『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

63 弘川寺

2023-12-06 | 大阪府

百寺巡礼第56番 弘川寺

西行と役行者を結ぶ山

 

 

 

観心寺の河内長野から同じ路線の富田林で下車。富田林駅前からは、日に数本しかない金剛バス(路線バス)で終点の弘川寺前まで20分強で到着。乗客は2人で途中1人下車し、ほぼ貸し切り。ところが、帰りは3時間後にしか便がなく、約1キロ先の住宅地のバス停まで歩いて乗ることになる。この地区の路線バスの金剛自動車は、12月20日ですべての路線バスを廃止するという。

弘川寺は、西行法師の終焉の地になるという寺である。天智天皇4年(665)役小角によって創建されたと伝えられ、天武天皇5年(676)にはこの寺で祈雨法が修せられて天武天皇から山寺号が与えられたという。平安時代の弘仁3年(812)に空海によって中興され文治4年(1188)には空寂が後鳥羽天皇の病気平癒を祈願し、天皇は回復した。その功によって奥の院として善成寺を建て寺号の勅額を賜わった。翌、文治5年(1189)には空寂を慕って歌人と知られる西行法師がこの寺を訪れ、この地で没している。

寛正4年(1463)に、河内守護・畠山政長が当寺に本陣を置いて、畠山義就が立てこもる獄山城を攻めたところ、逆に本陣である当寺を攻撃されて善成寺もろとも伽藍は焼失した。その後復興し、江戸時代に入り寛延年間(1747~1750)に歌僧・似雲がこの寺を訪れ、西行堂を建立している。

 

参拝日     令和5年(2023)3月2日(木) 天候曇り

 

所在地     大阪府南河内郡河南町弘川43                       山 号     竜池山                                  宗 派     真言宗醍醐派                               寺 格     準別格本山                                本 尊     薬師如来                                 創建年     伝・天智天皇4年(665)                         開 山     伝・役小角                                中 興     弘仁3年(812)                             中 興     空海                                   札所等     西国薬師四十九霊場第13番ほか                       文化財     木造空寂上人坐像、木造弘法大師坐像、木造扁額(大阪府指定重要文化財)

 

 

 

 

境内図。

バスの終点河内から弘川の小さな集落を少し歩けば、弘川寺の入り口に差し掛かる。

 

 

3月の初め、梅の花が真っ盛り。

 

 

参道を上る。平成元年(1989)には、西行法師800年遠忌を記念して弘川寺境内から続く山に約1000本の桜が植樹され、桜の名所となっている。

 

 

バス停から200mくらいで広川寺となる。

 

 

 

 

 

庫裡の前から参道を振り返る。

 

 

 

庫裡門。  本坊の入り口にあたる。

 

 

 

庫裡門の裏側を見る

 

 

本坊の堂宇。 庫裡にあたり当日改修工事中。

 

 

 

 

 

本坊の入り口。

 

 

本坊の庭。   本坊には立派な庭園があるが改修中で中に入れないので、弘川寺庭園は無し。

 

 

 

 

 

 

本坊と本坊の庭園は改装工事中により立ち入りができない状況で、西行記念館の見学もなし。

 

 

 

もみじ谷への通路。   もみじの林が見られる紅葉谷へ、通常は閉鎖。   

 

 

本堂に向かう。

 

 

 

 

 

 

弘川寺の案内説明板。

 

 

 

 

 

正面から見る境内。

 

本堂。   本堂は畠山氏の兵戦で寛正4年(1463)に焼失。それから500年経った後に再建されたものだそうだが、いつ建てられたのかが資料が見つからない。

 

 

他の資料にこの本堂は、京都から移築とあった(?) 入母屋造で唐破風の付いた気品のある向拝。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三鈷の松(さんこのまつ)。   鳥居の右側の松は、高野山にあることでも有名な、三つに分かれた葉が特徴の「三鈷の松」が見られる。 三鈷の松といえば、唐に仏教を学びに行った弘法大師が、修業を終え日本に帰国する際に真言密教の道場を開く場所はどこが良いのかを、占うために三鈷杵(さんこしょ)という密教法具の一つを日本に向けて投げ、それが高野山に生える松の木に引っかかっているのを見つけたことから高野山に道場を開くことにしたという。

 

隅屋桜(すやざくら)。    楼堂と護摩堂の前にある枝垂れ桜。「河内鑑名所記」や「河内名所図会」に「すや桜」や「規桜(ぶんまわしざくら)」という名称が登場し、南朝の忠臣で弘川城主であった隅屋与市正高が弘川寺にて奮戦し、規桜の下で討死したという記述があるという。規桜は絶えてしまったが「隅屋桜」は今もここに生きている。

 

 

 

御影堂の左側にたつ石造りの鳥居。その奥に小さな社、鎮守堂が建つ。

 

 

 

本堂から左に御影堂。右に護摩堂を見る。

 

 

護摩堂。  鐘楼の右に建つ堂宇。

 

 

 

御影堂。  弘法大師像を祀っている。

 

