第2番 長谷寺
現世での幸せ祈る観音信仰
本日は、まず室生寺に参拝し、その帰りに足で同じ近鉄大阪線沿線の長谷寺への参拝である。どちらの寺も山あいの丘陵地や崖地に建ち、境内が広く坂と階段の多い寺。二つの寺を隈なく回るとくたくたになるが、どちらも素晴らしい寺である。
大和国と伊勢国を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に本堂が建つ。初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬から5月上旬は150種類以上、7,000株といわれる牡丹が満開になり、当寺は古くから「花の御寺」と称されている。また「枕草子」「源氏物語」「更科日記」など多くの古典文学にも登場する。
創建は奈良時代、8世紀前半と推定されるが、創建の詳しい時期や事情は不明である。寺伝によれば、天武天皇の朱鳥元年(686)、僧の道明が初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺が建てられている場所)に三重塔を建立。続いて伝承の域を出ないが、神亀4年(727)、僧の徳道が聖武天皇の勅命により東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀ったという。長谷寺は平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰を集めた。天正16年(1588)豊臣秀吉により根来寺を追われた新義真言宗門徒が入山した。この後、本堂は焼失したが、三代将軍徳川家光の寄進によって慶安3年(1650)に再建された。
寛文7年(1667)には第4代将軍徳川家綱の寄進で本坊が建立されたが、明治44年(1911)に表門を残して全て焼失。大正13年(1924)に再建されている。近年は、子弟教育・僧侶(教師)の育成に力を入れており、学問寺としての性格を強めている。
十一面観音を本尊とし「長谷寺」を名乗る寺院は、鎌倉の長谷寺をはじめ日本各地に多くあり、240か寺ほど存在する。他と区別するため「大和国長谷寺」「総本山長谷寺」等と呼称することもある。
参拝日 平成30年(2018) 10月3日(金) 天候晴れ
所在地 奈良県桜井市初瀬731-1 山 号 豊山 院 号 神楽院 宗 旨 新義真言宗 宗 派 真言宗豊山派 寺 格 総本山 本 尊 十一面観音(国重要文化財) 創建年 伝・朱鳥元年(686) 開 山 道明 正式名 豊山神楽院長谷寺 別 称 花の御寺 札所等 西国三十三所第8番 文化財 本堂(国宝) 木造十一面観音立像・仁王門ほか(重要文化財)
近鉄大阪線の長谷寺駅。
長谷寺駅から歩いていく。駅から300mは住宅街の細い道で下り坂。初瀬の信号を渡り初瀬街道に建ち並ぶ門前町を進む。
門前には旅館や食い物やおみやげ屋が並ぶ。
門前から見た様子。
長谷寺駅から1200mで長谷寺入り口に。歩いて20分ぐらいだったろうか・・・・。
境内案内図。
総本山長谷寺の石標。
参道から見る仁王門。
仁王門【国重要文化財】 明治18年(1885)に建立。長谷寺の総門。屋根は入母屋造、本瓦葺の三間一戸の楼門。平安時代、一条天皇頃に創建された。その後、度重なる火災により焼失に遭っている。
仁王門から参道方向を見る。
金剛力士像。 近すぎて撮れなかった・・・・・。
勅額「長谷寺」の文字は後陽成天皇が自ら書いた宸筆である。
登廊【国重要文化財】 入口の仁王門から本堂までは399段の登廊(のぼりろう、屋根付きの階段)を上る。
登廊は、下登廊、繋屋、中登廊、蔵王堂、上登廊と5棟に分かれているが、連続して108間ほどあり、煩悩の数にちなんでいる。約200mの長さである。そんなに急でもない石段の廊下は、雰囲気が良い。
