『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

61 岡寺

2023-12-02 | 奈良県

古寺を巡る 岡寺

 

 

明日香の地には、飛鳥寺の参拝に訪れたが、明日香を巡る循環バスは1時間に1本。次のバスが来るまでの1時間で岡寺を拝観することにした。寺は、明日香村の東にある山の中腹に位置し、明日香の岡寺地区のバス停から7分の距離だ。坂道なので急ぎ足にはきつい。

「東大寺要録」などの古い資料によれば、天武天皇の皇子で27歳で早世した草壁皇子の住んだ岡宮の跡に、奈良時代の法相宗の租である義淵僧正が創建したとなれる。寺の西に隣接する治田神社境内からは奈良時代前期にさかのぼる古瓦が発掘されており、創建当時の岡寺は現在の治田神社の位置にあったものと推定されている。また、義淵がこの地の民を苦しめていた悪龍を当寺の池(現、龍蓋池)に封印して石で蓋をし、悪龍の厄難を取り除いて以来、当寺は「日本最初のやくよけ霊場」となり、鎌倉時代にはすでにその信仰が広まっていた。

義淵僧正の門下には東大寺創建に関わった良弁や行基などがいた。それゆえ法相宗の興福寺の末寺であった。江戸時代には長谷寺の住職であった法住が入山して当寺を復興し、中興第一世となって以降、長谷寺の末寺となって真言宗豊山派に属する。

当寺院には「岡寺」「龍蓋寺(りゅうがいじ)」の2つの寺号がある。「岡寺」は地名に由来する寺号、「龍蓋寺」は建立当初の正式名であり、現・法号である。仁王門前の石柱には「西国七番霊場 岡寺」とあり、通常はもっぱら「岡寺」の呼称が用いられている。「龍蓋寺」の法号は龍蓋池に封じた龍の説話に由来する。

 

参拝日    令和5年(2023)3月24日(金) 天候曇り

 

所在地    奈良県高市郡明日香村岡806                        山 号    東光山                                   院 号    真珠院                                   宗 旨    新義真言宗                                 宗 派    真言宗豊山派                                本 尊    如意輪観音(国重要文化財)                         創建年    7世紀末ごろ                                開 山    伝・義淵                                  開 基    法住                                     正式名    東光山 真珠院 龍蓋寺                            別 称    龍蓋寺                                   札所等    西国三十三所第7番                                  文化財    義淵僧正坐像(国宝)仁王門・書院・如意輪観音像ほか(国重要文化財)

 

 

境内図。

     

 

明日香村の岡寺地区の集落街なみ。 バス停のある個所。

 

 

 

寺へは、バス停から細い坂道を上る。

 

 

岡寺門前。

 

 

仁王門【国重要文化財】   慶長17年(1612)に再建されたもの。 四隅上にはそれぞれ阿獅子・吽獅子・龍・虎があり大変珍しい形態なのだが、写真は撮っていなかった。

 

 

仁王門の扁額は「龍蓋寺」。

 

 

 

門を潜る。

 

 

仁王門の金剛力士像(吽形)。

 

 

金剛力士像(阿形像)。

 

 

3月末、桜の盛り。

 

 

3間1戸(正面の柱間が3つあり、その中央の1柱間が戸口)の楼門。本瓦葺の入母屋造り。江戸時代初期の再建時に古材に手を加えて建立されたもの。江戸時代前期の建物としては、かなり古風な建物に見える。礎石は奈良時代の礎石を再利用 。

 

 

仁王門を進み境内。正面の石垣の上に庫裡、書院。左手に手水舎。石垣の手前右手方向に上がる。

 

 

今の季節、枝垂れ桜が迎えてくれる。

 

 

大師堂。  右側大師像のの前の石板の下に「四国八十八ヶ所霊場」のすべての霊場の砂が埋めてある。

 

 

大師堂から本堂方向を見る。       右から本堂、開山堂、楼門、社務所の建物が並ぶ。

 

 

本堂の方向に進む。

 

 

鐘楼。    本堂と同じ時期の文化年間(1804~1817)に再建された。

 

 

梵鐘。  梵鐘には文化5年(1808)と刻まれており、建築様式などから本堂と同時期に再建されたものと考えらる。鐘の中央付近に7つ穴があり、戦時中の供出で鐘の材質を調べる為にあけられた穴の跡だという。それでも、供出にはならず今も残されている。

 

 

本堂の前。

 

 

本堂。    

 

 

蓮華形の常香炉越しに見た本堂向拝。

 

 

本堂【奈良県指定有形文化財】  入母屋造本瓦葺葺き。文化2年(1805)に上棟を終え完成迄に30年以上かかった堂。4mを超える本尊が安置されている。参拝時は、本堂内にて『やくよけ法要』を勤修しているため一般の内陣参拝はできない期間であった。一般の内陣参拝期間は4月~12月まで。

 

 

広縁部分。

 

 

本堂妻の懸魚。唐屋根の棟飾りがどのようなもの判別しない。

 

 

 

向拝の上部屋根は、唐破風に飾られた屋根。

 

 

蟇股は江戸後期から末期に取り入れられた意匠のようだ。

 

 

照明。

 

 

向拝を見る。

 

 

本尊の如意輪観音座像。 ガラス越しに見る。

如意輪観音座像【国重要文化財】    像高4m85cm 奈良時代  塑造の現存作品としては我が国最大の大きさ。かつ、我が国如意輪観音の最古の遺例。像は右手を挙げて施無畏の印を結び、左手は膝上に置き掌を仰いで与願印とし、左足を前に組んで坐す。現在は左脚の下方が切りつめられて結跏趺坐の姿をとるが、本来は左足を踏み下げた半跏像であったと思われる。

古来より”銅像”の東大寺 毘盧遮那仏(奈良の大仏)、”木像”の長谷寺御本尊 十一面観世音菩薩、そして”塑像”の岡寺御本尊 如意輪観音菩薩が日本三大仏だと言われる。 (写真は岡寺HPより)

 

 

広縁部分の格天井。

 

 

大紅梁と二重紅梁を掛け間に蟇股で支持の二重紅梁架構式で唐屋根を支えている。

 

 

垂木、肘木、斗拱などの組物の様子。

 

 

十三重石塔。   龍蓋池の上部に.昭和元年(1926)建てたもの。

 

 

龍蓋池。   創設当時の寺名龍蓋寺の元になった池。明日香の地を荒らし農民を苦しめていた悪『龍』を、義淵僧正がその法力をもって池の中に封じ込め、大きな石で『蓋』をしたという言い伝えの池。

 

 

義淵僧正の石碑。   飛鳥を荒らす悪龍を其の法力により石の蓋をもって、池に閉じ込め改心させる龍は善龍となり今でもこの池に眠る。

 

 

桜が真っ盛り。

 

 

 

本堂より一段高い場所の三重塔へ。

 

 

 

 

三重宝塔。  元々三重宝塔は治田神社境内に建てられたが、文明4年(1472)の大風により倒壊。その後も復興される事なく、昭和59年の弘法大師千百五十年御遠忌を契機に、昭和61年に514年ぶりに再建された。内部の扉絵・壁画・琴など平成13年に完成した。

 

 

 

軒先に荘厳として吊るされた琴は全国的に見ても復元されている例はないので、珍しい荘厳となっている。

 

                             (写真は岡寺HPより)

 

 

九輪に水煙の相輪。

 

 

4間四方の間口。

 

楼門【奈良県指定文化財】      書院(国重要文化財)の前方に建つ入母屋造の門。仁王門と同様に慶長年間(1596~1615)頃の建立と考えられている。独特の形式を持つ小型の鐘楼門として大変珍しい遺構。

 

書院【国重要文化財】        普段は非公開。平成元年の修理に係る調査で、南面側通りの足固框内面から寛永21年(1644)在年の墨書きによる落書きが発見され、書院建立はこの年か、それ以前という事と考えらるという。

 

 

 

 

 

 

 

境内も周辺も花盛り。

 

 

境内から見た橿原市方向。

 

 

境内から見た明日香村方向。

 

 

帰りの道も満開の桜が見送ってくれた。

 

 

案内図

 

 

 

御朱印

 

 

 

岡寺 終了

 

 

(参考文献) 岡寺HP フリー百科事典Wikipedia  ほかに、他のブログをいくつか参照

 


60 飛鳥寺

2023-11-30 | 奈良県

百寺巡礼第8番 飛鳥寺

 

日本で最初の宗教戦争の舞台裏

 

 

 

今年になって3回目の関西めぐりである。 全国旅行支援にお世話になり、いい機会と思い集中的に関西の名刹を巡ることとした。今回の飛鳥寺で、五木寛之著「百寺巡礼」第一巻奈良(講談社刊)に掲載された10寺は、すべて参拝をし終えることができた。

こんなに小さな寺なのか、というのが最初の印象だった。時代は千四百年前にさかのぼる。日本がようやく統一国家に向けて歩みだしたころ、ここ飛鳥の地に、本格的な仏教寺院がはじめて建立された。創建当時は、「法興寺」という名前の寺で、現在の二十倍の寺域の壮麗な寺だったらしい。その法興寺の後身が飛鳥寺(安居院)である。しかし、その後この寺はさびれていく。伽藍はなんどかの火災や落雷によって失われた。江戸時代後期にようやく小さな堂宇が再建され、今はその中に日本最古の仏像が残るのみだという。なにかこみ上げてくる感慨があった。(五木寛之著「百寺巡礼」第一巻奈良より)。

現在の飛鳥寺の正式名は安居院という。開基(創立者)は蘇我馬子で、蘇我氏の氏寺として6世紀末から7世紀初頭にかけて造営されたもので、本格的な伽藍を備えた日本最初の仏教寺院である。『日本書紀』によると、法興寺(飛鳥寺)は用明天皇2年(587)に蘇我馬子が建立を発願したものである。馬子は排仏派の物部守屋対立していた。馬子は守屋との戦いに際して勝利を祈念し、「諸天と大神王の奉為(おほみため)に寺塔(てら)を起立(た)てて、三宝を流通(つた)へむ」と誓願し、飛鳥の地に寺を建てることにしたという。飛鳥寺の伽藍については、昭和31年(1956)から2年かけた発掘調査の結果、中心が五重塔で、塔を囲んで中金堂、東金堂、西金堂が建つ一塔三金堂式の伽藍であることが確認された。

 

霊亀2年(716)に都が平城京へ移るとともに飛鳥寺も現在の奈良に移転し元興寺(当ブログNO37参照)となった。

以降あまりの歴史は定かではない。『元興寺安居院縁起』には、江戸時代の寛永9年(1632)に、現在の橿原市(今井)の篤志家によって仮堂が建てられ、ついで天和元年(1681)に僧・秀意が草庵をつくり安居院と号し、傷んだ釈迦如来像を補修したとある。江戸時代中期の学者・本居宣長の『菅笠日記』には、彼が明和9年(1772)に飛鳥を訪ねた時の様子が書かれているが、当時の飛鳥寺は「門などもなく」「かりそめなる堂」に本尊釈迦如来像が安置されるのみだったという。しかし、近世中頃から名所記や地誌に名が挙げられ、延享2年(1745)には梵鐘を鋳造(昭和に軍に供出され現存せず)、寛政4年(1792)に参道入口に立つ「飛鳥大仏」の石碑、文政9年(1826)に大阪の篤志家の援助で現本堂の再建など法灯を守る努力が重ねられてきた

 

参拝日    令和5年(2023)3月24日(金) 天候曇り

 

所在地    奈良県高市郡明日香村飛鳥682                       山 号    鳥形山                                    宗 派    真言宗豊山派                                本 尊    釈迦如来(飛鳥大仏)(国重要文化財)                    創建年    6世紀ごろ                                 開 基    蘇我馬子                                  正式名    鳥形山安居院                                別 称    法興寺 元興寺                               札所等    新西国三十三箇所第9番 ほか                        文化財    銅造釈迦如来坐像(国重要文化財)、飛鳥寺跡(国の史跡)

 

 

飛鳥大仏前バス停付近。 橿原駅前からバスに乗りここで下車。

 

 

バス停付近から見た飛鳥寺と、後の小高い山は国営飛鳥歴史公園。

 

 

山門。 右に潜り戸のある切妻本瓦の門。 飛鳥大仏の石碑は、寛政4年(1792)に建てられた。法興寺が創建された際の礎石が台石として使用されている。

 

 

平成20年(2008)に飛鳥大仏開眼1400年目の立て札。

 

 

境内に入り山門を見る。

 

 

境内の様子。

 

 

塀の手前には焼失した塔の礎石が残されている。

 

 

万葉池。

 

 

本堂。       寄棟造本瓦葺で、正面に向拝のない簡素な造り。

 

 

虹梁中備の蟇股。連子窓や格子張りの板唐戸は和様式。

 

 

本堂前に並ぶ3個の礎石は日本最初の金堂のものが残されている。

 

 

本堂への入り口。

 

 

本堂の内部。

 

 

 大仏の右隣りに阿弥陀如来坐像(木造、藤原時代)。 

 

 

釈迦如来坐像【国重要文化財】。 609年、当代一流の仏師であった仏師・鞍作鳥(くらつくりのとり)によって造られた日本最古の仏像である。ただし、平安・鎌倉時代の火災で全身罹災し、罹災した部分の補修がされ、現在は、顔面や右手の中指・薬指・人差指などだけが残されている。  

 

像高272cmで、制作時造像に銅15t、黄金30kgが使われた。仏像は、一般的に、立像の場合は一丈六尺(4.8m)で丈六と呼び、坐像の場合は八尺(2.5m)以上の仏像のことを「大仏」と呼ぶ。飛鳥寺の丈六仏は像高が272㎝の坐像で八尺を超えているので「飛鳥大仏」と呼ぶようになった。

 

 

正面から見ると、少々不格好な仏像に見えるので角度を変えて撮ってみた。また、正面からの顔が少し斜め向きなのは、聖徳太子が誕生したと言われる橘寺の方を向いているからといわれる。 

 

 

聖徳太子孝養像(木造 室町時代)。     大仏の左側に安置され、聖徳太子が十六才のとき、父用明天皇の病気回復を祈願されている姿といわれる。

 

 

 

 

 

本堂内部の蟇股。

 

 

胎蔵界曼荼羅。    大日如来を中央に描く蓮の花を中心に、同心円状に院を配した曼荼羅で、大日如来の慈悲が放射状に伝わり、教えが実践されていくさまを表している。

 

 

 

中庭越しに見る右・本堂、左・庫裡。

創建当時の瓦。『日本書紀』や『元興寺資材帳』からは、崇峻天皇元年(588)、百済から四種の技術分野の八名の技術者が渡来したことが知られる。彼らが渡来してから建築用材調達が行われる同三年(591)までに造営技術者や工人の養育養成が行われ、造瓦分野においては須恵器の青海波紋作りに用いる当て道具の使用痕跡が認められることから、須恵器作りの工人が動員されていると考えられている

 

 

これはなに?

