『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

85 山 寺 

2024-05-20 | 山形県

百寺巡礼第61番 山寺

一人の僧がもたらした千二百年の法灯

 

 

 

 

一 日一万円乗り放題というJR東日本のキャンペンの切符を入手し、朝7時32分発の東北新幹線に乗り込んだ。こんなに朝早いのに新幹線は満席である。大宮からノンストップで9時04分に仙台駅に着き、仙山線に乗り換えて10時13分に山寺駅に着いた。3月の中、昨日まで雪が降っていたようで雪はまだ残っているが、天候は晴れて寒さはなく、いい参拝日であった。

山寺は、正しくは宝珠山立石寺という。「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」 という松尾芭蕉の句でも知られている寺。貞観2年(860)に清和天皇の勅願のよって慈覚大師が開いた天台宗のお山。この地を訪れた慈覚慈覚大師は、土地の主より砂金千両・麻布三千反をもって周囲十里四方を買い上げ寺領とした。堂塔三百余をもってこの地の布教に勤めたと言われる。開山の際には本山延暦寺より伝教大師が灯された不滅の法灯を分けられ、また開祖慈覚大師の霊位に捧げるために香を絶やさず、大師が当山に伝えた四年を一区切りとした不断の写経行を護る寺院となった。その後鎌倉期に至り、僧坊大いに栄えたが、室町期には戦火に巻き込まれ衰えた時期もあった。江戸期になると、千四百二十石の朱印地を賜り、堂塔が再建整備された。

正面の大きな建物は、根本中堂で、延文元年(1356)に初代山形城主・斯波兼頼が再建した。入母屋造・5間4面の建物で、ブナ材の建築物では日本最古といわれ、天台宗仏教道場の形式がよく保存されている。堂内には、慈覚大師作と伝える木造薬師如来坐像が安置され、伝教大師が比叡山に灯した灯を立石寺に分けたものを、織田信長の焼打で延暦寺を再建したときには逆に立石寺から分けたという、不滅の法灯を拝することができる。

元禄2年(1689)には俳聖・松尾芭蕉が、奥の細道の紀行の際この地を訪れ、冒頭のの名句を残した。

 

参拝日    令和6年(2024)3月11日(月) 天候晴れ

 

所在地    山形県山形市大字山寺4456-1                         山 号    宝珠山                                      院 号    阿所川院                                     宗 派    天台宗                                      寺 格    関東祈祷所                                    本 尊    薬師如来                                     創建年    伝・貞観2年(860)                                開 山    伝・円仁                                     正式名    寶珠山阿所川院立石寺                               別 称    山寺                                       札所等    最上三十三観音霊場第二番  四寺回廊                       文化財    根本中堂(国重要文化財)ほか          

 

 

 

境内図。

 

 

 

駅前の商店街および参道。

 

 

境内図。

 

 

 

立石寺入口。

 

 

石段を上り正面に根本中堂。

 

根本中堂【国重要文化財】    正平年間(1346~1370)の再建と伝え、慶長13年(1608)の大修理を含め数度の修理を受けているが、現在は慶長13年の姿を保っている。入母屋造、銅板葺き(元は杮葺)、平入、正面1間の向拝付、内部は正面2間分が外陣、奥3間分が内陣となっている。ブナ材が全体の6割程用いられブナ材の建築物では日本最古といわれる。

 

 

根本中堂は立石寺における全体の寺院の本堂に当たる堂となる。現在の根本中堂は延文元年(1356)初代山形城主・斯波兼頼が再建したもの。

 

 

 

内陣には須弥壇が設けられ、慈覚大師が自ら彫り込んだとされる本尊・薬師如来坐像。脇侍として日光・月光両菩薩と十二支天、その左右に文殊菩薩と毘沙門天を安置。1200年前に天台宗比叡山延暦寺から移された「不滅の法灯」が今も灯されている。 大永元年(1521)に兵乱により、立石寺とともに法灯も消失してしまったが、 天文12年(1543)の再建時に再び延暦寺から分灯された。逆に元亀2年(1571)に延暦寺が織田信長により焼き討ちされた時には、立石寺の法灯が延暦寺に分灯された。          (写真は山形県公式観光サイトより)

 

 

 

正面の向拝に安置された木造「招福布袋尊」。体をなでると願い事がかなうとのこと。

 

 

子どもを守る尊として、6人の子供が肩に乘っている。

 

 

 

向拝はもとより堂宇全体に華美な装飾な少なく、向拝欄間部に施された虎の彫刻の蟇股など限定的で素地で無骨な構造が逆に印象を与えてくれる。

 

 

 

 

 

 

元禄2年(1689)に芭蕉が訪れたときに、ほかの参拝者と寄進した手水鉢。

 

 

 

御神興殿。 手前の石塔はこけしの形でこけし塚。

 

 

松尾芭蕉像。

 

 

「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」の芭蕉の句碑。

 

 

常行念仏堂。  宝形造、銅板葺、桁行3間、梁間3間、正面に1間の向拝。

 

鐘楼。 山門の前に位置し、入母屋、銅板葺、石垣の基礎に袴腰付、腰壁は下見板張、縦押縁押え、屋根は2重垂木、天井は格天井、上部は4隅柱のみの吹き放しで高欄が廻り蟇股には霊鳥と思われる彫刻がある。梵鐘(高さ1.8m、直径70㎝)は、江戸時代末期に鋳造された。

 

 

願い事のある方は鐘を二つ突いて、お祈りする。

 

 

山門。   茅葺で趣がある門は、鎌倉時代に建立された伝えられる。門は切妻、茅葺、中心より僅かに前にある本柱と背後にある控柱の4本で門の屋根を支える薬医門形式。薬医門としては規模が大きく三間一戸風になっている。

 

 

扁額「開北霊窟」が掲げられている。

 

 

山門を潜ると参拝手続きの窓口があり料金を支払う。奥の院までの入口。

 

 

さあ、奥の院まで930段の石段を登り始める。

 

 

 

いよいよ階段上りの始まる。 ワクワクするような、たいへんなような・・決意をこめて、さあ行こう。

 

 

 

 

 

3月の中旬、昨日降った雪がまだ残っており、階段を上りにくくしている。かなり気を付けないと危険だ。

 

 

階段の途中には大きな岩がゴロゴロ。

 

 

岩には何か彫ってある。

 

 

大きな岩が目の前に迫り迫力ある参道。

 

蝉塚。  長い石段の参道中腹にある。 「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」の芭蕉翁の句をしたためた短冊をこの地に埋めて、石に塚をたてたもの。松尾芭蕉とその一行は、夕方に山寺に到着し宿坊に荷物を置くとそのまま参道を登り参拝してた。夕刻だった為、参拝者や僧侶達も居らず、御堂も門が閉められている静けさの中、唯一蝉の声だけが境内に鳴り響く、当時の時代でも別世界と思われる空間があり、この句がうまれた。「奥の細道」の中でも傑作の1つである。

 

 

四寸道。  山の自然に沿ってつくられたこの参道で、昔からの修行者の道。一番せまいところは約14cmの四寸しかない道で、開山・慈覚大師の足跡と言われる。ここまで360段、あと640段。

 

阿弥陀洞。   大きな岩塊。 背後にある凝灰岩が風化して阿弥陀如来の姿を形作っている。高さは約4.8mの巨大なもので、仏様の姿に見える人は幸福が訪れるという言い伝えがある(最上部の窪みが頭でその下の左右に肩のような丸身にある形状が見られ、地上部は座禅を組んでいるよう)。又、高さが1丈6尺(約4.8m)ある事から丈六の阿弥陀との別称がある。

 

 

 

岩には碑が刻まれている。

 

 

結構急な階段だ。大きな岩が覆いかぶさる。

 

 

いよいよ二王門が見えてきた。

 

仁王門。    仁王門は参道の中腹にある入母屋、銅板葺、三間一戸、八脚単層門、総欅、素地造りで周囲の景観と一体化し立石寺の象徴的な景観の1つ。案内板によると「 嘉永元年(1848)に再建されたけやき材の優美な門で、左右には、運慶の弟子たちの作といわれる仁王尊が安置されている。

 

 

軒下の二段造りの垂木が綺麗に見える。

 

 

木鼻には獅子、蟇股には波を模した彫刻が施され、屋根は2重垂木、華美な装飾は少なく力強い意匠。

 

 

 

 

 

天井は格天井。

 

 

 

門を潜る。

 

 

門を潜り前方の高台に見えるのは性相院。

 

 

 

仁王門を上から見る。

 

 

 

性相院の前から山々の風景と、右手に開山堂と納経堂。

 

 

 

開山堂と納経堂。

 

 

納経堂の遠景。 百丈岩の上に納経堂。

 

納経堂【山形県有形文化財】。 開山堂の左端の、百丈岩の頂上に位置ある。書写した法華経を奉納する場所だった事から納径堂と名付けられた。建物は慶長4年(1599)に建てられ宝永2年(1705)に大改修されたもので宝形造、銅瓦棒葺(元板葺)、桁行1間、梁間1間、外壁は横板張、弁柄塗り、正面中央に板扉を設けそ上部には象と思われる彫刻が施されている。