登廊の途中にはほかの堂宇に繋がる道もあるが、山の傾斜面にある境内は、どこをとっても階段と坂道だらけ。登廊の両側にはいくつかの塔頭が建てられている。
登廊から見た改修中の宗宝蔵。ちょい見、お城のような雰囲気。
先ずは、下登廊を上り切る。
下登廊と中登廊の中継地点となる繋屋の屋根裏。
中登廊の紅梁には唐草の模様が彫刻されている。
こちらは柱の土台部分。腐り欠けた部分を切取り継足した。
「紀貫之の古郷の梅」 登廊を上り切った処に梅の木がある。紀貫之は幼少期を長谷寺で過ごし、成人してから長谷寺を訪れた際に詠んだ歌。「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににおいける」。歌に詠まれたのが、ここの梅だったのかな? それにしては細木の梅だな・・・・。
本堂の東側にある見晴らし台・休憩所。
三社権現。 初瀬の里を守る地主神。
本殿の前にある常香炉。
本堂【国宝】 本尊を安置する正堂と、相の間、礼堂からり、平面構成・屋根構成とも複雑で傾斜地に南を正面として建つ巨大な建築。創建は奈良時代で、室町時代の天文5年(1536)までに計7回焼失している。その後、本堂は豊臣秀長の援助で再建に着手し、天正16年(1588)に竣工した。ただし、現存の本堂は、徳川家光の寄進を得て、正保2年(1645)に工事着手し、5年後の慶安3年(1650)に落慶したもの。
鐘楼【国重要文化財】 登廊を上り切ると鐘楼の下にでる。梵鐘は文亀元年(1501)の銘が彫ってあり「尾上の鐘」と呼ばれる。藤原定家が詠んだ「高砂の尾上の鐘の音すり暁かけて霜や置くらん」にちなむようだ。
本堂の入り口。
本堂の相の間 本堂は、おおまかには本尊を安置する正堂(左)、参詣者の為の空間である礼堂(右)、これら両者をつなぐ相の間の3部分からなる。相の間は一段低い石敷きで、化粧屋根裏とする。正堂の平面構成は複雑だが、おおむね手前の奥行1間分を外陣、その奥を内陣とする。
礼堂から正堂を見る。正堂には本尊の十一面観音立像が安置。内陣は石敷き、格天井とし、その中央の二間四方を本尊を安置する内々陣とする。
本尊 十一面観音立像【国重要文化財】 像高三丈三尺六寸(1018.0cm)我が国で最も大きな木造仏像。現在の本尊像は天文7年(1538年)の再興。7回目の焼失後、天文7年(1538)に再興(現存・8代目)。神亀間(724~729)に、近隣の初瀬川に流れ着いた巨大な神木が大いなる祟りを呼び、恐怖した村人の懇願を受けて開祖徳道が祟りの根源の神木を観音菩薩像に作り替えて初瀬山に祀ったのが起源。(写真はネットから借用)
礼堂は床は板敷き、天井は化粧屋根裏(天井板を張らず、構成材をそのまま見せる)とし、奥2間分は中央部分を高めた切妻屋根形の化粧屋根裏。
礼堂から正面を見る。
礼堂の西を見る。床に映える青紅葉を撮ったつもりであるが・・・。紅葉が床に映える季節もシャッターチャンス。
礼堂から南側に広がる舞台を見る。
本堂の南側。回廊から舞台に繋がる。垂れ幕にある白、赤、黄、緑、紫の五色は仏の五つ智慧(法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智の)を表す。
長谷寺の特徴の前面に広がる舞台。京都の清水寺の本堂と同じ懸造り。
舞台は勾配が付いている。舞台を支える柱に筋交いは無く横に貫を通しただけの造り。
回廊から西側を見る。
本堂の西方の丘には「本長谷寺」と称する一画があり、五重塔などが建つ。
舞台から見た、初瀬山の麓に広がる堂宇。ここからの眺望がすばらしい。「百寺巡礼」にも著者の五木寛之が「ここからの眺望が見事だ。パノラマのように景色が広がって見える」と書いている。
回廊。
本堂の妻側の懸魚。
礼堂の正面に掲げられた扁額「大悲閣」。 悲しみの字は慈悲を表す。
正面の香炉。
礼堂の内側に「豊山長谷寺」の扁額。
回廊及び舞台の柱脚の足元部分には屋根が掛けられいるが、基礎を防護するための屋根かな?