 

 

鐘楼。

 

 

西行堂。   延享元年(1744)に広島の歌僧似雲法師が建立した堂宇。当日は屋根が破損したらしく青いシートが屋根を覆っていた。

 

 

西行法師の墓のある境内には本堂の横の細い道を5分ほど登る。

 

 

西行法師の墓のある境内。 

 

西行法師の墓。   平安の末期、西行上人は私淑した座主の空寂上人を訪ねてこの寺に来られた。そしてこの寺に過ごし、文治6年(1190)2月16日に73歳をもって入寂(徳の高い僧侶が死ぬこと)された。  

 

 

 

 

似雲法師の墓。     江戸中期、享保17年(1732)広島の歌僧・似雲法師は、西行を慕い、その終焉の地を求めて、この地に西行の墓を尋ね当てた。その後、西行の墓の周りに1000本の桜を植え、そのなかに「花の庵」を建てて住み、西行堂を建て生涯を西行に捧げ、自らも81歳でここに没した。

 

西行法師の墳墓の傍に建つ歌碑。        金沢の歌人尾山篤二郎の揮毫による西行法師の『願わくは 花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ』が刻されている。 享保17年(1732)ここを訪れた似雲法師が、西行法師の墓を探し当て、西行を慰めるため、墓の周りに桜の木を1000本を植えたと伝えられる。

 

 

似雲法師の墓の近くにある安田章生の歌碑。『西行人のみたまつつむと春ごとに 花散りかゝる そのはかのうえ』

 

 

西行法師の墳墓の傍にある西行の歌碑で揮毫は佐々木信綱の筆。『仏には 桜の花を奉れ わが後の世を 人とぶらはば』 

 

 

 

弘川寺のある弘川地区集落を見る。

 

 

 

案内図。

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーーこうした物語やロマンが生まれてくるのも、西行という人がずっと日本人のあこがれの的だったからにほかならない。それはなぜか、ということを考えたときに、やはり西行の歌が思い浮かぶ。西行が詠んだのは、まず花である。それも、圧倒的に春の桜の歌が多い。桜の花をこよなく愛する愛する日本人が西行の歌を好むのは、当然ともいえる。それだけでなく、西行は月を愛で、旅を愛した。花、月、旅と並べてみると、それは日本人が愛するものにすべて重なっている。日本人が西行を愛するのはそのためだという意見もあるが、言われてみれば、たしかにその通りだという気もしないではない。それ以外に、西行の「自由人」としての側面にこころ惹かれる人も多いにちがいない。俗っぽい言いかたをすれば、彼は若いころに家庭を捨て、妻と子をおいて飄然と旅立ってしまった。そして、それから先の人生は、あちこちに庵を結んで、好きなように暮らし、自然を愛で、歌を詠んだ。そうした拘束や制約のない生活は、じつは、あらゆる人間にとってのあこがれかもしれない。西行が勝って気ままに生きた自由人だという点にも、たぶん日本人は共感を抱いたのではあるまいか。

 

 

御朱印。

 

 

 

弘川寺 終了

 

(参考文献)
  
五木寛之著「百寺巡礼」第六巻関西(講談社刊) 弘川寺HP フリー百科事典Wikipedia 

(ブログ)大阪再発見、ちょっと気になる大阪発史跡旅

コメント

62 観心寺

2023-12-04 | 大阪府

百寺巡礼第55番 観心寺

心惹かれる三人の足跡が残る寺

 

 

 

 

近鉄難波駅7時58分発の電車に乗り河内長野駅に8時31分。河内長野駅前から定期バスに乗って18分ほど観心寺の門前のバス停に到着。大阪の南東の端に位置する河内長野の山の中。9時10分に観心寺の門を潜る。今日も降雨の跡の曇り空。それでも3月初旬にしては寒くもなく、どことなく春をかんじる日。

観心寺は、文武天皇の大宝元年(701)、飛鳥時代の呪術者の役小角(えんのおずぬ)によって開かれた雲心寺という寺であった。その後、平安時代の初め大同三年(808)に弘法大師(空海)が当寺を訪ねられた時、境内に北斗七星を勧請され、弘仁六年(815) 衆生の除厄のために本尊如意輪観音菩薩を刻まれて寺号を観心寺とした。弘法大師は当寺を道興大師実恵に附属され、実恵は淳和天皇から伽藍建立を拝命して、その弟子真紹とともに天長四年(827年)より 造営工事に着手された。以後、当時は国家安泰と厄除の祈願寺として、また高野山と奈良・京都の中宿として発展する。

