『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

60 飛鳥寺

2023-11-30 | 奈良県

百寺巡礼第8番 飛鳥寺

 

日本で最初の宗教戦争の舞台裏

 

 

 

今年になって3回目の関西めぐりである。 全国旅行支援にお世話になり、いい機会と思い集中的に関西の名刹を巡ることとした。今回の飛鳥寺で、五木寛之著「百寺巡礼」第一巻奈良(講談社刊)に掲載された10寺は、すべて参拝をし終えることができた。

こんなに小さな寺なのか、というのが最初の印象だった。時代は千四百年前にさかのぼる。日本がようやく統一国家に向けて歩みだしたころ、ここ飛鳥の地に、本格的な仏教寺院がはじめて建立された。創建当時は、「法興寺」という名前の寺で、現在の二十倍の寺域の壮麗な寺だったらしい。その法興寺の後身が飛鳥寺(安居院)である。しかし、その後この寺はさびれていく。伽藍はなんどかの火災や落雷によって失われた。江戸時代後期にようやく小さな堂宇が再建され、今はその中に日本最古の仏像が残るのみだという。なにかこみ上げてくる感慨があった。(五木寛之著「百寺巡礼」第一巻奈良より)。

現在の飛鳥寺の正式名は安居院という。開基(創立者)は蘇我馬子で、蘇我氏の氏寺として6世紀末から7世紀初頭にかけて造営されたもので、本格的な伽藍を備えた日本最初の仏教寺院である。『日本書紀』によると、法興寺(飛鳥寺)は用明天皇2年(587)に蘇我馬子が建立を発願したものである。馬子は排仏派の物部守屋対立していた。馬子は守屋との戦いに際して勝利を祈念し、「諸天と大神王の奉為(おほみため)に寺塔(てら)を起立(た)てて、三宝を流通(つた)へむ」と誓願し、飛鳥の地に寺を建てることにしたという。飛鳥寺の伽藍については、昭和31年(1956)から2年かけた発掘調査の結果、中心が五重塔で、塔を囲んで中金堂、東金堂、西金堂が建つ一塔三金堂式の伽藍であることが確認された。

 

霊亀2年(716)に都が平城京へ移るとともに飛鳥寺も現在の奈良に移転し元興寺(当ブログNO37参照)となった。

以降あまりの歴史は定かではない。『元興寺安居院縁起』には、江戸時代の寛永9年(1632)に、現在の橿原市(今井)の篤志家によって仮堂が建てられ、ついで天和元年(1681)に僧・秀意が草庵をつくり安居院と号し、傷んだ釈迦如来像を補修したとある。江戸時代中期の学者・本居宣長の『菅笠日記』には、彼が明和9年(1772)に飛鳥を訪ねた時の様子が書かれているが、当時の飛鳥寺は「門などもなく」「かりそめなる堂」に本尊釈迦如来像が安置されるのみだったという。しかし、近世中頃から名所記や地誌に名が挙げられ、延享2年(1745)には梵鐘を鋳造(昭和に軍に供出され現存せず)、寛政4年(1792)に参道入口に立つ「飛鳥大仏」の石碑、文政9年(1826)に大阪の篤志家の援助で現本堂の再建など法灯を守る努力が重ねられてきた

 

参拝日    令和5年(2023)3月24日(金) 天候曇り

 

所在地    奈良県高市郡明日香村飛鳥682                       山 号    鳥形山                                    宗 派    真言宗豊山派                                本 尊    釈迦如来(飛鳥大仏)(国重要文化財)                    創建年    6世紀ごろ                                 開 基    蘇我馬子                                  正式名    鳥形山安居院                                別 称    法興寺 元興寺                               札所等    新西国三十三箇所第9番 ほか                        文化財    銅造釈迦如来坐像(国重要文化財)、飛鳥寺跡(国の史跡)

 

 

飛鳥大仏前バス停付近。 橿原駅前からバスに乗りここで下車。

 

 

バス停付近から見た飛鳥寺と、後の小高い山は国営飛鳥歴史公園。

 

 

山門。 右に潜り戸のある切妻本瓦の門。 飛鳥大仏の石碑は、寛政4年(1792)に建てられた。法興寺が創建された際の礎石が台石として使用されている。

 

 

平成20年(2008)に飛鳥大仏開眼1400年目の立て札。

 

 

境内に入り山門を見る。

 

 

境内の様子。

 

 

塀の手前には焼失した塔の礎石が残されている。

 

 

万葉池。

 

 

本堂。       寄棟造本瓦葺で、正面に向拝のない簡素な造り。

 

 

虹梁中備の蟇股。連子窓や格子張りの板唐戸は和様式。

 

 

本堂前に並ぶ3個の礎石は日本最初の金堂のものが残されている。

 

 

本堂への入り口。

 

 

本堂の内部。

 

 

 大仏の右隣りに阿弥陀如来坐像(木造、藤原時代)。 

 

 

釈迦如来坐像【国重要文化財】。 609年、当代一流の仏師であった仏師・鞍作鳥(くらつくりのとり)によって造られた日本最古の仏像である。ただし、平安・鎌倉時代の火災で全身罹災し、罹災した部分の補修がされ、現在は、顔面や右手の中指・薬指・人差指などだけが残されている。  

 

像高272cmで、制作時造像に銅15t、黄金30kgが使われた。仏像は、一般的に、立像の場合は一丈六尺(4.8m)で丈六と呼び、坐像の場合は八尺(2.5m)以上の仏像のことを「大仏」と呼ぶ。飛鳥寺の丈六仏は像高が272㎝の坐像で八尺を超えているので「飛鳥大仏」と呼ぶようになった。

 

 

正面から見ると、少々不格好な仏像に見えるので角度を変えて撮ってみた。また、正面からの顔が少し斜め向きなのは、聖徳太子が誕生したと言われる橘寺の方を向いているからといわれる。 

 

 

聖徳太子孝養像(木造 室町時代)。     大仏の左側に安置され、聖徳太子が十六才のとき、父用明天皇の病気回復を祈願されている姿といわれる。

 

 

 

 

 

本堂内部の蟇股。

 

 

胎蔵界曼荼羅。    大日如来を中央に描く蓮の花を中心に、同心円状に院を配した曼荼羅で、大日如来の慈悲が放射状に伝わり、教えが実践されていくさまを表している。

 

 

 

中庭越しに見る右・本堂、左・庫裡。

創建当時の瓦。『日本書紀』や『元興寺資材帳』からは、崇峻天皇元年(588)、百済から四種の技術分野の八名の技術者が渡来したことが知られる。彼らが渡来してから建築用材調達が行われる同三年(591)までに造営技術者や工人の養育養成が行われ、造瓦分野においては須恵器の青海波紋作りに用いる当て道具の使用痕跡が認められることから、須恵器作りの工人が動員されていると考えられている

 

 

これはなに?

 

 

思惟殿。    新西国三十三箇所第9番札所で聖観音を祀る。

 

 

 

 

 

脇の軒下には絵馬。

 

 

鐘楼。

 

 

西門。

 

 

西門方向から飛鳥寺を見る。

 

蘇我入鹿の首塚。    飛鳥寺の境内を西に抜けたところに立つ五輪塔。 大化の改新のとき、飛鳥板蓋宮で中大兄皇子らに暗殺された時の権力者・蘇我入鹿の首がそこまで飛んできたとか、襲ってきた首を供養するためにそこに埋めたともいわれる。

 

 

飛鳥寺から見渡す明日香村の景色。

 

 

国営飛鳥歴史公園のある小高い丘。

 

 

飛鳥寺近くの明日香村飛鳥の街並み。

 

 

 

 

 

案内図。   青線は橿原駅からのバスルート(1時間に1便)。

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー飛ぶ鳥と書いて「あすか」。この言葉はもとは、「あすか(明日香)にかかる枕詞だった。「飛ぶ鳥の明日香」という言葉は、『古事記』や『万葉集』にも登場する。いまは「飛鳥」と「明日香」の両方の表記が使いわけられていて、飛鳥寺があるこの場所は、奈良県高市郡明日香村飛鳥である。飛鳥の里は、畝傍山、耳成山、天香具山の大和三山に囲まれた狭い場所だ。この人口七千人足らずの小さな村が、六世紀半から七世紀にかけての日本の中心だったととういことは、いま感覚ではちょっと信じがたい。しかし、短い時間であったものの、かってはこの地に飛鳥板蓋宮や飛鳥浄御原宮などがあった。これは歴史的事実である。飛鳥寺の西側にある甘樫丘にのぼると、大和三山のほかに、三輪山、金剛、葛城、二上の山々も見渡せる。飛鳥がいかに狭い場所であるかが実感できる。この地方には坂舟石、亀石、石舞台といった不思議な石の遺跡がいくつも遺されている。なかでも石舞台は、巨大な花崗岩を組みあげてつくられていて、最大の石は七十数トンの重さがあるという。これは蘇我馬子の墓だと推定されている。古代日本で、七十トン以上の巨大な石を運んできて組みあげるためには、何千、いや何万という途方もない人員を要したはずだ。すでに飛鳥時代には、皇室であれ、蘇我氏であれ、それだけの大工事を可能にする強大な権力が、この地に存在していたことになる。また、それだけの技術が、存在したという事実にも驚かされる。極東の小さな島国である日本、そこに閉ざされて生きいた人びとが、六世紀から七世紀という時代に、こうした文化をもつ、やがて、この国ではまだ誰も見たことがないような大きな寺をきずくことになる。

 

 

御朱印。

 

 

飛鳥寺 終了

 

(参考文献)
  
五木寛之著「百寺巡礼」第一巻奈良(講談社刊) 飛鳥寺HP フリー百科事典Wikipedia 

ほかに、ブログをいくつか参照

 

(後記) この明日香村への訪問は、飛鳥寺と岡寺のそれぞれ1時間程度、バスの時間を気にしながらの参拝で、この村にある日本の始まりの数々の歴史的建造物には全く触れないまま帰ってしまった。五木寛之著「百寺巡礼」の飛鳥寺をあらためて読んでみて、この明日香の里については、いつか必ず再訪しゆっくり時間をかけて巡ってみることを我が身に約束をした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


59 當麻寺

2023-11-26 | 奈良県

百寺巡礼第9番 當麻寺

浄土への思いが募る不思議な寺

 

開基は聖徳太子の異母弟・麻呂古王とされるが、草創については不明な点が多い。西方極楽浄土の様子を表した「当麻曼荼羅」の信仰と、曼荼羅にまつわる中将姫伝説で知られる古寺である。奈良時代から平安時代初期に建立された二つの三重塔があり、近世以前建立した東西両塔が残る日本唯一の寺としても知られる。

中将姫の当麻曼荼羅の伝説で知られる當麻寺は、二上山の麓に位置し、奈良盆地の西端、大阪府に接し、古代においては交通上・軍事上の要地であった。二上山は、その名のとおり、雄岳、雌岳という二つの頂上をもつ山で、奈良盆地東部の神体山・三輪山と相対する位置にある。二上山は、大和国の西に位置し、夕陽が2つの峰の中間に沈むことから、西方極楽浄土の入口、死者の魂がおもむく先であると考えられた特別な山であった。當麻寺はこの地に勢力をもっていた豪族葛城氏の一族である「当麻氏」の氏寺として建てられたものと推定されている。金堂に安置される弥勒仏像と四天王像、境内にある梵鐘と石灯籠、出土した塼仏、古瓦などは、いずれも天武朝頃(7世紀後半)の様式を示し、寺の草創はこの頃と推定されるが、創建の正確な時期や事情については正史に記録が見えず、今ひとつ明らかでない。

 

参拝日    令和5年(2023)3月24日(金) 天候曇り

 

所在地    奈良県葛城市当麻1263                            山 号    二上山                                   宗 派    真言宗 浄土宗                               本 尊    當麻曼荼羅                                 創建年    伝・推古天皇20年(612)                           開 基    伝・麻呂古王                                札所等    新西国三十三個所第11番 ほか                        文化財    東塔、西塔、曼荼羅堂、塑像弥勒仏坐像ほか(国宝)金堂、乾漆四天王立像、    

       木造阿弥陀如来坐像ほか(重要文化財)

 

 

 

近鉄南大阪線当麻寺駅から900mほど参道を歩いて當麻寺の東大門に。

 

 

東大門の前。

 

 

 

中の坊、奥の院を含む當麻寺境内図

 

 

當麻寺境内図。

 

 

仁王門(東大門)。

 

 

 

 

 

 

金剛力士の吽形像。

 

 