 

 

思惟殿。    新西国三十三箇所第9番札所で聖観音を祀る。

 

 

 

 

 

脇の軒下には絵馬。

 

 

鐘楼。

 

 

西門。

 

 

西門方向から飛鳥寺を見る。

 

蘇我入鹿の首塚。    飛鳥寺の境内を西に抜けたところに立つ五輪塔。 大化の改新のとき、飛鳥板蓋宮で中大兄皇子らに暗殺された時の権力者・蘇我入鹿の首がそこまで飛んできたとか、襲ってきた首を供養するためにそこに埋めたともいわれる。

 

 

飛鳥寺から見渡す明日香村の景色。

 

 

国営飛鳥歴史公園のある小高い丘。

 

 

飛鳥寺近くの明日香村飛鳥の街並み。

 

 

 

 

 

案内図。   青線は橿原駅からのバスルート(1時間に1便)。

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー飛ぶ鳥と書いて「あすか」。この言葉はもとは、「あすか(明日香)にかかる枕詞だった。「飛ぶ鳥の明日香」という言葉は、『古事記』や『万葉集』にも登場する。いまは「飛鳥」と「明日香」の両方の表記が使いわけられていて、飛鳥寺があるこの場所は、奈良県高市郡明日香村飛鳥である。飛鳥の里は、畝傍山、耳成山、天香具山の大和三山に囲まれた狭い場所だ。この人口七千人足らずの小さな村が、六世紀半から七世紀にかけての日本の中心だったととういことは、いま感覚ではちょっと信じがたい。しかし、短い時間であったものの、かってはこの地に飛鳥板蓋宮や飛鳥浄御原宮などがあった。これは歴史的事実である。飛鳥寺の西側にある甘樫丘にのぼると、大和三山のほかに、三輪山、金剛、葛城、二上の山々も見渡せる。飛鳥がいかに狭い場所であるかが実感できる。この地方には坂舟石、亀石、石舞台といった不思議な石の遺跡がいくつも遺されている。なかでも石舞台は、巨大な花崗岩を組みあげてつくられていて、最大の石は七十数トンの重さがあるという。これは蘇我馬子の墓だと推定されている。古代日本で、七十トン以上の巨大な石を運んできて組みあげるためには、何千、いや何万という途方もない人員を要したはずだ。すでに飛鳥時代には、皇室であれ、蘇我氏であれ、それだけの大工事を可能にする強大な権力が、この地に存在していたことになる。また、それだけの技術が、存在したという事実にも驚かされる。極東の小さな島国である日本、そこに閉ざされて生きいた人びとが、六世紀から七世紀という時代に、こうした文化をもつ、やがて、この国ではまだ誰も見たことがないような大きな寺をきずくことになる。

 

 

御朱印。

 

 

飛鳥寺 終了

 

(参考文献)
  
五木寛之著「百寺巡礼」第一巻奈良(講談社刊) 飛鳥寺HP フリー百科事典Wikipedia 

ほかに、ブログをいくつか参照

 

(後記) この明日香村への訪問は、飛鳥寺と岡寺のそれぞれ1時間程度、バスの時間を気にしながらの参拝で、この村にある日本の始まりの数々の歴史的建造物には全く触れないまま帰ってしまった。五木寛之著「百寺巡礼」の飛鳥寺をあらためて読んでみて、この明日香の里については、いつか必ず再訪しゆっくり時間をかけて巡ってみることを我が身に約束をした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


59 當麻寺

2023-11-26 | 奈良県

百寺巡礼第9番 當麻寺

浄土への思いが募る不思議な寺

 

開基は聖徳太子の異母弟・麻呂古王とされるが、草創については不明な点が多い。西方極楽浄土の様子を表した「当麻曼荼羅」の信仰と、曼荼羅にまつわる中将姫伝説で知られる古寺である。奈良時代から平安時代初期に建立された二つの三重塔があり、近世以前建立した東西両塔が残る日本唯一の寺としても知られる。

中将姫の当麻曼荼羅の伝説で知られる當麻寺は、二上山の麓に位置し、奈良盆地の西端、大阪府に接し、古代においては交通上・軍事上の要地であった。二上山は、その名のとおり、雄岳、雌岳という二つの頂上をもつ山で、奈良盆地東部の神体山・三輪山と相対する位置にある。二上山は、大和国の西に位置し、夕陽が2つの峰の中間に沈むことから、西方極楽浄土の入口、死者の魂がおもむく先であると考えられた特別な山であった。當麻寺はこの地に勢力をもっていた豪族葛城氏の一族である「当麻氏」の氏寺として建てられたものと推定されている。金堂に安置される弥勒仏像と四天王像、境内にある梵鐘と石灯籠、出土した塼仏、古瓦などは、いずれも天武朝頃(7世紀後半)の様式を示し、寺の草創はこの頃と推定されるが、創建の正確な時期や事情については正史に記録が見えず、今ひとつ明らかでない。

 

参拝日    令和5年(2023)3月24日(金) 天候曇り

 

所在地    奈良県葛城市当麻1263                            山 号    二上山                                   宗 派    真言宗 浄土宗                               本 尊    當麻曼荼羅                                 創建年    伝・推古天皇20年(612)                           開 基    伝・麻呂古王                                札所等    新西国三十三個所第11番 ほか                        文化財    東塔、西塔、曼荼羅堂、塑像弥勒仏坐像ほか(国宝)金堂、乾漆四天王立像、    

       木造阿弥陀如来坐像ほか(重要文化財)

 

 

 

近鉄南大阪線当麻寺駅から900mほど参道を歩いて當麻寺の東大門に。

 

 

東大門の前。

 

 

 

中の坊、奥の院を含む當麻寺境内図

 

 

當麻寺境内図。

 

 

仁王門(東大門)。

 

 

 

 

 

 

金剛力士の吽形像。

 

 

右側の金剛力士阿形像はただ今修理中で留守。

 

 

仁王門の処から境内を見る。二上山(にじょうさん)の山並みは雲がかかりほとんど見えない。

 

 

鐘楼。   境内に入りすぐ左側に建つ。

 

梵鐘【国宝】   白鳳時代(680年代)に作られたもので無銘ながら、作風等から日本最古級と推定される。當麻寺創建当時の遺物と推定される。2か所にある撞座の蓮弁の枚数が一致しない(一方が10弁でもう一方が11弁)等、作風には梵鐘が形式化する以前の初期的要素がみられる。鐘楼の上層に懸けられており、間近で見学することはできない

 

本堂(曼荼羅堂)【国宝】        金堂・講堂の西側に、東を正面として建つ。平安時代の末期に建立された。寄棟造、本瓦葺。桁行7間、梁間6間。梁行6間のうち、奥の3間を内陣、手前の3間を礼堂とし、内陣は須弥壇上に高さ約5mの厨子(国宝)を置き、本尊の当麻曼荼羅を安置する。左右(南北)端の桁行1間分は局(小部屋)に分け、北側西端の間には織殿観音と通称される十一面観音立像を安置する。背面北側の桁行3間分には閼伽棚が付属する。

 

 

 

昭和32年(1957)から昭和35年(1960)にかけて実施された解体修理時、棟木に永暦2年(1161)の墨書が発見され、奈良時代の建物の部材が転用されていることが明らかとなった。その後、平安時代初期頃に桁行7間、梁間4間、寄棟造の堂に改造された。この時点では屋根は瓦葺きではなく檜皮葺きか板葺きであった。現存する本堂内の厨子の製作もこの頃とみられることから、当麻曼荼羅を安置するためのものであったと推定される。その後、この堂の前面に孫庇が付加され、永暦2年に現在のような桁行7間、梁間6間の仏堂となったものである。

 

 

向拝の上部。

 

 

 

本堂の広縁。

 

 

来迎阿弥陀如来立像

 

 

十一面観音菩薩立像【国重要文化財

當麻曼陀羅【国重要文化財】       当麻曼荼羅の原本は、損傷甚大ながら現在も當麻寺に所蔵されており、昭和36年(1961)に「綴織当麻曼荼羅図」の名称で工芸品部門の国宝に指定された。現状は掛幅装で、画面寸法は394.8x396.8Cm である。曼荼羅の由来を記した銘文があり、その中に「天平宝字七年」(763)の年号があったというので、この年の制作と思われる。当麻曼荼羅の原本については、中将姫という女性が蓮の糸を用い、一夜で織り上げたという伝説がある。中将姫については、藤原豊成の娘とされているが、モデルとなった女性の存在は複数想定されている。

須弥壇【国宝】     8世紀末から9世紀初頭の作。須弥壇は鎌倉時代に源頼朝から寄進されたもので、須弥壇には源の文字が見て取れるが、写真ではよく判らない。本堂(曼荼羅堂)内陣には高欄付の須弥壇を構え、その上に高さ501センチメートルの大型厨子を置く。厨子は仏像ではなく当麻曼荼羅を安置するためのものであるため、高さの割に奥行が浅く、平面形は扁平な六角形をなす。須弥壇は螺鈿や木目塗で仕上げられたもの。

 

 

石灯籠【国重要文化財】。  日本最古の石燈籠 、奈良時代前期、凝灰岩、高さ 227Cm。

 

 

金堂【国重要文化財】    鎌倉時代の再建。入母屋造、本瓦葺。桁行5間、梁間4間。組物は二手先、中備(なかぞなえ)を間斗束(けんとづか)とする。屋根は元は厚板を葺いた木瓦葺きであった。内部は土間で、中心の桁行3間、梁間2間を内陣とする。内陣いっぱいに漆喰塗り、亀腹形の仏壇を築き、本尊の塑造弥勒仏坐像、乾漆四天王立像などを安置する。内陣正面向かって左の柱に文永5年(1268年)の田地寄進銘が墨書されており(墨書の跡に字形が浮き出ている)、これより以前、鎌倉時代前期の寿永3年(1184)の再建と推定される。

 

 

 

堂は乱石積の高い基壇上に建つが、堂の規模に比して基壇が高いのは、長年の間に地盤が削られたために、かさ上げをしたためである。

講堂【国重要文化財】        金堂の背後(北)に建つ。寄棟造、本瓦葺。桁行7間、梁間4間。組物は平三斗、中備を間斗束とする。野垂木の墨書により鎌倉時代末期の乾元2年(1303)の再建であることが知られる。屋根は金堂と同様、元は厚板を葺いた木瓦葺きであった。堂内は梁行4間のうち中央の2間分に板床を張り、本尊阿弥陀如来坐像、もう1体の阿弥陀如来坐像、妙幢菩薩立像、地蔵菩薩立像(以上国重要文化財)のほか、多くの仏像を安置する。床下に焼土層が認められ、治承4年(1181年)平家の兵火により焼失したことがわかる。

 

 

 

 

本堂から仁王門の方向を見る。右に金堂、左に講堂。

 

 

東塔と西塔の案内板。

 

 

 

當麻寺の東塔と西塔二つの塔。

 

 

枝垂れ桜が似合う寺。

 

 

東塔への参道。

 

 

 

 

東塔【国宝】    総高(相輪含む)は24.4mの三重塔。細部の様式等から、奈良時代末期の建築と推定される。

 

初重が通常どおり3間(柱が一辺に4本立ち、柱間が3つあるという意味)であるのに対し、二重・三重を2間とする。日本の社寺建築では、柱間を偶数として、中央に柱が来るのは異例である。日本の古塔で二重目の柱間を3間でなく2間とするのは當麻寺東塔のみである

 

 

塔は檜の木で作られている。

 

 

 

屋根上の相輪には、一般の塔では「九輪」という9つの輪状の部材があるが、この塔は八輪になっている。さらに、相輪上部の水煙(すいえん)が、他に例をみない魚骨状のデザインになるなど、異例の点が多い塔である。なお、水煙は創建当初のものかどうか定かでない。初重内部には床を張るが、当初のものではない

 

西塔【国宝】    三重塔で、総高は東塔よりやや高い25.2m。様式からみて、東塔よりやや遅れ、平安時代初期の建築と推定される。西塔は、高さ以外にも東塔とは異なる点が多い。柱間は初重から三重まで3間とする。

 

 

 

 

 

 

 

 

西塔は欅の木材で造られた。角層とも軒の出が深く、三手先組の肘木や軒支輪が軽快で、屋根裏や軒先を眺める価値が十分。

 