 

 

 

開山堂、五大堂への階段。この辺りは大きな岩が迫る。

 

開山堂。 立石寺を開山した慈覚大師が入定した百丈岩の平場に建てられた建物で信仰上でも重要。建物は入母屋、正面千鳥破風、銅板葺、平入、素地造、桁行3間、梁間2間。冬場の雪対策の仮設で覆われて全体像が見られないのが残念。

 

 

正面1間唐破風の向拝付、向拝欄間部には龍、木鼻には獅子、唐破風懸魚には鳳凰など精緻な彫刻が随所に施されている。

 

 

扁額は「かいざんだいし」ではないかなというが、よくわからないと寺の方。

 

 

開山堂の横から五大堂へ。

 

 

先ずは、山寺駅から望遠で五大堂の全景。 崖の斜面に建てた懸造。右下に開山堂。

 

五大堂。  立石寺の中で随一の眺望を望める景勝の地。 開山堂度と納経堂の奥に位置する。建物は正徳4年(1714)に再建され、嘉永5年(1852)に改修されたもの。木造平屋建、切妻、銅板葺、妻入、桁行4間、梁間2間、外壁は3方が吹き放しで下界を眺望出来き、落下を防ぐ為に外周には高欄を廻している。山の斜面にあり懸造となっている。五大堂の本尊は立石寺を護持する五大明王(大聖不動明王、東降三世明王、南軍荼利明王、大威徳明王、烏枢沙摩明王)が祀られている・・・

 

 

内部。眺望がすばらしい。 堂が空中に浮かんでいる感じだ。 かなりの時間をいたが、参拝客はほとんど外国人であった。

 

 

 

人がいなくなればこんな感じ。

 

 

 

 

 

中の広さは、ざっと20畳くらい・・・かな?。

 

 

 

 

 

真正面の山並み。眼下に山寺駅が小さく見える。

 



正面から見た景色

 

 

右手前方を見た景色。

 

 

左手の方向に開山堂や胎内堂などをみる。

 

 

釈迦堂。   釈迦ケ峰山頂直下に建てられた堂宇。木造平屋建、切妻、鉄板葺、平入、桁行3間、梁間2間、懸造風。 名称通り釈迦如来が安置されていると思われる。]

 

胎内堂。  釈迦堂からさらに下がった場所に建てられている。 木造平屋建、切妻、鉄板葺、妻入、桁行2間、梁間2間、懸造風。 その下にある小洞の中を入る「胎内くぐり」をしなければ辿り着けないという。現在は修行者のみしか行くことができない。

 

 

 

 

 

奥の院の途中の性相院。 

 

 

 

下から性相院、金乘院、中性院と並びその上奥が奥の院。

 

 

 

金乘院、その上後方に中性院。参拝はここまでとし、奥の院は参拝せずここで引き返した。

 

 

性相院。  本尊は阿弥陀如来で、運慶作と伝えられる毘沙門天像が安置されている。伊達政宗公の生母、義姫の日牌所でもある。

 

 

性相院の正面。

 

 

行きはよいよい帰りは恐い。階段に雪が積もりスベりやすい。

 

 

おそるおそる下りるので時間がかかる。

 

 

抜苦門。   本坊の表門。参拝者の全ての苦悩を抜けるとの理由から名付けられた。切妻、銅板葺、八脚単層門、三間三戸、正面唐破風、格式が感じらる。

 

 

木鼻には獅子の彫刻などが施されている。

 

 

 

 

 

本坊。  参道からは少し離れた所にある。周囲には神楽岩や蛙岩などの巨岩や羅漢像が安置されている。木造2階建て、寄棟、銅板葺、平入、外壁は真壁造、白漆喰仕上げ。庭園は背後の山々を取り込んだ借景庭園。

 

 

 

本坊玄関。  玄関屋根は唐破風、その上部の大屋根を千鳥破風として正面性を強調している。

 

 

 

神楽岩。 本坊の入り口側に大きな岩。

 

 

立谷川。  山寺の麓を流れる川。山形市の東側から流れ出て、山寺の前を通り、須川に合流した後にすぐに最上川へと合流。最上川水系の一部。

 

 

 

JR山寺駅。

 

 

 

山寺駅から見た立石寺。

 

 

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーーこの寺は東北の比叡山と言われるだけあって、延暦寺と同じように根本中堂には、薬師如来像が安置され、不滅の法灯が燃え続けている。薬師如来像は秘仏で拝見することはできなかったが、円仁の作と伝えられると聞いた。比叡山に横川を作り、唐から持ち帰った常行三昧という念仏の行をそこではじめたのも、円仁だといわれている。この山寺にもやはり常行念仏堂があった。このあたりにも、円仁の影響が色濃く感じられてならない。みちのくの山国に、円仁という才能豊かな野心的な僧がやってくる。そして、彼がまいた種が、今もこんなふうに生きつづけている。山寺は現在、観光地としてにぎわっているが、それでも千二百年ものあいだ法灯を保ちつづけるのは、並大抵のことではなかったにちがいない。

 

 

 

御朱印

 

 

 

山寺 終了

 

(参考文献) 五木寛之著「百寺巡礼」第七巻東北  立石寺HP  

       山形県HP(山寺立石寺:歴史・見所) フリー百科事典Wikipedia   ほか

 

 


84 仁和寺

2024-05-14 | 京都府

古寺を巡る 仁和寺

皇族や貴族とのゆかりが深かく御所風建築物が特長の寺。

 

2024年の冬、4日間にわたる京都の寺巡りは、この仁和寺が最後で計12の寺を巡った。冬の終わりで、どの寺も参拝客は少なかったが、土曜日の仁和寺はけっこうな人の出である。金堂の裏堂にある五大明王像壁画の特別公開のせいもあるようだ。

仁和寺は、皇室とゆかりの深い寺(門跡寺院)で、出家後の宇多法王が住んでいたことから、「御室御所」と称された。明治維新以降は、仁和寺の門跡に皇族が就かなくなったこともあり、「旧御室御所」と称するようになった。

御室は桜の名所としても知られ、春の桜と秋の紅葉の時期は多くの参拝者でにぎわう。普段は境内への入場は無料であり、本坊御殿・霊宝館の拝観のみ有料となる。ただし、御室桜の開花時(4月)に「さくらまつり」が行われ、その期間は、境内への入場にも拝観料が必要となる。

仁和寺は平安時代前、光孝天皇の勅願で出仁和2年(886)に建てられ始めた。しかし、光孝天皇は寺の完成を見ずに翌年崩御し、その遺志を引き継いだ子の宇多天皇によって仁和4年(2024)に落成した。当初「西山御願寺」と称され、やがて元号をとって仁和寺と号した。出家した宇多天皇以降、当寺は皇族の子弟が入る寺院とみなされるようになった。仁和寺はその後も皇族や貴族の保護を受け、明治時代に至るまで、覚法法親王など皇子や皇族が歴代の門跡(住職)を務め、門跡寺院の筆頭として仏教各宗を統括した。応仁の乱(1467~1477)が勃発すると、東軍の兵によって焼かれ、伽藍は全焼した。ただ、被害を被る前に本尊の阿弥陀三尊像は運び出されており、焼失を免れている。寛永11年(1634)に幕府の支援を得て伽藍が整備されることとなった。また、寛永年間(1624~1645)の御所の建て替えに伴い、御所の紫宸殿、清涼殿、常御殿などが仁和寺に境内に移築されている。

慶応3年(1867)以降、皇室出身者が当寺の門跡となることはなかった。ここに当寺は宮門跡「御室御所」としての歴史を終えた。

太平洋戦争の末期に敗戦が濃厚となった昭和20年(1945)のはじめ、数度にわたり、近衛文麿が昭和天皇が退位して仁和寺で出家するという計画を検討している。昭和21年(1946)、真言宗御室派が大真言宗から分離独立し、仁和寺はその総本山となった。

仁和寺は、建物、仏像、絵画など、国宝、国重要文化財に指定された文化財を数多く所有する寺としても知られている。

 

参拝日   令和6年(2024)3月2日(土) 天候曇り時々晴れ

 

所在地   京都府京都市右京区御室大内33                          山 号   大内山                                      宗 派   真言宗御室派                                   寺 格   総本山                                      本 尊   阿弥陀如来                                    創建年   仁和4年(888)                                    開 基   宇多天皇                                     別 称   旧御室御所                                    札所等   京都十三仏霊場第9番                               文化財   金堂、木造阿弥陀如来および両脇侍像。木造薬師如来坐像ほか(国宝)  二王門、五重塔、観音堂(国重要文化財)

 

 

 

境内案内図

 

 

二王門【国重要文化財】   仁和寺の正面入り口となる。寛永18年(1641)から正保2年(1645)に再建された。入母屋の二重門とした重厚な造りは、平安時代の様式を引き継ぐ純和風。19.2mの高さ。南禅寺三門、知恩院三門とともに京都三大門の一つ。

 

 

左の「吽形像」は怒りを内に秘めた表情をしている。

 

 

