『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

51 法然院

2023-10-30 | 京都府

百寺巡礼第90番 法然院

念仏の原点に戻ろうとする寺のいま

 

哲学の道は、若い人たちに人気のある通りとしてよく知られている。この小道は、琵琶湖湖水に沿って、北は銀閣寺から南は熊野若王子神社までつづく。なぜ「哲学」なのかといえば、かって哲学者の西田幾太郎がこのあたりを散策して、思索にふけっていたからだという。たしかに散策には絶好の場所で、哲学者ならずとも、こんなふうに天気のいい日に歩くと、なにかアイデアがえられるような気がする。京都の中心部からわずかに離れただけなのに、山里にきたような感じがする。もし、今度京都に住むとしたら、やはりこの東山山麓に沿った一角だろうな、と思うほどである(五木寛之著「百寺巡礼」第九巻京都Ⅱより)

鎌倉時代の初め、専修念佛の元祖法然房源空上人は、鹿ヶ谷の草庵で弟子の安楽・住蓮とともに、念佛三昧の別行を修し、六時礼讃を唱えられた。建永元年(1206)、後鳥羽上皇の熊野臨幸の留守中に、院の女房松虫・鈴虫が安楽・住蓮を慕って出家し上皇の逆鱗に触れるという事件が生じ、法然上人は讃岐国へ流罪、安楽・住蓮は死罪となり、その後草庵は久しく荒廃することとなった。江戸時代初期の延宝8年(1680)、知恩院第三十八世萬無和尚は、元祖法然上人ゆかりの地に念佛道場を建立することを発願し、弟子の忍澂和尚によって、現在の伽藍の基礎が築かれた。

浄土宗内の独立した一本山であったが、昭和28年(1953)に浄土宗より独立し、単立宗教法人となり現在に至っている。通常伽藍内は非公開であるが、毎年、4月1日から7日までと11月1日から7日までの年2回、伽藍内部の一般公開を行っている。

 

参拝日     令和5年(2023) 2月16日(木)天候曇り

 

所在地     京都府京都市左京区鹿ヶ谷御所ノ段町30                  山 号     善気山  本山獅子谷                           院 号     法然院                                  宗 旨     浄土宗                                  宗 派     単立                                   本 尊     阿弥陀如来                                創建年     鎌倉時代初期                               開 山     法然                                   中興年     江戸時代初期                               中 興     萬無  忍澂                                 正式名     善気山 法然院 萬無教寺                          別 称     本山獅子谷 法然院                            文化財     方丈障壁画(国重要文化財)

 

 

 

法然院の入り口。

 

 

 

 

 

境内図                             (法然院HPより)

 

 

 

法然院の参道。 正面に山門。 この参道は心地よい風情がある。 

 

山門。 左端の石碑は「不許葷辛酒肉入山門」(くんしんしゅにく、山門に入るを許さず)と彫られている。「ニラやニンニクといった臭く辛い野菜や肉など生ぐさものを食べたもの、酒を飲んだものは、山門に入るべからず」という意味。

 

 

法然院山門。参道側から。

 

 

山門。    茅葺の数寄屋造りの門。屋根にはみどりの苔が付き、昨日の京都地方は小雪が舞い、うっすらと残った白い雪が風情をつくっている。正面より境内のなかから見た方が風情がある。

 

 

山門は明治20年(1887)に焼失、昭和に入り倒木にあたり倒壊。現在の山門はその後復元されたもの。

 

 

山門から境内を見る。山門までは石段を数段上がり、山門から数段下がり境内に進む。

 

白砂壇。 山門の石段を下り左右に白い盛り砂がある。元は池が無く5つの白砂壇が盛られていたが、放生池を造ることによって、2つの白砂壇が残ったとされる。砂壇は水を表し、季節ごと様々な文様が描かれる。砂壇の間を通ることは、心身を清めて浄域に入ることを意味している。

 

 

山門と白砂壇。

 

 

 

 

 

 

 

 

講堂。  元禄7年(1694)の建立時は大浴室であった。昭和52年(1977)に内部を改装し、現在は講堂として、講演会、個展、コンサートなどに利用。

 

 

 

 

 

 

 

 

本堂前の石段の上にある石の祠には、地蔵菩薩像が祀られている。江戸時代の元禄3年(1690)に法然寺の中興忍澂の作になる。

 

 

 

 

庭園は、知泉座観式庭園として、縁側に座って見るように作られている。放生池と名が付く池は、「心」の文字の形で、小さな橋が架かる。堂宇から橋の手前が現世で、橋の向こうは来世で極楽浄土を現している。

 

 

 

 

 

木々が鬱蒼とした境内。

 

本堂。  延宝9年(1681)に客殿造りの堂宇が完成。貞享5年(1688)に再建され、その際に仏殿と拝殿を別に設けた。堂内には本尊となる阿弥陀如来坐像のほかに観音、至誠の両菩薩像、法然上人立像、萬無和尚坐像を安置している。 

 

 

本堂向拝殿。

 

 

 

本堂の玄関。

 

 

本堂玄関の内部。 この寺で内部はここまでしか見られない。

 

 

経堂。   元文2年(1737)の建立。中央に釈迦如来像。両脇に毘沙門天像と韋駄天像を安置。

 

 

 

 

 

 

 

多宝塔。 大正10年(1921)に建てられた。南北朝時代の中元3年(1386)に聖圓阿が引接寺に立てた萬霊塔を模倣拡大したもの。台座の方に何かの文様が刻まれている。

 

 

法然人の境内から見た京都市街。 正面の小高い森が吉田山。

 

 

 

 

 

境内の様子。

 

 

帰り際に山門から参道を見る。

 

 

安楽寺。 法然院の近くの寺で非公開だが、さつきの名所として名高く、時期になれば公開されるようだ。

 

霊鑑寺。   法然院の近くにある寺。臨済宗南禅寺派の門跡尼寺で、通常非公開。承応3年(1654)後水尾天皇が皇女を開基として創建。谷御所、鹿ヶ谷比丘尼御所ともいう。御所人形200点など皇室ゆかりの寺宝が多い。石組に特徴のある江戸時代中期の作庭手法を用いた、格調高い池泉観賞式庭園があり、後水尾天皇遺愛の日光椿をはじめ、椿の名木が広い庭を埋めている。

 

 

案内図

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー法然や親鸞と同じ時代に生きた人びとは、少なくとも浄土というものに光明を見出すことができた。しかし現代の日本人は、浄土というものに実感を持てなくなっている。もし、いまの若者に「浄土はどんなところですか?」と尋ねられたら、なんと答えたらいいのだろうか。とおもうことがある。〈中略〉たとえばアフガニスタンの人びとの場合はどうか。あそこではみづが不足しているので井戸を掘っている。そうすると、水がいくらでもある世界が、アフガニスタンの人びとにとっての浄土かもしれない。あるいは戦乱が長くつづいた国、たとえばボスニア・ヘルツェゴビナの人びとにとっては、平和な場所というだけでも浄土かもしれない。つまり、浄土に関する要求が、いま世界の各地で、同じ時代でもバラバラになってしまっている。そうすると、時代の人びとがあこがれる浄土の新しい物語を、誰かが語ってくれなければいけない。それが現代の経典になるだろう。そういう発想がいま、仏教の方から出てこないのは、とても残念だという気がする。

 

 

御朱印   なし

 

 

法然院 終了

 
(参考文献)  
五木寛之著「百寺巡礼」第九巻京都Ⅱ(講談社刊) 法然院HP  フリー百科事典Wikipedia

 

 


50 東福寺 

2023-10-27 | 京都府

百寺巡礼第89番 東福寺

紅葉の橋を渡る人びとと大伽藍

 

京都の紅葉名所で、その時期には人が一番集まる寺だという。本当は桜や紅葉の最盛期に京都の寺を巡ってみたいが、混雑が嫌いなこと、また人が多いと思うように見たいところも見れない。という理由で京都や奈良はオフシーズンに伺うことにしている。今回も真冬の2月中旬、雪がちらつき屋根にうっすらと雪を載せた堂も見られた。

東福寺という名前は、摂政九條道家が奈良の東大寺と興福寺という二つの大きな寺にあやかって、その名前からそれぞれ「東」と「福」の二文字を取って、東福寺と名付けられたという。嘉禎2年 (1236)より建長7年(1255)まで実に19年を費やして完成した、京都最大の大伽藍である。

工事半ばの寛元元年(1243)には聖一国師を開山に仰ぎ、まず天台・真言・禅の各宗兼学の堂塔を完備したが、元応元年(1319)などに三度の相次ぐ火災のために大部分を焼失。その後、関白一条経道により20余年を経て、再建され再び偉観を誇ることになった。再建後の東福寺は、完全な禅宗寺院としての寺観を整えることとなった。

明治14年(1881)に、仏殿・法堂、方丈、庫裡を焼失。その後、大正6年(1917)より本堂の再建に着工、昭和9年(1934)に落成。明治23年(1890)に方丈、同43年(1910)に庫裡も再建され、鎌倉・室町時代からの重要な古建築に肩を並べて、現代木造建築物の精粋を遺憾なく発揮している。開山国師の頂相、画聖兆殿司(ちょうでんす、明兆)筆の禅画など、鎌倉・室町期の国宝・重要文化財は数多く残されている。

 

参拝日    令和5年(2023) 2月15日(水) 天候曇り時々小雪

 

所在地    京都府京都市東山区本町15丁目778                      山 号    慧日山(えにちさん)                            宗 派    臨済宗東福寺派                               寺 格    大本山  京都五山第四位                          本 尊    釈迦如来                                  創建年    嘉禎2年(1236)                              開 山    円爾                                    開 基    九条道家                                  正式名    慧日山 東福禅寺                               文化財    三門、宋版太平御覧、絹本著色無準師範像ほか(国宝)               

       常楽庵、禅堂、偃月橋、絹本著地蔵菩薩坐像ほか(国重要文化財)庭園(国の名称)

 

JR奈良線東福寺駅から市街地を歩いて10分程度で東福寺に着く。

 

 

市街地の通路から折れ曲がり最初の門の中門。

 

 

境内地図。    (東福寺HPより)

 

 

 

中門を潜ると両側の東福寺の塔頭の門前を進み日下門に辿り着く。ここから東福寺の境内。

 

 

日下門の右側の通り。

 

 

日下門を潜り境内に。 正面右手前方に本堂。

 

 

 

拝観手続きをし、その目の前に通天橋の入り口があり吸い込まれるように通天橋に向かう。

 

 

 

 

 

 

通天橋  境内には三ノ橋川という小川が流れ、洗玉澗(せんぎょくかん)と名が付く渓谷になっている。その渓谷を渡るため、本堂から開山堂を結ぶ橋廊が設けられた。

 

 

洗玉澗の真上に「通天台」として見晴らし台が設けられている。東福寺の景観を見るベストポジションで、むかしから「通天のもみじ」としておなじみの舞台である。

 

 

 

 

 

約2千本の楓の林が眼下に広がり、秋の紅葉シーズンには京都屈指の眺望を誇る。

 

 

 

 

 

 

開山堂側に辿り着く。

 

 

開山堂の入り口から本堂や三門側を見る。

 

 

入り口となる楼門。

 

 

楼門から上ってきた橋廊を振り返る。

 