大楠公 楠木正成。 南北朝時代に活躍した武将。観心寺中院が菩提寺で8歳から15歳まで滝覚坊に仏教や学問を学び、河内長野市加賀田の大江時親に兵法を学んだといわれている。後醍醐天皇 の鎌倉幕府の討伐に加わり、赤坂城、千早城で奮戦して後醍醐天皇の勝利に貢献した。後醍醐天皇の建武政権では記録所寄人、 河内、和泉両国の守護などをつとめた。建武政権の崩壊後は足利尊氏と争うが、摂津の湊川の戦いで破れ戦死し、首級は京でさらされた後、菩提寺の観心寺に埋葬された。
楠木正成とその一族の、私利私欲よりも民や国を優先した生き方は、江戸時代に流行した太平記や日本外史に描かれて民衆に人気が広まった。江戸時代後期には日本で最も尊敬される人物となり、吉田松陰、坂本龍馬、西郷隆盛などに影響を与え、明治維新の原動力となる。明治期には各地で神社が建てられ、皇居外苑には銅像が建てられている。

後醍醐天皇は当寺を厚く信任し、建武新政後(1334頃)、楠木正成を奉行として金堂外陣造営の勅を出され、 現在の金堂ができた。正成自身も報恩のため三重塔建立を誓願。延元元年(1336)、神戸の湊川で討死後、正成の首級が 当寺に送り届けられ、首塚として祀られている。

 その後、当寺は足利、織田、徳川にそれぞれ圧迫を受け、最盛期五十余坊あった塔頭も現在わずか二坊になっているが、境内は 史跡として、自然に恵まれた環境の中で、山岳寺院の景観を保持している。

 

参拝日    令和5年(2023)3月 2日(木) 天候曇り

 

所在地    大阪府河内長野市寺元475                         山 号    檜尾山                                   宗 派    高野山真言宗                                寺 格    遺跡本山                                  本 尊    如意輪観音(国宝)                             創建年    天長2年(825)または天長4年(827)                    開 基    伝・役小角                                 正式名    檜尾山観心寺                                別 称    檜尾山  河内観心寺  檜尾寺                       札所等    西国三十三箇所客番ほか                            文化財    金堂、木造如意輪観音坐像、観心寺縁起資財帳(国宝)  

 

 

 

境内図。

 

 

 

門前の前の梅の花。  関西花の寺第25番がこの観心寺。

 

 

史跡観心寺境内の石柱。

 

 

 

 

 

山門(大門)【大阪府指定有形文化財】    万治2年(1659)に再建。一間一戸、四脚門、切妻、本瓦葺き。

 

 

遺跡本山の扁額。  虹梁中備えは出三斗。木鼻は拳鼻。軒裏は一重まばら垂木。

 

 

門を潜り、受付け所から本堂方向を見る。

 

 

山門を振り返り背面を見る。

 

 

梅林も花盛り。

 

 

鎮守堂拝殿【大阪府指定有形文化財】    延享元年(1744)に再建。参道の右手に位置する。

 

 

堂宇は桁行6間・梁間2間。入母屋、本瓦葺。

 

 

参道右手に手水舎。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

訶梨帝母天堂(鎮守堂) 【国重要文化財】   天文18年(1549)に再建された。訶梨帝母(かりていぼ)は鬼子母神の別名。

 

 

母屋柱は丸柱。虹梁中備えは板蟇股。 間柱と丸柱の間、まぐさの上に彫刻模様が取り付けられている。かなり褪せているが木部及び造作物には色彩されていたと思われる。

 

 

向拝柱は角面取り。柱上の組物は連三斗と出三斗を左右に連結したような形状のもの。柱の側面には象鼻。巻斗が上に載り、持ち送り組み物にしている。

 

 

本堂に向かう。

 

 

本堂の前の境内。

 

 

本堂から山門方向を見る。

 

 

 

 

金堂【国宝】         南北朝時代、正平年間(1346~1370)の建立。桁行七間、梁間七間、入母屋造、本瓦葺き。和様と禅宗様の要素が混淆した折衷様仏堂の代表例。朱塗の柱に白い漆喰壁の外観は和様の要素であるが、扉は禅宗様の桟唐戸を用いる。堂正面は七間のうち中央五間を桟唐戸、両端の各一間を和様の連子窓。

 

 

堂正面は七間のうち中央五間を桟唐戸、両端の各一間を和様の連子窓とする。

 

 

和様では頭貫(かしらぬき)以外の貫(柱を貫通する水平材)を用いず、長押(柱の外側から打ち付ける水平材)を多用するが、この堂では頭貫以外に飛貫(ひぬき)、足固貫を用いている。

 

 

正面の向拝は3間。

 

 

堂内は手前二間通りを外陣とする。その奥は中央の五間×四間を内陣、その両脇一間通りを脇陣、背後の梁間一間分を後陣とする。

 

 

 

 

 

内陣はその奥の三間×一間を内々陣として須弥壇を構え、厨子内に本尊如意輪観音像を安置する。須弥壇の手前左右には曼荼羅壁を設け、それぞれに両界曼荼羅を描く

 

 

 

 

建掛塔【国重要文化財】   文亀2年(1502)に再建。もともとあった堂は楠木正成が三重塔を建立しようと建築に着工したところ討死してしまい、一重目を造り終えたところで工事が中止され、仏堂に改築されたもの。焼失後、同じような形式で再建された。

 

 

 

 

