『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

73 長谷寺(鎌倉)

2024-01-05 | 神奈川県

古寺巡り 長谷寺(鎌倉)

 

 

長谷寺は、鎌倉の緑深い小高い山の中腹に広がり、「鎌倉の西方極楽浄土」と呼ばれている。諸堂のほか鎌倉の海や街並みが一望できる見晴台があり、相模湾の眺望がとても良い。梅雨の季節になると40種類2500株のアジサイが盛りとなり花の寺としても名高い。鎌倉大仏に近く、鎌倉でもトップクラスの景勝地である。

長谷寺の創建は奈良時代とされているが、中世以前の沿革は明確でなく、創建の正確な時期や経緯についても解明されていない。寺伝によれば、天平8年(736)、大和の長谷寺(奈良県桜井市=当ブログNO36)の開基である徳道を藤原房前が招請し、十一面観音像を本尊として開山した。

養老5年(721)に徳道は、大和国の山中で見つけた楠の大木から二体の十一面観音を造り、その一体が大和長谷寺の観音像となり、もう一体を祈請の上で海に流した。その15年後に三浦半島の長井浦に流れ着いた観音像を鎌倉に安置して開いたのが、長谷寺であるとされる。

当寺の梵鐘には、文永元年(1264)、当時の住職真光の勧進により鋳物師物部季重が造った旨の銘文があり、この頃には長谷寺が存在していたことと、当時は「新長谷寺」と呼ばれていたことがわかる。鎌倉時代にさかのぼる遺物としては他に弘長2年(1262)および徳治3年(1308)銘の板碑、嘉暦元年(1326)銘の懸仏などがある。

康永元年(1342)には、足利尊氏が伽藍と諸像の修復を行った。明徳3年(1392)には、足利義満が観音像の光背を修復し、行基の作という伝承のある像を前立として安置した。天文16年(1547)に、北条氏康の寄進を受け、天正19年(1591)には徳川家康から朱印状を受ける。慶長12年(1607)に、堂塔伽藍を改修し、正保2年(1645)にも酒井忠勝が堂宇を改修しているなど、歴代の権力者が長谷寺の伽藍や本尊の修造を行っている。


参拝日    平成30年(2018) 11月24日(土) 天候雲り

 

所在地    神奈川県鎌倉市長谷3-11-2                       山 号    海光山                                   院 号    慈照院                                   宗 旨    浄土宗                                   宗 派    浄土宗系                                  本 尊    十一面観音                                 創建年    天平8年(736)                              開 山    徳道上人                                  開 基    藤原房前                                  正式名    海光山慈照院長谷寺                             別 称    長谷観音                                  札所等    坂東三十三観音第4番ほか                          文化財    梵鐘、十一面観音懸仏(国重要文化財)

 

 

 

江の電長谷駅から鎌倉大仏の高徳院に向かう道の途中、左に入り長谷寺に向かう。土曜日ということもあり、長谷駅からの細い歩道は観光客であふれかえる。

 

 

長谷駅からの道を折れて長谷寺に向かう。

 

 

 

境内案内図。                            (長谷寺HPより)

 

 

 

山門。  力強さを感じる黒松が門にかぶさる。山門の出入りは出来ない

 

 

銅板葺き屋根の四脚門で、関東大震災に倒壊し再建されたもの。

 

 

長谷寺の扁額。

 

 

長谷大観音と記された石碑。

 

 

 

境内の入り山門方向を見る。 長谷寺の境内は、階段によって下の境内と上の境内と分かれている。

 

 

 

妙智池。 下の境内には、二つの池があり左手が妙智池。右手に放生池。

 

高山樗牛住居碑 。     山門を入って左手に立つ。明治期の思想家高山樗牛は病没する直前の明治34年(1901)頃、長谷寺境内に住んだことがあり、昭和34年(1959)にこれを記念する碑が建てられた。 巨木はクスノキの種で椨の木(たぶき)。

 

 

手水石。  ここで身を清め階段を上り観音堂(本堂)に向かう。

 

 

階段の途中から、下の境内の山門のあたりを見る。 階段を上り上の境内にいく。

 

 

観音堂は小高い丘の中腹にあり階段を上る。参道にはもみじの木が茂るが紅葉の時期にはまだ早い

 

 

 

参拝客が立ち止まって見る。見る人みんな優しい顔になっている。

 

 

