『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

36 長谷寺

2023-09-28 | 奈良県

第2番 長谷寺

現世での幸せ祈る観音信仰

 

 

本日は、まず室生寺に参拝し、その帰りに足で同じ近鉄大阪線沿線の長谷寺への参拝である。どちらの寺も山あいの丘陵地や崖地に建ち、境内が広く坂と階段の多い寺。二つの寺を隈なく回るとくたくたになるが、どちらも素晴らしい寺である。

大和国と伊勢国を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に本堂が建つ。初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬から5月上旬は150種類以上、7,000株といわれる牡丹が満開になり、当寺は古くから「花の御寺」と称されている。また「枕草子」「源氏物語」「更科日記」など多くの古典文学にも登場する。

創建は奈良時代、8世紀前半と推定されるが、創建の詳しい時期や事情は不明である。寺伝によれば、天武天皇の朱鳥元年(686)、僧の道明が初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺が建てられている場所)に三重塔を建立。続いて伝承の域を出ないが、神亀4年(727)、僧の徳道が聖武天皇の勅命により東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀ったという。長谷寺は平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰を集めた。天正16年(1588)豊臣秀吉により根来寺を追われた新義真言宗門徒が入山した。この後、本堂は焼失したが、三代将軍徳川家光の寄進によって慶安3年(1650)に再建された。

寛文7年(1667)には第4代将軍徳川家綱の寄進で本坊が建立されたが、明治44年(1911)に表門を残して全て焼失。大正13年(1924)に再建されている。近年は、子弟教育・僧侶(教師)の育成に力を入れており、学問寺としての性格を強めている。

十一面観音を本尊とし「長谷寺」を名乗る寺院は、鎌倉の長谷寺をはじめ日本各地に多くあり、240か寺ほど存在する。他と区別するため「大和国長谷寺」「総本山長谷寺」等と呼称することもある。

 

参拝日    平成30年(2018) 10月3日(金) 天候晴れ

 

所在地    奈良県桜井市初瀬731-1                         山 号    豊山                                    院 号    神楽院                                   宗 旨    新義真言宗                                 宗 派    真言宗豊山派                                寺 格    総本山                                   本 尊    十一面観音(国重要文化財)                         創建年    伝・朱鳥元年(686)                             開 山    道明                                    正式名    豊山神楽院長谷寺                              別 称    花の御寺                                  札所等    西国三十三所第8番                              文化財    本堂(国宝) 木造十一面観音立像・仁王門ほか(重要文化財)

 

 

 

近鉄大阪線の長谷寺駅。

 

 

長谷寺駅から歩いていく。駅から300mは住宅街の細い道で下り坂。初瀬の信号を渡り初瀬街道に建ち並ぶ門前町を進む。

 

 

 

 

門前には旅館や食い物やおみやげ屋が並ぶ。

 

 

門前から見た様子。

 

 

長谷寺駅から1200mで長谷寺入り口に。歩いて20分ぐらいだったろうか・・・・。

 

 

境内案内図。

 

 

 

総本山長谷寺の石標。

 

 

参道から見る仁王門。

 

仁王門【国重要文化財】  明治18年(1885)に建立。長谷寺の総門。屋根は入母屋造、本瓦葺の三間一戸の楼門。平安時代、一条天皇頃に創建された。その後、度重なる火災により焼失に遭っている。

 

 

仁王門から参道方向を見る。

 

 

 

 

 

金剛力士像。 近すぎて撮れなかった・・・・・。

 

 

勅額「長谷寺」の文字は後陽成天皇が自ら書いた宸筆である。

 

 

登廊【国重要文化財】 入口の仁王門から本堂までは399段の登廊(のぼりろう、屋根付きの階段)を上る。

 

 

登廊は、下登廊、繋屋、中登廊、蔵王堂、上登廊と5棟に分かれているが、連続して108間ほどあり、煩悩の数にちなんでいる。約200mの長さである。そんなに急でもない石段の廊下は、雰囲気が良い。

 

 

登廊の途中にはほかの堂宇に繋がる道もあるが、山の傾斜面にある境内は、どこをとっても階段と坂道だらけ。登廊の両側にはいくつかの塔頭が建てられている。

 

 

 

登廊から見た改修中の宗宝蔵。ちょい見、お城のような雰囲気。

 

 

先ずは、下登廊を上り切る。

 

 

 

 

 

下登廊と中登廊の中継地点となる繋屋の屋根裏。

 

 

 

中登廊の紅梁には唐草の模様が彫刻されている。

 

 

こちらは柱の土台部分。腐り欠けた部分を切取り継足した。

 

「紀貫之の古郷の梅」 登廊を上り切った処に梅の木がある。紀貫之は幼少期を長谷寺で過ごし、成人してから長谷寺を訪れた際に詠んだ歌。「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににおいける」。歌に詠まれたのが、ここの梅だったのかな? それにしては細木の梅だな・・・・。

 

 

本堂の東側にある見晴らし台・休憩所。

 

 

三社権現。 初瀬の里を守る地主神。

 

 

本殿の前にある常香炉。

 

 

本堂【国宝】  本尊を安置する正堂と、相の間、礼堂からり、平面構成・屋根構成とも複雑で傾斜地に南を正面として建つ巨大な建築。創建は奈良時代で、室町時代の天文5年(1536)までに計7回焼失している。その後、本堂は豊臣秀長の援助で再建に着手し、天正16年(1588)に竣工した。ただし、現存の本堂は、徳川家光の寄進を得て、正保2年(1645)に工事着手し、5年後の慶安3年(1650)に落慶したもの。

 

鐘楼【国重要文化財】 登廊を上り切ると鐘楼の下にでる。梵鐘は文亀元年(1501)の銘が彫ってあり「尾上の鐘」と呼ばれる。藤原定家が詠んだ「高砂の尾上の鐘の音すり暁かけて霜や置くらん」にちなむようだ。

 

 

本堂の入り口。

 

本堂の相の間  本堂は、おおまかには本尊を安置する正堂(左)、参詣者の為の空間である礼堂(右)、これら両者をつなぐ相の間の3部分からなる。相の間は一段低い石敷きで、化粧屋根裏とする。正堂の平面構成は複雑だが、おおむね手前の奥行1間分を外陣、その奥を内陣とする。

 

 

礼堂から正堂を見る。正堂には本尊の十一面観音立像が安置。内陣は石敷き、格天井とし、その中央の二間四方を本尊を安置する内々陣とする。

 

 

 

 

本尊 十一面観音立像【国重要文化財】 像高三丈三尺六寸(1018.0cm)我が国で最も大きな木造仏像。現在の本尊像は天文7年(1538年)の再興。7回目の焼失後、天文7年(1538)に再興(現存・8代目)。神亀間(724~729)に、近隣の初瀬川に流れ着いた巨大な神木が大いなる祟りを呼び、恐怖した村人の懇願を受けて開祖徳道が祟りの根源の神木を観音菩薩像に作り替えて初瀬山に祀ったのが起源。(写真はネットから借用)

 

 

礼堂は床は板敷き、天井は化粧屋根裏(天井板を張らず、構成材をそのまま見せる)とし、奥2間分は中央部分を高めた切妻屋根形の化粧屋根裏。

 

 

礼堂から正面を見る。

 

 

礼堂の西を見る。床に映える青紅葉を撮ったつもりであるが・・・。紅葉が床に映える季節もシャッターチャンス。

 

 

礼堂から南側に広がる舞台を見る。

 

 

本堂の南側。回廊から舞台に繋がる。垂れ幕にある白、赤、黄、緑、紫の五色は仏の五つ智慧(法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智の)を表す。

 

 

長谷寺の特徴の前面に広がる舞台。京都の清水寺の本堂と同じ懸造り。

 

 

舞台は勾配が付いている。舞台を支える柱に筋交いは無く横に貫を通しただけの造り。

 

 

回廊から西側を見る。

 

 

本堂の西方の丘には「本長谷寺」と称する一画があり、五重塔などが建つ。

 

 

舞台から見た、初瀬山の麓に広がる堂宇。ここからの眺望がすばらしい。「百寺巡礼」にも著者の五木寛之が「ここからの眺望が見事だ。パノラマのように景色が広がって見える」と書いている。

 

 

回廊。

 

 

本堂の妻側の懸魚。

 

 

礼堂の正面に掲げられた扁額「大悲閣」。 悲しみの字は慈悲を表す。

 

 

正面の香炉。

 

 

礼堂の内側に「豊山長谷寺」の扁額。

 

 

回廊及び舞台の柱脚の足元部分には屋根が掛けられいるが、基礎を防護するための屋根かな?

 

 

本堂の西側の本長谷寺側から本堂方向を見る。

 

 

本長谷寺の前の参拝路。境内には道を結ぶ参道が整備され歩きやすい。ただし階段を除けばだが、山の斜面に張り付くように配置された寺なので階段、坂道は避けられない。

 

本長谷寺  天武天皇の勅願により、道明上人がここに精舎を造営したことから、今の本堂に対し本長谷寺と呼ぶ。朱鳥元年(686)、道明上人は天武天皇の御病気平癒のため『銅板法華説相図(千仏多宝仏塔)』(国宝)を鋳造し、本尊として祀られた。

 

 

本長谷寺付近から長谷寺を見る。

 

 

弘法大使御影堂。

 

 

五重塔  昭和29年(1954)建立。桧皮葺、高さ 31.39m。

 

塔は擬宝珠高欄を付けた基壇の上に建つ。組物は三手先、軒は二軒繁垂木をもちいる。戦後では最初に建てられた本格的五重塔。もともとこの寺には三重塔が建っていたが明治の初め焼失し、塔の跡だけは残っている。五重の塔の場所は三重の塔の跡とは異なり、再建ではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

南に下り「奥の院 陀羅尼堂」の菩提院。

 

 

本堂からかなり下り奥の院を通りさらに降る。

 

 

 

坂道、階段を下ってきた平坦なところの本坊がある。

 

 

 

 

本坊  長谷寺復興のため、豊臣秀長に招かれた専誉が入山し、天正16年(1588)に創建。当初は本堂近くにあったが、第八世快寿が現在地に移り、寛文7年(1667)に、第4代将軍徳川家綱の寄進により再建。明治44年(1911)に焼失し、現在の建物は大正8年(1919)から13年(1924)にかけて再建されたもの。

 

 

正面入り口玄関。この本坊区域には大講堂・大玄関及び庫裏・奥書院・小書院・ 護摩堂・ 唐門及び回廊・中雀門・土蔵それに設計図面が重要文化財に指定されている。

 

 

本坊の前に、平成22年(2010)に平成天皇皇后がお手植えした松の木。

 

 

本坊の玄関の前庭。本堂が正面によく見える場所で、団体の参拝客の集合写真を撮る場所にもなっている。

 

 

本坊から本堂を見た。

 

 

初瀬山の山麓から中腹にかけて伽藍が広がる。本坊の前から見る。

 

 

本坊の前からの帰り道。

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」からーーー長谷寺の観音信仰は、「現世利益」を願うものだ。と前に述べた。それは、本尊が観音と地蔵が合体した特殊な像である。というところでも納得がいく。さらに、水子地蔵でもわかるように、この寺は庶民信仰、世俗信仰によって支えられている。現代人はこうして霊場巡りや寺巡りをすることで、なにを求めているのか。最近、巡礼ブームに対して、よく使われているのは、「こころの癒し」とい月並みな言葉だ。最初の目的は「病気が治りますように」とか「仕事が見つかりますように」とお願いすることかもしれない。世の中には、そうせずにはいられないほど苦しんでいる人もいる。それは否定できない。けれども、いくら現世利益を祈願していても、それが簡単にかなうと思っている人は、実際には少ないだろう。やはり、それ以上に、祈ることでこころの安らぎを得ることのほうが、その人にとっては大きな意味があるのではないか。(中略)もちろん、それでも人生の苦悩はつきない。では、いったいなにが変わるのか。たぶんそれは、苦しみながらも、それに耐えていける、ということではないか。

 

 

御朱印

 

 

参考文献   長谷寺HP  フリー百科事典Wikipedia  奈良県観光局ならの観光力向上課HP

       五木寛之著「百寺巡礼」第一巻奈良(講談社)

 

長谷寺 終了

 

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35 室生寺

2023-09-24 | 奈良県

第1番 室生寺

 

女たちの思いを包み込む寺

 

五木寛之著「百寺巡礼」の第一番目の寺が室生寺である。その本の書き出しに「室生寺は山中の寺である。奈良県宇陀郡室生村(編集部注/現在は宇陀市室生区)。緑濃い杉木立につつまれて、山肌にはりつくように伽藍が散在する。桜も石楠花もまだ咲かず、したたる緑もなく、燃えるような紅葉もないさびしい時期。三月の室生寺はひっそりと静まりかえっていた」。