 

 

 

 

 

 

屋根上の相輪が八輪になっている点は東塔同様だが、水煙のデザインは未敷蓮華(みふれんげ)をあしらったもので、東塔のそれとは異なっている。

 

 

桜が咲き始めたころで枝垂れ桜が壮観な姿を見せてくれた。

 

 

當麻寺奥院

當麻寺には中之坊、護念院、西南院、奥院などの塔頭がある。その中で最大の塔頭が奥院である。 浄土宗総本山知恩院(京都市東山区)の「奥之院」として応安3年(1370)に建立された。知恩院の12代目の住職の誓阿普観上人が奥院を開山。当時、京都は南北朝分裂後の混乱で常に戦火の危険性に満ちていた。法然上人の夢告を得た誓阿普観上人は後光厳天皇の勅許を得て、知恩院本尊として安置されていた法然上人像(国重要文化財)を撰択本願念仏宗(国重要文化財)や法然上人所縁の宝物とともに、當麻寺へと遷座し、今の奥院となる往生院を建立した。以来、知恩院の住職が極楽往生を遂げる地として住職5代に亘り當麻寺奥院へ隠遁し、法然上人像を守る。知恩院と対をなす奥院は浄土宗の大和本山として念仏流通と僧侶育成の道場となり、また当麻曼荼羅を日本全国に広める役割も果たし、多くの人々の信仰を集め、今日まで護持継承されて来た名刹。奥院と名称が付いた時期については定かでないが、延宝9年(1681)頃にはすでに奥院と称されていた。奥院境内の建造物については、本堂・阿弥陀堂・方丈・庫裏・楼門があげられている。現在は、これら以外に宝物館が加わっている。現在の奥院本堂は、創建時のものではなく、慶長9年(1604)に建てられたものであることが本堂の棟木墨書銘によって知られる

 

 

當麻寺奥の院楼門。  寺の路地裏からの入り口のような参道はいまは使われていない。不思議な楼門。

 

 

 

 

 

黒門。  こちらに薬医門があり、左側に門を守る兵士の像。 弁柄色の築地塀に黒い薬医門そして兵士蔵と奇妙な取り合わせ。

 

 

参道。

 

 

桜の花が咲く下に小さな堂。

 

奥院の伽藍。      浄土宗の子院。応安3年(1370)知恩院12世の誓阿普観が知恩院の本尊であった法然上人像(重要文化財)を遷座し、本尊として創建したもので、当初は往生院と称した。当院は知恩院の奥の院とされ、近世以降は「当麻奥院」と称された。宗教法人としての名称も「奥院」である。誓阿が知恩院から移したとされる円光大師(法然)像を本尊とし、知恩院所蔵の四十八巻伝の副本とされる『法然上人絵伝』48巻(重要文化財)を所蔵する。

 

 

御影堂。   桃山時代に建てられた本堂は御影堂と呼ばれ、中には円光大師法然上人坐像 (通常は非公開)や宝冠阿弥陀如来像などが安置されている。

 

 

御影堂の扁額「知恩教院 最初本尊」の文字。

 

 

樋受けには葵の御紋が描かれている。

 

 

阿弥陀堂。     御影堂の横にあるのが阿弥陀堂。阿弥陀仏は南無阿弥陀仏と念仏を称え往生極楽を願う人を分け隔て無く極楽浄土に救い取ってくれる仏。浄土宗の本尊でもある。

 

 

庫裡(寺務所)の堂宇。正面の玄関脇の丸窓、屋根の獅子口、破風の燕懸魚や蟇股が印象的。

 

 

寺務所から弁柄色の塀伝いに大方丈へ。 弁柄色が強烈。

 

 

寺務所および大方丈の正玄関。 3つの千鳥破風と唐破風が重なる正玄関。石燈籠は天和3年(1683)に建立された。

 

 

大方丈(書院)。弁柄色の色の築地塀に囲まれている。黒縁の宝珠形の門が設けられているが、庭を見る窓のようだ。

 

二河白道の庭。     大方丈の庭。念仏信者の極楽浄土に対する信仰心を譬えた「二河白道(にがびゃくどう)」を冠した庭。二上山で古代より産出される金剛砂を火の川、白砂を水の川に用いている珍しい庭園。作庭家は足立美術館の日本庭園を創りあげ「昭和の小堀遠州」と称えられた中根金作師。

大方丈【国重要文化財】   桁行六間、梁間五間半の寄棟造で、12畳敷の間が上・中・下の三間、6畳敷の間が同じく三間ある。方丈とは住職の居所のことをいう。奥院には明治大正期まで、「大方丈」と「小方丈」の二つの方丈があったが、現在は大方丈のみが現存。大方丈の棟札には慶長17年(1612)との記載があり、同年に建立であることがわかった。平成30年(2018)、日本画の巨匠 上村淳之画伯によって當麻寺奥院「大方丈」に奉納された「花鳥浄土」。30枚60面からなる大作は、大方丈の六室に趣の異なる花と鳥の浄土世界を表現している。      (写真は當麻寺HPより)

 

金碧画。  12畳上之間の床の間には狩野派の筆によって玄宗皇帝・楊貴妃の物語が金碧画で描かれ、6畳上之間には水墨画が描かれてる。明治期までは六間全ての襖が金碧画で仕上げられていたといい、大方丈は「金の間」と呼ばれていたが、明治の廃仏毀釈から太平洋戦争の混乱期に散逸してしまった。(写真は當麻寺HPより)

 

 

二河白道(にがびゃくどう)とは、浄土教における極楽往生を願う信心の譬喩で、「火の河と水の河を人の貪欲と怒りにたとえ、この間にある白い道は極楽に通じる道で、往生を願う信心にたとえる」。

 

 

 

 

 

 

 

 

本堂の回廊から大方丈を見る。

 

 

本堂の回廊から庭園側を見る。

 

 

楼門【国重要文化財】 入母屋造本瓦葺。江戸時代初期の建立。

 

 

 

 

 

楼門方向の境内。

 

 

まさに花盛り枝垂れ桜。

 

 

 

 

 

楼門(重要文化財)から西へ進むと、石彫"くりから龍"を中心に現世を表現した渓流を右手に眺め、スロープをゆっくり上がっていくと浄土の世界が目前に広がる。

 

 

牡丹の寺。 奥院は牡丹の寺としても知られ、奥院五十七代観誉察聞上人が当院大方丈仏間の絵天井に牡丹の絵が画かれてあるのに由来して庭園に多くの牡丹を植樹し、仏前に御供したのがぼたん園の始まり。 3月下旬にボタンが咲き、桜と牡丹の競演が見られる。 

 

 

 

 

巨石と自然に溢れる庭園。  浄土庭園の巨石は「太閤石」という石で、昔、豊臣秀吉公が大阪城を築城するにあたり、西国から巨石を集めた。浄土庭園の石はその産地の一つ、湯布院から運ばれたもので、由布岳の溶岩が固まってできる特異な色・形を庭園に利用している。

 

 

 

 

阿弥陀如来像を中心に数多くの仏をあらわした石が並び、阿弥陀仏の姿を写す極楽の池"宝池"がある。ニ上山を背景に當麻の自然を存分に取り入れた浄土庭園。

 

 

 

 

 

宝池。  池の先に阿弥陀堂。

 

 

本堂の脇から西塔を眺める。

 

 

奥院への正面参道。 帰りはこちらを下る。

 

 

案内図。

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーーー基本的に源信の信仰とは、阿弥陀如来を信じて念仏することによって、人は臨終をとげるときに浄土に往生することができる、ということだ。こばれるの信仰をそのまま形にしているのが、曼荼羅の横にある「来迎の弥陀」と呼ばれる檜材の寄木造りの立像である。じつは、この像は非常に軽く、中が空洞になっている。ちょうどひとり人間が中にはいれるような大きさだ。そのため、昔は、自分の寿命は長くない、と死を覚悟した人が内部に入って、即身成仏したといわれる。いま、自分は弥陀の胎内にはいって体となった、と感じることは、その人にとって、苦しみよりもエクスタシーとさえいえるかもしれない。現代医療では、死んでいく人に対して、さまざまな薬や装置を使って延命が行われる。しかし、こんなふうに像のなかにはいって、いっさい延命措置をせず三日くらい飲まず食わずでいればどうだろう。おそらく枯れるように死んでいくだろう。こういう形での来迎が本当になされたのか、学術的な裏づけがあるのかどうか私にはわからない。しかし、この當麻寺だけに、その話が信じられる。そして、そういうめずらしい、特異な伝承がずっと伝えられてきた背景には、人びとの浄土への憧れや往生を願うことがあった。それがいかに強いものであったかを、あらためて感じないではいられない。

 

 

御朱印

 

當麻寺 終了

 
(参考文献)
  
五木寛之著「百寺巡礼」第一巻奈良(講談社刊) 當麻寺HP  フリー百科事典Wikipedia 

(ブログ)何気ない風景ひとり言

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


37 元興寺

2023-10-01 | 奈良県

古寺を巡る 元興寺

日本最古の本格的仏教寺院の建物が移築された寺。

 

 

奈良市の中心部にある奈良町は、奈良時代の平城京の外京だったエリアで、平安末期の11~12世紀頃寺社の仕事に携わる人々によって形成された。中世以降は、「寺社のまち」、「商工業のまち」、「観光のまち」として発展してきた。豊かな歴史や文化が育み、町家などの歴史的建造物の家並が残り、風情のある街である。そのほぼ中心部に元興寺がある。

元興寺は、蘇我馬子が飛鳥に建立した日本最古の本格的仏教寺院である法興寺(飛鳥寺)が、平城京遷都に伴って平城京内に移転した寺院である。奈良時代には近隣の東大寺、興福寺と並ぶ大寺院であったが、中世以降次第に衰退して3つの寺院が分立した。

奈良時代の元興寺は、三論宗と法相宗の道場として栄え、東大寺や興福寺と並ぶ大伽藍を誇っていた。寺域は南北4町(約440m)、東西2町(約220m)と南北に細長く、興福寺の南にある猿沢の池の南方、奈良町と通称される地区の大部分が元は元興寺の境内であった。猿沢池南東側にある交番のあたりが旧境内の北東端、奈良市音声館(奈良市鳴川町)のあたりが旧境内の南西端にあたる。10から11世紀にかけて、東大寺、興福寺が勢力を増す一方で、元興寺は中央政権的な国家体制の律令制度が崩壊するに合わせ徐々に衰退していった。

極楽院と呼んでいた寺も明治以降は荒れ果て、本堂も昭和25年(1950)ころまでは床は落ち、屋根は破れるほどの荒れ方であった。極楽院の住職となった辻村泰圓は、戦後に社会福祉事業に尽力するかたわら、境内の整備や建物の修理を進めた。昭和37年(1962)に辻村氏により境内に財団法人元興寺仏教民俗資料研究所が設立され、昭和40年(1965)には寺宝を収蔵展示する収蔵庫が完成するなど、徐々に整備が進んだ。同研究所は、本堂解体修理中に屋根裏から発見された数万点の庶民信仰資料を研究することでスタート。昭和52年(1977)に「元興寺」と改称。平成22年(2010)禅室の一部に使用されている木材が世界最古の現役木製建築部材であることが確認された。

 

参拝日    平成30年(2018)10月2日(木) 天候晴れ

 

所在地    奈良県奈良市中院町11                           山 号    なし                                    宗 派    真言律宗                                  本 尊    智光曼荼羅                                 創建年    推古天皇元年(593)                             開 基    蘇我馬子                                  正式名    元興寺                                   別 称    元興寺極楽坊                                札所等    西国薬師四十九霊場第5番                           文化財    本堂、禅堂、五重塔小塔(国宝) ほか

 

 

奈良町と言われる古い町並みが並ぶ一角。

 

 

 

 

 

長名の由来が掲げられていた。

 

 

元興寺の塀の一画。

 

 

元興寺の入り口付近。

 

 

境内図。

 

 

元興寺への入り口。

 

 

東門【国重要文化財】。 鎌倉時代後期(1275~1332)に東大寺の塔頭であった西南院の門として建立された。室町時代前期の応永年間(1394~1427)に元興寺に移築したと言われている。鎌倉時代の寛元2年(1244)に本堂と禅室が大改造された際に、東向きの寺院に改めたことで東門が元興寺の正門になっている。

 

 

平成10年(1998)に古都奈良の文化財として世界遺産に登録された。

 

 

東門及び、拝観入り口。

 

 

東門を境内から見る。

 

 

東門から本堂を見る。

 

 

本堂の前の様子。

 

本堂【国宝】 極楽坊本堂または極楽堂とも呼ぶ。寄棟造、瓦葺で、東を正面として建つ(東を正面とするのは阿弥陀堂建築の特色)。この建物は寄棟造の妻側(屋根の形が台形でなく三角形に見える側)を正面とする点、正面柱間を偶数の6間とし、中央に柱が来ている点が珍しい(仏教の堂塔は正面柱間を3間、5間などの奇数とし、正面中央に柱が来ないようにするのが普通)。

 

 

 

 

向拝を見る。

 

 

柱の上の枓栱は単層で、ほかに彫刻や飾り物などの無い簡素な造り。

 

 

 

 

内部は板敷きの内陣の周囲を畳敷きの外陣がぐるりと囲んでおり、内陣の周囲を念仏を唱えながら歩き回る「行道」に適した構造になっている。鎌倉時代の寛元2年(1244)、旧僧房の東端部分を改造したもので、内陣周囲の太い角柱や天井板材には奈良時代の部材が再用されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本堂の南側を見る。

 