良縁地蔵。   ほっこりした石地蔵がいい雰囲気。

 

 

花の寺でもある。11月下旬は椿に癒される。

 

 

地蔵堂。

 

 

鐘楼。   梵鐘は(国重要文化財)、『文永元年甲子7月15日新長谷寺』の銘文がある。本鐘は観音ミュージアムに収蔵され、鎌倉四大古鐘の一つ。現在のは新たに鋳造したもの。 

 

 

階段を上り本堂のある上の境内に。

 

 

境内からは、相模湾の海がよく見える。

 

 

 

 

 

阿弥陀所来像(厄除阿弥陀)。  本堂の右隣りの阿弥陀堂に安置されてる仏像。源頼朝が42歳の厄除けのために建立したと伝えられるが、実際には室町時代に作らっれたもの。元々は同じ長谷の廃寺になった誓願寺の本尊だったと言われる。鎌倉六阿弥陀の一つ。

 

 

 

観音堂(本堂)の向拝を見る。



 

 

 

 

 

観音堂(本堂)。   長谷観音と呼ばれる十一面観音立像を安置する。奈良の長谷寺の観音像と同じ、右手に数珠と錫杖、左手に水瓶を持つ長谷寺式の像容である。

 

十一面観音像【国重要文化財】  長谷寺式十一面観音像で、高さ9m18㎝で室町時代の作。 奈良・長谷寺の十一面観音と同じ霊木から彫られたと言われる。不空羂索観音と地蔵菩薩の化身である2人の仏師が三日三晩でクスノキの大木から二体の十一面観音像を彫って一体を奈良・長谷寺に祀り、開眼供養をした行基さんがもう一体を海に流した。その観音像が三浦半島に流れ着いたと言われている。(江の島・鎌倉ナビHPより)。

 

 

観音堂(本堂)。

 

 

 

仏足石。  釈迦の足裏を石に刻み信仰の対象とした。

 

 

 

観音堂の左手に位置する観音ミュージアム。  長谷寺の宝物館施設。

 

 

経堂。    上の境内の観音ミュージアムの左に位置する。

 

 

 

 

 

堂の中に鎮座する輪蔵(まわり堂)を自分の手で一周廻すと、一切経といって仏教の全経典を読んだのと同じ功徳が得られる。

 

 

 

上の境内を経堂側から見る。

 

 

 

経堂側にある庭園。

 

 

 

見晴らし台。 一休みできる見晴らしの良い場所。

 

 

見晴らし台から見る相模湾と鎌倉の街の風景。

 

 

 

書院入り口。  下の境内に戻り書院の一画を参拝する。

 

 

 

大黒堂。  扁額は出世大黒天とある。

 

 

辨天堂のある辨天窟。  弘法大師が参籠した洞窟と伝えられている。

 

 

 

洞窟内の「二臂の弁財天と十六童子」の壁面彫刻は、昭和42年(1967)に寄進されたもので、出世弁財天として崇められている。

 

 

平成25年(2013)に竣工した書院にあわせ、枯山水の庭園が造られた。地表には苔を貼り、複数の巨石を立て砂紋は水紋とし、渓谷を流れる川の水を表現している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

帰りの山門を内側から見る。

 

 

 

山門の前は広場になっており、秋の行楽日和で大勢の観光客がたむろする。

 

 

 

帰りは江の電に乘って長谷駅から藤沢駅に向かう。 江の電の車内から見た七里ガ浜の海。

 

 

車窓からは、江の島も見える。

 

 

案内図。

 

 

 

御朱印

 

 

 

長谷寺(鎌倉) 終了

 

(参考文献) 長谷寺HP フリー百科事典Wikipedia 

 

 

 


72 鑁阿寺

2024-01-02 | 石川県

古寺巡り 鑁阿寺

 

 

快晴で風が少し吹いている師走の日曜日。北関東の寺巡りで、熊谷の歓喜院と足利の鑁阿寺を参拝することにした。

鑁阿寺は、鎌倉時代、建久七年(1197)に、足利義兼によって建立された。足利氏の守り本尊である大日如来を祀る。約4万㎡に及ぶ敷地は、元々は足利氏の館であり、平安時代後期の武士の館の面影が残されている本堂とともに、四方に巡らされた堀と土塁、四方の門が残されている。