楼門から見る常楽庵。一般的に開山堂というようだが、この楼門に囲まれた一角は常楽庵といい、開山堂と昭堂(建物が一緒)と書院といわれる塔司寮、鐘楼、庫裡、そして客殿となる普門院からなり、それぞれの建物はつながっている。また裏門と楼門の二つの入り口がある。

 

正面に開山堂と昭堂と左側に普門院が見られる。前庭は、東側に築山風の池泉鑑賞式庭園で、池の中には亀島や枯滝が配置されている。西側は枯山水庭園で、波紋で市松模様がつけられた砂地に鶴島と亀島代わりの石組みが配されている。枯山水庭園と池泉鑑賞式庭園が対峙しながらも見事に調和する、ふたつでひとつの庭園。

 

 

 

 

 

開山堂【国重要文化財】   通天橋を渡った境内の北、最も高い場所に建ち、文政2年(1819)に焼失した後、文政6年(1823)に一条家第20代当主で公卿の一条忠良によって再建された。2階建の楼閣で、開山である円爾弁円(聖一国師)の尊像が安置されている。

 

 

開山堂の楼閣は伝衣閣(でんねかく)と呼ばれ、金閣寺、銀閣、西本願寺の飛雲閣、そして大徳寺の呑湖閣とあわせて「京の五閣」と称されている。

 

 

扁額は「常楽庵」。

 

 

 

開山堂の内部。

 

 

客殿(普門院)。    東面し、桁行20m、梁間17.4mで入母屋造、桟瓦葺き。西面に典座がとりつき、北面2か所と南面1か所からは廊下が延びて塔司寮と楼門に接続する。参拝時に、その廊下の床の平瓦の改修工事中。庭園は白砂の波形で枯山水。

 

 

 

 

 

常楽庵を後に、洗玉澗(せんぎょくかん)と名が付く渓谷のほうに降ることとした。楓の林は地表が苔で覆われ冬でも美しい。

 

愛染堂【国重要文化財】 渓谷に降る途中に丹塗りの杮葺き八角円堂。南北朝時代の建築。昭和12年(1937)万寿寺より移された。愛染明王をまつる。

 

 

月下門のところ。

 

 


臥雲橋を境内側の渓谷を流れる三ノ橋川から見る。この橋は境内の外の一般道に掛かる橋。

 

 

こちらが洗玉澗(せんぎょくかん)。

 

渓谷から見上げた通天橋と通天台。 下から見上げると、天にも通じるように高くそびえて見えることからいる通天橋と名が付けられたという。昭和34年(1959)の台風により崩壊したが2年後に再建、その際橋脚部分は鉄筋コンクリート造となった。

 

 

横から通天台を見る。

 

 

境内は広く、苔に覆われた楓の林が続く。

 

 

2月中旬の平日。天気は曇り小雪ちらつくなかの前撮り風景。 「おめでとうございます」

 

 

恩賜門    明治14年(1881)に方丈、庫裏、法堂、仏殿を焼失。翌年、英照皇太后、昭憲皇后から、再興のための賜金があり、そこから恩賜門と呼ぶようになった。大方丈への入り口だが、通常は締め切り。

 

 

アーチ型の唐破風の下は兎毛通懸魚(うのけどおしげぎょ)に大瓶束、蟇股と、力強いのに優美な装飾が施されている。

 

 

扉の中心に菊の御紋。ほかに唐草や藤の花に花菱の意匠。

 

 

 

 

庫裡。 切妻造の桟瓦葺。 寺務の建物で、方丈庭園への入口はこちらになる。

 

本坊庭園。   方丈とは、禅宗寺院における僧侶の住居のことをいう。後には応接間の役割が強くなった。広大な方丈には東西南北に四庭が配されている。当初は“東福寺方丈「八相の庭」”という名称が、平成26年(2014)に“国指定名勝”に登録され、改めて「国指定名勝 東福寺本坊庭園」となった。禅宗の方丈には、古くから多くの名園が残されてきたが、方丈の四周に庭園を巡らせたものは、こちらの寺のみである。作庭家・重森三玲(1896-1975)によって昭和14年(1939)に完成。当時の創建年代にふさわしい鎌倉時代庭園の質実剛健な風格を基調に、現代芸術の抽象的構成を取り入れた近代禅宗庭園の名作として知られる。

大方丈の堂宇を縁が回る、東西南北それぞれに庭園が配されている。

 

 

東庭。   徹底的に省略した「静」の世界を表すかのような構成で、星座の「北斗七星」を、円柱、白川砂、苔、背後の二重生垣のみによって表現している。北斗七星を表す円柱は、山内にある「東司」で使用されていた礎石で、東司の解体修理をした際に、余材として出てきたものである。

 

 

 

 

 

 

 

東庭を過ぎて北庭へ。

 

 

北庭。     勅使門から方丈に向けて敷きつめられていた切石を再利用し、小市松模様の庭園となっている。まさに西庭の大市松を受けてさらに小さな姿となり、そして東北方向の谷に消えていくという表現方法だという。

 

最初の部分は、西庭の市松を受け継いでいるために、ほぼ正確な市松で配置されているが、程なくしてそれが崩れていき、そして最後はポツン、ポツンと一石ずつ配しながら消えていくという配置構成になっている。この最後に一つずつになるような所は現在のような苔ではなく、白川砂内におかれていたことが、やはり作庭直後の写真を見ると判る。しかもこの白川砂と苔との仕切の線が、三玲が得意とした州浜状の曲線が用いられており、この辺りのコントラストも考えたうえでの設計であったことがわかる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

廊下伝いに北の庭を出ると、ここにも展望台となる舞台が設けられている。本坊から直接、楓林の眺望をしたいとの考えだろう。

 

 

舞台からは通店橋が見渡せる。

 

西庭。庭の大市松模様「井田の庭」は、日本古来から伝えられてきた伝統的な市松模様を、サツキの刈込と葛石の使用によって表現した。この意匠も、この本坊内に使われていた材料で、敷石の縁石(カズラ石)を再使用してできあがった意匠である。

 

 

市松は日本の伝統的な紋様であり、桂離宮内の松琴亭の襖や床に使用され、また修学院離宮などの茶席の腰張りに使用されたりなど、雅な文化の中において使用されていたことがわかる。

 

 

 

地割も斜線上に市松を組み、北側の小市松模様に連続して繋がっていくことを意図して設計されていることがわかる。それをサツキの刈込と白川砂との、はっきりとした色のコントラストを持って表現している。

 

 

西庭と南庭の絵廻り縁の角に門があるが、詳しく分からない。

 

 

方丈。 明治23年(1890)に再建された。

 

 

正面に扁額「方丈」。

 

 

大方丈の内部。 

 

 

南庭  方丈の南側に位置し、日本庭園における定型的な表現方法である、蓬莱神仙思想を中心とした意匠形態となっている。蓬莱、瀛洲、壺梁、方丈の四神仙島を石だけの構成による四つの意匠で表現した。

 

 

 

 

その中の三神仙島(蓬莱、瀛洲、壺梁)には、6mほどの長い石を、立石とのバランスをとりながら横に寝かせて表現。このような石の扱い方は、古庭園における意匠では、ほとんど例がない。この長石を使用することによって、極度なまでの立石を、この大きな横石によってバランスを保つようにしたところが、従来までの石組手法とは異なる新たな提案であった。

 

 

 

 

 

御賜門。   門からの通路はなく白砂の波紋の石庭のため開かずの門なのだろう。

 

築山は、従来は自然の山の表現であった苔山を、京都五山として表現した。しかもここでは一切石を使用せず、山の大きさや高さによって、造形的な美を追求した。また一番奥の築山と、その左側は、できるだけ土塀寄りまでたかさを保ちたかったので、最土塀寄りの部分は、建物からの観賞からは見えないように土留めの石積が成されている。

 

 

境内の中央付近。本堂は一部改修工事中で足場が掛かる。

 

 

本堂(仏殿兼法堂)      明治14年(1881)に仏殿と法堂が焼けた後、大正6年(1917)から再建工事にかかり、昭和9年(1934)に完成した。

 

 

入母屋造、裳階付き。高さ25.5m、間口41.4mの大規模な堂。昭和期の木造建築としては最大級のもの。

 

 

 

 

 

 

 

蒼龍図。 京都在住の日本画家、堂本印象により本堂の天井に描かれた。東西約22m、南北約11mの鏡天井に描かれている。鋭くとがった角と細かく描かれたウロコが特徴。(通常は未公開であるが、特別公開があり/写真はネットから引用) 

 

 

本堂内。本尊釈迦三尊像は鎌倉時代の作で、明治14年の火災後に塔頭の万寿寺から移されたもの。

 

三門【国宝】       現存する禅寺の三門としては日本最古。三門は至徳元年(1384)から再建が始まったが、完成したのは応永32年(1435)のことである。五間三戸二階二重門、入母屋造、本瓦葺。「五間三戸」とは正面の柱間が5つ、うち中央3間が通路になっているという意味。

 

 

 

こちらが表面。「二重門」は2階建ての門だが、「楼門」と違い、1階と2階の境目にも軒の出を作るものをいう。上層に釈迦如来と十六羅漢を安置する。

 

 

 

 

 

扁額は「妙雲閣」。

 

 

境内に華やかに咲き誇る白梅と紅梅。

 

 

 

 

禅堂【国重要文化財】  僧堂、選仏場とも呼ばれる坐禅道場で、貞和3年(1347)の再建。 桁行七間、梁間四間、単層、裳階付切妻造の建物。中世期より現存する最大最古の禅堂。扁額の「選佛場」は宋国径山万寿寺の無準師範の筆。明治14年(1881)に本堂が焼失した後は、この堂を本堂にしていた。

 

 

経堂   寛政6年(1794)に再建された。

 

 

日下門を出て右折し臥雲橋に進む。

 

 

臥雲橋。 東福寺に掛かる三橋の一つ。こちらは境内の外で一般の道路に掛かる橋である。

 

 

 

 

 

ここから眺める楓紅葉は素晴らしい風景で、京都紅葉の代表の一つ。

 

 

残念ながら枯木も山だが、新緑のころ、紅葉のころ・・・素晴らしいのだろう。

 

 

案内図

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーーーやはり、寺というものは、人がたくさん集まる場所であってほしい。たとえ、その人たちが縁なき衆生であってもかまわない。という気がするのである。第五巻で訪ねた東京の浅草寺は、まさに繁華街にあって、大勢のひとがやってくる寺だった。お寺のかたに、参拝者の人数はどれくらいかとお聞きしたとき、「通り抜ける通行人の数もいれると二千万人になります」と笑いながらおっしゃったのを思い出す。文字どおり通り抜けるだけであれ、どんなかたちであっても、寺との縁が生まれてくるというのはいいことだと思う。人の目を楽しませるつかの間の紅葉を目当てにして、来る人もいるだろう。また、長い歴史をもつ禅寺の静かな境地にあこがれて、訪ねてくる人もいるだろう。本尊の阿弥陀如来に篤い信頼を抱いて、参拝しに来る人もいるだろう。世の中にいろいろな人がいるように、寺を訪れる人もいろいろあっていいのだ。

 

 

御朱印

 

東福寺 終了

 