たしかにここだけ見ると、三重塔のそのものの造りだ。木組みは、軸部は長押と頭貫で固定され、木鼻は使われてなく、純粋な和様の造りとなっている。組物は尾垂木三手先。中備えは間斗束。桁のあいだをふさぐ部材がないため、隙間から母屋の小屋組が見える。

 

 

 

 

星塚。     金堂をとりまく7つの星塚(北斗七星)があり、その一つの破軍星(午)。弘法大師が厄除けのために本尊と一緒に祀ったもの。この星塚を一巡することで、その年の厄払いになるといわれている。 ほかに、貪狼星(子)、巨門星(丑)、禄存星(寅亥)、文曲星(卯酉)、廉貞星(辰申)、武曲星(巳未)、があり、北斗七星如意輪曼荼羅となっている。

 

 

御影堂【大阪府指定有形文化財】 堂宇は江戸中期に再建されたもの。桁行3間・梁間3間、宝形、向拝1間、桟瓦葺。

 

 

開山堂(本願堂) 【大阪府指定有形文化財】  正保3年(1646)に再建された。

 

 

開山堂の隣に楠木正成の首塚があるが、撮り忘れたようだ。

 

 

正面は3間。中央は2つ折れの桟唐戸、ほかの柱間は舞良戸。

 

 

阿弥陀堂。 弁天堂に東側に位置する。 桁行3間・梁間3間、宝形、本瓦葺。

 

 

鐘堂。  台形の石積みの上に乗り、その形状に合わせ下層が袴腰になっている。

 

 

辨天堂。

 

 

恩賜講堂への参道には白梅、紅梅が今が盛りと咲いていた。

 

 

 

 

 

恩賜講堂【国重要文化財】   昭和5年(1030)に移築・改造。昭和天皇即位大典のために京都御苑内に建てられた大饗宴場の一部を移築・改造したもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

霊宝館。   金堂に向かって左手の恩賜講堂への参道の手前に位置する。本尊の如意輪観音像の「お前立ち」としてつくられたとされる如意輪観音坐像(国重要文化財)をはじめ、地蔵菩薩、聖観音、十一面観音など仏像(いずれも国重要文化財)を拝観できる。ほかに三筆の一人の嵯峨天皇筆の「観心寺」の額など、観心寺は所有する数々の文化財が見られる。

 

 

 

内部。

 

 

 

重要文化財に指定された数々の仏像。

 

 

 

楠木正成公の鎧。

 

 

 

 

後村上天皇御旧跡。    後醍醐天皇の第9皇子であった後村上天皇(1326~1368)は、1359年南朝2代目の天皇としてこの地に約10か月滞在し政務を見ていた。ということは、観心寺は皇居あったといえる。後村上天皇は、ゆかりの深いこの寺の東側の山中に埋葬されたため、観心寺の境内には宮内庁が管理する御陵(後村上天皇檜尾陵)があるのだが、見ていなかった。

 

 

帰りの風景、山門側を見る。 楠木正成、後村上天皇にゆかりの歴史ある寺であるが、その関係する施設をよく見ることも無く帰ることになってしまった。・・・・バスの時刻に追われての寺巡りの結果かな。

 

 

楠木正成銅像。

 

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」からーーーこうして[建掛堂」の前に建って眺めていると、楠木正成が実在の人物だったということが、急に胸に迫って感じられてくる。この寺で十五歳まで学問をした正成は、湊川の合戦で亡くなったときは四十三歳だったという。もしも、彼がなにかのきっかけで仏道に進もうと考え、そのまま観心寺で出家して僧侶になっていたら、日本の歴史はどう変わっていただろうか。小説家として、ついそんなことを想像してしまった。ふり返ってみると、この楠木正成ほど歴史のなかで評価がくるくる変わった人物はいないような気もする。南北朝の争乱ののちに足利氏が天下を取ると、正成は逆賊とされた。江戸時代になって再評価がはじまり、明治維新のときには、正成の思想が志士たちの精神的支柱となる。さらに日中戦争、太平洋戦争とつづく昭和の時代は、「天皇陛下のため、国のために身を捧げた」理想的な日本人として顕彰されることになる。正成のことを思い出してこの苦しい戦争を戦い抜こう、というわけだ。そして、終戦後は、打って変わって忘れられたようになっている。楠木正成本人の意志とはまったく関係なく、時代がイメージをつくっていったのである。そう考えると、人間の人生というものも、一編の”物語”にすぎないのだという気がしないでもない。

 

 

 

 

 

 

御朱印

 

 

 

 

観心寺 終了

 

(参考文献)
  
五木寛之著「百寺巡礼」第六巻関西(講談社刊) 観心寺HP フリー百科事典Wikipedia 

ブログ甲信寺社宝鑑

 

 

 

コメント

44 四天王寺

2023-10-17 | 大阪府

百寺巡礼第60番 四天王寺

 

すべてを包み込む「和宗」の祈り

 

四天王寺は、大阪の中心部に3万3千坪という広大な敷地をもつ寺である。大阪に関する文献をひもとくと、むかしから、大阪を訪れた観光客が必ず立ち寄ったのが、この四天王寺と住吉大社だったことがわかる。