右側の金剛力士阿形像はただ今修理中で留守。

 

 

仁王門の処から境内を見る。二上山(にじょうさん)の山並みは雲がかかりほとんど見えない。

 

 

鐘楼。   境内に入りすぐ左側に建つ。

 

梵鐘【国宝】   白鳳時代(680年代)に作られたもので無銘ながら、作風等から日本最古級と推定される。當麻寺創建当時の遺物と推定される。2か所にある撞座の蓮弁の枚数が一致しない(一方が10弁でもう一方が11弁)等、作風には梵鐘が形式化する以前の初期的要素がみられる。鐘楼の上層に懸けられており、間近で見学することはできない

 

本堂(曼荼羅堂)【国宝】        金堂・講堂の西側に、東を正面として建つ。平安時代の末期に建立された。寄棟造、本瓦葺。桁行7間、梁間6間。梁行6間のうち、奥の3間を内陣、手前の3間を礼堂とし、内陣は須弥壇上に高さ約5mの厨子(国宝)を置き、本尊の当麻曼荼羅を安置する。左右(南北)端の桁行1間分は局(小部屋)に分け、北側西端の間には織殿観音と通称される十一面観音立像を安置する。背面北側の桁行3間分には閼伽棚が付属する。

 

 

 

昭和32年(1957)から昭和35年(1960)にかけて実施された解体修理時、棟木に永暦2年(1161)の墨書が発見され、奈良時代の建物の部材が転用されていることが明らかとなった。その後、平安時代初期頃に桁行7間、梁間4間、寄棟造の堂に改造された。この時点では屋根は瓦葺きではなく檜皮葺きか板葺きであった。現存する本堂内の厨子の製作もこの頃とみられることから、当麻曼荼羅を安置するためのものであったと推定される。その後、この堂の前面に孫庇が付加され、永暦2年に現在のような桁行7間、梁間6間の仏堂となったものである。

 

 

向拝の上部。

 

 

 

本堂の広縁。

 

 

来迎阿弥陀如来立像

 

 

十一面観音菩薩立像【国重要文化財

當麻曼陀羅【国重要文化財】       当麻曼荼羅の原本は、損傷甚大ながら現在も當麻寺に所蔵されており、昭和36年(1961)に「綴織当麻曼荼羅図」の名称で工芸品部門の国宝に指定された。現状は掛幅装で、画面寸法は394.8x396.8Cm である。曼荼羅の由来を記した銘文があり、その中に「天平宝字七年」(763)の年号があったというので、この年の制作と思われる。当麻曼荼羅の原本については、中将姫という女性が蓮の糸を用い、一夜で織り上げたという伝説がある。中将姫については、藤原豊成の娘とされているが、モデルとなった女性の存在は複数想定されている。

須弥壇【国宝】     8世紀末から9世紀初頭の作。須弥壇は鎌倉時代に源頼朝から寄進されたもので、須弥壇には源の文字が見て取れるが、写真ではよく判らない。本堂(曼荼羅堂)内陣には高欄付の須弥壇を構え、その上に高さ501センチメートルの大型厨子を置く。厨子は仏像ではなく当麻曼荼羅を安置するためのものであるため、高さの割に奥行が浅く、平面形は扁平な六角形をなす。須弥壇は螺鈿や木目塗で仕上げられたもの。

 

 

石灯籠【国重要文化財】。  日本最古の石燈籠 、奈良時代前期、凝灰岩、高さ 227Cm。

 

 

金堂【国重要文化財】    鎌倉時代の再建。入母屋造、本瓦葺。桁行5間、梁間4間。組物は二手先、中備(なかぞなえ)を間斗束(けんとづか)とする。屋根は元は厚板を葺いた木瓦葺きであった。内部は土間で、中心の桁行3間、梁間2間を内陣とする。内陣いっぱいに漆喰塗り、亀腹形の仏壇を築き、本尊の塑造弥勒仏坐像、乾漆四天王立像などを安置する。内陣正面向かって左の柱に文永5年(1268年)の田地寄進銘が墨書されており(墨書の跡に字形が浮き出ている)、これより以前、鎌倉時代前期の寿永3年(1184)の再建と推定される。

 

 

 

堂は乱石積の高い基壇上に建つが、堂の規模に比して基壇が高いのは、長年の間に地盤が削られたために、かさ上げをしたためである。

講堂【国重要文化財】        金堂の背後(北)に建つ。寄棟造、本瓦葺。桁行7間、梁間4間。組物は平三斗、中備を間斗束とする。野垂木の墨書により鎌倉時代末期の乾元2年(1303)の再建であることが知られる。屋根は金堂と同様、元は厚板を葺いた木瓦葺きであった。堂内は梁行4間のうち中央の2間分に板床を張り、本尊阿弥陀如来坐像、もう1体の阿弥陀如来坐像、妙幢菩薩立像、地蔵菩薩立像(以上国重要文化財)のほか、多くの仏像を安置する。床下に焼土層が認められ、治承4年(1181年)平家の兵火により焼失したことがわかる。

 

 

 

 

本堂から仁王門の方向を見る。右に金堂、左に講堂。

 

 

東塔と西塔の案内板。

 

 

 

當麻寺の東塔と西塔二つの塔。

 

 

枝垂れ桜が似合う寺。

 

 

東塔への参道。

 

 

 

 

東塔【国宝】    総高(相輪含む)は24.4mの三重塔。細部の様式等から、奈良時代末期の建築と推定される。

 

初重が通常どおり3間(柱が一辺に4本立ち、柱間が3つあるという意味)であるのに対し、二重・三重を2間とする。日本の社寺建築では、柱間を偶数として、中央に柱が来るのは異例である。日本の古塔で二重目の柱間を3間でなく2間とするのは當麻寺東塔のみである

 

 

塔は檜の木で作られている。

 

 

 

屋根上の相輪には、一般の塔では「九輪」という9つの輪状の部材があるが、この塔は八輪になっている。さらに、相輪上部の水煙(すいえん)が、他に例をみない魚骨状のデザインになるなど、異例の点が多い塔である。なお、水煙は創建当初のものかどうか定かでない。初重内部には床を張るが、当初のものではない

 

西塔【国宝】    三重塔で、総高は東塔よりやや高い25.2m。様式からみて、東塔よりやや遅れ、平安時代初期の建築と推定される。西塔は、高さ以外にも東塔とは異なる点が多い。柱間は初重から三重まで3間とする。

 

 

 

 

 

 

 

 

西塔は欅の木材で造られた。角層とも軒の出が深く、三手先組の肘木や軒支輪が軽快で、屋根裏や軒先を眺める価値が十分。

 

 

 

 

 

 

 

屋根上の相輪が八輪になっている点は東塔同様だが、水煙のデザインは未敷蓮華(みふれんげ)をあしらったもので、東塔のそれとは異なっている。

 

 

桜が咲き始めたころで枝垂れ桜が壮観な姿を見せてくれた。

 

 

當麻寺奥院

當麻寺には中之坊、護念院、西南院、奥院などの塔頭がある。その中で最大の塔頭が奥院である。 浄土宗総本山知恩院(京都市東山区)の「奥之院」として応安3年(1370)に建立された。知恩院の12代目の住職の誓阿普観上人が奥院を開山。当時、京都は南北朝分裂後の混乱で常に戦火の危険性に満ちていた。法然上人の夢告を得た誓阿普観上人は後光厳天皇の勅許を得て、知恩院本尊として安置されていた法然上人像(国重要文化財)を撰択本願念仏宗(国重要文化財)や法然上人所縁の宝物とともに、當麻寺へと遷座し、今の奥院となる往生院を建立した。以来、知恩院の住職が極楽往生を遂げる地として住職5代に亘り當麻寺奥院へ隠遁し、法然上人像を守る。知恩院と対をなす奥院は浄土宗の大和本山として念仏流通と僧侶育成の道場となり、また当麻曼荼羅を日本全国に広める役割も果たし、多くの人々の信仰を集め、今日まで護持継承されて来た名刹。奥院と名称が付いた時期については定かでないが、延宝9年(1681)頃にはすでに奥院と称されていた。奥院境内の建造物については、本堂・阿弥陀堂・方丈・庫裏・楼門があげられている。現在は、これら以外に宝物館が加わっている。現在の奥院本堂は、創建時のものではなく、慶長9年(1604)に建てられたものであることが本堂の棟木墨書銘によって知られる

 

 

當麻寺奥の院楼門。  寺の路地裏からの入り口のような参道はいまは使われていない。不思議な楼門。

 

 

 

 

 

黒門。  こちらに薬医門があり、左側に門を守る兵士の像。 弁柄色の築地塀に黒い薬医門そして兵士蔵と奇妙な取り合わせ。

 

 

参道。

 

 

桜の花が咲く下に小さな堂。

 

奥院の伽藍。      浄土宗の子院。応安3年(1370)知恩院12世の誓阿普観が知恩院の本尊であった法然上人像(重要文化財)を遷座し、本尊として創建したもので、当初は往生院と称した。当院は知恩院の奥の院とされ、近世以降は「当麻奥院」と称された。宗教法人としての名称も「奥院」である。誓阿が知恩院から移したとされる円光大師(法然)像を本尊とし、知恩院所蔵の四十八巻伝の副本とされる『法然上人絵伝』48巻(重要文化財)を所蔵する。

 

 

御影堂。   桃山時代に建てられた本堂は御影堂と呼ばれ、中には円光大師法然上人坐像 (通常は非公開)や宝冠阿弥陀如来像などが安置されている。

 

 

御影堂の扁額「知恩教院 最初本尊」の文字。

 

 

樋受けには葵の御紋が描かれている。

 

 

阿弥陀堂。     御影堂の横にあるのが阿弥陀堂。阿弥陀仏は南無阿弥陀仏と念仏を称え往生極楽を願う人を分け隔て無く極楽浄土に救い取ってくれる仏。浄土宗の本尊でもある。

 

 

庫裡(寺務所)の堂宇。正面の玄関脇の丸窓、屋根の獅子口、破風の燕懸魚や蟇股が印象的。

 

 

寺務所から弁柄色の塀伝いに大方丈へ。 弁柄色が強烈。

 

 

寺務所および大方丈の正玄関。 3つの千鳥破風と唐破風が重なる正玄関。石燈籠は天和3年(1683)に建立された。

 

 

大方丈(書院)。弁柄色の色の築地塀に囲まれている。黒縁の宝珠形の門が設けられているが、庭を見る窓のようだ。

 

二河白道の庭。     大方丈の庭。念仏信者の極楽浄土に対する信仰心を譬えた「二河白道(にがびゃくどう)」を冠した庭。二上山で古代より産出される金剛砂を火の川、白砂を水の川に用いている珍しい庭園。作庭家は足立美術館の日本庭園を創りあげ「昭和の小堀遠州」と称えられた中根金作師。

大方丈【国重要文化財】   桁行六間、梁間五間半の寄棟造で、12畳敷の間が上・中・下の三間、6畳敷の間が同じく三間ある。方丈とは住職の居所のことをいう。奥院には明治大正期まで、「大方丈」と「小方丈」の二つの方丈があったが、現在は大方丈のみが現存。大方丈の棟札には慶長17年(1612)との記載があり、同年に建立であることがわかった。平成30年(2018)、日本画の巨匠 上村淳之画伯によって當麻寺奥院「大方丈」に奉納された「花鳥浄土」。30枚60面からなる大作は、大方丈の六室に趣の異なる花と鳥の浄土世界を表現している。      (写真は當麻寺HPより)

 

金碧画。  12畳上之間の床の間には狩野派の筆によって玄宗皇帝・楊貴妃の物語が金碧画で描かれ、6畳上之間には水墨画が描かれてる。明治期までは六間全ての襖が金碧画で仕上げられていたといい、大方丈は「金の間」と呼ばれていたが、明治の廃仏毀釈から太平洋戦争の混乱期に散逸してしまった。(写真は當麻寺HPより)

 

 

二河白道(にがびゃくどう)とは、浄土教における極楽往生を願う信心の譬喩で、「火の河と水の河を人の貪欲と怒りにたとえ、この間にある白い道は極楽に通じる道で、往生を願う信心にたとえる」。

 

 

 

 

 

 

 

 

本堂の回廊から大方丈を見る。

 

 

本堂の回廊から庭園側を見る。

 

 

楼門【国重要文化財】 入母屋造本瓦葺。江戸時代初期の建立。

 

 

 

 

 

楼門方向の境内。

 

 

まさに花盛り枝垂れ桜。

 

 

 

 

 

