『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

29 正法寺

2023-09-05 | 岩手県

古寺を巡る 正法寺

 

 

 

参拝日    平成30年(2018)6月21日(木) 天候曇り

 

所在地    岩手県奥州市水沢黒石町字正法寺129                     山 号    大梅拈華山                                  宗 旨    曹洞宗                                    本 尊    如意輪観音                                  創建年    貞和4年(1348)                               開 山    無底良韶                                   文化財    総門、法堂、庫裡(国重要文化財)

 

正法寺は、黒石寺から3kmほどの先にある古寺。こちらの寺の認識はなかったが、知り合いから黒石寺まで行くなら直ぐ近くに有名な古寺がるからと聞き、参拝することになった。

正法寺は南北朝時代の貞和4年(1348年)に 無底良韶が曹洞禅の禅堂を建てたのがはじまり。東北地方で初の曹洞宗寺院となった。無底は、これに先立ち、康永元年(1342)に師である峨山韶硯から。開祖道元が中国から持ち帰った袈裟「僧伽梨(そうかり)」を授けられている。これは、道元から峨山まで、連綿と伝承されてきたものであって、これを授けるということは峨山門派を無底良韶が継承することを示唆していた。正法寺が開創されて2年後の観応元年(1350)に崇光天皇が、「出羽奥州両国における曹洞の第三の本寺」として、住職に紫衣の着用が許された。

その後、康安元年(1361)に13年の歳月を経ても跡を継ぐ門弟がないまま無底良韶が死去。そのため、師の峨山が、弟弟子の月泉良印に正法寺を継がせた。このとき、「正法寺は末代まで奥羽両州曹洞の本寺たるべし」とする書状を月泉良印に与えている。月泉は40年にわたってその住職をつとめ、正法寺発展の基礎をきずいた。東北地方に曹洞宗の拠点ができたことによって、布教は進み、月泉良印は「月泉四十四資」といわれる弟子を輩出することとなる。岩手県南部や宮城県を中心に次々に末寺が開かれることとなり、その数は508とも1200とも言われた。元和元年(1615)幕府法度により、本寺の格を失い、現在は72の末寺を持つのみである。正法寺は火災が多く、文安元年(1444)から寛政11年(1799)までの6回を記録している。寛政11年の最後の火事は、月泉良印の400回忌の当日に庫裏から出火したもので、惣門、土蔵、宝蔵を残すのみでほぼ全焼してしまった。このときは、仙台藩の庇護を受けていて、復興は仙台藩が行うことになっていたが、藩側も財政がひっ迫しており、50年経って、本堂と庫裏は再建された。仙台藩は、スポンサーような存在だったらしく、藩が関わったものには、藩の家紋が随所に入れられている。しかし、仏殿と山門は修理されず今日に至る。

 

 

正法寺の入り口。

 

総門【国重要文化財】切妻作り、とち葺の四脚門で寛文5年(1665)仙臺大工棟梁新田作兵衛による建築。寺院の四脚門としては岩手県最古の遺構。

 

 

 

 

 

掲げられた扁額は「大梅拈華山」。

 

 

蛇紋岩の石段はかなり急だが、古刹の風格を感じさせる。

 

 

石段を登り切り総門を振り返る。

 

 

法堂【国重要文化財】 仙台藩による造営で、江戸時代後期に再建されたもの。当初は「客殿」と称していた。入母屋造、茅葺き。正面30m、側面21mの大規模な建築である。本堂の茅葺屋根は、屋根の高さ約26m、勾配49度、面積は720坪と日本一の茅葺屋根を誇る。

 

 

元々、かなり多くの堂宇が建っていたようだ。その一つの仏殿の跡。

 

 

境内を見る。

 

 

茅葺の屋根の大きさが際立つ。

 

法堂  文化8年(1811年)に創建された。棟には伊達家の家紋、竹に雀、三引両、九曜がついている。仙臺伊達藩から寺領を受け、また建物の修復を受ける等別格の待遇を受けており、伊達家は正法寺にとって大檀越だったことを示している。

 

 

散る妻屋根の妻側には木彫りの飾り物が取り付けられている。

 

 

 

 

法堂正面。

 

 

 