四天王寺は蘇我馬子の現在の飛鳥寺と並び、日本における本格的な仏教寺院としては最古のものである。 『日本書記』によれば、今から1400年以上も前の推古天皇元年(593)に造立が始まったという。物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫り、「この戦いに勝利したら四天王を安置する寺院を建立し、この世の全ての人々を救済する」と誓いをたて祈願した。戦いは勝利となり、その誓いを果すために、寺院の建立をした。聖徳太子の草創を伝える寺は近畿地方に多数あるが、実際に太子が創建に関わったと考えられるのは四天王寺と法隆寺のみで、その他は「太子ゆかりの寺」とするのが妥当である。

日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、昭和21年(1946)に「和宗」の総本山として独立している。

 

参拝日       令和元年(2019)5月16日(木) 天候晴れ
 
所 在       大阪府大阪市天王寺区四天王寺1-11-18
山 号       荒陵山
宗 旨       天台宗                                  宗 派       和宗                                   寺 格       総本山
本 尊       救世観音菩薩  
創建年       推古天皇元年(593)   
開 基       聖徳太子                                 正式名       荒陵山金光明四天王大護国寺  
別 称       荒陵山、難波大寺、御津寺、堀江寺   札所等 新西国三十三個所第1番ほか  文化財          紙本著色扇面法華経冊子5帖ほか(国宝)六時堂・絹本著色両界曼
                          荼羅図ほか(重要文化財)ほか八角亭(登録有形文化財)

 

 

 

境内図

 

 

 

伽藍配置は「四天王寺式伽藍配置」といわれる独特なもの。南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む形式で、日本では最も古い建築様式の一つ。その源流は中国や朝鮮半島に見られ、6~7世紀の大陸の様式を今日に伝える貴重な建築様式とされている。

 

 

西側の極楽門のある門前の街並み。

 

 

石鳥居【国重要文化財】 鎌倉時代後期 永仁2年(1294)の建立。花崗岩で高さ8.5m。一般の鳥居と比べると高さが低く柱が太いためがっしりとした感じ。当初は柱のみだったが室町~江戸時代に改修された。寺に鳥居があるのは神仏が習合していたころの名残。 

 

 

 

扁額は「釈迦如来 転法輪処 当極楽士 東門中心」と書かれている。

 

 

 

極楽門の参道。

 

 

参道を振り返る。

 

 

西大門(極楽門)。 昭和37年(1962)に松下幸之助氏の寄進により再建。この門は極楽の入口とされており、この場所で西に落ちる夕日に顔を向けながら日想観が行われる。

 

 

 

 

 

西大門は極楽に通じる門との意味から、再建後は通称を極楽門と呼ばれている。門の四ヶ所の柱にコマ状の車輪が付いていて、門を潜る時に回して念じると心の迷いが消えて清浄になるといわれる。

 

 

西大門を振り返る。

 

 

西大門を潜ると、回廊に囲まれて金堂、五重塔、講堂のある四天王寺のメインの中心伽藍に出会う。

 

 

回廊の外から見た五重塔。

 

 

 

中心伽藍への入り口となる西重門。 

 

 

西重門から西大門を見る。

 

 

西重門を振り返る。

 

 

中心伽藍は回廊で囲まれ、東西南それぞれ門が設けられているが、一般参拝の入り口は西重門だけとなる。

 

 

回廊の様子。

 

 

中心伽藍は南から北へ仁王門となる中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に配置し、中門の左右から出た回廊が講堂の左右に達する「四天王寺式伽藍配置」を踏襲したもの。回廊から見た五重塔と金堂。

 

 

中心伽藍は、第二次世界大戦後に再建され、昭和38年(1963)に落慶法要が営まれた鉄筋コンクリート造建築。創建当時(6世紀末)の様式に近い形で再建された。

 

 

五重塔  昭和54年(1989)に再建された8代目の塔となる。

 

 

建物の高さは約37m。内部は6層建て。

 

 

 

 

 

 

 

 

金堂。   昭和36年(1961)に再建。入母屋造で屋根は上下二重とする。中門、講堂と同様、錣葺とし、鴟尾を乗せる。外観は法隆寺金堂に似るが、裳階を付さない点が異なっている。札所となっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

周囲の壁面には中村岳稜筆の「仏伝図」の壁画がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

内部には中央に本尊救世観音(ぐぜかんのんぼさつ)像、向かって左に舎利塔、右に六重塔を安置し、仏壇周囲に四天王像が立つ。。基壇下には青竜池があるという。

 

 

 

 

 

 

四天王寺から見た当時、日本一高いビルあべのハルカス。

 

 

講堂  入母屋造単層。堂内西側を「夏堂」、東側を「冬堂」と称し、それぞれ阿弥陀如来坐像、十一面観音立像を本尊とする。周囲の壁に郷倉千靭筆の「仏教東漸」の壁画がある。

 

 