(参考文献)  
五木寛之著「百寺巡礼」第九巻京都Ⅱ(講談社刊) 東福寺HP  フリー百科事典Wikipedia  
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


49 泉涌寺 

2023-10-26 | 京都府

古寺を巡る 泉涌寺

天皇家から篤く信仰された御寺

 

 

東寺の参拝を終えて、次の参拝が泉涌寺で「せんにゅうじ」と呼ぶ。東寺の紅葉の名所・臥雲橋から山あいの道を歩いて約20分。泉涌寺の入り口門に辿り着く。泉涌寺は、東山の一峰である月輪山の麓に広がる。この寺域には、鎌倉時代の後堀川天皇、四条天皇、および江戸時代の後水尾天皇から孝明天皇にいたる天皇陵がある。

皇室の菩提所として、また諸宗兼学の道場として、壮麗な堂宇が甍を連ね、幽閑脱俗の仙境、清浄無垢の法城となっている。

斉衡2年(855)左大臣藤原緒嗣が僧・神修のために山荘を与えて寺となし仙遊寺と称するようになり、建保6年(1218)に、当寺が開山と仰ぐ月輪大師・俊芿(がちりんだいし・しゅんじょう)が宇都宮信房からこの聖地の寄進を受け、宋の法式を取り入れた大伽藍の造営を志し、嘉禄2年(1226)に主要伽藍の完成をみた。その時、寺地の一角から清水が涌き出たことにより泉涌寺と改めた。この泉は今も枯れることなく涌き続けている。

当時朝野の尊信篤く、後鳥羽・順徳上皇、後高倉院をはじめ、北条政子、泰時など、公家・武家両面から深く帰依された。仁治3年(1242)正月、四条天皇崩御の際は、当山で御葬儀が営まれ、山陵が当寺に造営された。その後、南北朝~安土桃山時代の諸天皇の、続いて江戸時代に後陽成天皇から孝明天皇に至る歴代天皇・皇后の御葬儀は当山で執り行われ、山陵境内に設けられて「月輪陵(つきのわのみさぎ)」と名づけられた。こうして当山は皇室の御香華院として、長く篤い信仰を集めることとなる。泉涌寺が「御寺」と呼ばれる所以である。

総門内の参道両側をはじめ山内一円には塔頭寺院が建ちならび、奥まった境内には大門、仏殿、舎利殿を配した中心伽藍と天智天皇、光仁天皇そして桓武天皇以降の天皇・皇族方の御尊牌をお祀りする霊明殿と御座所、庫裡などの建物が甍を連ねている。 全山木々に包まれて静かにたたづむ堂宇、玉砂利の境内は、春は新緑、秋は紅葉に色どられて、一種別天地の雰囲気をかもしだす。

 

参拝日    令和5年(2023)2月15日(水) 天候曇りときどき小雪

 

所在地    京都市京都府東山区泉涌寺山内町27                      山 号    東山 泉山                                  宗 派    天台宗泉涌寺派                                寺 格    総本山                                    本 尊    阿弥陀如来 釈迦如来 弥勒如来                        創建年    斎衛3年(856) (伝)                           開 山    神修 (伝)                                 開 基    藤原緒継                                   正式名    泉山泉涌寺                                  別 称    御寺                                     札所等    洛陽三十三所観音霊場第20番 ほか                       文化財    仏殿、大門、開山堂ほか(国重要文化財)

 

 

境内地図                                                                                                (ネットより)

 

 

総門 東福寺駅前から知積院方面へ通じる広い通りのほぼ中ほどにある泉涌寺通の交差点を東南の方向に向かい参道にある総門。

 

 

総門から大門までの参道。 参道の両側には泉涌寺の塔頭が並ぶ。泉涌寺の参道の両側には泉涌寺の塔頭、来迎院、善能寺、雲龍院、今熊野観音寺、新善光寺、戒光院、即成院、法音院、悲田院が建っている。

 

 

大門の前にある御寺泉涌寺とある石碑。

 

 

大門【国重要文化財】  泉涌寺道を登った所、伽藍の最も高い位置に建つ大門は、「東山J の額を掲げて東山門とも呼ぶ。 仁和寺の慶長度内裏の南門を、寛永年間に移築した四脚門。屋根は切妻造の本瓦葺き、組物は三斗組で妻に板墓股を用いている。 とくに入り側の墓股には唐獅子・龍・膜麟・ 2莫などの霊獣彫刻があるなど桃山建築の遺風を感じさせ、簡素ながら堂々とした正門となっている。

 

 

大門を潜り、緩い坂道の降り参道となっている。

 

 

参道を進むと正面に建っているのが仏殿。

 

仏殿【国重要文化財】   寛文8年(1668)四代将軍徳川家綱によって再建された本堂。外見は重層建築のように見えるが、裳階の付いた一重入母屋造りの本瓦葺き建物。

 

大屋根の軒に扇垂木、組物は詰組、勇壮な花頭窓など、本格的な禅宗様式の唐様建築の特徴を完備した代表作。建物内部は天井まで組物がつらなる空聞が美しく、高い須弥壇には運慶作と伝わる阿弥陀・釈迦・弥鞠の三尊仏が安置されている。

 

 

横から見る。

 

 

 

仏殿と前後して建つ舎利殿。

舎利殿   釈迦の歯(仏牙舎利)を奉安する貴重な霊殿。慶長年間、京都御所の建物を移築改装したもので、仏殿と同時代に現位置へ移された。開山者・俊芿律師が熱願された舎利を、弟子の湛海律師が安貞2年(1228)に宋朝より将来して祀られたもの。現在寛喜2年(1230)将来された韋駄天像・月蓋長者像(共に重文)とともに内陣に奉祀されている。

 

 

向拝の両側に建て込まれた白塗りの格子の蔀戸。

 

 

舎利殿を横から。

 

 

御座所門。

 

 

本坊門。泉涌寺本坊は、霊明殿、御座所、海会堂の3つの建物をつなぐ御座所庭園によって構成されている。一般の参拝者が拝観する入口門でもある。

 

 

本坊の入り口。 向かって左側から入る。 右側が御座所入口になる。

 

 

入口の前庭を見る。右方向に霊明殿。

 

 

御座所の前庭を通して霊明殿を見る。

 

 

 

 

 

御座所の玄関。 正面は御座所門。

 

なお御座所は両陛下はじめ、皇族方の御陵御参詣の際の御休所として現在も使われている。昭和天皇はかつて御陵参拝の際にこの庭をめでられ、「春ふけて 雨のそぼふるいけ水に かじかなくなり ここ泉涌寺」の御製をお詠みになられました。

 

 

 

 

御座所の東南から御殿の南側にかけて、庭園が築かれている。霊明殿・御座所・海会堂そして御陵拝所に取囲まれたて庭園は、曲折する池の汀にさつきが咲き、秋には紅葉、冬は雪化粧した雪見灯篭も観れる四季折々の自然を見せてくれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

庭園の正面には霊明殿の煌びやかな飾り破風のある建物を見せる。

 

 

 

 

 

霊明殿唐門。 

 

 

門の扉は菊の御紋が掲げられている。

 

 

歴代天皇の御尊牌(お位牌)をお把りした場所の通称を霊明殿という。唐門から白砂の庭のむこうに奔されるのが霊明殿。重厚な入母屋造り檎皮葺き、外観は辰殿風、すべて尾州槍材で造られた品格ある建築物。

 

殿内は内陣・中陣・外陣に分かれ、内障は5室の御厨子となっている。それぞれに御扉を設け、中央御扉内には四条天皇御尊像と御尊牌をはじめ、明治天皇・昭憲皇太后・大正天皇・貞明皇后・昭和天皇・香淳皇后の御真影・御尊牌が奉安されている。

 

 

 

 

現在の霊明殿は、明治17年(1884)に明治天皇の思し召しによって宮内省が再建した。

 

 

二月中旬。冬真っ盛りに椿の花が迎えてくれた。

 

 

仏殿から大門を見る。

 

 

泉涌寺の周りには、このような皇族の墓陵が数多くある。

 

 

こちらは93代後伏見天皇の十八世皇孫の守脩親王墓。120代仁孝天皇の皇女・淑子内親王墓。93代後伏見天皇の十九世皇孫朝彦親王墓。

 

 

 

案内図。

 

 

 

御朱印

 

 

 

 

泉涌寺 終了

 

(参考文献)   泉涌寺HP  フリー百科事典Wikipedia  
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


48 三十三間堂 

2023-10-23 | 京都府

古寺を巡る 三十三間堂

 

1001躯の観音像が一堂に並ぶ、おなじみのお寺。

 

 

 

三十三間堂は何度も参拝をしているが、今回、4日間の京都巡りで改めて参拝をすることにした。当じつは冬と春の繋目のとき、寒くはないが雪がちらつき、写真に雪の降る様子だ写されていた。

建物の正式名称は「蓮華王院本堂」。同じ京都市東山区にある妙法院の飛地境内であり、同院が所有・管理している。元は後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂で、蓮華王院の名称は千手観音の別称「蓮華王」に由来する。

創建当時は五重塔なども建つ本格的な寺院であったが、建長元年(1249)の大火で焼失した。文永3年(1266)に本堂のみが再建された。現在「三十三間堂」と称されている堂であり、当時は朱塗りの外装で、内装も極彩色で飾られていたという。室町時代は足利義政の命により、桃山時代は豊臣秀吉により、修復や整備が行われた。現代になって、平成29年(2017)には、45年にわたった千手観音立像全1,001体の修復が完了した。

 

参拝日    令和5年(2023)2月15日(水) 天候曇り時々小雪

 

所在地    京都府京都市東山区三十三間堂廻町657                     山 号    妙法院に所属する寺により山号はなし                     院 号    蓮華王院                                  宗 派    天台宗                                   寺 格    妙法院飛び地境内                              本 尊    千手観音(国宝)                              創建年    長寛2年(1165)                              開 基    後白河天皇                                 正式名    蓮華王院本堂                                別 称    三十三間堂                                 札所等    洛陽三十三所観音霊場第17番                         文化財    本堂、木造千手観音立像(1,001躯)、木造二十八部衆立像ほか(国宝)        

 

 

南大門【国重要文化財】    桃山時代の慶長5年(1600)建立。切り妻造り、本瓦葺き、三間一戸の八脚門。境内東南側の敷地外に建つ。虹梁の刻銘により豊臣秀頼が慶長5年に新築したものと推測されている。かつては慶長6年(1601)にこれも秀頼によって建てられた西大門もあったが、明治28年(1895)東寺に移築され南大門(重要文化財)となっている。

 

 

 

 

 

南大門から朱塗りの東大門及び回廊の方向を見る。真正面は京都国立博物館。

 

 

 

東大門の回廊を見る。

 

 

東大門に繋がる回廊。木部の朱塗りと白壁に緑の連子窓が綺麗。

 

 

 

東大門前のお寺(法住寺)の門と紅梅。

 

 

 

普門閣  ここが入り口。

 

 

 

普門閣を潜れば、正面に本堂、左に庭園。本堂の正面(向拝)は庭園側になる。

 

 

 

 

 

 

 

昭和36年(1961)の後白河法皇770回忌記念事業の際に、「昭和の小堀遠州」と称えられた作庭家・中根金作氏により造園された。その後、中根金作氏を祖父にもつ中根行宏氏、直紀氏により庭園の整備がすすみ、令和3年(2021年)に保存工事が完了。