法堂の庇下。大きな屋根は細かい間隔で地垂木と軒先側に飛燕垂木と二重に垂木が施され深い軒を造り出している。

 

 

正面入り口の扁額「円通正法寺」。

 

 

 

 

 

本堂の内陣を見る。

 

 

法堂とは住職が佛祖に代わって説法する道場。室内中央の須弥壇には本尊の如意輪観世音菩薩を祀る。

 

 

 

涅槃図 寛政年間頃(1700頃)の作品で伊達家からの寄進物。縦約4m、横約5mの大作。釋尊80歳の時、クシナガラの地で病に臥し、8本の沙羅双樹の間に北枕で右脇を下にして身を横たえ入滅される姿を描いたもの。周囲には嘆き悲しむ菩薩、弟子、天人、俗人、様々な動物たちが描かれており、右上には釋尊の母、摩耶夫人が飛来している。8本の沙羅双樹の中を選ばれたのは、佛の自在神力を示すためで、4本の沙羅双樹は最後の説法が終わるとたちまち枯れ、他の4本は青々と栄えたと言われる。これを四枯四栄といい、釋尊の肉体は涅槃に入りたもうとも、説かれし佛法は後世に残り栄えることを示す。毎年2月15日の涅槃会の時に開かれる。

 

釈迦三尊像 本来であれば佛殿に安置される三尊佛だが、寛政11年(1799)に火災に遭い、その後は佛殿は再建されず、法堂西序室中の上段に仮安置し現在に至っている。その為、現在は法堂西の間を佛殿としている。中央は釋迦牟尼如來、右は獅子座に乗る智慧の象徴の文殊菩薩。左は象座に乗る普賢菩薩は慈悲の実行の象徴の菩薩。

 

 

庫裡 寛政11年(1799年)頃に建築され、間口約33m、奥行約17mで、法堂に次ぐ規模の大きな茅葺の建物。

 

 

 

 

開山堂【岩手県指定有形文化財】 嘉永2年(1849)頃の再建。

 

 

開山堂への階段回廊。

 

お堂正面には永平寺開山道元禪師像、總持寺開山瑩山禪師像、總持寺二祖で正法寺開山の無底禪師の師匠にあたる峨山禪師像、歴代山主(住職)のお位牌をお奉りしている。

 

 

両脇には、釋尊の弟子で悟りを開かれた、特に優秀な16人の弟子である十六羅漢像が安置されている。

 

 

庭園。

 

 

開山堂から報道を見る。

 

 

 

 

庫裡・鐘楼堂【国重要文化財】江戸末期の建築で現在も定刻に時を知らせる梵鐘を一日も休むことなく撞いている。庫裡は寄棟造の160坪近い大建築で、応接間、尚事寮(寺務を司る)、旧典座寮(食事を司る)など様々な機能を持つ建物。

 

 

境内の様子。

 

 

案内図  東北新幹線水沢江刺駅から11.2km  東北自動車道奥州スマートICから12.7km

 

 

御朱印

 

 

正法寺 終了

 


29 黒石寺

2023-09-03 | 岩手県

第64番 黒石寺

薬師如来像に浮かぶ苦渋の色

 

 

中尊寺の参拝を終え、車で30分から40分くらいだろうか田た畑の道を通り、かなり山間部に入ったところにある黒石寺の参拝である。

黒石寺 天平元年(729)東北初の寺院として行基が開いたとされる。東光山薬師寺と称していたが、延暦年間(782~806)に、蝦夷征伐による兵火により焼失。その後大同2年(807)に坂上田村麻呂により再興され、嘉承2年(849)円仁(慈覚太師)が中興して現在の寺号となったとされる。もとは修験(山伏)の寺であり、最盛時には48の伽藍があったと伝えられ、一帯には多くの寺跡がある。現在の本堂と庫裏は明治17年(1884)に再建された。

 

参拝日    平成30年(2018)6月21日(木) 天候曇り

 

所在地    岩手県奥州市水沢黒石町字山内17                                                                                山 号    妙見山                                    宗 旨    天台宗                                    本 尊    薬師如来                                   創建年    天平1年(729)                                開 山    行基                                     正式名    妙見山黒石寺                                 札所等    奥州三十三観音霊場第25番                           文化財    木造薬師如来坐像、木造僧形坐像、木造四天王立像(いずれも国重要文化財)