楼門(重要文化財)から西へ進むと、石彫"くりから龍"を中心に現世を表現した渓流を右手に眺め、スロープをゆっくり上がっていくと浄土の世界が目前に広がる。

 

 

牡丹の寺。 奥院は牡丹の寺としても知られ、奥院五十七代観誉察聞上人が当院大方丈仏間の絵天井に牡丹の絵が画かれてあるのに由来して庭園に多くの牡丹を植樹し、仏前に御供したのがぼたん園の始まり。 3月下旬にボタンが咲き、桜と牡丹の競演が見られる。 

 

 

 

 

巨石と自然に溢れる庭園。  浄土庭園の巨石は「太閤石」という石で、昔、豊臣秀吉公が大阪城を築城するにあたり、西国から巨石を集めた。浄土庭園の石はその産地の一つ、湯布院から運ばれたもので、由布岳の溶岩が固まってできる特異な色・形を庭園に利用している。

 

 

 

 

阿弥陀如来像を中心に数多くの仏をあらわした石が並び、阿弥陀仏の姿を写す極楽の池"宝池"がある。ニ上山を背景に當麻の自然を存分に取り入れた浄土庭園。

 

 

 

 

 

宝池。  池の先に阿弥陀堂。

 

 

本堂の脇から西塔を眺める。

 

 

奥院への正面参道。 帰りはこちらを下る。

 

 

案内図。

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーーー基本的に源信の信仰とは、阿弥陀如来を信じて念仏することによって、人は臨終をとげるときに浄土に往生することができる、ということだ。こばれるの信仰をそのまま形にしているのが、曼荼羅の横にある「来迎の弥陀」と呼ばれる檜材の寄木造りの立像である。じつは、この像は非常に軽く、中が空洞になっている。ちょうどひとり人間が中にはいれるような大きさだ。そのため、昔は、自分の寿命は長くない、と死を覚悟した人が内部に入って、即身成仏したといわれる。いま、自分は弥陀の胎内にはいって体となった、と感じることは、その人にとって、苦しみよりもエクスタシーとさえいえるかもしれない。現代医療では、死んでいく人に対して、さまざまな薬や装置を使って延命が行われる。しかし、こんなふうに像のなかにはいって、いっさい延命措置をせず三日くらい飲まず食わずでいればどうだろう。おそらく枯れるように死んでいくだろう。こういう形での来迎が本当になされたのか、学術的な裏づけがあるのかどうか私にはわからない。しかし、この當麻寺だけに、その話が信じられる。そして、そういうめずらしい、特異な伝承がずっと伝えられてきた背景には、人びとの浄土への憧れや往生を願うことがあった。それがいかに強いものであったかを、あらためて感じないではいられない。

 

 

御朱印

 

當麻寺 終了

 
(参考文献)
  
五木寛之著「百寺巡礼」第一巻奈良(講談社刊) 當麻寺HP  フリー百科事典Wikipedia 

(ブログ)何気ない風景ひとり言

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


58 青蓮院

2023-11-22 | 京都府

古寺を巡る 青蓮院

古くより皇室と関わり深く格式の高い門跡寺院

 

 

青蓮院は、現・・三千院、妙法院と共に、天台宗の三門跡寺院である。「門跡寺院」とは皇族や摂関家の子弟が入寺する寺院のこと。青蓮院は多く皇族出身で親王の称号を与えられた僧侶が住職を務め、格式を誇ってきた。江戸時代には仮御所となったことがあるため「粟田御所」の称もある。日本三不動の一つ青不動のある寺としても知られる。

青蓮院は比叡山東塔の南谷にあった最澄が建立した青蓮坊がその起源となる。青蓮坊は慈覚大師円仁、安恵、相応などの著名な僧侶の住居となり、東塔の主流をなす坊であった。

平安時代末期に、青蓮坊の第十二代行玄大僧正(藤原師実の子)に鳥羽法皇が御帰依になって第七王子をその弟子とされ、院の御所に準じて京都に殿舎を造営して、青蓮院と改称し門跡寺院としたのが青蓮院の始まりとなる。その後明治に至るまで、門主は殆ど皇族か、五摂家の子弟に限られてた。青蓮院は栗田御所と呼ばれており、「青蓮院旧仮御所」として国の史跡に指定されている。青蓮院には、本堂、宸殿、小御所、華頂殿、叢華殿、好文亭などがあるが、いずれも古いものではない。好文亭を除く各建物は渡り廊下でつながれている。

 

 

参拝日    令和5年2月18日(土) 天候曇り

所在地    京都府京都市東山区栗田口三条坊町69-1                  院 号    なし                                    宗 派    天台宗                                   寺 格    京都五ヶ室門跡                               本 尊    織盛光如来                                 創建年    久安6年(1150)                              開 山    最澄                                    別 称    青蓮院門跡 旧栗田御所                               札所等    近畿三十六不動尊霊場第19番                         文化財    不動明王二童士像(国宝)木造兜跋毘沙門天像(国重要文化財)ほか 

 

 

 

境内図。

 

 

 

青蓮院前から知恩院三門前の道側には白い塀を背景に楠の巨木。寺の塀に沿って同じような楠木が5本あり、いずれも天然記念物に指定されている。

 

 

四脚門(御幸門)。    その道沿いに明正天皇の中和門院の旧殿の門を移築したもので、明治26年(1893)の火災をまぬがれている。

 

 

正面に入り口門。右手には天然記念物の楠の大木。 この右手には正門となる長屋門がるが、撮影はしてなかった。

 

 

 

 

 

 

入口の門を潜り境内に。正面は寝殿であるが、工事中で拝観は出来ない。

 

 

 

一般の拝観入り口になり華頂殿の入り口となる。

 

 

 

 

 

 

華頂殿。 客殿であり白書院ともいう。書院造で部屋からの庭の眺めが素晴らしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

客殿から庭を眺める。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

床脇に設けられた書院。明り取りを円形にして障子を嵌め単純だが印象深い造り。  

 

 

床の間を見る。   床脇には、天袋、地袋、違い棚。 

 

 

部屋の欄間の意匠は透かし彫で波の形。

 

 

襖絵は、木村英輝氏奉納の蓮の絵で各部屋を合わせ60面の襖絵が見られる

 

 

                                  (写真はネットから)

 

 

各部屋の小壁には三十六歌仙額絵が掲げられている。       (写真はネットから)

 

 

華頂殿から小御所に向かう、ここが渡り廊下の建物。

 

 

一文字手水鉢。 自然石で豊臣秀吉寄進と伝える。

 

 

師小御所。 本堂の北側に建つ入母屋造りで、桟瓦葺きの建物。もとの小御所は後桜町上皇の仮御所として使用された建物であったが、明治26年(1893)に焼失し、後に江戸時代中期の建物を移築して復興された。

 

 

 

 

 

室内から。

 

 

平安時代末は門主の居間として使用されたといわれる。後櫻町上皇が仮御所としても使用した。床の間には狩野探幽作と言われる障壁画。

 

 

寺にとっては必要不可欠な須弥壇や仏具など、あるいは仏像などが見られない。書院や居間として使用していたことがよくわかる。

 

 

左側に杉戸があり、祇園祭の山鉾が描かれているが、作者は不詳。床の間は障壁画は狩野探幽によるもの。奥の部屋は

 

 

小御所から見る庭。

 

 

小御所に続き本堂。

 

 

渡り廊下に繋がる玄関。 

 

 

渡り廊下の建物の下を潜り庭園に進む

 

 

庭園。

 

 

相阿弥の庭。        華頂殿と小御所から眺められる主庭園。 室町時代の芸術家相阿弥が作った庭。相阿弥は、室町幕府第八代将軍・足利義政の「同朋衆」で、三阿弥の1人。足利将軍お抱えの鑑定家(唐物や刀剣)であり、絵師であり、連歌師であり、作庭家でもあった。今でいえば足利将軍お抱えの芸術コンサルタント&プロデューサーであった。

 

 

室町時代からあったとされる“龍心池”を中心とし、粟田山の斜面を利用した回遊式庭園。

 

 

今の庭園は明治時代に火災に遭ったため、その後七代目小川治兵衛(植治)により改修された。

 

 

室町時代に作庭された概観は乏しく、山泉水式庭園の雰囲気は江戸時代以降に手が加えられたのではないかといわれる。

 

 

 

龍心池。   龍の背が水面に見えるように大石が池の中央に据えられた。

 

 

 

 

 

 

 

跨龍橋。    円形にむくりのある花崗岩の切石二枚で造られた橋。その右に洗心滝が落ちているが気が利かず写真で撮れなかった。

 

 

池には錦鯉。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

好文亭。   後桜町上皇が当院を仮御所として使用の際の学問所としていた。明治以降茶室として活用していたが放火により平成5年(2000)に焼失。その後、平成7年に復旧落慶した。本院所蔵の創建当初の平面図「御学問所」を基に木材等の材質も全く同じ、工法も同じで、完全復元された本格的数寄屋造の建物。四畳半の茶室三部屋と六畳の仏間、水屋等からなる。

 

内部の襖絵は、平成5年(1993)中核派の放火により消失。その後、平成7年(1995)完全修復が実現した。なお、焼失前は一の間に調子和泉守、二の間に円山応挙、三の間と四の間に幽汀玄陳の襖絵が描かれていたが、現在は一の間と二の間に上村淳之の襖絵が描かれている。(写真は青蓮院HPより)

 

霧島の庭。   小堀遠州の作と伝える。好文亭裏側山裾斜面から一面に霧島つつじが植えてあり、五月の花の盛りには、一面を真っ赤に染める。相阿弥の庭園と比べ平面的であるが、統一と調和を感じさせる庭である。

 

 

 

好文亭。  江戸時代の天明8年(1788)に、大火によって御所が炎上したため、後桜町天皇は青蓮院を仮御所として避難した。好文亭はその際には学問所として使用されたもの。

 

青不動堂。 本堂と背中合わせで建物の東側半分を占める堂。青不動(国宝)が安置されていたが、現在は、少し離れた将軍塚の青龍殿に安置されている。こちらには、その複製が祀られている。その他、不動明王木像、薬師如来及び日光月光菩薩、十二神将像、歓喜天像、毘沙門天像、愛染明王像などが安置。堂内は撮影禁止となっている。

 

不動明王二童士像 【国宝】    平安時代に描かれた不動三尊の絵画で、不動明王が青黒い肌をしているので青不動と呼ばれている。制作の背景などは不明だが、平安時代の中期から後期にかけて描かれたと考えられ、優美さの中に力強さが感じられる。高野山の赤不動(国重要文化財)、三井寺の黄不動(国宝)とともに三不動とされる。(写真は青蓮院HPより)

 

 

 

本堂の横の板戸には、なにやら絵が描かれている。

 

本堂(熾盛光堂)    ただいま工事中(2023年2月)の宸殿東側の堂で、屋根の頂部に宝珠がついている。本堂には、天台宗の四大秘宝の一つである熾盛光法の本尊が祀られている。寺院の本堂といえば一番大きい、あるいは立派な堂をさすが、ここでは三間ほどの宝形造の小堂となっている。

 

 

堂内の厨子にはご本尊「熾盛光如来」の秘仏曼荼羅が安置されている。

 

 

 

鐘楼。   除夜の鐘を一人ごとに付けることで有名。時間はだいぶかかるようだが・・・。

 

 

本堂の前の庭は、苔のじゅーたんになっている。左は寝殿で補修工事中。

 

 

帰りの道。

 

 

 

案内図

 

 

 

御朱印

 

 

青蓮院 終了

 

(参考文献)   青蓮院HP  フリー百科事典Wikipedia  他

57 東寺

2023-11-19 | 京都府

百寺巡礼第24番 東寺

空海がプロデュースした立体曼荼羅

 

新幹線で大阪方面に降る窓際に、京都駅を発車してすぐ左側の車窓に見える大きな塔が東寺である。東寺は初めてで、春の特別拝観中ということもあり、朝一番に駆け付けた。

東寺は国宝や名宝を多く有する寺であり、真言宗の根本道場であり、教王護国寺とも呼ばれる。創建由来は、平安京鎮護のため国の官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海に下賜され真言密教の根本道場として栄えた。明治維新まで、東寺の長官である4人の東寺長者は真言宗の最高位であり、東寺長者は律令制における仏教界の首座である法務も兼任するのが慣例となっていた。中世以降の当時は弘法大使に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。