右に「阿形像」は怒りの感情を顕にした表情。

 

 

軒下の木組み。 三手先の斗栱。

 

 

門の天井は組入り天井。

 

 

 

 

 

二王門から境内を見る。

 

 

境内。

 

 

拝観手続きを終えて本坊表門から御殿に進む。

 

 

御殿の参道に這え松。

 

 

皇室門。  南庭の入り口用の平唐門。宸殿を囲む塀には勅使門と皇族門、二つの門が設けられ、皇室と関わりが深いこの寺らしい典雅な雰囲気を醸し出している。

 

 

本坊表門を振り返る。

 

 

本坊(御殿)の大玄関。  約6mの唐破風檜皮葺き屋根。

 

 

軒下には、蟇股や大瓶束の笈形に秀麗な彫刻を施し、威厳と華やかさを備えた大型の玄関。

 

 

中央に繊細な彫刻を施した蟇股。

 

 

 

 

 

内側から見る。

 

 

拝観の入り口は混雑。 正面の額が気にかかるが・・・・。

 

 

本坊に続く白書院は、令和5年(2023)暮れから令和8年(2026)春まで補修工事。当時は仮設掛工事で、まだ白書院内は見学可能だった。 現在(4月以降)は見学不可のようだ。

 

 

 

渡り廊下が続く。

 

白書院。    明治20年(1887)に御殿が焼失したため、仮宸殿として明治23年(1890)に建てられた。その後、宸殿などの諸建造物が再建され白書院となった。表と裏に三室ずつ配る六室構成で、表の三部屋が公開されている。三室の東側の間(10畳)。

 

中の間(10畳)。  襖絵は、大正から昭和に活躍した日本画家・福永晴帆が昭和12年(1937)に描かれた。松を主題とし三室全28枚の襖に描かれ、四季おりおりの松の姿が見ることができる。松の幹が墨で力強く描かれ、部屋の中心を貫くような堂々とした構図が印象的。

 

 

西側の間(15畳)。

 

 

 

 

 

 

白書院からの枯山水の南庭は仮設の足場で見ることができない。

 

 

 

白書院から左黒書院、右に宸殿。

 

 

 

宸殿の入り口の見られる板戸絵。

 

 

外廊下と濡れ縁の間の建具は蔀戸。

 

 

宸殿と北庭を見る。

 

 

北庭園。 宸殿の北東に広がる池泉回遊式庭園。斜面を利用した滝組に池泉を配し、築山に飛濤亭、その奥には中門や五重塔を見る。作庭年は不明だが、元禄3年(1690)には加来道意ら、明治〜大正期には七代目小川治兵衛によって整備された。宸殿から池越しに茶室・飛濤 亭の屋根、中門(工事中)そして五重塔がよく見える。

 

 

宸殿の屋根は庇が深く、広い廊下で外に濡れ縁が付き、解放された空間のなかに庭園を見ることができる。

 

 

 

 

 

北庭と南庭の仕切り。

 

 

 

池には木橋が架かっている。

 

 

 

奥には滝が流れている。

 

 

 

 

宸殿【国登録有形文化財】   寛永年間(1624 ~1644)に京都御所・常御殿を下賜されて宸殿としていたが、明治20年(1887)に焼失。、明治43年(1910)に勅使門や霊明殿などと共に、京都府庁に設計を依託。当時、数々の実績があり復古建築の天才と言われた、京都府の技師・亀岡末吉が設計を担った。大正3年(1914)にこの宸殿など御殿エリアの再建が完成した。亀岡は古典的な日本の建築の特徴に現代的なデザインの要素を融合させたことで知られている。この建物も、明治時代の建造だが平安様式を取り入れ、建物の北東に配置された庭園とともに、かつての宮殿の雰囲気を漂わせている。 

 

 

 

外廊下に見る欄間。  繊細かつ華麗なる欄間の意匠は、設計を担った技師・亀岡末吉の特徴と言われる。

 

 

部屋は東(手前)から、下段の間、中断の間、上段の間の三室構成。三室に四季の風物が、明治期の京都の日本画家・原 在泉によって描かれている。全体に金地が使用され、白書院や黒書院と比べて豪華さが際立つ。下段の間(20畳)。

 

 

襖絵は「鷹野行幸図」で原在泉による。

 

 

 

障子の腰板には冬の草花だという。

 

 

 

 

 

三室とも長押の上の小壁には鴈の群れ。

 

 

2023年10月、竜王戦の行われた下段の間。  藤井聡太と伊藤匠が争った部屋。

 

 

中段の間。・

 

 

 

上段の間(16畳)。  床の間を設け、床脇には天袋付きの違い棚。折り上げ格天井、を設け特に格上の部屋。

 

 

 

 

帳台構え。  書院造に見られる装飾的な出入り口である帳台構えは、4面一杯に雉と牡丹に覆われている。

 

 

 

折上げ格天井と、中段の間との欄間は、連続する繊細な花菱模様などで設計技師の亀岡末吉の特徴的な造りである。

 

 

床脇には書院が設けられた。

 

 

黒書院から見た中庭。 正面には白書院の補修工事用の仮設囲い。

 

 

 

黒書院から霊明殿に進む渡り廊下。

 

 

霊明殿。   宸殿の北東側に位置する祈祷のための建物。杉皮葺きの屋根の頂部には宝珠が飾られている。この建物は明治44年(1911)年に再建された。

 

 

蟇股に唐草文様を取り入れ、設計者の亀岡末吉が好んだ意匠である。

 

 

霊明殿の扁額は近衛文麿の筆に寄る。

 

 

内部は折上格天井と格式が高い内装。 本尊は薬師如来坐像(国宝)。

 

 

 

薬師如来座像【国宝】    仁和寺の院家であった喜多(北)院のから移したもので他に、仁和寺歴代門跡の位牌を祀る。秘仏であったが、昭和61年(1986)に、京都国立博物館の調査で初めて概要が明らかになった。康和5年(1103)白河天皇の皇子・覚行法親王の発願により仏師の円勢と長円が作った。本体の像高11㎝で光背と台座を含めても24㎝ほどの白壇材の小像で、光背には七仏薬師像と、日光菩薩、月光菩薩、台座には前後左右各面に3体ずつの十二神将を表す手の込んだ像。    (写真はネットから引用)

 

 

 

霊明殿から見た宸殿(左)、黒書院(右)、仮設に囲われた白書院(中)。

 

 

霊明殿から見た北庭と宸殿。

 

 

宸殿から見た勅使門。

 

 

勅使門【国重要文化財】   京都府の技師・亀岡末吉の設計によって大正2年(1913)に再建された。前後唐破風の左右は入母屋造の檜皮葺屋根の四脚門。

 



繊細で装飾的な意匠は、左右対称に翼を広げる鳳凰。狭い虹梁上に蟇股と全面を唐草模様が重なる。

 

 

 

 

 

透かし彫りと繊細な細い桟が入った扉。繊細さが煌びやかさを生む美しい門である。

 

 

 

勅使門の前には天皇皇后両陛下(昭和?平成?)のお手植え桜。

 

 

境内から金堂側に向かう。中門はただいま工事中にいり仮設シートで覆われていた。

 

 

中門を潜り金堂のゾーンへ。 正面に金堂、右手に五重塔、左手に観音堂。

 

観音堂【国重要文化財】     寛永18年(1641)から正保2年(1645)の再建。金堂の手前西側に建つ観音堂は延長6年(928)に建立され、現在の建物(重要文化財)は寛永21年(1644)に再建された。ここは仁和寺で最重要儀式とされる「伝法灌頂」がおごそかに行われる重要な場所であり、内部は非公開。
平成24年(2012)から半解体修理が行われ平成30年(2018)に完了。

 

 

 

 

内部の須弥壇。                    (写真は九州国立博物館HPより)

 

 

観音堂の前。右手に名勝御室桜の桜林。正面に五重塔。テレビや映画の時代劇に出てくる五重塔は、ほとんどが仁和寺のこの五重塔だそうだ。屋根の大きさが五層同じで、江戸時代の様式をわかりやすく映せることが、時代劇の雰囲気を演出できるようだ。

 

 

五重塔【国重要文化財】   寛永21年(1644)に、徳川三代将軍・家光の寄進によって建立された。塔の高さ32.7m、総高36.18m。 各層の屋根がほぼ同一の大きさに造られ、江戸期の五重塔の特徴をよく表している。内部には大日如来と、その周りに無量寿如来などの四方仏を安置。柱や壁面には真言八祖、菊花文様などが描かれている。

 

 

 

 

 

相輪。  九つの輪(五智如来と四菩薩を表す)の宝輪と水煙(火災予防を表す)。

 

 

軒下の木組み。

 

正面の扁額は「梵」の字。

 

 

九所明神【国重要文化財】  経堂の東側に位置し、仁和寺を守護する神社。本殿・左殿・右殿の三棟からなり、本殿には八幡三神、左殿には賀茂上下・日吉・武答・稲荷、右殿には松尾・平野・小日吉・木野嶋の九座の明神を祀る。現在の社殿は、寛永18年(1641)~正保2年(1645)頃に建立された。門前に立つ3基の灯籠は、織部型灯籠といい古田織部が考案した灯篭で、別名をキリシタン灯籠ともいう。