春には桜、晩春には石楠花、初夏には青もみじ、秋には紅葉が平安初期の美しい伽藍を彩り、古と変わらぬ室生寺ならではの景観が広がる。

この寺は宝亀年間(770~781)に、興福寺の僧・賢環(714~793)によって開かれた。天武天皇の勅願により、修験道の祖である役の行者・小角がこの地に初めて寺を建立したと伝えられています。奈良時代末に至り、後に桓武天皇となられた山部親王の延寿祈祷をきっかけに、興福寺の高僧・賢璟が勅命を受け、平安遷都まもなく弟子の修圓が堂塔伽藍を建立。後に空海の弟子で修圓とも親交の深い真泰が真言密教を携えて入山し、灌頂堂や御影堂等が建立された。なお、宝亀年間に賢璟はすでに60歳代で、彼の在世中にどこまで寺観が整っていたかはわからず、室生寺の実質的な創建者は次代の修園(771~835)であろうといわれている。修園は興福寺別当を務めると共に、天台宗の宗祖である最澄と交流があった。室生寺は中世を通じ興福寺末寺であったが、江戸時代の元禄7年(1694)に護持院隆光の拝領するところとなり、護国寺末の真言寺院となった。翌年、徳川五代将軍綱吉の生母桂昌院は室生寺に2千両を寄進し、これをもとに堂塔の修理が行われた。元禄11年(1698)、室生寺は真言宗豊山派の一本寺となって護国寺から独立し、現代に至る。には昭和39年(1964)には真言宗豊山派から独立し、真言宗室生寺派の大本山となった。

 

参拝日    平成30年(2018)10月3日(金) 天候晴れ

 

所在地    奈良県宇陀市室生78                            山 号    宀一山(べんいちさん)または檉生山(むろうさん)              宗 旨    新義真言宗                                 宗 派    真言宗室生寺派                               寺 格    大本山                                   本 尊    如意輪観音(国宝)                             創建年    宝亀年間(770~781)                            開 基    賢璟                                    別 称    女人高野                                  札所等    仏塔古寺十八尊第18番 ほか                         文化財    金堂、五重塔、木造釈迦如来立像(国宝)弥勒堂、御影堂、木造文殊菩薩立像ほか  (国重要文化財)

   

 

奈良からJR桜井線に乘り約30分で桜井駅に着き、近鉄大阪線に乗換て、室生口大野駅で降りる。

 

 

室生口大野駅前。 駅前から路線バスで執着まで。

 

 

停留所から集落の中を歩く。

 

 

 

 

停留所から5~6分で室生寺の入り口に到着。「女人高野室生寺」と彫られた石碑がある。女人高野とは、女人禁制であった高野山に対し、女性の参拝も許されていた室生寺の別名。

 

門前に連なる茶店や旅館を過ぎると、室生川の清流に朱塗りの反り橋が架かっている。「太鼓橋」と呼ばれるこの橋を渡ると室生寺の境内になる。

 

 

入口の太鼓橋。室生寺の南側を流れる室生川に架かる朱色の橋。昭和34年(1959年)の伊勢湾台風によって流され、その後にお再建された新しい橋。

 

 

 

 

太鼓橋を渡った正面には室生寺の表門。 宝物殿の新設に工事に伴い通路を仮設材で覆われていた。

 

 

女人高野室生寺の石碑の上部には、九目結紋の家紋が彫られている。これは、五代将軍・徳川綱吉の生母であった桂昌院の寄進により、室生寺の堂塔が修繕されたことによるもの。

 

 

案内図。

 

 

表門を潜ったところに拝観受付がある。

 

 

表門から仁王門に続く。

 

 

左側に護摩堂。

 

 

案内地図

 

 

仁王門 江戸時代中期の元禄年間(1688~1704)に焼失し、その後しばらく放置されていた。昭和40年(1965)に再建された。 重層の檜皮葺きの楼門。一本柱四本の前後に控え柱四本が建てられた三間一戸の八脚門(八足門)。

 

 

 

 

金剛力士像(仁王像)右手は阿形像で、左手に仏敵を退散させる武器の金剛杵を持つ。左手は吽形像で右手の指を開き、怒気を帯びて口を結んでいる。

 

 

潜った門を振り返り門前の参道を見る。門の脇に宝物殿の新築工事中。 

 

 

バン字池  仁王門から直ぐの左側に、梵字の「バン」の形をした池がある。その少し上方にある室町時代の春日造りの小さな祠に収められた河川の神・弁才天が祀られていた。

 

 

境内。

 

池の先は、自然石積みの幅広い石段の参道「鎧坂」へと続く。石段の両脇には低木の石楠花が植えられ、それらを見守るように高木の枝々が茂っている。登り始めると石段の頂きに金堂の屋根が見え、室生寺の序章ともいえる美しい景観となっている。

 

 

鎧坂を上がり切って下を見てみた。

 

 

金堂【国宝】 桁行5間、梁間5間で、桁行5間、梁間4間の正堂(内陣)の手前に、梁間1間の礼堂を孫庇として付した形になる。孫庇部分は片流れ屋根となり、両端を縋破風として収めている。

 

堂は段差のある地盤に建っており、建物前方の礼堂部分は斜面に張り出して、床下の長い束で支えている。このような建て方を懸造りが特徴。

 

 

正堂部分は平安時代前期(9世紀後半)の建立であるが、鎌倉時代末期に大修理を受け、多くの部材が取り替えられている。

 

 

外陣の様子 天井に駕籠が吊るされている・・・・。

 

 

金堂の扁額。

 

堂内に安置されていた仏像のうち、一部は2020年開設の寶物殿に移されている。かつては須弥壇上に向かって左から十一面観音立像(国宝)、文殊菩薩立像(重要文化財)、釈迦如来立像(国宝)、薬師如来立像(重要文化財)、地蔵菩薩立像(重要文化財)を横一列に安置し、これらの像の手前には十二神将立像(重要文化財)が立っていた。このうち、十一面観音立像及び地蔵菩薩立像ならびに十二神将立像のうち6体は寶物殿に移されている

 

釈迦如来立像【国宝】 平安前期を代表する、堂々として均整のとれた榧(かや)の一木像。本来は薬師如来として造像されたもの。特に朱色の衣の流れるような衣紋は漣波式と呼ばれる独特のもので、この様式を室生寺様とも称している。光背には同じ印相の七仏坐像や宝相華・唐草文が華やかに描かれている。

 

左手に特徴。

 

 

今度の柱間の苔むした様は年代を感じる。

 

 

一段上(本堂のある処)から見た金堂。

 

 

弥勒堂【国重要文化財】  金堂の左手にある。鎌倉時代の建築で、屋根は檜、椹の杮葺。周囲には縁が巡る。内陣には弥勒菩薩立像や釈迦如来坐像(国宝)などが祀られている。

 

弥勒菩薩立像【国重要文化財】 室生寺の仏像の中で最も古い。奈良時代から平安時代にかけての仏像で、榧(かや)の一本造。本体、蓮華座の上半分と両手・天衣・飾りまで、すべて一つの木材から彫り出されている。正面から見ると、腰のあたりを少しだけ曲げた姿勢をしているのも特長。 

  

 

本堂(灌頂堂)【国宝】   - 室生寺の密教か進んでいた鎌倉時代後期、元延慶元年(1308)の建立。入母屋造、檜皮葺き。桁行5間、梁間5間。梁間5間のうち、手前2間を外陣、奥の3間を内陣とする。この堂は灌頂堂(かんじょうどう)とも称され、灌頂という密教儀式を行うための堂である。

 

 

 

 

 

正面から見る。正面に蔀戸を配し和様となっているが、桟唐戸を使用するなど大仏様の折衷様式。

 

 

扁額「悉地院」 かつて室生寺にあった悉地院から移されたもの。如意輪観音菩薩像も、その悉地院に祀られていたという。

 

如意輪観音菩薩像【国重要文化財】本堂正面の厨子に安置される観音像は、穏やかな作風の榧(かや)の一木造り。観心寺・神咒寺(かんのうじ)の如意輪観音とともに日本三如意輪の一つ。

 

 

本堂の内部外陣の様子。ちなみに「灌頂」とは、頭に水をかけて、悟りの位に進んだことを証する儀式のこと。

 

 

 

本堂の脇から五重塔側に進む。

 

 

本堂の脇に出ると見えてきた・・・あの五重塔。

 

 

境内の急な石段の一歩ずつのぼっていくと、突然、空中に浮かぶように五重塔が現れる。その瞬間、思いがけないほどの小ささゆえの優美なすがたに目をうばわれた。(五木寛之著「百寺巡礼」より)

 

 

 

 

五重塔 【国宝】 延暦19年(800)頃の建立。木部を朱塗りとした塔。屋外にある木造五重塔としては、法隆寺の塔に次いで2番目に古い。国宝・重要文化財指定の木造五重塔で屋外にあるものとしては日本最小である。高さは16メートル強、初重は1辺の長さ2.5メートルの小型の塔で、高さは興福寺五重塔の3分の1ほどである。

 

 

小規模な塔の割に太い柱を使用していることなどが特色である。

 

通常の五重塔は、初重から1番上の5重目へ向けて屋根の出が逓減(次第に小さくなる)されるが、この塔は屋根の逓減率が低く、1重目と5重目の屋根の大きさがあまり変わらない。その他、全体に屋根の出が深く、厚みがあること、屋根勾配が緩いこと、屋根の大きさが1重目と5重目とで変わらないのに対し、塔身は上へ行くにしたがって細くなり、5重目の一辺は1重目の6割になっている。

 

最上部の九輪の上に「水煙」という飾りが付くが、この塔では水煙の代わりに宝瓶(ほうびょう)と称する壺状のものがあり、その上に八角形の宝蓋(ほうがい)という傘状のものが乗っている珍しい形式である。

 

 

 

 

 

 

 

 

平成10年(1998)9月22日、台風7号により高さ約50mの杉の木が倒れ屋根を直撃。西北側の各重部の屋根・軒が折れて垂れ下がる大被害を受けた。しかし、心柱を含め、塔の根幹部は損傷せずに済み、復旧工事を平成11年(1999)から平成12年(2000)にかけ行った

 

 

修圓廟。

 

 

奥の院への入り口。

 

 

このような注意書きも・・・・・。

 

 

朱塗りの無明橋。ここから室生寺のさらに奥深いスポットに進む。

 

「無明橋」を通り過ぎると、いよいよ室生寺の長い石段に挑戦し、奥の院を目指す。石段はかなり勾配がきつく、先の見えない石の段がどこまでも続く。大自然に癒されながら、杉の大木の間を息を切らしながら上る。 注・仁王門から奥の院までの石段が700段となる。

 

 

階段の石に何かしら字が彫ってあるが、なんだろう。

 

 

勾配がきついので、後ろを振り返ると怖いくらい。

 

 

まだまだ続く。

 

 

やっと頂上が見えてきた。そこには懸崖造りの堂宇。

 

 

 

 

 

懸造りの堂宇・常燈堂。一般には舞台造りとして知られる懸造り。崖地をそのまま利用して堂宇を建てる。どうしても下から支える柱を補強するため、井桁に組む木組みが特徴。

 

 

 

階段を上り切った奥の院の納経所。

 

御影堂【国重要文化財】 弘法大師(空海)の42歳のお姿を写した像を安置する鎌倉時代に建立された堂宇。大師堂とも呼ばれている。方三間の単層宝形造り、屋根は厚板段葺きで頂上部に石造りの露盤が置かれる珍しい屋根。

 

 

常燈堂  昭和初期に建てられた。急な斜面に建築物を建てる懸造(かけづくり)で、ほとんどせり出して堂の建物が造られている。

 

 

堂の入り口に奉納された閻魔大王が大きく書かれた地獄絵の額。

 

 

扁額は金剛殿。

 

 

堂の周りは回廊が張り出し、懸造りに相応しく京都・清水寺と同じように幅の狭い舞台となっている。ここから見る景色が素晴らしい。特に秋の紅葉は素晴らしいと言う。

 

心地よい疲労感を抱きながらこの舞台に立ち、深い山の中に点在し大自然と共存する古寺の素晴らしさを改めて感じることができた。

 

常燈堂の舞台から、息を切らして昇ってきた石段を見下ろす。なんだか「奥の院」を征服したような気分になれる。

 

 

常燈堂の回廊(舞台)から見た景色。

 

 

 

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー寺というものは、寺だけで成り立っているのではない。その地区の村や町の人びとの思いや信仰心によってつづいてきているものだ。この室生寺も、室生のさとの人々の思いによって、千年、千二百年というふうにずっと守られ、育てられてきたのだろう。国宝級の伽藍や仏像を保ってきた寺にも、たいへんな苦労があっただろう。しかし、私はむしろ、その寺を支えている人びとの思いこそが国宝級ではないか、という気がする。そして、小さきゆえに強く、強くないがために強いという「女人高野」と呼ばれる室生寺の不思議さ。山中にこの小さな寺がつくられ、千三百年ものあいだしなやかに生きつづけきたこと。それは、女性が永遠の謎であるのと同じように、永遠の謎かもしれない。室生寺の急な石段をのぼりおりしながら、そのことを肌で感じた一日だった。

 

 

御朱印

 

 

参考文献   室生寺HP  フリー百科事典Wikipedia  奈良県観光局ならの観光力向上課HP

       五木寛之著「百寺巡礼」第一巻奈良(講談社)

 

室生寺 終了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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34 中宮寺

2023-09-22 | 奈良県

第7番 中宮寺

半跏思惟像に自己を許されるひととき

 

 

 

小学校4年の時に先生から教えてもらった弥勒菩薩のこと、特に先生が示してくれた指の形は今でも覚えている。それから60年余り、初めてその弥勒菩薩にお目にかかる。この寺、中宮寺は、法隆寺の東院伽藍の脇に位置する。夢殿の東裏側にあり、法隆寺の塔頭になるのかな?