 

 

東大門   昭和36年(1961)の白河法皇770回忌記念事業として再建された。

 

 

 

 

後白河法皇没後800年に建てられた石碑。

 

 

鐘楼。  昭和63年(1988)に再建された。

 

 

 

 

 

堂内は参拝客が大勢いるが、庭の見学には興味がないのか客が少ない。

 

 

本堂の全景を見る。

 

 

本堂【国宝】 三十三間堂と呼ばれる。現在の堂は文永3年(1266)に再建されたもの。

 

三十三間堂の名称は、本堂が平安時代の建物の平面規模を表す間面記法でいう「三十三間四面」となることに由来する。これは桁行三十三間]の周囲四面に一間の庇を巡らせたという意味である。つまり柱間が33あるのは本堂の内陣であり、建物外部から見える柱間は35ある。

 

ここでいう「間」(けん)は長さの単位ではなく、社寺建築の柱間の数を表す建築用語である。三十三間堂の柱間寸法は一定ではなくその柱間も今日柱間として使われる京間・中京間・田舎間のどれにも該当しない。三十三間堂の1間(柱間)は今日の2間(12尺)に相当する。実際の外縁小口間の長さ約121mとなる。

 

 

正面中央に7間の向拝を設ける。現状の向拝は江戸時代初期、慶安3年(1650)のものであるが、後白河上皇による創建当初から現状のような形式の向拝が取り付いていたとみられる。

 

 

 

 

格格子の障子戸と菱格子の欄間。

 

 

軒は二軒繁垂木、組物は出組(肘木を壁面から一手持ち出す)を用いる。柱間装置は正面はすべて板扉。

そもそも「33」は観音菩薩にある縁のある数字で、『法華経』等に観音菩薩が33種の姿に変じて衆生を救うと説かれることによる。俗に「三十三間堂の仏の数は三万三千三十三体」というのは、本尊と脇仏の一千一体がそれぞれ33に化身するからである。また、平成28年(2016)に京都市埋蔵文化財研究所の調査により、地盤は砂と粘土を層状に積んで構成されていることが明らかになった。これは積層ゴムが建物の揺れを吸収する「免震」のメカニズムと共通している。

 

 

 

入母屋造、本瓦葺き、桁行35間、梁間5間とする。実長は桁行が118.2m、梁間が16.4mである。

 

 

 

側面は最前方の一間のみ板扉で他は連子窓。

 

 

 

 

 

 

 

 

南東側からの全景。

 

 

 

背面は5か所に板扉を設け、他を連子窓となっている。

 

 

 

 

西側。

 

 

 

西側は背面となる。通し矢場の場でもある。西側の軒下(長さ約121m)を向こう側(南)こちら側に矢を射通す弓術の競技。安土桃山時代に行われ始め、江戸時代前期に各藩の弓術家により盛んに行われ、京の名物行事となった。縁の北端に的を置き、縁の南端から軒天井に当たらぬよう矢を射抜き、その本数を競った。

太閤塀(国重要文化財)   桃山時代、本瓦葺。豊臣秀吉によって寄進された築地塀。現境内の南端を区切る。方広寺仏殿が創建された時、蓮華王院も方広寺の境内に含まれたため、その工事に伴って築造された。修理の際に「天正十六年‥‥大ふつ殿瓦」と刻んだ瓦が発見されている。軒丸瓦には豊臣家の桐紋が見られる。かつては西にも存在したが、現在は南の塀のみ残っている。塀は高さ5.3m、長さ92mに及ぶ桃山期の豪壮さを示す建造物である。

 

 

南大門の並び側の太閤塀。

 

 

通し矢場入口門。

 

本堂は内苑の中央に南北に長い建物で、建物内に諸仏が置かれていて、参拝者は本堂内の西の廊下を北から南へ歩く。現状では堂の内外に彩色はみられないが、昭和5年(1930)の修理時に、虹梁下面に貼付された装飾鏡の座を外した下から極彩色の文様が現れ、建立当初の堂は彩色で覆われていたことが判明した。 内部のこれ以上は撮影禁止区域となる。

 

木造千手観音立像1,001躯【国宝】  1001体が並ぶ。寄木造または割矧ぎ造、漆箔。像高は166 - 167cm前後。千手観音立像には1体ずつ番号が振られており、堂内南端(本尊に向かって左端)の最上段が1号像、南端の最下段が10号像、堂内北端(本尊に向かって右端)の最上段が991号像、北端の最下段が1,000号像、本尊背後に立つ1体が1,001号像である。昭和戦前期には、南側から入堂し北側へ抜ける拝観順路であったため、南から北へと番号が振られている。(写真は三十三間堂HPより)

 

1,001体のうち、建長元年(1249)の火災の際に救い出された、創建時の平安時代の像の長寛仏は124体、再建時(鎌倉時代)の像は876体あり、他に室町時代に追加された像が1体のみ(32号像)ある。(写真は三十三間堂HPより)

 

 

木造千手観音坐像【国宝】   寄木造り、漆箔、玉眼。十一面四十二臂に表す通有の千手観音像である。像本体の高さは334.8Cm、台座や光背を含めた全体の高さは7Cmを超える。作者は大仏師法印湛慶、小仏師法眼康円および小仏師法眼康清であり、慶長3年(1251)に造り始め、3年後に完成した。(写真は三十三間堂HPより)

 

 

雷神像【国宝】  木造風神雷神像として、風神像と2躯。鎌倉復興期の作。それぞれ堂内左右端に安置。風袋と太鼓をそれぞれ持った風神・雷神像の姿をユーモラスに表したこれらの像は、俵屋宗達の「風神雷神図屏風」のモデルになったともいわれる。寄木造、彩色、玉眼。像高は風神が111.5Cmセンチ、雷神が100.0Cm。雷神は連鼓を負い、両手にそれぞれ桴を持ち、風神とは対称的に左膝を突き、右膝を立てる。手指は3本、足指は2本である。(写真は三十三間堂HPより)

 

 

 

三十三間堂の対面が京都国立博物館である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

案内図

 

 

御朱印

 

 

 

 

三十三間堂 終了

 

(参考文献)  三十三間堂HP フリー百科事典Wikipedia 

 

 


47 寛永寺

2023-10-18 | 東京都
 
 
 
 
上野公園には年に数回ほど行っているが、ほとんどは美術展覧会で美術館に直行する程度。この広い上野公園全体は元々寛永寺の敷地だったという。それでも寛永寺の根本中堂には以前参拝したこともあるが、2度目の今回は上野公園に散在する寛永寺の堂宇を全部回ってみた。

寛永寺は、寛永2年(1625)に慈眼大師天海大僧正によおるって創建された。徳川家康、秀忠、家光の三代にわたる将軍の帰依を受けた天海大僧正は、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門にあたる上野の大地に寛永寺を建立した。これは。平安の昔、桓武天皇が帰依を受けた天台宗の宗祖最澄上人が開いた比叡山延暦寺が、京都御所の鬼門に位置し、朝廷の安穏を祈ることによるという。後には第四代将軍・德川家綱公の霊廟が造営され、将軍家の菩提寺も兼ねるようになった。また東叡山主を皇室から迎えた(輪王寺宮)ことで、江戸時代には格式と規模において我が国随一の大寺院となった。しかし、徳川時代の末期の慶応4年に、西郷隆盛と勝海舟との間で江戸城無血開城が取り交わされたあと、幕府側の抗戦派の幕臣たちが結成し上野に拠点となる大本営を設けた。彰義隊は強硬派が台頭し、徳川家の菩提寺である上野の寛永寺に集結して、輪王寺公現入道親王(後の北白川親王)を擁立した。

そんななかに慶応4年7月に、新政府となる大総督府は、上野に集まった幕府軍を討伐するように各藩に命じ、大村益次郎の指揮のもと新政府軍は総攻撃をかけ、ほぼ彰義隊は全滅する。その戦闘の際に生じた火災で、寛永寺は根本中堂など主要な伽藍を焼失、壊滅的な打撃を受けた。黒門は荒川区の圓通寺に残されており、弾痕の残った柱などが保存されている。

 
 
  
参拝日      令和元年(2019)12月14日(土) 天候晴れ
 
所在地      東京都台東区上野桜木町1丁目14-11
山 号      東叡山
院 号      円頓院
宗 旨      天台宗                                  寺 格      関東総本山
本 尊      薬師如来(国重要文化財)  
創建年      嘉永2年(1625)                             開 山      天海
開 基      徳川家光      
正式名      東叡山寛永寺円頓院
札所等      関東三十三個所6番
文化財         旧本坊表門、清水観音堂、木造薬師三尊像ほか(国重要文化財)

 
 
 

上野公園の象徴的モニュメント西郷隆盛銅像。
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上野公園と寛永寺の案内図。
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寛永寺の案内図。
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根本中堂。現在の根本中堂は、明治12年(1879)に川越喜多院の本地堂を山内子院の大慈院(現寛永寺)の地に移築し再建されたもの。御本尊は、伝教大師最澄上人の御自刻とされる薬師瑠璃光如来像(国重要文化財)を秘仏としてお祀りしている。
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正面に掲げてある扁額「瑠璃殿」と書かれている。
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根本中堂から境内を見る。
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秋色に染まる根本中堂。
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妻飾り。
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根本中堂から庫裡への渡り廊下。
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銀杏の大木。ただいま紅葉の最盛期。
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境内の隅に佇む石仏。
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消失前の根本中堂の鬼瓦
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常憲院霊廟勅額門【国重要文化財】。 5代将軍徳川綱吉の霊廟の門である。寛永寺の御霊廟には、四代家綱公、五代綱吉公、八代吉宗公、十代家治公、十一代家斉公、十三代家定の6人の将軍が埋葬されている。第二次大戦の際にほとんどが焼失してしまった。勅額門は、延焼を逃れ水盤舎、奥院宝塔、奥院唐門と現存し往時を偲ぶことができる。
 
 
 
天璋院篤姫霊廟門【国重要文化財】。
 
 
 
 
勅額門付近から見るスカイツリー
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清水観音堂【国重要文化財】。  京都東山の清水寺の本堂を模した懸造りの堂。寛永八年(1631)天海大僧正により建立。また、御本尊も清水寺より恵心僧都作の千手観音像を迎え秘仏として祀ってある。
 
 
 
 
月の松。   明治初期の台風被害によって失われていが、浮世絵にも描かれていた江戸の風景を復活させるため、平成24年(2012)に復元。現代の造園技術を駆使して造形された。
 
 
 
 
広重「名所江戸百景」より寛永寺・清水観音堂が描かれた「上野清水堂不忍ノ池」。
 
 
 
 
舞台上の正面向拝。
 
 
 
 
 
 
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外陣を見る。
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堂の外側に回廊が巡る。紅葉が美しい。
 
 
 
 
妻の意匠。
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清水観音堂から不忍池辨天堂を見る。
 
 
 
 
不忍池辯天堂。  天海大僧正が琵琶湖竹生島になぞらえて、寛永年間に不忍池に中之島を築き、その地に建立された。現在のお堂は昭和33年(1958)に再建。御本尊の八臂大辯才天も、竹生島の宝厳寺から勧請したもの。