8世紀末、平安京の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺」の2つの寺院が計画された。これら2つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院であった。東寺は、平安遷都後もまもない延暦15年(796)に、藤原伊勢人が建設工事の責任者である造寺長官となって建立した。それから二十数年後の弘仁14年(823)に、真言宗の宗祖である空海(弘法大使)は、嵯峨天皇から東寺を下賜されて真言密教の根本道場とした。この時から当時は国家鎮護の菅寺となった。平安時代になると東寺は一時衰退するが、鎌倉時代からは弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として、皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになる。中でも空海に深く帰依したのは、後白河法皇の皇女である宣陽門院であった。宣陽門院は霊夢のお告げに従い、東寺に莫大な荘園を寄進した。

毎月21日の空海の命日に、供養を行う「生身供」の儀式を創始したのも宣陽門院であった。空海(弘法大師)が今も生きているがごとく朝食を捧げる、この儀式は、21世紀の今日も毎日早朝6時から東寺の西院御影堂で行われており、善男善女が参列している。

何度かの火災を経て、東寺には創建当時の建物は残っていないが、南大門・金堂・講堂・食堂(じきどう)が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のままである。

 

参拝日    令和5年(2023) 2月18日(土) 天候曇り

 

所在地    京都市京都府南区九条1

山 号    八幡山

院 号    秘密傳法院

宗 旨    真言宗

宗 派    東寺真言宗

寺 格    総本山

本 尊    薬師如来(国重要文化財)

創建年    延暦15年(796)

開 基    桓武天皇

正式名    八幡山金光明四天王教王護國寺祕密傳法院

別 称    左大寺

霊場等    洛陽三十三所観音霊場第23番

文化財    金堂、大師堂(御影堂)、五重塔ほか(国宝)。                  

       講堂、南大門、木造大日如来坐像ほか(国重要文化財)。世界遺産。

 

 

 

 

境内図。

 

 

 

東寺の東南の角の九条大宮交差点から五重塔を観る。

 

 

九条通(国道1号線)が東門の前を通り、間には堀がある。

 

南大門【国重要文化財】     本来は慶長6年(1601)に方広寺の寺領に組み込まれていた三十三間堂の西大門として豊臣秀頼により建てられた八脚門。東寺の以前の門が明治元年(1868)に焼失したため明治28年(1895)に移築された。幅約18m高さ約13mで東寺で最大の門。

 

 

門の入り口の両脇には大きな空間があるが、仁王像を設置するスペースと思われるが、移築されたさいに像は移ってこなかったのだろう・・・か?

 

 

 

 

 

境内から門の外を見る。

 

 

南大門の正面に金堂がそびえたつ。

 

 

金堂【国宝】        東寺の中心堂宇で数々の堂塔のうち、最も早く建設が始められ、弘仁14年(823)には完成した推定されるが、文明18年(1486)の土一揆により焼失。現在の建物は慶長8年(1603)に豊臣秀頼の寄進により、片桐且元を奉行として再建されたもの。

金堂の修理工事では、金堂の棟札が確認された。それには豊臣秀頼の寄進によることや片桐且元を奉行として造立工事がなされたことが記されていた。また方広寺の鐘銘に類似した「国家太平 臣民快楽」の文言の記載があった。方広寺の鐘銘では「国家安康 君臣豊楽」と刻字され、それが家康の諱を分断して呪詛し、豊臣を君主とする意図があると徳川方に解釈され、方広寺鐘銘事件に発展してしまったことは周知の通りである。

 

 

入母屋造本瓦葺き、外観からは二重に見えるが一重裳腰付き。建築様式は和様と大仏が併用され、貫や挿肘木多用して高い天井を支える点に大仏様の特色がある。

 

 

 

 

 

正面の組木。

 

 

 

 

金堂には大仏殿のように、堂外から内部に安置されている仏像の御顔を拝顔できるようにする観相窓が設けられているが、それの高さは、安置されている薬師如来の御顔の高さと合っていないので、窓を開けても如来の光背しか見えず、観相窓としては無用の代物になってしまっているという。

 

 

 

 

薬師如来坐像【国重要文化財】    内部は広大な空間の中に本尊の薬師如来坐像と日光菩薩、月光菩薩の両脇侍像が安置されている。 慶長7年~9年(1602 ~1604)にかけて、七条大仏師康正が康理、康猶、康安らとともに制作した。                (写真は東寺HPより)

 

 

 

 

 

金堂の脇を進む。

 

 

境内の奥のから南大門の方向を観る。左に金堂、右に本坊の堂宇が並ぶ。

 

 

本坊は、土塀に囲まれ一般参拝者は出入りができない。

 

 

本坊の唐門。 通常は使用されてなく閉門のまま。

 

講堂【国重要文化財】       金堂の背後(北)に建つ。東寺が空海に下賜された弘仁14年(823)には建立されておらず、天長2年(825)に空海により建設工事が着工されて、承和6年(839)に完成。この頃は講堂と金堂の周囲を廻廊が巡る形をとっていた。この創建当初の堂は文明18年(1486)の土一揆による火災で焼失。5年後の延徳3年(1491)に再建された。

 

 

単層入母屋造で純和様。金堂が顕教系の薬師如来を本尊とするのに対し、講堂には大日如来を中心とした密教尊を安置し、立体曼荼羅を構成する。

 

 

 

 

 

講堂内部の立体曼荼羅。       須弥壇の中央に大日如来を中心とする五体の如来像が安置されている。右側には金剛波羅密多菩薩を中心に五体の菩薩像、左側には不動明王を中心とした五体の明王像が安置されている。須弥壇の東西端には梵天・帝釈天像。須弥壇の四隅には四天王像が安置され、計21の彫像が整然と安置されて、この様子が立体曼荼羅を構成している。21体の仏像のうち、五仏のすべてと五大菩薩の中尊像は室町時代から江戸時代の補作であるが、残りの15体は講堂創建時の像である。 

立体曼荼羅配置図。

 

これら21体の仏像群からなる立体曼荼羅については、他に例のない尊像構成であることから、空海がいずれの経典に基づき、どのような意図で構想したものか明らかでない。(写真は東寺HPより)

 

 

大日如来像【国重要文化財】  大日如来像は明応6年(1497)に仏師康珍の作。       

                               (下の写真とも東寺HPより)

 

 

帝釈天像【国宝】      甲を着け、白象に乗り、左脚を踏み下げる。両像の台座、帝釈天像の頭部などは後補である。

 

 

 

講堂入口。

 

 

食堂。      講堂の後方、境内の北寄りに建つ。観音堂とも呼ばれる。初代の食堂は空海没後の9世紀末から10世紀初めに建立されたが、度々の災害に遭い現在の建物は昭和8年(1933)の再建に完成したものである。

 

 

 

 

 

現在の食堂には明珍恒男作の十一面観音像が本尊として安置されている。(写真は東寺HPより)

 

 

 

脇から見た食堂。

 

 

 

 

食堂の前から有料拝観区域に入る。 

 

 

庭園は春は桜、秋は紅葉の名所。

 

 

瓢箪池。金堂と講堂の東側、五重塔の北側の一角は、瓢箪池を中心とした庭園になっている。五重塔とともに池泉回遊式庭園の要素になっている

 

 

庭園の先に五重塔が・・・・。

 

 

庭園の中央、瓢箪池の先に五重塔。

 

 

瓢箪池に逆さに移る五重塔と写真撮るには最適の場。

 

 

五重塔【国宝】      東寺のみならず京都のシンボルとなっている塔である。高さ54.8mは木造塔としては日本一の高さを誇る。天長3年(826)空海による創建に始まるが、実際の創建は空海没後の9世紀末であった。雷火や不審火で4回焼失しており、現在の塔は5代目で、寛永21年(1644)に徳川家光の寄進で建てられたものである。

 

 

 不二桜。  樹齢120年の八重紅枝垂桜で平成18年(2006)に三重県より移植された。樹高13m。弘法大師の「不二のおしえ」から命名された。

 

 

五重塔は枝垂れ桜によく似合うはずだ・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

初重内部の壁や柱には両界曼荼羅や真言八祖像を描き、須弥壇には心柱を中心にして金剛界四仏像と八大菩薩像を安置する。真言密教の中心尊であり金剛界五仏の中尊でもある大日如来の像はここにはなく、心柱を大日如来とみなしている。諸仏は寛永20年(1643)から翌年にかけての作で、江戸時代初期の作風を伝える。初重内部は通常非公開だが、特別に公開される場合もある。

 

 

                               (写真は上とも東寺HPより)

 

御影堂【国宝】     かつて空海が住房としていた境内西北部の「西院」と呼ばれる一画に建つ住宅風の仏堂。前堂、後堂、中門の3部分からなる複合仏堂で、全体を檜皮葺きとする。当初の堂は康暦元年(1379)の火災による焼失後、その翌年に後堂部分が再建された。10年後の明徳元年(1390)に、弘法大師像を安置するために北側に前堂、その西側に中門が増築された。(写真は上・中・下とも東寺HPより)

 

 

 

 

 

小子房       昭和9年(1934)に再建。内部は6個の部屋(鷲の間、雛鶏の間、勅使の間、牡丹の間、瓜の間、枇杷の間)からなる。各部屋の障壁画は堂本印象により描かれた。(下2枚と写真は東寺HPより)

 

 

勅使の間。 障壁画は堂本印象の筆による。

 

 

鷲の間。

 

 

手水舎。

 

 

宝蔵【国重要文化財】           慶賀門の南側、掘割で囲まれた中に建てられている。平安時代後期の建立の校倉の倉庫で、東寺最古の建造物。床板は大きな建物の扉を転用したもので、金堂の扉とも羅城門の扉ともされる。

 

 

北大門【国重要文化財

 

 

宝蔵を囲む堀に写る五重塔。

 

 

東門付近と築地塀を通し五重塔を観る。東寺の築地塀は総長さは900mにも及ぶ。

 

 

 

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー弘法大師は字が上手であるとか、多くの歌を作ったとか、ひらがなを考案したなどということから、人びとは慕わしさをつのらせているのではあるまいか。厄除けのご利益があることもよく知られ、全国に大師信仰の寺がある。ひとつの信仰がうまれた当時は、開祖自らの言葉が人びとの耳にじかに届いて、みんなが正しくその教えを受けとめることができる。いわゆる「正法の時代」である。それから、その人が死んで、なん百年かたったあとに、お弟子さんなどが信仰を伝える、コピーの時代がやってくる。その時代を「像法の時代」という。そして、さらにまた時間が過ぎると「末法の時代」になる。最初に創立したオリジナルな思想というものがまったく力を失ってしまい、形骸化してしまう。乱れてしまう。こう考えていくと、信仰というものでさえ、時間とともに少しずつ変わっていくのが、自然の理というものなのかもしれない。本来宗教は、人間の根源的な疑問に答えようとして、この世に生まれたものではないかと私は思っている。生きているとはどういうことなのだろう。現世の苦しみをどう受けとめればいいのだろう。この世というものが無常であるならば、その無常のなかで希望をもって生きていくためにはどうすればよいのか。そして、死んだあとに人間はどこにいくのか。あるいは、どうすれば喜びをもって死を迎えられるのか。こういう質問に対してまっすぐに語りかけるのが、本当の宗教の役割ではないだろうか。

 

 

 

 

御朱印

 

 

 

東寺 終了

 

(参考文献)
  
五木寛之著「百寺巡礼」第三巻京都Ⅰ(講談社刊) 東寺HP  フリー百科事典Wikipedia 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


56 南禅寺

2023-11-13 | 京都府

百寺巡礼第29番 南禅寺

懐 深き寺に流れた盛衰のとき

 

 

南禅寺、もう何回きたのだろうか? 直近はと言っても1/4世紀も前のことである。日本最初の勅願禅寺であり、京都五山および鎌倉五山の上に置かれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺の中で最も高い格式を持つ。永観寺のすぐ南側にある寺で永観寺の正式名の禅林寺の南側にある寺に由来し「南禅寺」としたと言われる。

南禅寺のこの地に、寺の建立以前に亀山天皇が文永元年(1264)に造営した、離宮の禅林寺殿)があった。この離宮は「上の御所」と「下の御所」に分かれていたが、弘安10年(1287)に「上の御所」に亀山上皇が持仏堂を建立し南禅院と名付けた、これが南禅寺の始まりである。後に持仏堂の南禅院は南禅寺の塔頭・南禅院となっている。南禅寺伽藍の建設は実質的には二世住職の規庵祖円が指揮し、かつての禅林寺殿の「下の御所」を整備して、永仁7年(1299)頃に寺のかたちが整った。建武元年(1334)に後醍醐天皇は、南禅寺を五山の第一としたが、至徳3年(1385)に足利義満は、自らの建立した相国寺を五山の第一とするために南禅寺を「別格」として「五山の上」に位置づけ、更に五山を京都五山と鎌倉五山に分割している。この頃には南禅寺は塔頭60か寺を要する大寺院となっていた。