聖徳太子が母后のために建立した尼寺。現在は法隆寺の東院に隣接しているが、創建当初は500メートルほど東の現・中宮寺跡史跡公園にあった。現在地に移転したのはこの寺が、代々皇族、貴族などが住持となる格式の高い門跡寺院となった16世紀末頃のことと推定される。旧寺地の発掘調査の結果から、法隆寺と同じ頃の7世紀前半の創建と推定されるが、創建の詳しい事情は不明である。発掘調査では、尼寺である桜井尼寺と同系統の瓦が出ていることから、当初から尼寺であったようである。寺は、平安時代以降衰微していったが、鎌倉時代には中興の祖とされる信如比丘尼によって復興が図られた。その後、戦国時代に寺は炎上したため、ついに現在地にあった法隆寺の子院に避難し、そのままそこに寺基を移すこととなった。太平洋戦争後、法隆寺を総本山とする聖徳宗に合流した。

 

参拝日    平成30年(2018)10月2日(木) 天候晴れ

 

所在地    奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺北1丁目1-2                    山 号    法興山                                   宗 派    聖徳宗                                   本 尊    如意輪観音(国宝)                             創建年    推古天皇15年(607)・伝                           開 基    聖徳太子・伝                                中 興    信女比丘尼                                 正式名    法興山中宮寺                                札所等    聖徳太子霊跡第14番 ほか                          文化財    木造菩薩半跏像(如意輪観音像)・天寿国繍帳残闕(国宝)ほか

 

 

 

案内図  下図グリーン線の枠内。

 

 

 

法隆寺東院伽藍を出て北東に向かう。

 

 

右手側が中宮寺の三門。

 

 

中宮寺の参拝への出入りの門。

 

 

山門  普段は通り抜けできない。

 

 

山門に掲げられた扁額は山号の法真山。

 

 

門を入り受付などのある建物。

 

 

表御殿【国有形文化財】受け付けから直ぐに表御殿が建つ。内部非公開。

 

 

書院造りで江戸時代後期の建立。

 

 

 

 

 

中門。 表御殿を通り過ぎ中門から本堂のエリアに入る。

 

 

中門から本堂に続く。

 

 

本堂脇から中門方向を見る。

 

 

本堂  高松宮妃の発願により昭和43年(1968)に建てられた、和風の鉄筋コンクリート造による現代建築。設計は建築家の吉田五十八先生ある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

木造菩薩半跏像 【国宝】  中宮時の本尊。飛鳥時代の作。像高132.0cm。材質はクスノキ材。一木造ではなく、頭部は前後2材、胴体の主要部は1材とし、これに両脚部を含む1材、台座の大部分を形成する1材などを矧ぎ合わせ、他にも小材を各所に挟む。両脚部材と台座部材は矧ぎ目を階段状に造るなど、特異な木寄せを行っている。現状は全身が黒ずんでいるが、当初は彩色され、別製の装身具を付けていたと思われる。経年で彩色が失われたが、芸術として高く評価されている。(中宮寺HPより引用)。

 

天寿国繡帳残闕(てんじゅこくしゅうちょう ざんけつ)  染織品は、陶磁器、金属製品などに比べて保存が難しい。本品は断片とはいえ、飛鳥時代の染織の遺品として極めて貴重である。現在は奈良国立博物館に寄託。本堂には、昭和57年(1982)に製作されたレプリカを安置。聖徳太子の母、穴穂部間人皇女と聖徳太子の死去を悼んで王妃橘太郎女が多くの采女らとともに造った刺繍の曼荼羅である。

 

 

本堂の縁から法隆寺西院の夢殿の屋根を見る。

 

 

向拝から入り口を振り返る。

 

 

夢殿の屋根と光輪がよく見える。

 

 

拝観が終わるころ修学旅行の群れが到着。

 

 

境内を見る。

 

 

帰り際に横から本堂を見る。

 

 

境内には、昭和天皇妃の香淳皇后の歌碑。「​​​​​中宮寺乃 都い地のイち尓 しつも利天​​​
 さゝん久王の花 清ら可耳佐久」。  中宮寺の築地の位置に静まり 山茶花の花が清らかに咲くと言う意味。

 

 

案内図。

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー中宮寺の半跏思唯像は弥勒菩薩とも如意輪観音ともいわれるが、いずれにしても菩薩であり仏(如来)ではない。悟りをひらいた仏(如来)に対して、菩薩はいわば修行中の身である。遠いところにいる仏さまではなく、この世にとどまって衆生を救おうとしている。ある意味では、菩薩とはそういう修行をなさっている存在なのだ。中宮寺の半跏思唯像は、かすかに右手の指を頬に当てて、物思いにふけっているように見える。五十六億七千万年後という遠い未来に、この世のさまざまな人びとをどうやって救えばいいだろうか、と考えていらっしゃるのだろう。何気なく、そのお顔から下の方へ視線を向けたとき、はっとした。この顔に対面する人は、なんともいえないそのお顔の繊細な表情にとらわれてしまう。しかし、それ以外のところを拝見していると、意外にも手首はしっかりなさっている。また、足も頑丈そうで安定感がある。これは衆生を救うために大地を駆けめぐった足だ。おそらく、ありとあらゆる場所を歩き回られたに違いない。そんな尊いおみ足だ、と感じたのである。

 

 

御朱印。

 

 

中宮寺 終了

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33 法隆寺

2023-09-15 | 奈良県

第6番 法隆寺

聖徳太子への信仰の聖地

 

 


 名画や国宝を観賞するのには、なるべく混雑を避けゆっくり見たいというのは誰も同じことである。どうせ見るならと、誰もいないうちにと思いJR奈良駅発8時の電車に乗り法隆寺に向かった。10分程度で法隆寺駅に着く。法隆寺まではバスかタクシーが便利だが、タクシーはもったいないので歩くことにした。松並木の参道まで約15分、参道を5分ほど歩いて南大門にたどり着いた。開門と同時に境内に入る。やはり人はほとんど見当たらず、団体も修学旅行生もまだ来ていない。

法隆寺は、現存する木造建築では世界最古の建造物である。聖徳太子と推古天皇によって建立された。境内は築地塀に囲まれ、西院と東院に大きく分かれ、国宝・重要文化財の建築物だけでも55棟もある。また、建造物以外にも優れた仏教美術品を多数所蔵しており、その数は国宝だけで38件・150点、重要文化財を含めると3104点にもなる。法隆寺地域の仏教建造物として、平成5年(1993)に、世界文化遺産に登録された。
東大寺や春日大社と並んで奈良を代表する観光スポットである。

創建当時は斑鳩寺と称し、後に法隆寺となった。法隆学問寺としても知られる。法隆寺は7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺である。創建は、推古15年(607)とされる。金堂と五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約18万7千平方m。西院伽藍は、現存する世界最古の木造建築物群である。建造物以外にも飛鳥・奈良時代の仏像、仏教工芸品など多数の文化財を有する。

日本書記によれば、聖徳太子こと厩戸皇子は推古9年(601)に飛鳥からこの地に斑鳩宮を建造し、推古天皇13年(605)に移り住んだ。現在の法隆寺東院の所在地が斑鳩宮の故地である。この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺で、すなわち法隆寺である。

昭和14年(1939)の旧伽藍の発掘調査以降、現存の法隆寺西院伽藍は聖徳太子在世時の建築ではなく、一度焼亡した後に再建されたものであることが分かった。現存の西院伽藍については、持統7年(693)に法隆寺で仁王会が行われていることから、少なくとも伽藍の中心である金堂はこの頃までに完成していたとみられる。また、和銅4年(711)には五重塔初層安置の塑像群や中門安置の金剛力士像が完成しているので、この頃までには五重塔、中門を含む西院伽藍全体が完成していたとみられる。皇極天皇2年(642)、蘇我入鹿が山背大兄王を襲った際に、斑鳩宮は焼失したが法隆寺は無事に残ったと考えられた。なお、八角堂の夢殿を中心とする東院伽藍は、天平10年(738)頃、行信僧都が斑鳩宮の旧地に太子を偲んで建立したものである。

 

参拝日    平成30年(2018)10月2日(木) 天候晴れ

所在地    奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1
山 号    なし
宗 派    聖徳宗
正式寺名   法隆寺 
別 称    斑鳩寺
寺 格    総本山
本 尊    釈迦如来
創 建    (607年)
開 基    推古天皇、聖徳太子
札所等    南都七大寺
文化財    金堂、五重塔、夢殿ほか(国宝) 
       中門金剛力士像ほか(国重要文化財)

 

境内案内図。

 

参道の松並木

 

南大門に続く参道。二列の松並木の間が通路だが、外側に道路と歩道がありそちら側が通り。200m続く参道の沿道にはおみやげ屋と食べ物屋が並ぶ。

 

境内を取り囲む築地塀。土の塀は杉材の焼き板を古土に混合した粘性土を下から押さえて塗り固めたもので、コンクリートよりも強固と言われる。

 

 

南大門から参道を振り返る。

 

 

南大門【国宝】  西院伽藍の南方、境内入口に建つ。入母屋造の一重門。室町時代永享10年(1438)に当時の西大門を移築したもの。入母屋造りだが建築当初は切妻屋根であった。屋根の形状は反り返り軒反りという古代中国から伝わった建築技法。

 

 

12本の柱で支える八脚門で、基壇の上に設けられ仁王像の無い門である。

 

 

門の柱にも年の古さが見える。

 

 

南大門をとおして中門を見る。(写真はyoutubeより引用)。

 

 

中門の前にある手水舎。

 

 

肝心の中門は平成30年(2018)から約1年間の改修工事でシートにすっぽり覆われている。

 

中門【国宝】    入母屋造の二重門。正面は四間二戸、側面は三間。日本の寺院の門は正面の柱間奇数(3間、5間、7間等)になるのが普通だが、この門は正面柱間が4間で、真中に柱が立つ点が特異である。門内の左右に塑像金剛力士立像を安置する。日本最古(8世紀初)の仁王像として貴重なものであるが、風雨にさらされる場所に安置されているため補修が甚だしく、吽形像の体部は木造の後補に代わっている。門は現在、出入り口としては使用されない。 (写真はyoutubeから引用)。

 

 

 

 

金剛力士像【国重要文化財】 仁王像は現存最古の仁王像で、向かって右の明るい塗装の像は「阿行像」、左の黒い塗装の像は「吽行像」。明るい像は光を、黒い像は影を表している。天平年代(711~)から二体ともこの中門に置かれたという記録がある。

 

 

屋根の妻側

 

 

金堂・五重塔は南に中門を配し北に講堂を設けた回廊で囲まれる。拝観者は廻廊の西南隅から入る。

 

 

拝観者入り口から入りと、目前に五重塔と金堂が現れる。

 

 

 

 

五重塔【国宝】  創建年は飛鳥時代の推古天皇13年~15年(606~607)頃と推計され、木造五重塔として現存世界最古のもの。裳階付きで、総高さは32.55mの塔。うち相輪は9.69m、基壇1.11mであり、塔身22.87mである。初重から五重までの屋根の逓減率(大きさの減少する率)が高いことがこの塔の特色。つまり初層の屋根から順に上に行くにしたがって50㎝~60㎝ほど小さくなっているのだ。

 

 

