『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

20 崇福寺

2023-08-12 | 長崎県

第九十六番 崇福寺

海を渡る中国の人びとが信じた媽祖神

 

 

JR長崎駅から東方向約3kmに風頭山がある。標高は約150mで頂上には風頭公園があり、長崎港を望む絶景の場所である。その風頭山の麓の寺町には山に沿って14の寺が並んでいる。その中に興福寺と今回の崇福寺が建っている。興福寺を最初に参拝し、その後700mほどを歩けば崇福寺にたどり着く。市街地から直ぐのところに竜宮城のような建物が見えてくる。これが崇福寺で、国宝2件をはじめ多くの文化財がみられる黄檗宗建築の粋を尽くした寺院である。

崇福寺は、嘉永6年(1629)に長崎で貿易を行っていた福建省出身の華僑の人びとが、福州から超然という僧を招聘して創建した。中国様式の寺院としては日本最古のものである。福建省の出身者が門信徒に多いため福州寺や支那寺と称せられた。

 

参拝日    平成29年(2017)12月14日(木)天候晴れ

 

所在地    長崎県長崎市鍛冶屋町7-2                         山 号    聖壽山                                   宗 派    黄檗宗                                   創建年    寛永6年(1629)                              開 基    超然                                    文化財    大雄宝殿、第一峰門(国宝) 三門、鐘鼓楼、護法堂、媽祖門(国重要文化財)

 

境内図

 

 

三門 【国指定重要文化財】 日本の寺院には見られない童話的な門はかなり目を引く。その形の通り竜宮城にある「竜宮門」の別称で呼ばれている。この寺の「三門」の名の由来は、中央と左右に門戸が設けているためだそうだ。当初の山門が倒壊したあと、嘉永2年(1849)4月に、棟梁 大串五郎平以下、日本人工匠によって再建された。

 

 

 

 

 

2階に掲げられた『聖寿山』の扁額は、隠元禅師の筆によるもの。

 

 

 

 

 

通路の天井に一対、「魔伽羅」(鯱。体が水でできている)が設けられている。

 

 

 

 

 

 

門扉にはめ込まれているのは、国内唯一の「獣環」。模造品とはいえ貴重な装飾品

 

屋根にも一対の「魔伽羅」(鯱。体が水でできている)、その中央にひょうたんを模した瓢瓶と、念入りに火伏を念じている。

 

 

境内側から見る三門全景

 

 

 

 

三門を潜り階段を上って本殿にむかう。

 

「三門」から「第一峰門」にあがる石段途中に、「桃と鯉が刻まれた袖石」がある。知らないと気が付かないが、長寿や出世を意味する演技物だそうだ。

 

 

階段の途中の堂

 

第一峰門【国宝】階段を上り切ると煌びやかな門がある。創建は正保元年(1644)で、元禄8年(1695)に中国寧波から運ばれた資材で再建され現在の姿となった。もともとはここが山門で、明暦元年(1655年)にこの門より隠元禅師を迎えた。

 

 

門の中央に掲げられた、隠元禅師の門生「非禅師禅師」筆による『第一峰』の扁額がその名の由来。

 

軒下の複雑巧緻な詰組みは、四手先三葉栱(よてさきさんようきょう)と呼ばれ、国内では類例がない大変貴重な様式となっている。

 

 

 

 

 

 

 

第一峰門より境内を見る

 

 

 

 

 

大雄宝殿の前を見る。

 

 

護法堂 享保16年(1731)の建立。黄檗宗寺院としては、弥勤(布袋)と韋駄天を背中合わせに安置する聖福寺・宇治の萬福寺の天王殿に相当。関聖・韋駄天・観音の3神を祀るため、観音堂、関帝堂、韋駄殿とも呼ぶ。

 

 

4本の柱の礎石には、獅子・鹿・麒麟・梅の彫刻が刻まれている。

 

 

護法堂の中央に観音堂。 「威徳荘厳」の扁額。

 

 

観音堂には観音菩薩坐像

 

 

観音堂の右手が関帝堂。関帝(関羽)像を中心に周倉像と関平像が従う。 

 

 

本殿 大雄宝殿 【国宝】 いわゆる本堂である。護法堂の前の建つ。もともと唐商 何高材の寄進によって正保3年(1646)創建された単層(1階建て)建築物で、長崎市最古の建物。天和元年(1681)頃に2階建てに重層化されたことが建築上の特徴。

 

下層は「黄檗天井」に「擬宝珠付き垂花柱」と黄檗宗建築様式が色濃く、逆に上層は日本人工匠の手による和様を基調に据えている。

 