明徳4年(1393)の火災と文安4年(1447)の南禅寺大火に見舞われ、主要伽藍を焼失したがほどなく再建。しかし応仁元年(1467)に勃発した応仁の乱における市街戦で伽藍をことごとく焼失してから再建は思うにまかせなかった。復興がすすんだのは、江戸時代の慶長10年(1605)に依心崇伝が入寺してからである。翌、慶長11年(1606)には豊臣秀頼によって法堂が再建された。

以心崇伝は徳川家康の側近として外交や寺社政策に携わり、「黒衣の宰相」と呼ばれた政治家でもあった。塔頭の金寺院に住し、江戸幕府から僧録という地位を与えられ、全国の臨済宗の寺院を総括する役職で、金地僧録と呼ばれ、絶大な権勢を誇った。

慶長16年(1611)には豊臣秀吉が天正年間(1573~1593)に建てた女院御所の対面所が下賜され大方丈とされた。当寺の境内を通る琵琶湖疎水の水路閣は明治21年(1888)に建設された。明治28年(1895)に法堂が焼失し、明治42年(1909)に再建された。

 

参拝日   令和5年(2023)2月17日(金) 天候晴れ

 

所在地   京都府京都市左京区南禅寺福地町86

山 号   瑞龍山

宗 派   臨済宗南禅寺派

寺 格   大本山   京都五山および京都五山の別格上位

本 尊   釈迦如来  創建年 正応4年(1291)

開 山   無関普門(大明国師) 

開 基   亀山天皇

正式名   瑞龍山 太平興国南禅禅寺

文化財   方丈(国宝)、三門、勅使門(国重要文化財) 方丈庭園(国の名勝)

 

 

境内図

 

 

 

中門。     慶長6年(1601)に細川家の家老・松井康之によって伏見城内の松井邸の門を勅使門として寄進されたもの。日の御門の拝領に伴って現在地に移された。幕末までは脇門と呼ばれていた。 

 

 

勅使門【国重要文化財】。           寛永18年(1641)に明正天皇により御所の「日の御門」を拝領し、移築したものという。

 

 

 

 

 

門を潜り境内へ三門に進む。

 

三門【国重要文化財】    歌舞伎の「楼門五三桐」(さんもんごさんのきり)の二幕目に石川五右衛門が、「絶景かな!」「絶景かな!」という名セリフを廻す「南禅寺山門」がこれである。ただし、実際の三門は五右衛門の死後30年以上経った寛永5年(1628)に、津藩主・藤堂高虎が大坂夏の陣で戦死した一門の武士たちの冥福を祈るために寄進したものである。別名「天下竜門」と呼ばれる。知恩院三門、東本願寺御影堂門とともに、京都三大門の一つに数えられている。

 

 

形式は五間三戸二階二重門、入母屋造、本瓦葺、西面で、両山廊(各切妻造、本瓦葺)付

 

 

軒瓦には南禅の字が刻まれている。

 

 

 

五間三戸から境内を見る。

 

 

 

三門から中門の入り口方面を振り返る。

 

 

門の一層部分。

 

 

上層は「五鳳楼」といい、釈迦如来と十六羅漢像のほか、寄進者の藤堂家歴代の位牌、大坂の陣の戦死者の位牌などを安置する。天井画の天人と鳳凰の図は狩野探幽筆。

 

 

二層部分に上がる。

 

 

二層の回廊から京都市街を見る。

 

 

華頂山とウィスティン都ホテル。

 

 

 

京都市街の真正面にホテルオークラ京都。

 

 

 

 

 

軒先の複雑ななかにも力強い木組み。

 

 

 

北東の角から。 すべすべとした床板、5間の幅を支える丸柱は年代を感じさせる。

 

 

 

 

 

 

二層の細部。

 

 

回廊の欄干。

 

 

三門の2層回廊から見る東山連峰。

 

 

二層回廊から法堂方向を見る。

 

 

 

三門の二層から降りて法堂方向を見る。

 

 

法堂から山門を見る。

 

 

法堂。  慶長11年(1606)に豊臣秀頼によって再建された。明治28年(1895)に失火により焼失し、現在の建物は明治42年(1909)に再建されたもの。

 

 

向拝の前の香炉。

 

 

向拝。

 

 

須弥壇に本尊の釈迦如来坐像を祀る。

 

 

法堂内部の天井には今尾景年による幡龍が描かれている。 今尾景年は明治から大正にかけて活躍した四条派の日本画家。

 

 

法堂を横から見る。

 

 

法堂の横から本坊及び往生に向かう。

 

方丈大玄関。       方丈の左手にある唐破風の玄関。この玄関は、特別な行事の際のみに使用される。大玄関左手には書院が配され方丈へとつながる。玄関前の敷石は、廃線になった旧京都市電の敷石を再利用したもので伏見線の敷石を使用。経年変化で年経た味わいが生まれ、苔が美しく育っている。

 

 

 

 

 

本坊。  庫裡(宗務本庁)と書院+大玄関で構成された建物で方丈に繋がる。一般の拝観はここから入館する。入館料が必要。

 

 

 

玄関は天井の無い吹き抜けの空間で、縦横に組まれた太く力強い梁と桁が見れる。

 

 

本坊から大方丈および庭園の位置図。              (植爾加藤造園HPより)

 

 

滝の間。  本坊入り口を入り右側の部屋。部屋名は庭園に見える滝に由来し、高低差のある滝は、明治23年(1890)に開通した琵琶湖疏水より導水し造成した。

 

 

竜虎の間。

 

 

 

大玄関の衝立。  瑞龍の字は南禅寺の山号で、南禅寺第8代管長の筆による。

 

 

本坊から方丈に繋がる廊下。

 

 

 

方丈庭園と華厳庭園に分かれる廊下の板戸。龍の絵が描かれている。

 

 

方丈【国宝】  大方丈と小方丈からなる。大方丈は慶長の御所建て替えに際し、天正年間(1573~1593)に豊臣秀吉によって建てられた旧御所の建物を慶長16年(1611)に下賜されたもの。御所の女院御所の対面御殿を移築したもの。

 

 

方丈縁側から大方丈庭園を見る。

 

 

大方丈庭園。  大方丈の南に面した庭で、 慶長16年(1611)頃の小堀遠州作と伝えられている。応仁の乱で焼失した南禅寺が以心崇伝(1569-1633)によって再興された際に作庭された。昭和26年(1951)に国の名勝に指定され、通称「虎の児渡しの庭」として親しまれている。

 

 

大方丈と庭園、借景となる大日山と調和を図って、優雅枯淡で品格のある禅院式枯山水の庭園となっている。白砂と築地壁に面して置かれた大小6つの石が調和し、その形が川を渡る虎の親子に見立て、中国の故事に倣って「虎の子渡しの庭」と呼ばれている。

 

 

 

 

大方丈の廊下。   廊下の外側に広縁が巡る。大方丈の間取りは六部屋あり、南側は西から順に花鳥の間(西の間)、御昼の間、麝香の間、北側が西から順に鶴の間、仏間(内陣)、鳴滝の間となっている。仏間を除く、それぞれの部屋は狩野派が描いた障壁画がある。障壁画は国の重要文化財に指定されている。

 

 

建物の東端は幅一間半の細長い部屋で、柳の間と呼ばれる。障壁画の作者は室町時代の絵師狩野元信。

 

 

麝香(じゃこう)の間。 障壁画は狩野元信による。 いずれも折り上げ格天井による格式高い部屋づくり。

 

 

御昼の間。 建物が御所にあった当時、昼の御座で御帳の間であった部屋だというから、皇族の方が日常に執務していた場所なのだろう。

 

 

西の間。 障壁画は狩野永徳の筆による。

 

 

大方丈東側の広縁。窓は上から引き上げて開放する蔀戸。 右手に枯山水の中庭が見える。

 

 

広縁の大方丈庭園と小方丈庭園への曲がり角にある欄間の彫刻は、左甚五郎の作だと言われる。

 

 

両面透かし彫りで、図柄は「牡丹に唐獅子、竹に虎」なのだが、この写真ではよくわからない。

 

 

 

 

 

如心庭。   接続して建つ小方丈は、寛永年間(1624~1645)に建てられた伏見城の小書院とされる。その前庭が小方丈庭園の如心庭。「如心庭」は解脱した心の庭だという。

 

 

 

小方丈北側の広縁。 小方丈からさらに奥に進むと「六道庭」に行き当たりる。

 

 

六道庭。  昭和42年(1967)に作庭された。「六道庭」は、六道輪廻(りんね)の戒めの庭とる。六道輪廻とは、天界、人間界、修羅の世界、畜生界、餓鬼界、地獄界の六つの世界を我々は生まれ変わり続けるという仏教の世界観をいう。

 

 

 

 

 

それぞれに庭に面し長い廊下が続く。南禅寺の音特徴。

 

 

 

 

 

鳴滝庭。  回廊の突き当たり、華厳庭の西にある庭。小方丈にある狩野永徳が障壁画を描きいた「鳴滝の間」の前庭にあたる。

 

 

隅にある大硯石は、岐阜県で採掘された紅縞(めのう)で作られたもの。現在は紅縞は採れず大変貴重なもの。

 

 

還源庭。蔵と方丈、書院に囲まれた狭い空間の庭。

 

 

 

 

 

渡り廊下の先端は、最も奥の北庭になる左に龍渕閣、右に涵龍池という池のある龍吟庭。

 

 

龍吟庭の入口にある大きな石。元々三門の西にあった鞍馬石を移設し景観の主石とした。この石は4つに割れているがどんな意味があるか不明。存在感のあるよい形をした石。

 

 

豢龍池(かんりゅういけ)の池畔には十津川石の景石を配石してある。

 

 

茶室不識庵(ふしきあん)。  茶道宗偏流の八世山田宗有宗匠が寄進した茶室。昭和58年(1983)の龍渕閣建築に伴い、塔頭帰雲院(きうんいん)が移転され併せて移築された。不識とは武帝と達磨大師との問答から由来。

 

 

花厳庭(けごんてい)   昭和59年(1984)に作られた新しい庭。白砂が大海を表し、そこにいくつもの島が作られている。

 

 

竹垣の組方は、南禅寺垣という当寺独特のもの。

 

 

本坊裏の庭。

 

水路閣。  南禅寺境内にある琵琶湖疏水のレンガ、花崗岩造りのアーチ型の水路橋。明治23年(1890)に、水不足に悩む京都へ、琵琶湖の水を運ぶため建設。水路閣の全長は93.2m。設計・デザインした田邉朔郎は、ローマの水道橋を参考としたが、境内の景観に大変苦心した末にこのような形なったという。レンガのアーチを間近に見ることができるほか、水路に水が流れる様子も見れる。

 

 

観光の名所にもなっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

案内図

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー人間に生きる力を与えてくれるもの、それは大きな輝かしいものであると同時に、私たちが日常、どうでもいいことのように思っている小さなことなのだという確信が強まっていく。たとえば、自然に感動するとか、夕日の美しさに見とれるとか、なつかしいメロディーを口ずさむとか、日常なにげなくやっている生活のひとコマが、じつは人間を強く支えてくれていることもありうるのだと感じられてくる。俳句をつくる人がいる。俳句をつくるといやでも周りの自然を見る目、感覚が鋭くなってくる。収容所の中で、もしも俳句をつくることを続けられる人がいたら、その人はほかの人よりも長く生き延びるかもしれない。あるいは、音楽が好きで疲れきっていても、口笛で何かのメロディを吹く人の方が、ひょっとしたら強く生き抜くタイプかもしれない。かって普門禅師は、人はこの場でしか生きることが許されないと言った。そのことを真正面から受けとめ、すべての運命をそのまま引き受けようと覚悟する。亀山天皇はそう覚悟して離宮を禅寺にしたはずだろう。その禅寺は、その法王の意思を忠実に守るかのように、栄枯盛衰の波をそのまま正面からかぶり続けながら、人びとを受け入れてきた。南禅寺には、栄華と苦難の歴史が幾重にも重いひだを作っておりかさなっている。それでいて寺の姿はなにごともなかったかのように私たちの前に立ち現れている。人びとが南禅寺に懐の深さと安心を感じる秘密はこのあたりにあるのかもしれないと、私は思いながら、あらためて三門を見上げた。

 

 

 

 