五重の屋根の一辺は初重屋根からだんだん小さくなり約半分ほどである。初層から四重目までの柱間は通例の三間だが、五重目が二間となっている。

 

 

 

 

初重内陣には東面・西面・南面・北面それぞれに塔本四面具(国宝)と呼ばれる塑造の群像を安置する(計80点の塑像が国宝)。心礎(心柱の礎石)は、地下3mほど彫り下げられ個所に心礎(新柱の基礎となる疎石)がある。

 

 

 

 

 

五重塔と金堂が建ち並ぶ姿が法隆寺のベストショットポイントなのだが、素人写真ではこの程度。

 

 

金堂【国宝】 入母屋造の二重仏堂。桁行五間、梁間四間、二重、初層裳階付。

金堂の創建は、推古天皇元年(593)~和銅2年(709)の飛鳥時代と推定される。外観は2階建てに見えるが、中は1、2階分吹き抜けとなっている。一層の屋根の下に付けられた裳腰は、風雨から構造物を保護するために付けられたもの。構造は簡素であるが、建物を多層に見せることで外観の優美さを際立たてて見せる効果がある。

 

 

金堂の基礎部分は二段にした二重基壇であり、中国建築様式を取り入れた飛鳥時代建物の特徴。

 

 

 

金堂の壁画【国重要文化財】 日本の仏教絵画の代表作として国際的に著名なものであったが、昭和24年(1949)に壁画模写作業中の火災により、初層内陣の壁と柱を焼損した。黒こげになった旧壁画と柱は現存しており、寺内大宝蔵院東側の収蔵庫に保管されているが、非公開である。

 

釈迦三尊像【国宝】 推古天皇31年(623)に、止利仏師の作で光背銘を有する像。日本仏教彫刻史の初頭を飾る名作である。図式的な衣文の処理、杏仁形(アーモンド形)の眼、アルカイック・スマイル(古式の微笑)、太い耳朶(耳たぶ)、首に三道(3つのくびれ)を刻まない点など、後世の日本の仏像と異なった様式を示し、大陸風が顕著である。(写真は法隆寺HPから引用)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2層目の高欄の格子は卍崩しと言われる。高蘭を支える束に人の地を模した人字型割束を用いた。

 

二重目の軒を支える四方の龍の彫刻を刻んだ柱は構造を補強するため。修理の際に付加されたものである。四方の軒にそれぞれあり、昇龍の彫刻が2本、降龍の彫刻が2本。

 

大講堂【国宝】  桁行九間、梁間四間、入母屋造、本瓦葺き。平安時代の延長3年(925)に焼失し、正暦元年(990)に再建された。平安時代に作られた薬師三尊像(国宝)と四天王像(国重要文化財)を安置する。

 

法隆寺における学問の研鑽を行う中心的な道場となってる。伽藍には概ね講堂が設けられ、金堂の後ろに配置される。

桂昌院灯籠  大講堂の中央前に建つ青銅製の灯籠。元禄7年(1694)、金堂や五重塔を解体し元禄大修理をおこなった。その費用を得るため、江戸で出開帳を勧進。五代将軍綱吉とその母桂昌院の上覧を受けた。その際に桂昌院から金400両、灯籠代として金50両、その他米200表などの寄進を受け、翌年も金300両の寄進を受けた。こうして元禄の大修理の工事代の大部分を桂昌院が負担し、その際に作られた灯籠。

 

 

 

 

 

大講堂の外陣を見る。 外陣および廊下は金堂、五重塔を囲む伽藍の回廊に繋がる。

 

 

大講堂から見た五重塔と金堂。回廊から眺める五重塔や金堂は、軒による直射日光を避け同じものをみても異なる光景を見ることができる。

 

回廊【国宝】 伽藍を巡る回廊。法隆寺の中門の左右から五重塔と金堂を囲む回廊。東回廊の長さは約76m、西回廊の長さは約72mと異なるのは、金堂と五重塔との釣り合いからと考えられる。回廊の柱はシンプルだが、柱はエンタシス柱といわれて、3分の1くらいのところが一番太くなっており、上の部分と下の部分を徐々に細くなる。

 

 

柱の対面は連子窓を等間隔に配置し、回廊の隅々まで太陽の光を差し込ませる。

 

 

金堂と五重の塔の伽藍をでて法隆寺の境内。

聖霊院【国宝】 創建は鎌倉後期の弘安7年(1284) 正面一間通り庇付、向拝一間、檜皮葺。保安2年(1121)に東室の南端六間分を仏堂に改造して聖徳太子像を祀ったが、弘安7年(1284)独立の仏堂として全面的に建て替えられた。内部は前二間を外陣(礼堂)、後方を内陣、脇陣、後陣に区画し、全面を拭板敷とする。仏堂ではあるが、平面形式や外観は、寝殿造を彷彿させるものがあり、当時の住宅を知るうえでも貴重な建築だといわれる。

 

綱封蔵(こうふうぞう)【国宝】 食堂・細殿の西南方、妻室の東に隣接して建つ南北棟の高床の倉である。部材の材質や手法から、建立年代は平安時代中ごろと推定される。自然石の礎石上に太い丸柱を立てた造り。

 

平面は桁行九間、梁間三間を方三間ずつ三区に分け、南北両区を倉にして中央部は吹抜け。高床造で葛石をめぐらした低い土壇上に建つ。中央の吹抜け部分に向かって扉を開く形式こそ本来の双倉の姿の例。

 

大宝蔵院 法隆寺の多数の堂宇のなかで最も新しくできたもので、境内の一番北寄りにある。平成10年(1998)に落成し、堂宇というより博物館。仏像をはじめ厨子や舞楽面などの工芸品を含む寺宝が多数展示されている。

 

 

大宝蔵院の中門。

 

 

中庭を挟み正面に百済観音堂。

(安置されている宝物から)

観音菩薩立像【国宝】 通称「百済観音」とも言われ、 飛鳥時代に作られた木造の像。元は金堂内陣の裏側に安置されていた。細身で九頭身の特異な像容を示す。多くの文芸作品の中で絶賛されてきた著名な像であるが、その伝来や造像の経緯などはほとんど不明である。(写真はネットから引用)

 

 

正面に百済観音堂を正面に西側に西宝蔵、東側に東宝蔵。

 

 

大宝蔵院から見た五重塔と金堂。

 

 

西院伽藍と東院伽藍を結ぶ通りと築地塀を見る。

 

 

 

 

 

こちらは西門。

 

 

西門から西院伽藍の通りを見る。

 

 

こちらは東門側

 

 

法隆寺塔頭の築地塀。

 

 

 

 

 

東大門【国宝】 奈良時代の八脚門。

 

 

東大門の先に夢殿がある東院伽藍。

 

 

 

 

 

西院の東端に立つ西院伽藍を案内する道標。正面(南面)には「西院大伽藍 是ヨリ西三町」と刻まれている。

 

 

西院伽藍の塀。

 

四脚門【国重要文化財】 東院伽藍の入り口。 東院伽藍は聖徳太子一族の住居であった斑鳩宮の跡に建立された。天平11年(739)、斑鳩宮が荒廃しているのを見て嘆いた僧の行信により創建された。廻廊で囲まれた中に八角円堂の夢殿が建ち、廻廊南面には礼堂、北面には絵殿及び舎利殿があり、絵殿及び舎利殿の北に接して伝法堂が建つ。

 

 

東院伽藍の入り口を内側から見る。

 

 

手水舎。

 

回廊【国宝】  夢殿を囲む回廊で、南辺に礼堂 、北辺に舎利殿 及び絵殿 が建つ。礼堂の東から発して北に折り曲り舎利殿に至る延長22間の東廻廊と、礼堂の西から発して北に折曲り絵殿に至る延長21間の西廻廊から成り、東院伽藍を構成する。

 

夢殿【国宝】   奈良時代建立の八角円堂。堂内に聖徳太子の等身像とされる救世観音像を安置する。夢殿は天平11年(739)頃の建築と考えられているが、天平9年(737)の記述もあり、その頃に創立された可能性もある。

奈良時代の建物ではあるが、鎌倉時代に軒の出を深くし、屋根勾配を急にするなどの大修理を受けている。昭和の大修理の際にも屋根形状は鎌倉時代のものとした。基壇は二重で、最大径が11.3m。堂内は石敷。堂内の八角仏壇も二重で、その周囲に8本の入側柱は堂の中心に向かってわずかに傾斜して立つ「内転び」で唐渡来の手法である

 

救世観音像【国宝】  飛鳥時代、木造。夢殿中央の厨子に安置する。長年秘仏であり、白布に包まれていた像で、明治初期に岡倉天心とフェノロサが初めて白布を取り、「発見」した像とされている。保存状態が良く、当初のものと思われる金箔が多く残る。

 

 

 

 

 

 

 

 

絵殿【国重要文化財】  鎌倉時代の建立。絵殿には、摂津国の絵師である秦致貞が延久3年(1069)に描いた「聖徳太子絵伝」(国宝)が飾られていた。太子の生涯を描いた最古の作品で明治11年(1878)に皇室に献上。現在は東京国立博物館の所蔵となっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東院鐘楼【国宝】。鎌倉時代に建立された。

 

 

案内図

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー日本最初の本格的な仏教寺院である飛鳥寺に続いて、聖徳太子によって創建されたのが、法隆寺と大阪の四天王寺である。以後、短い期間に日本国内には寺院が次々と出現する。それはもちろん、仏教の普及に勤めた聖徳太子の功績だった。こうして日本に仏教が根づいていく。ただし、前述したように現在の法隆寺に創建当時の伽藍ではなく、再建されたものだとされている。明治三十年代から学者のあいだでは、再建・非再建論争が起こっていた。その論争はじつに三十年以上もつづいたという。ついに昭和十四年(1939)、若草伽藍の発掘調査によって、いまの法隆寺とは違う配置の伽藍の焼け跡が見つかった。その発見で論争にケリが付き、現在では、若草伽藍跡が斑鳩寺(最初の法隆寺)だった、という説が一応の定説になっている。つまり、いまの法隆寺の伽藍は、聖徳太子の死後に再建されたものだということになる。その再建後の法隆寺の当初のすがたを残しているのは、金堂、五重塔、中門、回廊、それ以外の大講堂、南大門などは、平安時代から室町時代に建立されたものだ。ただし、平成13年(2001)に五重塔の心柱の檜が五九四年に伐採されたものだとわかり、謎はますます深まった。これは、太子がまだ二十歳のころである。おそらく、法隆寺の建立の謎をめぐっては、今後もさまざまな議論がつづけられていくだろう。

 

 

 

御朱印

 

 

法隆寺 終了

 

 

 

 

 

 

 

 

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32 興福寺

2023-09-11 | 奈良県

古寺を巡る 興福寺

 

国宝など文化財が数多くみられる美術館のような寺

 

 

興福寺は奈良の市街地の中心地にあり、参拝には便利な寺である。奈良は平成28年(2016)に訪れて、今回は二度目で、興福寺も二度目のお参りである。最初のときは中金堂の再建工事が行われていたが、今回参拝した際には工事が完了し華麗な姿を見せている。まだ建設用の重機や機材があり仮設の柵が周りを覆っているが、新しい中金堂は十分に拝むことができた。完全に出来上がり10月10日に落慶法要が営まれるという。その準備も境内では行われていた。

 

興福寺の歴史

藤原鎌足夫人の鏡王女が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669)に現在の京都の山科区で創建した山階寺が興福寺の起源となる。その後、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。和銅3年(710)の平城京への遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた。この和銅3年(710)が実質的な興福寺の創建年といえる。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。

奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家・藤原北家との関係が深かったために手厚く保護された。平安時代には春日大社(藤原氏の氏神)の実権を持ち、大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上の同国の国主となった。その勢力の強大さは、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」と称された。寺の周辺には無数の付属寺院の子院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えた。

しかし、興福寺は創建以来、度々火災に見舞われその都度再建を繰り返してきた。特に中金堂は失火や兵火、落雷により七度も焼失している。現存の興福寺の建物は全てこの火災以後のものである。なお仏像をはじめとする寺宝類も多数が焼失したため、現存するものはこの火災以後の鎌倉復興期に制作されたものが多い。興福寺を拠点とした運慶や運慶派の仏師の手になる仏像もこの時期に数多く作られている。