東重門方向を見る。

 

 

 

中門(仁王門)  大日本相撲協会による寄進。門の正面左右には松久朋琳・宗琳作で日本相撲協会東西会が寄進した金剛力士像を安置することから仁王門とも呼ぶ。

 

 

入母屋造単層で、屋根は段差を付けて瓦を葺く「錣葺」(しころぶき)とし、棟上に鴟尾(しび)を乗せる。

 

 

仁王像  仁王像の大きさは奈良・東大寺南大門仁王像に次ぐものである。

 

 

仁王門から五重塔を見る。仁王門・五重塔・金堂・講堂が一直線に建っているのが特徴。

 

 

東重門。

 

 

回廊の外側。

 

 

回廊の外側から五重塔を見る。

 

 

回廊の外の様子を見る。

 

 

境内から高さ日本一のビルあべのハルカス。

 

北鐘堂  北の引導鐘・鐘つき堂とも呼ばれ、正式には黄鐘楼という。鐘の音は遠く極楽までも響くといわれ、春秋の彼岸には先祖供養のための鐘の音が絶えないという。吉田兼好は『徒然草』で「六時堂前の鐘の音は黄鐘調と一致する・・・黄鐘調は祇園精舎の無常院の音・・・」と伝えている。

 

 

南鐘堂(鯨鐘楼)。   太子引導鐘堂ともいう。昭和30年(1955)建立。

 

 

亀井不動尊。  昭和30年(1955)に再建。創建は推古天皇元年(593)である。

 

 

亀井堂の霊水は金堂の地下より湧きでる白石玉出の水。供養を済ませた経木を流せば極楽往生が叶うという。

 

 

本坊通用門。 境内の北東を占める広い寺務所区域本坊の通用門。一般人は通行できない。黒瓦の大屋根に覆われた唐門で堂々と建ち格式がある。

 

 

義経のよろい掛け松。

 

 

境内で一番大きな木。くすのき。

 

 

六時礼賛堂【国重要文化財)   境内中央に位置する雄大な堂宇。昼夜6回にわたって諸礼讃をするところから六時礼讃堂の名がついた。

 

 

薬師如来・四天王等を祀っている。回向(供養)、納骨等を行う天王寺の中心道場。入口には賓頭盧尊者像やおもかる地蔵が祀られ、独特の信仰を集めている。

 

 

 

 

大黒堂  六時礼賛堂の前から中の門の参道道沿いに建つ。 本尊は一体の像に大黒天、毘沙門天、弁才天の顔を持つ“三面大黒天”。この姿からして福の神トリオの仏様は、子孫繁栄・福徳智慧・商売繁盛などにご利益があるとされる。毎甲子(きのえね)が縁日として賑わいう。

 

 

英霊堂。 明治39年(1906)に建立された。建立時は大釣鐘堂と呼ばれ、当時世界一大きい大梵鐘が釣られていた。鐘は第二次大戦で供出され、その縁により戦没英霊を奉祀する英霊堂と改名。

 

 

中の門からの参道。

 

 

地蔵山。  全国各地から集まったお地蔵が祀られている。

 

中ノ門。    西に面して中央北寄りに建つ。東に進むと本坊に至る重要な参道にひらく門であった。堂々たる規模と外観の四脚門であり、木割も太く面取りも大きく、古式である。

 

 

阿弥陀堂。 南大門の方角にある堂宇。昭和28年(1953)に四天王寺末寺の三重県国束寺(くずかじ)の本堂を移築したもの。

 

 

長持形石棺蓋。 現在の茶臼山付近から出土したもの。いつの頃からか四天王寺境内に移された。明治時代になって「古墳時代の石棺の蓋」であることが判明した。現在は、安産祈願の石になっている。

 

 

南大門の境内側から見る。

 

 

 

 

 

南大門。 

 

 

 

令和の年号になってすぐの5月に参拝した。四天王寺でも新天皇即位のお祝いの記帳、特製金紙の御朱印を賜っているとのこと。写真を撮っていても、御朱印の件は気が付かなかった。

 

 

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」からーーー聖徳太子は、ある意味で伝説化されていて、実像がつかみにくい。それは、太子があまりに多くの面で業績を残したからでもあるのだろう。この四天王寺では、太子は「四箇院制度」を取り入れて、寺の伽藍に、施薬院、療病院、悲田院、敬田院という四つの施設を設けたといわれる。施薬院では、まなはい薬草を栽培して人びとに分かち与えた。療病院では、男女問わずにあらゆる病人を入院させた。悲田院では、貧しくて身寄りのない人びとを住まわせて、元気になれば四箇院のどこかで働いてもらうことにした。そして、敬田院では、人びとを悪の道から救い、悟りの境地にいたらしめるための修行道場だった。それぞれいまでいうならば、薬局、病院、老人ホーム、寺院にあたるだろう。福祉問題、医療問題、そして老人問題に教育問題。どれをとっても、いまの日本人が直面している大きな問題である。そうした問題に対して、聖徳太子はすでにさまざな配慮をしていた。言い換えれば、千四百年前の思想に、すでに現代に通じる大きなものがあった。ということになる。