 
 
 

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辨天堂から清水観音堂方向を見る。
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不忍池。
 
 
 
時の鐘    寛文6年(1666)に設置された。現在の鐘は天明7年(1787)に鋳造されたもので、「東叡山大銅鐘」・「天明七丁未歳八月」と刻まれている。「花の雲 鐘は上野か 浅草か」は、松尾芭蕉が時の鐘かを思案して詠んだ。現在も、午前6時・正午・午後6時に撞かれる。
 
 
上野大仏 寛永八年(1631)に初建された上野の大仏様は度々罹災したが、その都度復興されている。しかし、関東大震災で首が落ち、第二次大戦時には軍の供出令により胴体を徴用されて、顔のみが残された。
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パゴダ(仏塔)。  大仏殿の跡地にはパゴダ(仏塔)が建立され、本尊として旧薬師堂本尊の薬師三尊像が祀られている。
 
 
 
 
上野公園は紅葉の季節。
 
 
 
五重塔【国重要文化財】。  寛永8年(1631)に建立した初代の塔が寛永16年(1639)に焼失した後、同年ただちに下総古河城主・土井利勝によって再建された。塔は、昭和33年(1958)に東京都の所有となっている。
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寛永八年(1631)に初建されたこの塔は、第五層のみが銅板葺で、他は瓦葺となっており、高さは地上から先端の宝珠 まで36m、第一層には釈迦・薬師・阿弥陀・弥勒の四方四仏が江戸時代には祀られていた。(現在は東京国立博物館に寄託)動物園に入園しなければ近くまで行けない。
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開山堂  東叡山の開山である慈眼大師天海大僧正を祀っている堂。天海僧正が尊崇していた慈惠大師良源大僧正もお祀りしているところから、一般に〝両大師〟と呼ばれ、庶民に信仰されてきた。 初建は正保元年(1644)だが、現在のお堂は平成五年に再建されたもの。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
境内の外の通りは秋の色真っ盛り。
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寛永寺旧本坊表門【国重要文化財】。  現在の東京国立博物館の地に建立された。寛永2年(1625)の初建。慶応4年(1868)の彰義隊の戦争により焼失し、現在はその表門だけが往時の姿を留めている。門には現在でも官軍の攻撃による弾痕が数多く残り、戦争の激しさを偲ばせている。
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天海大僧正毛髪搭。  天海大僧正は、寛永20年(1643)に108歳で示寂された。諡号(しごう) 慈眼大師。墓所は日光山輪王寺に造られ、当山には弟子の晃海が供養塔を建立し、後に伝来していた毛髪を納めた宝塔も建立された。(都指定旧跡)
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上野東照宮  1627年創建の東京都台東区上野公園に鎮座する神社。東照宮とは徳川家康公(東照大権現)を祀る神社で、日光や久能山の他、全国に数多く建立された。金色殿(社殿)などの豪華な建造物は、戦争や地震にも崩壊を免れた貴重な江戸初期建築として国の重要文化財に指定されている。

元和2年(1616)2月4日、天海僧正と藤堂高虎は危篤の徳川家康公の枕元に呼ばれ、三人一つ処に末永く魂鎮まるところを作って欲しいと遺言された。
天海僧正は藤堂高虎らの屋敷地であった今の上野公園の土地を拝領し、東叡山寛永寺を開山。境内には多くの伽藍や子院が建立されましたが、嘉永4年(1627)その一つとして創建した神社「東照社」が上野東照宮の始まりとなる。正保3年(1646)には朝廷より正式に宮号を授けられ「東照宮」となった。

現存する社殿は慶安4年(1651)に三代将軍・徳川家光公が造営替えをしたもので、遠く日光までお参りに行くことができない江戸の人々のために日光東照宮に準じた豪華な社殿を建立したと言われている。 当ブログは寛永寺を主としているため東照宮は大幅に省略。

東照宮参道  右手に寛永寺五重塔が見える。

 

 

 

 

唐門【国重要文化財】 慶安4年(1641)に造営された。

 

 

柱内外の四額面に左甚五郎作の昇り龍、降り龍の彫刻があり、毎夜不忍池に水飲みに行くと言う伝説がある。

 

 
 
上野の森未術館 ゴッホ展を開催  天海大僧正の前にある。
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最後に東京国立博物館。
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案内図。
 
 
 
 
 
御朱印。

 
寛永寺 終了
 
 
 
(参考文献)  寛永寺HP フリー百科事典Wikipedia  


 
 
 

46 護国寺

2023-10-18 | 東京都
古寺を巡る 護国寺
 
 
五代将軍徳川綱吉の母桂昌院のために建立。

 
    
 
寺の創建は天和元年2月(1681)、五代将軍徳川綱吉公が、その生母桂昌院の発願により、現在の群馬県・碓氷八幡宮の別当、大聖護国寺の亮賢僧正を招き開山した。幕府所属の高田薬園の地を賜い、堂宇を建立し、桂昌院念持仏の天然琥珀如意輪観世音菩薩像を本尊とし、神齢山悉地院護国寺と称し、寺領三百石を賜ったことに始まる。明治16年それに、大正15年と火災で堂宇の多くを失ったが、本堂の観音堂は元禄以来の姿を変えず、また、近江三井寺より移築された月光殿(国重要文化財)は桃山期の建築美を今に伝えている。震災、戦災と二度の大災害に襲われた東京の都心にありながら、江戸の面影を今に伝える。
 
 
 
参拝日      令和元年6月27日(2019)(木) 天候曇り
 
所   在       東京都文京区大塚5丁目40-1
山 号      神齢山
院 号      悉地院
宗 旨      新義真言宗
宗 派      真言宗豊山派
寺 格      大本山
本 尊      如意輪観世音菩薩  
創建年        天和元年(1681)   
開 基      桂昌院
開 山      亮賢
正式名      神齢山 悉地院 大聖護國寺                          別 称      音羽護国寺                                 札所等      江戸三十三個所13番                             文化財      本堂、月光殿、絹本著色尊勝曼荼羅図ほか(国重要文化財)
 
 
 



境内案内図
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仁王門。 八脚門、切妻造りで丹塗。徳川将軍の祈願寺としての伽藍の中で、重要な表門である。建立は、元禄10年(1697)造営の観音堂(本堂)よりやや時代が後と考えられ、正面の両脇に金剛力士像。(右側は阿形像・左側は吽形像)、門背面の両脇には二天像(右側は増長天・左側は広目天)の仏法を守る仏像を安置。
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右側に阿形像。
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左側の吽形像。
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仁王門の背面に二天像。右側は増長天・左側は広目天。
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左側の広目天像。
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仁王門を潜って参道へ
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三十数段の石階段を上る。両面によく刈り込まれたつつじ。正面に不老門。
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不老門。昭和13年(1938)に建立。明治から昭和にかけた美術商で政治家の三尾邦三氏の寄進にyよる。様式は京都の鞍馬寺の門を基本に設計され仁王門と本堂の中間に建立された。
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護国寺 トップ
 
 
 
また額面「不老」の二字は徳川家達公の筆によるものである。徳川家達は、第14代徳川家茂公と皇女和宮の長子で徳川家第16代に就く。明治初期に静岡藩主を務めた。
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不老門から仁王門を見る。
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太師堂 元禄14年(1701)に再営された旧薬師堂を、大正15年以降に大修理し現在の位置に移築して大師堂にしたもの。装飾がなく全体的に荘重で、すっきりとした印象。真言宗伽藍における大師堂の格式の高さと、中世的な伝統を重んじた貴重な建造物である。
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一言地蔵尊。
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地蔵尊の周りに咲く紫陽花。
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六地蔵。
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廬舎那仏。 筑波山大権現(筑波山神社)の別当・護持院から移されたもの。
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鐘楼。  伝統を重んじた格式の高い袴腰付重層入母屋造り。江戸時代中期の建立である。都内では同種のほとんどが失われている中で、貴重な文化財。
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梵鐘。  天和2年(1682)に寄進されたも。銘文には五代将軍綱吉の生母桂昌院による観音堂建立の事情が述べられ、護国寺が幕府の厚い庇護を得ていたことを示す貴重な歴史資料となっている。
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中霊堂。   明治35年(1902)の建立。明治27年(1894)から8年にかけ、日清戦争で戦死された軍人の遺骨を埋葬。
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多宝塔。    昭和13年(1938)の建立、塔は石山寺の多宝塔(国宝)の模写。本尊は、三井財閥の総帥檀琢磨氏夫人の芳子氏の寄贈による大日如来像を安置。
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さて、これは何だったかな?
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観音堂。      観音堂(本堂)は、元禄10年(1697)正月、観音堂新営の幕命があり、約半年余りの工事日数でこの大造営を完成し、同年8月落慶供養の式典が挙げられた。また元禄時代の建築工芸の粋を結集した大建造物で、その雄大さは都内随一のものと賞され、しかも震災・戦災と二度の大災害にも襲われながら姿も変えず、江戸の面影を今に伝えている。
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本堂正面。
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向拝にて・・・・。
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内陣を見る。
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本堂から境内を見る。
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閼伽井(あかい)。 仏前に供える閼伽(あか)の水を汲み取るための井戸。
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薬師堂。  元禄4年(1691)の建立。一切経堂を現在の位置に移築し、薬師堂として使用した。柱間に花頭窓を据えているなど、禅宗様建築の手法をとりいれている。元禄期の標準的な遺構。
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帰り道の不老門。
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護国寺門前から少し歩いた距離にある講談社の本社。
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講談社の前にある大福で有名な若林堂。
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案内図
 
 
 
 

御朱印
 
 
 
 
護国寺 終了
 
 
 
(参考文献) 護国寺HP フリー百科事典Wikipedia  
 

45 白水阿弥陀堂

2023-10-17 | 福島県

 
お寺の名称は願成寺だが、ふつうは白水阿弥陀堂の名で知られている。いわき市の白水地区にある阿弥陀堂なのでそのままの呼称である。福島県内唯一藤原時代の建造物で、唯一の国宝建造物である。常磐自動車道を北上し、茨城県から福島県に入って間もなく、いわき湯本インターで降り、山間の曲がりくねった細い道を6Kmほど進むと国宝白水阿弥陀堂に到着する。ここには2日目となる、1回目は2年ほど前の夏に伺ったが定休日で参拝することはできなかった。今回あたらめて初詣も兼ねて参拝することとなった。1月の三連休の最初の土曜日、思っていたより常磐道は空いており、すいすいと到着してしまった。真冬のさなか寒いのは当然だが、より寒く感じたのは池に囲まれた山あいの盆地で冷たい空気が沈んでいるのではないかと思うくらい寒かった。正月が明けて間もない時期だが、参拝客はほんのちらほらと少ない。 春は新緑や桜、夏は池の蓮の花が開き、秋は紅葉にと四季の変化に恵まれた地であるが、冬場に参拝者が少ないのは、冬は何もないのでいたってつまらないせいかもしれない。

