『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

75 本法寺

2024-03-27 | 京都府

百寺巡礼第87番 本法寺

なべかむり日親の伝説を支える力

 

 

 

本法寺は、妙顕寺や妙覚寺など多くの寺が建ち並ぶ寺之内の一画にある日蓮宗寺院で、十六箇本山の一つに数えられる。門前は小川通が東西に通り、向かいに裏千家と表千家が南北に居を構えており、京都の中でも特に落ち着いた独特の雰囲気を持った地域である。室町時代に活躍した日蓮宗僧侶の久遠成院日親上人によって日蓮宗の本山である。

当時の建立は、日親が永享年間(1429~40)に日親が四条高倉に設けた弘道所に遡る。その後天文法華の乱などで寺地を遷し、天正18年(1580)に現在の地に移る。天明の大火で宝蔵と経堂を残しほとんどが焼き尽くされた。寛政2年(1790)から翌年に開山堂仮堂と客殿が建てられ、寛政末から文化年間(1904~17)にかけて、本堂、開山堂、多宝塔、仁王門、庫裡など主要な堂宇が復興された。小川通に面して仁王門を構え、そこより西北に延びる参道に主要な建造物群を配置する。中央の広場を囲むように西側に本堂、北側に開山堂、東側に多宝塔、南側に鐘楼と経蔵を建て、本堂に北側に客殿や庫裡、書院、方丈を配する。近世日蓮宗系諸宗本山のもっとも整った伽藍景観を伝える。

現在地に移転したときの管首である日通上人は、権力者であり財力もある本阿弥光二と光悦の親子の支援を受けて堂塔伽藍を整備することができた。それからの本法寺は京都の町に、一大栄華を誇るまでとなった。しかし天明8年(1788)に襲った大火は本法寺の伽藍を呑み込み、経堂と宝蔵を残すだけの壊滅状態となってしまったのである。それでも、檀信徒たちの堂塔再建に対する願いは着々と実を結び、本堂をはじめ開山堂、多宝塔、書院、仁王門などが整備されて、現在の本法寺となった。

さらに当寺では、庫裡や書院など僧侶が生活を営んど近世の建物を残しており、近年建て替えられた客殿を除き、江戸時代の伽藍形態がそのまま伝えられている。このような例は本山格寺院では稀有であり全国的に見ても貴重な伽藍群と言える。

 

 

参拝日    令和6年(2024)2月29日(木) 天候曇り

 

所在地    京都府京都市上京区小川通寺之内上る本法寺前町617                 山 号    叡昌山                                      宗 派    日蓮宗                                      寺 格    本山                                       本 尊    三宝尊                                      創建年    永享8年(1436)                                 開 山    日親                                       開 基    本阿弥本光                                    正式名    叡昌山本法寺                                   札所等    洛中法華21ヶ寺                                  文化財    長谷川等伯関係資料(国重要文化財)

 

 

京都市営地下鉄烏丸線「今出川」駅を降りて、東西に走る今出川通から西の方向に約5~6分程歩くと小川通という南北の通り。その辺りは表千家と裏千家、武者小路千家の茶道の本部があり、世界に誇る茶道文化の中心地。その物々しいというか凛とした空間の左先に本法寺の入り口がある。存在感のある茶道の施設が並んでいるのが本法寺の門前である。

 

 

 

裏千家本部の正面の門の正面に仁王門。

 

 

仁王門(京都府指定有形文化財)。  三間一戸の楼門。 寄棟桟瓦葺きの屋根。 寛政9年(1797)に建立された。  写真では少々見ずらいが、扁額は「叡昌山」。

 

 

 

木部は朱塗りであるが経年変化が著しい。壁は白漆喰。

 

 

 

欄干廻り。 持ち送り風の組物や紅梁型の正面飛貫など、時代の雰囲気をよく示している。

 

 

門の左右に仁王像。

 

 

多宝塔。  仁王門を潜り直ぐに右手に建つ。 寛政年間(1789~1804)の建立された。高さは15mで洛中における多宝塔はここに建つだけ。塔内には、釈迦如来、多宝如来を祀る。

 

 

 

 

 

多宝塔は初層が方形、上層が円形で屋根が四角錐形の宝形造。

 

 

 

 

 

摩利支天堂。    大摩利支尊天を祀った堂宇。

 