御朱印

 

 

 

南禅寺 終了

 

 
(参考文献)  
五木寛之著「百寺巡礼」第三巻京都Ⅰ(講談社刊) 南禅寺HP フリー百科事典Wikipedia 

京都朱雀錦HP  植爾加藤造園HP


55 永観堂

2023-11-11 | 京都府

百寺巡礼第86番 永観堂

紅葉の向こうの「見返り阿弥陀」

 

京都の三日目は、三井下鴨別邸を見学し、山縣有朋別邸の無鄰菴と南禅寺界隈別荘群をそぞろ歩き、永観堂に伺った。こちらも紅葉の名所であるが、真冬の2月中旬。人気の居ない頃を見計らっての参拝である。

古くより「秋はもみじの永観堂」といわれ、京都に3箇所あった勧学院(学問研究所)の一つでもあり、古くから学問が盛んな寺である。境内には地形の高低差を生かして多くの建物が建ち、それらの間は渡り廊下でつながれている。

空海(弘法大師)の十哲と呼ばれ高弟のひとりである真紹僧都が、都における真言宗の道場の建立を志し、毘盧遮那仏と四方四仏を本尊とする寺院を建立したのが起源。           真紹は仁寿3年(853)、歌人・文人であった故・藤原関雄の山荘を買い取り、ここを寺院とすることにした。当時の京都ではみだりに私寺を建立することは禁じられており、10年後の定観5年(863)、清和天皇より定額寺としての勅許と「禅林寺」の寺号を賜わって公認の寺院となった。

当初真言宗の道場として出発した禅林寺は、中興の祖とされる7世住持永観律師の時に念仏の寺へと変化を遂げる。禅林寺を永観堂と呼ぶのは、この永観律師が住したことに由来する。なお、「永観堂」は漢音読みで「えいかんどう」と読むが、永観律師の「永観」は呉音読みで「ようかん」と読む。

 

参拝日    令和5年(2023)2月17日(金) 天候晴れ

 

所在地    京都府京都市左京区永観堂町48

山 号    聖衆来迎山

院 号    無量寿院

宗 派    浄土宗西山禅林寺派

寺 格    総本山

本 尊    阿弥陀如来(みかえり阿弥陀)(国重要文化財)

創建年    仁寿3年(853)

開 山    真招

正式名    聖衆來迎山無量壽院禪林寺 

別 称    永観堂

札所等    洛陽六阿弥陀めぐり第2番 ほか

文化財    山越阿弥陀図、金銅蓮華文磬(国宝)木造阿弥陀如来立像(国重要文化財)ほか

 

 

境内地図。

 

 

総門。天保11年(1840)に再建されたもの。切妻造り、本瓦葺きの一間一戸の四脚。この門の造りは城郭の外門などに多く見られる。

 

 

総門から中門までの参道。

 

 

中門(京都府指定有形文化財)。  正徳3年(1713)再建。門の造りは薬医門。拝観の手続きはこちら。

 

 

正面にある釈迦堂の入り口、大玄関が諸堂の入り口となる。

 

 

釈迦堂の正面。横並びの花頭窓。

 

 

境内には約3000本の大もみじやイロハもみじが植えられもみじ林となり、京都屈指の紅葉の名所となっている。もみじ林には道が整備されている。

 

 

中門方向を見る

 

 

大玄関。  

 

 

 

 

 

大玄関の屋根裏は、緩やかなむくりの円で、垂木もむくり状に。

 

 

 

 

釈迦堂(京都府指定有形文化財)。  方丈ともいう。永正年間(1504 - 1521)に後柏原天皇にによって建てられたというが、実際の建築は寛永4年(1627)である。入母屋造、桟瓦葺き。平面は禅宗寺院の方丈と同形式の六間取りとなっている。

 

 

釈迦堂の大玄関を入ると、釈迦堂の左手に庫裡となる鶴寿台の堂宇、その奥に古方丈。釈迦堂の奥に紫宸殿があり池を中心とした方丈北庭を囲み、夫々が廊下でつ繋がっている。

 

 

古方丈側から方丈北庭を通し釈迦堂を見る。

 

 

古方丈から紫宸殿かかる渡り廊下。瑞紫殿は応仁の乱の際に奇跡的に焼け残った「火除けの阿弥陀」が祀られている。

 

 

右手、古方丈。左手釈迦堂。

 

 

方丈北庭。

 

 

釈迦堂を見る。

 

 

釈迦堂の廊下。

 

 

釈迦堂の四季の間。内部は

 

 

 

 

 

勅使門(京都府指定有形文化財)釈迦堂(方丈)の南庭にある唐門で、文政13年(1830)に再建されたもの。

 

 

 

 

 

外側からの勅使門。軒先の木鼻には架空の動物「獏」が置かれ、各所に雲龍や唐草の彫刻が施されているというが、写真ではよくわからない。

 

 

 

唐門の屋根部分。

 

 

 

釈迦堂南庭(方丈南庭)

 

 

釈迦堂杉の間。

 

 

釈迦堂仙人の間。

 

 

 

釈迦堂の方丈南庭に繋がる東庭。

 

 

 

 

 

 

 

 

釈迦堂から御影堂へ。こちらにも渡り廊下。

 

 

廊下に鐘。

 

 

御影堂へ。

 

 

 

御影堂の花頭窓。

 

 

 

御影堂への正面階段。

 

 

御影堂の正面。

 

 

御影堂。    大殿との呼ばれ、大正元年(1812)に完成した総ケヤキ造の仏堂。相祖法然を祀る堂で、寺内最大の建物。

 

 

横から向拝を見る

 

 

正面から境内および参道側を見る。

 

 

御影堂の側面。右手の斜面の上に阿弥陀堂がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

廊下伝いに各堂をまわり、御影堂から阿弥陀堂へは、エレベーターも設置されている。

 

 

 

 

 

 

阿弥陀堂【京都府指定有形文化財】   入母屋造、本瓦葺き。本堂でもある。慶長2年(1597)に大阪の四天王寺に建立された曼荼羅堂を豊臣秀頼が慶長12年(1607)に現在地に移築。本尊の「みかえり阿弥陀」像(国重要文化財)を安置する。入母屋造、本瓦葺き。

 

 

 

 

 

本尊 阿弥陀如来立像【国重要文化財】     「みかえり阿弥陀」の通称で知られる、頭部を左(向かって右)に向けた特異な姿の像。像高77.6cmと、三尺像形式の中では小さい方である。かつては鎌倉時代の作とされたこともあったが、作風、構造等の特色から、平安時代末期、12世紀後半の作と見るのが妥当である。左方を向くという特殊な姿勢によって、像体の正面から見るとほとんど真横を向いてしまうため、頭部右側をやや大きく、左側を小さくする事で頭部の印象が損なわれないよう工夫を払っている。           (画像はネットから)

 

 

 

阿弥陀堂から御影堂を見る。

 

 

阿弥陀堂へはエレベーターがあり正面がエレベーター塔屋。

 

 

 

阿弥陀堂の外廊から御影堂を見る。

 

 

鐘楼された【京都府指定有形文化財】   宝永4年(1707)に再建されたもの。梵鐘は寛保3年(1743)に鋳造。

 

 

御影堂から開山堂への回廊。

 

 

 

 

 

開山堂。

 

 

臥龍廊。     寺伝では永正年間(1504~1521)の建立とされるが、現在の建物の部材は昭和時代のもの。階段部分は地形に沿ってねじれを作られた珍しい階段。

 

 

 臥龍廊とは屋根の反りが龍の背中に似ていることから名付けられた。

 

 

崖に沿って建つ平坦の廊下。

 

 

臥龍廊の先に開山堂がある。

 

 

カップルが記念撮影をしていたので拝借。開山堂にて。 堂は写真で分かるように懸崖造り。

 

 

 

臥龍廊を下り堂宇巡りを終えて、いったん外に出て小高い山の中腹にある多宝塔へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

多宝塔はいわゆる三重塔。その境内は狭く塔全体を撮る離れた余裕がない。

 

 

多宝塔から京都市街を見下ろす。

 

 

 

 

 

 

 

 

再びもみじ林に戻り、庭園を散策する。

 

 

庭園には大きな法生池がある。

 

 

池の中心には弁天社という祠が建てられている。 石の橋、錦雲橋が架かる。

 

 

 

 

 

法生池をとおし釈迦堂、御影堂の屋根と山の中腹に多宝塔。

 

 

 

 

法生池のほとりにある待合、展望舎の夢庵の花頭窓からもみじ林をみる。紅葉の季節なら最高のアングルになるだろうが・・・。

 

 

もみじ林を歩く。真冬のシーズンオフ誰もいない。

 

 

 

 

 

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー永観が京都の人びとに親しまれた理由は、いまでいう福祉事業に熱心に取り組んだためだった。奈良時代に勧進や地域開発をおこなった僧・行基のように、永観も衆生救済のために命がけで奔走したといわれている。寺伝によれば、永観は六十五歳のとき、永観堂の境内の薬王院という病院を建立したという。永観はここに病気で苦しむたくさんの人びとを収容して、薬湯を施すなどの治療をおこなったのだった。また永観は獄舎を慰問して、罪を犯した囚人たちのために念仏を称えてもいる。その上、永観は貧しい人びとに、自分が持っているものを、なんでも惜しげなく分け与えてしまったらしい。庭の梅の木が実をつけると、それもすべて病人に与えたので、人びとはその梅を「悲田梅」と呼んで永観を慕ったといわれる。最初は、エリート学僧だった永観は、それとは対極的な、庶民の念仏の指導者に転身したといえるだろう。永観は念仏を称えることによって、貴賤の差別なく阿弥陀如来の光明に浴することができる、と人びとに説いた。

 

 

 

御朱印

 

 

永観堂 終了

(参考文献)  
五木寛之著「百寺巡礼」第九巻京都Ⅱ(講談社刊) 永観堂HP フリー百科事典Wikipedia 

 

 

 

 

 

 

 


54 金戒光明寺 

2023-11-08 | 京都府

古寺巡り 金戒光明寺

幕末に京都守護職の本陣が置かれ会津藩や新選組ゆかりの寺

 

 

知恩院とならぶ格式を誇る浄土宗の七大本山の一つ。また京都四箇本山(他に知恩院など)の一つである。初めは念仏道場として利用されていた。境内には皇族や、公家の茶の湯に使われた「黒谷明星水」という名水がある

承安5年(1175)春、浄土宗の開宗を決めた法然が比叡山の黒谷に下った。岡を歩くと、大きな石があり、法然はそこに腰掛けた。すると、その石から紫の雲が立ち上り、大空を覆い、西の空には、金色の光が放たれた。そこで法然はうたたねをすると夢の中で紫雲がたなびき、下半身がまるで仏のように金色に輝く善導が現れ、対面を果たした。これにより、法然はますます浄土宗開宗の意思を強固にした。こうして法然はこの地に草庵を結んだ。これがこの寺の始まりであるとされる。なお、この地は元々藤原顕時の別荘があり、叡空に帰依した顕時が叡空に寄進して白河の禅房が建てられたのである。それを法然が貰い受け、次いで顕時の孫である信空が継ぐ形となった。慶長10年(1612)には豊臣秀頼によって阿弥陀堂が再建されている。江戸時代初期に江戸幕府によって知恩院とともに城郭風構造に改修された。そのため文久2年(1862)には、京都守護職となった会津藩の本陣となっている。

京都守護職本陣。会津藩主松平容保が、幕末の真っただ中文久2年(1862)に京都守護職に就任すると、京都守護職会津藩の本陣となり、藩兵1,000人が京都に常駐した。しかし、会津藩士のみでは手が回りきらなかったため、守護職御預かりとして新選組をその支配下に置き、治安の維持に当たらせた。慶応3年(1868)に大政奉還後の王政復古の大号令によって、薩摩藩と長州藩が京都市中の支配権を確立したため、京都守護職は設置後6年をもって廃止された。ここ黒谷の地で、鳥羽・伏見の戦いで戦死した会津藩士の菩提を弔っている。

 

参拝日   令和5年(2013)2月16日(木)  天候曇り

 

所在地   京都府京都市左京区黒谷町121

山 号   紫雲山

宗 派   浄土宗

寺 格   大本山

本 尊   阿弥陀如来

創建年   承安5年(1175)

開 山   法然

正式名   紫雲山金戒光明寺

別 称   くろ谷さん  白河禅坊

札所等   洛陽三十三所観音霊場第6番 ほか

文化財   三重塔「文殊塔」ほか(国重要文化財)山門、阿弥陀堂(京都府指定有形文化財)