白水阿弥陀堂は、、平安時代末期の永暦元年(1160)に、岩城則道の妻になった藤原清衡の娘・徳姫によって建立された。徳姫は、夫・則道の菩提を弔うために寺を建てて「願成寺」と名付け、その一角に阿弥陀堂を建立。阿弥陀堂はその後、鳥羽上皇により勅願寺とされた。江戸時代には徳川将軍家より寺領10石を与えられるなど、歴代の将軍にわたって保護され、現在に至っている。阿弥陀堂は近くに所在する願成寺の所有であるが、池を含む浄土庭園の大部分はいわき市の所有・管理になっている。「白水」という地名は、平泉の「泉」という文字を二つに分けたもので、岩城氏の本拠地であった「平」という地名の由来も平泉の平を取ったものだという説がある。

2011年(平成23年)の東日本大震災による損傷を受け、阿弥陀堂の拝観が中止されたが、平成24年(2012)7月に修復が終わり再開された。同時に損傷した所蔵の阿弥陀如来坐像と持国天像の修復作業が行われた。

 

参拝日       令和2年(2020) 1月11日(土) 天候曇り
 
所 在    福島県いわき市内郷白水町広畑221                     山 号    菩提山                                   寺 名    願成寺                                   宗 派    真言宗智山派                                本 尊    阿弥陀如来                                 創建年    永歴元年(1160)                             開 基    徳姫(磐城則道の妻)                            札所等    磐城三十三観音4番                             文化財    阿弥陀堂(国宝)
                     

 参道の様子  面影は片田舎のお寺。白水 3

 
 
 
 
案内図。
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堂への入口。
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参拝手続きはコチラで、受付の方は奈良や京都の寺と異なり素直な感じを受ける。御朱印はこちらで受ける。
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お堂は池の中に島があり橋を渡っていく。橋の名は判らない。
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橋を渡って入り口側を見る。
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反り橋を渡り中島を経由して平橋を渡る。
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平安時代に造営された庭園は池を取り入れ浄土式の大規模な庭園である。朱塗りの反り橋を望む。橋の手前の此岸と呼ぶ現世から反り橋を渡り中島を経由して、平橋で彼岸と呼ぶ来世へ向かう極楽浄土に辿りつくようになっている。訪れる人々は二つの橋を渡ることで、生きたまま極楽浄土を垣間見ることができるといわれている。このような参拝方式では、横浜の称名寺(当ブログ42)が有名。
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浄土式庭園。   平安時代中期の武将・岩城則道の正室となった徳姫は、夫の死後にその菩提を弔う為、白水と呼ばれるこの地に願成寺を建立した。徳姫の故郷である平泉の毛越寺などを参考にして広大な浄土庭園を造った。 毛越寺(当ブログ27)の州浜の造りに似た感じ。
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日本庭園では自然の景観を写すことが重要なテーマで、日本各地の海や海岸線を模した池泉がつくられた。その際に、砂浜を表すために用いた手法が州浜である。州浜のある出島石組の先に池中立石がが見られる。
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出島石組の先にある池中立石。  白いのはカラスの糞だ。
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小島があるが島の名は判らない。 実は池にも橋にも名がない(?)のである。
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境内は池の中島に阿弥陀堂がある。堂は東・西・南の三方を池に囲まれ、北・東・西は山で囲まれていて、阿弥陀堂を中心としたこれらの空間は平安時代末期に流行った浄土式庭園の様を成している。
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境内の木々の下、地表は苔で覆われている。
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阿弥陀堂【国宝】  正面・側面とも柱が4本立ち、柱間が3間となる方三間の単層宝形造。屋根はとち葺き。これらの構造は、徳姫が奥州藤原氏の娘であることから、平泉の寺院構造に影響を受けている。白水 9

 

 

 

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お堂の入り口。  堂の外周には切目縁とした濡れ縁が設けられている。
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堂内は内陣の天井や長押、本尊背後の壁面に荘厳な絵画が描かれていたが、現在は一部に痕跡を残すのみである。内部は撮影禁止であるので外から
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堂内は内陣の天井や長押、来迎壁(本尊背後の壁)などが絵画で荘厳されていたが、現在は一部に痕跡を残すのみとなってしまった。 外陣の天井は折上小組格天井。
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内陣の須弥壇上には阿弥陀如来像を中心に、両脇侍の、観音菩薩像で子年生まれの人を守り、勢至菩薩像は、午年生まれの人を守る。ならびに東方を守る持国天と北方を守つ多聞天の計5体の仏像が安置されている。(写真は白水阿弥陀堂のHPより)
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軒下木組みの造り。
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堂の裏側。 柱間の外壁は横羽目板張り。
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冬の阿弥陀堂。(白水阿弥陀堂HPより)
 
 
 
 
 
お堂から境内入り口方面をみる
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境内の大銀杏は当時のものだろうか この太さ・・・・・。
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真冬の白水阿弥陀堂の池風景。
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境内全体の広さは約3000坪という 東側から見る
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夏の蓮の花。 (写真は白水阿弥陀堂のHP)
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5月にはあやめが見ごろに。
 
 
 
 
 
秋の紅葉。  (写真は白水阿弥陀堂のHP)
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このように美しい庭園も、約60年前に復元されたもの。

庭園は昭和36年(1961)に防災用水池を造成する際に、その存在が明らかになる。その後の調査によって、平泉文化と関連が深い浄土式庭園で、当時の仏教文化を考えるうえで大変貴重なものと判明。昭和41年(1966)に、「白水阿弥陀堂境域」として国指定史跡に指定。その境域は東西約220m、南北約330mの広さで、内院と外院に分かれていたと考えられ、現在の願成寺はかつて境域に存在していた大坊が元禄年間(1688-1704)に改称されたものと考えられる。この広大な境域の再現に、いわき市が国県の補助を得て、昭和43年(1968)から境域復元整備事業に着手し、東池、西池などを整備。次いで昭和53年(1978)には内院整備、さらに外院は昭和57年(1982)から昭和60(1985)年度まで整備が行われた。さらに周辺を市民の憩いの場とするため、園路広場、植栽、休憩所などを平成5年(1993)年まで行った。このような経過を踏まえ古の藤原時代の姿が甦ったのである。
かつてはもっと広く西側に広がっていたと考えられるが、外院の西側には明治時代以降の石炭開発などで移り住んだ家屋が建っているため、まだ完全復元には至っていない。(いわき市HPより)

復元前の阿弥陀堂航空写真。堂宇の周りは民家と田畑になって、池の存在はみあたらない。(写真はいわき市HPより)。

 

 

境内手前の駐車場 観光案内所がありコチラでパンやまんじゅうなどが売っている
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本堂を管理する願成寺本院。
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案内書

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案内図
 
 
 
 
 
 
 
五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー最近しきりに考えるようになったのだが、この世にいない人を思うということは、非常に大事なことではないか。たとえば、こうして仏の前に座って亡き人を偲ぶ。この「偲ぶ」という字は、とても味わいのある字だという気がする。ただ感傷的に思い出にふけるだけではなく、今は亡き人たちのさまざまなことを想像する。すると、そのことで自分の乾いた気持ちに潤いを与え。こころと身体をリフレッシュにさせることが出来そうに思えるのだ。人間は、明日を夢見ることも大事だが、明日をふり返って感慨にふけることも、また、とても大事なのではなかろうか。近代化していく時代の中で、私たちはいつのまにか、さまざまな年中行事と縁遠くなってしまっている。しかし、本当は、宗教的ないろいろな行事をたくさん持てば持つほど、「いま」ということが大切に思われ、いきいきと輝いてくるのではないか。
 

 
 
 
御朱印
 
 
 
 
 
白水阿弥陀堂 終了
 
 
 
(参考文献)  
五木寛之著「百寺巡礼」第七巻 東北(講談社刊) 国宝白水阿弥陀堂HP  いわき市HP           フリー百科事典Wikipedia  
 
 
 
 
 

44 四天王寺

2023-10-17 | 大阪府

百寺巡礼第60番 四天王寺

 

すべてを包み込む「和宗」の祈り

 

四天王寺は、大阪の中心部に3万3千坪という広大な敷地をもつ寺である。大阪に関する文献をひもとくと、むかしから、大阪を訪れた観光客が必ず立ち寄ったのが、この四天王寺と住吉大社だったことがわかる。

四天王寺は蘇我馬子の現在の飛鳥寺と並び、日本における本格的な仏教寺院としては最古のものである。 『日本書記』によれば、今から1400年以上も前の推古天皇元年(593)に造立が始まったという。物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫り、「この戦いに勝利したら四天王を安置する寺院を建立し、この世の全ての人々を救済する」と誓いをたて祈願した。戦いは勝利となり、その誓いを果すために、寺院の建立をした。聖徳太子の草創を伝える寺は近畿地方に多数あるが、実際に太子が創建に関わったと考えられるのは四天王寺と法隆寺のみで、その他は「太子ゆかりの寺」とするのが妥当である。

日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、昭和21年(1946)に「和宗」の総本山として独立している。

 

参拝日       令和元年(2019)5月16日(木) 天候晴れ
 
所 在       大阪府大阪市天王寺区四天王寺1-11-18
山 号       荒陵山
宗 旨       天台宗                                  宗 派       和宗                                   寺 格       総本山
本 尊       救世観音菩薩  
創建年       推古天皇元年(593)   
開 基       聖徳太子                                 正式名       荒陵山金光明四天王大護国寺  
別 称       荒陵山、難波大寺、御津寺、堀江寺   札所等 新西国三十三個所第1番ほか  文化財          紙本著色扇面法華経冊子5帖ほか(国宝)六時堂・絹本著色両界曼
                          荼羅図ほか(重要文化財)ほか八角亭(登録有形文化財)

 

 

 

境内図

 

 

 

伽藍配置は「四天王寺式伽藍配置」といわれる独特なもの。南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む形式で、日本では最も古い建築様式の一つ。その源流は中国や朝鮮半島に見られ、6~7世紀の大陸の様式を今日に伝える貴重な建築様式とされている。

 

 

西側の極楽門のある門前の街並み。

 

 

石鳥居【国重要文化財】 鎌倉時代後期 永仁2年(1294)の建立。花崗岩で高さ8.5m。一般の鳥居と比べると高さが低く柱が太いためがっしりとした感じ。当初は柱のみだったが室町~江戸時代に改修された。寺に鳥居があるのは神仏が習合していたころの名残。 

 

 

 

扁額は「釈迦如来 転法輪処 当極楽士 東門中心」と書かれている。

 

 

 

極楽門の参道。

 

 

参道を振り返る。

 

 

西大門(極楽門)。 昭和37年(1962)に松下幸之助氏の寄進により再建。この門は極楽の入口とされており、この場所で西に落ちる夕日に顔を向けながら日想観が行われる。

 

 

 

 

 

西大門は極楽に通じる門との意味から、再建後は通称を極楽門と呼ばれている。門の四ヶ所の柱にコマ状の車輪が付いていて、門を潜る時に回して念じると心の迷いが消えて清浄になるといわれる。

 

 

西大門を振り返る。

 

 

西大門を潜ると、回廊に囲まれて金堂、五重塔、講堂のある四天王寺のメインの中心伽藍に出会う。

 

 

回廊の外から見た五重塔。

 

 

 

中心伽藍への入り口となる西重門。 

 

 

西重門から西大門を見る。

 

 

西重門を振り返る。

 

 

中心伽藍は回廊で囲まれ、東西南それぞれ門が設けられているが、一般参拝の入り口は西重門だけとなる。

 