和中の建築様式と、単層での完成と重層化された時代の差異にもかかわらず、上下の様式が違和感なく溶け込んだ壮麗なたたずまいは、崇福寺本殿としての尊厳をこれ以上になく示している。

 

 

1階屋根軒丸瓦の瓦頭には「崇」、2階屋根瓦頭には「福」の文字。両方合わせて「崇福寺」。

 

 

海西法窟の扁額

 

 

向拝の上部は黄檗天井と言われる天井面が円形。

 

 

紅梁には彩色された魔枷羅の彫刻が施された。

 

本尊は、昭和10年(1935年)頃の修理の際に、銀製の五臓、布製の六腑が発見された「釈迦如来坐像」。その脇を固めるのは雄々しい「十八羅漢像」。

 

 

本尊の真上の天井に付けられている扁額「世尊」

 

 

本尊の脇を固める十八羅漢像

 

 

 

 

横側から見た大雄宝殿

 

媽祖門【国指定重要文化財】 背後の「媽祖堂」との対になる「媽祖門」の組み合わせは、国内では他に例がない。

 

 

機能上は、媽祖堂の門としてだけでなく、大雄宝殿への廊下の機能も有している。

 

 

和式の舟底天井(写真左手)と中国式の黄檗天井(〃右手)と、2層に分かれ天井が注目ポイント。

 

媽祖堂【長崎県指定有形文化財】 航海の神「媽祖」を祀る「媽祖堂」は、寛政6年(1794)唐船主からの浄財により再建された。黄檗様式と和様が混在する建物には、他と同様に、蝙蝠、牡丹など縁起物が装飾されている。媽祖門のある媽祖門はここだけだという。

 

建物内部に安置された媽祖像。媽祖増を中心に左右に千里眼、順風耳を従える。

 

 

開山堂  隠元禅師の招かれて来崎し、崇福寺の伽藍を整備した中興開山の人、即非如一を祀る建物。

 

 

 

 

 

 

 

 

大釜【長崎市指定有形文化財】

 

 

延宝年間末(1681年頃)、飢餓で苦しむ長崎市民3000人に施粥するという、大殊勲をあげた大釜。

 

 

 

鐘鼓楼【国指定重要文化財】  享保13年(1728)建立の和中混作の建築物。

 

 

媽祖門から大雄宝殿の廊を見る。

 

 

帰りは再び第一峰門へ。左側に小さな札所(売店)が

 

 

第一峰門から階段方向を見る

 

 

第一峰門から三門を見る

 

 

三門の外はすぐ長崎の市街地

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーーー興福寺と崇福寺を訪ねて実感したのは、長崎という場所は、ある意味でアジアにおけるスクランブル交差点だったのではないか、ということだ。そして、こうした唐寺が異国の面影を残しつつ、今も長崎の一角に存在しているということに、あらためて興味をもった。そういうものをふところに抱きかかえているところが、長崎という街のおもしろさであり、魅力ではないかと思う。これから先、国際社会のなかで、日本人はさまざまな民族と共生していくことが求められている。長崎のかってのすがたや、崇福寺をふり返ってみることで「共生する」という意味をもう一度考えてみたいものだ。

 

御朱印   なし

 

崇福寺 終了

 

 

 

ついでに崇福寺近辺を散策

浜町アーケード  

 

 

思案橋

 

 

カステラの福砂屋本店

 

 

料亭花月

 

 

丸山町の細い路を往く

 

 

本当のオランダ坂という私看板

 

 

そのオランダ坂

 

おしまい

 

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19 興福寺

2023-08-09 | 長崎県

第九十五番 興福寺

隠元が来日し始めて訪れた唐寺

 

参拝日  平成29年(2017)12月14日(木) 天候晴れ

 

所在地   長崎県長崎市寺町4-32

山 名   東明山                                               宗 派   黄檗宗                                    本 尊   釈迦如来                                       創建年   寛永元年(1624)                                       開 基   真円                                     別 称   あか寺 南京寺                                文化財   大雄宝殿(国指定重要文化財) 旧唐人屋敷門(国指定重要文化財)山門、媽祖堂、鐘鼓楼(長崎県指定有形文化財)

 