 

 

経堂【国重要文化財】    寛永18年(1641)から正保2年(1645)に再建。禅宗 様建築。輪蔵が設けられ、計768もの経箱が収蔵されている。

 

 

 

 

 

金堂【国宝】    慶長18年(1613)に建立された京都御所の正殿・紫宸殿を寛永年間(1624~1644)に移築したもの。近世の寝殿造り遺構として重要。現存する最古の紫宸殿である。宮殿から仏堂への用途変更に伴い、屋根を檜皮葺きから瓦葺に改修した。梵天像、竜灯鬼、天灯鬼などが安置されている。須弥壇の周囲には極彩色の浄土図が、背面(裏堂)壁に五大明王壁画が描かれている。

 

 

正面・全景。

 

 

金の装飾金物が付いた漆塗の黒框と格子の蔀戸。蔀戸を空ける場合は、軒から吊り下げられた金物で支える。

 

 

正面向拝。

 

 

 

須弥壇。                             (写真は「トレたび」HPより)

 

 

木造阿弥陀如来像【国宝】。       仁和4年(888年)仁和寺創建時の金堂本尊。一木造で像のかもしだす和らいだ雰囲気は、平安時代の彫刻が次第に和様式への道をたどる出発点の造形と言われている。また腹前で定印を結ぶ現存最古の阿弥陀像としても知られている。現在は脇侍である勢至菩薩立像、観音菩薩立像とともに霊宝館に安置され、春・秋の名宝展で公開される。 (写真は仁和寺HPより)

 

五大明王壁画。   金堂の北側部分に当たる空間「裏堂」の壁体に約370年前に描かれた5体の明王像。壁画は、普段非公開だが、特別公開時に見ることができる。正保3年(1646)の伽藍再建完成後の間もない時期に、当時活躍していた絵仏師・木村徳応が描いたとされる。絵は高さ2.2m、奥行き約15mの壁にあり、不動明王を中心に金剛夜叉明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王と五大明王が青や赤などの絵の具で描かれている。裏堂には日光が差し込まなかったため、完成当時とほぼ同じ鮮明な絵が見られる。   (写真は「そうだ京都に行こう」HPから)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

金堂前の石灯籠。

 

 

 

 

 

 

瓦には仁和寺の文字が刻まれている。

 

 

 

鐘楼【国重要文化財】    寛永21年(1644)に再建。上部は朱塗で高欄が巡り、下部は袴腰式覆いが特徴。

 

 

御影堂中門【国重要文化財】   寛永18年(1641)から正保2年(1645)に再建された。

 

御影堂【国重要文化財】    寛永18年(1641)から正保2年(1645)の再建。慶長18年(1613)に建立された京都御所の清涼殿の用材を用いて建立されたもの。宗祖・弘法大師、開基・宇多法王、仁和寺第2世・性信入道親王の像を祀る。

 

 

 

 

 

水掛不動尊。   近畿三十六不動尊霊場第14番札所。

 

 

土塀。

 

 

 

金堂の前から中門を見る。

 

 

 

境内の早咲さくら?

 

 

 

案内図

 

 

 

御朱印

   (準備中)

 

 

 

仁和寺 終了

 

  

(参考文献) 仁和寺HP  フリー百科事典Wikipedia 京都障壁画拝観記録HP                     

       はてなブログ第二遊歩道ノート  4travel.jp  ほか


83 神護寺

2024-05-11 | 京都府

百寺巡礼第23番 神護寺

二つの巨星が出会い、わかれた舞台

 

 

 

京都市街の北西、愛宕山(924m)山系の高雄山の中腹に位置する山岳寺院。紅葉の名所として知られる。高山寺を参拝し、栂ノ尾バス停からバスに乗り高雄で降りる。バス停から神護寺への道は、人が通るだけの下り道で自然石を並べた階段となっている。坂道を下りきると清滝川が流れ、朱塗りの高雄橋を渡る。橋を渡り、自然石の階段を上る、これが神護寺の参道となる。山の中腹に境内があるためかなりの距離がある。高齢者や足が不自由な人は相当きつい。やっと門に辿り着く。

清滝川に架かる高雄橋からの長い参道は、石段と坂道を歩いた先の山中に金堂、多宝塔、大師堂などの堂宇が建つ。神護寺は空海が東寺や高野山の経営に当たる前に一時住した寺であり、最澄もここで法華経の講義をしたことがあるなど、日本仏教史上重要な寺院である。

寺号は詳しくは「神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)」と称するが、寺の史料の「神護寺略記」や国宝の「文覚上人四十五箇条起請文」などにも「神護寺」とあり、寺の入口の楼門に架かる板札にも「神護寺」とある。

平安遷都の提唱者であり、また新都市造営の推進者として知られる和気清麻呂は、天応元年(781)、国家安泰を祈願し河内に神願寺を、またほぼ同じ時期に、山城に私寺として高雄山寺を建立している。
 神願寺が実際どこにあったのか、確かな資料が残っていない。私寺として建てられた高雄山寺は、海抜900メートル以上の愛宕五寺のひとつといわれているところからすれば、単なる和気氏の菩提寺というよりは、それまでの奈良の都市仏教に飽きたらない山岳修行を志す僧たちの道場として建てられたと考えられる。愛宕五寺(または愛宕五坊)と呼ばれる寺は白雲寺、月輪寺、日輪寺、伝法寺、高雄山寺であるが、残念ながら現在にその名をとどめているのは高雄山寺改め神護寺と月輪寺のみである。
 その後、清麻呂が没すると、高雄山寺の境内に清麻呂の墓が祀られ、和気氏の菩提寺としての性格を強めることになるが、清麻呂の子息(弘世、真綱、仲世)は亡父の遺志を継ぎ、最澄、空海を相次いで高雄山寺に招き仏教界に新風を吹き込んでいる。
 天長元年(824)に、真綱、仲世の要請により神願寺と高雄山寺を合併し、寺名を神護国祚真言寺(略して神護寺)と改め、一切を空海に付嘱し、それ以後真言宗として今日に伝えている。
 神護寺は最澄、空海の活躍によって根本道場としての内容を築いていったが、正暦5年(994)と久安5年(1149)の二度の火災にあい,鳥羽法皇の怒りに触れて全山壊滅の状態となった。
 わずかに本尊薬師如来を風雨にさらしながら残すのみであった惨状を見た文覚は、生涯の悲願として神護寺再興を決意するが、その達成への道はとても厳しかった。
 上覚や明恵といった徳の高い弟子に恵まれ元以上の規模に復興された。
 その後も天文年中の兵火や明治初年の廃仏毀釈の弾圧にも消えることなく法灯を護持している。

 

参拝日   令和6年(2024) 3月2日(土) 天候曇り

 

所在地   京都府京都市右京区梅ヶ畑高雄5                           山 号   高雄山                                       宗 派   高野山真言宗                                    寺 格   遺迹本山                                      本 尊   薬師如来(国宝)                                  創建年   天長元年(824)                                  開 基   和気清麻呂                                     正式名   高雄山神護国祚真信寺                                別 称   高雄神護寺                                     札所等   西国薬師四十九霊場第44番ほか                            文化財   木造五大虚空蔵菩薩坐像 絹本着色釈迦如来像ほか(国宝)大師堂(国重要文化財)ほか

  

 

 

境内図                                (神護寺HPより)

 

 

清滝川にかかる高雄橋。

 

 

 

清滝川。 

 

 

 

ここからが参道。

 

 

 

約300の石段が延々と続く。 お参りもいいがかなり覚悟が必要。

 

 

硯石。 楼門まであと5分の1程度の距離にある大きな岩は、空海が神護寺で修業している時に、嵯峨天皇が『金剛定寺』の門額を書くようにと勅使を送るも、清滝川が増水して渡れないため、空海はこの岩で墨をすり、空に向かって『金剛定寺』と書くと、文字が門額に現れたという伝説の石。

 

 

やっと楼門が見えてきた。

 

 

楼門。  山門とも三門とも言わず楼門という。 元和9年(1623)の創建。

 

 

「神護国祚真言寺」の扁額。 ・・・と書いてあるようだ。

 

 

 

持国天と増長天は、ただ今留守中。

 

 

 

この門の左手で参拝の手続きを済ませ、門を潜る。

 

 

門から上ってきた石段を振り返る。

 

 

 

楼門を境内の内側から見る。

 

 

 

門を潜り境内を見る。ひろびろとしている、300段の階段を上ってきてホッとするひととき。

 

 

 

 

 

 

五大堂。   元和9年(1623)の建立。元は講堂だったといわれる。 堂内には五大明王(不動・降三世・軍荼利・大威徳・金剛夜叉が安置されている。

 

 

五大堂の前の鬼瓦。 よく見るとユニークな顔?