 

回廊の様子。

 

 

中心伽藍は南から北へ仁王門となる中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に配置し、中門の左右から出た回廊が講堂の左右に達する「四天王寺式伽藍配置」を踏襲したもの。回廊から見た五重塔と金堂。

 

 

中心伽藍は、第二次世界大戦後に再建され、昭和38年(1963)に落慶法要が営まれた鉄筋コンクリート造建築。創建当時(6世紀末)の様式に近い形で再建された。

 

 

五重塔  昭和54年(1989)に再建された8代目の塔となる。

 

 

建物の高さは約37m。内部は6層建て。

 

 

 

 

 

 

 

 

金堂。   昭和36年(1961)に再建。入母屋造で屋根は上下二重とする。中門、講堂と同様、錣葺とし、鴟尾を乗せる。外観は法隆寺金堂に似るが、裳階を付さない点が異なっている。札所となっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

周囲の壁面には中村岳稜筆の「仏伝図」の壁画がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

内部には中央に本尊救世観音(ぐぜかんのんぼさつ)像、向かって左に舎利塔、右に六重塔を安置し、仏壇周囲に四天王像が立つ。。基壇下には青竜池があるという。

 

 

 

 

 

 

四天王寺から見た当時、日本一高いビルあべのハルカス。

 

 

講堂  入母屋造単層。堂内西側を「夏堂」、東側を「冬堂」と称し、それぞれ阿弥陀如来坐像、十一面観音立像を本尊とする。周囲の壁に郷倉千靭筆の「仏教東漸」の壁画がある。

 

 

東重門方向を見る。

 

 

 

中門(仁王門)  大日本相撲協会による寄進。門の正面左右には松久朋琳・宗琳作で日本相撲協会東西会が寄進した金剛力士像を安置することから仁王門とも呼ぶ。

 

 

入母屋造単層で、屋根は段差を付けて瓦を葺く「錣葺」(しころぶき)とし、棟上に鴟尾(しび)を乗せる。

 

 

仁王像  仁王像の大きさは奈良・東大寺南大門仁王像に次ぐものである。

 

 

仁王門から五重塔を見る。仁王門・五重塔・金堂・講堂が一直線に建っているのが特徴。

 

 

東重門。

 

 

回廊の外側。

 

 

回廊の外側から五重塔を見る。

 

 

回廊の外の様子を見る。

 

 

境内から高さ日本一のビルあべのハルカス。

 

北鐘堂  北の引導鐘・鐘つき堂とも呼ばれ、正式には黄鐘楼という。鐘の音は遠く極楽までも響くといわれ、春秋の彼岸には先祖供養のための鐘の音が絶えないという。吉田兼好は『徒然草』で「六時堂前の鐘の音は黄鐘調と一致する・・・黄鐘調は祇園精舎の無常院の音・・・」と伝えている。

 

 

南鐘堂(鯨鐘楼)。   太子引導鐘堂ともいう。昭和30年(1955)建立。

 

 

亀井不動尊。  昭和30年(1955)に再建。創建は推古天皇元年(593)である。

 

 

亀井堂の霊水は金堂の地下より湧きでる白石玉出の水。供養を済ませた経木を流せば極楽往生が叶うという。

 

 

本坊通用門。 境内の北東を占める広い寺務所区域本坊の通用門。一般人は通行できない。黒瓦の大屋根に覆われた唐門で堂々と建ち格式がある。

 

 

義経のよろい掛け松。

 

 

境内で一番大きな木。くすのき。

 

 

六時礼賛堂【国重要文化財)   境内中央に位置する雄大な堂宇。昼夜6回にわたって諸礼讃をするところから六時礼讃堂の名がついた。

 

 

薬師如来・四天王等を祀っている。回向(供養)、納骨等を行う天王寺の中心道場。入口には賓頭盧尊者像やおもかる地蔵が祀られ、独特の信仰を集めている。

 

 

 

 

大黒堂  六時礼賛堂の前から中の門の参道道沿いに建つ。 本尊は一体の像に大黒天、毘沙門天、弁才天の顔を持つ“三面大黒天”。この姿からして福の神トリオの仏様は、子孫繁栄・福徳智慧・商売繁盛などにご利益があるとされる。毎甲子(きのえね)が縁日として賑わいう。

 

 

英霊堂。 明治39年(1906)に建立された。建立時は大釣鐘堂と呼ばれ、当時世界一大きい大梵鐘が釣られていた。鐘は第二次大戦で供出され、その縁により戦没英霊を奉祀する英霊堂と改名。

 

 

中の門からの参道。

 

 

地蔵山。  全国各地から集まったお地蔵が祀られている。

 

中ノ門。    西に面して中央北寄りに建つ。東に進むと本坊に至る重要な参道にひらく門であった。堂々たる規模と外観の四脚門であり、木割も太く面取りも大きく、古式である。

 

 

阿弥陀堂。 南大門の方角にある堂宇。昭和28年(1953)に四天王寺末寺の三重県国束寺(くずかじ)の本堂を移築したもの。

 

 

長持形石棺蓋。 現在の茶臼山付近から出土したもの。いつの頃からか四天王寺境内に移された。明治時代になって「古墳時代の石棺の蓋」であることが判明した。現在は、安産祈願の石になっている。

 

 

南大門の境内側から見る。

 

 

 

 

 

南大門。 

 

 

 

令和の年号になってすぐの5月に参拝した。四天王寺でも新天皇即位のお祝いの記帳、特製金紙の御朱印を賜っているとのこと。写真を撮っていても、御朱印の件は気が付かなかった。

 

 

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」からーーー聖徳太子は、ある意味で伝説化されていて、実像がつかみにくい。それは、太子があまりに多くの面で業績を残したからでもあるのだろう。この四天王寺では、太子は「四箇院制度」を取り入れて、寺の伽藍に、施薬院、療病院、悲田院、敬田院という四つの施設を設けたといわれる。施薬院では、まなはい薬草を栽培して人びとに分かち与えた。療病院では、男女問わずにあらゆる病人を入院させた。悲田院では、貧しくて身寄りのない人びとを住まわせて、元気になれば四箇院のどこかで働いてもらうことにした。そして、敬田院では、人びとを悪の道から救い、悟りの境地にいたらしめるための修行道場だった。それぞれいまでいうならば、薬局、病院、老人ホーム、寺院にあたるだろう。福祉問題、医療問題、そして老人問題に教育問題。どれをとっても、いまの日本人が直面している大きな問題である。そうした問題に対して、聖徳太子はすでにさまざな配慮をしていた。言い換えれば、千四百年前の思想に、すでに現代に通じる大きなものがあった。ということになる。

 

 

御朱印

 

 

四天王寺 終了

 

(参考文献)  
五木寛之著「百寺巡礼」第六巻 関西(講談社刊) 四天王寺HP  フリー百科事典Wikipedia  
 

 


43 大念仏寺

2023-10-15 | 大阪府

百寺巡礼第58番 大念仏寺

衆生のもとに歩みよる本尊

 

 

日本最初の念仏道場である。比叡山延暦寺の天台宗僧・良忍が、大治2年(1127)に鳥羽上皇の勅願により開創した。当時の摂津国住吉郡平野庄(現・大阪市平野区)の領主の平野殿・坂上広野の私邸内に建立した融通念仏の道場の菩提所である修楽寺別院が前身。

第6世・良鎮が寿永元年(1182)に亡くなると、寺勢は振るわなくなった。元享元年(1321)に、139年ぶりに第7世として法明が就き大念仏宗(融通念仏宗)を再興すると、現在でも行われている法要行事「万部おねり」を始める。元和元年(1615)に、平野庄の代官・末吉孫左衛門より寺地を寄進され堂宇を構え現在に至る。元禄16年(1703)大念仏宗の名称を融通念仏宗に改めた。以後、大念仏寺は融通念仏宗の本山となった。境内地は約7300坪(2300㎡)に30余りの堂宇があり、本堂は大阪府下最大の木造建築物である。

 

参拝日    令和元年(2019)5月17日(金) 天候晴れ

 

所在地    大阪府大阪市平野区平野上町1-7                      山 号    大源山                                    院 号    諸仏護念院                                 宗 派    融通念仏宗                                 寺 格    本山                                       本 尊    十一尊天得如来                               創建年    大治2年(1127)                              開 山    良忍                                    開 基    鳥羽上皇(勅願)                              正式名    諸仏護念院大源山大念仏寺                            札所等    河内西国霊場特別客番                            文化財    毛詩鄭箋残巻 1巻(国宝)

 

 

大阪ミナミのターミナルJR天王寺駅から関西本線の電車で東に5分くらいで平野駅に着く。平野駅のある平野区は大阪市の東南部に位置し、人口は市内で第1位、区域面積は市内で第3位になる。比較的新しい町並みの中に農地や遺跡が存在し、中央部の平野地域は古い家々と多数の神社・仏閣が存在する町並みである。大念仏寺のある平野区平野にある「平野中央通商店街」周辺は、今もなお昔ながらの町並みを残している。その特性を活かした活動の一環として「平野・町ぐるみ博物館」がある。
 こちらは昔ながらの建物や寺社など町並み全体を博物館としており、平野区の歴史や文化に触れることができる。博物館は全部で15箇所ある。

 

 



JR平野駅。

 

 

平野駅前の様子。

 

 

平野駅から徒歩で5~6分。境内の周りは築地塀。

 

 

大念仏寺の入り口。

 

 

短い参道にある句碑『春風や 巡礼どもが 練供養』。寛政7年(1795)3月27日に、この寺に参拝した小林一茶の句。練供養とは万部法会のことだという。

 

 

境内図。

 

 

 

山門の前から参道を見る。

 

山門。  宝永3年(1706)、第四十六世法主大通上人の建立による。棟行二間(3.6m)、梁行九尺(2.7m)、両脇に七尺(2.1m)の壁落ち屋根を付けている。平成15年(2003)に大修理を施した。門、扁額、棟札の三点が大阪市の有形文化財に指定されている。

 

 

「大源山」の扁額は、後西天皇の皇女で京都宝鏡寺の本覚院の宮徳厳尼の真筆による。

 

潜った門を振り返る。大通上人はこの門を融通無碍門と命名し、人種、年齢、性別、職業の違いを越えて、お互いが心で融け合い、喜びと感謝があふれる仏国土を築き上げていくという融通念仏の功徳を称揚した。

 

 

菊の御紋がある木製の門扉。

 

 

手水舎。

 

 

金剛六角灯籠   頂部に火焔型の宝珠をつけ重厚な灯籠。

 

本堂【大阪市指定有形文化財】   本堂は寛文7年(1667)に創建されたが、明治31年に焼失。しばらくして昭和13年(1938)に竣工した総欅造り銅板葺。棟行39.1m、梁行49.8mの大阪府下最大の木造建築である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

扁額は「諸仏護念院」と書かれ院号である。

 

 

向拝を見る。

 

 

白で塗られた木組みの小口。

 

 

賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)。 本堂の回廊に設けられた撫で仏。我が身の悪い所と同じ所を触ることで、悪い所を治すことが出来ると信じられている仏。

 

 