 

 

御朱印

 

 

四天王寺 終了

 

(参考文献)  
五木寛之著「百寺巡礼」第六巻 関西(講談社刊) 四天王寺HP  フリー百科事典Wikipedia  
 

 

コメント

43 大念仏寺

2023-10-15 | 大阪府

百寺巡礼第58番 大念仏寺

衆生のもとに歩みよる本尊

 

 

日本最初の念仏道場である。比叡山延暦寺の天台宗僧・良忍が、大治2年(1127)に鳥羽上皇の勅願により開創した。当時の摂津国住吉郡平野庄(現・大阪市平野区)の領主の平野殿・坂上広野の私邸内に建立した融通念仏の道場の菩提所である修楽寺別院が前身。

第6世・良鎮が寿永元年(1182)に亡くなると、寺勢は振るわなくなった。元享元年(1321)に、139年ぶりに第7世として法明が就き大念仏宗(融通念仏宗)を再興すると、現在でも行われている法要行事「万部おねり」を始める。元和元年(1615)に、平野庄の代官・末吉孫左衛門より寺地を寄進され堂宇を構え現在に至る。元禄16年(1703)大念仏宗の名称を融通念仏宗に改めた。以後、大念仏寺は融通念仏宗の本山となった。境内地は約7300坪(2300㎡)に30余りの堂宇があり、本堂は大阪府下最大の木造建築物である。

 

参拝日    令和元年(2019)5月17日(金) 天候晴れ

 

所在地    大阪府大阪市平野区平野上町1-7                      山 号    大源山                                    院 号    諸仏護念院                                 宗 派    融通念仏宗                                 寺 格    本山                                       本 尊    十一尊天得如来                               創建年    大治2年(1127)                              開 山    良忍                                    開 基    鳥羽上皇(勅願)                              正式名    諸仏護念院大源山大念仏寺                            札所等    河内西国霊場特別客番                            文化財    毛詩鄭箋残巻 1巻(国宝)

 

 

大阪ミナミのターミナルJR天王寺駅から関西本線の電車で東に5分くらいで平野駅に着く。平野駅のある平野区は大阪市の東南部に位置し、人口は市内で第1位、区域面積は市内で第3位になる。比較的新しい町並みの中に農地や遺跡が存在し、中央部の平野地域は古い家々と多数の神社・仏閣が存在する町並みである。大念仏寺のある平野区平野にある「平野中央通商店街」周辺は、今もなお昔ながらの町並みを残している。その特性を活かした活動の一環として「平野・町ぐるみ博物館」がある。
 こちらは昔ながらの建物や寺社など町並み全体を博物館としており、平野区の歴史や文化に触れることができる。博物館は全部で15箇所ある。

 

 



JR平野駅。

 

 

平野駅前の様子。

 

 

平野駅から徒歩で5~6分。境内の周りは築地塀。

 

 

大念仏寺の入り口。

 

 

短い参道にある句碑『春風や 巡礼どもが 練供養』。寛政7年(1795)3月27日に、この寺に参拝した小林一茶の句。練供養とは万部法会のことだという。

 

 

境内図。

 

 

 

山門の前から参道を見る。

 

山門。  宝永3年(1706)、第四十六世法主大通上人の建立による。棟行二間(3.6m)、梁行九尺(2.7m)、両脇に七尺(2.1m)の壁落ち屋根を付けている。平成15年(2003)に大修理を施した。門、扁額、棟札の三点が大阪市の有形文化財に指定されている。

 

 

「大源山」の扁額は、後西天皇の皇女で京都宝鏡寺の本覚院の宮徳厳尼の真筆による。

 

潜った門を振り返る。大通上人はこの門を融通無碍門と命名し、人種、年齢、性別、職業の違いを越えて、お互いが心で融け合い、喜びと感謝があふれる仏国土を築き上げていくという融通念仏の功徳を称揚した。

 

 

菊の御紋がある木製の門扉。

 

 

手水舎。

 

 

金剛六角灯籠   頂部に火焔型の宝珠をつけ重厚な灯籠。

 

本堂【大阪市指定有形文化財】   本堂は寛文7年(1667)に創建されたが、明治31年に焼失。しばらくして昭和13年(1938)に竣工した総欅造り銅板葺。棟行39.1m、梁行49.8mの大阪府下最大の木造建築である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

扁額は「諸仏護念院」と書かれ院号である。

 

 

向拝を見る。

 

 

白で塗られた木組みの小口。

 

 

賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)。 本堂の回廊に設けられた撫で仏。我が身の悪い所と同じ所を触ることで、悪い所を治すことが出来ると信じられている仏。

 

 

外陣いっぱいに吊り下げられた大数珠は明治36年に再製したもので、約1200顆(か)の欅材からできており、一つ一つの珠に名号と施主名、回向の戒名が陰刻されている、百万遍大数珠繰り法要に使用するものである。

 

