる。

 

 

汀の桜。

 

 

苔むした石塔の佇まいが千年の風情を醸し出す。

 

 

 

 

姫小松の切株。 平成12年(2000)に火災に遭い枯れ死してしまった。『平家物語』灌頂巻の大原御幸に「池のうきくさ 浪にただよい 錦をさらすかとあやまたる  中嶋の松にかかれる藤なみの うら紫にさける色」と伝わる松である。

 

 

書院から本堂に繋がる渡り廊下。 右手の東側に四方正面の池を見ることができる。

 

四方正面の池。  本堂の東側にある池で、北側の背後の山腹から水を引き、三段に分かれた小さな滝を設ける。池の四方は回遊出来るように小径がついており、本堂の東側や書院の北側など、四方のどこから見ても正面となるように、周りに植栽が施されている。

 

 

三段に分かれた小さな滝。 三段がわかれている情景が写真では判りずらい。

雪見灯篭。  夲堂に向かって右手前にある置き型の鉄製灯籠で、豊臣秀吉が本堂を再建した際に伏見城から寄進されたものと伝える。宝珠、笠、火袋、脚からなる。笠は円形で降り棟をもうけず、軒先は花先形とする。火袋は側面を柱で5間に分かち、各面に五三の桐文を透し彫りにし、上方に欄間をもうけ格狭間(ごうざま)の煙出とし、1面を片開きの火口扉とする。円形台下に猫足三脚を付けている。銘文等はないが、制作も優れ保存も完好で重厚な鉄灯籠である。

 

諸行無常の鐘楼。  本堂の正面の池の汀にある江戸時代に建立された鐘楼には、「諸行無常の鐘」と称する梵鐘が懸かっている。鐘身に黄檗宗16世の百癡元拙(1683-1753)撰文になる宝暦2年(1752)2月の鋳出鐘銘があり、時の住持は本誉龍雄智法尼、弟子の薫誉智聞尼で、浄土宗僧侶であった。鋳物師は近江国栗太郡高野庄辻村在住の太田西兵衛重次である。

 

 

茶室庭の中門。  山門へ上る階段の途中にある。

茶室「弧雲」。  京都御所で行われた昭和天皇の即位の御大典の際に用いられた部材を下賜され、それをもとに茶室を造り、昭和6年(1931)に千宗室宗匠をたのみ献茶式を催し、茶室開きを行った。
「孤雲」のいわれは、建礼門院のもとを訪れた後白河法皇が、粗末な御庵室の障子に諸経の要文とともに貼られた色紙のなかに、「笙歌遥かに聞こゆ孤雲の上 聖衆来迎す落日の前」という大江定基の歌とともに、「思ひきや深山の奥にすまひして 雲居の月をよそに見んとは」という女院の歌を御覧になって、一行涙にむせんだという『平家物語』の大原御幸のなかの一節にちなむ。

建礼門院徳子の御庵室跡。 本堂の北奥に女院が隠棲していたと伝えられている庵跡。現在は石碑が立つのみだが、御庵室跡の右手奥に女院が使用したという井戸が残る。壇ノ浦の合戦で平家が敗れたあと、建礼門院はひとり助けられ、都を遠く離れた洛北の地に閑居した。翌年、後白河法皇が訪れたときの庵室の様子は「軒には蔦槿(つたあさがお)這ひかかり、信夫まじりの忘草」「後ろは山、前は野辺」という有様で、「来る人まれなる所」であった。女院は平家一門の菩提を弔いながら終生を過ごした。

 

 

山門付近の苔の景色。

 

 

寂光院の門前の手前に草生を見渡すことのできる高台がる。一直線の石畳を上ると建礼門院の墓所と伝えられる大原西陵がある。

 

 

秋には沿道の紅葉が美しい。

 

 

建礼門院徳子大原西陵。

 

 

寂光院入り口を降りたところの様子。

 

 

案内図

 

 

 

御朱印

 

 

 

寂光院 終了

 

(参考文献) 寂光院HP フリー百科事典Wikipedia ほか

       

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


76 西本願寺 飛雲閣

2024-04-05 | 京都府

古寺巡り 西本願寺飛雲閣

 

 

 西本願寺の西南に滴翠園と名の付いた塀で囲まれた一画がある。そこに国宝・飛雲閣が建つ。

 飛雲閣は、三層柿葺の楼閣建築で、普段は非公開である。今回、「京都冬の旅」として敵翠園の特別公開が催されている。庭園と一体となった、日本を代表する建築の一であり、鹿苑寺舎利殿の金閣、慈照寺観音殿の銀閣、そして飛雲閣と京都の三閣の一つともいわれる。

 飛雲閣の歴史には定かな定説がなく、寺に遺る江戸時代初期の文書『紫雲殿由縁記』に豊臣秀吉の遺構だと記されていることから、聚楽第の遺構との説も広がったが確証はない。そのほかに本願寺により建てられたのではないかとする説や、豊臣秀吉の京都新城、後の高台院屋敷の「アコセガ池」畔から、後水尾上皇の仙洞御所造営に先立ち解体撤去され、本願寺に移築された建物との説もあるが、建築時期や建築理由など十分な説得性にも乏しい。この建物は、かなり謎の多い建物のようである。