 

 

 

五大堂の正面向拝。

 

 

 

 

 

 

五大堂の前には毘沙門堂。

 

 

毘沙門堂。 元和9年(1623)の建立。五大堂の南に建つ。入母屋造の五間堂。金堂が建つ前はこの堂が金堂であったため、本尊の薬師如来像はここに安置されていた。内部の厨子に平安時代の毘沙門天立像(国重要文化財)を安置する。

 

 

毘沙門堂の正面向拝。

 

 

 

 

 

向拝を見る。

 

大師堂【国重要文化財】。  毘沙門堂の西側に建つ入母屋造、杮葺きの住宅風の仏堂。空海の住房であった「納涼房」を復興したもので、現存するものは近世初期の再建である。内部の厨子に正安4年(1302)に作られた板彫弘法大師像(国重要文化財)を安置する。杮葺きの屋根にはうっすらと雪が残る。今朝降った雨はこの辺りでは雪だったのだろう。

 

 

板彫弘法大師像【国重要文化財】。    正安4年(1302)に仏師・定喜が土佐国金剛頂寺の空海像を模刻したものとされている。大師堂内に安置。

 

 

大師堂の前に合った石柱。 戸車のようなものが付いているが・・はて?

 

 

金堂への参道の石段。 両側には紅葉の樹だ並び、秋の盛りには子の紅葉見たさに参拝客でにぎわう。冬の終わりで彩は無いが、神護寺の最高のビューポイント。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

金堂。    昭和9年(1934)に、大阪の実業家で高額納税者の山口玄洞氏の寄進により再建された。。楼門を入って境内を奥へ進み、右手の石段を上った先に建つ。入母屋造り、本瓦葺きの本格的な密教仏堂である。

 

 

 

 

 

妻側。

 

 

側面(西側)外観。

 

 

 

 

 

 

 

 

正面・向拝。

 

 

軒下の木組み。

 

 

 

 

 

 

 

 

向拝を横から見る。

 

 

入り口扉。

 

 

 

内部の撮影は出来ないため、この辺まで。

 

 

内陣と外陣。 須弥壇中央の厨子に本尊の薬師如来立像(国宝)を安置し、左右に日光菩薩と月光菩薩立像(国重要文化財)と十二神将立像、左右端に四天王立像を安置する。(写真は神護寺HPより)

 

本尊・薬師如来立像【国宝】     金堂本尊。像高170.6Cm、カヤ材の一木造。唇に朱を、眉、瞳などに墨を塗るほかは彩色などを施さない素木仕上げの像である。目を細めた森厳で沈うつな表情と体躯のボリューム感は、親しみよりも威圧感を見る者に与える。図式的・観念的に整えられた衣文などに平安時代初期特有の様式が見られる。下半身では両脚間に「U」字形の衣文を縦に連続させ、その左右に平滑な面をつくって大腿部のボリュームを強調しているが、こうした衣文形式も平安時代初期の如来像に多く見られるものである。(写真は東京国立博物館の「創建1200年記念特別展・神護寺ー空海と真言密教のはじまりより」) 

 

 

 

 

金堂の向拝から前方を見る。 階段下に五大堂と毘沙門堂。 手前の丸い基礎は、鉄製か銅製の灯籠が建っていたのだが、戦時中の供出により失ってしまった。

 

 

 

石仏は不動明王像。  金堂の西側に建つ。

 

 

多宝塔。    昭和9年(1934)に大阪の実業家・山口玄洞氏の寄進により再建。金堂からさらに石段を上った高みに建つ。内部に国宝の五大虚空蔵菩薩像を安置。

 

 

 

 

五大虚空蔵菩薩像【国宝】。   多宝塔に安置してある像で、五大虚空蔵菩薩は金剛界の五智如来の変化身といわれ、富貴成就、天変消除をこの菩薩に祈って秘法を行う。像は五体とも像高90Cmあまり。ほぼ同形の坐像で手の形や持物だけが異なる。肉身の色は中尊の法界虚空蔵が白色、東方尊金剛虚空蔵は黄色、南方尊宝光虚空蔵は緑色、西方尊蓮華虚空蔵は赤色、北方尊業用虚空蔵は黒色に塗り分けられている。これらは、いずれも一木造で、両腕のひじから先に別材を矧ぎ付けるほかは一材から彫り出し、部分的に木屎漆で仕上げている。
 彩色は九世紀末に塗りなおした記録があり、当初のものではない。木製の宝冠、瓔珞、臂釧などの装身具も後のもので、光背、台座も失われている。      (写真は京都観光Naviより)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

閼伽井。  仏前に供えるための水を汲む井戸。

 

 

石碑。 

 

 

 

金堂の横から木々の小道を抜けると苔覆われ区画があり、瓦屋根の地蔵院が建っている。

 

 

かわらけ投げ。 前には錦雲峡という峡谷がひろがり、この錦雲峡に向かって、健康や安全などの願いを込めて素焼きの皿をなげる「かわらけ投げ」の場所である。

 

 

 

はるか下には清滝川が流れている。

 

 

 

「かわらけ投げ」を終えて、金堂のある境内に戻る。

 

 

明王堂。  五大堂の手前(楼門側)に位置する堂宇。 天慶2年(939)に平将門の乱のときに、空海が刻した護摩堂(明王堂)に奉安されていた不動明王像を、現・成田市の成田山新勝寺に捧げ、21日間にわたり朝敵を調伏する護摩を修せしめた。乱の平定後には不動明王像が動こうとしないので、公津ヶ原に東国鎮護の霊場を拓くべきとの考えのもと、神護新勝寺の寺名を下賜し勅願寺として創建した。扁額「明王堂」は五代目による筆。市川海老蔵の筆による。

 

 

鐘楼。  日本三名鐘(ほかに宇治・平等院、大津・三井寺)の一つ。 元和9年(1623)の建立。

 

 

楼上の梵鐘(国宝)は、貞観17年(875)に鋳造された。序詞を橘広相、銘文を菅原是善(菅原道真の父)、揮毫は藤原敏行の手による銘文が刻まれている。序、銘、書のいずれも当代一流の者によることから「三絶の鐘」と称された。名鐘は外からは見えない。

 

 

 

和気清麻呂の霊廟。  後の神護寺となる神願寺と高雄山寺を建立した和気清麻呂を祀った廟。こちらも大阪の実業家・山口玄洞氏の寄進による。

 

  

本坊の入り口。 楼門を潜る前の右手に位置する。

 

 

 

書院・平唐門。  この門の背面に「灌頂の庭」がある。奥は書院となる。

 

 

灌頂の庭。  書院の前に広がる石庭。 普段は非公開で、書院の虫払い行事の行われる5日間のみこうかいされる。                        (写真はYAHOO!ニュースより)

 

書院の虫払い行事。 新緑の季節、神護寺で保管してある寺宝が、虫干しのため書院において別公開される。国宝の伝源頼朝画像や、伝平重盛像、釈迦如来像、潅頂暦名など70点が展示。2024年度は5月1日~5日まで開催された。併せて、書院石庭「灌頂の庭」が公開される。また、茶室「了々軒」で茶席が用意されている。

釈迦如来像【国宝】  赤釈迦ともいわれる。 絹本著色、縦159.4cm 横85.5cm、平安時代後期の作。 朱

 

 

源頼朝像【国宝】   絹本著色、縦143.0cm 横112.8cm、鎌倉時代(13世紀)の作。鎌倉前期の大和絵肖像画の代表的傑作といわれる。

 

 

 

楼門を額縁にして参道方向を見る。

 

 

 

参道を下り高雄橋を渡ると、また上り坂になりその先に高雄のバス停が待っている。

 

 

 

バス停「高雄」から乗車し、しばらくは貸し切り状態、京都市街にすすみ、やっと客が乗り込んできた。次は仁和寺で降りるつもりだ。

 

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーーどんな人間でも時には「もう死んでしまいたい」と思うようなことがあるだろう。私自身、具体的に方法まで考えて、こういうふうにしようと決心しながら踏み切れなかったことが、これまで二度あった。どうにか立ち直って、いまこうして生きている。目の前にあるものはすべて変わっていく。去っていく。自然はすべて変化する。人間も老いていく。病を得る。そして死んでいく。天地自然も変貌していく。春も夏も、あっという間に過ぎていく。すべて目の前にあるものは消えていく。遠ざかっていき、みんないつかは別れなければならないのだ。友情も変わる。恋人も老いていき、やがて死んでいく。生まれてきたもの、今向き合っているものは、すべて別れなければならないのだ。そういう気持ちを抱いて生きていくことは、とても大切なことなのかもしれない。そこから結局、いまを惜しむ気持ちが生れ、惜しむ気持ちから悲しむ気持ちが生れ、悲しむ気持ちから、いとおしむ気持ちが生れ、そこから万物への愛が生れてくるからだ。空海は「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く」と書いた。これは彼の生に対する覚悟だったのではないだろうか。そうしてそのどん底から絶望を力に変えていったのではないだろうか。目の前の薬師如来立像は、神護寺の変遷とともに、さまざまな人びととの人生を見守りつづけてきた。赤みを帯びた唇から、覚悟して生きて生きなさい、という言葉がこぼれてきたようなきがした。

 

 

 

御朱印

 

 

 

神護寺 終了

 