本堂の西側の本長谷寺側から本堂方向を見る。
本長谷寺の前の参拝路。境内には道を結ぶ参道が整備され歩きやすい。ただし階段を除けばだが、山の斜面に張り付くように配置された寺なので階段、坂道は避けられない。
本長谷寺 天武天皇の勅願により、道明上人がここに精舎を造営したことから、今の本堂に対し本長谷寺と呼ぶ。朱鳥元年(686)、道明上人は天武天皇の御病気平癒のため『銅板法華説相図(千仏多宝仏塔)』(国宝)を鋳造し、本尊として祀られた。
本長谷寺付近から長谷寺を見る。
弘法大使御影堂。
五重塔 昭和29年(1954)建立。桧皮葺、高さ 31.39m。
塔は擬宝珠高欄を付けた基壇の上に建つ。組物は三手先、軒は二軒繁垂木をもちいる。戦後では最初に建てられた本格的五重塔。もともとこの寺には三重塔が建っていたが明治の初め焼失し、塔の跡だけは残っている。五重の塔の場所は三重の塔の跡とは異なり、再建ではない。
本堂からかなり下り奥の院を通りさらに降る。
坂道、階段を下ってきた平坦なところの本坊がある。
本坊 長谷寺復興のため、豊臣秀長に招かれた専誉が入山し、天正16年(1588)に創建。当初は本堂近くにあったが、第八世快寿が現在地に移り、寛文7年(1667)に、第4代将軍徳川家綱の寄進により再建。明治44年(1911)に焼失し、現在の建物は大正8年(1919)から13年(1924)にかけて再建されたもの。
正面入り口玄関。この本坊区域には大講堂・大玄関及び庫裏・奥書院・小書院・ 護摩堂・ 唐門及び回廊・中雀門・土蔵それに設計図面が重要文化財に指定されている。
本坊の前に、平成22年(2010)に平成天皇皇后がお手植えした松の木。
本坊の玄関の前庭。本堂が正面によく見える場所で、団体の参拝客の集合写真を撮る場所にもなっている。
本坊から本堂を見た。
初瀬山の山麓から中腹にかけて伽藍が広がる。本坊の前から見る。
本坊の前からの帰り道。
案内図
五木寛之著「百寺巡礼」からーーー長谷寺の観音信仰は、「現世利益」を願うものだ。と前に述べた。それは、本尊が観音と地蔵が合体した特殊な像である。というところでも納得がいく。さらに、水子地蔵でもわかるように、この寺は庶民信仰、世俗信仰によって支えられている。現代人はこうして霊場巡りや寺巡りをすることで、なにを求めているのか。最近、巡礼ブームに対して、よく使われているのは、「こころの癒し」とい月並みな言葉だ。最初の目的は「病気が治りますように」とか「仕事が見つかりますように」とお願いすることかもしれない。世の中には、そうせずにはいられないほど苦しんでいる人もいる。それは否定できない。けれども、いくら現世利益を祈願していても、それが簡単にかなうと思っている人は、実際には少ないだろう。やはり、それ以上に、祈ることでこころの安らぎを得ることのほうが、その人にとっては大きな意味があるのではないか。(中略)もちろん、それでも人生の苦悩はつきない。では、いったいなにが変わるのか。たぶんそれは、苦しみながらも、それに耐えていける、ということではないか。
御朱印
参考文献 長谷寺HP フリー百科事典Wikipedia 奈良県観光局ならの観光力向上課HP
五木寛之著「百寺巡礼」第一巻奈良(講談社)
長谷寺 終了