 

 

 

 

境内図                             (金戒光明寺HPより)

 

 

高麗門。        入り口の門で、高さ約6.8m。2本柱に切妻屋根。この形式は城郭用で寺社門としては極めて珍しい造。徳川家康が京都に盤石の礎を 築くため幕府直轄地として二条城を作った際、黒谷と知恩院はいざという時の要塞になると「高麗門」を城構えに建て替えたもの。

 

 

よく見ると、寺門というよりも城門。

 

 

左側が小高い丘で金戒光明寺の境内であり、その下の参道を進む。

 

 

幕末には会津藩が駐屯をしており鳥羽伏見の戦いで戦死した士を弔っている。

 

 

大きな山門。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

門2階への登り口。

 

 

西側横より山門を見る。

 

 

 

山門から京都市街地を見る。

 

 

境内から山門を見る。

 

 

 

門を潜って境内を見る。

 

 

勢至丸座像。      長承2年(1133)、法然は美作国久米南条の稲岡庄で生まれで、幼名を勢至丸としていた。

 

 

山門から御影堂方向。

 

 

約4万坪の広い寺域。 会津藩と新選組が駐屯していた幕末のころは、大小52の宿坊を備え、大方丈及び宿坊などに1000名以上の軍隊が寄宿していた。

 

 

今でも新選組の旗がひらめく。

 

 

鐘楼。 

 

 

見晴らしの良い高台に建てられた鐘楼。

 

納骨堂。  元禄2年(1689)に経蔵として建立され、黄檗版一切経が納められていたが、現在は収蔵庫に保管されている。平成23年(2011)の法然上人八百年遠忌の記念事業で大修理が行われ納骨堂として使用されるようになった。

 

 

阿弥陀堂。  慶長10年(1605)豊臣秀頼により再建され、当寺では一番古い建物。本尊は阿弥陀如来。

 

 

 

 

御影堂【国重要文化財】     大殿ともいう当寺の本堂。法然75歳児の肖像を安置。昭和9年(1934)火災により焼失。昭和19年(1944)に再建された。本尊の阿弥陀如来座像の他、中山文殊、吉備観音などを安置する。

 

 

正面の向拝。

 

 

 

 

 

向拝を横から見る。

 

 

吉備観音像【国重要文化財】。    奈良時代の学者吉備真備が遣唐使として帰国の際、船が遭難しそうになり「南無観世音菩薩」と唱えたところ、たちまちその難を免れることができた。真備はその時、唐より持ち帰った栴檀香木で行基菩薩に頼み観音さまを刻んでもらう。この縁起によりこの観音さまを吉備真備に因み『吉備観音』と呼ぶ。元は吉田中山の吉田寺に奉安されていたが、江戸時代の寛文八年(1668)に吉田寺が廃寺となったため徳川幕府の命により、金戒光明寺へ移された。

 

 

 

御影堂の正面から境内を見る。

 

 

平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した武将・熊谷直實(くまがいなおざね)が黒谷で出家の際、着けていた鎧をかけたと伝わる「鎧かけ松」。平成26年三代目が植樹された。

 

 

大方丈唐門 【国有形文化財】    方丈の門で昭和9年(1934)に方丈(国有形文化財) のに火災により、ともに焼失し昭和19年(1944)に再建された。なお、方丈は非公開。

 

 

方丈の唐門前から御影堂を見る。

 

 

方丈庭園。                 (写真はいずれも植爾加藤造園HPより)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

清和殿と接続して新清和殿。

 

 

新清和殿。

 

 

清和殿に繋がり社務所の入り口。

 

 

 

清和殿の正面。 清和殿は安永8年(1779)建立された。

五劫思惟阿弥陀仏。   通常の阿弥陀仏と違い頭髪がかぶさるような非常に大きな髪型が特徴。石で彫刻された石仏で、江戸時代中頃の制作と思われる。              「無量寿経」によると、阿弥陀仏が法蔵菩薩の時、もろもろの衆生を救わんと五劫の間ただひたすら思惟をこらし四十八願をたて、修行をされ阿弥陀仏となられたとあり、五劫思惟された時のお姿をあらわしたもの。五劫とは時の長さで一劫が五つということ。一劫とは「四十里立方(約160km)の大岩に天女が三年に一度舞い降りて羽衣で撫で、その岩が無くなるまでの長い時間」のことで、五劫はさらにその5倍ということ。そのような気の遠くなるような長い時間、思惟をこらし修行をされた結果、髪の毛が伸びて渦高く螺髪を積み重ねた頭となられた様子を表したのが五劫思惟阿弥陀仏。全国でも16体ほどしかみられないという。
落語の「寿限無寿限無、五劫のすり切れ」はここからきている。

                       (写真は金戒光明寺HPより)

 

 

案内図

 

 

 

御朱印

 

 

 

金戒光明寺 終了

 

(参考文献) 金戒光明寺HP フリー百科事典Wikipedia  植爾加藤造園HP

53 真如堂

2023-11-05 | 京都府

百寺巡礼第25番 真如堂

物語の寺に念仏がはじまる

 

 

朝一番に銀閣寺、つぎに法然院、そして3番目の寺がこの真如堂である。哲学の道伝いの法然院の正面に見える小高い丘に真如堂がある。

永観2年(984)、比叡山延暦寺の僧である戒算が夢告によって、延暦寺常行堂の本尊である阿弥陀如来を神楽岡東の東三条院詮子(一条天皇生母)の離宮に安置したのが始まり。正暦3年(992)に、一条天皇の勅許を得て本堂が創建されたという。しかし応仁元年(1467)に始まった応仁の乱に巻き込まれ堂塔は焼失。その後何度かの移転や再建と焼失を繰り返し、現在の堂宇は元禄6年(1693)に東山天皇の勅によって、現在地に移転、再建し享保2年(1717)に本堂が完成。三井家の菩提寺で三井高利ら三井一族の墓石が並んでいる。浄土宗の重要な仏教行事のお十夜は、この寺が発祥地。近年は紅葉の名所として人気が高まっており、紅葉期は多くの人が訪れるが、普段は静かな寺院である。

 

参拝日    令和5年(2023) 2月16日(木)天候曇り     

 

所在地    京都府京都市左京区浄土寺真如町82

山 号    鈴聲山

宗 派    天台宗

本 尊    阿弥陀如来(国重要文化財)

創建年    永観2年(984)

開 山    戒算

正式名    鈴聲山真正極楽寺

別 称    真如堂 頷きの阿弥陀

札所等    洛陽三十三所観音霊場第5番

文化財    法華経第6巻(国宝) 本堂(国重要文化財)ほか

 

 

境内地図。

 

 

 

真如堂入り口

 

 

総門。   元禄8年(1695)に完成。真如堂西側の神楽岡(吉田神社)の神々が夜にお参りに来る際につまずかないように敷居がないといわれる。通称「赤門」と呼ぶ。

 

 

黒々とした三重塔を右に見ながら、ゆるやかなのぼり坂になっている石畳の参道をあがると、青空をバックにした本堂がゆったりとその全容を見せてくる。私はこの風景が大好きだ。(五木寛之著「百寺巡礼」第三巻京都Ⅰより)

 

 

三重塔。    高さ30mほど。宝暦年間(1751~1764)に建てられ、文化14年(1817)に再建された。江戸時代の建築様式をしっかり体現し、各層に擬宝珠勾欄を設けた。その姿は古塔の風格を感じさせる。

 

 

 

 

 

 

 

組物や垂木の小口が白く塗られているのが特徴である。

 

 

 

 

 

 

 

 

本堂。  総欅造りの桁行七間、梁行七間の大きさ。一重、入母屋造、正面向拝三間、背面向拝一間、本瓦葺。

 

 

 

 

 

度々の戦火で焼失し、享保2年(1717)に再建。本瓦葺の入母屋造でゆったりと構えている。

 

 

扁額「真如堂」。

 

 

 

 

 

向拝から総門方向(境内)を見る。

 

 

向拝。

 

 

外陣を横から見通す。

 

 

内陣は金箔の天蓋や瓔珞(ようらく)で厳かに飾られている。

 

阿弥陀如来(本尊)。 うなずきの弥陀と呼ばれる。阿弥陀如来は、平安時代の比叡山の高僧・慈覚大師円仁の作。一木造で、九品来迎印の阿弥陀如来立像の中では最も古いとされている。左に不動明王と右に千手観音を従えており、その御厨子は年に1日だけ開帳(一般公開)される。

最澄に師事していた慈覚大師円仁が苗鹿大明神で見つけた霊木で阿弥陀如来像をつくり、比叡山修行僧の本尊として白毫(びゃくごう)を入れて完成させようとしたところ、如来は首を振って拒否した。「では京に出てすべての人々、特に女性をお救いください」と頼むと如来は三度うなずいたという伝説から、「うなずきの弥陀」と呼ばれている。(写真は真如堂HPより

 

 

本堂から書院への渡り廊下。

 

 

 

 

 

書院の玄関。

 

 

書院玄関の玄関の間。

 

 

書院の廊下伝いに涅槃の庭を拝観できる。

 

 

松の間。 前川文嶺の子息前川孝嶺の襖絵は松の絵。

 

 

 

 

床の間と床脇には天袋と違い棚が付く。

 

 

白梅が描かれた襖絵。

 

 

孔雀の間。    明治38年(1905)に日本画家前川文嶺が描いた襖絵。

 

 

 

 

 

二つの枯山水庭園と一つの路地庭を廊下から拝観できるのが、この寺の特徴でもある。

 

涅槃の庭。  枯山水の庭で、昭和63年(1988)に、曾根三郎氏によって作られた新しい庭。東山三十六峰を借景に、向かって左(北)を頭にしたお釈迦様が右脇を下にして横たわり、その周りを弟子たちが取り囲んで嘆き悲しんでいる様子が石によって表現されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

白砂はインドの大河・インダス川の流れを表している。

 

生垣は高さを揃えた前生垣と緩やかな波を持つ後生垣の二段構成で、借景の東山連峰との調和を考えた造りだといわれる。

 

 

 

 

 

 

 

南庭。切石による延段と白砂と苔庭の組み合わせの「真」の庭は、涅槃の庭の延長になる。  なお、切石のみで構成した延べ段を「真」、自然石のみで構成したものを「草」、切石と自然石をミックスしたものを「行」と表現する。これは書道の「楷書(真書)」「草書」に倣うもの。

 

 

燈明寺燈籠。  鎌倉時代に作られ、現在の京都・木津川市の燈明寺(現在は廃寺)から寄進されたもの。

 

 

 

 

 

書院中庭。 この先は茶室に繋がる路地庭にしている。

 

 

書院「松の間」。    襖絵の作者は、明治から大正にかけて活躍した鈴木派の祖である鈴木百年の長男であり、上村松園の初めの師としても知られる鈴木松年の筆によるもの。

 

 

 

 

 

松の間から見る隋縁の庭。

 

隋縁の庭。  平成22年(2010)に作られた庭。モダンな庭園造りで知られる日本庭園史の研究家・重森三玲の孫にあたる重森千靑氏によって作庭された。三井家の家紋である四つ目の家紋がモチーフとした意匠。

 

 

 

 

 

 

四つ目の家紋と石を組み合わせた。白砂、黒砂、茶砂の三色を組み合わせている。

 

 

 

 

 

 

書院から渡り廊下を通り、本堂の外廊下をぐるりと回り建物の外に出る。

 

 

本堂の外廊下からは、境内に点在する小さな堂宇が目に入る。

 

 

 

 

 

帰りの本堂から見る三重塔。

 

 

帰りの総門を見下ろす。

 

 

真如堂からすぐ南側に建つ金戒光明寺に。

 

 

案内図

  2月15日 銀閣寺を拝観し、白砂山荘・橋本関雪記念館を見学し「哲学の道」を通り、法然院へ。その後、真如堂に参拝をして最後に金戒光明寺を巡る。ホテルで確認した歩数計は19860歩だった。