(参考文献) 百寺巡礼第三巻京都Ⅰ(講談社)  神護寺HP                     

       フリー百科事典Wikipedia SPICEHP ほか

 

 


82 高山寺

2024-05-09 | 京都府

古寺を巡る 高山寺

自然豊かな世界遺産の寺。鳥獣戯画で知られる文化財の宝庫。

 

高山寺のある栂尾は、紅葉の名所として知られる高雄山神護寺からさらに奥に入った山中にある。京都駅前からバスに乗り約1時間である。高山寺は8時30分開門なので7時40分のバスが丁度良いの高山寺に丁度良い。バスの中は市街地を抜けると、吾輩ともう1人しか乗客はいない。 もう一人の乗客は手前の神護寺のバス停で降りたので、終点まで乗っていたのが吾輩只一人。バスを降りるとすぐに参道の入り口。さすが冬の終わりのこの時間、誰も参拝者はいない。

古代より山岳修行の適地として小寺院が営まれていたようだ。今の高山寺の地には、奈良時代から「度賀尾寺」「都賀尾坊」などと称される寺院があり、宝亀5年(774)に光仁天皇勅願で建立されたとの伝えもあるが、当時の実態は明らかでない。平安時代には近隣の神護寺の別院とされ、神護寺十無尽院と称されていた。これは、神護寺本寺から離れた隠棲修行の場所であったらしい。

高山寺の中興の祖であり、実質的な開基とされるのは、鎌倉時代の華厳宗の相、明恵である。幼時に両親を亡くした明恵は9歳で生家を離れ、母方の叔父に当たる神護寺の僧・上覚もとで仏門に入った。

明恵は建永元年(1206)、34歳の時に後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられ、また寺名のもとになった「日出先照高山之寺」の勅額を下賜された。この時が現・高山寺の創立と見なされている。「日出先照高山」(日、出でて、まず高き山を照らす)とは、「華厳経」の中の句で、「朝日が昇って、真っ先に照らされるのは高い山の頂上だ」という意味であり、そのように光り輝く寺院であれとの意が込められている。

また明恵は、鎌倉時代初期に臨済宗の開祖栄西から茶の種を貰い、当寺の境内に植えたという伝承がある。この地で栽培された茶は、栄西が南宗に留学した際にそこで種子を得て、帰国後に明恵の求めに応じて贈ったものと伝える。明恵はこれを初めは栂尾山の深瀬に植え、明恵が没した後も栂尾において栽培が続けられた。また宇治の民の願いによって明恵が宇治に種を撒き、宇治その他の土地に広まったとも伝える。

なお、この栂尾産の茶は鎌倉時代後期にはその味わいの良さが評判となり、東国の武士たちまで争って求めるほどの高評価を得た。「我が朝の茶の窟宅は、栂尾をもて本となすなり」として栂尾産の茶を「本茶」と呼び、その他の地で産出したものを「非茶」と呼んだ。高山寺は中世以降、たびたびの戦乱や火災で焼失し、鎌倉時代の建物は石水院を残すのみとなっている。

 

参拝日    令和6年(2024) 3月2日(土) 天候曇り

 

所在地    京都府京都市右京区梅ケ畑栂尾町8                         山 号    栂尾山                                      宗 派    真言宗系単位                                   本 尊    釈迦如来                                     創建年    伝・宝亀5年(774)                               開 基    伝・光仁天皇(勅願)                               中興年    建永元年(1206)                                中 興    明恵                                       文化財    石水院(国宝) ほか

 

 

高山寺境内図

 

 

 

 

栂尾バス停のすぐそば高山寺の入り口。

 

 

バス停から近いので裏参道から。

 

 

苔に覆われた石垣と木々の中に石の階段の小道をつづら折に登っていく。

 

 

 

階段を上り切ると石水院を覆う低い白壁が続く。

 

 

 

山門。

 

 

石水院の山門。 現在は締め切りで一般の参拝者は客殿より入る。

 

 

客殿入口。 一般の参拝者の入る入り口。

 

 

 

客殿の玄関。

 

 

 

客殿から国宝・石水院にすすむ渡り廊下。

 

石水院【国宝】     五所堂とも呼ばれる。鎌倉時代の建築。入母屋造、杮葺き。後鳥羽上皇の学問所を下賜されたものと伝え、明恵の住房跡とも伝える。外観は住宅風だが本来は経蔵として造られたものである。もとは東経蔵として金堂の東にあった。安貞2年(1228)に洪水で石水院が無くなってしまったため、その後に東経蔵が新たな石水院として整備され、春日明神・住吉明神を祀ることとなった。明治22年(1889)に現在地に移築された。

 

 

廂の間(ひさしのま)。石水院の西正面に1間の通り庇と呼ぶ屋根付きの広縁のような板敷の部屋で正面に幅1間の向拝。

 

 

 

中心に小さな善財童子像が安置され幻想的な空間が見られる。 床板は屋久杉が使われている。

 

 

 

正面の欄間にある扁額「石水院」は、富岡鉄斎の筆。

 

 

善財童子像。  明恵上人は、華厳経にその求法の旅が語られる善財童子を敬愛し、住房には善財五十五善知識の絵を掛け、善財童子の木像を置いていたと言われている。 現在の像は、近代の作で大正4年(1915)生まれで昭和に活躍した西村虚空の作。

 

 

 

 

 

蔀と菱格子を組み合わせた外壁部は透けており、林の木々が身近に感じられ自然との融和が図られている。深い庇によって陽の光を遮る、さらに神秘感を感じる。

 

 

全体的には簡素な造りを、菱格子や蟇股などを使用し品格のある造りになっている。 蟇股は鎌倉時代の作であるが、明治時代に造り替えたようだ。

 

 

 

庇の間から見る庭園。

 

 

 

向拝の前の庭園。

 

 

庇の天井は折上小組格子で貴賓性を高めている。柱は朽ちているが大きな面取りとなっていて組部の舟肘木を使用し、できる限り建てられた当時の材を残しながら、改築をしていることがわかる

 

 

高い崖の縁に建てられていることがわかる。深い庇を出し広い外縁が特徴で、眼前からは谷越しに遠く山並を望むことができる。

 

 

南面の欄間にある勅額「日出先照高山之寺(ひいでてまずてらすこうざんのてら)」は伝後鳥羽上皇の筆。

 

 

 

 

 

 

広縁から仏間、8畳の間を見る。隅木や垂木、柱には大きな面。小舞のピッチも大きく、全体的にのびやかに感じる。隅木を受ける束が柱からずれているのは移築によって生じたものと思われる。

 

 

 

仏間。 石水院の西側の部屋は、5畳より少し広い部屋。 

 

 

天井は格子をはめ込んだ格天井で、そんなに古さは感じない。度々の改修で新たに造られた天井と思う。

 

 

 

8畳間。  床の間を設け、明恵上人樹上座像図が掲げられている。

 

明恵上人樹上座像【国宝】   床の間の掛け軸は鎌倉時代の作。紙本著色 縦145㎝×横59㎝。明明恵は貞応元年(1222)に栂尾へ還住し、最晩年を過ごす。高山寺の後山、楞伽山において上人は坐禅を行い、二股に分かれた一株の松を縄床樹と名付け、常々そこで坐禅入観したという。この絵は縄床樹に座る明恵を描いたものである。床の間に飾られている軸はレプリカ。       (写真は高山寺HPより)

 

天井は船底で、天井板はもと屋根に葺かれていた厚い板で、桧皮の下に葺き込まれて残っていたものを裏返して天井板に用いたものである。その面が甚だしく風化して減っており、長く使われて来たことを物語り、各板の中央が雨水の流れで深く減っていることや、両端部にはもと板の合わせ目に長い目板を打った釘穴が残っていることなどもみらる。天井に用いるために美しく磨かれたことも想像できる。

 

 

 

8畳側から仏間、廂の間を方向を見る。

 

 

 

5畳の間。  8畳の間の穂が市側に位置し、現在は鳥獣人物戯画(国宝)が展示されている。

 

 

鳥獣人物戯画【国宝】。  こちらのガラスケースの中はレプリカであり、原本4巻は、1、3巻が東京国立博物館、2、4巻が京都国立博物館で保管し、それぞれ特別展の際に公開している。

 

 

 

 

 

石水院の南面は清滝川を越えて向山をのぞみ、視界が一気に開ける。冬になると純白の雪と赤いじゅうたんが調和し、色鮮やかな景色になるという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

濡れ縁。  よく見ると縁板は節だらけだ。

 

 

 

 

 

 

廊下側の天井の様子。

 

 

柱は、虫に食われかなり朽ちていると思う。

 

 

石水院の前方の景色。前の樹木は紅葉で、秋の季節になれば彩艶やかになるのだろう。 冬の終わり、彩は無い。

 

 

 

 

 

 

門を出て近藤に向かう。

 