様々な変遷を経て、近代の明治になり明治13年(1880)興福寺の広い境内は、築地塀が取り払われて樹木が植えられ奈良公園となった。一乗院跡は現在は奈良裁判所、大乗院跡は奈良ホテルとなっている。一時は廃寺同然となり、五重塔と三重塔も売りに出されていた。五重塔は250円(値段には諸説ある)で買い手が付いたといわれ、当初買主は塔自体は燃やして金目の金具類だけを取り出そうと考えていたというが、延焼を心配する近隣住民の反対で考えを変えたという。太平洋戦争を経て昭和に入り昭和34年(1959)に食堂後に宝物収蔵庫(国宝館)が建設された。平成10年(1998)に世界遺産に登録され翌年から国の史跡整備保存事業として、発掘調査が進められている。平城京での創建1300年を機に中金堂]と南大門の再建が計画され、中金堂は平成30年(2018)10月に落慶法要を迎えた。

 

参拝日    平成30年(2018)10月2日(木) 天候晴れ   


所 在    奈良県奈良市登大路48                            山 号    なし
寺 名    興福寺
宗 派    法相宗
寺 格    大本山
本 尊    釈迦如来
創建年       天智天皇8年(669)
開 基    藤原不比等                                  札所等    南都七大寺第2番 西国薬師四十九霊場第4番(南円堂)              文化財       東金堂 五重塔  ほか仏像多数(いずれも国宝)ほか重文多数
      

 

奈良公園の中。

 

 

猿沢の池から興福寺方向を見る。

 

 

 

 

 

奈良県庁の屋上から見た興福寺。真ん中に五重塔その右側に再建中で仮設に覆われた中金堂。

 

 

境内案内図。

 

 

落慶まじかの中金堂。まだ工事用の機材が見える。

中金堂。伽藍の中心的な堂宇である中金堂が落慶を迎え、一般公開された。長い寺史の中で7度の火災に遭い、享保2年(1717)の大火で焼失した後は仮堂が建設されただけで、今回は300年ぶりの復興となる。堂内には仮金堂(現仮講堂)に安置されていた釈迦如来像を本尊として還座。薬王・薬上菩薩像(いずれも重文)が脇侍として安置され、須弥壇の四方は、旧南円堂所在の四天王像がかためる。内陣には法相の14人の祖師を描いた「法相柱」が現代の日本画家の畠中光享氏によって再現された。

 

 

近くに落慶法要を控え、その案内立札が建てられた。

 

 

現代の再建でも鉄筋コーンクリート造が主流だが、創建時に忠実に木造で再建されたことが何よりである。丸柱はアフリカのカメルーンから取り寄せた欅材を使用。

 

 

棟の両脇の鴟尾(しび)にはまだ仮設材が取り付けられた状態。

 

 

 

 

 

 

中金堂の周りには回廊の跡として基壇が残されている。

 

 

奈良公園の中に位置する興福寺は、鹿も生きる場でもある。

 

五重塔【国宝】   応永33年(1426)再建し、本塔が6代目。本瓦葺の三間五重塔婆である。創建は天平2年(730)で、光明皇后発願によるものである。高さは50.1mで、現存する日本の木造塔としては、東寺の五重塔に次いで高いものである。

 

 

 

明治初期の廃仏毀釈政策により塔の撤去の命令が出て、頂上に網をかけて引き倒そうとしたが、叶わず、焼却のため周りに柴が積まれたが、類焼を恐れた近隣住民の反対により中止された

 

 

 

柱上の組物は和様の尾垂木三手先。中備えは間斗束。組物で持ち出された桁の下には、軒支輪が見える。軒裏は二軒繁垂木。

 

 

初重の西面。柱間は3間で、3間四方の平面。中央の柱間は板戸、左右は連子窓。縁側はない。

 

 

東金堂から五重塔を見る。

 

 

東金堂【国宝】  応永22年(1415)に再建され5代目になる室町時代の建物。神亀3年(726)に聖武天皇が伯母にあたる元正上皇の病気平癒を祈願し、薬師三尊像を安置する堂として創建された。

 

 

様式は唐招提寺金堂を参考にした天平様式。桁行七間、梁間四間。屋根は一重、寄棟造、本瓦葺き

安置されてる主な仏像。

木造四天王立像のうち持国天【国宝】  ほかに増長天、広目天、多門天(いずれも国宝)の木造四天王立像を 堂内四隅に安置。堂内の他の像より古く、平安時代前期の重厚な作風の像。

木造維摩居士座像【国宝】 - 本尊薬師如来像の向かって左に安置。鎌倉時代、建久7年(1196)定慶の作。維摩は大乗仏教の重要経典の一つである『維摩詰所説経(維摩)』に登場する伝説上の人物で、在家仏教徒の理想像とされる。興福寺において、特に重要な存在と見なされている。実在の老人のようにリアルに表現されている。

 

 

東金堂正面。

 

 

 

南円堂【国重要文化財】  寛政元年(1789)に再建された4代目の建物。屋根を一重、本瓦葺とする八角円堂で、正面に拝所が付属する。藤原北家の藤原冬嗣が父・内麻呂の追善のために弘仁4年(813)に創建した八角堂である。

 

 

堂内には本尊である不空羂索観音坐像の他、四天王立像と法相六祖像を安置する。堂の前に生える「南円堂藤」は南都八景の一つで、毎年、美しい花を咲かせている。

 

 

 

北円堂【国宝】  承元4年(1210)に再建され、興福寺に現存する中で最も古い建物である。屋根を一重、本瓦葺とする八角円堂。養老5年(721)、藤原不比等の一周忌に際し、元明上皇・元正天皇の両女帝が長屋王に命じて創建させた。平面が八角形の「八角円堂」である。

 

 

 

 

 

南大門跡の基壇を見る。

 

三重塔【国宝】  鎌倉時代前期の再建(正確な建立年次は不明)。高さ19m、本瓦葺の三間三重塔婆である。康治2年(1143)に崇徳天皇の中宮・皇嘉門院によって創建された。現在の塔は建築様式から鎌倉時代に再建されたと考えられる。

 

国宝館  文化財の収蔵と展示を目的とする耐火式収蔵施設で、昭和34年(1959)に食堂及び細殿の跡地に建てられた。鉄筋コンクリート造であるが、外観は創建時の食堂と細殿、すなわち奈良時代の寺院建築を模したものとなっている。国宝館の内部には、食堂の本尊であった巨大な千手観音立像(高さ5.2m)が中央に安置され、仏像を始めとする多くの寺宝が展示されている。

 

 

入り口のホールに掲げられた写真パネル。

 

国宝館の主な仏像。

乾漆八部宗立像【国宝】  奈良時代の作。もと西金堂の本尊釈迦如来像の周囲に安置されていた群像の1つ。五部浄、沙羯羅(しゃがら)、鳩槃茶(くはんだ)、乾闥婆像(くはんだ)阿修羅、迦楼羅、緊那羅、畢婆迦羅(ひばから)の8体が揃って現存するが、五部浄像は大破して胸から下の体部が失われている。中でも三面六臂(顔が3つで手が6本)の阿修羅像が著名。

八体の中から最も有名な阿修羅像。

 

銅造仏頭(国宝) - 白鳳文化を代表する作品である。木造仏頭(重要文化財) - 廃絶した西金堂の旧本尊・釈迦如来像の頭部。 鎌倉時代の作。

木像金剛力士立像【国宝】  木像 もと西金堂安置。 鎌倉時代の作。 定慶作とする説もある。

 

木像千手観音立像(国宝)  もとは食堂の本尊。 現在は、国宝館の中央に安置される。 高さ5.2mの巨像で、像内納入品の銘記から鎌倉時代、寛喜元年(1229)頃の完成と推定される。 

板彫十二神将(国宝)   平安時代11世紀半ばの作。 日本では珍しい檜板に浮き彫りで制作された仏像で、現在は剥落しているが、もとは彩色されていた。 12面完存している。 

金銅燈籠(国宝)   南円堂前に立っていた銅製の灯籠。

 

木造天燈鬼・龍燈鬼立像【国宝】 もと西金堂安置されていた。 大きな灯籠を天燈鬼は肩にかつぎ、龍燈鬼は頭上で支える。 架空の存在を写実的かつユーモラスに表現した鎌倉期彫刻の傑作である。 龍燈鬼像は運慶の子息である康弁の建保3年(1215)の作である。

 

 

奈良公園の通りであるが、まだ興福寺の境内かもしれない。

 

 

平成28年(2016)6月に参拝したときは、中金堂が工事中であった。

 

 

案内図

 

 

御朱印

 

 

興福寺 終了

 

 

 

 

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31 秋篠寺

2023-09-09 | 奈良県

第5番 秋篠寺

市井にひっそりとある宝石のような寺

 

 

奈良の古都巡りは平成16年に次いで二度目。今回は3泊4日の独り旅でフルに古寺を楽しみたい。秋篠寺は前回に奈良巡りをした際に参拝の予定だったが、途中道に迷い引き返す羽目になり、今回再チャレンジの寺である。

寺は奈良市街地の北西、西大寺の北方に位置する。奈良時代の法相宗の僧・善珠の創建とされ、地元の豪族秋篠氏の氏寺ともいわれているが、創建の正確な時期や事情はわかっていない。宝亀7年(776)、皇后の井上内親王と、その子で皇太子の他戸親王を廃して死に至らしめた光仁天皇の勅願により善珠が創建したともいうが、これは鎌倉時代の文書に見えるものである。文献上の初見は「続日本書記」に宝亀11年(780)、光仁天皇が秋篠寺に食封一百戸を施入したとあるもので、この年以前の創建であることがわかる。創建時は法相宗の寺院であった。「日本後紀」よれば、延暦25年(806)に崩御した桓武天皇の五七忌が秋篠寺で行われたことが見え、皇室とも関連の深い寺院であったことがわかる。

保延元年(1135)には火災により講堂以外の主要伽藍を焼失した。現存する本堂(国宝)は、旧講堂の位置に建つが創建当時のものではなく、鎌倉時代の再建による。

 

参拝日    平成30年(2018)10月1日(水) 天候晴れ

 

所在地    奈良県奈良市秋篠町575                           山 号    なし                                     宗 派    単立                                     本 尊    薬師如来                                   創建年    亀喜7年(776)(伝)                             開 山    善珠(伝)                                  開 基    光仁天皇(勅願)                               文化財    本堂(国宝)                                 文化財    薬師如来 伎芸天立像、地蔵菩薩立像、大元帥明王立像(国重要文化財)

 

秋篠寺は住宅街の一角にひっそりと建っている。おそらく団体の参拝などはないのだろう。

 

 

塀で囲まれた大きな林の中が境内である。

 

 

境内図

 

 

 

東門 もう一つ南門があり、そちらが正門になるようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

東門を境内の中から。

 

 

東門を入り左に折れて境内をすすむ。

 

 

香水閣  東門を入り直ぐ左手にある井戸「香水井」である。平安時代の初め、僧常暁が当時の閼伽井の水面に映る大元帥明王像を感得したという故地である。

 

 

境内は木々が生い茂り静かな寺という感じがする。

 

 

地表面には、緑深い苔に覆われさらに静寂さが感じられる。

 

 

 

 

 

間もなく受付所があり、ここで拝観の手続きをする。

 

 

 

 

本堂【国宝】  鎌倉時代の建立で、講堂の跡地に建てられた。当時の和様仏堂の代表作の1つである。全体に保守的で簡素な構成で、鎌倉時代の再建でありながら奈良時代建築を思わせる様式を示す建物である。

 

 

正面の桁行5間、側面の梁間4間(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する用語)。屋根は寄棟造、本瓦葺き。堂の周囲には縁などを設けず、内部は床を張らずに土間とする。正面の柱間5間は中央3間を格子戸、左右両端の間を連子窓。

 

 

 

 

 

 

 

和様建築では柱上部の頭貫以外には貫を用いず長押を使用するのが原則だが、この建物では内法長押の下に内法貫を使用し、内部の繋虹梁も身舎(もや)側では柱に差し込むなどの新技法が使われた。

 

堂内には本尊薬師三尊像を中心に、十二神将像、地蔵菩薩立像、帝釈天立像、伎芸天立像などを安置する。写真は伎芸天立像【国重要文化財】  見方によっては少々首を傾げ妖艶さのある仏像に見える。  

 

 

本尊の薬師如来坐像【国重要文化財】 左手に薬壺、右手に施無畏印(せむいいん)。

 

 

本堂を横から見る。

 

 

本堂の前庭。

 

 

受付け所方向を見る。

 

 

鐘楼および梵鐘。

 

大元堂   本堂の西側にある堂宇。秘仏の大元師明王像を安置する。わが国最古の大元帥明王像で年一回6月6日に開帳。 大元帥明王は、激しい怒りの形相をしている「勝負の神」で、「元帥」という肩書きの由来になっている。

 

常暁律師があまりうるさい雷をとらえて、この石の下に埋めたという。また、寺には雷様のヘソまで保存されているという。

 

 

本坊・庫裡の入り口門。

 

 

 

 

 

 

 

 