 

 

黒石寺の参拝口。

 

 

 

 

 

 

 

参道の石段を上れば本堂。

 

 

階段を上り切って平たんな境内。

 

 

本堂(薬師堂)を脇から見る。

 

 

現在の本堂(薬師堂)と庫裏は、明治17年(1884)に再建された。

 

 

木造平屋建て、寄棟、銅板葺き、平入、桁行8間、張間5間、正面1間向拝付き、内部には本尊である薬師如来像が安置されている。

 

 

向拝の屋根庇の飾りを見る。斗供は質素であるが、向拝紅梁には龍の彫刻が施されている。

 

 

扁額は「薬師如来」と書かれている。

 

向拝を横から。かなり点込んだ彫刻を施した手狭。海老紅梁にも彫刻が施されている。

 

 

向拝を内側から。紅梁の上に龍がいるように見える。

 

 

これが内側からの龍の彫刻。かなりリアル。

 

 

広縁を見る。

 

 

木造僧形坐像【国重要文化財】   カツラ(あるいはシウリザクラ)材の一木造り、膝裏の部分に永承二年(1047)の墨書銘がある。古くは、寺域の大師山のお堂に安置してあったものである。像高67cm。

 

 

薬師如来坐像【国重要文化財】  カツラ材の一木造り、内刳りを施した像内には、貞観四年(862)の墨書銘が記されている。男性的で厳しい顔立ち、いかつく張った両肩、厚く幅の広い両膝、無造作に刻む衣文など、いかにも北方の奥地の作らしい雄大な像である。  像高126cm。

 

 

本堂の裏側。

 

 

釈迦観音堂。建物が新しく感じられ近年になって建立されたもののようだ。

 

 

妙見堂  本堂の脇から石段を上る。入り口に奉納された鋳鉄製の剣。

 

 

 

 

御供所兼鐘楼
明治16年(1883)に建てられた。1階が本尊に供える供物を準備する御供所、2階には200文字の漢文で黒石寺の由緒が刻まれている梵鐘が納められている。

 

 

 

 

 

 

 

 

土塀の中は庫裡。

 

 

庫裡・寺務所への入り口門。お寺というより武家屋敷の門を思わせる。

 

 

庫裡の中庭。

 

 

住職の居住スペースでいわゆる一民家。

 

 

庫裡であり寺務所でもある建物。

 

 

庫裡の入り口の軒下。

 

 

住職の居住屋と思う。

 

 

雰囲気のある石垣と土塀。

 

 

境内の庭。

 

 

石段を下り帰路となる。

 

 

付近の様子で、この道路の奥3キロ先に正法寺がある。

 

 

黒石寺で、毎年旧暦正月の7日に行われる蘇民祭は、裸の男と炎の祭とし、災厄を払い、五穀豊穣を願う裸参りに始まり、柴燈木登、別当登、鬼子登と夜を徹して行われる。翌早暁にかけて繰り広げられる蘇民袋の争奪戦は、この祭のクライマックス。厳寒をものともせず裸の男達のエネルギーが激しくぶつかり合う祭りである。(写真はネットから借用)

 

 

 

案内図  東北本線陸中折居駅から約6.5km  東北新幹線水沢江刺駅から約8.2km

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」からーーー黒石寺の仏像を拝して感じたのは、同じ岩手の寺でも、中尊寺の仏像とはまったくちがう系統だということだった。中尊寺の金色堂に安置されている阿弥陀如来像は、藤原氏が京都の一流の仏師につくらせて、みちのくに運んだものだ。そのため、中尊寺の仏像は、京風文化の特徴を忠実に伝えているといわれる。その表情は慈悲にみちていて、いかにも優美なものだった。だが中尊寺より時代をさかのぼる黒石寺の仏像は、ひょっとすると、地元の人びとの手でつくられたのではないか、とさえ感じさせる。先住民である蝦夷と接しながら、みちのくのきびしい風土の中で生きる人びとの意識が、この特異な作風のなかに表れている。そんな気がしないでもない。京都や奈良の大寺に比べると、いまの黒石寺は非常に慎ましく小さな寺だ。だが、この寺がここに存在する背景には、西と東の大きな歴史のドラマが横たわっているのではないか。黒石寺の仏像は、無言のうちにそれを物語っているような気がしてならなかった。