3泊4日の日程で初めての長崎。長崎駅にほど近い宝町電停・バス停の前にあるホテルに3連泊し、4日間の長崎市内観光である。たぶんバブルのころの建設と思われるホテルは15階建てロビーなどは大理石がふんだんに使ってあり豪華である。そのホテルの前が電停で、市内の重要ポイントを巡る路面電車の市電が2分から3分間隔で次々とやってくる。運賃は何処まで行っても120円で、一日の乗り降り自由な乗車券は500円長崎市内の主な観光地や商業地はすべて賄える。その市電に乗り公会堂前電停で降りる。すぐ目の前があの眼鏡橋だ。横目に見ながら歩くこと約5~6分で目的の興福寺に着いた。この辺りは、寺町と名がついているほど寺が多く、山の麓にお寺と判る瓦屋根が連なる。興福寺には特別な参道は無く、街の通りから直ぐ山門になる。興福寺は長崎三福寺(ほかに嵩福寺、福斉寺)といわれ、信徒には中国の浙江省、江蘇省からの出身者が多く南京寺とも言われている。

 

  

長崎のシンボルで日本三大名橋の一つとして、あまりにも有名な眼鏡橋。この橋はこれから参拝する興福寺の二代目住職の黙子如定が、寛永11年(1634)に中国から石工を呼び寄せ建造した。

 

 

和菓子の梅壽軒 カステラは予約で一カ月先まで満杯だそうだ。

 

 

 

電停・公会堂前で下車し眼鏡橋、梅壽軒を横に見ながら商店街を歩いていく。

 

 

 

商店街の裏の道に入れば、直ぐに興福寺。

 

 

山門 二間三戸八脚の入母屋造単層屋根。総朱丹塗りの豪壮雄大な山門は長崎で第一の大きさを誇る。原爆で大破したがその後復元した。

 

山門は、初め承応3年(1654)隠元禅師の長崎滞在中、諸国より寄せられた多大な寄進で建てられたが、9年後の長崎大火で山門もろとも一山全焼した。現在の山門は、元禄三年(1690)に、日本人工匠の手で再建されたもので和風様式を基調とする。

 

 

山門の脇に隠元禅師の肖像幕が掛かっている。 隠元禅師は中国・福建省の生まれで江戸時代初期に来日し黄檗宗を広めた。黄檗宗(おうばくしゅう)は日本の13宗派のひとつとなった。禅師が来日の際に抱えてきた豆は、日本で深く根付き「インゲン豆」として全国に広がった。

 

 

山門上部の扁額「東明山」は隠元禅師の御書。

 

 

 

 

 

山門上部の扁額「初登宝地」は隠元禅師の御書。

 

 

門の足元には石を敷き並べてある。

 

 

門を入ると元文部大臣有馬朗人の俳句石碑。

 

 

 

境内の様子。

 

 

鐘鼓楼【長崎県指定有形文化財】 寛文3年(1663)の長崎大火で伽藍が全焼したあとの、元禄4年(1691)に再建。さらに享保15年(1730年)に重修。鐘鼓楼の上階に吊られていた梵鐘は、戦時中に供出され消失。

 

 

 

 

鬼瓦の意匠が、「福は内、鬼は外」を意味する、「外向きが鬼面」で、「内向きを大黒天像」とした特異な配置。興味深い工夫がされている。

 

本堂 大雄宝殿【国指定有形文化財】 寛永9年(1632)第2代住職・黙子如定によって建立された。その後、大火や天災の惨禍から、幾度もの再建を繰り返してきた。現在のものは、明治16年(1865)建立で、中国人工匠に手による明清風の建築物。資材も中国より運送するなど明清にこだわった。 

 

 

朱を基調とした華麗な彩色、隅屋根の強い反りなど中国南方建築の特徴が色濃い意匠は、戦前では国宝に、現在は国の重要文化財に指定されている。

 

 

大棟上に掲げられた瓢箪型の瓢瓶は、火除けのおまじないという。棟瓦のおさまりが綺麗。

 

 

棟瓦から瓦屋根、軒周りや下層屋根との間の小壁など、よく見ると細かい細工が施されている。

 

 

「大雄寶殿」「萬載江山」「航海慈雲」の扁額が正面に三段掛け。

 

 

向拝を見る。

 

 

向拝柱と向拝桁に取り付けられた緻細な彫刻。

 

 

菱形の組子が前面に広がり中央の格子の下部から内陣を拝観する。内部は撮影禁止でここまで。

 

丸窓のある氷裂式組子。氷裂式組子は明末期を代表する建築様式で、文字通り氷を裂いたような模様。組子の内側はガラス張りで陽が射すとステンドグラスのような輝きがあったというが、原爆で壊され現在は板張り。

 

 

向拝の前廊の天井部分は、黄檗(おうばく)天井といわれ円形の天井に細かく桟木を並べている。

 

昭和20年(1945)8月9日に投下された原爆は、爆心地から4キロ離れた興福寺にも甚大なる被害をもたらし、「山門」は大破、「三江会所」は倒壊。大雄宝殿も猛烈な爆風のため、倒壊こそまぬがれたが、少し柱が傾いているという。