役行者石 本堂に向かって左手奥の小さい覆屋に安置されている。上部を丸め、周囲の輪郭を粗造りした中に役行者像と前鬼・後鬼を半肉彫りする。

 

 

南門  こちらが正門となる。

 

 

 

 

案内図

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」からーーー秋篠寺の苔も何十年、いや何百年という時をへて、いまの美しい状態になったに違いない。ビロードのようななめらかな手触り。まさに苔の絨毯である。その緑の濃淡がm、立って見る位置によって微妙に違う。一歩下がってみたり、ずっと近づいて見たり、いつまで眺めていても飽きない。一瞬一瞬の天候の変化に応じて、雨に濡れているときは、苔がしっとりとしてうつむいている。日の光が当たっているときは、苔が輝いて喜んでいるように見える。まるで繊細な音楽を奏でているようだ。耳を澄ませると苔のシンフォニーが聴こえてくる。いままでにも、あちこちで美しい苔の庭は見てきたつもりだった。しかし、この”苔の海”は空前絶後の美しさだ。不謹慎ながら、この上に寝ころんだらどんなに気持ちがいいだろう、とさえ想像してしまう。ため息が出そうなほど素晴らしい。

 

御朱印 なし  代わりに案内パンフ。

 

 

秋篠寺 終了

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30 瑞巌寺

2023-09-05 | 宮城県

第65番 瑞巌寺

神聖な石窟と伊達家の栄華

 

 

瑞巌寺

 

仙台・平泉への2泊3日の「いってみっか」の三日目は、松島と塩釜への寺社巡りである。塩釜にあるらくがんの銘菓「塩竃」を買いに行くのも楽しみの一つ。

瑞巌寺は、地盤沈下でゆがんだ建物を修繕するため、平成20年(2008)から「平成の大修理」に入り、今年平成30年(2018)の3月に10年間にわたる工事を終えた。修理中に東日本大震災が発生し被害に遭ったが、併せて修理と補強を行った。庫裏から本堂につながる回廊はこれまで非公開だったが、常時拝観できるようになり、日本庭園も眺めることができることになった。訪れた日は、6月22日で落慶法要の前夜祭で武者行列と花火大会が催されることで、人々が徐々に集まってきていた。なお落慶法要は6月24日でした。参拝者として記念の絵葉書をもらった。

 

松島を含む仙台藩を領しただ伊達政宗は、禅僧虎哉宗乙の勧めもありもともとあった円福寺の復興を思い立ち、慶長9年(1604)~14年(1609)までの全面改築で完成させた。今に伝わる桃山文化の本堂などの伽藍は、伊達政宗の造営によるもの。造営の際に寺の名を「松島青龍山瑞巌円福禅寺」と改めた。住持が一時不在だったが、寛永13年(1636)に雲居希贋が入った。瑞巌寺は仙台藩の歴代藩主である伊達氏が大神主となって保護し隆盛を極めた。この間、それまで瑞巌寺とは別個に存在した五大堂も瑞巌寺の管理下に入った。

政宗の隠し砦という説があり、政宗が徳川家康を滅ぼして天下を奪い取ったあかつきには 瑞巌寺に天皇を招き入れる予定であり、その証拠である天皇が座すための間である上上の段の間が存在する。政宗が造った居城の仙台城にも天皇を招き入れるための上上段の間があったとされる。しかし明治元年(1868)の明治維新の際の戊辰戦争で、仙台藩は盟主として奥羽越列藩同盟を結成し、薩長同盟が中心の明治新政府に敗れる。同年、明治新政府は廃仏毀釈運動によって、瑞巌寺の所領を没収する。収入を失った瑞巌寺は付属の建物の多く荒廃して失われた。その後、明治9年(1876)の明治天皇の東北巡幸の際に下賜金があり、その後徐々に財政難を脱し、現在の興隆に繋がった。

 

参拝日   平成30年(2018) 6月23日(金) 天候晴れ

 

所在地   宮城県宮城郡松島町松島字町内91                        山 号   松島青龍山                                   院 号   関東祈祷所                                   宗 旨   臨済宗                                     宗 派   臨済宗妙心寺派                                 本 尊   聖観音菩薩                                   創建年   天長5年(828)                                 開 山   円仁                                      開 基   淳和天皇(伝)                                 中興年   臨済改宗 正元元年(1259) 瑞巌寺竣工 慶長14年(1609)            中 興   臨済改宗 北条時頼 法身性西(開山)                       中 興   瑞巌寺竣工 伊達政宗 雲居希贋(開山)                              正式名   松島青龍山瑞巌円福禅寺                               別 称   松島寺 瑞巌円福寺 円福寺 延福寺                       札所等   奥州三十三観音霊場6番                              文化財   本堂、庫裡、廊下(国宝) 中門、御成門(国重要文化財)

 

 

JR仙石線松島海岸駅。 平成30年当時の写真。 駅舎の改造計画が進んでいるとのこと。

 

 

松島海岸駅駅前。

 

 

松島海岸駅から徒歩5分くらいの松島海岸の街並み。

 

 

松島海岸の通りに面して瑞巌寺の入り口。

 

 

総門 参道の入り口に位置し、本瓦葺きの薬医門で両袖に太鼓塀。

 

正面に掲げる扁額は、瑞巌寺105世の天嶺性空禅師の筆により「桑海禅林」と書かれ、扶桑(日本)の海の禅寺という意味だという。

 

 

総門を入ると長い真っ直ぐな参道。

 

 

参道を振り返り総門方向を見る。

 

 

拝観の入り口。

 

 

境内に入る。鬱蒼とした大木の松林の間を縫って進む。

 

 

正面に中門。

 

 

 

中門。

 

中門【国重要文化財】 本堂の正面に位置し、切妻造の杮屋根葺きで四脚門となっている。瑞巌寺における柿葺きは唯一此処だけ。御成門と中門は太鼓塀と呼ばれる塀で結ばれている。

 

 

扁額は「端嵓円福禅寺」と書かれ、瑞巌寺100世洞水東初禅師による。

 

 

境内の菩薩像。

 

 

庫裡から本堂および宝物館の青龍電への入り口門。

 

 

宝物館の青龍殿。

 

 

庫裡【国宝】庫裡は実用本位の建物で装飾を施す例は少ないが、本寺は表面の上部が複雑に組みあげられた梁と束が露出で見せている。

 

 

大屋根の上に切妻の煙出しを設けた。

 

 

妻飾りは、飾り金物などを使用していないが、豪壮な唐草彫刻で仕上げ、白の漆喰に調和し美しい。

 

 

庫裡の入り口。こちらから入り廊下を渡り本堂へ進む。

 

 

平成30年(2108)の瑞巌寺大改修の落慶法要に合わせて整備された枯山水の庭園。

 

 

廊下からは庭を通して非公開の埋木書院。北上川の中に埋まっていた欅の材で造られた建物で、仙台市の八木久兵衛氏の別邸を昭和18年(1943)に移築したもの。現在は貴賓室として使用。

 

 

廊下から本堂の前の廊下に進む。

 

 

廊下から本堂を見る。本堂は庫裡、御成門とそれぞれつながっている。

 

 

本堂【国宝】 慶長14年(1609) 伊達政宗の創建。本堂は書院造で、入母屋造本瓦葺の巨大な屋根を架し、南・北・東の三方に上縁、下縁をめぐらし、10室に画して中央奥に仏間を設けている。

 

 

中門から中庭に入ると正面に本堂(方丈)、右に庫裏と廊下、左に御成玄関が見られる。外観は見たとおり簡素な和風手法によっている。

 

 

東広縁 書院造りのため向拝はない。仏間の間の前の広縁。  (内部は撮影禁止により室内の写真はYouTubeからのコピーによる)

 

 

松の間  一番右側の部屋。

 

 

孔雀の間 襖絵は仙台藩初のお抱え絵師狩野左京による「松孔雀絵」で冬から順に各季節の松に孔雀の絵が描かれている。

 

 

孔雀間。 奥に仏間を配し、左に上段・上々段の間、右に控の間(羅漢間)・墨絵間を配している。また、仏間前面の室中間の左には文王間、右には鷹間・菊間・松間がある。

 

 

内部の彫刻、彩色、金具、襖絵や貼付絵には絢爛たる桃山建築の世界を表現している。

 

 

孔雀が描かれた襖。

 

 

文王の間  伊達家の控の間で、藩主との対面もこちらでされた。奥の一段高い部屋が、上段の間で藩主御成の間である。

 

 

襖絵は長谷川等伯の高弟、長谷川等胤による「文王尚呂図」。

 

 

伊達政宗公像。

 

 

 

 

 

本堂の南側を見る。

 

 

本堂広縁から中門を見る。

 

 

臥龍梅 伊達政宗公が文禄の役に朝鮮から持ち帰り、慶長14年(1609)に瑞巌寺の上棟祝にお手植えしたと言われる梅の木。(上の写真を参照)向かって右に白梅、左が紅梅。当写真は紅梅。

 

 

中門を本堂の庭側から見る。

 

 

御成玄関は、折れ曲がった石敷で本堂に通じ、武家の折衷門に似た形状をもつが、板敷でない点むしろ方丈建築の玄関の形を承けついだものとみられる。禅宗様の素木造建築である。

 

 

法身窟。 本堂の外側で受付所の左側にある岩窟。鎌倉時代の中頃に宋から帰国した法身性西禅師と諸国行脚中の北条時頼公が出合ったところと伝えられている。

 

 

参道の右側にある洞窟の壁面には、五輪塔や供養塔、戒名などが無数に刻まれており、供養場として使用されたことがうかがえる。

 

 

 

 

 

三聖堂。 天和2年(1682)に瑞巌寺101世の鵬雲東搏禅師によって建立された堂。正面に聖観世音菩薩像、左に達磨大師像、右に菅原道真公の像を安置したことから三聖堂と名をつけられた。

 

 

三聖堂の扁額。

 

 

総門のある松島海岸の浜辺に日本三渓の石碑。

 

五大堂のある島に向かう。日本三景の1つである景勝地・松島の景観上重要な建物であり、松島の海岸に近い小島に建つ。伝承によれば大同2年(807)、坂上田村麻呂が奥州遠征の際に、毘沙門堂を建立したのが始まりとされる。

 

 

五大堂は、陸と二つの島が赤い橋でつながっている。

 

もう一の橋は橋板が透かし構造になっているため透かし橋で、参詣する時はこの橋を渡らなければならない。橋を渡る際には、身も心も乱れの無いように足元をよく見つめて、かつ気を引き締めさせるための配慮と言える。

 

 

 

 

五大堂【国重要文化財】  円仁こと慈覚大師が延福寺(瑞巌寺の前身)を創建した際に仏堂を建立し、大聖不動明王を中央に東方隆三世明王、西方大威徳明王、南方軍茶利明王、北方金剛夜叉明王の五大明王像を安置したことにより、五大堂と呼ばれるようになった。

 

現在の堂は、慶長9年(1604)に伊達政宗公が瑞巌寺の再興に先立って再建した。東北地方最古の桃山建築と言われている。堂宇は宝形造りの本瓦葺きで、軒周りの蟇股には方位に従って十二支が彫刻されている。

 

 

扁額は「五太堂」であるが、名称は五大堂が正しい。

 

 

五大堂から見る日本三景の一つ松島。松島の海がよく見える。

 

 

欄干が朱塗りの陸地と福浦島を結ぶ福浦橋。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

案内図

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー

正宗は伊達家の菩提寺として円福寺を復興し、寺名を瑞巌寺とあらためる。木材は紀州熊野(和歌山県)から運び、各地の名工を呼び寄せ、まさに伊達家の面目をかけて大伽藍を造営した。当時の伊達家六十二万石には、それだけの財力も権力も充分あった。なんといっても”伊達男”の本家である政宗のことだ。その美意識にかなった寺をつくるために、あらゆる努力を払ったというのも納得できる。この寺が完成した慶長14(1609)年。正宗は朝鮮から持ち帰っためずらしい紅白梅と五葉松を手植えし、祝の歌として次のように詠じている。 松島の松の齢に此の寺の末さかえなん年は経るとも。  慶長16(1611)年には、正宗に招かれてスペイン使節のセバスチャン・ビスカインなる人物が瑞巌寺を訪れている。彼は瑞巌寺を目にして「石造建築ではわがマドリッドのエスコリアル宮殿。木造では当山をもって世界に並ぶものなしと言うべし」と本国に報告したという。 

 

 

 

御朱印

 

 

 

瑞巌寺 終了

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29 正法寺

2023-09-05 | 岩手県

古寺を巡る 正法寺

 

 

 

参拝日    平成30年(2018)6月21日(木) 天候曇り

 