 

 

御朱印

 

 

黒石寺 終了

 


28 中尊寺

2023-09-02 | 岩手県

第26番 中尊寺

みちのくの黄金郷に鳴る青い鐘

 

 

一度は参拝したいお寺の一つが、この中尊寺である。黄金の堂ということで中尊寺より金色堂が名が知られているが、金色堂を除けば中尊寺全体は、煌びやかさは無く素朴なお寺にしか見えない。

中尊寺は嘉祥3年(850)、比叡山延暦寺の高僧慈覚大師円仁によって開かれた。その後、12世紀のはじめに奥州藤原氏初代清衡公によって大規模な堂塔の造営が行わる。清衡公の中尊寺建立の趣旨は、11世紀後半に東北地方で続いた戦乱(前九年・後三年合戦)で亡くなった生きとし生けるものの霊を敵味方の別なく慰め、「みちのく」といわれ辺境とされた東北地方に、仏国土(仏の教えによる平和な理想社会)を建設する、というもの。それは戦乱で父や妻子を失い、骨肉の争いを余儀なくされた清衡公の非戦の決意でもあった。

清衡公は長治2年(1105)より中尊寺の造立に着手。まず東北地方の中心にあたる関山に一基の塔を建て、境内の中央に釈迦・多宝如来の並座する多宝寺を建立し、続いて百余体の釈迦如来を安置した釈迦堂を建立。この伽藍建立は『法華経』の中に説かれる有名な一場面を具体的に表現したもの。

清衡公は釈迦如来により説かれた法華経に深く帰依し、その平等思想に基づく仏国土を平泉の地にあらわそうとした。清衡公は『中尊寺建立供養願文』の中で、この寺は「諸仏摩頂の場」であると述べている。この境内に入り詣でれば、ひとりも漏れなく仏さまに頭を撫でていただくことができる。諸仏の功徳を直に受けることができる、という意味。法華経の教えに浄土教や密教を加え大成された天台宗の教えに基づく伽藍が境内に建ち並び、その規模は鎌倉幕府の公的記録『吾妻鏡』によると、寺塔が四十、禅坊(僧の宿舎)が三百におよんだという。

 二代基衡公は、父の志を継いで薬師如来を本尊とする毛越寺の造立をすすめ、三代秀衡公は阿弥陀如来を本尊とする無量光院を建立した。三世仏(過去釈迦、現世薬師、未来世阿弥陀)を本尊とする三寺院の建立は、すべての生あるものを過去世から現世さらに未来世にいたるまで仏国土に導きたいという清衡公の切実な願いの具現でもあった。

平泉はおよそ100年近くにわたって繁栄し、みちのくは戦争のない「平泉の世紀」だった。しかし、平氏政権を倒した源義経が、兄頼朝と対立し平泉に落ちのびて間もなく、義経を保護した秀衡公が病死すると、四代泰衡公は頼朝の圧力に耐えかね義経を自害に追い込むことになった。その泰衡公も頼朝に攻められ、文治5年(1189)奥州藤原氏は滅亡した。

 鎌倉時代以降、大きな庇護者をうしなった中尊寺は次第に衰退し、建武4年(1337)の火災で惜しいことに多くの堂塔、宝物を焼失した。しかし国宝建造物第1号の金色堂をはじめ、建築、絵画、書跡、工芸、彫刻、考古、民俗の各分野にわたる文化遺産が現在まで良好に伝えられ、東日本随一の平安仏教美術の宝庫と称されている。平成23年(2011)に中尊寺を含む「平泉の文化遺産」が世界文化遺産に登載された。

 

参拝日    平成30年(2018)6月21日(木) 天候曇り

 

所在地    岩手県西磐井郡平泉町衣関202                        山 号    関山                                     宗 旨    天台宗                                    寺 格    東北大本山                                  本 尊    釈迦如来                                   創建年    嘉祥3年(850)                                開 山    円仁(慈覚大師)                               札所等    奥州三十三番観音番外札所                           文化財    金色堂、金色堂堂内諸像および天蓋(国宝)、金色堂旧覆堂(国重要文化財)   