本堂の南側の境内に整然と並べられた石塔。禅室の北西部石舞台に積み上げられていたものを、昭和63年(1988)に、並べ直し浮図田と呼んでいる。(浮図とは仏陀のことで、仏像、仏塔が稲田のごとく並ぶ場所という意味)

 

 

本堂の西側に並ぶ禅堂。

 

禅室【国宝】   切妻造、瓦葺。本堂の西に軒を接して建つ。元は現・本堂と東西に長いひと続きの僧房であったものを鎌倉時代に改築した。正面の4箇所に板扉があり、区画に分かれていた。1区画には5-8人の僧が生活していた処。本堂と同様、部材や屋根瓦の一部には奈良時代のものが残っていて、西暦582年に伐採された樹木が使用されていて、本堂より古い材木が使用されている。

 

 

 

 

屋根瓦の一部にも飛鳥〜奈良時代の古瓦を使用。ここに使われている古瓦は上部が細くすぼまり、下部が幅広い独特の形をしており、この瓦を重ねる葺き方を行基葺(ぎょうきぶき)という。

 

 

家形石棺型手洗鉢。

 

 

かえる石。  境内北側にあるガマガエルのような石は、古くから有名な奇石で蛙石と呼ぶ。この石は、以前にかかわった有縁無縁一切の霊を供養して極楽にカエルと成就している。極楽堂に向って誓願の「無事かえる」「福かえる」など衆生の願を聞いてくれると言う。

 

 

獅子国型仏足石。 獅子国とはスリランカのことで、同国と元興寺の友好を機に設置された。

 

 

 

元興寺総合収蔵所。 昭和40年(1965)に建てられた鉄筋コンクリート造の宝物の展示館。

 

収蔵庫には、奈良時代の五重小塔(国宝)が見もの。境内に建てられた五重塔と同時に五重小塔も製作され現在まで保存されている。小さいが非常に精巧につくられいる。収蔵庫には他に、平安時代に描かれた板絵の智光曼荼羅(国重要文化財)、平安時代制作の阿弥陀如来坐像(国重要文化財)、鎌倉時代の聖徳太子立像(国重要文化財)、鎌倉時代の弘法大師坐像(国重要文化財)などがある。

 

 

五重小塔【国宝】  収蔵庫に安置。奈良時代の制作。高さ5.5m。小塔であるが、内部構造まで省略せずに忠実に造られているため「工芸品」ではなく「建造物」として国宝に指定。同じく建造物として国宝に指定されている海龍王寺の五重小塔は、奈良時代の作であるものの内部構造は省略されているため、現存唯一の奈良時代の五重塔の建築構造を伝える資料として貴重である。かつては「小塔院」の建物小塔堂内に安置されていたと伝えられる。一貫して屋内にあったため傷みが少ない。(写真は元興寺のHPより引用)

 

聖徳太子立像【国重要文化財】  本像は孝養像と呼ばれるもので、文永5年(1268)に仏師善春等によって作られ、僧俗約5千人による勧進結縁 で出来あがった。おそらく文永9年(1272)の太子生誕650年を記念して造立されたと推定される。太子16歳の時、父用明天皇の病気平癒を祈る姿だという。元興寺は「聖徳太子四十六ヶ伽藍之随一也」とする考えが成立し、南都の律僧達が太子信仰に拠って極楽坊をその拠点としたことが太子像造立の契機となった。(写真が元興寺HPより引用)

 

 

案内図

 

 

 

御朱印

 

 

元興寺 終了

 

(参考文献)   元興寺HP  フリー百科事典Wikipedia  奈良県観光局ならの観光力向上課HP

         五木寛之著「百寺巡礼」第一巻奈良(講談社)

 


36 長谷寺

2023-09-28 | 奈良県

第2番 長谷寺

現世での幸せ祈る観音信仰

 

 

本日は、まず室生寺に参拝し、その帰りに足で同じ近鉄大阪線沿線の長谷寺への参拝である。どちらの寺も山あいの丘陵地や崖地に建ち、境内が広く坂と階段の多い寺。二つの寺を隈なく回るとくたくたになるが、どちらも素晴らしい寺である。

大和国と伊勢国を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に本堂が建つ。初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬から5月上旬は150種類以上、7,000株といわれる牡丹が満開になり、当寺は古くから「花の御寺」と称されている。また「枕草子」「源氏物語」「更科日記」など多くの古典文学にも登場する。

創建は奈良時代、8世紀前半と推定されるが、創建の詳しい時期や事情は不明である。寺伝によれば、天武天皇の朱鳥元年(686)、僧の道明が初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺が建てられている場所)に三重塔を建立。続いて伝承の域を出ないが、神亀4年(727)、僧の徳道が聖武天皇の勅命により東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀ったという。長谷寺は平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰を集めた。天正16年(1588)豊臣秀吉により根来寺を追われた新義真言宗門徒が入山した。この後、本堂は焼失したが、三代将軍徳川家光の寄進によって慶安3年(1650)に再建された。

寛文7年(1667)には第4代将軍徳川家綱の寄進で本坊が建立されたが、明治44年(1911)に表門を残して全て焼失。大正13年(1924)に再建されている。近年は、子弟教育・僧侶(教師)の育成に力を入れており、学問寺としての性格を強めている。

十一面観音を本尊とし「長谷寺」を名乗る寺院は、鎌倉の長谷寺をはじめ日本各地に多くあり、240か寺ほど存在する。他と区別するため「大和国長谷寺」「総本山長谷寺」等と呼称することもある。

 

参拝日    平成30年(2018) 10月3日(金) 天候晴れ

 

所在地    奈良県桜井市初瀬731-1                         山 号    豊山                                    院 号    神楽院                                   宗 旨    新義真言宗                                 宗 派    真言宗豊山派                                寺 格    総本山                                   本 尊    十一面観音(国重要文化財)                         創建年    伝・朱鳥元年(686)                             開 山    道明                                    正式名    豊山神楽院長谷寺                              別 称    花の御寺                                  札所等    西国三十三所第8番                              文化財    本堂(国宝) 木造十一面観音立像・仁王門ほか(重要文化財)

 

 

 

近鉄大阪線の長谷寺駅。

 

 

長谷寺駅から歩いていく。駅から300mは住宅街の細い道で下り坂。初瀬の信号を渡り初瀬街道に建ち並ぶ門前町を進む。

 

 

 

 

門前には旅館や食い物やおみやげ屋が並ぶ。

 

 

門前から見た様子。

 

 

長谷寺駅から1200mで長谷寺入り口に。歩いて20分ぐらいだったろうか・・・・。

 

 

境内案内図。

 

 

 

総本山長谷寺の石標。

 

 

参道から見る仁王門。

 

仁王門【国重要文化財】  明治18年(1885)に建立。長谷寺の総門。屋根は入母屋造、本瓦葺の三間一戸の楼門。平安時代、一条天皇頃に創建された。その後、度重なる火災により焼失に遭っている。

 

 

仁王門から参道方向を見る。

 

 

 

 

 

金剛力士像。 近すぎて撮れなかった・・・・・。

 

 

勅額「長谷寺」の文字は後陽成天皇が自ら書いた宸筆である。

 

 

登廊【国重要文化財】 入口の仁王門から本堂までは399段の登廊(のぼりろう、屋根付きの階段)を上る。

 

 

登廊は、下登廊、繋屋、中登廊、蔵王堂、上登廊と5棟に分かれているが、連続して108間ほどあり、煩悩の数にちなんでいる。約200mの長さである。そんなに急でもない石段の廊下は、雰囲気が良い。

 

 

登廊の途中にはほかの堂宇に繋がる道もあるが、山の傾斜面にある境内は、どこをとっても階段と坂道だらけ。登廊の両側にはいくつかの塔頭が建てられている。

 

 

 

登廊から見た改修中の宗宝蔵。ちょい見、お城のような雰囲気。

 

 

先ずは、下登廊を上り切る。

 

 

 

 

 

下登廊と中登廊の中継地点となる繋屋の屋根裏。

 

 

 

中登廊の紅梁には唐草の模様が彫刻されている。

 

 

こちらは柱の土台部分。腐り欠けた部分を切取り継足した。

 

「紀貫之の古郷の梅」 登廊を上り切った処に梅の木がある。紀貫之は幼少期を長谷寺で過ごし、成人してから長谷寺を訪れた際に詠んだ歌。「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににおいける」。歌に詠まれたのが、ここの梅だったのかな? それにしては細木の梅だな・・・・。

 

 

本堂の東側にある見晴らし台・休憩所。

 

 

三社権現。 初瀬の里を守る地主神。

 

 

本殿の前にある常香炉。

 

 

本堂【国宝】  本尊を安置する正堂と、相の間、礼堂からり、平面構成・屋根構成とも複雑で傾斜地に南を正面として建つ巨大な建築。創建は奈良時代で、室町時代の天文5年(1536)までに計7回焼失している。その後、本堂は豊臣秀長の援助で再建に着手し、天正16年(1588)に竣工した。ただし、現存の本堂は、徳川家光の寄進を得て、正保2年(1645)に工事着手し、5年後の慶安3年(1650)に落慶したもの。

 

鐘楼【国重要文化財】 登廊を上り切ると鐘楼の下にでる。梵鐘は文亀元年(1501)の銘が彫ってあり「尾上の鐘」と呼ばれる。藤原定家が詠んだ「高砂の尾上の鐘の音すり暁かけて霜や置くらん」にちなむようだ。

 

 

本堂の入り口。

 

本堂の相の間  本堂は、おおまかには本尊を安置する正堂(左)、参詣者の為の空間である礼堂(右)、これら両者をつなぐ相の間の3部分からなる。相の間は一段低い石敷きで、化粧屋根裏とする。正堂の平面構成は複雑だが、おおむね手前の奥行1間分を外陣、その奥を内陣とする。

 

 

礼堂から正堂を見る。正堂には本尊の十一面観音立像が安置。内陣は石敷き、格天井とし、その中央の二間四方を本尊を安置する内々陣とする。

 

 

 

 

本尊 十一面観音立像【国重要文化財】 像高三丈三尺六寸(1018.0cm)我が国で最も大きな木造仏像。現在の本尊像は天文7年(1538年)の再興。7回目の焼失後、天文7年(1538)に再興(現存・8代目)。神亀間(724~729)に、近隣の初瀬川に流れ着いた巨大な神木が大いなる祟りを呼び、恐怖した村人の懇願を受けて開祖徳道が祟りの根源の神木を観音菩薩像に作り替えて初瀬山に祀ったのが起源。(写真はネットから借用)

 

 

礼堂は床は板敷き、天井は化粧屋根裏(天井板を張らず、構成材をそのまま見せる)とし、奥2間分は中央部分を高めた切妻屋根形の化粧屋根裏。

 

 

礼堂から正面を見る。

 

 

礼堂の西を見る。床に映える青紅葉を撮ったつもりであるが・・・。紅葉が床に映える季節もシャッターチャンス。

 

 

礼堂から南側に広がる舞台を見る。

 

 

本堂の南側。回廊から舞台に繋がる。垂れ幕にある白、赤、黄、緑、紫の五色は仏の五つ智慧(法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智の)を表す。

 

 

長谷寺の特徴の前面に広がる舞台。京都の清水寺の本堂と同じ懸造り。

 

 

舞台は勾配が付いている。舞台を支える柱に筋交いは無く横に貫を通しただけの造り。

 

 

回廊から西側を見る。

 

 

本堂の西方の丘には「本長谷寺」と称する一画があり、五重塔などが建つ。

 

 

舞台から見た、初瀬山の麓に広がる堂宇。ここからの眺望がすばらしい。「百寺巡礼」にも著者の五木寛之が「ここからの眺望が見事だ。パノラマのように景色が広がって見える」と書いている。

 

 

回廊。

 

 

本堂の妻側の懸魚。

 

 

礼堂の正面に掲げられた扁額「大悲閣」。 悲しみの字は慈悲を表す。

 

 

正面の香炉。

 

 

礼堂の内側に「豊山長谷寺」の扁額。

 

 

回廊及び舞台の柱脚の足元部分には屋根が掛けられいるが、基礎を防護するための屋根かな?