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーーー「往生」と言えば、世間では、死ぬこと、成仏すること、または極楽浄土に迎えられて再生すること、ととらえられているだろう。しかし、私はそれとは少し違ったうけとり方をしている。私は「往生」を「生きていく力があたえられること」「生きる喜びを感じさせること」また「悲しみや不安を抱えながらも、それに負けない真の安らぎを覚えること」というふうに考えてきた。法然は。その「往生」を必死で求める当時の人びとに説いた。「難しい学問や、苦しい修行はいらない。ただ一筋に仏を信じて、念仏を称えなさい。それだけでよい。そうすれば、必ずすくわれるのだから」。これは権利主義が強い当時の仏教界からみれば、相当にスキャンダラスな革命的な言動だ。やがて法然と親鸞は流罪に処せられるのだが、それでも「ただ念仏せよ」と、法然は語り続けた。<中略> では、法然はなんの確信があって、そういうことを人びとに語ったのだろうか。一筋に仏を信じて念仏すれば往生できる、という。しかし、それが本当だと客観的に証明するものはどこにもない。にもかかわらず、法然が確信をもってそれを説いたのには、理由があるはずだ。それは法然自身が「念仏」という「易行」によって、実際に救われた人間だったからだと、私は思う。

 

 

 

御朱印

 

 

 

真如堂 終了

 

(参考文献)  
五木寛之著「百寺巡礼」第三巻京都Ⅰ(講談社刊) 真如堂HP フリー百科事典Wikipedia 

(ブログ・HP) 庭園ガイド

 

 


52 銀閣寺

2023-11-02 | 京都府

百寺巡礼第22番 銀閣寺

暗愁の四畳半でため息をつく将軍

 

 

本日は、銀閣寺から白砂村荘、法然院、真如堂。そして金戒光明寺をめぐる予定。先ずは銀閣寺に京都駅からバスでいくことにした。団体客が来ないうちと思い8時30分の開門と同時に中に入る。さすが団体客は無く自由に写真も撮れる。しかし15分後には修学旅行生が押し掛けてきた。銀閣寺は何度も参拝しているが、何度来てもワクワクする寺である。

もともと足利義政の別荘として建てられたのが、この銀閣寺である。室町幕府8代将軍足利義政は、文政5年(1473)に子の足利義尚に将軍職を譲り、 文明14年(1482)から東山の月待山麓に東山山荘(東山殿)の造営を始めた。この地は、応仁の乱で焼亡した浄土寺のあったところであり、近代以降も左京区浄土寺の地名が残っている。当時は応仁の乱が終了した直後であり、京都の経済は疲弊していたが、義政は庶民に段銭(臨時の税)や夫役(労役)を課して東山殿の造営を進め、書画や茶の湯に親しむ風流な隠栖生活を送っていた。造営工事は義政の死の直前まで8年にわたって続けられたが、義政自身は山荘の完成を待たず、工事開始の翌年である文明15年(1483)にはここに移り住んでいた。東山殿には会所、常御所、釣秋亭、竜背橋、泉殿、西指庵、漱せん亭、超然亭などの大規模な建物が建ち、義政の祖父で第3代将軍足利義満が建てた北山殿(後の鹿苑寺)ほどではないが、ある程度政治的機能も持っていた。ただし現存する当時の建物は銀閣と東求堂のみである。

延徳2年(1490)、同年1月に死去した義政の菩提を弔うため東山殿を禅寺に改め、相国寺の末寺として創始されたのが慈照寺である。金閣と通称される鹿苑寺舎利殿には金箔が貼り付けられているのに対し、銀閣と通称される慈照寺観音殿には外壁に黒漆は塗られているが銀箔は使用されていない。「当初は名前のとおり銀箔を貼る予定だったが、幕府の財政事情のためにできなかった」という説や、「銀箔を貼る予定であったが、その前に義政が他界してしまった」という説、「外壁の漆が日光の加減で銀色に輝いて見えたから」という説がある。平成19年(2007)に行われた科学的調査によって創建当時から銀箔が貼られていなかったことが明らかになっている。ちなみに、義政の妻・日野富子は資金援助を一切しなかったともいわれている。

金閣になぞらえて慈照寺観音殿が銀閣と呼ばれるようになったのは江戸時代以降のことである昭和27年(1952)には、庭園が国の特別史跡および特別名勝に指定された。平成6年(1994)には、古都京都の文化財としてユネスコ遺産に登録された。

 

参拝日    令和5年(2023) 2月16日(木) 天候曇り

 

所在地    京都府京都市左京区銀閣寺町2

山 号    東山

院 号    慈照院殿

宗 派    臨済宗相国寺派

寺 格    相国寺境外塔頭

本 尊    釈迦如来

創建年    延徳2年(1490)

開 山    夢窓疎石

開 基    足利義政

正式名    東山慈照禅寺

別 称    銀閣寺、銀閣、東山殿、東山山荘

札所等    神仏霊場巡拝の道第109番

文化財    観音殿(銀閣)、東求堂(国宝) 庭園(国の特別史跡、特別名勝)、世界遺産

 

 

 

参道の手前の堀と桜並木。

 

 

参道の商店街。

 

 

総門の前。

 

 

境内図。

 

 

 

総門へ進む。

 

 

総門。  寛政12年(1800)に再建された。

 

 

銀閣寺垣。   総門から中門を結ぶ入り口の道の両側には背の高い樹木と竹垣。約50mの間に設けられた生け垣で、椿、梔子、山茶花、樫などで構成されている。

 

 

中門。   寛永年間(1624 - 1644)再建。昨日の雪がうっすらと残る。 左手側に拝観受付。

 

 

中門を潜り境内の中に進む。

 

 

左手に庫裡を見ながら進む。この先の宝処関という門を通り、庭園に入る。

 

 

宝処関を潜ると突然銀閣の建物が出現する。

 

観音殿(銀閣)【国宝】  木造2階建ての楼閣建築。境内の錦鏡池の畔に東面して建つ。上棟は長享3年(1489)。初層の平面規模は東面および西面が8.2m、北面が7.0m、南面が5.9mである(西面の北寄りに勝手口が突出しているため、北面は南面より1メートルほど長くなっている)

 

屋根は宝形造、杮葺き、頂に銅製鳳凰を置く。2月の中旬の真冬、昨日小雪がちらつき、屋根に真っ白の雪が残る。こちら側から錦鏡池に姿を映す銀閣の光景は境内随一のビュースポットとなっている。また手前に見えるのが浮石で周囲には当時の有力大名達が献上したといわれる数々の名石が確認できる。なお現在の庭園は江戸時代に改修されたも

 

 

金閣は金箔を貼った建物であるのに対し、銀閣には銀箔は貼られておらず、貼られていた痕跡もない。上層は当初は内外とも黒漆塗であった。

 

屋根は約30年ごとに葺き替えられ、平成20年(2008)から3年をかけ、屋根の葺き替えや柱や壁など傷んだ部材の交換、耐震補強、2階の潮音閣内部に黒漆を塗るなど、大正初期以来の大規模な修復作業が行われた。

 

 

外回りの詳細。

 

 

上層は内外とも黒漆塗で、軒下には彩色があったことが痕跡から判明している。

 

 

屋根の頂部には銅製の鳳凰を飾る。

上層は「潮音閣」と称し、初層とはに異なって禅宗様の仏堂風に造る。柱間は東西南北とも3間で、内部は仕切りのない1室に、観音菩薩坐像を安置し、四周に縁と高欄をめぐらす。東面と西面のみ形式が同一で桟唐戸を設ける。南面と北面は異なり、南面は中央間を桟唐戸、両脇間を花頭窓になっている。北面は中央間が桟唐戸、両脇間は窓がなく板壁である。東面と西面には出入口はなく、3間とも花頭窓とする。柱間寸法は、東面と西面が3間を等間隔に割り付けるのに対し、南面と北面は戸の立つ中央間を両脇間より広く取っている。

 

 

初層の外周は、南面と西面は腰壁入りの障子窓とし、北面は東半部が腰壁入りの障子窓、西半部は土壁とする。

 

 

地表面は苔に覆われている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東面と西面は、桁を支える主要柱の外側に張り出しを設けており、そのため、回縁は東側と西側において幅が狭くなっている。花頭窓はこの張り出し部に設けられ、東西の張り出しは、室内では造り付けの腰掛となっている。

 

 

観音堂のすぐ隣傍に八幡社という祠がありその石の鳥居を通して向月台を見る。

 

 

観音堂(銀閣)と向月台。 2つの砂盛りの一つで、今のような形になったのは江戸時代後期とされている。だが、最初は誰がどう作ったかはよくわからないという。

 

 

 

 

 

 

向月台。   白砂を円錐台形に盛り上げたもの。高さ約180cm、頂上部の直径は120cm。元々はお椀を伏せたような形だったが、人の手によって修正され、歳月と共に形状が変化し、今のような山形になったと言われている。

 

 

 

 

 

銀沙灘。   白砂を段形に盛り上げ、平面に波紋を表現したもの。

 

 

盛砂の厚みは約65Cm。盛砂は京都特産の白川砂を使用し、この砂は反射率が高いため、月の光を反射して方丈を淡く照らす効果があると言われる。

 

 

 

 

方丈(本堂)。 江戸中期の建造。銀沙灘と対象をなすその堂々たるたたずまいは、義政公の遺徳をも偲ばせる。本尊として釈迦牟尼仏を安置。内部には江戸期の南宋画家の巨匠、与謝蕪村、池大雅の襖絵が所蔵されている。

 

 

正面の扁額は「東山水上行(トウザンスイジョウコウ)」と書いてある。

 

 

外廊下の居た扉に絵が描いてる。

 

 

本堂の全景。

 

 

 

 

 

本堂の袖に作られた花頭窓のある小部屋。

 

 

花頭窓を通して銀砂灘を覗くのが素晴らしい。

 

袈裟型手水鉢。   方丈(本堂)と東求堂をつなぐ渡り廊下の近くに置かれている。江戸時代の作で、花崗岩に市松模様の意匠が彫られ、それが僧侶の袈裟の模様に似ていることからと呼ばれている。

 

 

東求堂【国宝】。          観音殿(銀閣)とともに、東山殿造営当時の遺構として現存する堂宇。東求堂は本来持仏堂、すなわち阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂だが、浄土信仰の象徴として東求堂を建て、禅宗様式の庭園を周囲にめぐらしたところに、義政公の精神世界を垣間見ることができる。

 

東求堂の内部は、阿弥陀三尊を安置した持仏堂、北向書院、西向床、四畳の間に分かれる。その中の北向書院は“同仁斎”と呼ばれる四畳半の小座敷で、その名は中国・唐を代表する文人・韓愈(かんゆ)の言葉“聖人は一視同人(聖人は人を上下隔てなく愛する)”に由来しているという。

 

 

分界橋。 写真中央の石橋で、向月台と銀閣の間を架け渡している。

 

 

錦鏡池    池泉回遊式の庭園で、中心となる錦鏡池が東求堂から銀閣にかけて配置されている。

 

 

池には仙人洲や白鶴島といった中島が配置され、それぞれ自然石を利用した橋が架けられている。

 

 

 

 

 

大内石。 錦鏡地には石がいくつもあって、ほかに「座禅石」「浮石」と書かれた札が立つ。この数々の石は、各地の大名によって献上された諸侯石である。

 

 

千代の槙。 樹齢500年という槙の大木。

 

 

洗月泉。   苔むした石組みの上から一筋の小さな滝が落ちている。山部山畔から流れ落ちる水を銀閣・東求堂のある下段の庭へ導いている。

 

 

よく手入れされた苔。

 

 

 

 

 

この日も庭師の人が苔の手入れを行っていた。

 

 

月待山の麓にある展望所に向かう。

 

 

展望所から見た京都市街。正面は吉田山。

 

 

展望所から見た銀沙灘。

 

 

展望所から見た、庫裡と本堂、東求堂、そして書院。

 

 

屋根に粉雪を冠った観音堂(銀閣)。

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー応仁の乱後の疲弊した状況にもかかわらず、たびたび抵抗されながらも義政は、大名から造園のための膨大な資金を集めてしまったのである。なぜ、それ可能であったのだろう。そこには、義政に代表される文化的な素養に対する諸大名の憧れ、尊敬というものがあったのではないか。文武両道ともいうのだろうか。当時の諸大名はもちろん武を大事にしていたが、カルチャーというものに対する尊崇の念も強く抱いていたのではないかと思われてならない。そして、政治手腕は無いけれども、文化に関しては、あの義政は第一人者である、というのが衆目の一致するところではないかと思われてならない。つまり、東山文化というのは、焦土と化した応仁の乱後、厭戦気分と文化への憧れが、ギリギリのエネルギーをはらんで京都の郊外に花開かせた。ある意味では。特異な文化だったと言っていいのだろう。

 

 

 

御朱印

 

 

 

銀閣寺 終了

 

(参考文献)  
五木寛之著「百寺巡礼」第三巻京都Ⅰ(講談社刊) 銀閣寺HP フリー百科事典Wikipedia 

(ブログ)京都トリビア×Trivia in kyoto