寺院としては、鎌倉時代初期、建久7年(1196)源姓足利氏2代目の足利義兼が発心得度し、邸宅内に持仏堂を建てたのが始まりとされる。義兼死後、その子義氏が建立した本堂は、寛喜元年(1229)に落雷により、焼失したが、足利尊氏の異母兄で、足利宗家7代目の足利貞氏が禅宗様式を取り入れ改修した。日本としては禅宗様式への転換期の最初期にあたる。

鎌倉時代から室町時代にかけて寺院として次第に整備され、室町将軍家、鎌倉公方家などにより、足利氏の氏寺として手厚く庇護された。
 
境内には、歴史的な建造物が多数あり、彫刻や文書、美術工芸品など、中世来の貴重な宝物類も多数残され、今に伝わっている。

なお、鑁阿寺の名称は、開基の足利義兼が、晩年に出家した際に「法華坊鑁阿」と号したことによる。

 

参拝日    令和5年(2013)12月17日(日) 天候晴れ

 

所在地    栃木県足利市家富町2220                          山 号    金剛山                                   院 号    仁王院                                   宗 旨    新義真言宗                                 宗 派    真言宗豊山派ー真言宗大日派                         寺 格    本山                                    本 尊    大日如来                                  創建年    建久7年(1196)                              開 基    鑁阿(足利義兼)                              正式名    金剛山仁王院法華坊鑁阿寺                          別 称    大日様                                   札所等    関東八十八箇所第16番                            文化財    本堂(国宝) 鐘楼、経堂ほか(国重要文化財)

 

 

境内図。

 

 

 

四方の巡らされた堀と土塁。お寺というより館。こちらは東側。

 

 

 

南側の堀。

 

 

 

 

 

山門の前にある屋根付けの太鼓橋。

 

 

 

 

 

 

 

太鼓橋と山門。

 

 

山門。  三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺の造り。 建てられたのは本堂と同じ時期だが、現在の建物は永禄7年(1564)に13代将軍 足利義輝の再建となる。唐様という建築様式の楼門。鎌倉時代に建てられた本堂や鐘楼と比べると、彫刻や屋根の形態が異なり、後の年代に建てられた特徴がある。

 

太鼓橋。  桁行 780.0cm  梁間 339.0cm。 唐破風桟瓦葺。 江戸時代の創建。鑁阿寺正面入り口の堀に掛けられた反り橋。内部の天井は格天井に仕上げ。堀の縁石には切石の橋脚が利用されている。江戸時代後期の建造物で、背面の楼門とのつり合いもよくとれている。

 

 

礎盤の上に柱を建て、上層には高欄という手すりを廻した。三ツ斗組とした楼門造。両脇には仁王像(鎌倉時代に運慶により彫り込んだと伝えられている。阿形、吽形像)が安置されている。

 

 

金剛山の扁額。

 

 

 

太鼓橋の上屋の唐破風。 鬼瓦、互にはそれぞれに足利家の家紋。

 

 

 

三ツ斗組とした楼門造り。

 

 

 

 

 

 

太鼓橋から門前の市街まちなみを見る。

 

 

 

山門から市街を見る。

 

 

 

山門を振り返り見る。

 

 

 

門を潜ろ境内を見る。

 

 

手水舎。

 

 

本堂【国宝】     入母屋造、本瓦葺き。桁行5間、梁間5間(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を指す)。正安元年(1229)の建立だが、応永14年(1407)から永享4年(1432)の間に大規模な改造が行われ、この時に柱をすべて入れ替え、正面に向拝を付した。

 

 

平面構成は前方2間分を外陣、後方3間分を内陣及び脇陣とする密教仏堂の形式だが、建築様式は禅宗様を基調とする。禅宗建築の特徴の一つに屋根先の反りがるが、残念ながら写真から切れてしまった。

 

 

乗せられた鬼瓦。

 

 

組物を詰組とし、柱に粽(ちまき)を設け、扉を桟唐戸、壁を竪板壁とする点などは禅宗様の要素だが、組入天井、板敷の床など和様の要素もある。向拝の水引虹梁に下がる明和年間(1764~1772)鋳造の鰐口がある。

 

 

向拝は応永14年(1407)から永享4年(1432)の間に大規模な改造が行われ、紅梁や組み物などはその際に新増設されたもの。

 

 

 

外陣に向かって正面には、障子が建て込まれその外に唐桟戸が建て込まれている。

 

 

 

向拝の正面。

 

 

 

外陣を見る。

 

 

 

向拝から境内を見る。

 

 

 

密教寺院における禅宗様仏堂の初期の例として、また関東地方における禅宗様の古例として貴重である。

 

 

 

雨受け甕。

 

 

 

本堂の側面を見る。

 

 

 

本堂の背面を見る。

 

 

 

背面から本堂と不動堂を見る。

 

 

 

本堂の足利家の家紋「足利二つ引両」の入った鬼板。懸魚は三つ花懸魚。

 

 

 

不動堂の鯱。鬼板は獅子?だろうか?