 

 

本堂の西側の本長谷寺側から本堂方向を見る。

 

 

本長谷寺の前の参拝路。境内には道を結ぶ参道が整備され歩きやすい。ただし階段を除けばだが、山の斜面に張り付くように配置された寺なので階段、坂道は避けられない。

 

本長谷寺  天武天皇の勅願により、道明上人がここに精舎を造営したことから、今の本堂に対し本長谷寺と呼ぶ。朱鳥元年(686)、道明上人は天武天皇の御病気平癒のため『銅板法華説相図(千仏多宝仏塔)』(国宝)を鋳造し、本尊として祀られた。

 

 

本長谷寺付近から長谷寺を見る。

 

 

弘法大使御影堂。

 

 

五重塔  昭和29年(1954)建立。桧皮葺、高さ 31.39m。

 

塔は擬宝珠高欄を付けた基壇の上に建つ。組物は三手先、軒は二軒繁垂木をもちいる。戦後では最初に建てられた本格的五重塔。もともとこの寺には三重塔が建っていたが明治の初め焼失し、塔の跡だけは残っている。五重の塔の場所は三重の塔の跡とは異なり、再建ではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

南に下り「奥の院 陀羅尼堂」の菩提院。

 

 

本堂からかなり下り奥の院を通りさらに降る。

 

 

 

坂道、階段を下ってきた平坦なところの本坊がある。

 

 

 

 

本坊  長谷寺復興のため、豊臣秀長に招かれた専誉が入山し、天正16年(1588)に創建。当初は本堂近くにあったが、第八世快寿が現在地に移り、寛文7年(1667)に、第4代将軍徳川家綱の寄進により再建。明治44年(1911)に焼失し、現在の建物は大正8年(1919)から13年(1924)にかけて再建されたもの。

 

 

正面入り口玄関。この本坊区域には大講堂・大玄関及び庫裏・奥書院・小書院・ 護摩堂・ 唐門及び回廊・中雀門・土蔵それに設計図面が重要文化財に指定されている。

 

 

本坊の前に、平成22年(2010)に平成天皇皇后がお手植えした松の木。

 

 

本坊の玄関の前庭。本堂が正面によく見える場所で、団体の参拝客の集合写真を撮る場所にもなっている。

 

 

本坊から本堂を見た。

 

 

初瀬山の山麓から中腹にかけて伽藍が広がる。本坊の前から見る。

 

 

本坊の前からの帰り道。

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」からーーー長谷寺の観音信仰は、「現世利益」を願うものだ。と前に述べた。それは、本尊が観音と地蔵が合体した特殊な像である。というところでも納得がいく。さらに、水子地蔵でもわかるように、この寺は庶民信仰、世俗信仰によって支えられている。現代人はこうして霊場巡りや寺巡りをすることで、なにを求めているのか。最近、巡礼ブームに対して、よく使われているのは、「こころの癒し」とい月並みな言葉だ。最初の目的は「病気が治りますように」とか「仕事が見つかりますように」とお願いすることかもしれない。世の中には、そうせずにはいられないほど苦しんでいる人もいる。それは否定できない。けれども、いくら現世利益を祈願していても、それが簡単にかなうと思っている人は、実際には少ないだろう。やはり、それ以上に、祈ることでこころの安らぎを得ることのほうが、その人にとっては大きな意味があるのではないか。(中略)もちろん、それでも人生の苦悩はつきない。では、いったいなにが変わるのか。たぶんそれは、苦しみながらも、それに耐えていける、ということではないか。

 

 

御朱印

 

 

参考文献   長谷寺HP  フリー百科事典Wikipedia  奈良県観光局ならの観光力向上課HP

       五木寛之著「百寺巡礼」第一巻奈良(講談社)

 

長谷寺 終了

 


35 室生寺

2023-09-24 | 奈良県

第1番 室生寺

 

女たちの思いを包み込む寺

 

五木寛之著「百寺巡礼」の第一番目の寺が室生寺である。その本の書き出しに「室生寺は山中の寺である。奈良県宇陀郡室生村(編集部注/現在は宇陀市室生区)。緑濃い杉木立につつまれて、山肌にはりつくように伽藍が散在する。桜も石楠花もまだ咲かず、したたる緑もなく、燃えるような紅葉もないさびしい時期。三月の室生寺はひっそりと静まりかえっていた」。

春には桜、晩春には石楠花、初夏には青もみじ、秋には紅葉が平安初期の美しい伽藍を彩り、古と変わらぬ室生寺ならではの景観が広がる。

この寺は宝亀年間(770~781)に、興福寺の僧・賢環(714~793)によって開かれた。天武天皇の勅願により、修験道の祖である役の行者・小角がこの地に初めて寺を建立したと伝えられています。奈良時代末に至り、後に桓武天皇となられた山部親王の延寿祈祷をきっかけに、興福寺の高僧・賢璟が勅命を受け、平安遷都まもなく弟子の修圓が堂塔伽藍を建立。後に空海の弟子で修圓とも親交の深い真泰が真言密教を携えて入山し、灌頂堂や御影堂等が建立された。なお、宝亀年間に賢璟はすでに60歳代で、彼の在世中にどこまで寺観が整っていたかはわからず、室生寺の実質的な創建者は次代の修園(771~835)であろうといわれている。修園は興福寺別当を務めると共に、天台宗の宗祖である最澄と交流があった。室生寺は中世を通じ興福寺末寺であったが、江戸時代の元禄7年(1694)に護持院隆光の拝領するところとなり、護国寺末の真言寺院となった。翌年、徳川五代将軍綱吉の生母桂昌院は室生寺に2千両を寄進し、これをもとに堂塔の修理が行われた。元禄11年(1698)、室生寺は真言宗豊山派の一本寺となって護国寺から独立し、現代に至る。には昭和39年(1964)には真言宗豊山派から独立し、真言宗室生寺派の大本山となった。

 

参拝日    平成30年(2018)10月3日(金) 天候晴れ

 

所在地    奈良県宇陀市室生78                            山 号    宀一山(べんいちさん)または檉生山(むろうさん)              宗 旨    新義真言宗                                 宗 派    真言宗室生寺派                               寺 格    大本山                                   本 尊    如意輪観音(国宝)                             創建年    宝亀年間(770~781)                            開 基    賢璟                                    別 称    女人高野                                  札所等    仏塔古寺十八尊第18番 ほか                         文化財    金堂、五重塔、木造釈迦如来立像(国宝)弥勒堂、御影堂、木造文殊菩薩立像ほか  (国重要文化財)

   

 

奈良からJR桜井線に乘り約30分で桜井駅に着き、近鉄大阪線に乗換て、室生口大野駅で降りる。

 

 

室生口大野駅前。 駅前から路線バスで執着まで。

 

 

停留所から集落の中を歩く。

 

 

 

 

停留所から5~6分で室生寺の入り口に到着。「女人高野室生寺」と彫られた石碑がある。女人高野とは、女人禁制であった高野山に対し、女性の参拝も許されていた室生寺の別名。

 

門前に連なる茶店や旅館を過ぎると、室生川の清流に朱塗りの反り橋が架かっている。「太鼓橋」と呼ばれるこの橋を渡ると室生寺の境内になる。

 

 

入口の太鼓橋。室生寺の南側を流れる室生川に架かる朱色の橋。昭和34年(1959年)の伊勢湾台風によって流され、その後にお再建された新しい橋。

 

 

 

 

太鼓橋を渡った正面には室生寺の表門。 宝物殿の新設に工事に伴い通路を仮設材で覆われていた。

 

 

女人高野室生寺の石碑の上部には、九目結紋の家紋が彫られている。これは、五代将軍・徳川綱吉の生母であった桂昌院の寄進により、室生寺の堂塔が修繕されたことによるもの。

 

 

案内図。

 

 

表門を潜ったところに拝観受付がある。

 

 

表門から仁王門に続く。

 

 

左側に護摩堂。

 

 

案内地図

 

 

仁王門 江戸時代中期の元禄年間(1688~1704)に焼失し、その後しばらく放置されていた。昭和40年(1965)に再建された。 重層の檜皮葺きの楼門。一本柱四本の前後に控え柱四本が建てられた三間一戸の八脚門(八足門)。

 

 

 

 

金剛力士像(仁王像)右手は阿形像で、左手に仏敵を退散させる武器の金剛杵を持つ。左手は吽形像で右手の指を開き、怒気を帯びて口を結んでいる。

 

 

潜った門を振り返り門前の参道を見る。門の脇に宝物殿の新築工事中。 

 

 

バン字池  仁王門から直ぐの左側に、梵字の「バン」の形をした池がある。その少し上方にある室町時代の春日造りの小さな祠に収められた河川の神・弁才天が祀られていた。

 

 

境内。

 

池の先は、自然石積みの幅広い石段の参道「鎧坂」へと続く。石段の両脇には低木の石楠花が植えられ、それらを見守るように高木の枝々が茂っている。登り始めると石段の頂きに金堂の屋根が見え、室生寺の序章ともいえる美しい景観となっている。

 

 

鎧坂を上がり切って下を見てみた。

 

 

金堂【国宝】 桁行5間、梁間5間で、桁行5間、梁間4間の正堂(内陣)の手前に、梁間1間の礼堂を孫庇として付した形になる。孫庇部分は片流れ屋根となり、両端を縋破風として収めている。

 

堂は段差のある地盤に建っており、建物前方の礼堂部分は斜面に張り出して、床下の長い束で支えている。このような建て方を懸造りが特徴。

 

 

正堂部分は平安時代前期(9世紀後半)の建立であるが、鎌倉時代末期に大修理を受け、多くの部材が取り替えられている。

 

 

外陣の様子 天井に駕籠が吊るされている・・・・。

 

 

金堂の扁額。

 

堂内に安置されていた仏像のうち、一部は2020年開設の寶物殿に移されている。かつては須弥壇上に向かって左から十一面観音立像(国宝)、文殊菩薩立像(重要文化財)、釈迦如来立像(国宝)、薬師如来立像(重要文化財)、地蔵菩薩立像(重要文化財)を横一列に安置し、これらの像の手前には十二神将立像(重要文化財)が立っていた。このうち、十一面観音立像及び地蔵菩薩立像ならびに十二神将立像のうち6体は寶物殿に移されている

 

釈迦如来立像【国宝】 平安前期を代表する、堂々として均整のとれた榧(かや)の一木像。本来は薬師如来として造像されたもの。特に朱色の衣の流れるような衣紋は漣波式と呼ばれる独特のもので、この様式を室生寺様とも称している。光背には同じ印相の七仏坐像や宝相華・唐草文が華やかに描かれている。

 

左手に特徴。

 

 

今度の柱間の苔むした様は年代を感じる。

 

 

一段上(本堂のある処)から見た金堂。

 

 

弥勒堂【国重要文化財】  金堂の左手にある。鎌倉時代の建築で、屋根は檜、椹の杮葺。周囲には縁が巡る。内陣には弥勒菩薩立像や釈迦如来坐像(国宝)などが祀られている。

 

弥勒菩薩立像【国重要文化財】 室生寺の仏像の中で最も古い。奈良時代から平安時代にかけての仏像で、榧(かや)の一本造。本体、蓮華座の上半分と両手・天衣・飾りまで、すべて一つの木材から彫り出されている。正面から見ると、腰のあたりを少しだけ曲げた姿勢をしているのも特長。 

  

 

本堂(灌頂堂)【国宝】   - 室生寺の密教か進んでいた鎌倉時代後期、元延慶元年(1308)の建立。入母屋造、檜皮葺き。桁行5間、梁間5間。梁間5間のうち、手前2間を外陣、奥の3間を内陣とする。この堂は灌頂堂(かんじょうどう)とも称され、灌頂という密教儀式を行うための堂である。

 

 

 

 

 

正面から見る。正面に蔀戸を配し和様となっているが、桟唐戸を使用するなど大仏様の折衷様式。

 

 

扁額「悉地院」 かつて室生寺にあった悉地院から移されたもの。如意輪観音菩薩像も、その悉地院に祀られていたという。

 

如意輪観音菩薩像【国重要文化財】本堂正面の厨子に安置される観音像は、穏やかな作風の榧(かや)の一木造り。観心寺・神咒寺(かんのうじ)の如意輪観音とともに日本三如意輪の一つ。

 

 

本堂の内部外陣の様子。ちなみに「灌頂」とは、頭に水をかけて、悟りの位に進んだことを証する儀式のこと。

 

 

 

本堂の脇から五重塔側に進む。

 

 

本堂の脇に出ると見えてきた・・・あの五重塔。

 

 

境内の急な石段の一歩ずつのぼっていくと、突然、空中に浮かぶように五重塔が現れる。その瞬間、思いがけないほどの小ささゆえの優美なすがたに目をうばわれた。(五木寛之著「百寺巡礼」より)

 

 

 

 

五重塔 【国宝】 延暦19年(800)頃の建立。木部を朱塗りとした塔。屋外にある木造五重塔としては、法隆寺の塔に次いで2番目に古い。国宝・重要文化財指定の木造五重塔で屋外にあるものとしては日本最小である。高さは16メートル強、初重は1辺の長さ2.5メートルの小型の塔で、高さは興福寺五重塔の3分の1ほどである。

 

 

小規模な塔の割に太い柱を使用していることなどが特色である。

 

通常の五重塔は、初重から1番上の5重目へ向けて屋根の出が逓減(次第に小さくなる)されるが、この塔は屋根の逓減率が低く、1重目と5重目の屋根の大きさがあまり変わらない。その他、全体に屋根の出が深く、厚みがあること、屋根勾配が緩いこと、屋根の大きさが1重目と5重目とで変わらないのに対し、塔身は上へ行くにしたがって細くなり、5重目の一辺は1重目の6割になっている。

 

最上部の九輪の上に「水煙」という飾りが付くが、この塔では水煙の代わりに宝瓶(ほうびょう)と称する壺状のものがあり、その上に八角形の宝蓋(ほうがい)という傘状のものが乗っている珍しい形式である。

 

 

 

 

 

 

 

 

平成10年(1998)9月22日、台風7号により高さ約50mの杉の木が倒れ屋根を直撃。西北側の各重部の屋根・軒が折れて垂れ下がる大被害を受けた。しかし、心柱を含め、塔の根幹部は損傷せずに済み、復旧工事を平成11年(1999)から平成12年(2000)にかけ行った

 

 

修圓廟。

 

 

奥の院への入り口。

 

 

このような注意書きも・・・・・。

 

 

朱塗りの無明橋。ここから室生寺のさらに奥深いスポットに進む。

 

「無明橋」を通り過ぎると、いよいよ室生寺の長い石段に挑戦し、奥の院を目指す。石段はかなり勾配がきつく、先の見えない石の段がどこまでも続く。大自然に癒されながら、杉の大木の間を息を切らしながら上る。 注・仁王門から奥の院までの石段が700段となる。

 

 

階段の石に何かしら字が彫ってあるが、なんだろう。

 

 

勾配がきついので、後ろを振り返ると怖いくらい。

 

 

まだまだ続く。

 

 

やっと頂上が見えてきた。そこには懸崖造りの堂宇。

 