 

開山堂。     寛政8年(1796)に建立された。

 

 

鐘楼。

 

 

本堂の前。大きな桜の木を中心に奥の朱塗りの宝物館と右手に開山堂。

 

 

本堂。   規模の大きな7間堂で寛政9年(1797)に再建された。

 

 

正面に3間の向拝殿を設ける。

 

 

扁額「本法寺」は本阿弥光悦の筆による。

 

 

入母屋造りの屋根の千鳥破風は反りがあり、軒先は跳ね上がる寺建築に見られる造り。 軒下廻りの組物は、このクラスの大きさの堂宇としては簡略されている。

 

 

周囲の縁先には庇柱を建て、深い庇を支える。柱は四天柱以外は角柱である。大型の堂宇での角柱は珍しい。

 

 

春を待つように梅の花が咲き誇る。

 

 

元阿弥光悦が植えたとされる松の木と安土桃山時代を代表する絵師・長谷川等伯の銅像は本堂の前。

 

 

説法石。  上洛した日親は一条戻り橋のたもとでこの石に腰を掛けて辻説法を行ったと言われる。石は陰陽士・安倍晴明の邸にあった晴明石とみいわれ江戸時代の元禄15年(1702)にこの地に移された。

 

 

唐門。開山堂の左手にあり、その向うの朱塗り建物は宝物館となり長谷川等伯作の「釈迦大涅槃図」(重文)が1,2階吹き抜けの講堂内に掲げられている。

 

 

唐門。

 

 

 

 

 

 

 

本堂(右手)と庫裡(左手)を渡り廊下で繋ぐ。

 

 

庫裡。 本堂の奥に建てられた切妻妻入の建物。僧侶の生活の場になる堂宇で、現在は参拝者の入り口。

 

 

庫裡の東側に建てられた客殿の玄関は唐破風仕様の屋根の造り。

 

 

参拝、拝観入り口。

 

 

庫裡の玄関土間の構造。

 

 

 

 

 

庫裡にある入口から入り、受け付けを済ませ右手客殿を通り宝物館にすすむ。

 

 

宝物館。      宝物館の南側にこじんまりとした枯山水の庭・十(つなし)の庭が広がり、唐門が設けられている。

 

十(つなし)の庭。  ひとつ、ふたつ・・・九つ、そして十。十は「とう」と読むか「じゅう」とよむか、いずれも「つ」が付かないので「つなし」だという。この庭には10個の石が置かれている。が・・・九個しか見当たらない。もう一つは、心の中に石があるのだそうだ。昭和時代に作られたので新しい庭。

 

 

内側から見る唐門。

 

 

宝物館から開山堂を見る。

 

 

宝物館には、長谷川等伯による仏釈迦大涅槃図が掲げられている。 

 

 

講堂に掲げられた扁額。

佛涅槃図【国重要文化財】    京都三大涅槃図のひとつ。縦約10m横約6mの大きさで、2階吹き抜け部屋に掲げられている。作者は安土桃山時代から江戸初期を代表する絵師・長谷川等伯(1539~1610)で、自身の家族や心を寄せた日蓮宗僧侶らの供養を目的に、61歳のときにこの絵を描き本法寺に奉献した。能登国七尾に生まれた等伯は、染物を生業とする長谷川家の養子となり、故郷で絵師として活動した。その後、養父母の死をきっかけに京都へ移り住み、菩提寺の本山であった本法寺を拠点に活躍し、数多くのすばらしい作品を遺した。                         (写真はネットから)

 

 

宝物館の北側は庭園。

 

 

宝物館から書院の庭園へ。 本阿弥光悦が生み出したという光悦垣。

 

 

庫裡の北側に方丈、書院があり渡り廊下でつながる。

 

 

 

 

 

三巴の庭。渡り廊下から見る中庭の庭園。 蹲は光悦の作とされる「光悦の蹲」。

 

 

渡り廊下の先にある書院。18畳の部屋が3室並ぶ。

 

 

中の部屋。

 

 

 

 

 

上段の間。 奥の部屋で、2間の床の間に違い棚のある床脇と付け書院が付いた。

 

 

 

 

 

書院には庭に面し広縁が付く。

 

 

 

 