所在地    岩手県奥州市水沢黒石町字正法寺129                     山 号    大梅拈華山                                  宗 旨    曹洞宗                                    本 尊    如意輪観音                                  創建年    貞和4年(1348)                               開 山    無底良韶                                   文化財    総門、法堂、庫裡(国重要文化財)

 

正法寺は、黒石寺から3kmほどの先にある古寺。こちらの寺の認識はなかったが、知り合いから黒石寺まで行くなら直ぐ近くに有名な古寺がるからと聞き、参拝することになった。

正法寺は南北朝時代の貞和4年(1348年)に 無底良韶が曹洞禅の禅堂を建てたのがはじまり。東北地方で初の曹洞宗寺院となった。無底は、これに先立ち、康永元年(1342)に師である峨山韶硯から。開祖道元が中国から持ち帰った袈裟「僧伽梨(そうかり)」を授けられている。これは、道元から峨山まで、連綿と伝承されてきたものであって、これを授けるということは峨山門派を無底良韶が継承することを示唆していた。正法寺が開創されて2年後の観応元年(1350)に崇光天皇が、「出羽奥州両国における曹洞の第三の本寺」として、住職に紫衣の着用が許された。

その後、康安元年(1361)に13年の歳月を経ても跡を継ぐ門弟がないまま無底良韶が死去。そのため、師の峨山が、弟弟子の月泉良印に正法寺を継がせた。このとき、「正法寺は末代まで奥羽両州曹洞の本寺たるべし」とする書状を月泉良印に与えている。月泉は40年にわたってその住職をつとめ、正法寺発展の基礎をきずいた。東北地方に曹洞宗の拠点ができたことによって、布教は進み、月泉良印は「月泉四十四資」といわれる弟子を輩出することとなる。岩手県南部や宮城県を中心に次々に末寺が開かれることとなり、その数は508とも1200とも言われた。元和元年(1615)幕府法度により、本寺の格を失い、現在は72の末寺を持つのみである。正法寺は火災が多く、文安元年(1444)から寛政11年(1799)までの6回を記録している。寛政11年の最後の火事は、月泉良印の400回忌の当日に庫裏から出火したもので、惣門、土蔵、宝蔵を残すのみでほぼ全焼してしまった。このときは、仙台藩の庇護を受けていて、復興は仙台藩が行うことになっていたが、藩側も財政がひっ迫しており、50年経って、本堂と庫裏は再建された。仙台藩は、スポンサーような存在だったらしく、藩が関わったものには、藩の家紋が随所に入れられている。しかし、仏殿と山門は修理されず今日に至る。

 

 

正法寺の入り口。

 

総門【国重要文化財】切妻作り、とち葺の四脚門で寛文5年(1665)仙臺大工棟梁新田作兵衛による建築。寺院の四脚門としては岩手県最古の遺構。

 

 

 

 

 

掲げられた扁額は「大梅拈華山」。

 

 

蛇紋岩の石段はかなり急だが、古刹の風格を感じさせる。

 

 

石段を登り切り総門を振り返る。

 

 

法堂【国重要文化財】 仙台藩による造営で、江戸時代後期に再建されたもの。当初は「客殿」と称していた。入母屋造、茅葺き。正面30m、側面21mの大規模な建築である。本堂の茅葺屋根は、屋根の高さ約26m、勾配49度、面積は720坪と日本一の茅葺屋根を誇る。

 

 

元々、かなり多くの堂宇が建っていたようだ。その一つの仏殿の跡。

 

 

境内を見る。

 

 

茅葺の屋根の大きさが際立つ。

 

法堂  文化8年(1811年)に創建された。棟には伊達家の家紋、竹に雀、三引両、九曜がついている。仙臺伊達藩から寺領を受け、また建物の修復を受ける等別格の待遇を受けており、伊達家は正法寺にとって大檀越だったことを示している。

 

 

散る妻屋根の妻側には木彫りの飾り物が取り付けられている。

 

 

 

 

法堂正面。

 

 

 

法堂の庇下。大きな屋根は細かい間隔で地垂木と軒先側に飛燕垂木と二重に垂木が施され深い軒を造り出している。

 

 

正面入り口の扁額「円通正法寺」。

 

 

 

 

 

本堂の内陣を見る。

 

 

法堂とは住職が佛祖に代わって説法する道場。室内中央の須弥壇には本尊の如意輪観世音菩薩を祀る。

 

 

 

涅槃図 寛政年間頃(1700頃)の作品で伊達家からの寄進物。縦約4m、横約5mの大作。釋尊80歳の時、クシナガラの地で病に臥し、8本の沙羅双樹の間に北枕で右脇を下にして身を横たえ入滅される姿を描いたもの。周囲には嘆き悲しむ菩薩、弟子、天人、俗人、様々な動物たちが描かれており、右上には釋尊の母、摩耶夫人が飛来している。8本の沙羅双樹の中を選ばれたのは、佛の自在神力を示すためで、4本の沙羅双樹は最後の説法が終わるとたちまち枯れ、他の4本は青々と栄えたと言われる。これを四枯四栄といい、釋尊の肉体は涅槃に入りたもうとも、説かれし佛法は後世に残り栄えることを示す。毎年2月15日の涅槃会の時に開かれる。

 

釈迦三尊像 本来であれば佛殿に安置される三尊佛だが、寛政11年(1799)に火災に遭い、その後は佛殿は再建されず、法堂西序室中の上段に仮安置し現在に至っている。その為、現在は法堂西の間を佛殿としている。中央は釋迦牟尼如來、右は獅子座に乗る智慧の象徴の文殊菩薩。左は象座に乗る普賢菩薩は慈悲の実行の象徴の菩薩。

 

 

庫裡 寛政11年(1799年)頃に建築され、間口約33m、奥行約17mで、法堂に次ぐ規模の大きな茅葺の建物。

 

 

 

 

開山堂【岩手県指定有形文化財】 嘉永2年(1849)頃の再建。

 

 

開山堂への階段回廊。

 

お堂正面には永平寺開山道元禪師像、總持寺開山瑩山禪師像、總持寺二祖で正法寺開山の無底禪師の師匠にあたる峨山禪師像、歴代山主(住職)のお位牌をお奉りしている。

 

 

両脇には、釋尊の弟子で悟りを開かれた、特に優秀な16人の弟子である十六羅漢像が安置されている。

 

 

庭園。

 

 

開山堂から報道を見る。

 

 

 

 

庫裡・鐘楼堂【国重要文化財】江戸末期の建築で現在も定刻に時を知らせる梵鐘を一日も休むことなく撞いている。庫裡は寄棟造の160坪近い大建築で、応接間、尚事寮(寺務を司る)、旧典座寮(食事を司る)など様々な機能を持つ建物。

 

 

境内の様子。

 

 

案内図  東北新幹線水沢江刺駅から11.2km  東北自動車道奥州スマートICから12.7km

 

 

御朱印

 

 

正法寺 終了

 

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29 黒石寺

2023-09-03 | 岩手県

第64番 黒石寺

薬師如来像に浮かぶ苦渋の色

 

 

中尊寺の参拝を終え、車で30分から40分くらいだろうか田た畑の道を通り、かなり山間部に入ったところにある黒石寺の参拝である。

黒石寺 天平元年(729)東北初の寺院として行基が開いたとされる。東光山薬師寺と称していたが、延暦年間(782~806)に、蝦夷征伐による兵火により焼失。その後大同2年(807)に坂上田村麻呂により再興され、嘉承2年(849)円仁(慈覚太師)が中興して現在の寺号となったとされる。もとは修験(山伏)の寺であり、最盛時には48の伽藍があったと伝えられ、一帯には多くの寺跡がある。現在の本堂と庫裏は明治17年(1884)に再建された。

 

参拝日    平成30年(2018)6月21日(木) 天候曇り

 

所在地    岩手県奥州市水沢黒石町字山内17                                                                                山 号    妙見山                                    宗 旨    天台宗                                    本 尊    薬師如来                                   創建年    天平1年(729)                                開 山    行基                                     正式名    妙見山黒石寺                                 札所等    奥州三十三観音霊場第25番                           文化財    木造薬師如来坐像、木造僧形坐像、木造四天王立像(いずれも国重要文化財)

 

 

黒石寺の参拝口。

 

 

 

 

 

 

 

参道の石段を上れば本堂。

 

 

階段を上り切って平たんな境内。

 

 

本堂(薬師堂)を脇から見る。

 

 

現在の本堂(薬師堂)と庫裏は、明治17年(1884)に再建された。

 

 

木造平屋建て、寄棟、銅板葺き、平入、桁行8間、張間5間、正面1間向拝付き、内部には本尊である薬師如来像が安置されている。

 

 

向拝の屋根庇の飾りを見る。斗供は質素であるが、向拝紅梁には龍の彫刻が施されている。

 

 

扁額は「薬師如来」と書かれている。

 

向拝を横から。かなり点込んだ彫刻を施した手狭。海老紅梁にも彫刻が施されている。

 

 

向拝を内側から。紅梁の上に龍がいるように見える。

 

 

これが内側からの龍の彫刻。かなりリアル。

 

 

広縁を見る。

 

 

木造僧形坐像【国重要文化財】   カツラ(あるいはシウリザクラ)材の一木造り、膝裏の部分に永承二年(1047)の墨書銘がある。古くは、寺域の大師山のお堂に安置してあったものである。像高67cm。

 

 

薬師如来坐像【国重要文化財】  カツラ材の一木造り、内刳りを施した像内には、貞観四年(862)の墨書銘が記されている。男性的で厳しい顔立ち、いかつく張った両肩、厚く幅の広い両膝、無造作に刻む衣文など、いかにも北方の奥地の作らしい雄大な像である。  像高126cm。

 

 

本堂の裏側。

 

 

釈迦観音堂。建物が新しく感じられ近年になって建立されたもののようだ。

 

 

妙見堂  本堂の脇から石段を上る。入り口に奉納された鋳鉄製の剣。

 

 

 

 

御供所兼鐘楼
明治16年(1883)に建てられた。1階が本尊に供える供物を準備する御供所、2階には200文字の漢文で黒石寺の由緒が刻まれている梵鐘が納められている。

 

 

 

 

 

 

 

 

土塀の中は庫裡。

 

 

庫裡・寺務所への入り口門。お寺というより武家屋敷の門を思わせる。

 

 

庫裡の中庭。

 

 

住職の居住スペースでいわゆる一民家。

 

 

庫裡であり寺務所でもある建物。

 

 

庫裡の入り口の軒下。

 

 

住職の居住屋と思う。

 

 

雰囲気のある石垣と土塀。

 

 

境内の庭。

 

 

石段を下り帰路となる。

 

 

付近の様子で、この道路の奥3キロ先に正法寺がある。

 

 

黒石寺で、毎年旧暦正月の7日に行われる蘇民祭は、裸の男と炎の祭とし、災厄を払い、五穀豊穣を願う裸参りに始まり、柴燈木登、別当登、鬼子登と夜を徹して行われる。翌早暁にかけて繰り広げられる蘇民袋の争奪戦は、この祭のクライマックス。厳寒をものともせず裸の男達のエネルギーが激しくぶつかり合う祭りである。(写真はネットから借用)

 

 

 

案内図  東北本線陸中折居駅から約6.5km  東北新幹線水沢江刺駅から約8.2km

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」からーーー黒石寺の仏像を拝して感じたのは、同じ岩手の寺でも、中尊寺の仏像とはまったくちがう系統だということだった。中尊寺の金色堂に安置されている阿弥陀如来像は、藤原氏が京都の一流の仏師につくらせて、みちのくに運んだものだ。そのため、中尊寺の仏像は、京風文化の特徴を忠実に伝えているといわれる。その表情は慈悲にみちていて、いかにも優美なものだった。だが中尊寺より時代をさかのぼる黒石寺の仏像は、ひょっとすると、地元の人びとの手でつくられたのではないか、とさえ感じさせる。先住民である蝦夷と接しながら、みちのくのきびしい風土の中で生きる人びとの意識が、この特異な作風のなかに表れている。そんな気がしないでもない。京都や奈良の大寺に比べると、いまの黒石寺は非常に慎ましく小さな寺だ。だが、この寺がここに存在する背景には、西と東の大きな歴史のドラマが横たわっているのではないか。黒石寺の仏像は、無言のうちにそれを物語っているような気がしてならなかった。

 

 

御朱印

 

 

黒石寺 終了

 

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28 中尊寺

2023-09-02 | 岩手県

第26番 中尊寺

みちのくの黄金郷に鳴る青い鐘

 

 