 

 

 

 

懸造りの堂宇・常燈堂。一般には舞台造りとして知られる懸造り。崖地をそのまま利用して堂宇を建てる。どうしても下から支える柱を補強するため、井桁に組む木組みが特徴。

 

 

 

階段を上り切った奥の院の納経所。

 

御影堂【国重要文化財】 弘法大師(空海)の42歳のお姿を写した像を安置する鎌倉時代に建立された堂宇。大師堂とも呼ばれている。方三間の単層宝形造り、屋根は厚板段葺きで頂上部に石造りの露盤が置かれる珍しい屋根。

 

 

常燈堂  昭和初期に建てられた。急な斜面に建築物を建てる懸造(かけづくり)で、ほとんどせり出して堂の建物が造られている。

 

 

堂の入り口に奉納された閻魔大王が大きく書かれた地獄絵の額。

 

 

扁額は金剛殿。

 

 

堂の周りは回廊が張り出し、懸造りに相応しく京都・清水寺と同じように幅の狭い舞台となっている。ここから見る景色が素晴らしい。特に秋の紅葉は素晴らしいと言う。

 

心地よい疲労感を抱きながらこの舞台に立ち、深い山の中に点在し大自然と共存する古寺の素晴らしさを改めて感じることができた。

 

常燈堂の舞台から、息を切らして昇ってきた石段を見下ろす。なんだか「奥の院」を征服したような気分になれる。

 

 

常燈堂の回廊(舞台)から見た景色。

 

 

 

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー寺というものは、寺だけで成り立っているのではない。その地区の村や町の人びとの思いや信仰心によってつづいてきているものだ。この室生寺も、室生のさとの人々の思いによって、千年、千二百年というふうにずっと守られ、育てられてきたのだろう。国宝級の伽藍や仏像を保ってきた寺にも、たいへんな苦労があっただろう。しかし、私はむしろ、その寺を支えている人びとの思いこそが国宝級ではないか、という気がする。そして、小さきゆえに強く、強くないがために強いという「女人高野」と呼ばれる室生寺の不思議さ。山中にこの小さな寺がつくられ、千三百年ものあいだしなやかに生きつづけきたこと。それは、女性が永遠の謎であるのと同じように、永遠の謎かもしれない。室生寺の急な石段をのぼりおりしながら、そのことを肌で感じた一日だった。

 

 

御朱印

 

 

参考文献   室生寺HP  フリー百科事典Wikipedia  奈良県観光局ならの観光力向上課HP

       五木寛之著「百寺巡礼」第一巻奈良(講談社)

 

室生寺 終了

 

 

 

 

 

 

 

 

 


34 中宮寺

2023-09-22 | 奈良県

第7番 中宮寺

半跏思惟像に自己を許されるひととき

 

 

 

小学校4年の時に先生から教えてもらった弥勒菩薩のこと、特に先生が示してくれた指の形は今でも覚えている。それから60年余り、初めてその弥勒菩薩にお目にかかる。この寺、中宮寺は、法隆寺の東院伽藍の脇に位置する。夢殿の東裏側にあり、法隆寺の塔頭になるのかな?

聖徳太子が母后のために建立した尼寺。現在は法隆寺の東院に隣接しているが、創建当初は500メートルほど東の現・中宮寺跡史跡公園にあった。現在地に移転したのはこの寺が、代々皇族、貴族などが住持となる格式の高い門跡寺院となった16世紀末頃のことと推定される。旧寺地の発掘調査の結果から、法隆寺と同じ頃の7世紀前半の創建と推定されるが、創建の詳しい事情は不明である。発掘調査では、尼寺である桜井尼寺と同系統の瓦が出ていることから、当初から尼寺であったようである。寺は、平安時代以降衰微していったが、鎌倉時代には中興の祖とされる信如比丘尼によって復興が図られた。その後、戦国時代に寺は炎上したため、ついに現在地にあった法隆寺の子院に避難し、そのままそこに寺基を移すこととなった。太平洋戦争後、法隆寺を総本山とする聖徳宗に合流した。

 

参拝日    平成30年(2018)10月2日(木) 天候晴れ

 

所在地    奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺北1丁目1-2                    山 号    法興山                                   宗 派    聖徳宗                                   本 尊    如意輪観音(国宝)                             創建年    推古天皇15年(607)・伝                           開 基    聖徳太子・伝                                中 興    信女比丘尼                                 正式名    法興山中宮寺                                札所等    聖徳太子霊跡第14番 ほか                          文化財    木造菩薩半跏像(如意輪観音像)・天寿国繍帳残闕(国宝)ほか

 

 

 

案内図  下図グリーン線の枠内。

 

 

 

法隆寺東院伽藍を出て北東に向かう。

 

 

右手側が中宮寺の三門。

 

 

中宮寺の参拝への出入りの門。

 

 

山門  普段は通り抜けできない。

 

 

山門に掲げられた扁額は山号の法真山。

 

 

門を入り受付などのある建物。

 

 

表御殿【国有形文化財】受け付けから直ぐに表御殿が建つ。内部非公開。

 

 

書院造りで江戸時代後期の建立。

 

 

 

 

 

中門。 表御殿を通り過ぎ中門から本堂のエリアに入る。

 

 

中門から本堂に続く。

 

 

本堂脇から中門方向を見る。

 

 

本堂  高松宮妃の発願により昭和43年(1968)に建てられた、和風の鉄筋コンクリート造による現代建築。設計は建築家の吉田五十八先生ある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

木造菩薩半跏像 【国宝】  中宮時の本尊。飛鳥時代の作。像高132.0cm。材質はクスノキ材。一木造ではなく、頭部は前後2材、胴体の主要部は1材とし、これに両脚部を含む1材、台座の大部分を形成する1材などを矧ぎ合わせ、他にも小材を各所に挟む。両脚部材と台座部材は矧ぎ目を階段状に造るなど、特異な木寄せを行っている。現状は全身が黒ずんでいるが、当初は彩色され、別製の装身具を付けていたと思われる。経年で彩色が失われたが、芸術として高く評価されている。(中宮寺HPより引用)。

 

天寿国繡帳残闕(てんじゅこくしゅうちょう ざんけつ)  染織品は、陶磁器、金属製品などに比べて保存が難しい。本品は断片とはいえ、飛鳥時代の染織の遺品として極めて貴重である。現在は奈良国立博物館に寄託。本堂には、昭和57年(1982)に製作されたレプリカを安置。聖徳太子の母、穴穂部間人皇女と聖徳太子の死去を悼んで王妃橘太郎女が多くの采女らとともに造った刺繍の曼荼羅である。

 

 

本堂の縁から法隆寺西院の夢殿の屋根を見る。

 

 

向拝から入り口を振り返る。

 

 

夢殿の屋根と光輪がよく見える。

 

 

拝観が終わるころ修学旅行の群れが到着。

 

 

境内を見る。

 

 

帰り際に横から本堂を見る。

 

 

境内には、昭和天皇妃の香淳皇后の歌碑。「​​​​​中宮寺乃 都い地のイち尓 しつも利天​​​
 さゝん久王の花 清ら可耳佐久」。  中宮寺の築地の位置に静まり 山茶花の花が清らかに咲くと言う意味。

 

 

案内図。

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー中宮寺の半跏思唯像は弥勒菩薩とも如意輪観音ともいわれるが、いずれにしても菩薩であり仏(如来)ではない。悟りをひらいた仏(如来)に対して、菩薩はいわば修行中の身である。遠いところにいる仏さまではなく、この世にとどまって衆生を救おうとしている。ある意味では、菩薩とはそういう修行をなさっている存在なのだ。中宮寺の半跏思唯像は、かすかに右手の指を頬に当てて、物思いにふけっているように見える。五十六億七千万年後という遠い未来に、この世のさまざまな人びとをどうやって救えばいいだろうか、と考えていらっしゃるのだろう。何気なく、そのお顔から下の方へ視線を向けたとき、はっとした。この顔に対面する人は、なんともいえないそのお顔の繊細な表情にとらわれてしまう。しかし、それ以外のところを拝見していると、意外にも手首はしっかりなさっている。また、足も頑丈そうで安定感がある。これは衆生を救うために大地を駆けめぐった足だ。おそらく、ありとあらゆる場所を歩き回られたに違いない。そんな尊いおみ足だ、と感じたのである。

 

 

御朱印。

 

 

中宮寺 終了


33 法隆寺

2023-09-15 | 奈良県

第6番 法隆寺

聖徳太子への信仰の聖地

 

 


 名画や国宝を観賞するのには、なるべく混雑を避けゆっくり見たいというのは誰も同じことである。どうせ見るならと、誰もいないうちにと思いJR奈良駅発8時の電車に乗り法隆寺に向かった。10分程度で法隆寺駅に着く。法隆寺まではバスかタクシーが便利だが、タクシーはもったいないので歩くことにした。松並木の参道まで約15分、参道を5分ほど歩いて南大門にたどり着いた。開門と同時に境内に入る。やはり人はほとんど見当たらず、団体も修学旅行生もまだ来ていない。

法隆寺は、現存する木造建築では世界最古の建造物である。聖徳太子と推古天皇によって建立された。境内は築地塀に囲まれ、西院と東院に大きく分かれ、国宝・重要文化財の建築物だけでも55棟もある。また、建造物以外にも優れた仏教美術品を多数所蔵しており、その数は国宝だけで38件・150点、重要文化財を含めると3104点にもなる。法隆寺地域の仏教建造物として、平成5年(1993)に、世界文化遺産に登録された。
東大寺や春日大社と並んで奈良を代表する観光スポットである。

創建当時は斑鳩寺と称し、後に法隆寺となった。法隆学問寺としても知られる。法隆寺は7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺である。創建は、推古15年(607)とされる。金堂と五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約18万7千平方m。西院伽藍は、現存する世界最古の木造建築物群である。建造物以外にも飛鳥・奈良時代の仏像、仏教工芸品など多数の文化財を有する。

日本書記によれば、聖徳太子こと厩戸皇子は推古9年(601)に飛鳥からこの地に斑鳩宮を建造し、推古天皇13年(605)に移り住んだ。現在の法隆寺東院の所在地が斑鳩宮の故地である。この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺で、すなわち法隆寺である。

昭和14年(1939)の旧伽藍の発掘調査以降、現存の法隆寺西院伽藍は聖徳太子在世時の建築ではなく、一度焼亡した後に再建されたものであることが分かった。現存の西院伽藍については、持統7年(693)に法隆寺で仁王会が行われていることから、少なくとも伽藍の中心である金堂はこの頃までに完成していたとみられる。また、和銅4年(711)には五重塔初層安置の塑像群や中門安置の金剛力士像が完成しているので、この頃までには五重塔、中門を含む西院伽藍全体が完成していたとみられる。皇極天皇2年(642)、蘇我入鹿が山背大兄王を襲った際に、斑鳩宮は焼失したが法隆寺は無事に残ったと考えられた。なお、八角堂の夢殿を中心とする東院伽藍は、天平10年(738)頃、行信僧都が斑鳩宮の旧地に太子を偲んで建立したものである。

 

参拝日    平成30年(2018)10月2日(木) 天候晴れ

所在地    奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1
山 号    なし
宗 派    聖徳宗
正式寺名   法隆寺 
別 称    斑鳩寺
寺 格    総本山
本 尊    釈迦如来
創 建    (607年)
開 基    推古天皇、聖徳太子
札所等    南都七大寺
文化財    金堂、五重塔、夢殿ほか(国宝) 
       中門金剛力士像ほか(国重要文化財)

 

境内案内図。

 

参道の松並木

 

南大門に続く参道。二列の松並木の間が通路だが、外側に道路と歩道がありそちら側が通り。200m続く参道の沿道にはおみやげ屋と食べ物屋が並ぶ。

 

境内を取り囲む築地塀。土の塀は杉材の焼き板を古土に混合した粘性土を下から押さえて塗り固めたもので、コンクリートよりも強固と言われる。

 

 

南大門から参道を振り返る。

 

 

南大門【国宝】  西院伽藍の南方、境内入口に建つ。入母屋造の一重門。室町時代永享10年(1438)に当時の西大門を移築したもの。入母屋造りだが建築当初は切妻屋根であった。屋根の形状は反り返り軒反りという古代中国から伝わった建築技法。

 

 

12本の柱で支える八脚門で、基壇の上に設けられ仁王像の無い門である。

 

 

門の柱にも年の古さが見える。

 

 

南大門をとおして中門を見る。(写真はyoutubeより引用)。

 

 

中門の前にある手水舎。

 

 

肝心の中門は平成30年(2018)から約1年間の改修工事でシートにすっぽり覆われている。

 

中門【国宝】    入母屋造の二重門。正面は四間二戸、側面は三間。日本の寺院の門は正面の柱間奇数(3間、5間、7間等)になるのが普通だが、この門は正面柱間が4間で、真中に柱が立つ点が特異である。門内の左右に塑像金剛力士立像を安置する。日本最古(8世紀初)の仁王像として貴重なものであるが、風雨にさらされる場所に安置されているため補修が甚だしく、吽形像の体部は木造の後補に代わっている。門は現在、出入り口としては使用されない。 (写真はyoutubeから引用)。

 

 

 

 

金剛力士像【国重要文化財】 仁王像は現存最古の仁王像で、向かって右の明るい塗装の像は「阿行像」、左の黒い塗装の像は「吽行像」。明るい像は光を、黒い像は影を表している。天平年代(711~)から二体ともこの中門に置かれたという記録がある。

 

 

屋根の妻側

 

 

金堂・五重塔は南に中門を配し北に講堂を設けた回廊で囲まれる。拝観者は廻廊の西南隅から入る。

 