 

 

参拝日    令和6年(2024)2月29日(木) 天候曇り

 

所在地    京都府京都市下京区堀川通花屋町下る門前町60
寺概略    省略 当ブログNO39 西本願寺参照。 

 

 

西本願寺に到着し、御影堂の前の門・御影堂門から境内に入る。御影堂の前に銀杏の大木。

 

 

西本願寺境内。 御影堂門方向を見る。

 

 

京都冬の旅・特別拝観の看板。

 

 

滴翠園案内図。               (京都埋蔵文化財研究所・本願寺と庭園より)

 

 

飛雲閣は、滴翠園という庭園に建つ建物でこの白壁塀に囲われている。拝観はこの門を潜ることになる。

 

 

門を潜るとすぐに目の前に滄浪池がありその奥に飛雲閣が凛とした姿を見せる。金閣も銀閣も入り口を入ってもなかなか姿を見せてくれないが、ここは直ぐにみられる。

 

 

滄浪池に写る逆さ飛雲閣も見どころ。

 

 

飛雲閣【国宝】。   初層は入母屋造りに唐破風と千鳥破風を左右に、二層は寄棟造りに三方には小さな軒唐破風を配し、三層は寄棟造りと実に複雑であるが変化に富んだ屋根になっている。

 

 

 

正面から見る。

 

二層、三層と建物は小さくなり、その中心も東に移るという左右非対称ながら巧みな調和を持つ名建築として知られている。全体的に柱が細く障子の多いことから、空に浮かぶ雲のようだということで、飛雲閣と名づけたといわれる。

 

 

一層は主室の招賢殿(しょうけんでん)と八景の間、舟入の間、さらに後に増築された茶室・憶昔(いくじゃく)からなる。二層は三十六歌仙が描かれた歌仙の間、三層は摘星楼(てきせいろう)と呼ばれている。

 

 

 

 

 

一層には、主室の招賢殿、八景の間、舟入の間と三室が配されている。

 

1階は池から船で直接建物内に入る形式の船入の間、上段・上々段を設けた主室の招賢殿、下段の八景の間、茶室・憶昔席(いくじゃくせき)などがある。舟入の間は書院造の「中門」に当たり、ここ以外に正式な入り口は見当たらない。正面の床下に船着き場と思われる階段が設けられている。正面の唐破風屋根の部屋は舟入の間となり、階段のところに船が横付けされ直接部屋にあがることができる。

 

 

 

 

 

1層に配された主室・招賢殿の内部。                  (西本願寺HPより)

 

 

一層の部屋・舟入の間。

 

 

一層の端には後の増築された茶室。

 

 

茶室・憶昔(いくじゃく)。  外壁が弁柄色で調和があるようなないような・・・・。

 

 

躙口のある南側の全景。                        (写真は西本願寺HPより)

 

 

茶室・憶昔の内部。  天井は網代仕上げ。                 (写真は西本願寺HP)

 

 

二層は、三方に小さな唐破風をつけた寄棟屋根。

 

二層の部屋は、歌仙の間と呼ばれ杉戸に三十六歌仙の肖像が描かれている。外面の杉戸にも三十六歌仙の肖像が描かれている。

 

 

 

 

 

二層の内部・歌仙の間。 華奢で繊細な外観と比べると豪華絢爛差がうかがえる。(写真は西本願寺HP)

 

 

三層は摘星楼と呼ばれ展望室のようだ。窓の蔀戸を開けると円障子が嵌めらている。円障子によって景観を際立たせて品格ある雰囲気が味わえるとのこと。

 

 

黄鶴台【国重要文化財】   飛雲閣から西にのびる渡り廊下で結ばれている、柿葺寄棟造りの床の高い建物。黄鶴台を降りれば別棟の浴室があり、西南隅に唐破風をもつ蒸風呂と鉄釜などがある。

 

 

横鶴台には浴室が設けられている。

 

 

黄鶴台の前に、むくり屋根の木橋・擲盃橋(てきはいきょう)。

 

 

西本願寺の西隣地は興正寺。飛雲閣・黄鶴台の撮影には少し邪魔だが外せない。

 

 

 

 

茶室露地門。左手に腰掛待合。

 

 

(左)木橋は茶室へ。(右)「龍脊橋」と名が付いた石橋を渡り招賢殿へ。 石橋は滄浪池が造られたときは無く江戸中に架橋された。

 

 

舟乗り場。小船で舟入の間に行く。

 

 

飛雲閣の姿が滄浪池に逆さに写る姿が良い。

 

 

滄浪池を巡る道は茶室へ。

 

 

滄浪池の西北側に広がる枯山水の庭と茶室「澆花亭(ぎょうかてい)」。左手前に文如による毫塚の「乾亨主人毫塚」がある。

 

 