三巴の庭。  本阿弥光悦によってつくられたとされる庭で、書院の南側から東側にかけて鈎型に広がる。室町期の書院風枯山水の影響を名庭で、広さはおよそ200坪。三か所の築山で巴の紋を表すことから三巴の庭と呼ぶ。木が育つなどの経年により巴のかたちは分かりづらい。・・・わからない。

 

 

縁側の前には、半円の石を二つ組み合わせた円形石(左)と、切り石による十角形の蓮池(右)で、「日」「蓮」を表現している。

 

 

南東の隅には枯滝が配され、手前に置かれた縦縞模様の青石によって流れ落ちる水を表現している。

 

 

庭の中央に位置する日輪を通して東南方向に宝物間の朱塗りの建物を見る。

 

 

 

 

 

 

 

 

三巴の庭の現在の様子。                        (本法寺案内書より)

 

 

江戸時代の様子。江戸時代末に刊行された「都林泉名勝図会」の京都名園案内書より。(本法寺案内書より)

 

 

 

 

 

仁王門と反対側で西側の入り口。 右の建物は茶道総合資料館。

 

 

案内図

 

 

 

御朱印

 

 

御朱印についてきた小さな気遣い。

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーーーー本阿弥光悦や長谷川等伯本法寺の関係を知ると、この寺が京都のなかに存在していることの意味が、あらためて浮かびあがってくるようだ。山里ではなく、田園地帯でもなく、町の人びととの生活と密着した中にある寺ー本法寺はまさに、町衆に支えられてきた寺である。<中略>封建社会の身分制度のなかで、ものをつらない商人は、農民より一段下に見られていたが、実際には経済を支配して、社会を動かす力を持ちはじめていた。さまざまなかたちで抑圧された新興階級の町衆たちは、次第に権利意識にめざめてくる。同時に自由への欲求もめば矢えてくる。彼らのそういう意識と一緒になって日蓮宗はひろまった、といえるかもしれない。日蓮宗は商人たち、町衆といわれる人々とのあいだに、広く深く支持者を集めていった。町衆は、人間は平等でなければいけない、という根本精神をもっていたのだろう。

 

本法寺 終了

(参考文献)
  
五木寛之著「百寺巡礼」第九巻京都Ⅱ(講談社刊) 本法寺HP  フリー百科事典Wikipedia      京都の文化財第13集 本法寺・京都市教育委員会   (ブログ)京都を歩くアルバム  ほか

 

 

 

付録)本法寺の門前には茶道のご本本家家元の名庵が並ぶ。

 

小川通に面して本法寺の仁王門の前に佇む。裏千家の家元「今日庵」の入り口。

 

 

 

 

 

今日庵の南となりに位置する裏千家家元「不審庵」の入り口。

 

 

 

 

 

 

 

 

今日庵の対面にある茶道具店の清昌堂やました。弘化4年(1847)創業だという。

 

 

表千家・不審庵の土塀と小川通。この奥の左手に本法寺山門がある。

 

 

古川通りを出た寺之内通りとのT字路にある俵屋吉富小川店は、茶菓子に特化した和菓子の店という。

 

 

俵屋吉富のとなりに茶道具の「小西康」。

 

                                             以上。

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74 相国寺

2024-03-03 | 京都府

百寺巡礼 第84番 相国寺

 

著名な人々を惹き付けた禅宗の魅力

 

  足利将軍家や伏見宮家および桂宮家とゆかりの深い禅寺。京都五山の第二位に列せられている。相国寺は五山文学の中心地であり、画僧の周文や雪舟は同寺の出身者である。また京都観光の名所として有名な金閣寺(鹿苑寺:当グログNO25)と銀閣寺(慈照寺:当ブログNO52)は、当寺の山外塔頭である。しかしながら京都に多い観光客が多く訪れる観光寺ではない。あくまでも禅宗の大本山として、雲水たちの修行の寺である。

 境内は、京都御所の真北に位置し、同志社大学に隣接している。最盛期にには、東は寺町通り、西は大宮通り、南は一条通り、北は上御霊神社との境までが相国寺の寺域であった。応仁の乱による消失後、三門と仏殿は再建されることなく、近世以降は法堂が仏殿を兼ねて本尊を安置している。