一度は参拝したいお寺の一つが、この中尊寺である。黄金の堂ということで中尊寺より金色堂が名が知られているが、金色堂を除けば中尊寺全体は、煌びやかさは無く素朴なお寺にしか見えない。

中尊寺は嘉祥3年(850)、比叡山延暦寺の高僧慈覚大師円仁によって開かれた。その後、12世紀のはじめに奥州藤原氏初代清衡公によって大規模な堂塔の造営が行わる。清衡公の中尊寺建立の趣旨は、11世紀後半に東北地方で続いた戦乱(前九年・後三年合戦)で亡くなった生きとし生けるものの霊を敵味方の別なく慰め、「みちのく」といわれ辺境とされた東北地方に、仏国土(仏の教えによる平和な理想社会)を建設する、というもの。それは戦乱で父や妻子を失い、骨肉の争いを余儀なくされた清衡公の非戦の決意でもあった。

清衡公は長治2年(1105)より中尊寺の造立に着手。まず東北地方の中心にあたる関山に一基の塔を建て、境内の中央に釈迦・多宝如来の並座する多宝寺を建立し、続いて百余体の釈迦如来を安置した釈迦堂を建立。この伽藍建立は『法華経』の中に説かれる有名な一場面を具体的に表現したもの。

清衡公は釈迦如来により説かれた法華経に深く帰依し、その平等思想に基づく仏国土を平泉の地にあらわそうとした。清衡公は『中尊寺建立供養願文』の中で、この寺は「諸仏摩頂の場」であると述べている。この境内に入り詣でれば、ひとりも漏れなく仏さまに頭を撫でていただくことができる。諸仏の功徳を直に受けることができる、という意味。法華経の教えに浄土教や密教を加え大成された天台宗の教えに基づく伽藍が境内に建ち並び、その規模は鎌倉幕府の公的記録『吾妻鏡』によると、寺塔が四十、禅坊(僧の宿舎)が三百におよんだという。

 二代基衡公は、父の志を継いで薬師如来を本尊とする毛越寺の造立をすすめ、三代秀衡公は阿弥陀如来を本尊とする無量光院を建立した。三世仏(過去釈迦、現世薬師、未来世阿弥陀)を本尊とする三寺院の建立は、すべての生あるものを過去世から現世さらに未来世にいたるまで仏国土に導きたいという清衡公の切実な願いの具現でもあった。

平泉はおよそ100年近くにわたって繁栄し、みちのくは戦争のない「平泉の世紀」だった。しかし、平氏政権を倒した源義経が、兄頼朝と対立し平泉に落ちのびて間もなく、義経を保護した秀衡公が病死すると、四代泰衡公は頼朝の圧力に耐えかね義経を自害に追い込むことになった。その泰衡公も頼朝に攻められ、文治5年(1189)奥州藤原氏は滅亡した。

 鎌倉時代以降、大きな庇護者をうしなった中尊寺は次第に衰退し、建武4年(1337)の火災で惜しいことに多くの堂塔、宝物を焼失した。しかし国宝建造物第1号の金色堂をはじめ、建築、絵画、書跡、工芸、彫刻、考古、民俗の各分野にわたる文化遺産が現在まで良好に伝えられ、東日本随一の平安仏教美術の宝庫と称されている。平成23年(2011)に中尊寺を含む「平泉の文化遺産」が世界文化遺産に登載された。

 

参拝日    平成30年(2018)6月21日(木) 天候曇り

 

所在地    岩手県西磐井郡平泉町衣関202                        山 号    関山                                     宗 旨    天台宗                                    寺 格    東北大本山                                  本 尊    釈迦如来                                   創建年    嘉祥3年(850)                                開 山    円仁(慈覚大師)                               札所等    奥州三十三番観音番外札所                           文化財    金色堂、金色堂堂内諸像および天蓋(国宝)、金色堂旧覆堂(国重要文化財)   

 

 

中尊寺境内地図。

 

 

中尊寺参道入り口。あまりにも質素な感じ。

 

 

中尊寺の参道入り口を振り返る。

 

 

参道はけっこの距離がありだらだらの坂を上るが、険しい坂ではない。

 

 

表参道月見坂と呼ばれる参道。中尊寺は標高130メートルほどの東西に長い丘陵に位置しているため、この坂が古くから本堂・金色堂へと参拝する人々の表参道として利用されてきた。 

 

 

 

 

老杉と山の空気が作り出す荘厳な雰囲気に浸りながら足をすすめると、右手には奥州藤原氏に縁の深い束稲山・北上川・衣川を眺望することがでる。古の俳人芭蕉翁をはじめ多くの旅人がここで足を止め眼下に広がるその光景を眺め、在りし日の平泉の栄華に想いを馳せたに違いない。

杉木立のあいだから降り注ぐ、初夏の強い日射しに照りつけらながら月見坂をのぼっていく。この坂をのぼりきれば、中尊寺の伽藍が見えてくるはずだ。(五木寛之著「百寺巡礼」から)。

参道の両脇には、江戸時代に伊達藩によって植樹された樹齢300年を数える多くの老杉が木陰を作り参拝客を迎える。

 

 

地蔵堂  明治10年(1877)の再建のお堂で、本尊は地蔵菩薩。

 

 

中尊寺の境内は入り口から一番奥の金色堂まで、一本道の参道で両側に堂宇が建てられている。参道の中間に店やお休み所がありその右手に本堂が建つ。

 

 

本坊表門【岩手県指定文化財】 本堂の正面に建つ表門となる薬医門式。伊達兵部宗勝の屋敷門を移築したものと伝えられていまるが、移築のいきさつは定かではない。

 

 

 

表門は木の丸太をそのまま使った構造で粗々しいが素朴な感じのがする。

 

 

細部。

 

本堂 中尊寺というのはこの山全体の総称をいい、本寺である「中尊寺」と山内17ヶ院の支院(大寺の中にある小院)で構成される一山寺院となっている。本堂は一山の中心となる建物で、明治42年(1909)に再建された。古くから伝わる法要儀式の多くはこの本堂で勤められる。 

 

 

手水石。

 

 

本堂の前に形のいい松の木。

 

 

 

本堂の向拝の軒先と彫刻を施した向拝紅梁。

 

 

向拝の様子。

 

 

向拝から境内を見る。

 

本堂の外陣 中尊寺は天台宗の天本山であり、本尊の両脇にある灯籠には、宗祖伝教大師最澄以来灯り続ける「不滅の法灯」が護持されている。

 

 

本堂の広縁。

 

 

中尊寺の扁額。

 

 

本堂の外陣を見る。

 

本尊は丈六の釈迦如来。像高約2.7m、台座・光背を含めた総高は5mに及ぶ尊像。中尊寺の大壇主藤原清衡公が「丈六皆金色釈迦」像を鎮護国家大伽藍の本尊として安置したことにならい平成25年(2013)に造顕・開眼供養された。

 

 

内部の欄間は天女象の彫刻欄間。

 

 

鐘楼。

 

 

本堂の前。

 

 

不動堂への入り口。

 

不動堂 昭和52年(1977)建立の祈祷堂。御本尊の不動明王は天和4年(1684)に、仙台藩主伊達綱村公により天下泰平を祈願し新調された。不動明王は、邪を破り、我々の過ちを正してくれる仏様で、少々厳しいお顔をされている。

 

 

峯薬師堂 境内の別峯に建っていたが、度重なる野火にあい、元禄2年(1689)に現在地に移された。

 

 

境内の小道。

 

 

 享和2年(1802)の再建で、本尊は金剛界大日如来。

 

旧鐘楼  康永二年(1343)に、金色堂別当頼栄の発願により鋳造された盤渉調の梵鐘。銘文には建武四年(1337)、山内の堂塔が火災により焼失した旨を刻し、奥州藤原氏以後の歴史を伝える貴重な資料となっている。鐘の径は86㎝。

 

讃衡蔵 奥州藤原氏の残した文化財3000点あまりを収蔵する宝物館。平安期の諸仏、国宝中尊寺経、奥州藤原氏の御遺体の副葬品などが納められている。平安時代奥州藤原氏によって造営された、往時の大伽藍中尊寺の様子を見ることができる。

 

 

金色堂への参道。

 

 

 

 

 

 

 

 

中尊寺と言えばこのアングルで金色堂。

 

新覆堂 この建物が金色堂ではなく、金色堂を覆う建物で鉄筋コンクリート造で、昭和40年(1965)に竣工した。

 

 

 

 

 

金色堂を見るため、この入り口を潜る。内部は撮影禁止。 

 

 

 

新覆堂の平面図  新覆堂を設計した「大岡實建築研究所」のHPより引用。

 

 

 

金色堂【国宝】 中尊寺創建当初の姿を今に伝える唯一の建物で、天治元年(1124)に上棟した。堂の内外に金箔を押した「皆金色」の阿弥陀堂。また国宝建造物第1号に指定された。

 

堂内の装飾は、4本の巻柱や須弥壇(仏壇)、長押にいたるまで、白く光る夜光貝の螺鈿細工、透かし彫り金具・漆蒔絵と、平安時代後期の工芸技術を結集して荘厳されており、堂全体があたかも一つの美術工芸品の感がする。

 

須弥壇の上にご本尊阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩、左右に3体ずつ地蔵菩薩が並び、最前列には持国天と増長天が破邪の形相でこの仏界を守護している。この仏像構成は金色堂独特のもので他に例を見ない貴重なもの。

 

孔雀がデザインされた中央の須弥壇の中には、奥州藤原氏の初代清衡、向かって左の壇に二代基衡、右の壇に三代秀衡の御遺体と四代泰衡の首級が安置されている。血筋の明らかな、親子四代の御遺体の存在は世界にもほかに例がないといわれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

金色堂側から参道を見る。

 

 

 

 

 

経蔵【国重要文化財】 当初は2階建てだったが、建武4年(1337)の火災で上層部を焼失し、おそらくは古材をもって再建されたもの路考えられる。

 

 

皇族から賜った御製。 みちのくの昔の力しのびつつまがゆきまでの金色堂に侘つ。

 

 

芭蕉の句碑。 五月雨の降り残してや光堂。

 

 

芭蕉像。

 

 

旧覆堂【国重要文化財】  金色堂を風雪から護るために、正応元年(1288)鎌倉幕府によって建てられたと伝えられる。5間4方の堂は、「鞘堂」とも言われた。金色堂解体修理(昭和の大修理)の際、現在地に移築されました。 

 

近年の調査では、金色堂建立50年後ほどで簡素な覆屋根がかけられ、何度かの増改築を経て、現在の建物は室町時代に建てられたと考えられている。

 

 

釈迦堂  享保4年(1719)の再建で本尊は釈迦三尊。

 

 

弁財天堂  本尊の弁財天十五童子は、仙台藩主伊達綱村公の正室仙姫永宝2年(1705)に寄進されたもので、堂は正徳6年(1716)に建立された。堂内には千手観音菩薩二十八部衆も安置されている。

 

 

扁額

 

 

白山神社の入り口。

 

 

白山神社 中尊寺の北方を鎮守するため、嘉祥3年(850)に中尊寺を開いた慈覚大師円仁がこの地に勧請したと伝えられている。

 

能楽殿【国重要文化財】 嘉永六年(1853)、伊達藩によって再建されたもの。正統かつ本格的な規模と形式の能舞台。現在も毎年5月4日・5日に古実式三番と神事能が中尊寺一山の僧侶によって勤められいる。

 

 

舞台の鏡板には老松が描かれている。

 

 

内側の桁には彫刻が施された。

 

 

舞台の袖には竹が描かれている。

 

 

境内のみやげ屋にて。

 

 

境内ではないがすぐ近くにお休み何処。

 

 

案内図

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」からーーーはじめて金色堂をみたときの印象は、意外に小さいお堂だな、というものだった。実際に金色堂は間口も奥行きも5メートル余りしかない。こわれやすい貴重品のようにガラスケースのなかに納められた金色堂は、さらに覆堂というコンクリートの建物にすっぽり覆われている。覆堂をくぐって金色堂の前に立った参拝客は、このガラスケースのなかに入ることはできない。そんなこともあって、写真で見て想像していたときよりも、ずっと小さい感じがしたのだった。二度目に参拝したときは、とくに小さいとも大きいとも感じなかった。三度目の今回は、どういうわけか金色堂がとても大きく感じられる。回を重ねてくるごとに、この小ぶりなお堂がどんどん広がって感じられてくる、というのはふしぎだった。もしかすると、五回、十回と見つづければ、この小さなお堂に、ものすごく広い宇宙空間が感じられるようになるのではないだろうか。

 

 

御朱印

 

 

(参考資料)中尊寺HP 五木寛之著「百寺巡礼」講談社 大岡實建築研究所HP  Wikipedia 

 

中尊寺 終了

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