西本願寺の境内から築地塀で一画をつくる。園路の右一帯は「艶雪林」と呼ばれ、七重石塔「俗風塔」があり、文覚上人の塔ともいわれ、江戸時代前期の寛永年間(1624-1643)に移された。

 

 

燈籠のようだが・・・・艶雪林に置かれている。

 

 

茶室・澆花亭。  外壁の弁柄色が鮮やか。  本願寺第十八代門主の文如が明和五年(1768)に飛雲閣の庭園整備の際に作った茶室。「青蓮樹」と名の付くもう一つ茶室が並んで建つ。

 

 

滴翠園入口の東側に小高い丘があり四阿が見える。

 

 

四阿に向かう途中にあった三輪石塔。

 

 

 

四阿の胡蝶亭。

 

 

円形の屋根に中心に皮付きの松丸太が使用され、そこから小丸太の垂木が扇状に広がる。小舞は竹で綺麗な円を作っている。

 

 

滴翠園の中の東南の角地に鐘楼が建つ。

 

鐘楼は、高さ約3mの石垣の上に建つ。西本願寺の梵鐘は、音が門前に響き渡るように築地塀に近く、より高いところに釣られた。建築年代の不明であるが、記録では江戸時代前期の慶長16年(1611)の親鸞聖人350回大遠忌に先立って改修し、その後2度にわたる移転があり現在の場所に移ったとあり、西本願寺では最も古い建物のようだ。平成10年(1998)に修復された。

 

 

 

 

 

西本願寺を訪ねたのは二月末、梅の花が目を楽しませてくれた。

 

 

虎之間の玄関。

 

 

北小路通り側の書院が建つ境内。

 

 

書院の玄関。

 

 

大玄関門。 北小路通に面して建つ。

西本願寺唐門【国宝】  平成30年(2018)10月4日(土)に参拝した時は、工事中で見られなかったので今回の飛雲閣の参拝時に、併せて拝観することができ充分堪能できた。黒漆、飾り金具、彫刻で飾られた絢爛豪華な門は、西本願寺の南端、北小路通りに面して構えられている。数多の彫刻で飾られた、荘厳華麗な桃山建築の門である。門としての様式は、二本の本柱の前後に二本ずつ、計四本の控え柱が立てられている四脚門。 こちらは境内側。

 

 

桃山時代の豪華絢爛な意匠。彫刻は唐獅子、麒麟、鳳凰、孔雀、松に牡丹といった縁起物の他、中国の故事などがモチーフとなっている。

 

 

 

 

 

 

 

境内側の門の右袖壁の透かし彫刻。古代中国の三皇五帝時代の故事を現わした。堯帝が許由の高潔な人柄を聞き、位を譲ろうとすると当の許由は箕山に隠れてしまった。許由をさらに高い地位で処遇しようとすると、許由は潁水のほとりで「汚らわしいことを聞いた」と川の流れで自分の耳をすすいだ故事に基づく。

 

 

境内側の左袖壁の透かし彫り。右壁の故事に続き、それを見聞きしていた伝説の隠者、単父が許由のエピソードを知り、汚れた水を牛に飲ませることはできないといって立ち去る故事を透かし彫りにしてた。

 

北小路通に面して建つ唐門を見る。日の暮れるのも忘れて見とれてしまうことから「日暮門」とも称される。日光東照宮陽明門も技巧的かつ重厚な装飾から日暮門と呼ばれるが、西本願寺唐門の装飾は力強く躍動的な彫刻に明るく華やかな彩色が魅力。平成30年(2018)に2年半をかけて、修理を行った。

 

檜皮で葺かれた入母屋屋根の前後に唐破風が付く向唐門。書院の正門として設けられたものだが、元は御影堂の前にあった御影門を、元和4年(1618)に現在位置へ移築したと伝えられている。なお、移築前は現在のような装飾が施されておらず、今に見られる姿となったのは、書院の改修が行われた寛永10年(1633)頃と考えられている。また、伏見城の遺構であったとも言われているが定かではなく、建立年代ははっきりしない。

 

 

 

 

 

大徳寺本坊の唐門、豊国神社の唐門と、こちらの唐門をを含めた三棟は、桃山様式の国宝三唐門として知られている。

 

本願寺伝道院【国重要文化財】  西本願寺境内の外の門前町の洋館。内部は通常非公開。日本の近代建築をリードしてきた、近代を代表する建築家・伊東忠太の設計による。イギリスの建物をイメージした赤レンガ風タイル張りの外観に、インド・サラセン風のドームを載せ、千鳥破風を石造りした日本建築の意匠など、さまざまな建築様式を取り入れた建物。明治45年(1912)本願寺第22代 鏡如上人 [1876~1948年]の依頼で、真宗信徒生命保険株式会社の社屋として竣工。現在は僧侶の教育施設として使われている。

 

西本願寺飛雲閣 終了。

(参考文献) 西本願寺HP フリー百科事典Wikipedia  閑古鳥旅行社HP

       五木寛之著「百寺巡礼」第一巻京都(講談社)