 

 

中尊寺境内地図。

 

 

中尊寺参道入り口。あまりにも質素な感じ。

 

 

中尊寺の参道入り口を振り返る。

 

 

参道はけっこの距離がありだらだらの坂を上るが、険しい坂ではない。

 

 

表参道月見坂と呼ばれる参道。中尊寺は標高130メートルほどの東西に長い丘陵に位置しているため、この坂が古くから本堂・金色堂へと参拝する人々の表参道として利用されてきた。 

 

 

 

 

老杉と山の空気が作り出す荘厳な雰囲気に浸りながら足をすすめると、右手には奥州藤原氏に縁の深い束稲山・北上川・衣川を眺望することがでる。古の俳人芭蕉翁をはじめ多くの旅人がここで足を止め眼下に広がるその光景を眺め、在りし日の平泉の栄華に想いを馳せたに違いない。

杉木立のあいだから降り注ぐ、初夏の強い日射しに照りつけらながら月見坂をのぼっていく。この坂をのぼりきれば、中尊寺の伽藍が見えてくるはずだ。(五木寛之著「百寺巡礼」から)。

参道の両脇には、江戸時代に伊達藩によって植樹された樹齢300年を数える多くの老杉が木陰を作り参拝客を迎える。

 

 

地蔵堂  明治10年(1877)の再建のお堂で、本尊は地蔵菩薩。

 

 

中尊寺の境内は入り口から一番奥の金色堂まで、一本道の参道で両側に堂宇が建てられている。参道の中間に店やお休み所がありその右手に本堂が建つ。

 

 

本坊表門【岩手県指定文化財】 本堂の正面に建つ表門となる薬医門式。伊達兵部宗勝の屋敷門を移築したものと伝えられていまるが、移築のいきさつは定かではない。

 

 

 

表門は木の丸太をそのまま使った構造で粗々しいが素朴な感じのがする。

 

 

細部。

 

本堂 中尊寺というのはこの山全体の総称をいい、本寺である「中尊寺」と山内17ヶ院の支院(大寺の中にある小院)で構成される一山寺院となっている。本堂は一山の中心となる建物で、明治42年(1909)に再建された。古くから伝わる法要儀式の多くはこの本堂で勤められる。 

 

 

手水石。

 

 

本堂の前に形のいい松の木。

 

 

 

本堂の向拝の軒先と彫刻を施した向拝紅梁。

 

 

向拝の様子。

 

 

向拝から境内を見る。

 

本堂の外陣 中尊寺は天台宗の天本山であり、本尊の両脇にある灯籠には、宗祖伝教大師最澄以来灯り続ける「不滅の法灯」が護持されている。

 

 

本堂の広縁。

 

 

中尊寺の扁額。

 

 

本堂の外陣を見る。

 

本尊は丈六の釈迦如来。像高約2.7m、台座・光背を含めた総高は5mに及ぶ尊像。中尊寺の大壇主藤原清衡公が「丈六皆金色釈迦」像を鎮護国家大伽藍の本尊として安置したことにならい平成25年(2013)に造顕・開眼供養された。

 

 

内部の欄間は天女象の彫刻欄間。

 

 

鐘楼。

 

 

本堂の前。

 

 

不動堂への入り口。

 

不動堂 昭和52年(1977)建立の祈祷堂。御本尊の不動明王は天和4年(1684)に、仙台藩主伊達綱村公により天下泰平を祈願し新調された。不動明王は、邪を破り、我々の過ちを正してくれる仏様で、少々厳しいお顔をされている。

 

 

峯薬師堂 境内の別峯に建っていたが、度重なる野火にあい、元禄2年(1689)に現在地に移された。

 

 

境内の小道。

 

 

 享和2年(1802)の再建で、本尊は金剛界大日如来。

 

旧鐘楼  康永二年(1343)に、金色堂別当頼栄の発願により鋳造された盤渉調の梵鐘。銘文には建武四年(1337)、山内の堂塔が火災により焼失した旨を刻し、奥州藤原氏以後の歴史を伝える貴重な資料となっている。鐘の径は86㎝。

 