 永徳2年(1382)、室町幕府第3代将軍・足利義満は、花の御所の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを発願した。その地はかつて行基により創建された出雲寺(現・毘沙門堂。出雲寺は現・上京区毘沙門町にあった)や、法然が住していた賀茂の釈迦堂(現・百万遍知恩寺)が建っていた場所であるが、当時は安聖寺や公家の屋敷が建てられていたのでそれらを移転させて、新たな寺院が建立される。その名称は、「相国」と呼ばれる職である左大臣に任じられていたことから相国寺を推し、また、五山制度の始まりの寺院である大相国寺があり、それにあやかって相国寺を推したことから「相国寺」と名付けられた。その間、至徳3年(1386)には義満によって京都五山、鎌倉五山が改めて制定され、相国寺は京都五山の第二位に叙されている。寺が竣工したのは創建から10年後の明徳3年(1392)であった。

 

参拝日    令和6年2月28日(水) 天候晴れ

 

所在地    京都府京都市上京区今井出川通烏丸東入相国寺門前町701              山 号    萬年山                                     宗 派    臨済宗相国寺派                                 寺 格    大本山 京都五山第二位                             本 尊    釈迦如来                                    創建年    永徳2年(1382)                                 開 山    夢窓疎石                                    開 祖    足利義満                                    中 興    西笑承兌                                    正式名    萬年山相国承天禅寺                               札所等    神仏霊場巡拝の道第99番(京都第19番)                      文化財    無学祖先墨蹟4幅(国宝)  法堂(国重要文化財)ほか。

 

 

参道の両側に同志社大のキャンパスが広がる。 京都御所の北側に広がる同志社大学。その北に隣接する相国寺。京都御所は京都の中心部にあり、その中心部に神道の施設の京都御所、同社大学はキリスト教。そいて仏教の相国寺と、「まるで宗教のスクランブル交差点に立っているようだ」と百寺巡礼の著者・五木寛之は語ってる。

 

 

総門(京都府指定文化財)。 総門と勅使門の二つが並んである。総門はなんども火災に遭い、現在の門は寛政9年(1797)に再建されたもの。

 

 

勅使門。  総門より少し離れて西側に御幸門とも言われ、通常閉門。

 

 

境内全景。

 

 

総門を潜り参道を見る。

 

 

参道の左手に広がる放生池。 池には天界橋と名の付いた石橋がある。

 

 

境内は広くゆったりとし、いくつもの堂宇を赤松の林が囲む。

 

洪音楼。  鐘楼である。参道の右手に建ち天明の火災で焼けて、天保14年(1943)に現在の姿の鐘楼が完成。袴腰付の鐘楼では大きい方。

 

 

 

 

 

袴腰の基礎部分を見る。

 

 

境内配置図。                           (相国寺HPより)

 

 

法堂・方丈入口。 こちら側から拝観は有料となる。

 

 

庫裡(京都府指定文化財)。 香積院と呼ぶ。禅寺でよく見かける建物の形態。

 

大きい破風や壁面が特徴。文化4年(1807)の建立。 左側の唐破風屋根の入り口は明治16年(1883)に設けられたもの。

 

 

龍を彫り込んだ蟇股。

 

 

腰屋根は、明り取りや煙り抜きの機能を併せ持つ。

 

 

隅鬼は逆立ちした獅子像

 

 

一度外に廻り法堂を見る。

 

 

法堂【国重要文化財】。   慶長10年(1605)に豊臣秀頼の寄進により5回目の再建。我が国の法堂建築で最古のもの。構造は桁行7間、梁間6間、単層、1重もこし付,入母屋造り,本瓦葺きの禅宗様建築。  禅宗建築の特徴。 屋根の軒の両端が鋭く跳ね上がっている。

 

 

禅宗建築の特徴に軒の垂木が放射状に配した扇垂木を使用。

 

 

 

 

 

正面から振り返る。

 

 

西側から見た法堂の全景。桁行4間、梁間1間、1重、切妻造、本瓦葺の玄関廊がついている。

 

 

 

 

 

 

法堂は鳴き龍で知られている。法堂の中に入ると驚くほど高い天井に龍の絵が描かれている。禅宗建築では、天井板を平らに張り鏡天井にし、そこに龍を描くのが特徴だと言われる。龍が描かれているのは直径9mの円の中で、絵師の狩野光信の筆による。その円の下の両手をパシッと勢いよく叩くと異、びよょ~んという音が響く。鳴き龍の声だそうだ。よく聞こえる場所が示されているので、その場所でしか龍の鳴き声は聞こえない。                               (写真は相国寺HP)