堂内には正面宮殿に本尊十一尊天得阿弥陀如来を安置。その両脇に岡倉天心の高弟、名仏師新納忠之介作の多聞天王、八幡大士の極彩色の木造が立ち、左右の宮殿に宗祖聖應大師(良忍上人)、中祖法明上人の木造を安置している。また左右余間に再興大通上人の椅像と、建立願主舜空上人の木造を安置している。

 

 

回廊から山門と境内を見る。

 

 

本堂を横から見る。 整然と並んだ束柱は回廊を支える。

 

 

銅板葺きの屋根が素晴らしい。

 

 

妻側。

 

 

 

 

 

境内を見る。

 

 

円通殿(観音堂)   伝教大師作と伝えられる聖観音立像を祀り、左右には大通上人が募った日月祠堂位牌を安置。平成元年改修復元。

 

 

扁額「円通殿」は大通上人直筆。

 

 

伝教大師作と伝えられる聖観音立像。

 

 

地蔵堂  弘化元年(1844)、第子十二世教彌上人が再建した。本尊は蓮台に乗る等身大の木造である。

 

 

経堂    第46世の大通上人の創建で、元禄年間の建築。白壁の外観で、堂の中心には回転させる構造の経箱が置かれている。

 

 

鐘楼。  平成30年(2018)に改修された入母屋造りの屋根を付けた優美な建物。

 

 

鐘は文化3年(1806)に改鋳された名鐘。従一位右大臣藤原家孝公の銘文がある。

 

 

霊明殿の隣に位置する龍王殿。前にはお百度石が建ち、廻りは石畳で囲む。

 

 

百度石。

 

霊明殿。  正門、回廊、奉安所、修法堂からなる。創建は保元元年(1156)、第三世明應上人のときと伝える。良忍上人の念仏勧進を助け、自らも融通念仏に深く帰依された鳥羽上皇の霊牌と御真影を祀るために建てられた。

 

その後、寛永年中(1624~1643)、第三十八世法覚上人は徳川家康公を合祀するため、権現造りの社殿を再建した。それ以降ここを「権現さま」「お宮」と称した。

 

今日まで修理を繰り返し正門と回廊は江戸時代の遺構を残しているが、奉安所と修法堂は明治25年頃火災で焼失し、その後昭和5年に旧形のまま建て替えられた。

 

 

客殿 瑞祥閣  大念仏寺の塔頭で、葬式や法要などが可能な百畳敷きの書院がある。

 

 

玄関。

 

 

 

 

 

南門。元古河藩陣屋門で、明治の廃藩後、平野小学校表門として昭和2年まで使用。昭和37年移築したもの。

 

 

境内から見た山門。

 

 

本堂前の境内全景。

 

万部おねり   「二十五菩薩聖衆来迎阿弥陀経万部法要」とよばれる大念仏寺の最大の法要行事で毎年5月1日から5日までおこなわれる。

これは、極楽浄土からの来迎の場面を再現したもので、本堂外側に設けられた橋の上を、二十五の菩薩に扮した人々や、本尊の十一尊天得如来の絵軸などが渡っていく。浄土とされる本堂の中では、雅楽が演奏され、菩薩が喧嘩する。この日は門前に様々な出店が並び、大勢の見物客が集まって賑わうらしい。(五木寛之著「百時巡礼」第六巻関西より)

 

 

                                写真はYouTubeより

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー融通念仏宗の大きな特徴といえるのが、「御回在」というユニークな儀式である。総本山と末寺、さらに総本山と末寺の檀信徒とが直接結びついている儀式というのは、他の宗派ではめったに見られないめずらしいものだろう。ふつうは寺のほうから檀信徒に対して、「お参りしてください」という呼びかけをする。そして、檀信徒が寺へ足を運んで本尊を参拝する。ところが、この御回在というのは、総本山の方から本尊を持って、それぞれの檀信徒の家へ出かけていくのである。”中略” 御回在は、「出向いていく」というところに大きな特徴がある。蓮如も、つねに念仏をもって庶民のなかへはいっていくことを教えた人だった。また、阿弥陀如来の「如来」というのは、「真如より来れる人」のことである。すなわち、「如来」には「真理の世界から衆生救済のために来た人」という意味もある。つまり、檀信徒が出かけて行って本尊の前にひれ伏すのではなく、本尊のほうから出向いて行き、衆生に働きかける。向こうから訪れてきて、肩に手をかけて呼びかける。そういう大乗、仏教の精神のようなものが、この融通念仏のなかに流れているのだろう。さらに、御回在では先祖の御威光を願い、その家の願いが成就するように祈る。庶民が願う現世利益というものに、ためらうことなく応えてる。その点でやはり、融通念仏宗は日本独自の市井の宗務であり、庶民の生活と密着した信仰であるといえそうだ。

 

 

 

 

 

御朱印

 

 

大念仏寺 終了

 

(参考文献)                                        大念仏寺HP フリー百科事典Wikipedia  五木寛之著「百寺巡礼」第六巻関西(講談社刊)

コメント