讃衡蔵 奥州藤原氏の残した文化財3000点あまりを収蔵する宝物館。平安期の諸仏、国宝中尊寺経、奥州藤原氏の御遺体の副葬品などが納められている。平安時代奥州藤原氏によって造営された、往時の大伽藍中尊寺の様子を見ることができる。

 

 

金色堂への参道。

 

 

 

 

 

 

 

 

中尊寺と言えばこのアングルで金色堂。

 

新覆堂 この建物が金色堂ではなく、金色堂を覆う建物で鉄筋コンクリート造で、昭和40年(1965)に竣工した。

 

 

 

 

 

金色堂を見るため、この入り口を潜る。内部は撮影禁止。 

 

 

 

新覆堂の平面図  新覆堂を設計した「大岡實建築研究所」のHPより引用。

 

 

 

金色堂【国宝】 中尊寺創建当初の姿を今に伝える唯一の建物で、天治元年(1124)に上棟した。堂の内外に金箔を押した「皆金色」の阿弥陀堂。また国宝建造物第1号に指定された。

 

堂内の装飾は、4本の巻柱や須弥壇(仏壇)、長押にいたるまで、白く光る夜光貝の螺鈿細工、透かし彫り金具・漆蒔絵と、平安時代後期の工芸技術を結集して荘厳されており、堂全体があたかも一つの美術工芸品の感がする。

 

須弥壇の上にご本尊阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩、左右に3体ずつ地蔵菩薩が並び、最前列には持国天と増長天が破邪の形相でこの仏界を守護している。この仏像構成は金色堂独特のもので他に例を見ない貴重なもの。

 

孔雀がデザインされた中央の須弥壇の中には、奥州藤原氏の初代清衡、向かって左の壇に二代基衡、右の壇に三代秀衡の御遺体と四代泰衡の首級が安置されている。血筋の明らかな、親子四代の御遺体の存在は世界にもほかに例がないといわれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

金色堂側から参道を見る。

 

 

 

 

 

経蔵【国重要文化財】 当初は2階建てだったが、建武4年(1337)の火災で上層部を焼失し、おそらくは古材をもって再建されたもの路考えられる。

 

 

皇族から賜った御製。 みちのくの昔の力しのびつつまがゆきまでの金色堂に侘つ。

 

 

芭蕉の句碑。 五月雨の降り残してや光堂。

 

 

芭蕉像。

 

 

旧覆堂【国重要文化財】  金色堂を風雪から護るために、正応元年(1288)鎌倉幕府によって建てられたと伝えられる。5間4方の堂は、「鞘堂」とも言われた。金色堂解体修理(昭和の大修理)の際、現在地に移築されました。 

 

近年の調査では、金色堂建立50年後ほどで簡素な覆屋根がかけられ、何度かの増改築を経て、現在の建物は室町時代に建てられたと考えられている。

 

 

釈迦堂  享保4年(1719)の再建で本尊は釈迦三尊。

 

 

弁財天堂  本尊の弁財天十五童子は、仙台藩主伊達綱村公の正室仙姫永宝2年(1705)に寄進されたもので、堂は正徳6年(1716)に建立された。堂内には千手観音菩薩二十八部衆も安置されている。

 

 

扁額

 

 

白山神社の入り口。

 

 

白山神社 中尊寺の北方を鎮守するため、嘉祥3年(850)に中尊寺を開いた慈覚大師円仁がこの地に勧請したと伝えられている。

 

能楽殿【国重要文化財】 嘉永六年(1853)、伊達藩によって再建されたもの。正統かつ本格的な規模と形式の能舞台。現在も毎年5月4日・5日に古実式三番と神事能が中尊寺一山の僧侶によって勤められいる。

 

 

舞台の鏡板には老松が描かれている。

 

 

内側の桁には彫刻が施された。

 

 

舞台の袖には竹が描かれている。

 

 

境内のみやげ屋にて。

 

 

境内ではないがすぐ近くにお休み何処。

 

 