茶道の石柱。 高山寺は日本ではじめて茶が作られた場所として知られる。栄西禅師が宋から持ち帰った茶の実を明恵につたえ、山内で植え育てたところ、修行の妨げとなる眠りを覚ます効果があるので衆僧にすすめたという。最古の茶園は清滝川の対岸、深瀬三本木にあった。中世以来、栂尾の茶を本茶、それ以外を非茶と呼ぶ。「日本最古之茶園」碑が立つ現在の茶園は、もと高山寺の中心的僧房十無尽院があった場所と考えられている。

 

 

 

金堂と、もとの石水院が建てられていた場所へ至る石段は、今も残されている。

 

 

開山堂。  江戸時代中期の享保8年(1723)に禅堂院跡に再建された。開山堂は鎌倉時代に高山寺中興の祖・明恵が晩年を過ごし、終焉の地とも言われる禅堂院が建立されていた場所。明恵上人坐像(重要文化財)を安置。

 

 

杉林の中に石の階段がある。昇り切れば金堂だ。

 

金堂。   仁和寺の堂宇の一部を移築したと伝えられている。 彩色などは全く施されていない入母屋造の建物。金物や塗色で飾った仁和寺とは異なり、凝った木彫や装飾はほとんどないが、舟肘木や蔀戸に仁和寺的な門跡寺院らしい気品がある。内部には、木造の「釈迦如来坐像」が鎮座している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

裏参道と表参道の間は渓谷だった。

 

 

 

案内図。

 

 

 

御朱印

 

 

 

 

高山寺 終了

 

(参考文献) 高山寺HP フリー百科事典Wikipedia  ほか

 

 


81 建仁寺

2024-05-03 | 京都府

古寺を巡る 建仁寺

花街・祇園にある荘厳な京都最古の禅寺。

 

建仁寺は、京都の中心部・四条大橋からすぐ近くの松竹南座の裏側にある。近くには八坂神社や花見小路などがあり、祇園の南側にあたり清水坂方面にもつながる、歴史的な地域で人通りの多い繁華街でもある。そのような場所にあり大勢の観光客が絶え間なく押し寄せる。俵屋宗達の「風神雷神図」や海北友松の襖絵など、多くの文化財を所有する。近くの高台寺や八坂の塔でおなじみも法観寺は末寺にあたり、寺院の傍にはいくつかの塔頭も建っている。

日本に臨済宗を伝えたのは栄西である。栄西は仁安3年(1168)と文治3年(1187)に、中国の南宗に渡航し臨済宗黄龍派の虚庵懐敞(きあんえじょう)で修業を行い、建久2年(1191)に、虚庵から師匠の法を嗣いだという証明を得て帰国する。当時、京都では比叡山延暦寺の勢力が強大で、禅寺を開くことは困難であった。そこで、栄西は最初に九州博多に聖福寺を建て、のち鎌倉に移り、北条政子の援助で寿福寺を開くことができた。その2年後の建仁2年(1202)に鎌倉幕府2代将軍源頼家の援助を得て、元号を寺号とし、京都における臨済宗の拠点として建立されたのが建仁寺である。

寛元4年(1246)から100年の間に3回の火災に遭い寺の勢いは衰えていった。しかし正嘉元年(1258)に東福寺を開山した円爾(聖一国師)が寺に入り仏殿などを復興する。翌、正元元年(1259)には宋僧の蘭渓道隆が11世住職として寺に入り、臨済禅道場となりこの頃から純粋禅の寺院となる。暦応3年(1340)には佐々木道誉による妙法院焼き討ちの際に輪蔵、開山堂、塔頭の瑞法庵などが類焼している。康永元年(1340)に寺名を建仁寺に戻す。康安元年(1361)の南北朝の戦乱に巻き込まれた幼少期の足利義満の避難先となった。応永4年(1397)の応仁の乱、文明13年(1481)にも火災に遭っている。したがって創建当時の建物は残っていない。

天正年間(1573~1592)に安国寺恵瓊が復興に努め、江戸時代にも継続して修理がおこなわれた。明治元年(1868)廃仏毀釈により34院あった塔頭は14院となった。昭和9年(1934)の室戸台風で庫裡が倒壊した。

 

参拝日    令和6年(2024) 3月1日(金) 天候曇り

 

所在地    京都府京都市東山区大和大路四条下る四丁目小松町584               山 号    東山                                       宗 派    臨済宗建仁寺派                                  寺 格    大本山 京都五山三位                               本 尊    釈迦如来                                     創建年    建仁2年(1202)  開山 栄西                          開 基    源頼家                                      正式名    東山建仁禅寺                                   文化財    風神雷神図(国宝) 方丈、勅使門(国重要文化財)ほか   

 

 

建仁寺位置図

 

 

 

 

 

 

勅使門【国重要文化財】   建仁寺伽藍の南側に位置し、銅板葺き切妻屋根の四脚門。元は六波羅にあった平教盛の館門で、応仁の乱の後に移築したと伝えられている。様式的には鎌倉時代末期の建物。柱や扉に戦乱の屋の痕があることから矢の根門または矢立門と呼ばれている。

 

 

 

 

 

 

三門を見る。

 

 

洗鉢池。 参道の右手の茶碑と「平成の茶苑」のある区画の南隣に位置する。茶碑の近くにあるせいか、抹茶色をした神秘的な池。

 

 

三門。   空門・無相門・無作門の三解脱門で、江戸時代末期の建築物といわれている。大正12年(1923)に静岡県浜松市の安寧寺から移築されたもの。楼上には釈迦如来、迦葉・阿難両尊者と十六羅漢が安置されている。

 

 


「望闕楼」(ぼうげつろう)とも呼ばれ「御所を望む楼閣」という意味があるという。

 

 

 

門から正面に法堂を見る。

 

 

境内の参道。

 

 

 

本坊。 参拝者はこちらの入り口から入る。

 

 

 

 

 

本坊玄関。   「大哉心乎」は、建久9年(1198)に栄西禅師が書かれた、興禅護国論の序文の最初の4文字。「自分も、他人も、心なくしては生きていけない事の大切さを思うもの」という意味。

 

 

 

本坊の玄関は吹き抜けで、梁や桁など小屋組みが見える。材を見るとそんなに古いものではなさそうだ。

 

 

 

玄関から上がる。

 

 

 

ここで拝観手続きを踏んで中に進む。

 

 

 

本坊の廊下にはお札やおみやげなどを売る店。

 

 

 

本坊の奥の部屋に展示されてる「風神雷神図屏風」(国宝)は俵屋宗達の筆。そのレプリカ。

 

金地の二曲一双屏風のそれぞれに風神と雷神。たっぷりと取られた余白が広い空間を暗示し、天空を駆ける両神のダイナミックな動きを感じさせる。印も落款も無いが、俵屋宗達の代表作として名高い。原本は京都国立博物館に寄託され、常時の公開はされていないが、複製の屏風および陶板は建仁寺で見ることができる。元々は京都の豪商・打它公軌(うだきんのり/糸屋十右衛門)が建仁寺派である妙光寺再興の記念に俵屋宗達に製作を依頼したもので、その後、妙光寺から建仁寺に寄贈された。

 

 

 

方丈から渡り廊下を進み法堂へ。

 

 

小鐘楼【京都府指定文化財】  法堂に繋がる渡り廊下の右手に位置する。大鐘楼(陀羅尼の鐘)よりやや遅れ、江戸時代の寛文12年(1672)に建立された。桁行一間、梁行一間、一重、切妻造、本瓦葺。

 

 

法堂【京都府指定有形文化財】     仏殿(本尊を安置する堂)と法堂(講堂にあたる)を兼ねている当寺の本堂。明和2年(1765)に再建。

 

 

法堂正面。 一重の構造であるが、裳腰が付いているため二重に見える堂々とした禅宗様仏殿建築で、禅語に拈華微笑からとった拈華堂とも呼ばれている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

法堂内部。

 

 

 

 

正面須弥壇には、本尊の釈迦如来坐像と脇侍に迦葉尊者と阿難尊者が祀られている

 

双竜図。    平成14年(2002)に創建800年を記念して天井に、日本画家、陶芸家で特定の美術団体に属さず画壇とも距離を置いたことから「孤高の画家」と呼ばれている小泉順作により「双龍図」が描かれた。天井画の大きさは畳108枚ほどあるという。小泉順作は、ほかに鎌倉建長寺の天井図、東大寺の襖絵なども手掛けた。

 

 

花頭窓。

 

 

 

方丈大玄関。  方丈と本坊の間にあり本坊にもつながる。一般への開放はなく出入りは出来ない。

 

 

向唐門。   方丈の前庭に位置する。寛文年間(1661~73)に造営されたと伝えられる。造営当初は柿)葺きであったが、瓦葺きとしたため重力で劣化、腐朽破損等が進んでいたため、平成21年(2009)に木部修理及び屋根を銅板に葺き替えた。

 

 

方丈と前庭の大雄苑。

 

 

 

 

大雄苑。  方丈の前に広がる枯山水の庭園。 庭園は、作庭家・加藤熊吉により昭和15年(1940)に造られた。中国の百丈山の眺めを模して造られたといわれ、方丈の広い外縁に座ってみると大きな広がりを感じる。

 

 

庭に向かって左端に一番大きな石が主石になっている。この主石に雨が降って水滴になり、川になり、そして海になり、最後は渦になる様子が白砂で描かれているという。

 