 

拝観者入り口から入りと、目前に五重塔と金堂が現れる。

 

 

 

 

五重塔【国宝】  創建年は飛鳥時代の推古天皇13年~15年(606~607)頃と推計され、木造五重塔として現存世界最古のもの。裳階付きで、総高さは32.55mの塔。うち相輪は9.69m、基壇1.11mであり、塔身22.87mである。初重から五重までの屋根の逓減率(大きさの減少する率)が高いことがこの塔の特色。つまり初層の屋根から順に上に行くにしたがって50㎝~60㎝ほど小さくなっているのだ。

 

 

五重の屋根の一辺は初重屋根からだんだん小さくなり約半分ほどである。初層から四重目までの柱間は通例の三間だが、五重目が二間となっている。

 

 

 

 

初重内陣には東面・西面・南面・北面それぞれに塔本四面具(国宝)と呼ばれる塑造の群像を安置する(計80点の塑像が国宝)。心礎(心柱の礎石)は、地下3mほど彫り下げられ個所に心礎(新柱の基礎となる疎石)がある。

 

 

 

 

 

五重塔と金堂が建ち並ぶ姿が法隆寺のベストショットポイントなのだが、素人写真ではこの程度。

 

 

金堂【国宝】 入母屋造の二重仏堂。桁行五間、梁間四間、二重、初層裳階付。

金堂の創建は、推古天皇元年(593)~和銅2年(709)の飛鳥時代と推定される。外観は2階建てに見えるが、中は1、2階分吹き抜けとなっている。一層の屋根の下に付けられた裳腰は、風雨から構造物を保護するために付けられたもの。構造は簡素であるが、建物を多層に見せることで外観の優美さを際立たてて見せる効果がある。

 

 

金堂の基礎部分は二段にした二重基壇であり、中国建築様式を取り入れた飛鳥時代建物の特徴。

 

 

 

金堂の壁画【国重要文化財】 日本の仏教絵画の代表作として国際的に著名なものであったが、昭和24年(1949)に壁画模写作業中の火災により、初層内陣の壁と柱を焼損した。黒こげになった旧壁画と柱は現存しており、寺内大宝蔵院東側の収蔵庫に保管されているが、非公開である。

 

釈迦三尊像【国宝】 推古天皇31年(623)に、止利仏師の作で光背銘を有する像。日本仏教彫刻史の初頭を飾る名作である。図式的な衣文の処理、杏仁形(アーモンド形)の眼、アルカイック・スマイル(古式の微笑)、太い耳朶(耳たぶ)、首に三道(3つのくびれ)を刻まない点など、後世の日本の仏像と異なった様式を示し、大陸風が顕著である。(写真は法隆寺HPから引用)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2層目の高欄の格子は卍崩しと言われる。高蘭を支える束に人の地を模した人字型割束を用いた。

 

二重目の軒を支える四方の龍の彫刻を刻んだ柱は構造を補強するため。修理の際に付加されたものである。四方の軒にそれぞれあり、昇龍の彫刻が2本、降龍の彫刻が2本。

 

大講堂【国宝】  桁行九間、梁間四間、入母屋造、本瓦葺き。平安時代の延長3年(925)に焼失し、正暦元年(990)に再建された。平安時代に作られた薬師三尊像(国宝)と四天王像(国重要文化財)を安置する。

 

法隆寺における学問の研鑽を行う中心的な道場となってる。伽藍には概ね講堂が設けられ、金堂の後ろに配置される。

桂昌院灯籠  大講堂の中央前に建つ青銅製の灯籠。元禄7年(1694)、金堂や五重塔を解体し元禄大修理をおこなった。その費用を得るため、江戸で出開帳を勧進。五代将軍綱吉とその母桂昌院の上覧を受けた。その際に桂昌院から金400両、灯籠代として金50両、その他米200表などの寄進を受け、翌年も金300両の寄進を受けた。こうして元禄の大修理の工事代の大部分を桂昌院が負担し、その際に作られた灯籠。

 

 

 

 

 

大講堂の外陣を見る。 外陣および廊下は金堂、五重塔を囲む伽藍の回廊に繋がる。

 

 

大講堂から見た五重塔と金堂。回廊から眺める五重塔や金堂は、軒による直射日光を避け同じものをみても異なる光景を見ることができる。

 

回廊【国宝】 伽藍を巡る回廊。法隆寺の中門の左右から五重塔と金堂を囲む回廊。東回廊の長さは約76m、西回廊の長さは約72mと異なるのは、金堂と五重塔との釣り合いからと考えられる。回廊の柱はシンプルだが、柱はエンタシス柱といわれて、3分の1くらいのところが一番太くなっており、上の部分と下の部分を徐々に細くなる。

 

 

柱の対面は連子窓を等間隔に配置し、回廊の隅々まで太陽の光を差し込ませる。

 

 

金堂と五重の塔の伽藍をでて法隆寺の境内。

聖霊院【国宝】 創建は鎌倉後期の弘安7年(1284) 正面一間通り庇付、向拝一間、檜皮葺。保安2年(1121)に東室の南端六間分を仏堂に改造して聖徳太子像を祀ったが、弘安7年(1284)独立の仏堂として全面的に建て替えられた。内部は前二間を外陣(礼堂)、後方を内陣、脇陣、後陣に区画し、全面を拭板敷とする。仏堂ではあるが、平面形式や外観は、寝殿造を彷彿させるものがあり、当時の住宅を知るうえでも貴重な建築だといわれる。

 

綱封蔵(こうふうぞう)【国宝】 食堂・細殿の西南方、妻室の東に隣接して建つ南北棟の高床の倉である。部材の材質や手法から、建立年代は平安時代中ごろと推定される。自然石の礎石上に太い丸柱を立てた造り。

 

平面は桁行九間、梁間三間を方三間ずつ三区に分け、南北両区を倉にして中央部は吹抜け。高床造で葛石をめぐらした低い土壇上に建つ。中央の吹抜け部分に向かって扉を開く形式こそ本来の双倉の姿の例。

 

大宝蔵院 法隆寺の多数の堂宇のなかで最も新しくできたもので、境内の一番北寄りにある。平成10年(1998)に落成し、堂宇というより博物館。仏像をはじめ厨子や舞楽面などの工芸品を含む寺宝が多数展示されている。

 

 

大宝蔵院の中門。

 

 

中庭を挟み正面に百済観音堂。

(安置されている宝物から)

観音菩薩立像【国宝】 通称「百済観音」とも言われ、 飛鳥時代に作られた木造の像。元は金堂内陣の裏側に安置されていた。細身で九頭身の特異な像容を示す。多くの文芸作品の中で絶賛されてきた著名な像であるが、その伝来や造像の経緯などはほとんど不明である。(写真はネットから引用)

 

 

正面に百済観音堂を正面に西側に西宝蔵、東側に東宝蔵。

 

 

大宝蔵院から見た五重塔と金堂。

 

 

西院伽藍と東院伽藍を結ぶ通りと築地塀を見る。

 

 

 

 

 

こちらは西門。

 

 

西門から西院伽藍の通りを見る。

 

 

こちらは東門側

 

 

法隆寺塔頭の築地塀。

 

 

 

 

 

東大門【国宝】 奈良時代の八脚門。

 

 

東大門の先に夢殿がある東院伽藍。

 

 

 

 

 

西院の東端に立つ西院伽藍を案内する道標。正面(南面)には「西院大伽藍 是ヨリ西三町」と刻まれている。

 

 

西院伽藍の塀。

 

四脚門【国重要文化財】 東院伽藍の入り口。 東院伽藍は聖徳太子一族の住居であった斑鳩宮の跡に建立された。天平11年(739)、斑鳩宮が荒廃しているのを見て嘆いた僧の行信により創建された。廻廊で囲まれた中に八角円堂の夢殿が建ち、廻廊南面には礼堂、北面には絵殿及び舎利殿があり、絵殿及び舎利殿の北に接して伝法堂が建つ。

 

 

東院伽藍の入り口を内側から見る。

 

 

手水舎。

 

回廊【国宝】  夢殿を囲む回廊で、南辺に礼堂 、北辺に舎利殿 及び絵殿 が建つ。礼堂の東から発して北に折り曲り舎利殿に至る延長22間の東廻廊と、礼堂の西から発して北に折曲り絵殿に至る延長21間の西廻廊から成り、東院伽藍を構成する。

 

夢殿【国宝】   奈良時代建立の八角円堂。堂内に聖徳太子の等身像とされる救世観音像を安置する。夢殿は天平11年(739)頃の建築と考えられているが、天平9年(737)の記述もあり、その頃に創立された可能性もある。

奈良時代の建物ではあるが、鎌倉時代に軒の出を深くし、屋根勾配を急にするなどの大修理を受けている。昭和の大修理の際にも屋根形状は鎌倉時代のものとした。基壇は二重で、最大径が11.3m。堂内は石敷。堂内の八角仏壇も二重で、その周囲に8本の入側柱は堂の中心に向かってわずかに傾斜して立つ「内転び」で唐渡来の手法である

 

救世観音像【国宝】  飛鳥時代、木造。夢殿中央の厨子に安置する。長年秘仏であり、白布に包まれていた像で、明治初期に岡倉天心とフェノロサが初めて白布を取り、「発見」した像とされている。保存状態が良く、当初のものと思われる金箔が多く残る。

 

 

 

 

 

 

 

 

絵殿【国重要文化財】  鎌倉時代の建立。絵殿には、摂津国の絵師である秦致貞が延久3年(1069)に描いた「聖徳太子絵伝」(国宝)が飾られていた。太子の生涯を描いた最古の作品で明治11年(1878)に皇室に献上。現在は東京国立博物館の所蔵となっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東院鐘楼【国宝】。鎌倉時代に建立された。

 

 

案内図

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー日本最初の本格的な仏教寺院である飛鳥寺に続いて、聖徳太子によって創建されたのが、法隆寺と大阪の四天王寺である。以後、短い期間に日本国内には寺院が次々と出現する。それはもちろん、仏教の普及に勤めた聖徳太子の功績だった。こうして日本に仏教が根づいていく。ただし、前述したように現在の法隆寺に創建当時の伽藍ではなく、再建されたものだとされている。明治三十年代から学者のあいだでは、再建・非再建論争が起こっていた。その論争はじつに三十年以上もつづいたという。ついに昭和十四年(1939)、若草伽藍の発掘調査によって、いまの法隆寺とは違う配置の伽藍の焼け跡が見つかった。その発見で論争にケリが付き、現在では、若草伽藍跡が斑鳩寺(最初の法隆寺)だった、という説が一応の定説になっている。つまり、いまの法隆寺の伽藍は、聖徳太子の死後に再建されたものだということになる。その再建後の法隆寺の当初のすがたを残しているのは、金堂、五重塔、中門、回廊、それ以外の大講堂、南大門などは、平安時代から室町時代に建立されたものだ。ただし、平成13年(2001)に五重塔の心柱の檜が五九四年に伐採されたものだとわかり、謎はますます深まった。これは、太子がまだ二十歳のころである。おそらく、法隆寺の建立の謎をめぐっては、今後もさまざまな議論がつづけられていくだろう。

 

 

 

御朱印

 

 

法隆寺 終了

 

 

 

 

 

 

 

 


32 興福寺

2023-09-11 | 奈良県

古寺を巡る 興福寺

 

国宝など文化財が数多くみられる美術館のような寺

 

 

興福寺は奈良の市街地の中心地にあり、参拝には便利な寺である。奈良は平成28年(2016)に訪れて、今回は二度目で、興福寺も二度目のお参りである。最初のときは中金堂の再建工事が行われていたが、今回参拝した際には工事が完了し華麗な姿を見せている。まだ建設用の重機や機材があり仮設の柵が周りを覆っているが、新しい中金堂は十分に拝むことができた。完全に出来上がり10月10日に落慶法要が営まれるという。その準備も境内では行われていた。

 

興福寺の歴史

藤原鎌足夫人の鏡王女が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669)に現在の京都の山科区で創建した山階寺が興福寺の起源となる。その後、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。和銅3年(710)の平城京への遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた。この和銅3年(710)が実質的な興福寺の創建年といえる。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。

奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家・藤原北家との関係が深かったために手厚く保護された。平安時代には春日大社(藤原氏の氏神)の実権を持ち、大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上の同国の国主となった。その勢力の強大さは、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」と称された。寺の周辺には無数の付属寺院の子院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えた。

しかし、興福寺は創建以来、度々火災に見舞われその都度再建を繰り返してきた。特に中金堂は失火や兵火、落雷により七度も焼失している。現存の興福寺の建物は全てこの火災以後のものである。なお仏像をはじめとする寺宝類も多数が焼失したため、現存するものはこの火災以後の鎌倉復興期に制作されたものが多い。興福寺を拠点とした運慶や運慶派の仏師の手になる仏像もこの時期に数多く作られている。

様々な変遷を経て、近代の明治になり明治13年(1880)興福寺の広い境内は、築地塀が取り払われて樹木が植えられ奈良公園となった。一乗院跡は現在は奈良裁判所、大乗院跡は奈良ホテルとなっている。一時は廃寺同然となり、五重塔と三重塔も売りに出されていた。五重塔は250円(値段には諸説ある)で買い手が付いたといわれ、当初買主は塔自体は燃やして金目の金具類だけを取り出そうと考えていたというが、延焼を心配する近隣住民の反対で考えを変えたという。太平洋戦争を経て昭和に入り昭和34年(1959)に食堂後に宝物収蔵庫(国宝館)が建設された。平成10年(1998)に世界遺産に登録され翌年から国の史跡整備保存事業として、発掘調査が進められている。平城京での創建1300年を機に中金堂]と南大門の再建が計画され、中金堂は平成30年(2018)10月に落慶法要を迎えた。