案内図

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」からーーーはじめて金色堂をみたときの印象は、意外に小さいお堂だな、というものだった。実際に金色堂は間口も奥行きも5メートル余りしかない。こわれやすい貴重品のようにガラスケースのなかに納められた金色堂は、さらに覆堂というコンクリートの建物にすっぽり覆われている。覆堂をくぐって金色堂の前に立った参拝客は、このガラスケースのなかに入ることはできない。そんなこともあって、写真で見て想像していたときよりも、ずっと小さい感じがしたのだった。二度目に参拝したときは、とくに小さいとも大きいとも感じなかった。三度目の今回は、どういうわけか金色堂がとても大きく感じられる。回を重ねてくるごとに、この小ぶりなお堂がどんどん広がって感じられてくる、というのはふしぎだった。もしかすると、五回、十回と見つづければ、この小さなお堂に、ものすごく広い宇宙空間が感じられるようになるのではないだろうか。

 

 

御朱印

 

 

(参考資料)中尊寺HP 五木寛之著「百寺巡礼」講談社 大岡實建築研究所HP  Wikipedia 

 

中尊寺 終了


27 毛越寺

2023-08-27 | 岩手県

第63番 毛越寺

 

壮大な伽藍の跡と老女の舞

 

仙台・平泉の旅は、2泊3日の夫婦旅である。仙台に行ったことがない妻のためと、百寺巡礼の参拝を合わせて仙台泊の旅行である。1日目は、青葉城の見学と伊達政宗の霊屋「瑞鳳殿」の参拝である。2日目に岩手の平泉参拝のため仙台から一ノ関まで新幹線。一ノ関からレンタカーとし、その一番目に毛越寺である。恥ずかしくも読めなかったが「もうつうじ」である。

 

参拝日     平成30年(2018)6月21日(木) 天候曇り

 

所在地     岩手県西磐井郡大泉町大泉字大沢58                     山 号     医王山                                   宗 旨     天台宗                                   寺 格     別格本山                                  本 尊     薬師如来                                  創建年     嘉祥3年(850)                               開 基     円仁(慈覚大師)                              札所等     奥州三十三観音霊場番外札所                         文化財     特別史跡

 

歴史  嘉祥3年(850)に中尊寺を創建した円仁によって、同じ年に毛越寺は創建された。その後、大火で焼失して荒廃ししまったが、奥州藤原氏第2代の基衡夫妻と、その子3代秀衡によって壮大な伽藍が再興された。歴史書「吾妻鏡」によれば、「堂塔四十余宇、禅房五百余宇」があり、円隆寺と号せられる金堂・講堂・常行堂・二階惣門・鐘楼・経蔵があり、嘉祥寺その他の堂宇もあって、当時は中尊寺をしのぐ規模だったという。金堂の円隆寺は、金銀、紫檀をちりばめ、その荘厳は『吾妻鏡』に「吾朝無双」と評された。

鎌倉時代には鎌倉幕府にも保護されたが、嘉禄2年(1226)に火災に遭い、戦国時代の天正元年(1573)には兵火にも遭い、それからの長年の間、土壇と礎石を残すだけとなっていた。江戸時代は仙台藩の領内となる。嘉永13年(1636)、伊達政宗の死去に伴い、当時の本尊の釈迦三尊が政宗の霊廟瑞鳳殿に隣接して正宗の菩提寺して創建された瑞鳳寺に遷された。寛文年間(1661~1672) には本寺とその周辺は水田化された。しかし、伊達藩により経済的援助や保護が行われた。

明治の後半には新しい本堂や庫裏を南大門の外側に建て、大正10年(1921)には伊達一関藩の一関城の大手門を移築し山門とした。大正11年(1922)「毛越寺境内 附 鎮守社跡」として史跡に指定された。平成元年(1989)に平安様式に則って本堂が再建され、現在に至っている

 

境内マップ

 

 

入口の標識

 

 

山門 一関城の大手門を移築した。

 

 

 

 

 

三門から境内。

 

 

手水舎。

 

 

芭蕉が詠んだ「夏草や つわものどもが 夢のあと」の句を英訳した新渡戸稲造博士の直筆が刻まれた碑。

 

 

社務所。

 

 

創建当時の描いた絵が掲示されている。

 

 

本堂  平成元年(1989)の建立。平安様式が特徴の堂宇。

 

 

 

 

本堂には、本尊の薬師如来(平安時代)及び両脇に日光菩薩像と月光菩薩像。本尊守護の四天王が配されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

本堂の前 境内模様。

 

 