 

 

法堂の内部。  中央には、三方を階段が付いた須弥壇が設けられ本尊・釈迦如来が安置されている。                    (写真は相国寺HPより)

 

 

法堂への入り口。

 

 

 

 

 

法堂を北西面から見る。

 

 

法堂の切妻側。鬼瓦と懸魚。

 

 

 

方丈への入り口。法堂への入り口でもあり、こちらで拝観料を納める。

 

 

花頭窓から中庭を見る。

 

 

方丈から法堂への渡り廊下。 

 

 

方丈前庭。  南側の庭は、白砂を敷き詰めただけの単調な造り。

 

 

白砂により太陽の光を反射して室内を明るくする。

 

 

方丈を見る。

 

 

方丈(京都府指定有形文化財)。  南側の部屋は3室あり。また背合わせに北側にも部屋が3室。  

 

 

方丈南側。

 

 

方丈の扁額。 中国の書家・張即子の筆による。

 

 

拝観の入り口で、法堂への渡り廊下側を見る。

 

 

方丈の正面に方丈勅使門。1間1戸の四脚門。 その南側には法堂がそびえ立つ。禅宗は山門、法堂、方丈と縦に並ぶ伽藍形態が特色。

 

 

方丈勅使門は切妻側に唐破風を用いた。

 

 

方丈勅使門を表側から見る。

 

 

 

方丈の南側廊下の杉戸に描かれた、江戸後期の絵師・原在中の白象図

 

 

方丈の西側。 方丈の北側の庭園の裏方丈庭園の流れに沿って作庭された。

 

 

 

 

裏方丈庭園。  細長い敷地の中に、大きな掘り込み状の枯流れが左手から右手に流れる形を作っている。その後ろにモミジやマツなどが植えられている。枯流れの斜面にはスギゴケが張られ、流れの底には小石が敷かれ、さらに小石の下には砂が敷かれているので、雨水はすぐに地下にしみ込んでいく。建物の雨排水も枯流れを流れる機能的な作庭になっているようだ。

 

 

方丈の北側にも3つの部屋がある。廊下には鮮やかに杉戸絵が描かれている。

 

 

裏方丈庭園。正面の建物は庫裡の一部。

 

 

 

 

 

枯流れは低く掘られていて、滝石組なども組み込まれ立体感があり、狭い空間の割には存在を感じる。

 

 

裏方丈庭園側の廊下を見る。

 

 

冬の終わり2月末の彩は椿の花。

 

 

経蔵(京都府指定有形文化財)。 元々の経蔵は天明の大火で焼失し、万延元年(1860)に再建されたもの。

 

 

天響楼。  鐘楼と梵鐘で平成22年(2011)の建立された新しいもの。

 

 

梵鐘は、中国開封大相国寺により二つ鋳造され、その一つが日中佛法興隆・両寺友好の記念として寄進されたもので、「友好紀念鐘」の銘や「般若心経」の経文が刻されている。

 

 

内塀の外から法堂の屋根を見る。

 

 

相国寺と相国寺塔頭の間にある通路。

 

 

 

 

 

案内図    

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」より・・・義満は自分が建てた相国寺を、京都五山のひとつに列したいと願った。京都五山とは、京都にある臨済宗の五大寺のことである。だが、当時すでに五山は、上から南禅寺、天龍寺、建仁寺、東福寺、万寿寺と順位が定まっていた。そこで、義満から相談を受けた義堂周信は、中国の例を引き合いに出して、南禅寺を五山の上に置き、相国寺を五山の第二位に割り込ませるように進言した。早速、義満は南禅寺を別扱いにして、相国寺を天龍寺につぐ五山第二の寺としたのだった。こうして寺格の高さと将軍の菩提寺ということで、相国寺は大いに栄えることになる。また、ここからは数多くの学僧がでて、のちに「五山文学」と呼ばれた学問や芸術の発達に貢献した。

 

御朱印

 

 

 

相国寺 終了

 

(参考文献)
  
五木寛之著「百寺巡礼」第九巻京都Ⅱ(講談社刊) 相国寺HP  フリー百科事典Wikipedia

 

 

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