 

 

方丈と法堂が繋がる渡り廊下。

 

 

方丈の外縁から向唐門越しに法堂。

 

 

 

方丈の大きな外縁には、参拝者が腰をおろし目の前の庭園と向き合っている。

 

 

外縁の右手方向に描かれた白砂による波紋。

 

 

 

 

 

 

方丈【国重要文化財】   長享元年(1847)の建立。 もと、安芸国の安国寺にあり、安国寺恵瓊が慶長4年(1599)に建仁寺に移築したもの。東側に設けられた大玄関を介して本坊と連結する。創建当初は杮葺であったが元文元年(1736)に瓦葺きに改装。建物の外周すべてに建具が入り壁が少ない構造のためか、昭和9年(1934)に倒壊し、昭和15年(1940)に創建当初の杮葺で復旧された。その後昭和37年(1962)に銅板葺きに改められていたが、平成25年(2013)に、また杮葺に復した。各室には桃山時代の画壇を代表する画家の一人である海北友松の水墨障壁画があったが、現在は襖から掛軸に改装され、京都国立博物館に寄託されている。台風被害の復旧後は、日本画家橋本関雪による障壁画『生生流転』『伯楽』『深秋』『蕭條』『松韻(寒山子)』の計60面が、昭和15年(1940)に設置された

 

 

 

方丈の正面に「方丈」の扁額。

 

 

室中。   方丈の正面中央にある44畳敷きの大きな部屋で、住職がお勤めをする部屋。部屋の真中に本尊の十一面観音菩薩坐像を安置。この像は、徳川第二代将軍・秀忠の娘で後水尾天皇の皇后になった東福門院和子により寄進されたもの。

 

 

方丈の他の部屋より格式が高い部屋として天井は折上格天井としている。16面ある襖には、海北友松の筆による「竹林七賢図」が描かれている。安土桃山時代の作。

 

 

 

 

 

下間ニの間(礼の間)。  方丈の室中の右側の部屋で、24畳の広さがあり、一般の方の応接間となる。

 

 

8面の襖絵は海北友松の筆による雲竜図で、安土桃山時代に描かれた。

 

 

上間ニの間(檀那の間)。  室中の西側の24畳の部屋で、檀家用の応接の間になる。 8枚の襖絵は山水図で安土桃山時代の海北友松によって描かれた。

 

 

 

 

 

 

方丈妻側(西側)全景。  

 

 

大雄苑の庭は白砂の波紋で方丈の三方を取り囲む。白砂に浮かぶ2つの石の島と1つの石の島。 何を表しているのか理解せぬまま・・・に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

方丈の背面側。

 

 

 

 

 

上間ニの間(衣鉢の間)。   背面側の西端の24畳の部屋で、師匠から弟子の法を説く部屋にあたる。 障壁画と6枚の襖絵は琴棋書画図で、これも安土桃山時代の海北友松の作である。

 

 

 

 

 

 

裏の間(西)。  方丈の背面にあり17.5畳に建仁寺の写真や書画が展示されている。

 

 

裏の間(東)  背面にあり10畳の広さ。「対馬行列輿」が展示されている。この輿は、江戸幕府の命によって対馬国(対馬藩)の以酊庵に派遣された禅僧が嘉永12年(1635)~慶応2年(1866)まで実際に使用したもの。

 

 

下間一の間(書院)。  方丈の背面東端の部屋で、住職が日常の生活の場として使用した。

 

 

障壁画および襖絵8面は、安土桃山時代に活躍した絵師海北友松の筆による花鳥図である。

 

 

 

 

 

納骨堂。 方丈の背面に対面し位置している。 白砂の波模様の庭を横切るように、踏み石を雁行させながら配置。

 

 

方丈の西北側には茶室への路地が続く。

 

 

三尺の大硯。 建仁寺に襖絵を残している田村宗立(1846-1918)の遺愛の硯。

 

茶室「東陽坊」。   天正15年(1587)に行われた北野大茶会の際に千利休の高弟・真如堂東陽坊長盛が好んだと伝えられる茶室。二畳台目下座床の席。構成・意匠ともに薮内家の燕庵に共通する点が多く見られる。明治25年(1892)に当寺境内に移され、大正年間(1912~1926)に現在地に移築。

 

 

 

 

茶室・清涼軒。

 

 

安国寺恵瓊の首塚。 安国寺恵瓊は、建仁寺の方丈移築や東福寺庫裏の再建などの功績を残している。関ケ原の合戦では西軍で参戦したが、敗退し、恵瓊は毛利家西軍荷担の罪で京都六条河原で斬首された。首塚は、恵瓊の首を建仁寺の僧侶が持ち帰り、ゆかりのある方丈裏に葬ったものである。

 

 

 

本坊から小書院に進む。

 

 

丸窓。 潮音庭に向かう廊下の途中に設けられている。 アングルがよろしくない(怒り)。

 

 

 

小書院の外縁。 右手小書院・船出の間、左手潮音庭。 

 

 

小書院・船出の間。 襖絵は平成26年(2014)に、「開山栄西禅師八百年大遠諱慶讃事業」として、染色画家の鳥羽美花氏によって描かれたもので、「舟出」という作品。鮮やかな色彩に目を奪われる。

 

 

 

ダイナミックな青の世界を表現した襖絵は、絹織物の白山紬を染め上げ襖に仕立てた。

 

 

船出の間から見た潮音庭。

 

 

小書院・凪の間。  船出の間の背面に位置した部屋で、襖絵は船出と同じ染色画家の鳥羽美花氏。

 

 

 

墨絵のようなモノトーンで月が山の端に沈む寸前の静けさを表現したという。

 

 

 

凪の間の床の間。禅宗の思想〇△▢の軸。 〇は水、△は火、▢は地を表した。

 

〇△▢の庭。  凪の間から見る中庭。 方丈と小書院の間に作られた坪庭。平成18年(2006)に、現在の日本を代表する作庭家・北山康夫氏が手掛けた庭。「〇△▢」という図形は、宇宙の根源的な形態を示し、全周の四大思想(地水火風)を、地(▢)水(〇)火(△)で象徴したものといわれる。〇は中央の苔山と砂紋、▢は井戸、△は白砂のエッジ部分で表現されている。

 

 

小書院・唐子の間。   廊下を挟み、小書院の西側に位置する10畳間。明治~大正時代に活躍した画僧・田村月樵(げっしょう)による『唐子遊戯図』が見られる。

 

 

襖絵に描かれた、湖上に浮かぶ小舟や月が描かれた床の間や、無邪気に遊ぶ子どもたちの楽しそうな表情が特に見どころ。

 

 

 

小書院から渡り廊下を進み大書院に。

 

 

潮音庭。 小書院と大書院の建物の間に作られた中庭。作庭家・北山康夫氏の監修のもとに、小堀泰嚴住職により作庭されたもの。

 

 

庭の中央に石が組まれ、その周りを紅葉の木が囲む。地表は苔で覆われている。中庭となっているため四方のどこから見ても正面になる。この中庭の中央に三尊石(3つの立石)、東に坐禅石があ配置されている。三尊石は、仏陀と2人の禅僧を象徴しているという。

 

 

 

大書院。 南側の潮音庭に面し畳敷きの廊下と外廊下が並ぶ。

 

 

大書院に掲げられている扁額。

 

 

 

書院造りの床の間を備えた部屋。

 

 

 

床の間に掲げられた軸。 達磨大師と不識の文字は細川護熙氏が描いたようだ。

 

建仁寺と縁の深い芸術家・細川護熙氏(第79代内閣総理大臣)による24面におよぶ襖絵が見られる。中国湖南省の景勝地である洞庭湖一帯の風景を描いた『瀟湘(しょうしょう)八景図』を水墨画で表現された。令和3年(2021)に、御開山御誕生880年を記念し手がけた襖二十四面が奉納された。

 

 

 

 

陀羅尼の鐘。    東鐘楼に吊るされている。修行僧が寝につく亥の刻(午後10時)過ぎ、観音慈救陀羅尼を一万返唱しながらつくことから、この名がある。 陀羅尼鐘は建仁寺開山・栄西禅師が在世の時に鴨川の七条の下流、釜ヶ淵に沈んでいたものを「えいさい」「ようさい」と栄西禅師の名を呼びながら引き上げたとの言われがある。

 

 

北門。

 

 

 

花見小路。 北門を出ると正面の通りは花見小路。 

 

 

花見小路には、紅殻格子に犬矢来という祇園情緒のあるお茶屋の家並みが続く。この建仁寺北門からの一帯がもっとも美しく、地面の石畳が周りの建物を引き立てて、風情あふれる景観になっている。

 

 

 

 

 

京都の本物の舞子さん。 建仁寺の帰り道、河原町駅のコンコースで京都府警のキャンペーンで舞子さんがキャンペーンガールを務めていたので、了解をもらい撮った写真。

 

 

 

案内図。

 

 

御朱印。

 

 

建仁寺 終了

 

(参考文献) 建仁寺HP フリー百科事典Wikipedia  ほか