境内の中には鬱蒼とした大きな樹木が生い茂る。

 

 

境内のなかに中心となる大泉が池。

 

 

 

 

 

池の北側には菖蒲畑。

 

 

境内の北側に位置する開山堂。

 

開山堂の内部   開山慈覚太師木造が中心に安置され、左側に藤原三公の画。

 

 

藤原三代公の画。 上が清衡公、下右が二代基衡公、下左が三代秀衡公。

 

 

 

 

 

開山堂の前から見る。

 

 

花菖蒲園  300種3万株の花菖蒲が植えられている。昭和28年(1953年)に平泉町民の発案で開山堂前に植えたことがきっかけとなった。

 

 

東京・明治神宮から譲り受けた100種100株も植えられた。

 

 

広大な敷地は芝生に覆われている。

 

 

 

 

嘉祥寺のあった場所。巨大な礎石が完存するこの建築跡は、古来嘉祥寺跡として言い伝えられてきた。

 

 

 

 

 

浄土式庭園の大泉が池。浄土式庭園は、平安時代以降に発達し、その形態としては、仏教世界観を表現した池泉回遊式庭園であることが最大の特徴。

 

 

大泉が池は東西約180m、南北約90mあり、作庭当初の姿を伝えている。池のほぼ中央部に東西約70m、南北約30m、勾玉状の中島がある。池の周辺や中島にはすべて玉石が敷かれている。

 

 

 

常光堂 享保17年(1732)に仙台藩主伊達吉村公の武運長久を願って再建。堂は宝形造りで須弥壇中央に本尊・宝冠の阿弥陀如来、両側に四菩薩、奥殿には秘仏としてあがめられている摩多羅神がまつられている。

 

 

 

摩多羅神は修法と堂の守護神であり、地元では古くから作物の神様として信仰されています。奥殿の扉はふだんは固く閉ざされ、33年に一度御開帳されます。祭礼の正月20日は、古式の修法と法楽としての延年の舞が奉納されます。 

 

 

地蔵仏。

 

 

鐘楼堂。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

洲浜 池の東南隅に築山と対照的に造られた洲浜は、砂洲と入江が柔らかい曲線を描き、美しい海岸線を表している。他に比べて池底を特に浅くし、広々と玉石を敷き詰めているので、水位の昇降に応じて現れるゆったりした姿を眺めることができる。

 

 

出島石組と池中立石。大泉が池の東南岸にある荒磯風の出島は、庭園中最も美しい景観の一。

 

水辺から水中へと石組が突き出し、その先端の飛び島には約2メートルの景石が据えられ、庭の象徴として池全体を引き締めている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

創建時の毛越寺を想像した伽藍の図。

 

 

案内図

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー毛越寺は、「浄土庭園」と呼ばれる様式の庭園で知られている。しかも、日本でもっとも完全で、典型的な平安時代の浄土庭園遺構だそうだ。末法思想が広まった時代、人びとは阿弥陀如来に一心に祈ることで、死後に西の彼方にある極楽浄土へ行くことができると信じた。その極楽浄土を目に見えるかたちに表現しようとしたのが、浄土庭園だと言えるだろう。日が沈む西方には阿弥陀堂だつくられ、阿弥陀如来像が安置される。その阿弥陀堂の前には大きな池が設けられ、そこには蓮の花が咲いている。浄土庭園の池は、神聖な地を俗世から区分するものと考えられていた。つまり阿弥陀如来がいらっしゃる池の西側が彼岸(あの世)で、東側が此岸(この世)というわけだ。浄土庭園としてもっとも有名なのが宇治の平等院だが、毛越寺の庭園の規模はそれをはるかに上回っていた。もし庭園だけでなく、創建当時の毛越寺の伽藍の一部が現存していたら、俺ほど素晴らしかっただろうか。残念ながら毛越寺は藤原氏の滅亡後に焼け、以後は長い間放置されて、復興されることはなかった。藤原氏の約百年の王国が滅亡するのと歩調を合わせるようにして、毛越寺も全盛期の輝きを失っていった。そして、人びとの目を驚かせた壮観な伽藍、浄土を再現した美しい光景も、幻のごとく消え失せてしまったのである。

 

 

 

 

 

御朱印

 

 

毛越寺 終了