外陣いっぱいに吊り下げられた大数珠は明治36年に再製したもので、約1200顆(か)の欅材からできており、一つ一つの珠に名号と施主名、回向の戒名が陰刻されている、百万遍大数珠繰り法要に使用するものである。

 

堂内には正面宮殿に本尊十一尊天得阿弥陀如来を安置。その両脇に岡倉天心の高弟、名仏師新納忠之介作の多聞天王、八幡大士の極彩色の木造が立ち、左右の宮殿に宗祖聖應大師(良忍上人)、中祖法明上人の木造を安置している。また左右余間に再興大通上人の椅像と、建立願主舜空上人の木造を安置している。

 

 

回廊から山門と境内を見る。

 

 

本堂を横から見る。 整然と並んだ束柱は回廊を支える。

 

 

銅板葺きの屋根が素晴らしい。

 

 

妻側。

 

 

 

 

 

境内を見る。

 

 

円通殿(観音堂)   伝教大師作と伝えられる聖観音立像を祀り、左右には大通上人が募った日月祠堂位牌を安置。平成元年改修復元。

 

 

扁額「円通殿」は大通上人直筆。

 

 

伝教大師作と伝えられる聖観音立像。

 

 

地蔵堂  弘化元年(1844)、第子十二世教彌上人が再建した。本尊は蓮台に乗る等身大の木造である。

 

 

経堂    第46世の大通上人の創建で、元禄年間の建築。白壁の外観で、堂の中心には回転させる構造の経箱が置かれている。

 

 

鐘楼。  平成30年(2018)に改修された入母屋造りの屋根を付けた優美な建物。

 

 

鐘は文化3年(1806)に改鋳された名鐘。従一位右大臣藤原家孝公の銘文がある。

 

 

霊明殿の隣に位置する龍王殿。前にはお百度石が建ち、廻りは石畳で囲む。

 

 

百度石。

 

霊明殿。  正門、回廊、奉安所、修法堂からなる。創建は保元元年(1156)、第三世明應上人のときと伝える。良忍上人の念仏勧進を助け、自らも融通念仏に深く帰依された鳥羽上皇の霊牌と御真影を祀るために建てられた。

 

その後、寛永年中(1624~1643)、第三十八世法覚上人は徳川家康公を合祀するため、権現造りの社殿を再建した。それ以降ここを「権現さま」「お宮」と称した。

 

今日まで修理を繰り返し正門と回廊は江戸時代の遺構を残しているが、奉安所と修法堂は明治25年頃火災で焼失し、その後昭和5年に旧形のまま建て替えられた。

 

 

客殿 瑞祥閣  大念仏寺の塔頭で、葬式や法要などが可能な百畳敷きの書院がある。

 

 

玄関。

 

 

 

 

 

南門。元古河藩陣屋門で、明治の廃藩後、平野小学校表門として昭和2年まで使用。昭和37年移築したもの。

 

 

境内から見た山門。

 

 

本堂前の境内全景。

 

万部おねり   「二十五菩薩聖衆来迎阿弥陀経万部法要」とよばれる大念仏寺の最大の法要行事で毎年5月1日から5日までおこなわれる。

これは、極楽浄土からの来迎の場面を再現したもので、本堂外側に設けられた橋の上を、二十五の菩薩に扮した人々や、本尊の十一尊天得如来の絵軸などが渡っていく。浄土とされる本堂の中では、雅楽が演奏され、菩薩が喧嘩する。この日は門前に様々な出店が並び、大勢の見物客が集まって賑わうらしい。(五木寛之著「百時巡礼」第六巻関西より)

 

 

                                写真はYouTubeより

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー融通念仏宗の大きな特徴といえるのが、「御回在」というユニークな儀式である。総本山と末寺、さらに総本山と末寺の檀信徒とが直接結びついている儀式というのは、他の宗派ではめったに見られないめずらしいものだろう。ふつうは寺のほうから檀信徒に対して、「お参りしてください」という呼びかけをする。そして、檀信徒が寺へ足を運んで本尊を参拝する。ところが、この御回在というのは、総本山の方から本尊を持って、それぞれの檀信徒の家へ出かけていくのである。”中略” 御回在は、「出向いていく」というところに大きな特徴がある。蓮如も、つねに念仏をもって庶民のなかへはいっていくことを教えた人だった。また、阿弥陀如来の「如来」というのは、「真如より来れる人」のことである。すなわち、「如来」には「真理の世界から衆生救済のために来た人」という意味もある。つまり、檀信徒が出かけて行って本尊の前にひれ伏すのではなく、本尊のほうから出向いて行き、衆生に働きかける。向こうから訪れてきて、肩に手をかけて呼びかける。そういう大乗、仏教の精神のようなものが、この融通念仏のなかに流れているのだろう。さらに、御回在では先祖の御威光を願い、その家の願いが成就するように祈る。庶民が願う現世利益というものに、ためらうことなく応えてる。その点でやはり、融通念仏宗は日本独自の市井の宗務であり、庶民の生活と密着した信仰であるといえそうだ。

 

 

 

 

 

御朱印

 

 

大念仏寺 終了

 

(参考文献)                                        大念仏寺HP フリー百科事典Wikipedia  五木寛之著「百寺巡礼」第六巻関西(講談社刊)


42 称名寺 

2023-10-12 | 神奈川県

古寺を巡る 称名寺

 

金沢北条氏一門の菩提寺

 

寺名は「しょうみょうじ」と読む。鎌倉幕府の要人・北条実時(1224~1276)が、正嘉2年(1258)に六浦荘金沢の屋敷内に建てた持仏堂(阿弥陀堂)を建てたのが起源とされる。金沢北条氏一族の菩提寺として鎌倉時代を通じて発展し、実時の息子2代顕時、孫3代貞顕の代に伽藍や庭園が整備された。貞顕の時代には三重の塔を含む七堂伽藍を完備した大寺院として全盛期であった。称名寺と縁の深い金沢文庫は、実時が病で没する直前の建治元年(1275)ころ、居館内に文庫を設けたのが起源とされる。文庫には、実時が収集した政治、歴史、文学、仏教などに関わる書籍が収められていた。鎌倉時代の仏教関係の文書が多数残されており、東京湾の水運を使って僧侶が金沢と千葉の間を頻繁に往来していたことが窺える。当時の称名寺は関東有数の学問寺であり、「金沢学校」とも呼ばれた。

徳川時代になって徳川家康は、多くの蔵書を江戸城内に設けた紅葉山文庫に移した。金沢文庫印が捺された古書・古写本は「金沢文庫本」と呼ばれ、現在も日本各地に残っている。一方、大幅な復興が実現し、現存する建物が作られた。

朱塗りの赤門をくぐると桜並木の参道が続き、突き当りには仁王門。鎌倉時代に造られた高さ4mの大きな仁王像が出迎える。仁王門横の通用門を入ると、阿字ヶ池を中心に中之島・反橋・平橋を配した「浄土庭園」が広がる。浄土庭園の向こうには、金沢三山(金沢山・稲荷山・日向山)を背に金堂・釈迦堂・鐘楼(称名晩鐘)を配する。春の桜、初夏の黄菖蒲、秋の紅葉と四季折々の景観が美しく訪れる人の憩いの場所となっている。

 

参拝日    令和元年(2019)5月5日(日) 天候晴れ

 

所在地    神奈川県横浜市金沢区金沢町212-1                    山 号    金沢山                                   院 号    彌勒院                                   宗 派    真言律宗                                  寺 格    別格本山                                  本 尊    弥勒菩薩(国重要文化財)                          創建年    正嘉2年(1258)                             開 山    審海                                    開 基    北条実時                                  札所等    新四国東国八十八箇所霊場75番                        文化財    絹本著色北条実時像ほか金沢北条4代のそれぞれの肖像画、文選集注(国宝)
       木造弥勒菩薩立像、銅鐘、金銅装宝篋印塔ほか(国重要文化財)
       境内(国の史跡)

 

 

称名寺と称名寺市民の森の案内図。    

 

 

 

赤門  名和8年(1771)に建立された。

 

 

少しの間だが桜並木の参道。参道の両側には塔頭の「光明院」と「大宝院」の二院が残っている。

 

 

仁王門。   二層の楼門。文政元年(1818)に江戸の豪商・石橋弥兵衛の寄進によって建立された。現在は門の中の通り抜けは出来ない。

 

 

門の正面には、朱塗りの反り橋とその先に本堂が見れる。

 

 

門の扁額は「金沢山」とあるが、写真によく映っていない。

 

 

仁王像。  口を結んでいる吽形像は、像高約4m弱ほどのあり関東では最大級の大きさという。

 

 

 

 

口を開いて阿形像。

 

 

この仁王像は、元享3年(1323)に院興が大仏師となって造られたもの。

 

 

仁王門を境内側から見る。

 

 

門を潜ると目の前に阿字ヶ池という大きな池がある。

 

 

阿字ヶ池。   性一法師により、2年の歳月をかけて元応2年(1320)造られた。梵字の「ア」を模して阿字ヶ池と名が付けられた。池には朱塗りの反橋と平橋をかかる。

 

 

銀杏の大木。

 

 

金堂前の阿字ヶ池を中心とする浄土式庭園は、元応2年(1320)に金沢氏3代貞顕の代に整備されたものである。浄土式庭園とは、浄土曼荼羅に基づいて配置された庭園のことで、平安時代末期に盛んにつくられた。

 

 

庭園は発掘調査の成果に基づいて、昭和62年(1987)に復元整備が完了した。平橋、反橋の2橋が復元されており、平橋は橋長17m、反橋は橋長18mである。

 

 

真正面に見る反り橋。

 

 

 

 

 

金堂に近い方が平橋。

 

 

 

 

 

金堂【神奈川県指定重要文化財】  ここには称名寺の末寺となった常福寺の「阿弥陀堂」を移築した「弥勒堂」があり、三代目金沢貞顕の代に修理・改造され「金堂」となった。現在の金堂は、天和元年(1681)に改築された。

 

 

金堂正面は禅宗の影響を受けた意匠。

 

 

金堂の内部。須弥壇。

 

 

禅宗の建築に見られる火灯窓。

 

 

軒の木組み。

 

 

釈迦堂。  本堂の右手に位置する。文久3年(1862)に建立の禅宗様の建築物。釈迦如来立像(国重要文化財)が安置されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

金堂から境内を見る。

 

 

鐘楼。  寛永11年(1799)に江戸の豪商・石橋弥兵衛の寄進によって再建したが、関東大震災にによって倒壊し、再び再建したもの。

 

 

梵鐘【国重要文化財】  金沢八景の称名の梵鐘として有名のようだ。鐘は、北条顕時が正安3年(1301)に改鋳した二代目の鐘。鎌倉・円覚寺の洪鐘を手掛けた名物鋳物師の物部国光の作。

 

 

境内には、さまざまな地蔵が建てられている。

 

 

 

 

 

 

 

池には数多くの黄菖蒲の花が開き、菖蒲の名勝でもある。

 

 

隧道の先には「金沢文庫」が建てられて、北条実時以降に、金澤北条家に蒐集されてきた書画、彫刻、書籍等の様々な文物が収蔵されて、博物館として公開されている。

 

 

案内図

 

 

御朱印

なし

 

 

称名寺 終了

 

(参考文献) フリー百科事典Wikipedia  湘南鎌倉寺社巡礼HP