 

 

前廊の天井。蛇腹に組まれた天井。

 

 

 

 

 

切妻の破風や懸魚も日本古来のものと一味異なる。 隅屋根の強い反りは中国南方建築が色濃く表れている。

 

 

庫裡の玄関軒下につるされた板魚。叩いて時間を告げていた。この板魚は中国・揚子江に生息する不老長寿の「鱖魚(けつぎょ)」で雄雌一体になっている。裏側が雌なるようだが、写真は撮っていない。

 

媽祖堂【長崎県指定有形文化財】 中国南部で篤く信仰される航海の神「媽祖」。その媽祖像を祀る「媽祖堂」は、創建年は不明ながら、寛永10年(1670年)前なのが確実視される貴重な建築物。和風建築を基調としながらも、「隅屋根の反り」、「黄檗天井の前廊」、「内外装の鮮やかな朱丹塗」などの中国様式が違和感なく溶け込んだ重厚な造り。

 

 

元来仏教とは無関係の「媽祖堂」が伽藍を構成しているのが唐寺ならではの様式。

 

 

「海天司命」の扁額。

 

 

 

 

 

正面の扉に牡丹の花。

 

 

 

 

三江会所門【長崎県指定有形文化財】 檀家に三江地区(江南、浙江、江蘇)出身者のための集会所が明治11年(1878)に建設された。昭和20年(1945)の長崎原爆で大破されて、かろうじて門だけが残った。

 

 

 

 

 

門の壁に埋め込まれた三江会所の石碑。

 

豚返しの敷居 当時豚を飼っていたため外に逃げないように敷居を高くしていた。高くしていた部材は取り外してある。

中島聖堂遺構【長崎県指定有形文化財】 日本三大聖堂のひとつ。同聖堂は、儒学者向井元升が私財を投じ、正保4年(1647)に聖堂・学舎を創設したことに始まり、正徳元年(1711)に中島川沿いに移設した。明治になって廃滅したが、昭和34年(1959)に大学門(杏檀門)と規模を縮小した大成殿を現在の地に移築した。

 

 

大成殿

旧唐人屋敷門【国指定重要文化財】  元禄2年(1689)、中国人を隔離するための唐人屋敷が十善寺郷薬園跡に造成された。この「旧唐人屋敷門」は、その唐人屋敷に遺存していた「唐人住宅門」を興福寺境内に移築したもの。天明4年(1784)の大火以降に建てられた純中国式建築様式で、極めて貴重な遺構。

 

 

三江会所門より境内を見る。

 

 

境内から長崎市内を見る。

 

 

興福寺境内の一部。すぐ近くは長崎市内市街地。

 

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーー隠元が日本に持ってきたもののなかには普茶料理もある。普茶料理は黄檗宗の中国式精進料理で、予約をすれば、この興福寺でもいただくことができるそうだ。普茶料理では、身分を問わず誰でも一つの食卓を囲んで食事をするのが基本である。そうした食事の習慣も、隠元は料理と一緒に伝えた。松尾師の説明では、それが明治になって「ちゃぶ台」という言葉で、日本の食文化のなかに浸透していったのだという。ちゃぶ台という言葉を聞いて、いちばん懐かしく感じるのは、私の世代ではあるまいか。子どものころ、いつも一家そろってちゃぶ台を囲んで食事をしていたからだ。隠元はこの食事スタイルを通して「和」の精神を説いた。住職も、小僧も身分の上下もなく、ひとつのテーブルを囲み、同じものを分け合って食べることで、相互の親睦をはかったのである。江戸時代の封建社会が築いた身分制度のなかで、しかも鎖国の状態で、民族をこえ、階級をこえて、人々が同じ人間同士としてひとつのテーブルにつく。これは、ものすごく大きな思想だったに違いない。

 

 

御朱印

 

 

興福寺 終了

 

(ついでに長崎観光でオランダ坂)

オランダ坂の入り口にある街並み。

 

 

オランダ坂の入り口。

 

 

これがオランダ坂。

 

 

オランダ坂を500~600m進んだところに中国のお寺「孔子廟」がある。異国の寺をちょっと覗いてみた。

長崎孔子廟は、明治26年(1893)に、清国政府と在日華僑が協力して建立したもの。その後いくどかの改修を経て現在に至っている。中国山東省曲阜にある総本山なみに、建物の随所に壮麗な伝統美を凝らした、日本で唯一の本格的中国様式の霊廟。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

おしまい。

 

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