 

参拝日    平成30年(2018)10月2日(木) 天候晴れ   


所 在    奈良県奈良市登大路48                            山 号    なし
寺 名    興福寺
宗 派    法相宗
寺 格    大本山
本 尊    釈迦如来
創建年       天智天皇8年(669)
開 基    藤原不比等                                  札所等    南都七大寺第2番 西国薬師四十九霊場第4番(南円堂)              文化財       東金堂 五重塔  ほか仏像多数(いずれも国宝)ほか重文多数
      

 

奈良公園の中。

 

 

猿沢の池から興福寺方向を見る。

 

 

 

 

 

奈良県庁の屋上から見た興福寺。真ん中に五重塔その右側に再建中で仮設に覆われた中金堂。

 

 

境内案内図。

 

 

落慶まじかの中金堂。まだ工事用の機材が見える。

中金堂。伽藍の中心的な堂宇である中金堂が落慶を迎え、一般公開された。長い寺史の中で7度の火災に遭い、享保2年(1717)の大火で焼失した後は仮堂が建設されただけで、今回は300年ぶりの復興となる。堂内には仮金堂(現仮講堂)に安置されていた釈迦如来像を本尊として還座。薬王・薬上菩薩像(いずれも重文)が脇侍として安置され、須弥壇の四方は、旧南円堂所在の四天王像がかためる。内陣には法相の14人の祖師を描いた「法相柱」が現代の日本画家の畠中光享氏によって再現された。

 

 

近くに落慶法要を控え、その案内立札が建てられた。

 

 

現代の再建でも鉄筋コーンクリート造が主流だが、創建時に忠実に木造で再建されたことが何よりである。丸柱はアフリカのカメルーンから取り寄せた欅材を使用。

 

 

棟の両脇の鴟尾(しび)にはまだ仮設材が取り付けられた状態。

 

 

 

 

 

 

中金堂の周りには回廊の跡として基壇が残されている。

 

 

奈良公園の中に位置する興福寺は、鹿も生きる場でもある。

 

五重塔【国宝】   応永33年(1426)再建し、本塔が6代目。本瓦葺の三間五重塔婆である。創建は天平2年(730)で、光明皇后発願によるものである。高さは50.1mで、現存する日本の木造塔としては、東寺の五重塔に次いで高いものである。

 

 

 

明治初期の廃仏毀釈政策により塔の撤去の命令が出て、頂上に網をかけて引き倒そうとしたが、叶わず、焼却のため周りに柴が積まれたが、類焼を恐れた近隣住民の反対により中止された

 

 

 

柱上の組物は和様の尾垂木三手先。中備えは間斗束。組物で持ち出された桁の下には、軒支輪が見える。軒裏は二軒繁垂木。

 

 

初重の西面。柱間は3間で、3間四方の平面。中央の柱間は板戸、左右は連子窓。縁側はない。

 

 

東金堂から五重塔を見る。

 

 

東金堂【国宝】  応永22年(1415)に再建され5代目になる室町時代の建物。神亀3年(726)に聖武天皇が伯母にあたる元正上皇の病気平癒を祈願し、薬師三尊像を安置する堂として創建された。

 

 

様式は唐招提寺金堂を参考にした天平様式。桁行七間、梁間四間。屋根は一重、寄棟造、本瓦葺き

安置されてる主な仏像。

木造四天王立像のうち持国天【国宝】  ほかに増長天、広目天、多門天(いずれも国宝)の木造四天王立像を 堂内四隅に安置。堂内の他の像より古く、平安時代前期の重厚な作風の像。

木造維摩居士座像【国宝】 - 本尊薬師如来像の向かって左に安置。鎌倉時代、建久7年(1196)定慶の作。維摩は大乗仏教の重要経典の一つである『維摩詰所説経(維摩)』に登場する伝説上の人物で、在家仏教徒の理想像とされる。興福寺において、特に重要な存在と見なされている。実在の老人のようにリアルに表現されている。

 

 

東金堂正面。

 

 

 

南円堂【国重要文化財】  寛政元年(1789)に再建された4代目の建物。屋根を一重、本瓦葺とする八角円堂で、正面に拝所が付属する。藤原北家の藤原冬嗣が父・内麻呂の追善のために弘仁4年(813)に創建した八角堂である。

 

 

堂内には本尊である不空羂索観音坐像の他、四天王立像と法相六祖像を安置する。堂の前に生える「南円堂藤」は南都八景の一つで、毎年、美しい花を咲かせている。

 

 

 

北円堂【国宝】  承元4年(1210)に再建され、興福寺に現存する中で最も古い建物である。屋根を一重、本瓦葺とする八角円堂。養老5年(721)、藤原不比等の一周忌に際し、元明上皇・元正天皇の両女帝が長屋王に命じて創建させた。平面が八角形の「八角円堂」である。

 

 

 

 

 

南大門跡の基壇を見る。

 

三重塔【国宝】  鎌倉時代前期の再建(正確な建立年次は不明)。高さ19m、本瓦葺の三間三重塔婆である。康治2年(1143)に崇徳天皇の中宮・皇嘉門院によって創建された。現在の塔は建築様式から鎌倉時代に再建されたと考えられる。

 

国宝館  文化財の収蔵と展示を目的とする耐火式収蔵施設で、昭和34年(1959)に食堂及び細殿の跡地に建てられた。鉄筋コンクリート造であるが、外観は創建時の食堂と細殿、すなわち奈良時代の寺院建築を模したものとなっている。国宝館の内部には、食堂の本尊であった巨大な千手観音立像(高さ5.2m)が中央に安置され、仏像を始めとする多くの寺宝が展示されている。

 

 

入り口のホールに掲げられた写真パネル。

 

国宝館の主な仏像。

乾漆八部宗立像【国宝】  奈良時代の作。もと西金堂の本尊釈迦如来像の周囲に安置されていた群像の1つ。五部浄、沙羯羅(しゃがら)、鳩槃茶(くはんだ)、乾闥婆像(くはんだ)阿修羅、迦楼羅、緊那羅、畢婆迦羅(ひばから)の8体が揃って現存するが、五部浄像は大破して胸から下の体部が失われている。中でも三面六臂(顔が3つで手が6本)の阿修羅像が著名。

八体の中から最も有名な阿修羅像。

 

銅造仏頭(国宝) - 白鳳文化を代表する作品である。木造仏頭(重要文化財) - 廃絶した西金堂の旧本尊・釈迦如来像の頭部。 鎌倉時代の作。

木像金剛力士立像【国宝】  木像 もと西金堂安置。 鎌倉時代の作。 定慶作とする説もある。

 

木像千手観音立像(国宝)  もとは食堂の本尊。 現在は、国宝館の中央に安置される。 高さ5.2mの巨像で、像内納入品の銘記から鎌倉時代、寛喜元年(1229)頃の完成と推定される。 

板彫十二神将(国宝)   平安時代11世紀半ばの作。 日本では珍しい檜板に浮き彫りで制作された仏像で、現在は剥落しているが、もとは彩色されていた。 12面完存している。 

金銅燈籠(国宝)   南円堂前に立っていた銅製の灯籠。

 

木造天燈鬼・龍燈鬼立像【国宝】 もと西金堂安置されていた。 大きな灯籠を天燈鬼は肩にかつぎ、龍燈鬼は頭上で支える。 架空の存在を写実的かつユーモラスに表現した鎌倉期彫刻の傑作である。 龍燈鬼像は運慶の子息である康弁の建保3年(1215)の作である。

 

 

奈良公園の通りであるが、まだ興福寺の境内かもしれない。

 

 

平成28年(2016)6月に参拝したときは、中金堂が工事中であった。

 

 

案内図

 

 

御朱印

 

 

興福寺 終了

 

 

 

 


31 秋篠寺

2023-09-09 | 奈良県

第5番 秋篠寺

市井にひっそりとある宝石のような寺

 

 

奈良の古都巡りは平成16年に次いで二度目。今回は3泊4日の独り旅でフルに古寺を楽しみたい。秋篠寺は前回に奈良巡りをした際に参拝の予定だったが、途中道に迷い引き返す羽目になり、今回再チャレンジの寺である。

寺は奈良市街地の北西、西大寺の北方に位置する。奈良時代の法相宗の僧・善珠の創建とされ、地元の豪族秋篠氏の氏寺ともいわれているが、創建の正確な時期や事情はわかっていない。宝亀7年(776)、皇后の井上内親王と、その子で皇太子の他戸親王を廃して死に至らしめた光仁天皇の勅願により善珠が創建したともいうが、これは鎌倉時代の文書に見えるものである。文献上の初見は「続日本書記」に宝亀11年(780)、光仁天皇が秋篠寺に食封一百戸を施入したとあるもので、この年以前の創建であることがわかる。創建時は法相宗の寺院であった。「日本後紀」よれば、延暦25年(806)に崩御した桓武天皇の五七忌が秋篠寺で行われたことが見え、皇室とも関連の深い寺院であったことがわかる。

保延元年(1135)には火災により講堂以外の主要伽藍を焼失した。現存する本堂(国宝)は、旧講堂の位置に建つが創建当時のものではなく、鎌倉時代の再建による。

 

参拝日    平成30年(2018)10月1日(水) 天候晴れ

 

所在地    奈良県奈良市秋篠町575                           山 号    なし                                     宗 派    単立                                     本 尊    薬師如来                                   創建年    亀喜7年(776)(伝)                             開 山    善珠(伝)                                  開 基    光仁天皇(勅願)                               文化財    本堂(国宝)                                 文化財    薬師如来 伎芸天立像、地蔵菩薩立像、大元帥明王立像(国重要文化財)

 

秋篠寺は住宅街の一角にひっそりと建っている。おそらく団体の参拝などはないのだろう。

 

 

塀で囲まれた大きな林の中が境内である。

 

 

境内図

 

 

 

東門 もう一つ南門があり、そちらが正門になるようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

東門を境内の中から。

 

 

東門を入り左に折れて境内をすすむ。

 

 

香水閣  東門を入り直ぐ左手にある井戸「香水井」である。平安時代の初め、僧常暁が当時の閼伽井の水面に映る大元帥明王像を感得したという故地である。

 

 

境内は木々が生い茂り静かな寺という感じがする。

 

 

地表面には、緑深い苔に覆われさらに静寂さが感じられる。

 

 

 

 

 

間もなく受付所があり、ここで拝観の手続きをする。

 

 

 

 

本堂【国宝】  鎌倉時代の建立で、講堂の跡地に建てられた。当時の和様仏堂の代表作の1つである。全体に保守的で簡素な構成で、鎌倉時代の再建でありながら奈良時代建築を思わせる様式を示す建物である。

 

 

正面の桁行5間、側面の梁間4間(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する用語)。屋根は寄棟造、本瓦葺き。堂の周囲には縁などを設けず、内部は床を張らずに土間とする。正面の柱間5間は中央3間を格子戸、左右両端の間を連子窓。

 

 

 

 

 

 

 

和様建築では柱上部の頭貫以外には貫を用いず長押を使用するのが原則だが、この建物では内法長押の下に内法貫を使用し、内部の繋虹梁も身舎(もや)側では柱に差し込むなどの新技法が使われた。

 

堂内には本尊薬師三尊像を中心に、十二神将像、地蔵菩薩立像、帝釈天立像、伎芸天立像などを安置する。写真は伎芸天立像【国重要文化財】  見方によっては少々首を傾げ妖艶さのある仏像に見える。  

 

 

本尊の薬師如来坐像【国重要文化財】 左手に薬壺、右手に施無畏印(せむいいん)。

 

 

本堂を横から見る。

 

 

本堂の前庭。

 

 

受付け所方向を見る。

 

 

鐘楼および梵鐘。

 

大元堂   本堂の西側にある堂宇。秘仏の大元師明王像を安置する。わが国最古の大元帥明王像で年一回6月6日に開帳。 大元帥明王は、激しい怒りの形相をしている「勝負の神」で、「元帥」という肩書きの由来になっている。

 

常暁律師があまりうるさい雷をとらえて、この石の下に埋めたという。また、寺には雷様のヘソまで保存されているという。

 

 

本坊・庫裡の入り口門。

 

 

 

 

 

 

 

 

役行者石 本堂に向かって左手奥の小さい覆屋に安置されている。上部を丸め、周囲の輪郭を粗造りした中に役行者像と前鬼・後鬼を半肉彫りする。

 

 

南門  こちらが正門となる。

 

 

 

 

案内図

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」からーーー秋篠寺の苔も何十年、いや何百年という時をへて、いまの美しい状態になったに違いない。ビロードのようななめらかな手触り。まさに苔の絨毯である。その緑の濃淡がm、立って見る位置によって微妙に違う。一歩下がってみたり、ずっと近づいて見たり、いつまで眺めていても飽きない。一瞬一瞬の天候の変化に応じて、雨に濡れているときは、苔がしっとりとしてうつむいている。日の光が当たっているときは、苔が輝いて喜んでいるように見える。まるで繊細な音楽を奏でているようだ。耳を澄ませると苔のシンフォニーが聴こえてくる。いままでにも、あちこちで美しい苔の庭は見てきたつもりだった。しかし、この”苔の海”は空前絶後の美しさだ。不謹慎ながら、この上に寝ころんだらどんなに気持ちがいいだろう、とさえ想像してしまう。ため息が出そうなほど素晴らしい。

 

御朱印 なし  代わりに案内パンフ。

 

 

秋篠寺 終了