 

 

 

不動堂【足利市指定重要文化財】   鎌倉時代初期の建久7年(1196)に足利義兼が建立したのがはじまりとされ、安土桃山時代の文禄元年(1592)に生実御所国朝が再建。本尊は平安時代作の不動明王像で、興教大師が彫り込んだ像を成田山から勧請してきたとされる。

 

 

向拝の屋根の造りを見る。

 

 

 

大酉堂。  足利尊氏を祀るために建立された堂で、明治中期からは、大酉大権現を本尊とした。

 

 

 

大黒堂。  本堂の北側に位置し、宝暦2年(1752)に再修されたれた校倉風の建物。寺の宝物が収蔵されていた。

 

一切経堂【国重要文化財】    経典を納めた堂。元は足利義兼の創建だが、現存の建物は足利満兼により応永14年(1407)に再建されたもの。堂内部の中央には一切経2千巻余りを収めた、高さ15m程の八角型の輪蔵(経棚)がある。その取っ手を押して1回転させると、経典をすべて読んだのと同じ御利益があるといわれる。 

 

 

瓦屋根の軒先。

 

 

多宝塔【栃木県指定文化財】    金剛界大日如来本尊前と勢至菩薩(二十三夜尊)が祀られている。現在の建物は徳川5代将軍綱吉の母・桂昌院により、元祿5年(1692)に再建されたもの。しかし、調査時に寛永6年(1629)銘のものが発見され、築年代は更にさかのぼることが判明した。ちなみに徳川家は上野国新田の一族徳川氏を遠祖としており、近隣の徳川郷(現、群馬県太田市)をその祖先の地としている。塔内には足利家の大位牌と、徳川歴代将軍の位牌も祀られている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大銀杏の木と多宝塔。

 

 

 

大銀杏。  多宝塔の前に位置する、県指定の天然記念物。樹齢550年前後といわれいる。 

 

 

 

大銀杏と多法塔の前にある焼香場。

 

 

鐘楼。      鎌倉時代に建立。四方吹き放ちの桁行3間、梁間2間、袴腰附、入母屋造、本瓦葺。本堂と同じ建久7年(1196)に建てられたが、後に、再建されてやが、その時期は不明。中央に、江戸時代の天明鋳物の鐘が吊り下げられている。木鼻や斗栱(ときょう)をはじめ、建物の形状やそのつくり方など、全体に鎌倉時代の禅宗様建築の特色がよく現われている大変珍しく貴重な建物。

 

 

 

 

 

御霊屋。    境内の北西に位置し、校倉の宝庫及び蛭子堂と並んで建っ。本殿は桁行 200.0cm、 梁間 130.0cm。 拝殿が桁行570.0cm、梁間 388.0cmと二つの棟からなり、長 28.47mの塀に囲まれている。江戸時代後期に11代将軍 徳川家斉の寄進により再建されたと言われる。

 

 

 

正門に棟門を設けて瑞垣という板塀で囲み、その中に拝殿を建て、その後方に本殿を配している。

 

庭園。  池泉式回遊庭園は、境内の木々の間に鐘楼が建ちその奥に、心字池を中心とした庭園が広がっている。 心字池は大小の石を組み合わせ、太鼓のように湾曲した石橋と平の石橋の二の橋がかけられている。池の両端にそれぞれ雪見燈籠が設けられ、地面は苔に覆われ池と石と橋と燈籠で風情のある庭園となっている。写真ではその風情を表せなく残念ではある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東門側に竹林。

 

 

 

東門。   中央の山門の他に、東北西にそれぞれ門がある。

 

 

 

案内図

 

 

御朱印

 

 

 

鑁阿寺 終了

 

(参考文献) 鑁阿寺HP フリー百科事典Wikipedia (ブログ)何気ない風景とひとり言